エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・玉津島神社

玉津島神社(和歌山市・和歌浦中)

玉津島神社(和歌山市・和歌浦中)に関する記事です。

玉津島神社は和歌山市南部の和歌川が和歌浦湾に注ぐ河口に鎮座していました。

和歌浦2


祭神:稚日女姫、息長足姫、衣通姫
配祀:明光浦霊(あかのうら)

稚日女尊(わかひるめ)は、神戸の生田神社の祭神でもあり、
息長足姫が祭りました。

稚日女尊は伊弉諾・伊弉冉尊の御子、天照大御神の妹神で、
別名を丹生都比売神(にふつひめ)とも称します。


玉津島神社
玉津島神社の鳥居

息長足姫尊(神功皇后)が三韓征伐に出兵された際、
稚日女尊を高野山山麓の伊都郡かつらぎ町天野に
丹生都比売神(にふつひめ)として分霊しました。

これ以降、毎年天野の祭礼には神輿がはるばる玉津島に渡御する
「浜降りの神事」が室町時代まで行われてきました。
 
後に皇后ご自身も、に玉津島神社に合祀されています。

玉津島神社2
玉津島神社の拝殿

第3の祭神の衣通姫(そとおり)は第19代允恭天皇(いんぎょう)の后で、
和歌の道に秀でた絶世の美女でした。

第58代光孝天皇(平安初期)の夢枕に衣通姫が現れて和歌の浦の歌を詠まれたため、
光孝天皇により当社に合祀されました。

以来、衣通姫は「和歌三神」の一柱として、
天皇、貴族はもとより広く文人墨客から崇められています。

注)和歌三神の一説⇒柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫

たちかへり またもこの世に 跡たれむ  名もおもしろき 和歌の浦波  (衣通姫)


玉津島神社3
玉津島神社の中門
 
玉津島神社4
根上り松(室町時代には7本の根上り松がご神体)

拝殿の左奥には聖武天皇に随行した
宮廷歌人山部赤人が詠んだ玉津島讃歌碑があります。

万葉学者・犬養孝氏が揮毫(きごう)されたものですが、
そのうちの反歌の1首です。 

若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み  葦辺をさして 鶴鳴き渡る  (山部赤人)

この歌の’潟を無み’が片男波(かたおなみ)となり、
現在ではビーチの長さ1200mの海水浴場となっています。

玉津島神社5
 
山部赤人の万葉歌碑(聖武天皇に随行)


玉津島一帯は玉出島ともいわれ、いにしえ、満潮時には6つの島山(玉津島山)が
あたかも玉のように海中に点在していたとされます。

玉津島山
玉津島山の内の3島山(現在海中にあるのは妹背山のみ)

<関連記事>
玉津島神社の参道①奠供山(てんぐ)
玉津島神社の参道②塩竈神社(和歌山市・和歌浦中)
玉津島神社の参道③
不老橋(和歌山市・和歌浦中) 
玉津島神社の参道⑥
和歌浦天満宮(和歌山市・和歌浦西)
玉津島神社の参道⑦
紀州東照宮(和歌山市・ 和歌浦西)

玉津島神社の参道①奠供山

玉津島神社の参道①奠供山(てんぐ)に関する記事です。

奠供山(てんぐやま)は、玉津島神社の背後にある神奈備山のことです。

登山道は拝殿の右奥にあり、すぐに頂上に出ますので、
是非登って聖武天皇が絶賛した風景を堪能してください。

奠供山1
6つの玉津島山の一つ・奠供山(てんぐやま)

玉津島神社では稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊の3柱の祭神に
明光浦霊(あかうら)を配祀しています。

この明光浦霊とは奠供山から見える和歌浦の風光明媚な風景の守護霊のことで、
聖武天皇の命で配祀されました。

私が登頂した時は、明光浦霊はイソヒヨドリの姿で現れました。
 
奠供山3
奠供山の山頂で
風光明媚な風景を守護していたイソヒヨドリ

神亀元年(724年)に即位した聖武天皇は、
同年に和歌浦へ行幸して14日間滞在しました。
 
奠供山からの和歌浦の景観に感動し、明光浦(あかのうら)と名付け、
さらにこの地の景観を守るため番人を置くことを命じています。 

奠供山2
奠供山山頂から片男波を一望

更に765年には聖武天皇の娘である称徳天皇が
和歌浦に行幸されました。

この時は奠供山南麓に天皇が眺望を楽しむために
「望海楼」が建設され、7日間滞在されています。

奠供山の山頂には、望海楼遺址碑があり、
そのことが刻まれています。

この碑は幕末の紀州藩の儒学者・仁井田好古の撰文によるものです。

望海楼碑 (2)
奠供山の山頂にある望海楼遺址碑

玉津島神社の参道②塩竈神社(和歌山市・和歌浦中)

玉津島神社の参道②塩竈神社(和歌山市・和歌浦中)に関する記事です。

塩竈神社(しおがま)は結晶片岩でできた鏡山の南面に鎮座する神社で、
元は玉津島神社の抜所で、輿の窟(こしのいわや)と呼ばれていました。

塩竈神社1
鏡山の南面に鎮座する塩竈神社

祭神:塩槌翁尊(しおづちおじ)

祭神の塩槌翁は塩土老翁とも表記され、
堺市の開口神社の祭神でもありました。

塩土老翁は海を守り、塩を司る神で、
山幸彦が兄の海幸彦の釣針をなくして困っていた時、
竜宮城を訪れるよう助言してくれた神様です。

塩槌翁が、山幸彦と豊玉姫の縁を結びつけ子供が産まれたことから、
地元では安産の守護神社として信仰されてきました。
 
塩竈神社5
輿の窟と呼ばれる岩穴

拝所は、海風により自然に形成された洞窟で、
輿の窟(こしのいわや)と呼ばれる岩穴に小さな拝殿が造られています。

輿の窟と呼ばれていた理由は、
かつて「浜降り神事」の際に神輿が奉置される場所だったためです。

「浜降り神事」とは、高野山の地主神である丹生都比売(稚日女)の心霊を乗せた神輿が、
紀の川沿いに玉津島神社まで渡御する神事で、
神輿が一晩奉置されるところが興の窟でした。

塩竈神社2
「浜降り神事」の際に神輿が奉置された興の窟


和歌浦は結晶片岩の断崖が続く荒磯で、
この岩のことを、線香に使う香木の伽羅に似ているため、
伽羅岩(きゃら)と呼んでいます。

伽羅岩は約2億年前に「広域変成作用」とよばれる強い圧力や熱のはたらきによって、
たい積岩などが結晶片岩などの変成岩になったものです。

結晶片岩は結晶が一定方向にならんで縞模様を形成しており、
薄くはがれやすい構造になっています。

塩竈神社4
伽羅岩(きゃらいわ)と呼ばれる結晶片岩


玉津島神社の参道⑥和歌浦天満宮(和歌山市・和歌浦西)

玉津島神社の参道⑥和歌浦天満宮(和歌山市・和歌浦西)に関する記事です。


和歌浦天満宮は和歌浦の入江の痕跡を残す
御手洗池に臨む小高い「天神山」の中腹に鎮座します。

御手洗池から見て、左の建物が和歌浦天満宮、
右の建物が紀州東照宮です。

新和歌浦2



祭神:菅原道真

和歌浦天満宮は、菅原道真が太宰府へ赴く途中、
風波を避けて和歌浦に立寄りましたが、
参議で漢詩人の橘直幹(たちばな・なおもと)が、
これを忍んで康保年間(964~968)に創建したと伝わります。


 和歌浦天満宮1
和歌浦天満宮の鳥居と楼門


菅原道真公が和歌浦に立ち寄ったのは901年のことですが、
この土地の漁民は大変喜んで、敷物が無いので、
船を固定する為の艫綱(ともづな)を敷いて歓迎したそうです。

このことから天満宮には綱敷天神という名前の神社もあり
大阪梅田 、神戸須磨の綱敷天神が有名です。

和歌浦天満宮2
和歌浦天満宮の楼門への急階段


菅原道真は嵐が静まると、
現在の和歌浦天満宮が鎮座する天神山で
2首の歌を詠んで大宰府へ発ったとされます。


老を積む 身は浮き船に 誘はれて 遠ざかり行く 和歌の浦波 (道真)

見ざりつる 古しべまでも 悔しきは 和歌吹上の 浦の曙        (道真)


和歌浦天満宮3
和歌浦天満宮の楼門から前拝殿

天正13(1585)年には、秀吉の兵乱に遭遇し、社殿を焼失しました。

現在の社殿は慶長11(1606)年に
初代紀州藩主の浅野幸長によって再建されたものです。

浅野幸長は秀吉の家来として活躍しましたが、関ヶ原の戦では家康軍に属し、
37万石の和歌山藩主となっています。

和歌浦天満宮6
和歌浦天満宮の拝殿と本殿


和歌浦はフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込み
4000m級の海溝を形成する南海トラフに近接する海岸の一つです。

浅野幸長が社殿を再建した後も3つの南海巨大地震が起こっていますが、
社殿が無事だったということは、地震の時はここまで登れば無事だということです。

1707年の宝永南海地震
1854年の安政南海地震
1946年の昭和南海地震

和歌浦天満宮5
和歌浦天満宮の本殿

「学問の神様」として信仰を集める和歌浦天満宮の境内には、
入学試験や資格試験への合格を祈願する絵馬がたくさんかけられていました。

菅原道真の絵馬が可愛かったので、一枚写させてもらいました。

和歌浦天満宮7
合格祈願の絵馬

玉津島神社の参道③不老橋と三断橋(和歌山市・和歌浦中)

玉津島神社の参道③不老橋と三断橋(和歌山市・和歌浦中) に関する記事です。

不老橋と三断橋はどちらも
玉津島神社のすぐ前にある江戸時代に架けられた石橋です。
 
不老橋は、第10代紀州徳川藩主治宝(はるとみ)の命により1851年に完成しました。

徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の際に
徳川家の人たちや東照宮関係者が,
片男波にあった御旅所に向かうために架けられました。

不老橋1
片男波に架けられた不老橋1

「不老橋」の名前の由来は、
和歌の神であり絶世の美人と伝えられる
玉津島神社の祭神、衣通姫(そとおりひめ)を歌った
住吉神社の神主・津守国基の歌に因んで命名されたようです。 

年ふれど老いもせずして和歌の浦に幾代になりぬ玉津島姫 津守国基 (1023-1102年)


不老橋2
 不老橋2

江戸時代のアーチ型石橋は珍しく、
特に勾欄部分の雲を文様化したレリーフが優れているとか・・・・

不老橋3
不老橋3

不老橋と同じ、和歌浦に石材で作られたもう一つの橋が三断橋です。

徳川頼宣が妹背山に母の供養のために
海禅院多宝塔を建てた時に、三断橋も架けました。

中国の杭州の西湖に架かる橋をモデルにしたとも言われ、
3つの小さなアーチ式の石橋を、
繋いだ形が特徴で三断橋の名前の由来です。

三段橋1
妹背山に架けられた三断橋

玉津島一帯は玉出島ともいわれ、いにしえ、
満潮時には6つの島山(玉津島山)が
あたかも玉のように海中に点在していたとされます。

6つの山のなかで唯一小島として残っている島山が妹背山で、
玉津島と言われた当時の面影が偲ばれる場所です。

玉津島山

注)6つの島山とは船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山、妹背山

三断橋の正面が妹背山、右手には観海閣です。

観海閣は和歌浦を愛した徳川頼宣が建てたとされる水上楼閣で、
頼宣がこの楼閣から紀三井寺を遥拝したとも伝えられています。

入り江に浮かぶ船や月を眺める絶好の場所として、
現在も多くの人々に親しまれています。


 三段橋2
三断橋の正面が妹背山、右手には観海閣


玉津島神社の参道⑦紀州東照宮(和歌山市・ 和歌浦西)

玉津島神社の参道⑦紀州東照宮(和歌山市・ 和歌浦西)に関する記事です。

紀州東照宮は和歌浦湾の入り江を眼下に納める雑賀山に鎮座します。

入江の名残の御手洗池から見て、右の建物が紀州東照宮、
左の建物が和歌浦天満宮です。

新和歌浦2

祭神:徳川家康 
     徳川頼宣(よりのぶ)  

紀伊国は関ヶ原の戦いの後、浅野幸長に与えられ、
外様の浅野家の治める紀州藩が成立します。

浅野幸長はこの時、荒れた和歌浦天満宮を修復し現在の社殿を建てました。
 
紀州東照宮1
紀州東照宮の鳥居と社標

その後、浅野家は安芸国広島藩に移され、
それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が藩主となり
紀州徳川家の治める親藩の紀州藩が成立します。

この徳川頼宣が元和7年(1621年)に南海道の総鎮護として創建したのが、
紀州東照宮で、関西の日光とも称されます。 

紀州東照宮2
紀州東照宮の青石が敷き詰められた参道

 参道を進むと、楼門前に侍坂といわれる108段の石段がありますが、
108という数字は人間の煩悩の数を表しているといわれ、
除夜の鐘も108回衝かれます。


紀州東照宮3
紀州東照宮の侍坂(108段の石段)

しかし先日の台風11号で侍坂の脇の木が倒れたとかで、
階段を登るのは禁止で、
左にある緩やかな参道から登っていきました。

紀州東照宮4
紀州東照宮の楼門から本殿

左甚五郎の彫刻、狩野派・土佐派の障壁画などが施された社殿
朱塗り極彩色の楼門など豪華絢爛を誇ります。
 
紀州東照宮5
紀州東照宮の本殿

紀州東照宮の拝殿脇に、面白そうなものを見つけました。

 砲弾は日露戦争時代のものが奉納されたとのことです。
 
その砲弾の周りには権現猿という雄雌の猿が沢山いました。

祭神の家康は東照大権現と呼ばれたために権現猿なのでしょう。

雌雄いるということは安産の縁起物かも知れませんね。 

 
紀州東照宮6
砲弾と権現猿(安産祈願か?)

紀州東照宮の境内社の弁財天社で、祭神は市杵島姫命です。

紀州東照宮が雑賀山に建立されたとき、雑賀山の守護神として
この弁財天社がたてられました。

紀州東照宮7
紀州東照宮の境内社の弁財天社

紀州東照宮は、比較的歴史の新しい神社かも知れませんが
景観も最高で、紀州を実感する為にも、
予定の神社を後日にして、参拝してよかったと思っています。 


カテゴリー
最新コメント
アクセスカウンター

    ユニークアクセス
    • 今日:
    • 昨日:
    • 累計:

    • ライブドアブログ