等彌神社の参道⑨舒明天皇陵(桜井市・忍坂)に関する記事です。

舒明天皇陵は近鉄大阪線・大和朝倉駅の南2km、
忍阪街道・奥の谷に鎮まる古墳です。

忍坂マイマップ

忍坂マイマップ

先代:推古天皇
次代:皇極天皇(斉明天皇)

忍坂街道の忍坂玉津島明神の場所から
忍坂集落を越え外鎌山への東に向かう古道があります。

その道は奥の谷と呼ばれる万葉時代を偲ばせる細い谷川沿いの道で、
舒明天皇をはじめ鏡王女、大伴皇女たちの墓が続きます。

忍坂街道
忍坂街道

舒明天皇は父が押坂彦人大兄、母は田村皇女(糠手姫)で、
皇后は斉明天皇、息子が天智天皇と天武天皇です。

舒明天皇家系図

舒明天皇陵は押坂内陵、段ノ塚古墳とも呼ばれる八角形墳で、
7世紀になり、天皇陵が巨大な前方後円墳から八角墳に変化する最初の古墳です。

<34代舒明天皇陵>
形状:上八角下方墳
サイズ:下方部一辺105m、高さ8m
築造:7世紀中旬
埋葬者:舒明天皇と母の田村皇女

舒明天皇2
舒明天皇陵

舒明天皇陵は母との合葬陵と思われます。
延喜式には、田村皇女は舒明天皇陵内とされており
文久年間(1861ー64)に南面が崩壊し石室が露出したとき
この時に2基の石棺が現れたそうです。

舒明天皇陵の拝所1
舒明天皇陵拝所1

推古天皇の亡き後、田村皇子と山背大兄皇子がの後継者争いをしました。
当時の実力者の蘇我蝦夷が田村皇子を立てて舒明天皇としました。

舒明天皇の実績としては、初めて遣唐使を派遣したこと(推古朝は遣隋使)、
我が国初の国家寺院である百済大寺(大安寺)を建てたことなどが上げられます。
しかし母より20年も早く40歳で崩御してしまいます。

舒明天皇陵の拝所2
舒明天皇陵拝所2

御陵脇の細い径に古い手水鉢が置いてあり、湧き水が引かれていますが、
往古舒明天皇陵は“逆上の病”に霊験あらたかであるとして
参拝者を集めていたそうで、この手水鉢もその名残です。

昭和初期の天皇陵の紹介本に舒明天皇陵は以下のように記載されています。
♪古来より里人伝へて言ふに、此の御陵に逆上の病を祈ると験ありと称して陵下に詣で、
或は清酒、洗米を供し燈明を献じ祈るもの多く、今日に至るも尚祈るものあり♪

押坂内陵銘の手水鉢
押坂内陵銘の手水鉢(妻の斉明に逆上したのか?)

舒明天皇は、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の歌が広く知られますが
押坂内陵からも忍坂の集落が良く見えます。

♪大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ 
うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は♪     (舒明天皇)
-大和には多くの山があるけれど 香具山に登って大和の国を見渡せば 
飯を炊く煙がたくさん立っている
池では水鳥たちが飛び交う美しい国 大和の国-

舒明天皇陵拝所からの眺め
舒明天皇陵拝所からの眺め

アサヒナトンボ
奥の谷の清流にたたずカワトンボ