エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@小倉神社

小倉神社(京都府・乙訓郡・大山崎町)



小倉神社の参道⑧長岡天満宮(京都府・長岡京市・天神)


祭神:菅原道真

現在の社地は菅原道真の所領であったとされ、
菅原道真が在原業平らと共に、
しばしば詩歌管弦を楽しんだ場所です。
 
道真が太宰府へ左遷される時、長岡にお立ち寄り、
「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しみました。

長岡天満宮1
長岡天満宮の大鳥居


長岡天満宮2
長岡天満宮の拝殿1


長岡天満宮3
長岡天満宮の拝殿2

左遷の際に、道真に付き従ったのが、中小路宗則で、
帰り際、道真から道真自作の木像と念持仏を託され持ち帰り、
道真の死後に、その木像を祀ったのが当天満宮の創立とされています。



長岡天満宮5
長岡天満宮の本殿(昭和18年に平安神宮から移築)


中小路氏は菅原氏の一族で、中小路宗則を祖として
代々長岡天満宮の神官を世襲してきました。

戦国時代には、中小路氏は阪急長岡天神駅前に跡を残す
開田城を居館として、勢力を拡大しました。

中小路宗城大人之像(左)、宗康大人之像
天満宮の神官を世襲する中小路氏

天満宮の神使は牛で、必ず牛の像があります。

これは道真は左遷の道中、刺客に襲われますが、
子供のころに可愛がって育てた白牛に助けられた為です。

道真の死後も遺骸を乗せた車を曳く牛が突然止まり、
その地に大宰府天満宮が創建されています。

長岡天満宮6
長岡天満宮の牛


長岡天満宮は皇室の崇敬が篤く度々の寄進造営をうけています。

寛永15年(1638年)にも八条宮智仁親王によって
「八条ヶ池」が灌漑用の溜め池として築造されました。

八条ヶ池の外周は約1㎞、貯水量 は約35000トンあり、
豊かな池を二分する中堤は参道として使われています。


八条ヶ池
長岡天満宮の八条ヶ池

拝殿では燕の雛が孵り、子育てに必死の親たちがいました。

参拝の方の服を汚さないように、巣の下に頭上注意の標識まであり、
神社の方に大切に見守られいて、嬉しい気持ちになりました。

長岡天満宮7
長岡天満宮の燕



小倉神社の参道②離宮八幡宮(京都府・乙訓郡・大山崎町)

小倉神社の参道②離宮八幡宮(京都府・乙訓郡・大山崎町)に関する記事です。

木津川・宇治川・桂川が合流して淀川になる三川合流はこのブログでも何度か取上げました。
三川合流の左岸には男山が聳え、山上に石清水八幡宮が鎮座します。
その男山の対岸には天下分け目の天王山が聳え、麓に離宮八幡宮が鎮座しています。


地図
石清水八幡宮と離宮八幡宮



祭神 : 応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神
創建 : 859年(貞観2年)


祭神のに酒解大神(さかとけ)は酒造りの神とされる大山祇のことで
天王山上には式内社の酒解神社があります。


惣門
離宮八幡宮の惣門


離宮八幡宮の境内には、神領境標石が2基保存されていますが、
元は境域の東西南北の四隅に立てられていた内の2基と思われます。


左の大きい標石が西の水無瀬橋あたりに立ち、
右の小さい標石が北にありました。


司馬遼太郎は「国盗り物語」で、
油で権益を得た離宮八幡宮の敷地は1万坪はあっただろうと書いています。



神領境標石
離宮八幡宮の神領境標石



八幡市の八幡宮は、自社の由緒によると清和天皇が空海の弟子行教に命じて
宇佐神宮から分霊して860年に男山に創建。

天王山の八幡宮は、自社の由緒によると清和天皇が空海の弟子行教に命じて
宇佐神宮から分霊して859年に山崎に創建し、その後、八幡市にに分霊。
(つまり離宮八幡宮が八幡宮の本社)



両社とも近くにある大社で殆ど同じ由緒です。
行教が宇佐神宮から八幡に移動する際、当然山崎にも滞在しているはずだから、
ほとんどどちらの由緒も正しいと思いますし、当初は一体の八幡宮だったのでしょう。



離宮八幡宮2
離宮八幡宮の中門



離宮八幡宮3
離宮八幡宮の拝殿



離宮八幡宮4
離宮八幡宮の本殿


離宮八幡宮には創建にも繋がる石清水という井戸があります


清和天皇の命で、九州の宇佐八幡宮より
八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の港で神降山に霊光をみました。

不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したので
ここにご神体を鎮座し、社を創建したのが離宮八幡宮の始まりです。



石清水
離宮八幡宮の石清水(井戸)



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離宮八幡宮の境内①本邦製油発祥地碑


大山崎町は植物油の製油発祥の地で、
離宮八幡宮の境内には本邦製油発祥地碑があります。


本邦製油発祥地碑
本邦製油発祥地碑


荏胡麻(えごま)は 胡麻ではなくシソ科の植物で,
当時は灯油として使われ、現在は食用油・ドレッシングとして使われています。


平安末期に 離宮八幡宮で、てこの原理の応用で
荏胡麻の実から油を絞る長木と呼ばれる搾油器が発明され,
日本ではじめて荏胡麻油の大量生産が行われました。



離宮八幡宮5
奉納された食用油


精油はそれ以前にも行われていましたが、大量に油を絞りとる為には、
何百トンという大きな加圧力が必要で、長木でそれが可能になりました。
 
当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、
対岸の石清水八幡宮や周辺の神社仏閣の燈明用油として使われていましたが、
次第に全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。


 離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、
大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えていきます。


山崎以外では油を作ってはいけないし、販売してもいけないという、
製造販売の独占権を手に入れたのです。

油祖像 (2)
油祖像(油製造・販売の独占権を得て油座を形成)


安土桃山時代には織田信長の楽市・楽座で独占権は無くなり、
江戸期には菜種油が主流となり荏胡麻は衰退していき、
大坂の商人が油取引で圧倒的な地位を築くことになります。


油売り
江戸時代には衰退した山崎の油商人


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離宮八幡宮の境内②河陽宮故址碑


離宮八幡宮の境内には河陽宮故址碑(かやのみや)があります。

河陽とは山崎あたりの古い呼び方で
河陽宮は嵯峨天皇によって営まれた河陽離宮のことで、
この離宮八幡宮の地に建てられと言われます。


嵯峨天皇は平安初期の52代天皇(在位809~823)で桓武天皇の皇子です。
蔵人所(くろうどどころ)と呼ばれる役所や
検非違使(けびいし)という警察組織を設置したことで知られます。
鷹狩りなどの狩猟好きで、鷹狩に関する管理責任部署を蔵人所に決めています。



嵯峨天皇の離宮
河陽宮故址碑


河陽宮は,天皇が水無瀬(水生野)や河内交野で
遊猟をするときの宿泊場所として814年(弘仁5)に建てた離宮で,
八幡宮が創建される45年も前のことです。


それ以前の嵯峨天皇の狩猟時の山崎駅での宿泊は1日のみでしたが、
山崎の駅家を転用した河陽宮ができた814年には10日以上も宿泊した記録が残り、
とてもお気に入りの離宮だったようです。



山崎の風景
平安時代の山崎の駅家




小倉神社の参道⑤走田神社(京都府・長岡京市・奥海印寺・走田)


走田とは走り穂、初穂を作る田、つまり早稲田のことで、
早稲の守護神です。

参拝した時は、調度、田植えが終わったばかりで、
その水田の奥に走田神社と海印寺寂照院の鎮守の森が見え爽やかでした。

田植えのために水入れをすると蛙・小魚をはじめ沢山の生物が
一斉に溢れだし、自然の躍動を感じます。

走田神社1
水田と走田神社の社叢

祭神:天児屋根命・武甕槌神・経津主神・姫大神

走田神社は藤原氏(中臣氏)の守護神である春日神の四柱を祭る古社で、
かっては妙見社と言われ寂照院の鎮守でしたが、
明治以降、走田神社と呼ばれています。

走田神社2
走田神社の鳥居と社標

鳥居からキビタキの澄んだ囀りを聞きながら階段を登ると
途中に勧請縄を吊る注連縄柱があります。

勧請縄は6メートルのしめ縄に
12月を表す12本の榊の束を垂れ下げたもので
その年の米の相場を占ったそうです。


12本の榊の束
勧請縄(かんじょうなわ)

100もの階段を登り詰めると拝殿・本殿が正面に座しており
能舞台の拝殿から本殿を拝むと、とても厳かな気分です。

走田神社4
走田神社の拝殿

本殿はこの覆殿の中ですが、覆殿自体もとても感じの良い建物です。


走田神社5
走田神社の本殿1


走田神社6
走田神社の本殿2

走田神社の地名は奥海印寺ですが、
ここには平安時代に海印寺という大寺がありました。

海印寺は819年,空海の十大弟子の一人,
東大寺の僧・道雄が修行道場として創建したものです。

海印寺が創建され時に、走田神社は海印寺寂照院の鎮守社として
妙見菩薩を合祀したそうで妙見社とも呼ばれていました。

最盛時には衆僧100余人に及びますが,平安末期には衰退し、
応仁の乱の兵火で寂照院をのこして全て焼失して現在に至ります。

走田神社7
海印寺寂照院1


また海印寺は、孟宗竹が始めて伝わった場所で、
801年に道雄が唐から持ち帰ったとされます。

そのため現在の長岡京は高品質なタケノコの産地で
関西の日本料理店に出荷されています。



走田神社8
海印寺寂照院2



小倉神社の参道⑬長岡京(京都府・向日市)


長岡京(784年~794年)は桓武天皇が,奈良の平城京から遷都した首都で、
山城国乙訓郡の広範囲に及びます。

長岡京石碑
西国街道道標(JR長岡京駅付近;長岡京跡・向日神社は西国街道を北上)

大極殿、朝堂院などがある長岡宮は向日市、
市などの経済の中心は長岡京市、
都の玄関口にあたる港は大山崎町にありました。

現在の長岡京跡は長岡宮があった場所で、
阪急電鉄の西向日駅西口から北に走る大極殿通り沿いにあります。


長岡宮は主として朝堂院と大極殿から構成され、
長岡京時代の朝堂院は、東西に四堂ずつ、計八堂からなっています。

長岡京1
長岡宮(東西に朝堂院が八堂、中央奥に大極殿)

朝堂院は国家的な儀式を行う場所で、今の国会議事堂に相当し
西向日駅あたりから北へ細長く続き、最奥に大極殿があります。

大極殿通りを真直ぐ北へ10分程歩き、大極殿交差点を越えた当たりに
大極殿公園があり、天皇が政治を司った大極殿の遺跡があります。

長岡京4
長岡宮大極殿碑

国家の制度が整えられた奈良時代、
大極殿では元旦に朝賀の儀式が盛大に行われました。

長岡京2
長岡京の大極殿

朝賀の儀式では、大極殿の前の7本の宝幢(ほうどう)が建てられます。

宝幢とは古代中国伝来の儀式用旗竿です。
中央には烏・日・月の三本の飾り物の旗、
左右に青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が描かれた旗があります。

長岡京3
大極殿の7本の旗竿(宝幢)

現在、長岡宮大極殿跡では、5本の宝幢跡が見つかり、
そのうちの2本の宝幢の支柱部分を、復元しています。
        

長岡京5
復元された旗竿(宝幢)の支柱

長岡京跡あたりの地名は鶏冠井町(かいで)という
難しい地名なので気になり調べてみました。

諸説ありますが私が納得した説を載せておきます。

・蝦手井(かえるてい)から鶏冠井(かいで)と変ったらしい。

・長岡京の頃は、あちこちで水が湧き出し、その水路が楓の葉に似ていたから楓畑

・その水路とともに蛙の手のように道が分岐していたから蝦手井(かえるてい)

・楓も蛙の手も鶏冠に似ているので鶏冠井(かいで)

とにかく長岡京跡からは、多くの井戸や水路が発掘されていて、
藤原京・平城京で苦労した生活用の水対策が十分になされていたそうです。

井戸
長岡京跡から多く発見される井戸枠

墨書人面土器(長岡京)
墨書人面土器(長岡京)





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