エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・三島鴨神社

三島鴨神社(大阪府・高槻市・三島江)

三島鴨神社(大阪府・高槻市・三島江)に関する記事です。


祭神:大山祇、事代主


三島鴨神社はJR高槻駅から高槻市バスの桂本団地行きに乗り、
西面口(さいめ)で下車して河川敷に向って徒歩15分程の場所にありました。


三島鴨神社は淀川右岸、枚方大橋の下流にあり、
かつて対岸の枚方への渡し場で賑わった河川敷付近に鎮座する古社です。


創祀当初は、淀川の鎮守として、大山祇を祀っていましたが、
その後に鴨氏がやってきて、事代主が合祀され、三島鴨神社となりました。

三島鴨神社1
三島鴨神社の一の鳥居と参道


仁徳天皇の頃、茨田堤を築くにあたって、百済より大山祇を迎えて、
淀川の土砂が堆積した川中島(御島)に鎮守の社を祀ったのが創始とされます。


茨田堤とは仁徳天皇の頃、淀川~河内湖周辺を水害から守るため
仁徳天皇の命により、用水や農耕技術に優れた茨田氏が中心になり、
淀川左岸に築いた日本最古の堤防です。


淀川左岸では茨田堤の難工事で危うく人柱にされそうになった
茨田連衫子(もろこ)を祀る友呂岐神社太間天満宮などを紹介しました。



三島鴨神社2
三島鴨神社の二の鳥居と社標


このブログでは大山祇は飛鳥山口神社山之坊山口神社等で山の守護神として紹介してきました。
しかし三島神社では大山祇は島の守り神で、山と海の両方を司る神になっています。


大山祇を祀る三島神社として、以下の3社が特に有名で三三島(三大三島神社)と呼ばれています。


<三三島(三大三島神社)>

①大阪府高槻市・淀川の川中島にあった三島鴨神社
②愛媛県今治市・瀬戸内海の大三島にある大山祇神社
③静岡県三島市・伊豆半島にある三嶋大社


三島鴨神社の社伝では、この三社の中で当社が一番古く
後の二社は三島鴨神社から遷座されたものとしています。


三島鴨神社3
三島鴨神社の拝殿(手前に鉄製の提灯かけ)


伊予国風土記によると、大山祇は百済から来て、三島江に祀られ、
次いで伊予の大山祇神社に遷座したとされるそうです。


大山祇神社が瀬戸の大三島に鎮座したのが推古天皇の594年のことで、
当社はこれ以前の創建となります。


なお、社伝では伊豆の三嶋大社へも三島鴨神社から当社から勧請されたとあるそうです。



三島鴨神社4
三島鴨神社の本殿


伊予風土記では「百済の国より渡り来まして、津の国の御島に坐しき」と記されているそうです。

この御島が淀川の川中島であると考えることから、三島鴨神社が起源との根拠になっています。


仁徳天皇の時代に百済からやってきたのは、武寧王(ぶねい)こと斯麻王(しま)、
ということで、三嶋氏の祖となるようですが、別途に調査して記載します。



三島鴨神社5
三島鴨神社の本殿内部(直接参拝ができる)


鴨氏もこの地へ進出があり、事代主が三島鴨神社や近くの溝咋神社などで祀られています。


日本書紀では、事代主神が八尋熊鰐(やひろ・わに)となって三島溝耳の娘の玉櫛媛のもとに通い、
生まれた媛蹈鞴五十鈴媛が神武天皇の后になったと記されています。


注ー1:八尋(やひろ)とは大きいこと


のびたき
秋にはコスモス畑で賑う現在の三島江

<関連記事>

三島鴨神社の参道①三島江浜
三島鴨神社の参道②溝咋神社(茨木市・五十鈴町)

三島鴨神社の参道③神服神社(高槻市・宮之川原):かむはとり
三島鴨神社の参道④阿久刀神社(高槻市・清福寺町):あくと

三島鴨神社の参道⑤闘鶏野神社(高槻市・氷室町):つげの
三島鴨神社の参道⑥太田神社(茨木市・太田)
三島鴨神社の参道⑦八幡大神宮(高槻市・上土室)
三島鴨神社の参道⑧鴨神社(高槻市・赤大路町)摂津富田駅北

三島鴨神社の参道⑪今城塚古墳(高槻市・郡家新町)
三島鴨神社の参道⑫安満宮山古墳(高槻市安満御所):あまみやま
三島鴨神社の参道⑭新池埴輪製作遺跡(高槻市・上土室)
三島鴨神社の参道⑮太田茶臼山古墳(茨木市・太田)


三島鴨神社の参道①三島江浜(高槻市・三島江)

三島鴨神社の参道①三島江浜(高槻市・三島江)に関する記事です。


三島江は枚方大橋より下流、私たち淀川左岸の京阪沿線に暮すものからすると
調度、光善寺あたりの対岸にあたります。


三島江は葦や月の名所として知られた、淀川を代表する草枕の地です。


♪♪三島江の玉江の菰(こも)を標めしより 己がとぞ思ふいまだ刈らねど♪♪ 万葉集

♪(若葉の菰を見て、思う人と約束は交わしましたが、まだ契りは結んでいません)♪



三島江浜
三島江の河川敷(枚方大橋を臨む)


近世以降は三島江浜とも呼ばれ、大坂と伏見を結ぶ河港として、
対岸の北河内と北摂を結ぶ渡し場としても大変賑わいました。


大阪商人はここから能勢の妙見山へ向ったそうです。
昭和27年に渡し場としての役割は終わりましたが、
堤防の下に残る妙見灯篭が往時を忍ばせてくれます。


三島鴨神社の東50mがその渡し場で賑わった地点になります。



灯篭
妙見灯篭と神峯山寺参道の標


淀川沿岸の河川は野草が生い茂り、
早くから朝廷や貴族が牛や馬を飼う牧場として利用されました。
奈良時代には、近都牧(きんとまき)と呼ばれ軍馬の飼育も盛んに行われています。


三島鴨神社の鎮座地付近には三箇牧(さんがまき)の地名が残りますが、
これは淀川水系に、鳥飼牧(摂津)・豊島牧(てしま:箕面)・為奈野牧(いなの:伊丹)
の三箇所に牧場があったことに由来します。


三箇所を始め桂本(かつらもと)・西面(さいめ)・三島江・唐崎は農業でも結ばれていて
豊臣時代に共同の排水溝を造り下流の鳥飼に排水し「三箇牧井路」の起源となっています。



その関係からか三島鴨神社の境内には
桂本・西面・唐崎にかつて鎮座していた神社が大切に保存されています。


三島鴨神社の境内社①八幡神社

三島江の西方・西面(さいめ)にあった応神天皇を祭神とする八幡神社です。


八幡社1
八幡神社



三島鴨神社の境内社②唐崎神社

三島江の北方・唐崎にあった大山祇を祭神とする唐崎神社です。


唐崎神社
唐崎神社



三島鴨神社の境内社③國廣大明神

三島江の南方・柱本にあった稲荷社(宇賀御魂)と天神社(菅原道真)を合祀した國廣大明神です。


国神社
國廣大明神

三島鴨神社の参道⑤闘鶏野神社(高槻市・氷室町)

三島鴨神社の参道⑤闘鶏野神社(高槻市・氷室町)に関する記事です。

闘鶏野神社(つげの)へはJR摂津富田駅から北へ30分ほど歩いて行きましたが、
途中府道115線を今城塚古墳とは逆の西へ少し折れた場所にありました。

闘鶏を「つげ」と読むのは、鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来するそうで、
兎我・都祁・・とも表記され、日の出の方角に関係する地のようです。


闘鶏野神社1
闘鶏野神社の鳥居

闘鶏野神社の参道は、名神高速道路の上にかかる陸橋で、
数ある参拝した神社の中でも初めてのことで、
しばし下を通る車を観察しました。

闘鶏野神社2
闘鶏野神社の参道(名神高速の陸橋)

祭神:天照皇大神、応神天皇、額田大中彦、天児屋根命

氷室地区の氏神で以前は八幡大神宮とも呼ばれ、
南西50m程にある
土室八幡さんと同じ社名でした。


北面の丘陵には闘鶏山古墳と呼ばれている前方後円墳があり、
古墳の関連施設とすると太古からの古社と思われます。

闘鶏山古墳は4世紀前半の築造で今城塚古墳と同じ三島古墳群に属する古墳です。

内視鏡調査で未盗掘の古墳の内部に、
椿井大塚山古墳と同形の三角縁神獣鏡があることも解明され
早期の発掘調査が期待されています。

闘鶏野神社3
闘鶏野神社の拝殿

ちょうど近くの幼稚園児たちの課外学習時間と同じ時間となって、一緒に参拝してきました。

私が鈴を鳴らすと園児たちも、鈴の緒に一斉に飛びついて真似をするんですよ。
元気で可愛いですね。


なんか新しい神社のありかたを見たようで、とてもホットな気分になりました。

闘鶏野神社4
私の真似をして一斉に鈴を鳴らす園児


祭神の額田大中彦は応神天皇の皇子で、母は妃の高城入姫です。

額田大中彦で有名なのは、闘鶏での氷室の話です。
氷室は冬にできた氷を貯蔵して、夏に天皇に献上する場所です。
額田大中彦は闘鶏で氷室を見つけて、
応神天皇に贈り、天皇が非常に喜ばれた話が記紀に記載されています。


応神天皇が崩御され次の天皇が定まらないとき,
額田大中彦は倭の屯田と屯倉を自分のものにしようとしたが、
異母弟の大鷦鷯尊(おおさざき:仁徳天皇)に阻止される記事が紀にでています

高槻の闘鶏野神社は氷室という町にあり、
こちらも額田大中彦を祭る場所として、
奈良県都祁村とともに信憑性があります。




闘鶏野神社5
闘鶏野神社の本殿


三島鴨神社の参道⑭新池埴輪製作遺跡(高槻市・上土室)

三島鴨神社の参道⑭新池埴輪製作遺跡(高槻市・上土室)に関する記事です。

新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた、
3万㎡に及ぶ日本最古で、最大級の埴輪生産遺跡です。

3棟の埴輪工房(作業所)と18基の埴輪窯、埴輪職人の住居などが整っており、
大王陵の古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる貴重な遺跡です。

新池埴輪製作遺跡1
新池埴輪製作遺跡

ここで作られた大量の埴輪は
太田茶臼山古墳や継体天皇の今城塚古墳といった巨大古墳をはじめとして、
番山古墳・昼神車塚古墳などの三島周辺の有力者の墓に並べられました。


新池埴輪製作遺跡2
新池の周りに埴輪を展示

大小あわせて18の埴輪を焼く窯の内、5世紀頃造られた2基を復元しています。

下の写真は復元した窯2基(右)と、発掘調査の様子を再現した1基(左)ですが、
この操業開始時の3基の窯は5世紀中頃に、
太田茶臼山古墳の埴輪を焼くために作られたものです。

新池埴輪製作遺跡3
太田茶臼山古墳の埴輪を焼いた3棟の窯

粘土・砂・水を混練した素地を、
埴輪の形に粘土細工する工房(作業所)が3棟あり、
そのうち2棟を復元しています。  


新池埴輪製作遺跡4
3棟あった埴輪工房(内2棟復元)

下の写真は埴輪工房の内部です。
ここで20人ほどの埴輪職人が作業し、
埴輪の形が整うと陰干しした後、窯で焼いて完成させます。

この工房跡からは、埴輪の破片、素材の粘土、
円筒埴輪を利用した粘土入れも見つかりました。

新池埴輪製作遺跡5
埴輪工房の内部

ハニワ工場館と呼ばれる建屋の中には、
今城塚古墳の埴輪を焼いた、最大の窯が発掘されたまま展示してあります。

530年には継体天皇のために、
全部で10基もの窯をつくり、大量の埴輪を生産しましたが
これを最後に大型の古墳も築かなくなり、埴輪造りも終わります。

新池埴輪製作遺跡6
ハニワ工場館(開館時間:午前10時~午後5時)

新池の周囲には種々の埴輪も展示され、
角笛で犬を使ってイノシシ狩りをする狩人の埴輪もあります。

新池埴輪製作遺跡7
角笛を吹く狩人



三島鴨神社の参道⑦八幡大神宮(高槻市・上土室)

三島鴨神社の参道⑦八幡大神宮(高槻市・上土室)に関する記事です。


祭神:天照皇大神、応神天皇、天児屋根命

八幡大神宮は
闘鶏野神社から名神高速の歩道橋を渡らずに、
高速に沿って南西に少し下った場所に鎮座する
清楚で歴史を感じさせる神社です。

八幡大神宮1
八幡大神宮の社殿


町の名前は闘鶏野神社が氷室だったのに、八幡大神宮は上土室に変わっています。
土室(はむろ)は埴輪の製作を行った人々が暮らした土地の名前です。

八幡大神宮は土室の氏神として埴輪製作に関わった氏族の神社と思われます。

八幡大神宮2
八幡大神宮の拝殿

土室(はむろ)は、日本書紀では欽明天皇の時代(562年)に
「埴盧:はにいほ」として登場し、
紀に書かれるとおり大規模な新池埴輪製作遺跡が発掘されました。


八幡大神宮3
八幡大神宮の本殿

闘鶏野神社も以前は八幡大神宮と呼ばれていたそうで、
高槻には八幡大神宮と呼ばれる神社は幾つかあります。

八幡神と応神天皇は本来は無関係で記紀にはその記述が無く
奈良・平安時代頃から習合し始め、仏教の鎮守神として全国に広まっていきました。


八幡大神宮4
八幡大神宮の本殿内部


八幡大神宮5
八幡大神宮の本殿の狛犬


三島鴨神社の参道④阿久刀神社(高槻市・清福寺町)

三島鴨神社の参道④阿久刀神社(高槻市・清福寺町)に関する記事です。

阿久刀神社(あくと)は芥川の左岸・堤防沿いに鎮座する神社です。
ほんの少しだけ下流の門前橋から写した写真ですが
向かって右が真如寺川で、芥川に流入する地点の芥川の川岸に阿久刀神社があります。

この川が昔は阿久刀川(あくと)と呼ばれ、芥川(あくた)になりました。


門前橋から(真如寺川が流入)
芥川の堤防脇にある阿久刀神社(社叢で見えない)

三島古墳群の中で古墳時代前期から後期に存続するものに弁天山古墳群がありますが
これが五世紀以降連綿として三島の首長だった三島県主の祖の墳墓とみられています。

三島県主は淀川中流にあって水運の富を独占し、
大王家とも結びつき
七~八世紀にひかれた条里制や屯倉・官田の跡が今に残ります。


阿久刀神社の座す芥川流域も淀川との合流地点に近く三島県主が支配する領域です。

この地域では奈良時代の郡役所・嶋上郡衙(ぐんが)跡などが出土し、
一帯が古代の三島の政治・経済の中心地だったことが明らかになっています。

この地は三島県主一族の本拠地であり、ここに鎮座する阿久刀神社は、
本来はその守り神と想像されます。


嶋上郡衙
嶋上郡衙(高槻市インターネット歴史館より)


高槻・島本は古代の摂津国嶋上郡にあたり、
ここを治めるために置かれた郡役所が、嶋上郡衙です。

嶋上郡衙では都や国の役所にならって、
儀式の場・庁院(ちょういん)や税を納める正倉などが整えられていました。

庁院の北に位置する阿久刀神社周辺には嶋上郡の郡司一族の住まいがありました。

阿久刀神社1
阿久刀神社の鳥居

祭神:底筒男、中筒男、表筒男

現在の阿久刀神社の祭神は住吉三神ですが、諸説あります。


①第三代安寧天皇の后・阿久斗姫説

安寧天皇の宮は大和高田市・片塩町は
片塩浮穴宮とされ、
安寧天皇神社に関する記事を以前に書きました。

その安寧天皇の妃・阿久斗姫(あくと)が阿久刀神社の祭神との説です。

阿久斗姫は古事記での名前で、
日本書紀では渟名底仲媛(ぬなそこなかつ)と表記され、
事代主の子鴨王の娘で、安寧3年に皇后になったとされます。


阿久刀神社2
阿久刀神社の拝殿



②仁徳天皇皇后に蚕を献じた奴理能美説

仁徳天皇の皇后・磐之媛は、
筒城宮とされる
奴理能美(ぬりのみ)の屋敷で蚕を献じられ驚きます。

「一度は這(は)う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫!」

奴理能美は仁徳の頃の百済からの帰化人で、山背の筒城に住み、
養蚕と絹織物で富豪となっています。


その奴理能美の養蚕機織技術を引継いだ末裔、
調連(つきのむらじ)一族の阿久太が奴理能美を祭神として祀ったという説です。


阿久刀神社3
阿久刀神社の本殿

③饒速日説

新撰姓氏録には摂津国に饒速日後裔の「阿刀連(あとのむらじ)」の記載があり、
饒速日が祭神だったかも知れません。


三島鴨神社の参道③神服神社(高槻市・宮之川原)

三島鴨神社の参道③神服神社(高槻市・宮之川原)に関する記事です。

阿久刀神社(あくと)から神服神社(かむはとり)へ
早朝の芥川を散歩しながらの参拝となりました。

阿久刀神社は
筒城宮で仁徳天皇の妃・磐之媛に蚕を献じたという
奴理能美(ぬりのみ)の末裔である阿久太と関連する神社でした。

これから訪れる神服神社は全国の機織りを統括した麻羅氏を氏神とする神社で
両社とも養蚕と深く関係し特別の交わりがあった神社です。

おそらく、両神社の関係者たちも
毎日この芥川に沿って往来したんだろう
などと想像を膨らませながらの涼しい河川敷でした。

途中「あくあぴあ芥川」付近で、
支流の西山川沿いにある交差点を右折して
総時間40分ほどで神服神社に到着しました。


芥川(アクアピアより)
「あくあぴあ芥川」から見た芥川上流(摂津峡方面)


仁徳天皇には妃の磐之媛との間にできた皇子がおり、
年齢順に17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇となっています。

 
その末弟にあたる允恭天皇が治めていた5世紀中ごろに、
大陸との交流もますます活発化し、
秦氏の先発隊である弓月君が同族を多数連れて渡来します。


神服神社1
神服神社の鳥居

祭神:麻羅宿禰 他
合祀:上宮神社 服部大連
    若宮神社 天児屋根
    神明神社 天照大神、豊受大神

祭神の麻羅宿禰や服部大連は大陸からの渡来人で、
養蚕の技術をもって、この服部地区の開発に貢献した祖たちです。


神服神社2
神服神社の拝殿


弓月君が連れてきた渡来人の中に祭神の祖・麻羅氏がおり、
神服神社が鎮座する服部地域に養蚕の技術をもたらしました。

麻羅氏は先進技術を持って指導に当たり、灌漑用水の整備も行い
開墾が進み村は豊かになりました。


この麻羅氏の子孫が、麻羅宿祢と称し、神服神社の祭神になっています。

麻羅氏は機業に携わる全国の部民を統括する権限を与えられ、
彼の傘下にある村々は「服部」と呼ばれ、「服部連」という姓を朝廷よりさずかります。


神服神社3
神服神社の本殿


明治時代には、神社の統合があり、近隣の神社を次々と合祀しています。

合祀した神社は宮之川原の春日神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社。

かつて塚脇の上宮神社の鎮座地には、連塚とよばれる小さな円墳があり、
6世紀の中頃に全国の織部を統率した服部連の墓と伝えられています。


神服神社4
神服神社の本殿

神服神社の神木には珍しく山桃の木が選定されていましたが、
こんなに立派な山桃は初めてでした。

樹木の葉の色が茶色なのは、花が咲いているためですが、
お世辞にも綺麗とは言えません。

ご神木(ヤマモモ)

山桃の花は冴えませんが、
7月頃になる果実はとても綺麗で、野鳥たちの御馳走です。

ヤマモモ
山桃の果実

<関連記事>
神服神社の参道①あくあぴあ芥川


神服神社の参道①あくあぴあ芥川(高槻市・南平台)

神服神社の参道①あくあぴあ芥川(高槻市・南平台)に関する記事です。

高槻市では
今城塚古代歴史館新池ハニワ工場の立派な施設や
豊富で分かりやすい展示、それに料金の安さ(無料もある)に驚かされました。

今回の芥川散策でも想像を絶する立派な建物「あくあぴあ芥川」が
森の中から突然現れ度肝をぬかれました。


あくあぴあ
あくあぴあ芥川(芥川緑地資料館)

早速、淀川水系の淡水魚の勉強に行ってきました。
1階が野鳥類の剥製の展示、2階が淡水魚の水族館で
芥川を再現した大型水槽もありました。

大型水槽にはカワムツが沢山飼われていて婚姻色のオレンジが見事でした。
カワムツはコイ科の魚でオイカワに似ていますが、オイカワより上流で生活します。


かわむつ
カワムツ(芥川を再現した大型水槽)

スッポンモドキはかつてインドネシアやニューギニアからペットとして
大量に輸入されましたが、大きくなるために手放されたものが繁殖しているそうです。

甲羅が柔らかいのでこの名前がついてますが、スッポンの仲間ではありません。


すっぽんもどき
スッポンモドキ





三島鴨神社の参道⑥太田神社(茨木市・太田)

三島鴨神社の参道⑥太田神社(茨木市・太田)に関する記事です。


祭神:素盞嗚尊 天照皇大神 豊受皇大神
配祀:少彦名命

太田神社は今城塚古墳から西国街道を西へひたすら歩くこと40分ほど、
太田茶臼山古墳の西隣に鎮座していました。

西国街道は古代から京都と西国を結ぶ重要路であり
江戸時代には多くの西国大名が参勤交代で利用した街道です。

京から西国への道は、伏見で分岐して
山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の各宿を経由して
中国街道に続く道を西国街道と呼んでおり多くの神社・史跡に面しています。

太田神社1
太田神社の鳥居

太田神社が鎮座する太田という地名は日本各地にありますが、
日本の歴史を知る上で重要な地名です。



中国の南の呉にいた勝(すぐり)という集団が
朝鮮を経由して日本に上陸して各地に分散し、
田畑を開墾した場所に大田という名前を付け、それが日本全国にあります。

注1)呉とは?
呉越同舟の呉で、紀元前585年頃 - 紀元前473年。
中国の春秋時代に存在した君国の一つ。

<このブログで現れた太田>
*日読みの地・巻向遺跡の太田に
天照御魂神社が鎮座
*祟神天皇の時代に三輪で疫病が流行り、堺の
大田田根子が大神神社を祀る
*大田田根子を祭る堺の
陶荒田神社の地が大田・社叢が大田の森
*山陰の出雲にも勝という名前が多い
*奈良県当麻町の大田地区から山陰の出雲の土器が多数出土



播磨国風土記には「呉の勝が韓国より紀伊国大田村に移り、
分かれて摂津国三島賀美郡大田村に移った」という記述があるそうです。

勝(すぐり)は村主(すぐり)とも記す首長ですが、
その勝(すぐり)が古墳時代前期に造った村の一つが三島の大田村であり、
その地に太田神社や太田茶臼山古墳が築かれました。

太田神社2
太田神社の拝殿

三島は藤原氏の祖・中臣氏の根拠地ですが、
これらの「呉の勝」末裔と中臣氏が融合し、
その氏神として太田神社が創祀されたと言われています。


太田神社3
太田神社の本殿

太田神社の東隣には太田茶臼山古墳があり、
この三島最大級の墓の被葬者を祀ってきたのが太田神社と思われます。


三島鴨神社の参道⑪今城塚古墳(高槻市・郡家新町)

三島鴨神社の参道⑪今城塚古墳に関する記事です。

今城塚古墳は継体天皇(531年没)の陵(みささぎ)で
淀川水系としては最大級の前方後円墳です。

BlogPaint
今城塚古墳


古墳の内堤やテラスには聖域の垣根を表す円筒埴輪が配置され
総数6000本余りに及びます。

円形埴輪
内堤に配置された円筒埴輪

外堀に向かって突き出す長方形のステージ(10m×65m)は
埴輪祭祀場(はにわさいしば)と呼ばれる場所です。

古墳が完成した後に内堤(ないてい)に
付け足された埴輪祭りのステージです。

柵の中に祭殿・巫女・太刀・盾などがあり
壮大な継体天皇の葬儀の模様が再現されています。

埴輪祭り内部
葬儀を現した埴輪


柵の外には白鳥・馬牛・鷹匠・武人が整然と並び
葬儀を守っています。

白鳥
葬儀を守る白鳥・馬牛の列

武人
葬儀を守る鷹匠・武人の列


三島鴨神社の参道⑮太田茶臼山古墳(茨木市・太田)

三島鴨神社の参道⑮太田茶臼山古墳(茨木市・太田)に関する記事です。


太田神社の東隣には太田茶臼山古墳があり、2つの施設の関係が窺えますが、
更に東1.5Kmには継体天皇の墓とされる今城塚古墳があります。

太田茶臼山古墳
太田茶臼山古墳遠景

<太田茶臼山古墳>
築造:5世紀中旬
サイズ:長さ 226m、後円部径138m、高さ19m
被葬者:意富富杼王(おおほど)?

<今城塚古墳>
築造:6世紀前半
サイズ:長さ 190m、後円部径100m
被葬者:継体天皇

茶臼山古墳と今城塚古墳

太田茶臼山古墳と今城塚古墳を比較してみると、
茶臼山古墳の築造時期が1世紀ほど早く、
サイズも、今城塚古墳の方が一回り小さく抑えたようです。

茶臼山古墳には継体天皇のご先祖が祭られていて
大きくするのを遠慮したのでしょう。

今城塚古墳
今城塚古墳(太田茶臼山古墳と同様に沢山の埴輪が造られた)

茶臼山古墳を築造する時に、新池埴輪工場が建設され
茶臼山古墳の埴輪が工業的に多数焼かれました。

そして最後に継体天皇のために、
今城塚古墳を祭る埴輪を作ってその役割を終えています。

新池埴輪製作遺跡3
新池埴輪工場(太田茶臼山と今城塚両古墳の埴輪を造った)


もともと太田茶臼山古墳は本居宣長が継体天皇陵と比定し、
現在の政府も江戸時代の説をそのまま引き継いでいます。

しかし新池埴輪工場で焼いた茶臼山古墳の埴輪と
今城塚古墳の埴輪の年代を測定し、
今城塚古墳の埴輪が継体天皇の崩御された530年と科学的に証明されました。

円筒埴輪(太田茶臼山古墳)
太田茶臼山古墳の円筒埴輪(五世紀中旬と判明)


太田神社4
太田茶臼山古墳の拝所

太田茶臼山古墳
太田茶臼山古墳の堀と造り出し


それでは継体天皇陵より立派な茶臼山古墳の被葬者は一体誰なのでしょうか?


<太田茶臼山古墳の被葬者>

説1)意富富杼王(おおほど)説

継体天皇の曽祖父に当たる意富富杼王とする説
意富富杼王は若野毛二派の息子で別名は大郎子(おおいらつこ)


説2)若野毛二派(わかぬけふたまた)説
応神天皇の皇子で継体天皇の高祖父にあたる。
娘の忍坂大中姫が允恭天皇の皇后

説3)忍坂大中姫説
允恭天皇の皇后で、安康天皇・雄略天皇を産み政治力を持つ。
妹に美女の衣通姫がおり、允恭天皇に寵愛されたり玉津島姫として和歌の神様とも。

私は古墳の規模から河内王朝の天皇陵ではないかとも思いますが、
どちらにしても応神仁徳履中反正・弁恭の中で
一番太田茶臼山古墳の築造時期に近い、
没年が454年とされる弁恭天皇が関係しているのではと思います。


陪塚
くすのき公園の陪塚(茶臼山古墳の東側)

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