エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@売布神社

売布神社(兵庫県・宝塚市・売布)

売布神社(兵庫県・宝塚市・売布)に関する記事です。

売布神社(めふ)は阪急宝塚線の売布神社駅の西300m
徒歩15分程度の丘に鎮座する神社です。

売布神社駅
売布神社駅

駅前には狐池がありますが右(東)へ行くと中山寺方面、
左のカトリック修道院の前の小道を登った先に売布神社の鳥居があります。

中山荘園方面
売布神社駅前の狐池(中山・中山寺奥の院方面)

売布神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる賣布神社に比定される式内小社です。

祭神:下照姫、天稚彦(あめ・わかひこ)

祭神の下照姫は、出雲の大国主の娘で、
出雲平定のために高天原から遣わされた天稚彦と結婚します。

天稚彦が高天原の使命を果たさない為、天井からの矢で射殺され
下照姫は喪屋(もや)をつくって8日8夜歌舞して弔いました。

売布神社の鳥居1
売布神社の鳥居

社殿によると売布神社は推古天皇18年(605年)の創建です。

下照姫は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、
稲を植え麻を紡ぎ布を織ることを教えたそうです。

その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残ります。

売布神社2
売布神社の注連縄柱

このあたり一帯は物部氏一族の若湯坐連の本拠地です。

本来の祭神は宇摩志麻治命の七世孫、
若湯坐連の祖である大咩布命(意富売布連:おおめふ)と考えられています。

垂仁天皇は誉津別皇子が話せるようになった時、喜び鳥取部の職を設けたが
同時に大湯坐、若湯坐を設けています。

注1:湯坐(ゆえ)とは高貴な子に湯をつかわせるのに介添えをした女性のこと、転じて養育者

売布神社3
売布神社の拝殿

江戸時代に寺社奉行大岡忠相より地誌編集を命じられた並河誠所により、
貴布大明神と呼ばれていた当社が、
神名帳に記される賣布神社であることが明らかにされました。、

この並河誠所が建てた社号標石が境内に残っていてます。

売布神社4
賣布神社の社号標

賣布とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味するそうで、
貴布大明神と呼ばれていたことなどから、武庫川 の水運との関係も連想されます。

豊玉神社
境内社の豊玉神社

<関連記事>
売布神社の参道①中山寺(宝塚市・中山寺) 
売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺) 
売布神社の参道③伊和志津神社(宝塚市・伊孑志)いそし
売布神社の参道④中山荘園古墳(宝塚市・中山荘園)
売布神社の参道⑤高売布神社(三田市・酒井)
売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)
売布神社の参道⑪小戸神社(川西市・小戸)おおべ
売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)くず
売布神社の参道⑬多田神社(川西市・多田院・多田所町)
売布神社の参道⑭多太神社(川西市・平野)
売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)

 



売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)

売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)に関する記事です。

鴨神社はJR川西池田駅の南700m、猪名川を見下ろす標高40mの台地にあり、
周囲を猪名川支流の最明寺川が巡ります。

川西~池田マイマップ

川西~池田マイマップ

鴨神社は旧石器時代から平安時代にかけての加茂遺跡の中にある神社で、
東西800m,南北400mの規模の広大な弥生時代の環濠集落遺跡の中心に鎮座します。

加茂遺跡
鴨神社・鴨遺跡の鳥瞰図

鴨神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる式内小社です。

賀茂一族の居住地だったので、京都の上賀茂神社と同じ祭神の別雷神が祀られています。

祭神:別雷神

神社の由緒を記した資料は天明年間(1781~1788)の火災により焼失しましたが、
神社の周囲の加茂遺跡から鴨神社が辿った歴史を鮮烈に垣間見ることができます。

鴨神社2
鴨神社の鳥居

鴨神社3
鴨神社の拝殿

鴨神社が弥生式遺跡の中心地に鎮座し、
鴨神社の創始は、弥生時代以来の地域集落の住民の安全や、
稲作の豊穣を願う祈りの場所であったと考えられます。

鴨神社4
加茂遺跡石標

栄根銅鐸は明治44年に加茂遺跡の東側の崖に埋められていた高さ114cmの大きな銅鐸です。

銅鐸の多くは30から40cmの大きさで、釣り下げて鳴らすのに適していますが、
弥生時代末期には栄根銅鐸のように巨大化していきます。

なぜか栄根銅鐸は集落が変革し小規模になる弥生時代末期(2世紀)のものです。

注1)発見当時は栄根の地名であったことから栄根銅鐸と命名 

この時期に銅鐸は、日本全土から忽然と姿を消してしまいます。

現在我々が見れる銅鐸は、地中に丁寧に埋められた銅鐸ですが、
大半の銅鐸は侵略者に破壊されたり、他の銅製品に作り替えられたりしました。

これを銅鐸文化の終焉と言いますが、
この銅鐸祭祀と入れ替わり、大和に鏡祭祀を行う巨大古墳文化が現れます。

栄根銅鐸
栄根銅鐸

弥生時代後期(1世紀~3世紀前半)は、魏志倭人伝などに見える「倭国大乱」、
神武天皇の東征の時代にあたり、地域間の争いをとおした日本統合の時代です。

環濠0
環濠集落(柵で集落を囲み侵略を防ぐ)

加茂遺跡の環濠集落は単なる集合住居ではなく、
到る所に侵略者を防ぐ為の仕掛け見られる要塞でもあります。

中でも防御性に特徴がある、斜面環濠をもつ例の少ない遺跡です。
数条の濠が集落を囲み、集落の中へ入る通路から、
弓矢や投石などによって侵入者を迎撃する極めて防御性の高い構造になっています。

弥生時代の後期には、川西では、大集落が急に小さくなり、
新たな集落が現われるなど、大きな社会変化が伺えます。

弥生時代後期の大集落の解体は、畿内全体の傾向で、
この地域だけでなく、弥生社会全体に及ぶ大きな変動があったと考えられます。

環濠1
環濠集落と防御に適した斜面環濠


 



売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)

売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)に関する記事です。

勝福寺古墳は能勢川西口駅から
県道の川西篠山線を北へ徒歩15分程の場所にあります。

勝福寺バス停あたりで県道から左の小道に入りますが、
喧騒の道路から一転して静かで緑豊かな散歩道になっています。

勝福寺山門を通過し、八坂神社の参道の途中に勝福寺古墳の標識があります。

勝福寺
勝福寺本堂(古墳はこの裏山)

火打の地名の由来は
多田院より伊丹、大阪へ行く街道にあった大きな火打石によります。

八坂神社
八坂神社(古墳は参道の右)

勝福寺古墳は画文帯神獣鏡・銀象嵌竜文刀など貴重な遺跡が
出土したことで明治時代から全国的に知られる前方後円墳です。

また現在までの再調査により後円部に小さな第2石室、
前方部にも石室の無い2つの木棺が発見されました。

もちろん勝福寺古墳の主は、
第1石室に埋葬された川西地区を支配した豪族です。

勝福寺古墳1
勝福寺古墳の後円部(第1石室)

<勝福寺古墳>
形状    :前方後円墳
サイズ   :全長40m
築造時期:6世紀初頭
埋葬施設:後円部 第1、2横穴式石室
        前方部 北棺、南棺
副葬品  :画文帯神獣鏡、六鈴鏡、銀象嵌竜文刀他豪華
被葬者  :継体天皇を支援した豪族

また日本で最初の横穴式石室を持つ古墳ですが、
横穴式は追葬ができるのを知らずに第二石室を造ったと思われます。 
 
石室
第一石室               第二石室

発掘調査によってみつかった埴輪が、
尾張地域と同じ製造方式の埴輪であることがわかり、
被葬者が尾張と深い係りを持った人物と推定されます。

継体天皇が大和に入るまでの正妻は尾張草香の娘の目子媛(めのこ) です。

勝福寺古墳の築造時期、豪華な副葬品、尾張地域の埴輪等から
6世紀前葉に淀川流域で台頭した継体天皇を支援した
有力豪族の墳墓と推定されています。

埴輪
出土した円筒埴輪(埴輪の底に紐跡が残る尾張式)

後円部中央の第1石室からは画文帯神獣鏡や銀象嵌竜文刀が発見されました。

竜文刀は鉄刀の柄に竜の模様の象嵌を施したもので、
タガネで模様を彫り銀線を埋め込んだ優れた作品です。

注1)象嵌(ぞうがん)とは工芸品の装飾技法の一つ。
   素材となる金属・木材・陶磁などに模様を彫り、金、銀、などを埋め込む。
 
銀象嵌竜文刀
銀象嵌竜文刀(後円部)

画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡(後円部)

金製耳環と銀製クチナシ玉
金製耳環や銀製クチナシ玉(前方部)

クチナシ玉の名前の由来となったクチナシの実ですが、あまり似ているとは思えません。

くちなしの実
クチナシの実





売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)

売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)に関する記事です。

九頭神社(くず)は能勢川口駅から能勢電鉄に乗り
4つ目の鼓滝駅(つつみがたき)近くです。

能勢街道マイマップ

能勢街道マイマップ

電車は鶯の森駅から鼓滝駅に向う途中で猪名川を渡りますが、
その猪名川がほんの短時間の間に急峻な渓谷に変わっていたのには驚きました。

鼓滝駅
鼓滝駅(つつみがたき)

予定を変更してまず、駅の傍にあるはずの渓谷を確認にいきました。

駅の西側に猪名川があり、多田銀山の地に架かる銀橋がありました。
この銀橋から先ほど電車で通過した能勢電鉄の猪名川橋梁にかけて
岩が切り立ち、滝のように流れが早くなっています。

鼓滝駅の地名「鼓が滝」の由来は
滝の音が鼓を打つ音に似ているためとのことです。

猪名川1
銀橋から猪名川

これから参拝する神社は九頭神社(くず)、
九頭というと福井県の九頭竜川です。
川西市にも鼓が滝の地があり、九頭竜川のような猪名川の渓谷がありました。

九頭神社は鼓滝駅の東400m、
先ほど行った銀橋とは逆方向になります。

九頭神社1
九頭神社の鳥居

九頭神社は天禄元年(970年)頃、
この地を本拠とした源満仲によって創建されました。

満仲は、都で武官として活動した後、
摂津国多田庄(現在の川西市多田)に本拠地を構え、
一族郎党と共に、一大武士団を築き上げていきます。

九頭神社2
九頭神社の鳥居

満仲公は武門の棟梁として、国家鎮護の大役を果たし、
沼地を開拓して多くの田畑を造り、
又河川を改修して港湾を築き、又鉱山事業などに力を注ぎ、
国力の増進と源家繁栄の基礎を築きました。

満仲の長男が、大江山の鬼退治で有名な頼光。
三男が頼信で、頼義、八幡太郎義家、為義、義朝、頼朝と続く、
源家の本流・河内源氏を形成していく事になるのです。

九頭神社3
九頭神社の本殿

千年余り前、源満仲が大阪・住吉神社に願を掛け
「矢を空に向けて射てみよ。そのとどまる所を住まいとすべし」
とお告げを受けました。

満仲が白羽のかぶら矢を放つと、
空高く五月山を越え、深山に囲まれた湖へ落ちました。

湖には、九つの首を持つ龍が住み、
里に下りては作物を奪うなど村人を苦しめていました。

矢は龍の目に命中。満仲が次々と龍を切ると、
龍は苦しみに暴れ、山を突き破り、湖水が流れ出ました。

やがて水が引くと、多くの田畑が現れました。
満仲は、この地に居城を築き、多田源氏を名乗りました。

また、満仲が矢の場所を問いながら訪ね来たことが
「矢問」(やとう)の地名の由来になりました。

<川西市HP抜粋>
満仲像
源満仲像




売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺)

売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺) に関する記事です。

中山寺境内には白鳥塚古墳(中山寺古墳)と呼ばれる古墳があり、
巨石で造られた石室と刳り貫式の家形石棺を持ことが特徴です。

<白鳥塚古墳>
形状    :円墳
サイズ   :径30m以上
築造時期 :七世紀初頭
埋葬施設 :横穴式石室、家形石棺(くり貫き式)
被葬者説1:大中姫
被葬者説2:地域の土豪

 

中山寺古墳1
白鳥塚古墳1(長さ9mの羨道)

大中姫は記紀にみえる仲哀天皇の妃(神功皇后の先妃)で
香坂皇子と忍熊皇子を産みました。

しかし仲哀天皇の死後、神功皇后が後の応神天皇を産んだために,
香坂・忍熊兄弟との間に皇位継承争いが起こります。

結局、香坂皇子が兎我野で赤い猪に殺され、
忍熊皇子は、宇治で最終決戦となりますが、
敗北して琵琶湖に入水し、宇治川で遺体が発見されます。

 

中山寺古墳2
白鳥塚古墳2(巨大天井石)

中山寺には聖徳太子が大中姫と忍熊皇子の霊を祀ったとの伝承があり,
そのために白鳥塚古墳が大中姫の墓とされ逸話が出来たものと思われます。

♪♪白鳥塚古墳が、仲哀天皇の先后である大中姫の墓で、
大中姫の子、忍熊皇子もこの地に葬られた。

異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、
忍熊皇子の霊が白鳥となって古墳の羨道からが飛び出し、
中山寺奥之院の石の中に消えた♪♪


中山寺古墳3
 
白鳥塚古墳3(巨石石室)

 

中山寺古墳4
白鳥塚古墳4(くり貫き式家形石棺)
 




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