エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・四天王寺

四天王寺(天王寺区・四天王寺)

四天王寺(天王寺区・四天王寺)に関する記事です。

四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つとされる寺院で、
蘇我馬子の飛鳥寺と並び日本最古の仏教寺院とされます。

四天王寺は聖徳太子建立7大寺のひとつでもあります。

四天王寺
広隆寺(蜂岡寺)
・法隆寺(斑鳩寺)
法起寺(池後寺、尼寺)
・中宮寺(尼寺)
橘寺(聖徳太子生誕地)
葛木尼寺(和田廃寺)

日本書紀によれば推古天皇元年の593年に造営が開始されたとされ、
天王寺区、天王寺駅などは四天王寺の略称です。
 

天王寺鳥瞰図(七社文字)
四天王寺7社


四天王寺は関西に点在する聖徳太子霊跡1番に指定されています。



南大門
四天王寺南門

聖徳太子はこのブログでも多く登場していますが、主なものを列挙してみます。

①574年に橘寺で生まれる。
蘇我氏との血縁があり、関係が深かく幼少より仏法を尊びました。

②587年蘇我氏と物部氏が武力衝突を起こし、戦争になりましたが。
厩戸皇子は蘇我軍に参加し、勝利に貢献しました。

③593年に蘇我馬子が推挙する豊御食炊屋姫が最初の女帝、
推古天皇として即位すると摂政になりました。

④607年に小野妹子を使者として遣隋使を派遣します。
その国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。・・」と
記し隋の煬帝の不興を買います。

⑤622年に死去。


仁王門1
四天王寺中門(仁王門)

587年、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が勃発します。
聖徳太子はこのとき、14歳で厩戸皇子と称し、
崇仏派の蘇我氏の応援をします。

太子は、白膠木(ぬるで)の木で四天王を造り、
もしこの戦に勝利したら、四天王を安置する寺を建てる

という誓願をし、蘇我氏に勝利をもたらします。

注)白膠木(ぬるで)はウルシ科の樹木で被れる為、
仏像には滅多に使うことはありませんが
魔よけの霊木として用いたものと思われます。


4天王
聖徳太子が彫った四天王

その神仏戦争に勝利した6年後の推古天皇元年(593年)に、

聖徳太子は難波で四天王寺の建立に取りかかり、数年かけて完成します。

仁王門2
金剛力士像右

 

仁王 (3)
金剛力士像左

南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、
それを回廊が囲む「四天王寺式伽藍」といわれる形式です。


五重塔
四天王寺中心伽藍


石舞台と講堂(亀の池)
六時堂と亀の池


<関連記事>
四天王寺七宮は、四天王寺を創建した際に、その守護として周囲に造営された神社群で
暇を見て少しずつ参拝するつもりです


四天王寺の参道①
小儀神社(四天王寺・東門前)大江神社合祀
四天王寺の参道②
土塔神社(四天王寺・南門前)大江神社合祀
四天王寺の参道③
河堀稲生神社(天王寺区・大道)
四天王寺の参道④
久保神社(天王寺区・勝山)
四天王寺の参道⑤
大江神社(天王寺区・夕陽丘町)
四天王寺の参道⑥
堀越神社(天王寺区・茶臼山町)
四天王寺の参道⑦
上之宮神社(天王寺区・上之宮町)大江神社合祀
四天王寺の参道⑧
今宮戎神社(浪速区・恵美須西)
四天王寺の参道⑨
廣田神社(浪速区・日本橋)
四天王寺の参道⑩願成就宮(守屋祠):毎月21日開門
四天王寺の参道⑪
愛染堂・勝鬘院(天王寺区・夕陽丘町):しょうまん
四天王寺の参道⑫
五條宮(天王寺区・真法院町)
四天王寺の参道⑮松虫塚(阿倍野区・松虫通)
四天王寺の参道⑯阿倍王子神社(阿倍野区・阿倍野)
四天王寺の参道⑰安倍晴明神社(阿倍野区・阿倍野)
四天王寺の参道⑱松長大明神・安倍寺跡(阿倍野区・松崎)


四天王寺の参道⑤大江神社(天王寺区・夕陽丘町)

四天王寺の参道⑤大江神社(天王寺区・夕陽丘町)に関する記事です。

大江神社は聖徳太子が祀られたの四天王寺鎮守の7社の一社です。

現存する大江神社と堀越神社は四天王寺の西・谷町筋に、
河堀稲生神社と久保神社は四天王寺の東・上町筋にあり
四天王寺の周囲を守護しています。

<四天王寺7社>

四天王寺の参道①小儀神社(四天王寺・東門前)大江神社合祀
四天王寺の参道②土塔神社(四天王寺・南門前)大江神社合祀
四天王寺の参道③河堀稲生神社(天王寺区・大道)
四天王寺の参道④久保神社(天王寺区・勝山)
四天王寺の参道⑤大江神社(天王寺区・夕陽丘町)
四天王寺の参道⑥堀越神社(天王寺区・茶臼山町)
四天王寺の参道⑦上之宮神社(天王寺区・上之宮町)大江神社合祀 


天王寺鳥瞰図(七社文字)
四天王寺と四天王寺7社

祭神:豊受大神
合祀:素盞嗚尊、欽明天皇

四天王寺の乾(西北)に位置しているところから、
江戸時代には「乾社」と呼ばれたり、
毘沙門天を祀っていたので、「毘沙門堂」などとも呼ばれていたそうです。


大江神社1
大江神社の鳥居

明治40年(1907)には、
上之宮神社(祭神:欽明天皇)・小儀神社(祭神:素戔嗚尊)・
土塔神社(祭神:素戔嗚尊)が大江神社へ合祀されました。

上之宮神社は九十九王子の4番目の上野王子で知られる神社で,
祭神の欽明天皇は継体天皇の子で、推古天皇の父にあたります。


大江神社3
大江神社の拝殿


大江神社5
大江神社の本殿

大江神社には狛虎があり、その後ろにタイガースの優勝祈願が書かれた
虎マークのメガフォンや帽子が奉納されていました。

狛虎は新造したばかりのピカピカのものだったので、
参拝客目当てに近年考えられたものと思っていました。

ところが狛虎の由来はわかりませんが、300年以上前からあったそうで、
昔の狛虎は毘沙門天を守護していたそうですが、近年風化が酷く新造したそうです。


大江神社7
阪神タイガーズの守護神・狛虎

手水舎には虎の仲間の三毛猫がいて大江神社を守護していました。
狛三毛とでも呼ぶのでしょうか、
手水舎の水を美味しそうに飲んで撮影にも気持ちよく応じてくれました。


大江神社7-5
大江神社の守護神・三毛猫

大江神社は夕陽丘町にありますが、
「夕陽ヶ丘」という地名も歴史のある地名のようです。
その昔、この台地の西側に海がせまり、茜色に染まった夕日が沈む美しさに
「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったとか・・・・

当神社の社名も大江岸に続いた社地であったところから大江神社となったそうです。
多くの人が夕日の海に臨み、歌を詠んでいますが、
藤原家隆も、夕陽庵を設けて晩年を暮らし、「夕陽ヶ丘」の地名となったそうです。

ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも  (藤原家隆)


大江神社8
「夕陽ヶ丘」歌碑


四天王寺の参道⑥堀越神社(天王寺区・茶臼山町)

四天王寺の参道⑥堀越神社(天王寺区・茶臼山町)に関する記事です。


堀越神社は聖徳太子が祀られたの四天王寺鎮守の7社の一社です。

現存する大江神社と堀越神社は四天王寺の西・谷町筋に、
河堀稲生神社と久保神社は四天王寺の東・上町筋にあり四天王寺の周囲を守護しています。

<四天王寺7社>
四天王寺の参道①小儀神社(四天王寺・東門前)大江神社合祀
四天王寺の参道②土塔神社(四天王寺・南門前)大江神社合祀
四天王寺の参道③河堀稲生神社(天王寺区・大道)
四天王寺の参道④久保神社(天王寺区・勝山)
四天王寺の参道⑤大江神社(天王寺区・夕陽丘町)
四天王寺の参道⑥堀越神社(天王寺区・茶臼山町)
四天王寺の参道⑦上之宮神社(天王寺区・上之宮町)大江神社合祀

天王寺鳥瞰図(七社文字)
四天王寺と七鎮守社

祭神:崇峻天皇
配祀:小手姫皇后、蜂子皇子、錦代皇女

堀越神社は推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、
聖徳太子が叔父の第32代・崇峻天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられます。

堀越という名は、明治の中期まで境内にあった
堀を越えて参詣したことに由来します。

堀越神社2
堀越神社の鳥居

祭神の崇峻天皇は欽明天皇の皇子で、神仏戦争に勝利し政治権力を持った
蘇我馬子と対立し暗殺されてしまいます。

史書では崇峻天皇が献上された猪の目を刺し、
「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と
発言したとされます。

このことで、馬子が自分が殺されると警戒し、
東漢駒に暗殺させたと記録されているそうです。

実際には大和朝廷の権力者たちの多くが、
継体天皇の血縁者の政治がこれ以上続くのを望まなかったのかも知れません。

堀越神社3
堀越神社の注連縄柱

藤ノ木古墳には、成人男性2人が合葬されていました。
被葬者は穴穂部皇子と崇峻天皇との説もあり
二人とも馬子に暗殺された真の兄弟です。

蘇我馬子は次々と政権のライバルを殺し、孫の推古天皇を擁立し、
馬子と聖徳太子の二人で政治を行い、蘇我氏の権力を強固なものにします。

堀越神社4
堀越神社の拝殿

堀越神社の配祀神の小手姫皇后(小手子)は崇峻天皇の妻で、
蜂子皇子と錦代皇女は崇峻天皇と小手姫皇后の皇子と皇女です。

蜂子皇子、小手姫皇后・錦代皇女ともに蘇我氏から逃れて東北に脱出します。
蜂子皇子は出羽の文化、産業の始祖として活躍され、
出羽三山の開祖となって現代でも出羽の人たちを中心に信仰されています。

小手姫皇后は同じ東北の福島県川俣町を安住の地とし、
皇后時代に培った養蚕の技術を福島の民達に教え伝え
産業・文化の発展に貢献されました。

小手姫伝説では、その後小手子は、錦代皇女を亡くし、
蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、
川俣町大清水にある清水に身を投げたと伝えられます。

堀越神社7茶臼山古墳
聖徳太子が堀越神社を建てた茶臼山

堀越神社の境内には熊野九十九王子の第一王子之宮があります。

当初は京阪天満橋駅前の八軒家船着場に鎮座していた
窪津王子堀越神社の境内に遷座したものです。 

熊野詣の開始にあたり旅の安全を祈願する宮でした。


熊野第一王子之宮
窪津王子


四天王寺の参道③河堀稲生神社(天王寺区・大道)

四天王寺の参道③河堀稲生神社(天王寺区・大道)に関する記事です。

河堀稲生神社(こぼれいなり)は聖徳太子が
祀られたの四天王寺鎮守の7社の一社です。

現存する大江神社と堀越神社は四天王寺の西・谷町筋に、
河堀稲生神社と久保神社は四天王寺の東・上町筋にあり、
四天王寺の周囲を守護しています。

<四天王寺7社>

四天王寺の参道①小儀神社(四天王寺・東門前)大江神社合祀
四天王寺の参道②土塔神社(四天王寺・南門前)大江神社合祀
四天王寺の参道③河堀稲生神社(天王寺区・大道)
四天王寺の参道④久保神社(天王寺区・勝山)
四天王寺の参道⑤大江神社(天王寺区・夕陽丘町)
四天王寺の参道⑥堀越神社(天王寺区・茶臼山町)
四天王寺の参道⑦上之宮神社(天王寺区・上之宮町)大江神社合祀


天王寺鳥瞰図(七社文字)
四天王寺と7鎮守社

祭神:宇賀魂大神、崇峻天皇

河堀稲生神社の創建は聖徳太子の時代より、
ずっと昔で、日本武尊の時代にまで遡ります。

河堀稲生神社の地は、日本武尊が熊襲平定の帰路に、
難波の柏の渡り(柏の葉のような難波の港)で、
敵を征伐したゆかりの地でもあります。

この戦いで船師として功績のあった土豪の夏目逆輪井という者が
昼ヶ丘と呼ばれてたこの地に、
宇賀魂大神を祀ったのが河堀稲生神社の起こりとされます。


河堀稲生神社1
河堀稲生神社の鳥居

その後、飛鳥時代になって、
第32代崇峻天皇は、蘇我馬子の排除を図ろうとして、
逆に蘇我馬子の部下の東漢直に刺され殺されます。

甥にあたる聖徳太子は四天王寺を建立した際、
崇峻天皇を河堀稲生神社に合祀して、
四天王寺七宮の一つとして、東南を守護するようになります。


河堀稲生神社2
河堀稲生神社の拝殿


河堀稲生神社3
若宮八幡宮と本殿屋根

河堀と書いて「こぼれ」と読みますが、
これには奈良~平安時代の貴族である
和気清麿呂(733-799)が関係します。

和気清麿呂は国造としても貢献した人で、
785年には、神崎川と淀川を直結させる工事に成功し、
平安京への物流路を確保しました。
更に、788年には、上町台地を開削して、掘溝を築き、
大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ないます。

清麿呂は河堀稲生神社に工事の成功を
祈願して23万人月を投入しますが、費用がかさんで失敗してしまいます。

今日、河堀稲荷神社付近を河堀(こぼれ)というのは、
この堀の工事によるそうで、
天王寺公園の茶臼山の川底池はその名残といわれています。


茶臼山古墳1
和気清麿呂が掘った茶臼山の川底池

また川底池に架かる「和気橋」は昭和12年に造られたものですが、
和気清麿呂にちなんで命名されました。


わけ橋
和気清麿呂にちなむ和気橋

四天王寺の参道⑨廣田神社(浪速区・日本橋)

四天王寺の参道⑨廣田神社(浪速区・日本橋)に関する記事です。


大阪・浪速区の廣田神社は今宮戎神社の北隣にあり、
兵庫県・西宮市の廣田神社西宮神社(西宮えびす)をセットで勧請したとも言われる神社です。


今宮戎は、昔は今西宮戎神社と呼んでいたそうですが、
いずれにしても、今宮戎・廣田神社は、
四天王寺七社とともに四天王寺の鎮守の社として飛鳥時代には創建されていた、古社です。


廣谷神社1
廣田神社の鳥居と社標


ご祭神: 撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(天照皇大神荒魂)
       賢彦名命(さかひこな)

   

撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命はとても長い名前の神様ですが、
(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかひつ・ひめのみこと)と読み、
天照大神の別名で、神功皇后の三韓征伐の折に霊威を示しました。


廣谷神社3
廣田神社の注連縄柱と拝殿


大阪・西宮の廣田神社の由緒は全く同じです。 


「神功皇后の三韓征伐の帰途に、海路を難波に向かうと
皇后の船は海中をぐるぐるとまわり前に進まなかったので、
占いをたてたところ天照大神から、摂津国広田の杜に祀れとの神託があり、
この地に天照大神の荒魂を祀ったのが起源とされている。」 


廣谷神社5
廣田神社の本殿内部


廣田神社の拝殿には大きなアカエ(エイ)の絵馬が奉納されています。


祭神の一人の賢彦名命は、
8月2日の夜から3日にアカエ(エイ)に乗り訪れる智恵の神様で、
無病息災・痔疾をはじめ難病治癒の神様です。


廣田神社の鎮座する場所の近くには木津の魚市場があり、
昔は魚師の町でアカエ( アカエイ)が美味である上、
漢方薬として使えるのでとても珍重されていました。



廣谷神社4
廣田神社の大きなアカエの絵馬


アカエは江戸時代までは重要な食料でしたが、
そのアカエを断って、つまり食べるのを止めて、
祈願すれば、 霊験あらたか、難病も治癒すると云われています。


アカエの尾には鋭いトゲが飛び出していて、
これに刺されると傷口が荒れ、その毒によってものすごい痛みが走ります。


漁師はアカエをとらえると同時に尾を付け根から切り落としてしまうそうです。
この尾を断ち切ることをアカエを断つことにかけて、 
トゲにさされた痛みに似た疾患をなくすといった信仰が生まれたようです。


アカエを断ち痔疾の平癒を祈り、全快したら小さなアカエの絵馬を捧げます。


 廣谷神社6

小さなアカエの絵馬


廣谷神社7
手水舎の龍





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