エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

大和国(宇陀、桜井、天理)

穴師坐兵主神社(奈良県・桜井市・穴師)

穴師坐兵主神社(奈良県・桜井市・穴師)に関する記事です。

穴師坐兵主神社はJR桜井線の巻向駅の東1.5km、
巻向山の東山腹に鎮座する神社です。

巻向駅からの参道は巻向山の稜線にあり、景行天皇陵などが一望できる風光明媚なコースです。

兵主神社0
大兵主神社の鳥居

兵主神社(ひょうず)は西日本に十数社ありますが、
延喜式に大兵主神社と書かれている桜井市の穴師坐兵主神社がその代表格です。

また穴師坐兵主神社は、中国の神である兵主神が得意だったとされる相撲発祥の地とされ、
境内に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の両勇士が戦った
相撲神社が建てられています。


兵主神社1
大兵主神社の拝殿

穴師坐兵主神社は大和国・城上郡鎮座・月次相嘗新嘗と記される名神大社です。

穴師坐兵主神社は以下の3社殿から構成されています。

①左社 穴師大兵主神社     大兵主神   神体は剣
②中社 穴師坐兵主神社     兵主神     神体は鏡
③右社 巻向坐若御魂神社  稲田姫命     神体は勾玉と鈴


もともとは①の大兵主神社のみでしたが、応仁の乱で②③は焼失した為、
合祀して3社殿となりました。


兵主神社2
穴師坐兵主神社の本殿(3社の屋根)

兵主神は、中国の史記に出てくる、蚩尤(しゆう)という、
武将が、神様になったものと考えられています。

蚩尤(しゆう)は、鉄や石を食べ、銅の頭に鉄の額、体は獣の姿をしている、
兵器製造に優れる戦いの神様でした。


兵主神社3
穴師坐兵主神社の本殿2

兵主神社と天日槍(あめのひぼこ)はどちらも兵器に関係していて、
天日槍(あめのひぼこ)の渡来伝説のある但馬や近江に兵主神社が多く鎮座しています。

兵主神社4
穴師坐兵主神社の社務所

天日槍(あめのひぼこ)は古事記や日本書記に新羅の王子と書かれ

赤い玉から生まれた阿加流姫(あかる)を追い難波津へ来ますが、
行く手を阻まれ但馬に留まったとされます。


兵主神社5
穴師坐兵主神社の末社・須佐之男社

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穴師坐兵主神社の参道①相撲神社(桜井市・穴師)

穴師坐兵主神社の参道②他田坐天照御魂神社(桜井市・太田)
穴師坐兵主神社の参道③国津神社(桜井市・箸中)
穴師坐兵主神社の参道④九日神社(桜井市・芝)
穴師坐兵主神社の参道⑤珠城山古墳群桜井市・穴師)
穴師坐兵主神社の参道⑥ホケノ山古墳(桜井市・端中)
穴師坐兵主神社の参道⑦箸墓古墳(桜井市・端中)
穴師坐兵主神社の参道⑧茅原大墓古墳(桜井市・茅原)
穴師坐兵主神社の参道⑨纒向石塚古墳(桜井市・太田)
穴師坐兵主神社の参道⑬纒向遺跡(桜井市・巻向)
穴師坐兵主神社の参道⑭大和天神山古墳(天理市・柳本町)
穴師坐兵主神社の参道⑮黒塚古墳(天理市・柳本町) 
穴師坐兵主神社の参道⑯伊射奈岐神社(天理市・柳本町)
穴師坐兵主神社の参道⑰祟神天皇陵(天理市・柳本町) 
穴師坐兵主神社の参道⑱景行天皇陵(天理市・渋谷町) 



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大神神社(奈良県・桜井市・三輪)

大神神社(奈良県・桜井市・三輪)に関する記事です。

大神神社(おおみわ)は奈良盆地の東南,JR桜井線の三輪駅の東500mに位置する
三輪山を御神体とする神殿を持たない日本最古とも言われる神社です。 


三輪山 (2)
五月の三輪山

大神神社は大和国・城上郡・月次相嘗新嘗と記される式内名神大社です。

祭神:大物主大神
配祀:大己貴神、少彦名神

大国主は一緒に日本国土を開発してきた少彦名が黄泉の国へ旅立ち悲しんでいる時、
「私を三輪山に祀れば、国土開発に協力しましょう」
と海の彼方から現れた神が大物主です。


大物主は大国主と同一神とも、別の神とも言われますが、
出雲国の大和朝廷への服従を示すため、

大国主の和魂(にぎみたま)のみを三輪山に祀った神様です。 


大鳥居
大神神社の大鳥居と三輪山

大神神社は出雲勢力を配下に治めた大和朝廷が崇拝した皇室の神社です。
3世紀後半、奈良盆地に大和朝廷という強大な勢力が生まれ古墳時代を築きました。

神武天皇の子孫・10代崇神天皇(すじん)のときに、大和では洪水・干ばつ・火災が多発し、
疫病が大流行し、多くの人が亡くなり、反乱するものが続出します。


大神鳥居2
大神神社の二の鳥居

祟神天皇は肩野物部氏の祖である伊香色雄(いかがしこを)に命じ、
茅渟県陶邑の大田田根子を探し出して祭祀主として大物主神を祀らせました。

その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑い、
これ以降、大物主神は、大和政権・皇室の守り神となります。

 

拝殿1
大神神社の拝殿


拝殿2
大神神社の大注連縄


大神神社の境内では、杉の木が沢山祀られていますが、
万葉の時代から三輪山の杉は神杉(しんすぎ)として、
大物主の神威が宿っているとされてきました。

拝殿の前には、
巳の神杉と呼ばれる、樹齢400年程の杉のご神木があり、
この木の祠に住んでいた白蛇を祀っています。


ご神木1
巳の神杉


その前にお供えしているモノを見ると、お酒と一緒に沢山の卵が奉納されています。

そして、その白蛇が卵を丸のみするように、願い事も丸のみしてくれるということから、
卵をお供えしているのだとか・・・・卵を供えるのは大神神社のみの風習のようです。


太古は三輪山に住む神様は、蛇と考えられていたそうで
手水舎の手水も蛇の口から出ていました。


蛇の手水
蛇の吐く手水


岩が2つ仲良く並んでいることから「夫婦岩」と呼ばれ、
大物主神と活玉依姫の恋物語が伝えられています。



夫婦岩2
夫婦岩の磐座



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大神神社の参道⑧神宝神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑧神宝神社(桜井市・三輪)に関する記事です。


祭神:熊野大社に祀られている神様です。

家都御子神(けつみこ)
熊野夫須美神(くまのふすみ)
御子速玉神(みこはやたま)


神宝神社(かむたから)は神様の宝物をお守りする神社です。



神宝社1
神宝神社


大国主神は国譲りの決心をして言いました。
「私の二人の息子が天津神(大和朝廷)に従うのなら、私もこの国(出雲)を大和朝廷に差し上げます。」


大和への服従を示す証として、大物主へ和魂を差し出すと共に、
出雲から持ってきた宝物も差出しました。
宝物とは「御祷の神宝(みはぎのかむたから)」で、
神宝とは太刀と白馬と白鳥、さらに大鏡です。


大国主神は更に言いました。
「国を譲る代わりに、私の住む所として、天に届く大きな宮殿を建ててほしい。
そうすれば、私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」

出雲国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿を建て、たくさんの料理を奉りました。



出雲大社
古代の出雲大社

大神神社の参道①久延彦神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道①久延彦神社(桜井市・三輪)に関する記事です。

久延彦神社(くえひこ)は大神神社の北200mの丘上にある知恵の神です。

祭神:久延彦命

久延彦命は古事記に出てくる案山子の神様で、
田の中に立って一日中、世の中を見ていることから、
世界のことは何でも知っているとされます。

久延彦の知恵にあやかり、学力向上・試験合格の神様として信仰されています。


久延彦神社1
久延彦神社の門柱

案山子は、古代から農業を守る田の神、農業の神、土地の神でした。
案山子はその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、
収獲祭や小正月には案山子を庭に引き上げて、神として祀る地方もあります。


久延彦神社2
久延彦神社の鳥居

久延彦2
久延彦神社の拝殿

久延彦1
久延彦神社の拝殿内部


古事記<参照:わかりやすい日本の神話>

大国主命が出雲の海に行かれた時のことです。

大海原の彼方から、ガガイモの果皮で造った船に乗り、
蛾の羽の着物を着た小さな小さな人がやってきます。

でもどこの誰だかは、誰にも分かりません。
そこへヒキガエルがやってきて、申します。
「田んぼに一本足で立っている
案山子(かかし)の久延彦なら世の中のことは全て知っている」

久延彦から、この小さな人は、
高天原からやってきた神産巣日神(かみむすびのかみ)の子で
少彦名命だと教わります。

この後、大国主命は少彦名命とともに国土開発に取り組みます。

IMG_4539
少彦名命と案山子の久延彦命

石上神宮(奈良県・天理市・布留町)

石上神宮(奈良県・天理市・布留町)に関する記事です。

石上神宮はJR桜井線の天理駅の東2km、
大和川の支流・布留川左岸、布留山西麓
大神神社の真北7.6kmに位置します。

山の辺方面
途中の参道から三輪山を臨む

石上神宮(いそのかみ)は古代大和政権の軍事と祭祀を司った物部氏の氏神で、
武器庫の役目も果たしていた国家鎮護・鎮魂の神社です。

石上神社1
富岡鉄斎の社号標(隷書・れいしょ)

石上神宮は大和国・山辺郡・月次相嘗新嘗と記される
石上坐布留御魂神社に比定される名神大社です。

ご祭神
①布都御魂(ふつのみたま)
神武天皇東征で天皇を救った神剣・布都御魂 (ふつのみたま)の神霊。
②布留御魂(ふるみたま)
物部氏のご先祖の饒速日命(にぎはやひ)が降臨したときに携えた、
十種神宝(とくさ・かんだから)に宿る神霊。
③布都斯御魂(ふつしみたま)
素戔嗚尊が八岐大蛇を退治するのに用いた天十握剣(あめのとつか)の神霊。

注1)布都(ふつ)とはプッツリよ良く切れる刀の意
注2)布留(ふる)とは魂振り・鎮魂の意
注3)天十握剣は八岐大蛇を殺した剣で、草薙の剣は退治した八岐大蛇の体内から出た剣。


石上神社2
檜の大鳥居(明神造り)

崇神天皇の勅命により物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が、
布都御魂剣を御祭神として祀ったのが石上神宮の創建になります。

初期大和政権が確立する3世紀に、伊香色雄と姉の皇后・伊香色謎(いかがしめ)により、
物部氏の勢力も大きく拡大することになりました。


石上神社3
鎌倉時代末期建立の楼門と回廊

石上神宮は大神神社から山の辺の道を北へ11km程の場所にあり、
この2社は古代大和政権を守護する双璧の神社です。

・大神神社は崇神天皇の勅命で堺・陶器村の大田田根子が建立(出雲系列)
・石上神宮は崇神天皇の勅命で枚方・伊加賀の伊香色雄が建立(物部系列)

ともに大和政権が始まった3世紀のことのようです。

石上神社4
石上神宮の拝殿

石上神宮は元々は本殿の無い神社ですが、
禁足地から出土した神剣・布都御魂神 (ふつのみたま)を安置するために
明治時代の後期に今の本殿が造られました。

拝殿の向く方向はもちろん禁足地であり、
その遥か先には饒速日命(にぎはやひ)が降臨された、
交野の哮峯(たけるがみね)があります。

石上神社5
石上神宮の拝殿内陣

石上神社45
石上神宮の本殿の屋根(明治時代に造られた


鶏(にわとり)の放し飼いは石上神宮独自のもので、
社務所付近を中心に30羽近くおり、同じ仲間同士で元気に遊んでいる姿を、
参道はじめ境内の各所で目にしました。


特に神杉で鬱蒼とした境内に響き渡る2羽の東天紅(長鳴鶏)のデュェットには感銘しましたし、
石上神宮の神使とされることが良く判りました。
 

夕方になると鶏たちはイタチ、タヌキなどの天敵を避けるために、
低い木々から順々に高い木に飛び移り、そこで一夜を過ごすそうです。


にわとり1
長鳴の得意な東天紅

にわとり2
白いのも、黒いのも烏骨鶏(うこっけい)

にわとり(鶏)は太古から暁に時を告げる鳥として、
神聖視され、神様のお使いともされています。
天照大神が天の岩戸にこもり世界は闇になりましたが、夜明けを知らせたのは、鶏です。

神功皇后は三韓征伐のおり、時計の代わりに鶏(にわとり)を連れていきました。


石上神宮にも可愛い神鶏みくじがありました。


おみくじ
神鶏みくじ《石上神宮》



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長谷山口坐神社(奈良県・桜井市・初瀬)

長谷山口坐神社(奈良県・桜井市・初瀬)に関する記事です。

近鉄大阪線の大和朝倉駅から長谷寺駅の間に三輪山、巻向山、初瀬山と3山があります。
その初瀬山は長谷山とも書かれる長谷寺の堂・塔が点在する山です。

延喜式が制定される1年前の延長4年(926)の夏、
長谷山が豪雨で崩壊して土石流が発生し、下流にあった海柘榴市は消え去りました。

長谷山口坐神社は長谷山の怒りを鎮める神社で大和の人たちにとって重要な神社です。

 初瀬山
長谷寺の堂・塔が点在する初瀬山

長谷山口坐神社は近鉄長谷寺駅の北300m、
初瀬川左岸で長谷山を鎮護する神社です。

長谷寺参道として賑わう初瀬街道に入るとすぐに
赤い神河橋が見え、そこが長谷山口坐神社の入口です。
初瀬街道は伊勢街道とも呼ばれ、初瀬、長谷、泊瀬は同じ「はせ、はつせ」の読みです。 

初瀬街道
延々と続く長谷寺参道(初瀬街道)の酒屋

長谷山口坐神社は大和国・城上郡に鎮座する月次新嘗と記される式内大社で、
手力雄明神とも称される神社です。

奈良の山口14社とは、巨勢飛鳥石寸忍坂長谷畝傍耳成、夜支布、伊古麻
大坂當麻、吉野、都祁のことです。

そのうち飛鳥石寸長谷畝傍耳成忍坂が大和六所山口神社と呼ばれ
特に重要な山口神社とされます。 

神河橋
大和川支流の初瀬川に架かる神河橋

祭神:大山祇神、天手力雄神

長谷山口坐神社の祭神は大山祇神でしたが、
後に元伊勢として伊勢信仰の影響を受けて
天岩戸をこじ開けた力持ちの天手力雄神を配祀したものと思われます。

長谷寺縁起やその他の古文書によると、この地方は三神の里、
川は神河、この付近の淵は神河補と書かれています。
 
手力雄明神の標石
手力雄神の標石(長谷山口坐神社遥拝所

長谷山口坐神社の境内・神河橋の東端には
磯城伊豆加志本宮伝承地(しきいづかし)の碑があります。

磯城伊豆加志本宮伝承地は垂任天皇の皇女の倭姫が八年間
天照大神を祀った元伊勢の地です。
随神としてこの地に天手力雄を、北の山に豊秋津姫(栲幡千千姫)を祀ったとされます。

加志は神が降臨される樫の木のことで、厳橿(いつかし)です。

♪天皇、倭姫命を御杖として天照大神にたて奉りたまふ。是を以て倭姫命、
天照大神を磯城の嚴橿の本に鎮め坐せて祠ひまつりたまふ。♪

(垂仁天皇は、倭姫命を御杖代として天照大神に差し上げられた。
それで倭姫命は、天照大神を磯城の神木・樫の木の本にご鎮座させて祀った。)

磯城伊豆加志本宮伝承地
磯城伊豆加志本宮伝承地の石碑

初瀬街道は古代からの道で壬申の乱の際、
大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒す為に通った道でもあります。

桑名を経由して琵琶湖東部にでて東国の兵力を見方に付けて大部隊になります。
 
水神
水神の石碑

伊勢斎宮が制度として定着したのは、天武天皇の時で
正式記録が残る初代斎宮の名は、天武の娘の大伯皇女です。

壬申の乱の戦勝祈願の神への御礼として、大伯皇女は十二歳のとき斎宮に選ばれ、
宮を出て泊瀬で潔斎、大津皇子の刑死で任を解かれるまで、
十二年間を伊勢の地で神に奉仕しました。

長谷神社4
長谷山口坐神社の拝殿

雄略天皇は、当社から西1kmの黒崎~脇本集落当たりで即位し、
泊瀬朝倉宮を定めたとされます。

葛城の一言主神は、一緒に狩りを楽しんだ雄略天皇を
この長瀬山口まで見送ったと『古事記』には記載されます。
 
長谷神社5
長谷山口坐神社の本殿

境内では沢山のハグロトンボが産卵のために乱舞し幻想的な雰囲気でした。

はぐろとんぼ
境内で乱舞するハグロトンボ

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石上神宮の境内③神庫(天理市・布留町)

石上神宮の境内③神庫(天理市・布留町)に関する記事です。

石上神宮には古代から御神体の神剣・布都御魂(ふつのみたま)が
禁足地の地中深くに祀られているという伝承がありました。


明治7年に禁足地を掘起こしたところ、多くの玉類・剣・矛などと共に、
神剣・布都御魂(ふつのみたま)が出土し、伝承が正しかったことが証明されました。

神剣・布都御魂を奉安する為に、今まで石上神宮には無かった本殿を新たに建立したそうです。


注ー1)布都御魂とは
神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあい熊野で窮地に立たされた時に、
建御雷神(たけみかずち)から渡された神剣。

その後、物部氏の祖と言われる饒速日命の子の宇摩志麻治が宮中で祭ったが、
崇神天皇の代に至り、子孫の伊香色雄命(いかがしこお)が石上神宮に移し、御神体となる。

石上神宮の神宝は、禁足地の南西にある神庫(ほくら)で保存されてきたものと、
禁足地に埋められたものとがあります。


神庫

神庫(ほくら)

①神庫(ほくら)で保存された神宝

*七支刀(しちしとう)
369年に百済王が倭王へ忠誠の証として贈った宝剣。
鍛鉄製で左右に3本づつの小剣を段違いに造りだす。


七支刀1
百済から贈られた七支刀

この刀剣には、表裏合わせて61文字が銘記されている。

「泰和4年(369年)の吉日に上質の鉄で七支刀を造った。
この刀は多くの敵兵を退ける力があり、このような刀は百済にはなかった。
百済王が世に伝えられるように倭王(神功皇后)のために造った・・・」


日本書記にも神功52年に百済から献上された七支刀の記述があるそうです。
剣の文字から神功52年が東晋の年号369年と分かり、
従来言われてきた西暦より120年後になるそうです。


七支刀2
七支刀に銘記さた文字


*鉄盾
石上神宮に「日の御盾(ひのみたて)」として伝わる古墳時代の神宝。
鉄板を接合させて幾何学的な模様を作る。


盾
古墳時代の鉄盾

*色々威腹巻(いろいろ・おどし・はらまき)

②禁足地から掘り出された神宝
*神剣・布都御魂
本殿を建設し奉戴した。

*大量の玉
勾玉

大神神社の参道②大直禰子神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道②大直禰子神社(桜井市・三輪)に関する記事です。

大直禰子神社( おおたたねこ)は大神神社本殿の北西300mにあり、
若宮さんと称される神社です。


祭神:大田田根子命
配祀:少彦名命(すくなひこな)
          活玉依姫命(いくたまよりひめ)


大田田根子は大物主大神と活玉依姫の子孫にあたり、
古代豪族の三輪氏の祖先になります。

 

大直禰子神社1
大直禰子神社の鳥居

大直禰子神社の本殿は寺院風の建築ですが、鎌倉時代に建立されたもので、
大神神社の神宮寺の大御輪寺の本堂だったことによります。


明治の神仏分離で大直禰子神社となり、
現在は、大神神社の摂社・若宮さんとして知られます。


大田多ねこ
寺院風の社殿



鳥居の手前に、古事記の伝説に由来する「おだまき杉」の古株が残っています

大田田根子命の誕生に繋がる杉とのことです。

苧環(おだまき)とは麻糸を中空にして巻いたもので、
大田田根子命のご先祖の大物主命と活玉依姫を
結びつけた赤い糸を巻いたものです。

大直禰子神社2
おだまき杉


境内には、御饌石が置かれていますが、
正月の御神火祭りの時、 久延彦神社に神饌をお供えするものです。


大直禰子神社3
御饌石(みけいし)


崇神天皇の時代に疫病が流行ります。


崇神天皇は夢に大物主大神が出てきて、

「大田田根子に私を祭らせれば疫病は止む」と言うご託宣がありました。


大田田根子という人が、河内の堺市付近で見つかり、

天皇は喜んで、大田田根子を大神神社の神主にして大物主を祭らせます。


すると、たちまち疫病は止み、大和国は安泰となったということです。



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大直禰子神社の境内社①琴平社


祭神:大物主


大直禰子神社4
琴平社

大直禰子神社の境内社②御誕生所社


祭神:鴨津美良姫命



鴨津美良姫命は、大田田根子命の母です。


大直禰子神社5
御誕生所社

御誕生所社には社殿はなく、磐座がありました。
大田田根子命(おおたたねこ)の誕生を祈願した磐座と思われます。

大直禰子神社6
御誕生所社の磐座

大神神社の参道⑩活日神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑩活日神社(桜井市・三輪)に関する記事です。


御祭神 高橋活日命    
  
活日神社(いくひ)は大神神社拝殿から狭井神社への途中にある摂社です。

現、天理市の高橋邑(むら)の活日は祟神天皇に召された、お酒造りの名人です。

活日1
 活日神社1


酒造り職人衆をとりしきる人を杜氏(とうじ)と呼びますが、
日本書紀の崇神紀に
「高橋邑の人,活日を以て大神の掌酒(さかびと)とす」
とあり、活日が日本での最古の杜氏です。


注-1)掌酒とはお神酒の醸造に携わる人、杜氏


また活日は一夜で美味しい神酒を造たことから、
一夜酒之社・一夜酒さんと称されています。



活日2
活日神社2


毎年11月14日には新酒の醸造安全祈願大祭が執り行われます。

新酒の仕込みの季節を迎え、全国の酒造家や杜氏たちが醸造安全祈願にやってきます。

私が行ったのはその3日後の11月17日でしたが、
このお供えされた膨大な数の一升瓶を見て下さい。


新酒の仕込みは冬に行われるそうで11月頃から来年の3月まで続くそうです。

お酒
全国から奉納された一升瓶


表参道に南酒本舗という名前の大きな酒屋さんがあり、
その軒先に大きな茶色の玉が吊るしてありました。


お酒2
南酒本舗


これは杉玉はとよばるもので、酒屋・酒造の看板として軒先などに吊るし、
新酒ができたことを知らせる役割を果たしたものです。


お酒3

 南酒本舗の杉玉


大神神社は三輪山全体がご神体で、
三輪山の杉の木を神木としていたことから、
大物主のご神威が宿る杉の葉を束ねて、
酒屋の軒先に吊した風習が杉玉の起源とされているそうです。


吊るされたばかりの杉玉はまだ青々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。
この色の変化によって新酒の熟成の具合い(飲み頃サイン)を知らせるそうです。


お酒4
杉玉つくりの風景

オーストリアやドイツなどでも軒先に松などの枝をつけて
新しいワインの醸造度合いを知らせる風習があるそうです。

大神神社の参道⑤檜原神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑤檜原神社(桜井市・三輪)に関する記事です。

祭神:天照大神・伊邪那岐・伊邪那美


崇神天皇が豊鍬入姫命(とよすき・いりひめ)に命じて,
宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑(かさぬいむら)に祭らせたそうで、
これが斎王(斎宮)の始まりとされます。


実は檜原神社(ひばら)のある場所がかつて大和の笠縫邑(かさぬいむら)と呼ばれた場所で、
宮中にいた天照大神を一時的に遷した風光明媚な場所です。


檜原
笠縫邑と呼ばれた檜原からの眺望(左は箸墓古墳)


崇神天皇の次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる倭姫命(やまとひめ)が
笠縫邑から各地を巡行した後、伊勢に辿りつき、そこに天照大神を祭りました。


天照大神が伊勢神宮へ遷された後も、
檜原神社として引き続き天照大神を祭神として祀ってきました。
そのため、檜原神社は元伊勢の名でも親しまれています。


檜原神社1
檜原神社の大注連縄


檜原神社(ひばら)檜原神社には本殿はなく、拝殿もありません。
三輪特有の「三輪鳥居」から三輪山の中にある磐座に祈ります。


「三輪鳥居」とは、明神鳥居の左右に脇鳥居をつけたもので、三ツ鳥居とも言われます。
大神神社の拝殿にある鳥居を標準とすることから三輪鳥居と言われています。

三輪鳥居の手前、左に見える木が、神様が降臨される神籬(ひもろぎ)です。

檜原神社2

檜原神社の三輪鳥居


檜原神社(ひばら)には豊鍬入姫宮があります。

豊鍬入姫命は、父の崇神天皇の命で、宮中に祀られていた天照大神を
檜原神社(ひばら)の地・笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、
倭姫命(やまと)と交代するまで祭祀を続けました。


王権の祭祀を担っていること、豊鍬入姫の豊(とよ)の文字などから、
卑弥呼の後を13才で継いだ女王・台与(とよ)とする説も有力です。


崇神天皇から垂仁天皇に交替すると、
斎王もそれぞれの皇女である豊鍬入姫命から倭姫命に替わります。

倭姫命は、豊鍬入姫命の跡を継ぎ、
伊勢の地に天照大神を祀り、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建しました。

これが
斎宮の起源ということで、後に皇族が天照大神を祀る制度となります。


檜原神社3
檜原神社にある豊鍬入姫宮

大切な天照大神を宮中の外に出し、大和から遠い伊勢の地に祭った理由は何でしょうか?

奈良の桜井から名張・伊賀・松坂を経て伊勢に行く紀伊半島を横断する道を初瀬街道と言います。

私は仕事で早朝に近鉄に乗り、その初瀬街道経由で何度も伊勢に通いました。
電車の先頭車両に乗るとよくわかるのですが、
進行方向は真東で、強烈な太陽の光に向かって進んでいく形で、目が眩み続けます。

自分の経験からですが、天照大神を伊勢にお祭りした理由は、
大和から見ると伊勢は太陽が昇る国で、初瀬街道の太陽が神秘的だからだと思います。

大神神社の参道⑦綱越・祓戸神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑦綱越・祓戸神社(桜井市・三輪)に関する記事です。


<綱越神社>

御祭神:祓戸大神

綱越神社(つなこし)は延喜式に登場する歴史のある神社です。

夏越えの大祓(おおはらえ)での御祓祭り(おんぱら)で知られている大神神社の摂社です。

綱越神社は、参道の始まり一の鳥居の近くに鎮座しており
傍を流れる初瀬川に穢れを流してからお参りします。

一の鳥居
大神神社の一の鳥居

綱越神社1
摂社の綱越神社

綱越神社2
綱越神社の本殿




綱越神社3
綱越神社の磐座


<祓戸神社(はらえど)>

二の鳥居をくぐり、大神神社の社殿が間近になるあたり、
御祓川(みそぎ)に架かる御手洗橋を渡った場所に、祓戸神社(はらえど)が現れます。

御祭神は祓戸大神いとも言われる以下の四柱です。

瀬織津姫神(せおりつひめ)
速秋津姫神(はやあきつひめ)
気吹戸主神(いぶきどぬし)
速佐須良姫(はやさすらひめ)

の四柱が祀られています。


大神神社に、お参りの際には、
まず祓戸神社でお祓いを受けてから、
本殿に参拝するのが正しいお参りの仕方です。



祓戸社1
祓戸神社1



瀬織津姫(せおりつ)を始めとする祓戸の4神が、
大祓によって祓われた罪穢れを連携プレーで流してくれます。


1.瀬織津姫(せおりつ)が罪穢れを御祓川⇒大和川⇒大阪湾へ流します。
2.大和川河口にいる速秋津姫(はやあきつ)が罪穢れを飲みこみます。
3.気吹戸主(いぶきど)は罪穢れを根国・底国に息で吹き飛ばします。
4.速佐須良姫(はやさすら)が持ちさすらい消してしまいます。



祓戸社2
祓戸神社2

大和神社(奈良県・天理市・新泉町)

大和神社(奈良県・天理市・新泉町)に関する記事です。

大和神社(おおやまと)はJR桜井線の長柄駅の東南500m
大神神社の北5km、石上神宮の南3km程、上街道沿に位置します。

大和神社の南東1.5kmには当社と関係の深い中山大塚古墳があり
20基以上の大和古墳群が連なります。


参道の風景
大和神社参道の風景

大和神社は大和国・山辺郡・月次相嘗新嘗と記される
大和坐大国魂神社に比定される名神大社で以下の3柱を祀ります。

祭神 中殿:倭大国魂大神(やまと・おおくにたま)
    左殿:八千戈大神(やちほこ)大国主の別称
    右殿:御年大神


大和神社1
大和神社の鳥居

大和神社を祭祀した大倭氏は椎根津彦を祖とする海神族に属する地祇系氏族です。
椎根津彦は神武東征の水先案内人として登場し、元は豊後水道を本貫としていました。
戦艦大和に大和神社の分霊が祭られたのは海神の椎根津彦にあやかってのことです。


大和神社2
大和神社の拝殿1

元々倭大国魂大神は天照大神とともに宮中に祀られていましたが、
世の中が乱れ、疫病が多発し、死者・病人は留まることを知りません。
 

大和神社3
大和神社の拝殿2

崇神天皇は宮中で祀っていた、天照大神と倭大国魂神の神威の強さを畏れ、
宮中の外で祀ることにします。

宮中から倭大国魂神を出して、自分の娘である淳名城入姫(ぬなきいり)に祀らせますが、
姫は髪落ち体痩せ、祭祀ができなくなる程の恐ろしい祟りでした。

崇神天皇は国津神を取り上げた過ちに気づき、倭大国魂神を皇族で祀るのは止めて、
国津神である大倭氏に属する長尾市(ながおち)を祭主とし、大和神社で祭ります。

更に国津神の子孫である大田田根子に大国主神の祭祀権を返し、
大神神社(おおみわ)とし、混乱は収まります。

大和神社4
大和神社の3神からなる本殿

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石上神宮の境内②出雲建雄神社(天理市・布留町)

石上神宮の境内②出雲建雄神社(天理市・布留町)に関する記事です。

出雲建雄神社は石上神宮境内にある摂社で、大和国・山辺郡鎮座とされる式内小社です。


天武天皇の御代に草薙剣を御神体として創建しました。


祭神:草薙剣の荒魂(出雲建雄神)


出雲建雄1

出雲建雄神社の拝殿(内山永久寺の鎮守・住吉社より移築)


天武天皇の時代の創建で、草薙剣と言えば、熱田神宮の草薙剣盗難事件を思いだします。

剣を盗んだ新羅の僧侶が草薙剣を捨てた為に、
大阪鶴見区にある一地区が放出(はなてん)という地名になったことを
阿遅速雄神社(あじはやお)の記事で書きました。

出雲建雄1
出雲建雄神社の社殿


熱田神宮の草薙剣盗難から返還までのいきさつは
日本書紀や熱田神宮の社伝に以下のことが載っているそうです。

「668年(天智天皇7年)に熱田神宮で新羅の僧侶により草薙剣が盗まれたが、
大阪の放出付近で暴風雨のため、諦め草薙剣を捨て、草薙剣は宮中で預かることになった。
天武天皇が草薙剣の祟りで崩御(686年)されたことがきっかけで、
同年に、草薙剣は熱田神宮に返還された。」

でも以前に、この記事を書いた時、不思議に思ったのですよ。
だって盗まれた剣が見つかったのに、尾張氏の熱田神宮に18年も返さずに
宮中に保管しておいたことになるのだから。

その宮中の保管時に創建されたのが出雲建雄神社で、草薙剣を御神体として祀っていたようです。
そうなると草薙剣盗難事件の張本人は天智天皇の関係者かも知れません。

注ー1)出雲建雄(たけお)というと、 日本武尊に討たれた出雲建の名前に似ているが、やはり素盞嗚尊のことか?

穴師坐兵主神社の参道⑯伊射奈岐神社 (天理市・柳本町)

穴師坐兵主神社の参道⑯伊射奈岐神社(天理市・柳本町) に関する記事です。

伊射奈岐神社 (いざなぎ)はJR桜井線の柳本駅から徒歩10分程で、
天神山古墳を境内として鎮まる神社です。
奈良と熊野を結ぶ国道169号線を挟んで目の前に大きな崇神天皇陵があります。


祭神:伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)


伊射奈岐神社1
伊射奈岐神社の鳥居

また、説明看板には


「神社の由緒は室町時代後期に焼失してしまい詳しいことは判りませんが・・・
崇神天皇の時代、伊勢神宮と殆ど同時期に創建された最も古い神社の一つで、
日本武尊が東国征伐の出陣に際し、
弟橘比売命を妃に迎えて間もない我が身を按じ、
当神社で戦勝祈願をして伊勢へ出立しました・・・・」


などのようなことが書かれていました。



伊射奈岐神社2
伊射奈岐神社の額


ここにくるまでに日本武尊の父・景行天皇陵を見て、
日本の創世記にタイムスリップしていましたので
日本武尊が戦勝祈願をされた話も真実味を感じました。



伊射奈岐神社3
伊射奈岐神社の拝殿



伊射奈岐神社6
伊射奈岐神社の本殿

<境内社>


①稲荷神社
祭神:宇迦之御魂大神・太田神・大宮比売命を祀っています


天神山古墳のくびれ部に鎮座しています
 
伊射奈岐神社稲荷
稲荷神社

②建勲社

祭神:織田信長
明治天皇の勅命により山形県天童市に織田信長を祭神として創祀された神社です。

伊射奈岐神社建勲
建勲神社

境内に牛が多いのは中世から明治初期までは天満宮だったことに由来します。

③社殿右にあるのが春日・若宮・秋葉合祀社
 

伊射奈岐神社天満宮右
春日・若宮・秋葉社

④社殿左にあるのが厳島・大山咋・八坂合祀社

伊射奈岐神社天満宮左
厳島・大山咋・八坂社


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穴師坐兵主神社の参道⑰祟神天皇陵(天理市・柳本町)

穴師坐兵主神社の参道⑰祟神天皇陵(天理市・柳本町) に関する記事です。

先代:父の開化天皇
次代:子の垂仁天皇

第10代崇神天皇は開化天皇と伊香色謎命(いかがしこめ)の間に生まれ、
3世紀から4世紀初めにかけて三輪山麓の磯城籠垣宮(しき・みずがき)を都とし、
初期の大和朝廷の基盤を築きました。

祟神天皇陵は行燈山古墳とも言い、4世紀前半に築造された初期大和政権の大王陵です。

形状   :前方後円墳
サイズ  :全長242m、後円径158m、高さ23m
築造  :4世紀前半
出土品 :金銀細工品、銅板、土器

祟神天皇陵1
祟神天皇陵

祟神天皇は政治面での内政の充実だけでなく、
大和政権の外部への拡大にも積極的に取り組みました。

四道将軍(しどう)は、大和政権の地方への拡大を目論み
崇神天皇にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された
皇族(王族)の四将軍です。


①大彦命(おおびこ)
②武渟・川別命(たけぬな・かわわけ)
③吉備・津彦命
④丹波・道主命

大彦命の墓所は、埼玉県行田市の稲荷山古墳(全長120mの前方後円墳)と解明されてきましたし、
地方を平定していくルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっているそうです。

祟神天皇陵2
祟神天皇陵の拝所

陪塚は3基あり南アンド古墳(全長65m)、北アンド山古墳(全長120m)、天神山古墳(103m)で、
地方の豪族クラスの規模です。

祟神天皇陵3小塚
3基の陪塚の一つ北アンド山古墳


祟神天皇陵4
南アンド山古墳(手前)と天神山古墳(奥の杜)

江戸時代末期の周濠の改修工事の際に、長方形の銅板が出土しています。
残されている拓本によると、片面には内行花文鏡に似た文様が、
もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
鏡に関係した銅製品ともありますが、他に例が無く、用途は不明だそうです。


銅板
祟神天皇陵出土の銅板

穴師坐兵主神社の参道①相撲神社(桜井市・穴師)

穴師坐兵主神社の参道①相撲神社(桜井市・穴師)に関する記事です。

相撲神社は穴師坐兵主神社の境内摂社で、兵主神社の鳥居を潜った先にあります。


相撲神社1
相撲神社の鳥居


祭神:野見宿禰(のみ・すくね)


相撲神社は野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(たいま・けはや)による
日本初の天覧相撲が行われた、相撲発祥の地です。


相撲神社2

日本書記によると、垂仁天皇7年7月7日、
天皇の前で野見宿禰と当麻蹴速が力比べをし、
野見宿禰が勝利しました。


その取組を行ったのが同神社とされ、
境内には野見宿禰を祭る社殿と神聖な土俵があります。

 
相撲神社3
神聖な土俵


昭和37年には、大鵬・柏戸の両横綱による土俵入りも奉納されたそです。


相撲神社4
野見宿禰を祭る社殿

そして今年の平成25年7月7日には
「勝利の聖 野見宿禰」記念碑が完成し除幕式が行われました。

相撲神社5
野見宿禰の記念碑「勝利の聖(ひじり)」


当麻蹴速(たいまのけはや)は大和に住む蹴りの得意な力士で
向かうところ敵なしとの噂されました。


この噂を耳にした垂仁天皇が
「誰か蹴速(けはや)と互角に戦える者はいないか」
と尋ねたところ、
野見宿禰(のみすくね)の名前があがり、
出雲から呼び出して試合をさせました。


この天覧相撲は壮絶な蹴りあいとなり
野見宿禰が当麻蹴速のあばら骨と
腰骨を折って蹴り殺してしまいました。


このあと野見宿禰は天皇に使えて、
皇后の死にあたっては殉死の変わりに
埴輪を創案したとあります。



大神神社の参道⑫神坐日向神社(桜井市・三輪・御子宮)

大神神社の参道⑫神坐日向神社(桜井市・三輪)に関する記事です。



大神神社の山の辺の道を少し南へ行った、
平等寺の手前に神坐日向神社(みわにます・ひむかい)があります。


神坐日向神社は日向王子とも称されています。
鎌倉時代に熊野権現詣で流行した九十九王子ですが、
延喜式(927年)に大峯山の蔵王権現には既に10王子があり、
その一つとして、日向王子が記載されていることによります。




日向1
神坐日向神社1



神坐日向神社(みわにます・ひむかい)は三輪山山頂にある高宮神社と共に、
大神神社の古代の歴史を伝える大切な神社です。


まず古事記から、祭神を調べてみます。

<神坐日向神社の祭神>櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命
・櫛御方命(くしみかた):大物主と活玉依姫との子
・飯肩巣見命(いいかたすみ):櫛御方命の子
・武甕槌命(たけみかづち):飯肩巣見命の子
・大田田根子:武甕槌命の子(日本書紀では大物主と活玉依姫の子)


<高宮神社の祭神>日向御子神

神坐日向神社が鎮座する場所は御子宮、御子森と言い
祭神も大物主の子孫、大田田根子の先祖たちが祀られています。


高宮神社の高宮とは大神神社の神主の姓で、
大神⇒三輪⇒高宮と変化していった。


日向2
神坐日向神社2

日向(ひむかい)とは、太陽に向かって拝むという意味で太陽祭祀につながります。
神坐日向神社は古代には三輪山の頂上に祀られ、
太陽祭祀に関わっていた神社だったと考えられます。

そして皇族たちの天照大神も後から創造されたもので、
最初は日向神だったのかも知れません。




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大和神社の参道②渟名城入姫神社(天理市・岸田町)

大和神社の参道②渟名城入姫神社(天理市・岸田町)に関する記事です。

祭神:渟名城入姫(ぬなきいり)


崇神天皇は宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神の2神の祟りを恐れ,
皇居の外で祭ることにします。

天照大神は
豊鍬入姫命、倭大国魂神は渟名城入姫がそれぞれ祭主として命じられます。


しかし、それだけでは神の怒りは収まらず、淳名城入姫が病で倒れたため
倭大国魂神は地祇系の長尾市に変更し、
更に地祇系の
大田田根子に大物主神を祭らせることになります。




渟名城入姫神社1
渟名城入姫神社の鳥居

武力で日本統一を狙った天皇家(大和王権)の一族ですが、
崇神天皇は武力だけでは真の統一は無理と気づき、
奪い取った地主神・地祇(ちぎ)を、もとの持ち主に返し、
氏族との連合国家の樹立を目指します。



渟名城入姫神社2
渟名城入姫神社の拝殿

連合国家の最高の頂点は大和王権ですが、氏族も自分の国では、
今までどうり地主神・地祇の祭祀権を持った
地元の最高権力者の地位を継続できるので満足です。


渟名城入姫神社3
渟名城入姫神社の本殿

この時期に大和王権の確立と共に、
宮中にいた神々の祭主・祭場が決まっていき現在に繋がる大きな変化がありました。



<天照大神>
祭主(斎王) 
豊鍬入姫命<崇神天皇皇女>⇒倭姫命<垂仁天皇皇女>
祭場(斎宮) 笠縫邑⇒伊勢神宮


<倭大国魂神>
祭主(斎王) 淳名城入姫<崇神天皇皇女>⇒長尾市(ながおち)<地祇系の氏族>
祭場(斎宮) 市磯邑(いちしむら)の大和神社


<大物主神>
祭主     
大田田根子命<地祇系の氏族>
祭場     
大神神社



渟名城入姫神社4
渟名城入姫神社の由緒

金毘羅大権現
金毘羅大権現

大神宮
太神宮


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大神神社の参道⑲海柘榴市(桜井市・金谷)

大神神社の参道⑲海柘榴市(桜井市・金谷)

海柘榴市(つばいち)は桜井市金屋付近にあった古代の市のことです。
貨幣もない古代は物々交換の市でした。



海柘榴市がある場所は古代においては交通の要衝でした。

東へは泊瀬道(はつせ)、伊勢を経て東国へ
南へは磐余道(いわれ)、飛鳥を通じて紀伊の熊野へ
北へは山の辺の道、奈良・京を経て北陸・日本海へ
西へは大和川(初瀬川)の水運を利用して難波・大阪湾から大陸へ繋がる
日本全国、世界への窓とも言える重要な場所でした。

その為、物流も活発で大きな市が出来たのでしょう。

海柘榴市0
難波津へ繋がる初瀬川(大和川)

海柘榴市は、隋や唐の文化の花咲く国際色豊かな街でした。

私が小学生の頃、「ゴミヤ(538)仏教伝来」と年号を暗記した地も
実は海柘榴市で感動しました。


日本書紀によると、552年になりますが、
百済の聖明王(せいめいおう)の使者が海柘榴市に上陸し、
磯城嶋金刺(しき・しまかねさし)の欽明天皇のもとに経典とともに仏像を届けたのが
公式には一番古い仏教伝来の記録です。


海柘榴市3
仏教伝来碑


海柘榴市は、遣隋使として派遣された小野妹子にも関係深い地です。


派遣された翌年の推古16年(608)に妹子は
隋の使節・裴世清(はいせいせい)を伴い帰国します。


小野妹子・裴世清一行は難波津から船で大和川を上り海柘榴市に上陸し、
聖徳太子は飾り馬75匹に及ぶ大パレードで歓待しました。

海柘榴市1
飾り馬1

この時、聖徳太子は隋の煬帝宛ての手紙を小野妹子に持たせました。


「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや…」


これを読んだ隋の煬帝は「日が落ちる国」と言われ激しく怒り、返事を小野妹子に託しました。


怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、
小野妹子が百済で処分したとも言われています。


海柘榴市2
飾り馬2





大和神社の境内社①増御子神社(天理市・新泉町)

大和神社の境内社①増御子神社(天理市・新泉町)に関する記事です。

祭神:市磯長尾市命(いちし・ながおち)
    (猿田彦神、天鈿女神)

増御子神社(ますみこ)の本来のご祭神は長尾市(ながおち)です。


長尾市とは大倭氏と称する地祇系(ちぎ)の氏族の一員で、
先祖は神武天皇の東征に応援して功を成しました。


崇神天皇は,疫病が流行り、人心が乱れたとき,
渟名城入姫(ぬなきいり)に倭大国魂神を祭るように指名しますが,
極度の衰弱に見舞われ,代わって地祇系の長尾市が祭るように変更されました。


増御子1

長尾市は垂仁天皇のときにも日本書記に記載されており,
渡来した新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)の尋問の使いを命じられています。


増御子2

******長尾市の尋問************


垂仁天皇三年、新羅の王子・天日槍が、艇に乗って渡来しました。

垂仁天皇は天日槍が播磨にいると知り、長尾市らを尋問の使いに遣った。


長尾市「汝は何者か?何処の国から来たのだ?」


天日槍「私は新羅の王子です。聖皇がいると聞いて、日本に帰化したいと思います。
     どうぞ、この八種の宝物をお受取り下さい。」


長尾市「播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさ)をお前にやろう。」


天日槍「自分の住む所は諸国を回って自分で決めたいと思います」


ということで、天日槍は、近江国の吾名邑、若狭国、
と巡り但馬国に到ってそこを住居と決めたそうです。


日本書紀に自分が欲しい国は自分で獲ると答えたと、
書かれている天日槍は、別途取材する必要がありそうです。



大神神社の参道⑬大行事神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑬大行事神社(桜井市・三輪)に関する記事です。


大行事神社のご祭神は以下の三柱です。
 
・事代主命
・八尋熊鰐神(やひろわにのかみ)
・加夜奈流美命 (かやなるみ)

 
大神神社拝殿の南、平等寺前の十字路の東にある小さな社です。
私はこれまた近くにある神坐日向神社と勘違いして大行事神社に近づきました。
 
大行事社は日本最古の市場、海柘榴市(つばいち)を守護する神様で
三輪恵比須神社の元宮です。


しかし、近くを流れる初瀬川に大洪水があり、海柘榴市も流されてしまいます。
その為に新たに三輪の地に市場を開き、恵比須神社を建て、大行事神社から分霊しました。


大行事社
海柘榴市の守護神・大行事神社

特に三輪素麺の相場の神様として篤い信仰を集め、
2月5日に大神神社で行われる、三輪素麺の相場を占う卜定祭(ぼくじょうさい)の後で
素麺業者がこぞって大行事神社、恵比須神社へと参拝するそうです。
 

現在の卜定祭(ぼくじょう)では、三輪素麺工業協同組合が、
値段三種「安値」「中値」「高値」をあらかじめ設定しておき、
神職が安・中・高値の3種の紙玉の中から1個を選び今年の素麺の相場を決めます。

海柘榴市(つばいち)の神社らしいお祭りですね。


素麺組合
 三つ鳥居マークの三輪素麺組合



穴師坐兵主神社の参道③国津神社(桜井市・箸中)

穴師坐兵主神社の参道③国津神社(桜井市・箸中)に関する記事です。

巻向川を挟んで、箸中と芝に2つの国津神社が対峙しています。


巻向川
巻向川


須佐之男命と天照大神は天の安河を挟んで誓約を行いました。


まず、天照大神が須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、
吹き出した息の霧から宗像三女神が生まれました。

これが芝の国津神社(九日神社)の祭神です。

   奥津島比売命(おきつ)
   市寸島比売命(いちき)
   多岐都比売命(たぎつ)


国津1
国津神社の拝殿


次に、須佐之男命が、天照大神の八尺の勾玉を受け取って噛み砕き、
吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれました。


これが箸中の国津神社の祭神です。


天忍穂耳命(あめのおしほみみ)
天穂日命(あめのほひ)
天津彦根命(あまつひこね)
活津彦根命(いくつひこね)
熊野樟日命(くまのくすひ)
 

国津2
国津神社の本殿



なお古来より毎年八月二十八日には、箸中と芝の国津神社が相集い、
三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神・天照大神)の大祭を行っています。


初めての山の辺の道で偶然出会った神社で情報も少ないですが、
古代神話を再現した2つの国津神社には歴史の壮大さを感じました。




国津3
境内社の金刀比羅神社(大物主命)

国津神社は明治までは葛神社と表記し、葛神(くずがみ)を祭る神社でした。
葛神は龍蛇神で、水を司る神さまです。
三輪山に鎮まる大物主も大蛇と伝えられ、
九頭神(くずがみ)、白山神社も山の辺の道に多くあります。

葛神信仰は飛鳥・吉野にも広がっているそうで、
当初の三輪山信仰・出雲に迫るキーかも知れません。

また天照大神の祭主となった豊鍬入姫命の墓所が、
国津神社の裏にあるホケノ山古墳だとの伝承があるそうで
祭司道具の子持勾玉も国津神社の境内から出土しており深い歴史が感じられます。

子持ち勾玉
子持勾玉



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穴師坐兵主神社の参道⑬纒向遺跡(桜井市・巻向)

穴師坐兵主神社の参道⑬纒向遺跡(桜井市・巻向)に関する記事です。

大兵主神社への登り道はみかん畑も多く、
秋色に染まった景行天皇陵を見下ろし、
路端で買ったミカンの香りを楽しみながらの取材となりました。


日代宮跡5
日代宮跡から見た景行天皇陵

景行天皇が暮した日代宮は穴師の里にあり、
左手に景行天皇陵、前には竜王山、後ろは大和国原を見下ろす絶景の地にありました。

  
この地域は古代の政治・文化の中心で、天皇の宮が営まれた場所です。

日代宮跡1
巻向・日代宮跡

資料を読むと種々の宮が出てくるので、初めての私は混乱するので、整理しておきます。

    
    ①垂仁天皇の巻向・珠城宮(たまき)
    ②景行天皇の巻向・日代宮(ひしろ)
    ③崇神天皇の磯城・籠垣宮(みずがき) 


遺跡地図2

珠城宮・日代宮がある纒向遺跡は、初期大和王朝発祥の地として、
あるいは邪馬台国の候補地として著名な遺跡です。


下の写真は2011年に纒向遺跡の中心部にあたる居住区で発掘された最大の宮殿の模型です。
時代も3世紀前半と魏志倭人伝と一致し、卑弥呼の宮殿とも考えられています。


巻向1
卑弥呼の館と目される宮殿の模型


纒向遺跡は一般の集落とは異なる特徴を多くもっています。
  

①日本全国から人が集まる最大の都市


九州から関東にいたるまでの、様々な地域の土器が全体の15%前後も出土しています。
このような事例は他には無く、巻向が日本全国の人が交流する首都だった為と思われます。


巻向土器1
日本全国から集まった土器

巻向土器2
土器の製作地の分布

②大和朝廷が生まれた場所


箸墓古墳を代表として巻向石塚古墳、ホケノ山古墳など
6基の大和朝廷初期の前方後円墳が集中しています。

このことから巻向は日本を統一する初期大和政権発足の場所・邪馬台国と考えられます。


hasihaka2
箸墓古墳


③数々の祭祀道具


魏志倭人伝に鬼道に通じ衆を惑わすと書かれた卑弥呼の時代の数々の祭祀道具が出土しました。


鍬を転用した、国内最古の木製仮面で豊作祈願の際に「神の顔」として使ったとみられます。

巻向祭祀2
国内最古の木製仮面


死者の葬送に使われたと思われる木の船の模型です。

巻向祭祀1
舟形木製品

卑弥呼の館付近から出土した何らかの祭祀に使われたと思われる何千個の桃の種です。


巻向祭祀3
何千個の桃の種の一部


大神神社の参道⑰平等寺(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑰平等寺(桜井市・三輪)に関する記事です。

元は大神神社の神宮寺だった曹洞宗の三輪山「平等寺」です。


聖徳太子が、賊徒を平定するために三輪明神に祈願し、
みごと成就した暁に十一面観音像を刻み、大三輪寺を建立したのが起源とか・・・


581年に聖徳太子によって「大三輪寺」として開基、
鎌倉時代の慶円により大伽藍が建てられ平等寺として再興されました。



平等寺1
平等寺の山門


寺の由緒のにある「聖徳太子が平定した賊徒」とは、
蘇我氏と厩戸皇子(聖徳太子)に壊滅させられた物部氏のことでしょう。


物部氏は紀元前から栄えた長い歴史のある氏族で、
祭祀と強大な軍事力をもって政治を動かしてきました。


蘇我氏と厩戸皇子は仏教を導入することで,
神祇崇拝を重んじる物部氏の政治力を奪おうとしました。



簡単に言ったら、神様と仏様の戦いで、仏様が勝利したことになります。

平等寺2

手前が本堂、奥右が二重塔(釈迦堂)


なにやら騒がしいと周囲を見ると、
針金を賽銭箱に突っ込んで、千円札を釣り上げたお爺さんが
ハイカーに見つかってお金を賽銭箱に戻されていました。

これが今日の夕食代だったらなどと、想像すると少し哀れかと思いますが、
聖徳太子も、17条の憲法で「悪行を見たら必ず正しなさい。」
と言っているのだから仕方ありません。

平等寺3
聖徳太子像


平等寺から山の辺の道を南へ10分ほど行くと、金屋の石仏があります。

金屋の石仏は,高さ2.2m・幅80cm粘板岩( 石棺の蓋 )に浮彫りされたもので、
釈迦如来と弥勒菩薩とのことです。  


もともとは平等寺の厨子として三輪山中にあったものを  
明治の神仏分離のとき運びおろしたそうです。


海柘榴市6
金屋の石仏



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大神神社の参道④狭井神社(桜井市・三輪・字狭井)

大神神社の参道④狭井神社(桜井市・三輪・字狭井)に関する記事です。

狭井(さい)神社は、大神神社の拝殿の北300m、
薬草が植えてあるくすり道を通って10分程で着きます。

くすり道
狭井(さい)神社へのくすり道

大神神社の本殿には大国主神の和魂をお祀りし、
狭井神社には荒魂をお祀りしています。


狭井神社は大和国・城上郡・鍬靫と記される
狭井坐大神荒魂神社・五座に比定される式内小社です。

<祭神>
・大神荒魂神
・大物主神
・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたら)神武天皇の皇后
・勢夜多々良姫(せや・たたら)五十鈴姫の母、
・事代主神

狭井100
狭井神社の鳥居

大国主の和魂を大神神社の社殿に祀っただけでは
大国主神の怒りを抑えきれず、
そこで狭井神社に供物を捧げて荒魂をお祀りし、
神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えようとしたのでしょう。


怒りの荒魂は病気平癒に効果があるそうです。

狭井101
狭井神社の大注連縄


狭井神社は、大神神社とともに桜の花が散る頃、無病息災を祈る
鎮花祭が行われ、スイカズラや百合根などの薬草が供えられます。


狭井の名の由来は、山百合の古名の「サヰ、サイ」からといい、
サヰ川(狭井川)の川辺には山百合が多かったそうです。


鎮花祭は現在では、薬祭りとも呼ばれ、
大阪の
道修町を初め近畿の製薬会社の方が参拝に訪れ薬を奉納していきます。


狭井1
狭井神社の拝殿


狭井神社の境内にある登拝口から三輪山へ入山でき2~3時間ほどで往復できます。

標高447mの頂上は、摂社の高宮神社(こうのみや)と
奥津磐座(おきついわくら)の神域があるそうです。


狭井2
三輪山登山口


拝殿の左手にある薬井戸より湧き出る神水は、
万病に効く「くすり水」といわれ、
たくさんの人が水を飲んで健康を祈願していました。

酒屋、素麺屋などは年初の商品の造り始めには、この狭井の神水を用いるそうです。


狭井4
薬井戸


狭井神社の境内に入ってすぐ左にある小祠で、大神神社の末社にあたります。

昭和時代に社殿を造営し、大神神社の末社の厳島神社(桜井市・茅原)から分霊しました。 


弁天1
市杵島姫神社

市杵島姫は素盞嗚尊と天照大神との誓約により生まれた神ですが、
弁財天ともされ、水の守護神・航海の神として、
あるいは芸能・商売の神様として、
池の中に祀られることも多い人気の神です。


狭井神社の境内では鎮女池の中に、鎮座していました。

弁天2
鎮女池と市杵島姫神社

大神神社から狭井神社への参道に磐座神社(少彦名)が祀られています。

社殿はなく、小さな石を神体とする神社です

この場所は三輪山の山麓で、狭井神社へ続く「くすり道」でもあり多くの薬草が植えられており
薬の神様である少彦名を小さな辺津磐座に見立てて祀ったものです。

磐座1
磐座神社1


三輪山には沢山の磐座があるそうですが、
それぞれの磐座には先住民たちの神が降臨されるそうです。

*山頂では奥津磐座に大物主
*中腹では中津磐座に大己貴
*山麓では辺津磐座に少彦名

先住民の人々は、大和湖の周辺の陸地で稲作をして平和に暮らし、
収穫にあたっては銅鐸の鐘の音を聴きながら神に感謝しました。 

そして祭祀にあたっては、大和湖の細波がうち寄せる麓の辺津磐座(へっつ)から
中腹の中津磐座を経て、頂上の奥津磐座に至り、太陽に祈りを捧げて豊作を祈りました。

磐座2
磐座神社2



大神神社の参道⑱志貴御縣坐神社

大神神社の参道⑱志貴御縣坐神社(桜井市・金谷)に関する記事です。

志貴御県坐神社はJR桜井線の三輪駅の東800m,
大神神社の南に位置します。

志貴御県坐神社は大和国・城上郡鎮座・月次新嘗と記される式内大社です。

祭神:饒速日命

志貴連の祖神である饒速日命とする説、あるいは大己貴命とする説があります。


志貴御縣坐神社1
志貴御縣坐神社の鳥居


志貴御縣坐神社(しき・みあがた・にます)と読み、
大和の国の六社の御県坐神社の一社です。


御縣坐神社は皇室の御料地であり、朝廷に献上する為の野菜を栽培する神聖な菜園の霊を神として祀る神社です。

注ー1)大和六御県神社とは、高市葛木十市志貴山辺曾布(添)

志貴御縣坐神社2
志貴御縣坐神社の拝殿

磯城氏(しき)は、記紀に登場する大和国の最古の豪族です。

その磯城(しき) 氏の本拠地に現在の志貴御県坐神社があり、
更に、この地に10代崇神天皇・磯城瑞籬宮跡(しき・みずがき)の碑があります。


志貴御縣坐神社3
志貴御縣坐神社の本殿

神武天皇は東征の折り、長髄彦(ながすねひこ)との戦いで苦戦しました。

賀茂建角身命(たけつのみ)が化身した八咫烏の道案内で熊野から北上しますが、
磯城の地では、兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の兄弟が立向かいます。


しかし兄磯城は神武天皇と戦って殺され、弟磯城は天皇に服従を誓い、
許されて磯城の県主(あがたぬし)に任ぜられました。


志貴御縣坐神社4
志貴御縣坐神社の磐座

その後の弟磯城は磯城氏を更に強大な豪族にし、
大王(天皇)に数々の后を送り込みました。

そういった理由で瑞籬宮(みずがきみや)も、磯城で営まれたのでしょう。

瑞垣宮1

磯城瑞籬宮跡(しき・みずがき)の碑



瑞垣宮2
磯城瑞籬宮跡(しき・みずがき)の説明板



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穴師坐兵主神社の参道⑤珠城山古墳群(桜井市・穴師)

穴師坐兵主神社の参道⑤珠城山古墳群(桜井市・穴師)に関する記事です。

珠城山古墳群(たまき)はJRの桜井線・巻向駅の東600m程にある
古墳時代後期に属する三基の前方後円墳から成る古墳群です。
 
珠城山古墳群1
珠城山1号墳

三基の古墳はいずれも6世紀の後半の築造で、沢山の副葬品を出した古墳です。

3号は消滅してしまい、1号・2号墳は国の史跡に指定されていますが、
その1号に登り撮影してきました。

珠城山1号墳は全長約50m、後円部の径20mのサイズです。
古墳時代後期になると後でメンテし易い横穴式石室が主流になりますが、
後円部に開口する横穴式石室は三枚の天井岩で覆われていました。

発掘当時、石室の中央には石棺が置かれ、
棺内には遺骨の一部と琥珀・ナツメ製の玉類、
棺外には奥壁ぞいに須恵器・土師器、
棺の東側には馬具・太刀、
棺の西側では甲冑のほか見事な馬具が見つかったそうです。


珠城山古墳群2
珠城山1号墳の横穴式石室


偶然ですがこの石室の中にあった石棺が、橿原歴史博物館の庭に展示してありました。

珠城1号古墳(組合せ式石棺)
珠城山1号墳の石棺(橿原歴史博物館の庭に展示)

珠城山古墳から出土した馬具の飾り板です。
左の鏡板は馬の額に付け、右の杏葉(ぎょうよう)は馬の尻部に付けます。
馬にもこんな立派な飾りを沢山付けたのだから、すごいものですね。

杏葉(ぎょうよう)
馬具の飾り板(橿原歴史博物館・レプリカ)

馬の尻部に杏葉(ぎょうよう)を付けたサンプルの展示品です。

杏葉(ぎょうよう)2
杏葉(ぎょうよう)を付けた馬の尻部(樫原歴史博物館)


石室の周囲を見ると、お稲荷さんが2社あり古墳のお守りをしていました。



珠城山古墳群4
古墳を守るお稲荷さん

墳丘の頂上から見た景行天皇陵(長さ310m,幅170m)は、
この古墳の50倍以上の面積となりますが、
周囲の田園風景に溶け込んでとても見事でした。


珠城山古墳群5
墳丘の頂上から見た景行天皇陵


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大和神社の参道③水口神社(天理市・渋谷町)

大和神社の参道③水口神社(天理市・渋谷町)に関する記事です。

祭神:大水口宿禰(おおみなくち・すくね)


水口神社(みなくち)は上ノ山古墳の下部の杜に隠れるように鎮座している式内社です。


水口神社1
水口神社の鎮座する杜



大水口宿禰は物部氏系列の人物で、
饒速日尊(にぎはやひ)・伊香賀色雄(いかがしこお)の子孫で、穂積臣の先祖です。


*伊香賀色雄⇒崇神天皇の命で大神神社や石上神宮を建立
*穂積臣⇒物部氏と同族とされ、七世紀頃、穂積の姓を受領




水口神社2
水口神社の鳥居


大水口宿禰は夢で重要な御神託を受けて、大神神社や大和神社の創祀に関係しました。


①大物主大神が現れて大田田根子を祭主とするようお告げ⇒大神神社の創祀
②長尾市(ながおち)を倭大国魂神の祭主とするようお告げ⇒大和神社の創祀


水口神社3
水口神社の拝殿

大水口宿禰と全く同じ夢で①②の御神託を受けた者に卑弥呼がいます。
正式名は倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひももそ・ひめ)ですが、とても難しい名前で、
このブログでは、卑弥呼と呼ぶことにします。

箸墓古墳も卑弥呼の墓と仮定して、話を進めますのでご了承下さい。



水口神社4
水口神社の本殿

水口神社が鎮まる上ノ山古墳は景行天皇陵の陪塚(ばいちょう)で柳本古墳群を構成しています。

この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろと推定されています。

上の山古墳
景行天皇陵の陪塚(ばいちょう)上ノ山古墳



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石上神宮の境内①神田神社(天理市・柿之内町)

石上神宮の境内①神田神社(天理市・柿之内町)に関する記事です。

ご祭神:高倉下(たかくらじ)


神武天皇は東征中、熊野で毒気に中てられ、体が動かなくなり最大の危機が訪れます。
そういう死直前の状態を古代では意恵(おゑ)と表現するそうです。


しかし、高倉下が御神託により入手した神剣・布都御魂(ふつ)を神武天皇に渡すと、
天皇は目を覚まし、その大刀で荒ぶる神の邪気を払いました。
剣の威力で皆は意識を取り戻し、また戦えるようになりました。



神田神社1
神田神社



高倉下が受けた御神託とは、
建御雷神(たけみかづち)が夢に現れ、
「下界(日本)平定の手助けのために神剣を下す」というものでした。

朝起きると、本当に倉に剣が置いてあったため、それを神武天皇に献上しました。
この剣は布都御魂ともいい、石上神宮に祀られています。



神田神社2
烏帽子岩






石上神宮の参道①白山神社(天理市・柿之内町)

石上神宮の参道①白山神社(天理市・柿之内町)に関する記事です。

ご祭神:菊理姫命 
配祀 :伊邪那岐命、伊邪那美命


菊理媛(くくり)は伊邪那岐命を追ってきた伊邪那美命を説得して黄泉の国へ返し、
現世の秩序を守った神様です。


白山1
白山神社(柿之内町)の由緒


山の辺の道・奈良県には沢山の白山神社があり当社もその一社です。

白山神社というと全国約三千社の白山神社の総本宮・加賀の白山比咩神社(ひめ)が有名ですが
祭神はどちらの白山神社も同じで菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命となっています。


そして九頭竜神・葛神(くずがみ)の信仰もどちらにもあり、
加賀の白山神社創建も崇神天皇7年とか・・・・


加賀と奈良、どちらの白山神社が古いのかは私には判りません。



白山2
白山神社(柿之内町)の鳥居と拝殿


主祭神の菊理媛は控えめではありますが日本書紀に登場する女神のひとりです。


天地が創造されたころ、高天原に、次々と神々が生まれ、
最後に現れたのが、伊邪那岐命、伊邪那美命でした。


この男女の二神の使命は、国土を誕生させる「国生み」と、
地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」でした。


白山3
白山神社(柿之内町)の本殿


伊邪那美命が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、
悲しんだ伊邪那岐命は、黄泉の国へ妻を迎えにいきます。

ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊邪那岐命は逃げ出してしまい、
怒った伊邪那美命は夫の後を追います。


黄泉の国との境界で争う二神の前に登場するのが菊理媛で、
伊邪那岐・伊邪那美の仲裁をして、伊邪那美は黄泉の国に帰ります。


この世の秩序は守られ、伊邪那岐は禊をして天照大神、月読尊、須佐之男尊を生むことになります。



白山4
白山神社(柿之内町)の苔生す境内


菊理媛はの「くくり」は「括る」にもつながり、
現在は「和合の神」「縁結びの神」としても信仰されています。



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大神神社の参道⑳玉列神社(桜井市・慈恩寺)

大神神社の参道⑳玉列神社(桜井市・慈恩寺)に関する記事です。


祭神:玉列王子神
配祀:天照大神、春日大御神


玉列神社(たまつら)と呼び、三輪山南麓に鎮座する大神神社の境外摂社です。


近鉄の大和朝倉駅から歩いて来ましたが、地元の方がわざわざ車を止めて、
地図を見ている私に道順を教えてくれました。

参道入口には大きな看板があり、迷うことはありません。

玉列1
玉列神社の看板


看板の場所を三輪山の方に少し登った場所に玉列神社の鳥居と階段があります。


玉列2
玉列神社の鳥居と階段


祭神の玉列王子は大物主神の御子で、拝殿に続く階段の途中に誕生石があります。


この誕生石は玉列王子に因んで、子宝石として親しまれ、
この石を廻りながら「ヘイチョウ カイチョウ・・・」と三度唱えれば
元気で健やかな子を授かるそうです。



玉列5
誕生石


誕生石から更に階段を登りつめると、小高い丘に拝殿・本殿・末社があります。



玉列3
玉列神社の拝殿

一番高い場所に鎮座する玉列神社の本殿です。

玉列4
拝殿から本殿


玉列神社は玉椿大明神とも呼ばれる初瀬川最古の神社で、
3月には椿祭りが行われるそうで、華麗な割りに人も少なそうで是非またお参りしたい神社です。


絵馬
椿の絵馬




つばき2112



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<境内末社>

拝殿の奥に3社が並んでおり、向って右から
金山彦神社・猿田彦神社・愛宕神社が整然と並んでいます。


玉列6
金山彦神社・猿田彦神社・愛宕神社


入り口の鳥居の横にある寺院は、かつての神宮寺・慈恩寺の阿弥陀堂です。

慈恩寺はこのあたり一体の地名でもあり、奈良時代から南北朝の頃までの広大な寺院です。
南北朝の争乱によって廃寺となり、阿弥陀堂のみとなりました。

玉列7
かつての神宮寺・慈恩寺の阿弥陀堂



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穴師坐兵主神社の参道⑱景行天皇陵(天理市・渋谷)

穴師坐兵主神社の参道⑱景行天皇陵(天理市・渋谷)に関する記事です。

先代:垂仁天皇
次代:成務天皇

景行天皇陵というタイトルで記事を書かないとなりません。

10代崇神⇒11代垂仁⇒12代景行とありそれぞれの墓の概要を記載してみました。


御陵名 :崇神天皇陵
築造:4世紀前半
サイズ:全長242m 高さ23m
崩御:120歳


御陵名 :垂仁天皇陵
サイズ:全長227m 高さ16m
築造:5世紀前半
崩御:140歳


御陵名 :景行天皇陵
サイズ:全長310m、高さ23m
築造:4世紀後半
崩御:143歳



景行天皇陵1
景行天皇陵

古代の天皇は何人かの天皇を一人の天皇として、
まとめ上げるという手法を使って記載しています。

このため崩御年齢はとても高齢となり、厳密には誰の古墳とも言えません。


しかし古代史を一人で歩き始めた私にとって、
それぞれの天皇に比較的近い時代、活躍した場所に天皇陵を設定してもらい、
当時をイメージする上で貴重な財産です。


事実、景行天皇陵を見ながら山の辺の道を歩いた時は、
熊襲や蝦夷と戦う景行天皇や日本武尊が現れましたし、
景行天皇陵は古事記にも「御陵は山邊の道上にあり」と記載されているそうです。

歴史は自分の脳裏にイメージできれば実在するし、活動しているのです。




景行天皇陵2
景行天皇陵


このブログでは景行天皇の記述は少ないですが4回ほど登場しました。


巻向・日代宮(ひしろ)に暮らしました。
*景行天皇の息子に日本武尊(やまとたける)がいます。
*景行天皇の第四皇子(成務天皇)が生まれた時、走井を産湯とします。
*孫に仲哀天皇(ちゅうあい)、その嫁に神功皇后がいます。


今回私が今回新たに景行天皇に関し理解したことは、息子の日本武尊と同じように
九州征伐や東征に天皇自ら出陣し、大和朝廷の領地拡大のため、
戦いに明け暮れた生涯を送ったことです。


熊襲梟帥(くまそたける)との戦いに勝利すると、
神武天皇の生まれ故郷の日向の地に6年とどまり、翌年に巻向の日代宮に戻ったそうです。


景行天皇陵3
景行天皇陵

景行天皇陵から棺内で遺体の頭を載せる石枕が出土したと伝えられています。
橿原歴史博物館にありましたがまだ解説はありません。
鋸歯文というギザギザの文様が入った碧玉製の石枕です。

石製枕
景行天皇の石枕(死者の枕)

大神神社の参道⑨天皇社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑨天皇社(桜井市・三輪)に関する記事です。

祭神:崇神天皇(すじん)


崇神天皇は開化天皇と伊香色謎命(いかがしこめ)の間に生まれ、
3世紀から4世紀初めにかけて初期の大和朝廷の基盤を築いた第10代の天皇です。



天皇1
天皇社へ続く階段

崇神天皇に関しブログで書いたことを箇条書きにし、頭の整理してみます。


●三輪山麓の磯城・瑞籠宮(しき・みずがき)を都とし、初期の大和朝廷の基盤を築きました。
●物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、
大神神社石神神宮を創建しました。

●堺・陶器村の大田田根子を見つけ大神神社の神主にしました。

豊鍬入姫命に命じて,宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑遷宮しました。

渟名城稚姫(ぬなきいり)に倭大国魂神を祭るように指名します。

●衰弱した渟名城稚姫に,代わって長尾市が祭るように変更しました。

●お酒造りの名人・高橋邑の活日(いくひ)を呼んで掌酒(さかびと)にしました。。

●大和への服従を示す証として出雲に神宝を献上させます。

●支配圏を拡大するため、全国に四道将軍(しどうしょうぐん)を遣わしました。


天皇2
小高い丘に鎮座する天皇社

こうして整理してみると、神武天皇は戦い、祟神天皇は政治に関しての大和時代のことが集約して記載されているのが良くわかります。

いつの時代でも、どの王国でも、戦争⇒政治⇒腐敗の流れは不変ということでしょうか。

大神神社の参道⑪神御前神社(桜井市・茅原)

大神神社の参道⑪神御前神社(桜井市・茅原)に関する記事です。


神御前神社は三輪駅から桜井線に沿いに北へ15分程歩いた茅原(ちわら)にある、
ご神体である三輪山の御前に鎮座する社です。


祭神:倭迹迹日百襲姫(やまと・とと・ひ・ももそ)


百襲姫は第七代考霊天皇の皇女で、得意の鬼道を用いて崇神天皇の政治を助けました。
また百襲姫の墓所は箸墓古墳で卑弥呼の墓として広く知られています。


神御前神社

神御前神社


鎮座地の茅原(ちわら)は神浅茅原(あさじがはら)と言われ、
崇神天皇が三輪山を拝みながら八百万の神々を招いて占いをした場所です。


もちろん占いを実際に担当したのは、別名で浅茅原目妙姫とも言われる百襲姫です。



神御前神社1
妻の百襲姫(神御前神社)と夫の大物主(三輪山)


『日本書紀』では百襲姫は大物主の妻となりますが,
その正体が蛇と知り驚いてしまい夫の怒りをかいます。
それを後悔して、箸で陰部を突いて死に、姫の墓は箸墓と呼ばれます。


御陵名 :箸墓古墳
サイズ:全長278m、後円部径150m・高さ30m
築造 :3世紀中頃
被葬者:倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼説有)
特徴 :前方部が撥形
参考:卑弥呼の没年(248年頃)と近い頃に築造



箸墓古墳1
箸墓古墳


箸墓
箸墓古墳


倭迹迹日百襲媛命は、武埴安彦命(たけはにやすひこ)の乱も予見し、
祟神天皇を助けています。

四道将軍の大彦命は北陸への出陣の道中で不吉な歌を唄う少女に会います。

 
 ♪ 御間城入彦(崇神天応)はよ ♪♪
 ♪ 殺されようとしているのに気づかず 姫遊びをしているよ ♪♪


引き返してこのことを報告、崇神天応の叔母に当たる倭迹迹日百襲媛命に占わせたところ、
武埴安彦命とその妻の吾田姫(あた)の謀反を告げるものと判明します。


果たして実際に謀反が起こると、大彦命は彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、
吾田媛は吉備津彦命が鎮圧しました。


この武埴安彦命の乱では戦地の木津川は死者で溢れたそうで、
500年も後の称徳天皇(718~770)の時、
戦死者の霊を弔うため祝園神社(ほうその)を京都府相楽郡に創始しているほどです。



箸墓古墳2
箸墓古墳拝所


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穴師坐兵主神社の参道⑮黒塚古墳(天理市・柳本町)

穴師坐兵主神社の参道⑮黒塚古墳(天理市・柳本町)  に関する記事です。

黒塚古墳は、周濠と思われる池に浮かぶような美しい前方後円墳で、
三角縁神獣鏡が33面も出土し、国内最多として知られます。


黒塚古墳1
池に浮かぶ黒塚古墳


御陵名 :黒塚古墳
サイズ:全長130m、後円部径72m・高さ11m
築造 :3世紀末
被葬者:不明
特徴:撥形前方後円墳

黒塚古墳1
後円部の墳丘への階段


後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、8.3m×0.9m×1.7mもある大型サイズです。
この石室内には、全長1メートルの木棺が納められていましたが朽ちてました。

高さが11mもあるため、眺望も抜群で、しばし古代の山の辺に思いが走りました。


黒塚古墳2
長さ8mもある大型の竪穴石室


黒塚古墳展示館ではこの大規模な石室を原寸大で再現していました。


この石室は私が今まで見た石室とは違い、天井と呼ぶべき部分がなく、天井石がありません。

掌式と呼ばれる形態で、石室を構成する壁の下部は川原石を垂直に積み上げ、
上部は板石を徐々に内側にせり出しながら、上端で左右の壁が互いに接するまで積み上げています。


石室壁面が赤く塗られていますが、これははベンガラと呼ばれる塗料で魔よけの意味があるそうです。


石室1
石室の実物大模型


この石室が中世に起きた大地震で崩壊し、大量の板石が底部に落下して埋め尽し、
盗掘者がとても副葬品を掘出せずに、諦めた形跡があるそうです。


このお陰で、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、
副葬当時のまま未盗掘の状態で発見されました。

合成
33面の三角縁神獣鏡の一部


過去最多と言う、33面もの三角縁神獣鏡は棺外を守るように両側に配列されていました。



石室2
棺外を守る三角縁神獣鏡


三角縁と言うのは鏡の縁の断面が三角形で、
神獣鏡というのは、鏡の裏面の模様に神と獣が数個成形されたものを言います。


下の神獣鏡は上下に神がそれぞれ2体、
左右に獣がそれぞれ2体成型されているので二神二獣鏡と言います。


神獣鏡2
二神二獣鏡


たった1枚しかない画文帯神獣鏡は、石室の真ん中に立ててある小さな鏡です。


棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われており、
棺内で埋納者の頭部に置かれ、何らかの呪術な意味があったと思われます。

画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡



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穴師坐兵主神社の参道②他田坐天照御魂神社(桜井市・太田)

穴師坐兵主神社の参道②他田坐天照御魂神社(桜井市・太田)に関する記事です。

祭神:天照御魂(あまてる・みたま)


他田は「おさだ」と読む地名です。
他田坐天照御魂神社とは、他田に鎮座して天照御魂をお祭りする社という意味です。


天照御魂(あまてる)は「天照大神の魂」かな?と思っていましたがどうも違うらしい。
天照大神が成立するよりもっと昔、弥生時代の太陽の神さま、と理解しました。


他田天照御魂神社1
他田坐天照御魂神社


天照御魂は天火明命(あめのほあかり)とか天照国照彦火明命とか、
様々な呼び名がありますが、その中に饒速日命(にぎはやひ)も入っています。


おそらく弥生時代にそれぞれの村で、太陽神に別々の名前をつけて信仰していたものを
後世にまとめて天照御魂と一括りにしたのでしょう。

物部氏の先祖の饒速日命も、弥生時代の早期に降臨されていたので、
太陽神と関っていたのでしょう。


他田天照御魂神社2
天照御魂神社と刻まれた石碑


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●太田は日読みの地


他田坐天照御魂神社の太田地区は、巻向最古の纒向石塚古墳や、
大型建造物跡が発見された纒向遺跡の中枢部にあたります。
共に卑弥呼が活躍した三世紀前半に建造された施設です。


天照御魂神社のある太田の地から見ると日の出は立春・立冬には三輪山山頂に上がり、
太陽観察(日読み)の地であったとされています。


地図を見ると、纒向遺跡から出土した大型建物や纒向石塚古墳も
三輪山との直線上にあり、どこからでも立春・立冬には太陽が三輪山山頂から昇ることが判ります。


これらの施設で、太陽を観測し、日読みの祭祀を行っていたと思われますし、
立春・立冬の日には、皆で墳丘の上から、三輪山に昇る朝日を見ていたのかも知れません。


他田居天照御魂
立春・立冬には三輪山山頂から太陽が昇る


石塚古墳1
巻向最古の纒向石塚古墳



他田天照御魂神社4
天照御魂神社と同じ場所にある纒向遺跡中枢部


巻向1
纏向遺跡中枢部から出土した大型建物

石塚古墳からは太陽祭祀に用いられたと考えられる朱塗の鳥形の板や
不思議な文様の弧文円板も発掘されています。


高い柱も発掘されており、円板や鳥形板を飾り付けて日読みの祭祀を行っていたのかも知れません。


鶏は太古から暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされています。


卑弥呼は中国での標記ですが、現在の日本では日巫女(ひみこ)と標記し、
太陽に仕える巫女、と考える説も良く理解できます。


卑弥呼1
鳥形の祭祀道具


卑弥呼2
弧文円板
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●大田という地名(『三輪山の古代史』参照)


天照御魂神社は太田公民館の隣にありますが、
太田という地は創世記の日本を知る上で重要な地名だそうです。


*纒向遺跡は大田遺跡ともいわれる地名です。
*大田田根子は堺の大田から呼ばれて大物主を祭りました。
*呉越の呉の国から勝氏(すぐり)が日本に来て、紀伊・摂津三島・播磨揖保に大田村を残している。
(播磨国風土記)
*勝氏は秦氏のもとで使え、勝部集団を使い水田開発し、大田という地名を日本各地に残した。
*桜井市の纒向遺跡も勝氏が関った遺産かも知れない?

他田天照御魂神社3
太田公民館の隣にある天照御魂神社


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●関西の天照御魂を祀る神社

関西には坐天照御魂神社は四社あり、他田坐天照御魂神社もその一社でした。

木嶋坐天照御魂神社(京都府・太秦)
他田坐天照御魂神社(奈良県・桜井市)
鏡作坐天照御魂神社(奈良県・磯城郡)
新屋坐天照御魂神社(大阪府・茨木市)

大和神社の境内②祖霊社(天理市・新泉町)

大和神社の境内②祖霊社(天理市・新泉町)に関する記事です。

大和神社は戦艦大和ゆかりの神社でもありまあす。
祖霊社には、戦艦大和が沖縄の海で撃沈した時の、殉死者2736名の御魂が合祀されています。


祖霊社1
祖霊社


奈良時代、遣唐使は出発に際し、大和神社で航海の安全を祈願しました。
そういった縁から戦艦大和には、大和神社の祭神の分霊が祀られていました。


戦艦大和
戦艦大和記念塔

戦艦大和の長さは大和神社の参道と同じ270m、
幅は参道の5倍の40mです。


戦艦大和

穴師坐兵主神社の参道⑧茅原大墓古墳(桜井市・茅原)

穴師坐兵主神社の参道⑧茅原大墓古墳(桜井市・茅原)に関する記事です。

茅原大墓古墳(桜井市・茅原)はJR桜井線の北1kmにある三輪山麓の古墳です。 

<茅原大墓古墳>

富士神社・厳島神社から茅原の集落を300m程北へ向うと
いきなり集落が終わり、民家と接して茅原大墓古墳が出現します。


サイズ:全長86m、後円部径72m・後円部高さ8m
タイプ :帆立貝形古墳(前方部が極端に短い)
築造   :370年前後
被葬者:倭佐保姫と伝承


注1)帆立貝形古墳とは一応は前方後円墳ですが、前方の矩形部分がとても小さく帆立貝の様。
   初期古墳時代に多い。

大墓古墳1
茅原大墓古墳

伝説の被葬者・倭佐保姫は垂仁天皇の妻で、
政権に反逆の軍を起こした兄の佐保彦との狭間で苦悩し、
最後は兄のもとへ走り一緒に焼け死んだ悲劇の姫です。

出土品には「盾持人埴輪」があり、編笠形の兜に、盾を構えた兵士の埴輪です。
人を形どった埴輪としては、最古のものとのことです。

盾持ち埴輪
盾持人埴輪1

盾持ち埴輪としては一番古いもので、この首長が初めて人物埴輪を生み出した関係者と考えられています。

盾持ち埴輪2

盾持人埴輪2

茅原大墓古墳が造成された4世紀末は、大和王権が大阪平野に移動した時期で、
王権発祥の桜井の勢力が一気に衰退した時期です。


茅原大墓古墳を最後にこの地域では100m級の古墳は造られておらず、
時代遅れの帆立貝形であることから豪族か祭祀関係者の墓かも知れません。


大墓古墳4
墳丘からの茅原集落と三輪山

墳丘には発掘調査で木や草が無く眺望抜群で、
連山や古墳群を見ながらの休憩に最高の場所です。

墳丘の西側の溜め池は、周濠の名残と推定されています。

大墓古墳3
周濠の名残とされる溜池



石上神宮の参道②白山神社(天理市・守目堂町)

石上神宮の参道②白山神社(天理市・守目堂町)に関する記事です。

祭神;伊邪那美命


奈良県で白山の名を持つ神社は22社、そのうち天理市には4社があるそうで、
杣之内庄町・吉田町・園原町・守目堂町 です。

白山神社1
白山神社・守目堂の社標

三輪山に鎮まる大物主は大蛇と伝えられ、
大蛇は、水を司る神さまで龍蛇神です。

その関係で九頭神社(くずがみ)、葛神社、白山神社などが相当古くから祀られていたようです。


白山1
白山神社・守目堂の鳥居


守目堂町の由来は目を守ってくれる観音様がおられるので、
守目堂(もりめどう)と呼ばれたそうです。
 

白山神社3
白山神社・守目堂の拝殿


白山2
白山神社・守目堂の本殿


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<境内社>
2社ありますが、明治40年に合祀されています

①竜倉神社

御祭神:市杵嶋姫命

②剣形神社

御祭神:剣根命


剣形神社は俗に剣生大明神と呼ばれ、
合祀する前の剣形神社境内に鍵塚と呼ばれた古墳が在り、
布留社の御鍵が埋葬されていたと伝わります。


剣根命(つるぎね)とは

高皇産霊の子孫で神武天皇の時代の初代葛城国造ととされます。

葛城氏は日本最古の大豪族の1つで、
大和朝初代~5代天皇に仕えた武内宿禰の子孫とも言われます。


白山神社5
竜倉神社と剣形神社


白山神社6

石碑と石仏







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大和神社の参道④夜都岐神社(天理市・乙木町)

大和神社の参道④夜都岐神社(天理市・乙木町)に関する記事です。

夜都岐神社(やつぎ)は大和国・山辺郡鎮座とされる式内小社です。
論社には十二神社(竹之内町)、八劔神社(田井荘町)があります。

祭神:武甕槌神(たけみかづち)
合祀:經津主命(ふつぬし)・比売大神・ 天児屋根命(あめのこやね)

注ー1)比売大神は特定の神の名前ではなく、神社の祭神の妻などの女を指すそうで、ここでは天児屋根命の妻


夜都岐神社1
竜王山を背景に一の鳥居

山の辺の道沿いにあり、遠くからでも、こんもり茂る森が良く分かる神社です。
宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を開削して社殿を築きました。

その後ろの山が素晴らしく、名前が知りたかったのですが、
まさかこれが竜王山の山塊とは気づきませんでした。
竜王山の頂上から見た大和平野も良いのでしょうね。


夜都伎
中央の森が夜都岐神社

一帯は古くは乙木荘(おつぎ)と呼ばれ、興福寺一乗院の荘園でした。
そのために興福寺の氏神である春日神社を勧請したものとされ、
江戸時代までは春日神社と呼ばれていました。


夜都岐神社2
二の鳥居

春日大社と関係が深く、明治維新まで春日大社に蓮の御供えと称する御撰を奉納していたほか
春日神社からは60年毎に、若宮社の旧社殿と鳥居を下賜されていたそうです。

社名の由来については諸説ありますが、
夜都岐(やつぎ)は地名の乙木(おつぎ)の音から来ているという説があります。


夜都岐神社3
珍しい萱葺き屋根の拝殿

乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社がありましたが、
夜都伎神社の社地を約400m東南の十二神社の社地と交換し、
乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられます。


夜都岐神社4
夜都岐神社の本殿

約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、
当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われています。


夜都岐神社5
右から本殿、経津主命、天児屋根命、八坂社


夜都岐神社6
左から比賣大神、琴平社


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大神神社の参道⑯三輪恵比須神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑯三輪恵比須神社(桜井市・三輪)に関する記事です。


三輪恵比須神社のご祭神は以下の三柱です。
 
・事代主命
・八尋熊鰐神(やひろわに)
・加夜奈流美命 (かやなるみ)

 
JR三輪駅の西に位置する活気のある神社です。

恵比須1
三輪恵比須神社の鳥居

三輪恵比須神社は日本最古の市場、海柘榴市(つばいち)を守護した神様がいる神社です。

しかし、近くを流れる初瀬川に大洪水があり、海柘榴市も流されてしまいます。

その為に新たに三輪の地に市場を開き、
大行事神社から分霊し三輪の市場を守護する恵比須神社を建てました。



恵比須2
三輪恵比須神社の拝殿


そして現在でも手造り雑貨市を毎月開催し、
手作りの装飾品、雑貨品などを販売する市やイベントが盛りだくさんのようで、
桜井市駅からの大型バスが小さな神社の境内に頻繁に入り込み大盛況でした。

2月6日の初市大祭りは楽しいそうですね・・・

恵比須本殿
三輪恵比須神社の本殿



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境内社

①琴平社

御祭神:大物主命

琴平1
琴比羅神社



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大神神社の参道⑮八大龍王弁財天社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑮八大龍王弁財天社(桜井市・三輪)に関する記事です。


山の辺の道にある日本最古社・八大龍王弁財天神社の標柱から細い路地に入り、
岩坪池の淵を回って行きます。 

山側に岩坪池があり、その奥に拝殿が見えます。

龍神1
岩坪池と八大龍王弁財天社の拝殿  



拝殿は岩坪池と上池の境界をなす土手にあり、
その拝殿から、はるか先の神池の奥に鎮まる龍神神社をご参拝します。


龍神4
八大龍王弁財天社の拝殿  


龍神2

八大龍王弁財天社の拝殿



八大龍王とは、
難陀(なんだ)、娑迦羅(しゃがら)、徳叉迦(とくしゃか)、摩那斯(まなし)・・・・
の8龍王を指し、この内特に娑迦羅龍王が海や雨を司り、航海の守護神や雨乞いの本尊とのこと。




三輪山を背にして上池の畔に鎮座する龍神神社は恐ろしいくらい静かでした。

龍神5

上池の畔の龍神神社





龍神6
上池の畔の龍神神社

石上神宮の参道③神明神社(天理市・川原城町)

石上神宮の参道③神明神社(天理市・川原城町)に関する記事です。

祭神;天照大神


天理駅から東へ続く続く長いアーケードを歩くこと10分程・南側に鎮座する神社です。

石上神宮へ向う道で最初に出会った神社なのでお参りしていきました。


神徳:商売繁盛・家内安全



神明神社1
神明神社の鳥居

神明神社は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。
皇大神社・天祖神社などとも呼ばれます。


大日要命は天照大神のことで、
「伊邪那岐命、伊邪那美命の二神が大八洲国をはじめ万物を生み終えて、
最後に天の下の主として、日神を生む。これを大日要命(おおひるめ)と号し・・・・」ともあります。






神明神社2
神明神社の拝殿


神明神社3
神明神社の本殿



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大神神社の参道⑭素盞鳴神社(桜井市・三輪)

大神神社の参道⑭素盞鳴神社(桜井市・三輪)に関する記事です。

祭神:素盞鳴命


素盞鳴神社は桜井市には複数ありますが、
JR三輪駅東100mに鎮座する清楚な神社です。

通称は祇園さんと呼ばれている悪疫退散の神社で、

拝殿前に欅の巨樹が有り、境内には多くの石が在りました。



素盞鳴神社(三輪)1
素盞鳴神社・三輪の社標


素盞鳴は天照大神の弟神で、大国主の親神にあたります。
後世では祇園信仰となって悪疫退散の神様として崇められてきました。

その関係で境内には病気守護の薬師堂や歯定さんなど病気治癒の神仏が多いです。


素盞鳴神社(三輪)2
素盞鳴神社・三輪の社殿


素盞鳴神社(三輪)3
素盞鳴神社・三輪の本殿

境内には回り石という磐座が二つあって、大切に祭られていました。
三度回ってお祈りするとのことです。



素盞鳴神社(三輪)4

薬師堂と回り石




江戸時代は素盞鳴神社自体が白山神社だったそうで
この地域は、古くから加賀白山を信仰する神社も沢山ありました。


周囲の石碑は庚申、愛宕、金比羅大権現で、
歯定さんといって歯痛に効能があるそうです。


素盞鳴神社(三輪)5
白山神社と歯定さん




石上神宮の境内④天神社・七座社(天理市・布留町)

石上神宮の境内④天神社・七座社(天理市・布留町)に関する記事です。

 天神社・七座社の両社で、 国を守護して下さる宮中8神に、
罪や穢れ,禍いなどを直す大直日神(おおなおび)を併せて9座をお祀りしています。

上古から石上神宮の鎮魂祭で祀られてきた神々と伝えられています。

11月22日には石上神宮の鎮魂祭が天神社並びに七座社の例祭として斎行されます

この祭りは、饒速日の子の宇摩志麻治(うましまじ)が、
10種の神宝と鎮魂(たまふり)の神業とをもって、
神武天皇と皇后の長久長寿を祈ったことに始まる特殊神事です。

饒速日が神武天皇に倭を譲ったことを象徴する儀式で、
宮中8神の起源となったのでしょう。


<宮中8神>

宮中八神とは、天皇をはじめ、国家を守護する神々ですが、
民衆や個人も守護しているとても重要な神々です。


・高皇産霊神(たかみむすび)
・神皇産霊神(かみむすび)
・生産霊神(いくむすび)
・足産霊神(たるむすび)
・魂留産霊神(たまつめむすび)
・大宮能売神
・御膳都神(みけつ)
・事代主神


天神社1
天神社・七座社の社殿




天神社は以下の2座をお祭りしています。

高皇産霊神(たかみむすび)・神皇産霊神(かみむすび)



天神社 (2)
天神社

七座社は以下の七座をお祀りしています。

生産霊神(いくむすび)・足産霊神(たるむすび)・魂留産霊神(たまつめむすび)
・大宮能売神・御膳都神(みけつ)・事代主神・大直日神(おおなおび)


天神社 3
七座社

注ー1:宇摩志麻治

古事記での宇摩志麻治は、物部氏の祖で日本書紀では可美真手(うましまで)と表記する。
饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきや)を娶って生んだ子で、
尾張氏の祖の天香山(高倉下)の異母兄。

注ー2
:三炊屋媛

三炊屋媛は登美夜毘売、鳥見屋媛とも表記される饒速日命の妃。
鳥見は桜井市北部の外山(鳥見)茶臼山古墳のある地で長髄彦の根拠地。

外山茶臼山古墳はメスリ山古墳とともに桜井市の南部に築造された、
古墳時代初期に属する類似した巨大古墳で山の辺の道の古墳群とは一線を画します。

大和神社の境内③高おかみ神社(天理市・新泉町)

大和神社の境内③高おかみ神社(天理市・新泉町)に関する記事です。

祭神:高おかみ

大和神社の摂社で、崇神天皇が渟名城入姫に創祀させた祈雨神の総本山です。


高おかみ1
高おかみ神社の鳥居

祭神の高おかみは京都の貴船神社と同じ水を司る竜神様です。

高おかみの「おかみ」という漢字は、(雨かんむりに口を三つ、その下に龍)

おかみ

雨を司るのは、古来、龍神の成せるわざだとの信仰があり、
高おかみは正に大切な水を供給する水源の神さまです。

高おかみ2
高おかみ神社の社殿


境内の案内板より
<高おかみ神社 祈雨神祭について 全国総本社>
 
大和神社の摂社である御祭神は雨師大神即ち水神様で、
崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現親泉星山)に創祀される。
 
古来6月1日、10年に一度の大祭には、
和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。
 
先頭に丹生川上神社上社、丹生川上神社中社・丹生川上神社下社が金御幣を持ち
後尾は末社の
狭井神社が勤めた。


茅原上つ道を経て箸墓裾で休憩。

大倭柳本邑に入り長岡岬、大市坐皇女
渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。


神職は輿と共に神橋を渡り大和神社に入る。


一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯池に体を清め笠縫邑から神社へ向かう。






高おかみ3
高おかみ神社の社殿




若櫻神社(奈良県・桜井市・谷)

若櫻神社(奈良県・桜井市・谷)に関する記事です。

若櫻神社は桜井駅の南700m、
前方後円墳の後円部ともいわれる小高い丘に鎮座しています。

若櫻神社1
若櫻神社の社叢遠景

若櫻神社は大和国・城上郡(しきじょう)鎮座の若桜神社とされる式内小社です。
論社には谷の若櫻神社と池之内の稚桜神社の2社があります。

式内若桜神社には履中天皇の磐余稚桜宮(いわれ)とする説があります。

若櫻神社1-2
若櫻神社の鳥居

桜井の地名は、この谷にある「桜の井」とよばれる井戸にあるといわ れています。

日本書紀によれば履中天皇が皇后と船を磐余市磯池に浮かべて遊宴されたとき
腋上室山の桜の花弁が盃に散ってきて、不思議に思われます。

腋上室山(御所市)から桜樹を取り寄せの泉のほとりに植えて 「桜の井」とし、
皇居の名前も「磐余稚桜宮」と 名づけました。

これが今の桜井の地名の起こりであるとされています。

桜の井
桜の井(若櫻神社の北側の道の入口、若櫻神社の井戸ではない

若櫻神社の拝殿からは本殿の様子は全く伺えませんが、
若櫻神社と摂社の高屋安倍神社の社がありどちらも式内社です。

若櫻神社の祭神:伊波我加利

伊波我加利(いは・かがり)は第8代孝元天皇の長男である大彦命の後裔で、
阿倍氏の祖人です。

若櫻神社3
若櫻神社の拝殿1

西殿には式内大社の安倍氏の祖を祀る高屋安倍神社があります。

高屋安倍神社は大和国・城上郡鎮座、月次新嘗とされる名神大社です。

高屋安倍神社の祭神:屋主彦太思心命、大彦命、産屋主思命

近くに大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂の氏寺である
安倍文殊院もありこの一帯は安倍氏の本拠地です。

若櫻神社4
 若櫻神社の拝殿2

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等彌神社(奈良県・桜井市・桜井)

等彌神社(奈良県・桜井市・桜井)に関する記事です。

等彌神社(とみ)はJR桜井線桜井駅の南東約1km程に鎮座する神社です。

等彌神社は突然思いたった桜井市南部散策で遭遇した、予備知識皆無の神社でした。
以前作った地図を片手に桜井市・谷の石寸山口神社、若櫻神社と東へ巡り、
寺川を越えて鳥見山に着きました。

そこで鳥見山に沢山の社殿を配置して、
一大霊場を形成する等彌神社に遭遇し、その規模と荘厳さに驚きました。

等彌神社1の鳥居
等彌神社の一の鳥居

等彌神社の等彌は"とみ"と読み、鳥見、登美は全て同じ"とみ"です。

大和での神武軍最後の戦いで、金色の鳶が神武の弓先に止まり、
神武軍は勝利し、その地が鳶邑になり、鳥見となったとされます。

鳥見は外山(とび)で、桜井市南東の鳥見山山麓のこの地です。

しかし鳥見(登美)の地は神武天皇の土地ではなく
先住民の長髄彦・饒速日の本拠地でした。

長髄彦は登美毘古とも呼ばれ、妹の登美夜毘売は饒速日と結婚し、
物部氏の祖人である宇摩志麻治を産みました。

等彌神社2の鳥居
等彌神社の二の鳥居

等彌神社は鳥見山中に創建された二千年の歴史を有する古社で、
本殿は、元鳥見山(齋場山)にあり、天永3年(1112)、
豪雨により現在地に遷されました。

また鳥見山は、神武天皇が橿原宮に即位し、
皇祖天津神を祀って大孝を祈ったとされる建国の聖地でもあります。

等彌神社の神宝は画文帯神獣鏡(破片1/4)で、
濃いブルーの光沢を帯びた滑石製勾玉、古墳時代の鉄刀(93㎝)も所蔵しており
古代の遺跡が密集する鳥見山周辺の古墳から出土したものと思われます。


等彌神社3灯籠
等彌神社の灯籠

等彌神社は大和国・城上郡鎮座とされる式内小社で、
上津尾社と下津尾社の2つの社殿があります。

上津尾社の祭神:大日霊貴命(天照皇大神) 

以前は饒速日命を祭神としていたとされます。

等彌神社4上津尾社1
上津尾社の拝殿

等彌神社4上津尾社2
上津尾社の拝殿内部

下津尾社には八幡社(右殿)と春日社(左殿)が祀られています。

下津尾社の祭神:八幡社  神武天皇・応神天皇
             春日社 高皇産霊神・天児屋根命

等彌神社5下津尾社1
下津尾社の拝殿
 
等彌神社5下津尾社2
下津尾社の本殿(右殿が八幡社、左殿が春日社)

境内には櫻井弓張社と言う珍しい名前の末社があります。 

祭神の櫻井弓張皇女は敏達天皇と推古天皇の第七皇女で
磐余山東光寺の鎮守の神でしたが、この寺が廃寺となり当社へ遷座しました。

夜泣きの神様として信仰されており、
子供、にわとりの絵馬が奉納されています。

弓張社
櫻井弓張社


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等彌神社の参道①鳥見山(桜井市・外山)

等彌神社の参道①鳥見山(桜井市・外山)に関する記事です。

等彌神社・上津尾社の横には神武天皇の申大孝碑があります。

鳥見山は神武天皇が橿原宮で即位して東征を完了した時、
皇祖天津神を祀って大孝を祈ったとされる建国の聖地です。

♪四年春二月壬戌朔甲申 天神を祀り大孝を伸べる♪
(日本統一達成を先祖の天神に感謝して報告)

大孝の碑
神武天皇の大孝碑

上津尾社の鳥見山稲荷より鳥見山山頂へ登山道の標識があり、
往復1時間程かけて登ってきました。

鳥見山はサンコウチョウが栄巣する程の木々の繁茂する霊山で、
密かに期待した桜井茶臼山古墳を遠望することはできませんでした。

鳥見山霊畤1
鳥見山稲荷の登山道(鳥見山霊畤参道)

鳥見山は神武天皇御即位の後4年春2月鳥見の山中に
霊畤(れいじ:まつりのにわ)を立て高祖天神を祀りて
大孝を伸べ給うた大嘗祭の舞台です

大嘗祭は名実共に天皇になったことを祝う儀式ですが、
日本で最初に行われた場所が鳥見山山中の鳥見の霊畤なのです。

鳥見山霊畤2
霊畤遥拝所

鳥見山は、山全体が斎場で、山頂には祭壇状の斎場跡があり、
その途中には祭祀の饗宴場だったという庭殿(にわどの)、
注連縄をはって祭場とした白庭(しらにわ)などがあります。


♪見渡せば 大和国原ひとめにて 鳥見のゆ庭の跡ぞ知るけき♪

鳥見山霊畤3庭殿
山頂途中の庭殿歌碑

鳥見山霊畤4白庭
山頂途中の白庭碑

鳥見山霊畤5山頂2
鳥見山山頂(標高245m)

鳥見山霊畤5山頂1
山頂の霊畤碑

若櫻神社の参道⑫銅鐸(桜井市・大福)

若櫻神社の参道⑫銅鐸(桜井市・大福)に関する記事です。

銅鐸は弥生時代に祭りに使われた青銅製の鐘です。

銅鐸の出土地は、出雲から東海地方にかけて広く分布しており、
この地域には銅鐸文化圏が築かれていたとも言えます。

近畿地方を中心に島根,四国,長野,静岡の各県にいたる範囲で,
土中に埋納した状況で400個ほど発見されています。


下のジオラマは鹿を始め様々な食糧の恵みに感謝する弥生時代の祭りです。
左の人が木に小さな銅鐸を吊るして、音を鳴らし感謝のお祈りをしている処です。

大和でも神武天皇に征服される以前は、このような風景が多々見られたのでしょう。

銅鐸0
銅鐸を使った自然の恵の感謝祭


このように初期の小型の銅鐸は吊下げ部分(鈕・ちゅう)に紐(ひも)を通して吊るし、
風鈴のように内部に木や石を垂らして鳴らしました。


1世紀末には銅鐸の大型化が進み、吊下げ部分(鈕・ちゅう)が薄手で装飾的に変化します。
これは銅鐸の利用法が、「聞く」から、祭殿の床に置かれて「見る」へと変化した為です。


銅鐸2
銅鐸の変遷(大型化、聞く銅鐸から見る銅鐸へ)

桜井市立埋蔵文化財センターには展示スペースの中央に大福銅鐸が大きく展示されています。

この大福銅鐸は、中型サイズ(高さは45cm)で、桜井市の大福遺跡で1985年に出土したもので、

弥生時代末期の墓の溝に埋められていました。

大福遺跡は、桜井駅から1Km程度の近鉄・大福駅近くにある弥生時代前期から古墳時代までの集落遺跡です。


大和政権・邪馬台国(纏向遺跡)が成立する時期に、巻向にとても近い大福で丁寧に地中に埋められた銅鐸と言うことになります。

鏡祭祀を基盤とする邪馬台国が巻向に成立する以前の弥生時代に、
銅鐸祭祀を行う出雲系列の民族が大和に暮らしていたのです。


銅鐸1
大福銅鐸


この銅鐸は、大福遺跡だけでなく、日本全土から忽然と姿を消してしまいます。

現在我々が見れる銅鐸は、地中に丁寧に埋められた銅鐸ですが、
大半の銅鐸は破壊されたり、他の銅製品に作り替えられました。

これを銅鐸文化の終焉と言います。

そして、この銅鐸祭祀と入れ替わり、大和の巻向に、鏡祭祀を行う邪馬台国・古墳文化が現れます。

銅鐸4
地中に丁寧に埋められた大福銅鐸


元からこの地を開発してきた出雲系の民族は敗れ、
天皇家に繋がる勢力が桜井市の巻向に初期大和政権の邪馬台国を築きました。

倭の大乱に決着がつき、銅鐸祭祀文化は否定され銅鐸は破壊されました。

出雲系の民族が破壊されずに残った銅鐸を、
巻向に侵入してきた新興民族(神武天皇)に見つからないように埋めたのだと思います。

銅鏡
銅鐸に変わり大和に突然広まった銅鏡と巨大古墳

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