エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・小倉神社

小倉神社(京都府・乙訓郡・大山崎町)

小倉神社の参道⑧長岡天満宮(京都府・長岡京市・天神)


祭神:菅原道真

現在の社地は菅原道真の所領であったとされ、
菅原道真が在原業平らと共に、
しばしば詩歌管弦を楽しんだ場所です。
 
道真が太宰府へ左遷される時、長岡にお立ち寄り、
「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しみました。

長岡天満宮1
長岡天満宮の大鳥居


長岡天満宮2
長岡天満宮の拝殿1


長岡天満宮3
長岡天満宮の拝殿2

左遷の際に、道真に付き従ったのが、中小路宗則で、
帰り際、道真から道真自作の木像と念持仏を託され持ち帰り、
道真の死後に、その木像を祀ったのが当天満宮の創立とされています。



長岡天満宮5
長岡天満宮の本殿(昭和18年に平安神宮から移築)


中小路氏は菅原氏の一族で、中小路宗則を祖として
代々長岡天満宮の神官を世襲してきました。

戦国時代には、中小路氏は阪急長岡天神駅前に跡を残す
開田城を居館として、勢力を拡大しました。

中小路宗城大人之像(左)、宗康大人之像
天満宮の神官を世襲する中小路氏

天満宮の神使は牛で、必ず牛の像があります。

これは道真は左遷の道中、刺客に襲われますが、
子供のころに可愛がって育てた白牛に助けられた為です。

道真の死後も遺骸を乗せた車を曳く牛が突然止まり、
その地に大宰府天満宮が創建されています。

長岡天満宮6
長岡天満宮の牛


長岡天満宮は皇室の崇敬が篤く度々の寄進造営をうけています。

寛永15年(1638年)にも八条宮智仁親王によって
「八条ヶ池」が灌漑用の溜め池として築造されました。

八条ヶ池の外周は約1㎞、貯水量 は約35000トンあり、
豊かな池を二分する中堤は参道として使われています。


八条ヶ池
長岡天満宮の八条ヶ池

拝殿では燕の雛が孵り、子育てに必死の親たちがいました。

参拝の方の服を汚さないように、巣の下に頭上注意の標識まであり、
神社の方に大切に見守られいて、嬉しい気持ちになりました。

長岡天満宮7
長岡天満宮の燕

小倉神社の参道②離宮八幡宮(京都府・乙訓郡・大山崎町)

小倉神社の参道②離宮八幡宮(京都府・乙訓郡・大山崎町)に関する記事です。

木津川・宇治川・桂川が合流して淀川になる三川合流はこのブログでも何度か取上げました。
三川合流の左岸には男山が聳え、山上に石清水八幡宮が鎮座します。
その男山の対岸には天下分け目の天王山が聳え、麓に離宮八幡宮が鎮座しています。


地図
石清水八幡宮と離宮八幡宮



祭神 : 応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神
創建 : 859年(貞観2年)


祭神のに酒解大神(さかとけ)は酒造りの神とされる大山祇のことで
天王山上には式内社の酒解神社があります。


惣門
離宮八幡宮の惣門


離宮八幡宮の境内には、神領境標石が2基保存されていますが、
元は境域の東西南北の四隅に立てられていた内の2基と思われます。


左の大きい標石が西の水無瀬橋あたりに立ち、
右の小さい標石が北にありました。


司馬遼太郎は「国盗り物語」で、
油で権益を得た離宮八幡宮の敷地は1万坪はあっただろうと書いています。



神領境標石
離宮八幡宮の神領境標石



八幡市の八幡宮は、自社の由緒によると清和天皇が空海の弟子行教に命じて
宇佐神宮から分霊して860年に男山に創建。

天王山の八幡宮は、自社の由緒によると清和天皇が空海の弟子行教に命じて
宇佐神宮から分霊して859年に山崎に創建し、その後、八幡市にに分霊。
(つまり離宮八幡宮が八幡宮の本社)



両社とも近くにある大社で殆ど同じ由緒です。
行教が宇佐神宮から八幡に移動する際、当然山崎にも滞在しているはずだから、
ほとんどどちらの由緒も正しいと思いますし、当初は一体の八幡宮だったのでしょう。



離宮八幡宮2
離宮八幡宮の中門



離宮八幡宮3
離宮八幡宮の拝殿



離宮八幡宮4
離宮八幡宮の本殿


離宮八幡宮には創建にも繋がる石清水という井戸があります


清和天皇の命で、九州の宇佐八幡宮より
八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の港で神降山に霊光をみました。

不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したので
ここにご神体を鎮座し、社を創建したのが離宮八幡宮の始まりです。



石清水
離宮八幡宮の石清水(井戸)



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離宮八幡宮の境内①本邦製油発祥地碑


大山崎町は植物油の製油発祥の地で、
離宮八幡宮の境内には本邦製油発祥地碑があります。


本邦製油発祥地碑
本邦製油発祥地碑


荏胡麻(えごま)は 胡麻ではなくシソ科の植物で,
当時は灯油として使われ、現在は食用油・ドレッシングとして使われています。


平安末期に 離宮八幡宮で、てこの原理の応用で
荏胡麻の実から油を絞る長木と呼ばれる搾油器が発明され,
日本ではじめて荏胡麻油の大量生産が行われました。



離宮八幡宮5
奉納された食用油


精油はそれ以前にも行われていましたが、大量に油を絞りとる為には、
何百トンという大きな加圧力が必要で、長木でそれが可能になりました。
 
当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、
対岸の石清水八幡宮や周辺の神社仏閣の燈明用油として使われていましたが、
次第に全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。


 離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、
大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えていきます。


山崎以外では油を作ってはいけないし、販売してもいけないという、
製造販売の独占権を手に入れたのです。

油祖像 (2)
油祖像(油製造・販売の独占権を得て油座を形成)


安土桃山時代には織田信長の楽市・楽座で独占権は無くなり、
江戸期には菜種油が主流となり荏胡麻は衰退していき、
大坂の商人が油取引で圧倒的な地位を築くことになります。


油売り
江戸時代には衰退した山崎の油商人


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離宮八幡宮の境内②河陽宮故址碑


離宮八幡宮の境内には河陽宮故址碑(かやのみや)があります。

河陽とは山崎あたりの古い呼び方で
河陽宮は嵯峨天皇によって営まれた河陽離宮のことで、
この離宮八幡宮の地に建てられと言われます。


嵯峨天皇は平安初期の52代天皇(在位809~823)で桓武天皇の皇子です。
蔵人所(くろうどどころ)と呼ばれる役所や
検非違使(けびいし)という警察組織を設置したことで知られます。
鷹狩りなどの狩猟好きで、鷹狩に関する管理責任部署を蔵人所に決めています。



嵯峨天皇の離宮
河陽宮故址碑


河陽宮は,天皇が水無瀬(水生野)や河内交野で
遊猟をするときの宿泊場所として814年(弘仁5)に建てた離宮で,
八幡宮が創建される45年も前のことです。


それ以前の嵯峨天皇の狩猟時の山崎駅での宿泊は1日のみでしたが、
山崎の駅家を転用した河陽宮ができた814年には10日以上も宿泊した記録が残り、
とてもお気に入りの離宮だったようです。



山崎の風景
平安時代の山崎の駅家

小倉神社の参道⑤走田神社(京都府・長岡京市・奥海印寺・走田)


走田とは走り穂、初穂を作る田、つまり早稲田のことで、
早稲の守護神です。

参拝した時は、調度、田植えが終わったばかりで、
その水田の奥に走田神社と海印寺寂照院の鎮守の森が見え爽やかでした。

田植えのために水入れをすると蛙・小魚をはじめ沢山の生物が
一斉に溢れだし、自然の躍動を感じます。

走田神社1
水田と走田神社の社叢

祭神:天児屋根命・武甕槌神・経津主神・姫大神

走田神社は藤原氏(中臣氏)の守護神である春日神の四柱を祭る古社で、
かっては妙見社と言われ寂照院の鎮守でしたが、
明治以降、走田神社と呼ばれています。

走田神社2
走田神社の鳥居と社標

鳥居からキビタキの澄んだ囀りを聞きながら階段を登ると
途中に勧請縄を吊る注連縄柱があります。

勧請縄は6メートルのしめ縄に
12月を表す12本の榊の束を垂れ下げたもので
その年の米の相場を占ったそうです。


12本の榊の束
勧請縄(かんじょうなわ)

100もの階段を登り詰めると拝殿・本殿が正面に座しており
能舞台の拝殿から本殿を拝むと、とても厳かな気分です。

走田神社4
走田神社の拝殿

本殿はこの覆殿の中ですが、覆殿自体もとても感じの良い建物です。


走田神社5
走田神社の本殿1


走田神社6
走田神社の本殿2

走田神社の地名は奥海印寺ですが、
ここには平安時代に海印寺という大寺がありました。

海印寺は819年,空海の十大弟子の一人,
東大寺の僧・道雄が修行道場として創建したものです。

海印寺が創建され時に、走田神社は海印寺寂照院の鎮守社として
妙見菩薩を合祀したそうで妙見社とも呼ばれていました。

最盛時には衆僧100余人に及びますが,平安末期には衰退し、
応仁の乱の兵火で寂照院をのこして全て焼失して現在に至ります。

走田神社7
海印寺寂照院1


また海印寺は、孟宗竹が始めて伝わった場所で、
801年に道雄が唐から持ち帰ったとされます。

そのため現在の長岡京は高品質なタケノコの産地で
関西の日本料理店に出荷されています。



走田神社8
海印寺寂照院2

小倉神社の参道⑰羽束師神社(京都市・伏見区・羽束師志水町)

小倉神社の参道⑰羽束師神社(京都市・伏見区・羽束師志水町)に関する記事です。


羽束師神社(はずかし)の正式名称は羽束師坐高御産日神社といいます。


実は羽束師なんて面白い地名があるのを知ったのは初めてですし、
伏見区での散策コースは宇治川沿いばかりで、
桂川周辺を訪れるのも初めてでした。


京阪の中書島から市バスの京阪淀駅行きに乗り
羽束師橋を越えて桂川の右岸の菱川バス停で下車、
西羽束師川を10分程南へ歩いた場所に羽束師神社は鎮座しています。


伏見地区
羽束師神社(はずかし)の位置


現在の西羽束師川はこの先で、桂川に注ぎ込んでいますが、
昔はこの地点で桂川・旧小畑川が合流しており、
農耕、水上交通に恵まれた地域として開拓されてきました。

また小畑川は暴れ川とも呼ばれ水害でも恐れられた川でした。

羽束師橋
鴨川に架かる羽束師橋



西羽束師川
桂川に注ぐ西羽束師川(左の社叢が羽束師神社)


羽束師神社は山城国・乙訓郡・月次新嘗とされる式内大社です。

祭神:高皇産霊神、神皇産霊神
                                   

高皇産霊神(たかみむすび)、神皇産霊神(かみむすび)は、
天之御中主を始めとする別天神五柱と呼ばれる混沌とした宇宙の創造神です。


羽束師神社の鳥居
羽束師神社の鳥居



羽束師神社の境内に残る社叢は羽束師の杜と呼ばれ、
謡曲の雲雀山などで謳われてきた能舞台の名所です。

♪♪影も羽束師の森乃下草咲きにけり 花ながら刈りて売らうよ♪♪

羽束師神社の創建・由緒に関しては以下の伝承があります。


*雄略天皇21年(477)の創建

*天智天皇四年(665)中臣鎌足が再建

*延暦三年(784)長岡京遷都の際にも再建

*大同3年(808)斎部広成が摂社11社を勧請



羽束師神社の拝殿
羽束師神社の拝殿1


それにしても一番気になるのは羽束師(はずかし)という地名です。


古代の律令制では、宮中で用いる物資の生産を行った
品部と呼ばれる集団がいました。

その品部の一つに羽束師部(はずかしべ)がありました。


羽束師神社の拝殿2
羽束師神社の拝殿2


羽束師部は泥部(むりべ)、泥戸(ぬりこ)とも呼ばれ、
瓦をつくったり、石灰を焼いたりしていた技術・技能集団です。


羽束師の地は、地理的には桂川のほとりで、
良質の泥土を手に入れることができる場所で、
都で必要とした瓦を生産していたと考えられます。


羽束師神社の拝殿3
羽束師神社の拝殿3


伏見人形で知られる伏見は野見宿禰の子孫にあたる土師氏(はじし)らの領地で、
土師部(はじべ)に土器を造らせていた場所です。


同じ伏見の羽束師でも、このあたりで取れた良質の粘土を使い,
薄くて軽い土師器(はじき)が盛んに造られるようになりました。



羽束師神社の本殿2
羽束師神社の本殿1



901年(延喜元年)大宰府へ左遷される菅原道真が羽束師神社に立ち寄り、
詠んだ歌とされています。


♪捨てられて 思ふおもひのしげるおや 身をはづかしの杜といふらん♪
 (菅原道真)


羽束師神社の本殿1
羽束師神社の本殿2



羽束師神社の本殿3
羽束師神社の本殿背部の社


参拝を終え、帰路に着くとき割拝殿の中を風が走り、
突然風鈴が鳴り太古の昔に流れていくような不思議な気分になりました。


風鈴
羽束師神社の風鈴



小倉神社の参道⑲久我神社(京都市・伏見区・久我森の宮町)

小倉神社の参道⑲久我神社(京都市・伏見区・久我森の宮町)に関する記事です。


久我神社(こが)は、784年の桓武天皇の長岡遷都の際に
王城の鬼門(東北)の守護神として祀られた神社です。


久我
久我神社の航空写真


神川神社の西・桂川と鴨川の合流地点付近にあり、
淀川水系を利用した水運は平城京と比較すると格段に便利になりました。


しかし川の氾濫による被害も甚大で、たった10年で長岡をすて、
平安京に移動することになります。

桂川鴨川合流点
桂川・鴨川合流点

久我神社は山城国・乙訓郡鎮座とされる久何神社式に比定される内小社です。

祭神:建角身神、別雷神、玉依姫神


久我神社は賀茂神社とのつながりが深く、
祭神は上賀茂・下鴨の三神を祀っています

鴨川の上流に下鴨神社、上賀茂神社がありますが、
下鴨神社の祭神は建角身(たけつのみ)と玉依姫、      
上賀茂神社の祭神は別雷神(わけいかずち)でした。


久我神社では建角身、玉依姫、別雷神と
祖父・母・子供の三世代の賀茂氏の祖を全て祀っていることになります。


久我神社1
久我神社の鳥居


久我神社は、たった10年のみの長岡京を守護するために創始されたという社伝ですが、
実際はもっと太古の昔から続いている神社と思われます。


一説では、賀茂氏が大和から木津川を経て、
この久我に居をすえ、祖神を祀ったのが、久我神社の始まりで、
更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとされます。


当地方の西の方にある乙訓座火雷神(向日神社)から
丹塗矢が当社の玉依比売にとんできて、
やがて別雷神が生まれたとの上賀茂神社と同じ伝承もあります。


久我神社2
大井手川に架かる森乃そり橋 


久我(くが)の地名の由来ですが、
桂川の中にあった島を陸(くが)と呼んだのが転化して久我になったそうで、
そこから山背久我氏の名前にも繋がるとか。


久我神社3
久我神社の拝殿




久我神社4
久我神社の拝殿内部


久我神社6
久我神社の本殿


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久我神社の境内①歯神社


祭神:天神立命(あめのかんだち)


久我神社の境内にある歯神社(はがみのやしろ)は、
「はがみさん」と親しまれ、歯の病、歯の生えかわりにご利益があるといいます。


天神立命は山背久我氏の祖神ともされる神で、
歯神社が本来の久我神社との説もあります。


久我氏の衰退の後、賀茂氏が祭祀を引き継いだとの伝承もあり、
そこで祭神が天神立命から賀茂三神に変わったとも考えられています。


天神立命は天孫降臨に先立って天下られた饒速日命に随伴された32神の防衛の1神で、
船長の役割を務めました。


なおJR長岡駅の近くには、同じ天神立命を祭神とする式内社の神足神社があります。


歯神社(はがみのやしろ)
歯神社(久我神社の境内社)


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久我神社の境内②お唐臼(おからうす)


境内には「お唐臼(おからうす)」という石臼が奉られています。

これを持ち帰った者に祟りがあったため、元に戻したと伝えます。


二つの臼というと思い出すのは
播磨・日岡神社の日本武尊の双子の兄弟の産湯に使用した臼ですが、
お唐臼は産湯には小さすぎるようです。


お唐臼
お唐臼(おからうす)



小倉神社の参道⑱神川神社(京都市・伏見区・羽束師鴨川町)

小倉神社の参道⑱神川神社(京都市・伏見区・羽束師鴨川町)に関する記事です。



羽束師神社から府道123号線を桂川沿いに北東へ歩き、
その途上で神川神社、
久我神社、菱妻神社と次々に式内社を参拝するという
効率の良いコースでした。


久我
桂川と鴨川が合流


また神川神社あたりで桂川と鴨川が合流しており、
去年(2013年9月)の台風18号による渡月橋大浸水の時も、
この場所でも床上浸水するなど大きな被害が発生しています。


IMG_3257
渡月橋大浸水
(2013年9月)



神川神社は神川小学校の横にあり、細長い境内ですが、
神川神社の入り口は田圃で、
苗が置いてあり田植えを待つ蛙たちの合唱で賑やかでした。


苗
神川神社の境内入り口の田んぼ


祭神:底筒男命、中筒男命、上筒男命、表津少彦命(わだつみ)


神川神社は古くは神川坐住吉神社と称した式内小社です。


昔から水害の多い地で、難破船防止の祈願のため、
摂津住吉の神を勧請したのが神川神社の始まりです。


神川神社1
神川神社の鳥居


神川神社が鎮座する場所の地名は「羽束師鴨川町(はずかし)」で、
羽束師は土器・瓦を造る品部たちの技術集団のことでした。


また神川神社の西側は久我神社が鎮座する「久我森の宮町」ですし、
北側は「久我御旅町」と気になる地名ばかりです。


神川神社2
神川神社の拝殿


羽束師鴨川町の上流での鴨川・桂川は古くから開発された土地であり、
治水・水運に貢献した鴨氏や秦氏、
近世では角倉了以などについて記事を書きました。



神川神社3
神川神社の本殿と竹薮


神川神社4
神川神社の本殿

小倉神社の参道⑳菱妻神社(京都市・伏見区・久我石原町)

小倉神社の参道⑳釉菱妻神社(京都市・伏見区・久我石原町)に関する記事です。


祭神:天児屋根命


菱妻神社(ひしづま)は昔は火止津目(ひしづめ)と表記していました。


菱妻神社は桂川の右岸にあり、洪水の被害をたびたび受け、
火止津目の神に、火災だけでなく、洪水も鎮めてもらおうと
菱妻(ひしづま)と改め現在に至っています。


菱は水、妻は止めるの意味で、火の神は水の扱いも上手と思われていました。


菱妻神社
菱妻神社の地図


菱妻神社は、平安時代の後半、源雅実(まさざね)が、
藤原氏の氏神である天児屋根命を勧請し、
火止津目大明神(ひしずめ)として1113年に再建しました。


菱妻神社1
菱妻神社の鳥居


源雅実は村上天皇・具平親王(ともひら)の子孫にあたり
最高職の太政大臣にまで出世し、このあたりに大別荘「久我の水閣」を造り
村上源氏の中核である久我家の祖となります。


菱妻神社2
菱妻神社の拝殿


菱妻神社3
菱妻神社の拝殿から本殿



菱妻神社本殿
菱妻神社の本殿


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菱妻神社の境内①具平宮(たいのみや)


祭神:具平親王(ともひら)


具平親王は村上天皇の皇子で、平安時代中頃の才気溢れる皇族の文人です。


具平親王の子の師房が寛仁4年(1020年)に源朝臣の姓を賜わり
具平親王の子孫は村上源氏として勢力を拡大し、
総本家にあたる久我家を輩出しています。


具平親王はまた紫式部との付き合いもあったそうで、
光源氏のモデルとも、式部の恋人とも噂される人です。



具平宮「具平親王」
具平宮の社殿

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菱妻神社の境内②虫八幡宮


祭神:應神天皇


虫八幡は左京区上高野の三宅八幡宮の別名で
かんの虫封じ、夜泣き、安産、害虫駆除にも効果があるとされる神社です。


推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として隋に向う途中、
筑紫で病気になりますが、
宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治り
無事帰国することが出来ました。

そのため隋からの帰国後に、
宇佐八幡宮を京都にも勧請したのが虫八幡宮の始まりです。


虫八幡宮「應神天皇」
虫八幡宮



小倉神社の参道⑥神足神社(京都府・長岡京市・東神足)


2011年のFIFA女子ワールドカップの決勝戦は
私にとって永遠に忘れられないスポーツの名場面の一つです。

激戦の末に勝ち残った日本チームはアメリカとの決勝戦になり、
2対2のまま、PK戦にもつれ込みます。

このときゴールキーパだった海堀あゆみ選手が
アメリカのPK1番手のシュートを右足で止め、
アメリカの心理を揺るがせ日本を優勝に導きました。

海掘選手は長岡京市出身で、
決勝戦でのPKをスーパーセーブで止めた「神の足」に因み、
長岡京市の市民栄誉賞と神足神社のお守りが贈られました。

神足神社は神の足ということでサッカー選手の参拝が多い神社で、
絵馬にも サッカー上達のお祈りの言葉が沢山描かれていました。


神足神社7
神足神社の絵馬

神足神社はJR長岡京駅東口から通称ガラシャ通りを
10分程南へ歩いた場所にありました。

鳥居のある入り口はガラシャ通りを少し左に折れた場所ですが、
桂川の支流である小畑川に架かる神足橋(こうたり)が目の前に見えます。

神足橋
小畑川に架かる神足橋(こうたり)

神足神社(こうたり)は旧神足村の産土神で、
延喜式にのる乙訓十九座(おとくに)の一つです。

祭神:天神立命
         舎人親王

天神立命(あめのかみたち)は神足神社の北東5km,
桂川沿にある久我神社(こが)の記事で登場した神でした。
また神足神社も久我神社と同様に長岡京を守護するために
創始又は再興された神社という共通点があり、天神立命の復習をしておきます。

①天神立命は久我神社の境内社である歯神社(はがみのやしろ)の祭神でした。
②天神立命は山背久我氏の祖神ともされ、歯神社が本来の久我神社との説もあります。
③天神立命は饒速日命の天孫降臨に随伴された32神の1神で、船長の役割を務めました。

久我氏と同じく神足神社を創建した氏族は天神立命の後裔と想像します。

神足神社1

神足神社の鳥居と社標

舎人親王(とねり)は天武天皇の息子で、
日本書紀編纂の責任者として広く知られ、
藤森神社では学問の神様として信仰されていました。

しかし舎人親王は学問や和歌が得意なだけでなく、
聖武天皇の補佐をし、政界の長老として60歳まで長生きし、
息子が47代淳仁天皇(じゅんに)までなっています。

神足神社3
神足神社の拝殿1
神足神社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っています。

「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、
宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、神足村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。」


以後、この社は「神足神社」と田村は
「神足村」と呼ばれるようになったと言われます。


神足神社4
神足神社の拝殿2

神足神社の北隣の長岡第九小学校グラウンドで
長岡京時代の高い位の貴族の邸宅跡が発見されました。

藤原氏の氏長者が、
長岡京内において「神足の家」を所有していたと言う記録が、
残されているそうで、神足神社との関連も考えられます。


神足神社6
神足神社の本殿


小倉神社の参道⑬長岡京(京都府・向日市)


長岡京(784年~794年)は桓武天皇が,奈良の平城京から遷都した首都で、
山城国乙訓郡の広範囲に及びます。

長岡京石碑
西国街道道標(JR長岡京駅付近;長岡京跡・向日神社は西国街道を北上)

大極殿、朝堂院などがある長岡宮は向日市、
市などの経済の中心は長岡京市、
都の玄関口にあたる港は大山崎町にありました。

現在の長岡京跡は長岡宮があった場所で、
阪急電鉄の西向日駅西口から北に走る大極殿通り沿いにあります。


長岡宮は主として朝堂院と大極殿から構成され、
長岡京時代の朝堂院は、東西に四堂ずつ、計八堂からなっています。

長岡京1
長岡宮(東西に朝堂院が八堂、中央奥に大極殿)

朝堂院は国家的な儀式を行う場所で、今の国会議事堂に相当し
西向日駅あたりから北へ細長く続き、最奥に大極殿があります。

大極殿通りを真直ぐ北へ10分程歩き、大極殿交差点を越えた当たりに
大極殿公園があり、天皇が政治を司った大極殿の遺跡があります。

長岡京4
長岡宮大極殿碑

国家の制度が整えられた奈良時代、
大極殿では元旦に朝賀の儀式が盛大に行われました。

長岡京2
長岡京の大極殿

朝賀の儀式では、大極殿の前の7本の宝幢(ほうどう)が建てられます。

宝幢とは古代中国伝来の儀式用旗竿です。
中央には烏・日・月の三本の飾り物の旗、
左右に青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が描かれた旗があります。

長岡京3
大極殿の7本の旗竿(宝幢)

現在、長岡宮大極殿跡では、5本の宝幢跡が見つかり、
そのうちの2本の宝幢の支柱部分を、復元しています。
        

長岡京5
復元された旗竿(宝幢)の支柱

長岡京跡あたりの地名は鶏冠井町(かいで)という
難しい地名なので気になり調べてみました。

諸説ありますが私が納得した説を載せておきます。

・蝦手井(かえるてい)から鶏冠井(かいで)と変ったらしい。

・長岡京の頃は、あちこちで水が湧き出し、その水路が楓の葉に似ていたから楓畑

・その水路とともに蛙の手のように道が分岐していたから蝦手井(かえるてい)

・楓も蛙の手も鶏冠に似ているので鶏冠井(かいで)

とにかく長岡京跡からは、多くの井戸や水路が発掘されていて、
藤原京・平城京で苦労した生活用の水対策が十分になされていたそうです。

井戸
長岡京跡から多く発見される井戸枠

墨書人面土器(長岡京)
墨書人面土器(長岡京)


小倉神社の参道⑭向日神社(京都府・向日市・向日町北山)

小倉神社の参道⑭向日神社(京都府・向日市・向日町北山)に関する記事です。

向日神社の参道入り口は阪急電鉄の西向日駅から大極殿通りを北上し、
大極殿公園の裏の道を西へ行った西国街道との交差点にありました。

向日神社は木々がこんもりと生い茂った向日山が社地で、
遠くからでも良く判ります。

向日神社1
向日神社の鳥居と社標

鳥居を潜り、200m以上は続く長い参道を歩き出すとすぐ、
右手に宮司の六人部是継(むとべ・よしつぐ)氏の屋敷が見えます。

屋敷は江戸中期に建てられたもので、
幕末には国学者の六人部是香(よしか)が宮司だったため
多くの志士がこの屋敷に出入りし
坂本龍馬が逃げたとされる隠し廊下があるそうです。

六人部は現在でも福知山に地名として多く残っており、
雨乞いの笹ばやしが伝統行事として残っています。

宮司の六人部家の屋敷2
六人部是継氏(むとべ・よしつぐ)の屋敷

向日神社の創建は奈良時代(710-794)の初期718年と伝わります。

祭神:向日神
合祀:火雷大神、玉依姫、神武天皇

向日神社の主祭神は五穀豊穣の神である向日神です。

向日神は、大歳神の子である、御歳神の別名で、
向日山に降臨されたために、向日神と呼ばれるようになりました。

向日神社3
向日神社の長い参道(奥は舞楽殿)


手水舎
手水舎(冷たい水で手を冷やして参拝)


向日神社や向日市の向日という名前は、向日神・向日明神に由来しています。

向日神が降臨した向日山は見晴らしがよく朝日がさすことから
「向日山:むかひのやま」と呼ばれていたのが
「むこう」に変化したとも言われます。

向日は宮崎県の日向(ひゅうが)にも通じ、
日向から東征に出発した神武天皇を祀っているのはその為と感じました。

向日神社4
向日神社の舞楽殿

向日山には、向日神社の他に火雷大神(ほのいかづち)祀る火雷神社があり、
向日神社を上社、火雷神社を下社と呼びました。

故事によると神武天皇が大和の橿原から山城国に遷られたとき
火雷神社を向日山に祀られたともあります。

しかし下社は荒廃したため1275年に上社に合祀され、
現在の向日神社の祭神が祀られるようになりました。

向日神社本殿拝所
向日神社の拝殿・本殿


向日神社本殿内部
向日神社の拝殿・本殿内部

<関連記事>

向日神社の境内①境内社他



向日神社の境内①境内社他(向日市)


向日山は旧石器時代、縄文時代、弥生時代から人々が暮らしていたそうで、
向日神社の境内にも気になるものが沢山ありました。

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<元稲荷古墳>

元稲荷古墳は向日神社北側の勝山公園内にある
3世紀後半に造られた乙訓最古の古墳です。

全長94メートルの前方後円墳で、竪穴式石室です。
 
規模が箸墓古墳の3分の1で、
箸墓古墳と元稲荷古墳は相似形で、
大和王権と親密な関係だった首長が祭られたと見られているそうです。

向日神社の創建にも何かしらその一族が関与しているのかもしれません。

元稲荷古墳天井石
元稲荷古墳の天井石(昭和35年に発掘された11枚の内の1枚)

元稲荷古墳には明治期まで稲荷社がありましたが、
現在は向日神社に勝山稲荷社の奥に移されています。

そのため古墳名が元稲荷というのは、
この社が古墳に鎮座していたためです。

元稲荷という言葉も気になるところで、
伏見稲荷の元社?と連想してしまいます。

元稲荷
元稲荷古墳に鎮座していた元稲荷社

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<増井神社>

延喜式内社に記載される乙訓坐火雷神社(ほのいかづち)の論社には、
角宮神社(すみのみや)と
向日神社があり、長い間論争してきました。

1883年に論争に決着がつき、ご神体は角宮神社へ返還されたそうです。

しかし現在も向日神社には境内社の増井神社があり、
火雷神の荒魂を祀る井戸が御神体です。


増井神社1
火雷神の荒魂神を祀る増井神社の祠


増井神社2
増井神社のご神体の井戸外部1



増井神社3
増井神社のご神体の井戸内部2


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<鶏冠木の苑>(かえるで)

鶏冠木の苑は本殿の裏にありますが、170年前には、ここに本殿がありました。

本殿が現在の地に移ってからは、
楓と山桜の神苑となり、戦前には土俵があり、氏子にとって馴染み深い場所でした。
 
 「かえるでのその」は楓の古名「かえるで」にちなんだもので、
「鶏冠木」は鶏のとさかが楓に似ていることから作られたもので
向日神社周辺には鶏冠井町(かいで)という地名にもあります。

鶏冠木(かえるで、楓の古名)の苑
鶏冠木の苑(左上は石舞台)

向日神社7
「鶏冠木の苑」付近にある大楠木(右は本殿裏)


小倉神社の参道⑦角宮神社(京都府・長岡京市・井ノ内南内畑)

角宮神社(すみのみや)へは阪急電鉄西向日駅の西・総合庁舎前から
善峰道(よしみね)を更に西へ進み小畑川を越えて30分ほどの場所にあります。

長岡京には歴史を感じさせる名前の道が沢山あり目移りしてしまいますが、
善峰道は10km以上西へ進むと高槻市との境界あたりに善峰寺があります。

善峰寺は京都市街が一望できるそうで、
紅葉の季節に是非撮影に行きたい場所となりました。
ちなみにバスはJR長岡京駅からで1時間に1本はあるようです。

小畑川
善峰道・小畑川の井ノ内橋より南方面を臨む


角宮神社(すみのみや)は向日神社とともに、
延喜式内社に記載される乙訓坐火雷神社(ほのいかづち)の論社です。

乙訓坐火雷神社は祈雨に効験のある神として、
奈良時代頃には広く信仰されてきました。

角宮神社1
角宮神社の鳥居と社標

祭神:火雷神(ほのいかづち)
配祀:玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊、春日神

祭神の建角身命(たけつぬみ)、玉依姫命は下鴨神社の祭神で親子です。

火雷神が化身した丹塗矢によって玉依姫が懐妊し
上賀茂神社の祭神の賀茂別雷命(わけ・いかづち)が生まれました。

要するに角宮神社の主祭神の火雷神とは玉依姫の夫・賀茂別雷の父親のことです。

松尾大社のご祭神である大山咋神(くい)は、賀茂別雷命の父ともいわれ
乙訓坐火雷神社と松尾大社の深い関係も伺えます。


角宮神社2
角宮神社の拝殿

桓武天皇が、長岡京に遷都した781年には、
松尾大社と共に、その神位を引き上げられており、
従五位下の神階が与えられ社殿の修理が行われています。

乙訓坐火雷神社は賀茂別雷神社、賀茂御祖神社(下鴨神社)、松尾大社らと共に、
皇族からも重要視されている神社でした。


角宮神社3
角宮神社の拝殿から本殿

*平安時代までは、向日神社を上社、火雷神社を下社と呼び向日山に鎮座
*1221年承久の変で灰燼、その後復興許されず
*1275年上社が下社を合祀し向日神と火雷神の両方を祀る
*1484年井ノ内村の現地点に火雷神を祀る角宮神社として再興
*以降社格を巡る争いが展開
*江戸時代には京都奉行所による和解調停
*1883年ご神体は角宮神社へ返還
*向日神社は増井神社で火雷神の荒魂神を祀る井戸を御神体

角宮神社4
角宮神社の社殿(左から本殿・八幡宮・三社殿)

火雷神社の当初の鎮座地の向日山の参道入口には西国街道が走ります。

この西国街道を少し北へ行くと、向日町競輪場の先で、
物集女街道(もづめ)が左に分岐します。
この当たりは、古代より物集女氏と呼ばれる豪族の根拠地で

物集女氏とは渡来系氏族であった秦氏の一族とも伝わります。

その物集女街道を6kmも北上すると松尾大社があり、
向日山と松尾大社が以外と近いのには驚きました。

物集女氏が火雷神社と松尾大社を行き来した頃を想像しながら
物集女街道沿いにある向日市文化資料館を訪ねました。

角宮神社5
角宮神社の本殿


小倉神社の参道①酒解神社(京都府・乙訓郡・大山崎町・大山崎天王)


酒解神社(さかとけ)はJR東海道線山崎駅の北1.3KM
標高270Mの天王山の頂上近くに鎮座します。

天王山の南麓の山崎はサントリーの蒸留所があることでも広く知られる地です。

酒解神は酒造りの守護神で、良質の水が豊富にでる酒造りに適した土地を守ってきました。

天王山
淀川対岸からの天王山遠景

酒解神社は山城国・乙訓郡・月次新嘗とされる
自玉手・祭来・酒解神社(たまでより・まつりきたる・さかとけ) に比定される名神大社です。

祭神:酒解神(大山祇神)
配祀:素盞嗚尊 

酒解神とは祭神の大山祇神の別名で、初めて酒を作って神々に献じた、酒造の祖神とされます。 

酒解神社の大鳥居
酒解神社の大鳥居(淀川対岸からも見える大鳥居)


同じ酒解神を祭神とする京都市梅津の
梅宮大社の始まりは,
奈良時代の初めに、綴喜郡の井手の地に橘諸兄の母三千代(665-733)が橘氏一族の氏神として
酒解神を祀ったのが創祀とされます。 

その後、平安京遷都のときに嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子(かちこ)が
井手から梅津に遷座し梅宮大社を創建したものとされます。
 
酒解神社の社殿
酒解神社の社殿

山崎の地にある離宮八幡宮は清和天皇が創建 (859年)したもので酒解大神を祭神としています。
清和天皇は仁明天皇の孫にあたり、橘嘉智子の曾孫に当たります。
離宮八幡宮の前身は嘉智子の夫の嵯峨天皇の河陽離宮(かや)でした。

酒解神社の本殿
酒解神社の本殿 

橘嘉智子は嵯峨上皇の崩御後も太皇太后として橘氏の子孫繁栄のために尽くしました。
その橘氏の末裔が橘氏の氏神・酒解神を祀ったものと思います。

神輿庫
酒解神社の神輿庫


三宮社
酒解神社の末社・三宮社( 蛭子神、月讀神、天照大神)

酒解神社の大鳥居があった場所は羽柴秀吉と明智光秀による天王山の戦いの際、
秀吉が自軍の指揮を高めるため、老松の樹上高くに「千成ひょうたん」を掲げた場所です。

ここには展望台があり、秀吉もここで戦術をたてたものと思います。

山崎合戦之地碑
山崎合戦之碑と大鳥居

旗立松展望台
展望台 から宇治方面を望む

標高270mの天王山山頂は酒解神社からすぐです。


頂上には城や砦は歴史上何度か築かれましたが、
現在の山頂の城の遺跡は、羽柴秀吉が築城したものです。

天王山の戦いに勝利した後に築城しましたが、柴田勝家との戦いに備えるためでした。
秀吉は勝家との戦いに勝利し、大阪城に移り
天正十二年(1584)には不要となった城を自ら取り壊しました。

天王山山頂
天王山山頂1

天王山山頂
天王山山頂2


小倉神社の参道③宝積寺(京都府・乙訓郡・大山崎町)

小倉神社の参道⑮物集女街道(京都府・向日市・物集女町)

小倉神社の参道⑮物集女街道(京都府・向日市・物集女町)に関する記事です。

物集女街道(もずめ)は、以前から興味があった道ですが、
今回その道の基点である京都府向日市物集女町を散策することができました。

物集女街道は物集女を通り西国街道と、山陰道を結ぶ道で、
向日市寺戸町で西国街道と交わり、樫原で山陰道と交わります。

物集女街道は嵐山から嵯峨清滝へ通じる道でもあり、
目の前には愛宕山が迫ってきました。
昔は多くの愛宕山参拝者も物集女街道を歩いたことと思います。

愛宕山
愛宕山

阪急東向日駅から西へ進み、物集女街道を1.5km程北へ歩く散策です。

まずは街道沿いに物集女車塚古墳が現れました。
物集女車塚古墳は乙訓古墳群の一つで、
古墳時代後期の6世紀に造営された前方後円墳です。

淳和天皇の霊柩車を埋めた墓と噂されていました。
昔の葬儀では唐揚破風の屋根が付いた輿に棺を乗せ担いで運んでいたそうで、
それを大八車に乗せたのが霊柩車の原点です。

物集女車塚古墳・石標
物集女車塚古墳・入口

<物集女車塚古墳>
形状  :前方後円墳
サイズ :全長45m、高さ8m、後円径31m
築造時期:6世紀中葉
出土品 :埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具
埋葬施設:横穴式石室


物集女車塚古墳・石標
物集女車塚古墳の石標

物集女車塚古墳の被葬者は継体大王と近い関係にあり、
乙訓の外部から来た人物と考えられています。

継体天皇は樟葉宮で即位し、筒城宮を経て6世紀前半に乙訓郡に弟国宮を築き、
淀川両岸と同時に乙訓の地を支配しました。

物集女車塚古墳から出土した金銅製冠・三輪玉から淀川~紀伊と関係した人物で、
滋賀・福井の古墳との強い関連が伺えます。

<継体天皇>
507年樟葉宮で即位
511年筒城宮に遷都
518年弟国宮に遷都
526年磐余玉穂宮に遷都

物集女車塚古墳・全景
物集女車塚古墳・全景

物集女車塚古墳は完璧な排水溝も特徴の一つで、
古墳側面から露出した実物大の排水溝を見学できます。

排水システムが適切に施工され、1500年以上にわたり
玄室が大雨から守られてきました。

物集女車塚古墳・排水溝
物集女車塚古墳・排水溝

淳和天皇の塚とも噂された物集女車塚古墳の北西300mには
本物の淳和天皇火葬塚があります。

淳和天皇は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母は藤原百川の娘旅子です。
藤原旅子は長岡京で亡くなり、都の西北にあたる大枝の宇波多陵に葬られました。
物集女街道は藤原旅子、淳和天皇にとって馴染みの道だったのでしょう。
 
淳和天皇は在位中に、政治改革を行うとともに日本後紀・令義解を編纂しました。
承和7年(840)に55歳で死去し、遺言により火葬にして京都市大原野に散骨されました。


淳和天皇火葬所
淳和天皇火葬塚

淳和天皇火葬所の森では百舌鳥が盛んに高鳴きをしており秋の深まりを感じました。

物集女(もずめ)の地名の由来は、河内国大鳥郡の百舌鳥の一族が、
この地に移り住んだとの説もありますが、
物集は文字通り物が沢山集まった物流の地のことでしょう。

新撰姓氏録には’物集連、始皇帝9世孫竹支王之あと’とあり、
物集女郷は秦氏の居住地で、物集女氏も秦氏の系列と考えられます。

秦氏は灌漑の為に大堰川から桂川用水路を引き水路を引きましたが、
それに対応する陸路が物集女街道と思います。

IMG_0397
淳和天皇火葬所の百舌鳥

中世になると物集女氏が勃興し、室町時代には物集女城が築かれました。
 
物集女氏は秦氏の一族で、物集女荘の代官としてこの地の有力者でしたが、
織田信長に従わず1575年に細川藤孝によって滅ぼされました。

御所街道交差点の南西側に物集女氏の居城であった物集女城跡があり、
堀や土塁の一部が残されています。

IMG_0410
物集女城跡


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