御香宮神社の参道⑫木幡伏見城(京都市・伏見区・桃山町)に関する記事です。

桃山丘陵は稲荷山から大岩山を経た東山連山の南端に位置する
木幡山とも呼ばれた標高100mの丘陵です。

伏見城が築かれ、多くの大名屋敷が集まり一大政治都市として発展した地区で、
豊臣秀吉が生涯を閉じたのも、徳川家康が将軍宣下を受けたのも木幡山伏見城です。

伏見城モニュメント
伏見桃山城レプリカ

木幡伏見城の遺跡を巡りました。

木幡伏見城

木幡伏見城マイマップ


旧伏見城&武家屋敷図
旧伏見城&武家屋敷図(京都市埋蔵文化財研究所)

この御香宮の大鳥居を潜り大手筋を直進した場所が木幡山で伏見城が築かれました。

ここから大手門までは武家屋敷が並んでいました。

大手筋の大鳥居
大手筋(御香宮大鳥居)

大手筋の左(北)側、御香宮神社の塀には黒田節誕生地の駒札が置かれています。

福岡県の民謡・黒田節は伏見城があった頃に起因する歌です。
福島正則の屋敷で催された酒宴での余興が過ぎて
正則の秘蔵の槍(日本号)が黒田家家臣の母里友信のものになってしまいました。

黒田節誕生地
黒田節誕生地駒札

木幡山伏見城の西、丹波通りとJR奈良線が
交差する踏切の南側の福島太夫町に福島正則の屋敷がありました。

大名屋敷の区画の名残の段差が残っており
福島太夫段差と呼ばれています。 

福島正則屋敷跡(福島太夫町)
福島正則屋敷跡(福島太夫町)

秀吉は伏見築城にあたり、 城内鬼門除けの神として
この地にあった御香宮を大亀谷地に遷し小早川秀秋の屋敷を建てさせました。
小早川秀秋は秀吉の養子でしたが小早川家に移され、関ヶ原では東軍に寝返りました。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は伏見城に入城し、
十男の徳川頼宣が生まれました。
家康は御香宮をこの地に戻し、伏見の七名水の一・
御香水が頼宣の産湯に使われました。

御香宮神社の拝殿
御香宮神社 

御香宮神社の境内では車石の説明板の額に伏見城残石が使用されています。

竹田街道の車道
伏見城残石(御香宮)

竹田街道(24号線)を挟んで御香宮神社の東側に松平筑前公園があります。

マンション建設時に前田利家の四男前田利常(松平筑前守)の
武家屋敷跡が出土しました。

松平筑前公園
松平筑前公園

明治天皇陵西参道の入口付近には、前田利家の邸宅がありました。

明治天皇陵参道入口
明治天皇陵参道入口

文禄3年(1594年)に前田利家は先住者の蔵光庵を
嵯峨に移転させそこに屋敷を建てました。

蔵光庵の鎮守・桃山天満宮だけが前田屋敷に残され、
利家は屋敷神として大切にしました。

桃山天満宮
桃山天満宮(現在は御香宮境内)

明治天皇陵参道中ほどに四辻があり桓武天皇陵道標が置かれています。

ここに大手門(現御香宮表門)が建てられました。
この門を潜れば伏見城の城内となります。

桓武天皇陵分岐点(左:桓武陵 右:乃木神社)
桓武天皇陵分岐点(伏見城内)

大手門の中・城内には五奉行の屋敷が置かれました。
大手門の内側は石田三成の屋敷で治部少丸という地名が残ります。

御香宮神社1
伏見城の大手門(現在の御香宮表門)

大手門を潜らずに反対の南に行くと徳川家康の邸宅がありました。

徳川家康の屋敷跡には明治天皇崩御の際に
殉死した乃木希典を祀る乃木神社になっています。

乃木神社の神門
乃木神社(徳川家康上屋敷跡)

参道を更に進むと伏見城石垣の残石が展示されています。
大きな石にミシン目のよう に残っている窪みは、
石を切り出すための鑿であけた矢の痕です。

伏見城残石
伏見城残石

参道の先には明治天皇の陵墓があり、
伏見城の本丸は、このあたりだったといわれています。

明治天皇陵
明治天皇伏見桃山陵(本丸)

東に並んでいる昭憲皇太后陵は名護屋丸の跡とされます。

昭憲皇太后陵
昭憲皇太后陵(名護屋丸)

豊臣秀吉は伏見築城にあたって北堀に接して通る木幡ノ関道の通行を禁止し
その北方に新道を設けたのが今の深草大亀谷を経由する八科峠路です。

木幡ノ関道から伏見城北堀
伏見城北堀公園(木幡ノ関道から覗く)

秀吉は八科峠の守り・城内鬼門除けの神としてここに御香宮を遷宮しました。

秀吉の没後、家康が再び元の地に戻したことから
古御香宮と呼ばれ、今は御旅所になっています。

古御香宮の社殿
古御香宮

伏見城の南側は宇治川・巨椋池で天然の濠になっています。
宇治川と山科川の川の流れを変えて、この場所に御船入(港)を作り、
大坂城と伏見城を直結しました。

徳川家康の娘の千姫が大阪城にいる豊臣秀頼のもとへ輿入れする際に、
この御船入から乗船しました。

JR奈良線&伏見城御舟入跡
伏見城御船入跡