エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・売布神社

売布神社(兵庫県・宝塚市・売布)

売布神社(兵庫県・宝塚市・売布)に関する記事です。

売布神社(めふ)は阪急宝塚線の売布神社駅の西300m
徒歩15分程度の丘に鎮座する神社です。

売布神社駅
売布神社駅

駅前には狐池がありますが右(東)へ行くと中山寺方面、
左のカトリック修道院の前の小道を登った先に売布神社の鳥居があります。

中山荘園方面
売布神社駅前の狐池(中山・中山寺奥の院方面)

売布神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる賣布神社に比定される式内小社です。

祭神:下照姫、天稚彦(あめ・わかひこ)

祭神の下照姫は、出雲の大国主の娘で、
出雲平定のために高天原から遣わされた天稚彦と結婚します。

天稚彦が高天原の使命を果たさない為、天井からの矢で射殺され
下照姫は喪屋(もや)をつくって8日8夜歌舞して弔いました。

売布神社の鳥居1
売布神社の鳥居

社殿によると売布神社は推古天皇18年(605年)の創建です。

下照姫は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、
稲を植え麻を紡ぎ布を織ることを教えたそうです。

その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残ります。

売布神社2
売布神社の注連縄柱

このあたり一帯は物部氏一族の若湯坐連の本拠地です。

本来の祭神は宇摩志麻治命の七世孫、
若湯坐連の祖である大咩布命(意富売布連:おおめふ)と考えられています。

垂仁天皇は誉津別皇子が話せるようになった時、喜び鳥取部の職を設けたが
同時に大湯坐、若湯坐を設けています。

注1:湯坐(ゆえ)とは高貴な子に湯をつかわせるのに介添えをした女性のこと、転じて養育者

売布神社3
売布神社の拝殿

江戸時代に寺社奉行大岡忠相より地誌編集を命じられた並河誠所により、
貴布大明神と呼ばれていた当社が、
神名帳に記される賣布神社であることが明らかにされました。、

この並河誠所が建てた社号標石が境内に残っていてます。

売布神社4
賣布神社の社号標

賣布とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味するそうで、
貴布大明神と呼ばれていたことなどから、武庫川 の水運との関係も連想されます。

豊玉神社
境内社の豊玉神社

<関連記事>
売布神社の参道①中山寺(宝塚市・中山寺) 
売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺) 
売布神社の参道③伊和志津神社(宝塚市・伊孑志)いそし
売布神社の参道④中山荘園古墳(宝塚市・中山荘園)
売布神社の参道⑤高売布神社(三田市・酒井)
売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)
売布神社の参道⑪小戸神社(川西市・小戸)おおべ
売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)くず
売布神社の参道⑬多田神社(川西市・多田院・多田所町)
売布神社の参道⑭多太神社(川西市・平野)
売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)

 

売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)

売布神社の参道⑩鴨神社(川西市・加茂)に関する記事です。

鴨神社はJR川西池田駅の南700m、猪名川を見下ろす標高40mの台地にあり、
周囲を猪名川支流の最明寺川が巡ります。

鴨神社は旧石器時代から平安時代にかけての加茂遺跡の中にある神社で、
東西800m,南北400mの規模の広大な弥生時代の環濠集落遺跡の中心に鎮座します。

加茂遺跡
鴨神社・鴨遺跡の鳥瞰図

鴨神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる式内小社です。

賀茂一族の居住地だったので、京都の上賀茂神社と同じ祭神の別雷神が祀られています。

祭神:別雷神

神社の由緒を記した資料は天明年間(1781~1788)の火災により焼失しましたが、
神社の周囲の加茂遺跡から鴨神社が辿った歴史を鮮烈に垣間見ることができます。

鴨神社2
鴨神社の鳥居

鴨神社3
鴨神社の拝殿

鴨神社が弥生式遺跡の中心地に鎮座し、
鴨神社の創始は、弥生時代以来の地域集落の住民の安全や、
稲作の豊穣を願う祈りの場所であったと考えられます。

鴨神社4
加茂遺跡石標

栄根銅鐸は明治44年に加茂遺跡の東側の崖に埋められていた高さ114cmの大きな銅鐸です。

銅鐸の多くは30から40cmの大きさで、釣り下げて鳴らすのに適していますが、
弥生時代末期には栄根銅鐸のように巨大化していきます。

なぜか栄根銅鐸は集落が変革し小規模になる弥生時代末期(2世紀)のものです。

注1)発見当時は栄根の地名であったことから栄根銅鐸と命名 

この時期に銅鐸は、日本全土から忽然と姿を消してしまいます。

現在我々が見れる銅鐸は、地中に丁寧に埋められた銅鐸ですが、
大半の銅鐸は侵略者に破壊されたり、他の銅製品に作り替えられたりしました。

これを銅鐸文化の終焉と言いますが、
この銅鐸祭祀と入れ替わり、大和に鏡祭祀を行う巨大古墳文化が現れます。

栄根銅鐸
栄根銅鐸

弥生時代後期(1世紀~3世紀前半)は、魏志倭人伝などに見える「倭国大乱」、
神武天皇の東征の時代にあたり、地域間の争いをとおした日本統合の時代です。

環濠0
環濠集落(柵で集落を囲み侵略を防ぐ)

加茂遺跡の環濠集落は単なる集合住居ではなく、
到る所に侵略者を防ぐ為の仕掛け見られる要塞でもあります。

中でも防御性に特徴がある、斜面環濠をもつ例の少ない遺跡です。
数条の濠が集落を囲み、集落の中へ入る通路から、
弓矢や投石などによって侵入者を迎撃する極めて防御性の高い構造になっています。

弥生時代の後期には、川西では、大集落が急に小さくなり、
新たな集落が現われるなど、大きな社会変化が伺えます。

弥生時代後期の大集落の解体は、畿内全体の傾向で、
この地域だけでなく、弥生社会全体に及ぶ大きな変動があったと考えられます。

環濠1
環濠集落と防御に適した斜面環濠


 

売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)

売布神社の参道⑮勝福寺古墳(川西市・火打)に関する記事です。

勝福寺古墳は能勢川西口駅から
県道の川西篠山線を北へ徒歩15分程の場所にあります。

勝福寺バス停あたりで県道から左の小道に入りますが、
喧騒の道路から一転して静かで緑豊かな散歩道になっています。

勝福寺山門を通過し、八坂神社の参道の途中に勝福寺古墳の標識があります。

勝福寺
勝福寺本堂(古墳はこの裏山)

火打の地名の由来は
多田院より伊丹、大阪へ行く街道にあった大きな火打石によります。

八坂神社
八坂神社(古墳は参道の右)

勝福寺古墳は画文帯神獣鏡・銀象嵌竜文刀など貴重な遺跡が
出土したことで明治時代から全国的に知られる前方後円墳です。

また現在までの再調査により後円部に小さな第2石室、
前方部にも石室の無い2つの木棺が発見されました。

もちろん勝福寺古墳の主は、
第1石室に埋葬された川西地区を支配した豪族です。

勝福寺古墳1
勝福寺古墳の後円部(第1石室)

<勝福寺古墳>
形状    :前方後円墳
サイズ   :全長40m
築造時期:6世紀初頭
埋葬施設:後円部 第1、2横穴式石室
        前方部 北棺、南棺
副葬品  :画文帯神獣鏡、六鈴鏡、銀象嵌竜文刀他豪華
被葬者  :継体天皇を支援した豪族

また日本で最初の横穴式石室を持つ古墳ですが、
横穴式は追葬ができるのを知らずに第二石室を造ったと思われます。 
 
石室
第一石室               第二石室

発掘調査によってみつかった埴輪が、
尾張地域と同じ製造方式の埴輪であることがわかり、
被葬者が尾張と深い係りを持った人物と推定されます。

継体天皇が大和に入るまでの正妻は尾張草香の娘の目子媛(めのこ) です。

勝福寺古墳の築造時期、豪華な副葬品、尾張地域の埴輪等から
6世紀前葉に淀川流域で台頭した継体天皇を支援した
有力豪族の墳墓と推定されています。

埴輪
出土した円筒埴輪(埴輪の底に紐跡が残る尾張式)

後円部中央の第1石室からは画文帯神獣鏡や銀象嵌竜文刀が発見されました。

竜文刀は鉄刀の柄に竜の模様の象嵌を施したもので、
タガネで模様を彫り銀線を埋め込んだ優れた作品です。

注1)象嵌(ぞうがん)とは工芸品の装飾技法の一つ。
   素材となる金属・木材・陶磁などに模様を彫り、金、銀、などを埋め込む。
 
銀象嵌竜文刀
銀象嵌竜文刀(後円部)

画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡(後円部)

金製耳環と銀製クチナシ玉
金製耳環や銀製クチナシ玉(前方部)

クチナシ玉の名前の由来となったクチナシの実ですが、あまり似ているとは思えません。

くちなしの実
クチナシの実


売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)

売布神社の参道⑫九頭神社(川西市・東多田)に関する記事です。

九頭神社(くず)は能勢川口駅から能勢電鉄に乗り
4つ目の鼓滝駅(つつみがたき)近くです。

電車は鶯の森駅から鼓滝駅に向う途中で猪名川を渡りますが、
その猪名川がほんの短時間の間に急峻な渓谷に変わっていたのには驚きました。

鼓滝駅
鼓滝駅(つつみがたき)

予定を変更してまず、駅の傍にあるはずの渓谷を確認にいきました。

駅の西側に猪名川があり、多田銀山の地に架かる銀橋がありました。
この銀橋から先ほど電車で通過した能勢電鉄の猪名川橋梁にかけて
岩が切り立ち、滝のように流れが早くなっています。

鼓滝駅の地名「鼓が滝」の由来は
滝の音が鼓を打つ音に似ているためとのことです。

猪名川1
銀橋から猪名川

これから参拝する神社は九頭神社(くず)、
九頭というと福井県の九頭竜川です。
川西市にも鼓が滝の地があり、九頭竜川のような猪名川の渓谷がありました。

九頭神社は鼓滝駅の東400m、
先ほど行った銀橋とは逆方向になります。

九頭神社1
九頭神社の鳥居

九頭神社は天禄元年(970年)頃、
この地を本拠とした源満仲によって創建されました。

満仲は、都で武官として活動した後、
摂津国多田庄(現在の川西市多田)に本拠地を構え、
一族郎党と共に、一大武士団を築き上げていきます。

九頭神社2
九頭神社の鳥居

満仲公は武門の棟梁として、国家鎮護の大役を果たし、
沼地を開拓して多くの田畑を造り、
又河川を改修して港湾を築き、又鉱山事業などに力を注ぎ、
国力の増進と源家繁栄の基礎を築きました。

満仲の長男が、大江山の鬼退治で有名な頼光。
三男が頼信で、頼義、八幡太郎義家、為義、義朝、頼朝と続く、
源家の本流・河内源氏を形成していく事になるのです。

九頭神社3
九頭神社の本殿

千年余り前、源満仲が大阪・住吉神社に願を掛け
「矢を空に向けて射てみよ。そのとどまる所を住まいとすべし」
とお告げを受けました。

満仲が白羽のかぶら矢を放つと、
空高く五月山を越え、深山に囲まれた湖へ落ちました。

湖には、九つの首を持つ龍が住み、
里に下りては作物を奪うなど村人を苦しめていました。

矢は龍の目に命中。満仲が次々と龍を切ると、
龍は苦しみに暴れ、山を突き破り、湖水が流れ出ました。

やがて水が引くと、多くの田畑が現れました。
満仲は、この地に居城を築き、多田源氏を名乗りました。

また、満仲が矢の場所を問いながら訪ね来たことが
「矢問」(やとう)の地名の由来になりました。

<川西市HP抜粋>
満仲像
源満仲像

売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺)

売布神社の参道②白鳥塚古墳(宝塚市・中山寺) に関する記事です。

中山寺境内には白鳥塚古墳(中山寺古墳)と呼ばれる古墳があり、
巨石で造られた石室と刳り貫式の家形石棺を持ことが特徴です。

<白鳥塚古墳>
形状    :円墳
サイズ   :径30m以上
築造時期 :七世紀初頭
埋葬施設 :横穴式石室、家形石棺(くり貫き式)
被葬者説1:大中姫
被葬者説2:地域の土豪

 

中山寺古墳1
白鳥塚古墳1(長さ9mの羨道)

大中姫は記紀にみえる仲哀天皇の妃(神功皇后の先妃)で
香坂皇子と忍熊皇子を産みました。

しかし仲哀天皇の死後、神功皇后が後の応神天皇を産んだために,
香坂・忍熊兄弟との間に皇位継承争いが起こります。

結局、香坂皇子が兎我野で赤い猪に殺され、
忍熊皇子は、宇治で最終決戦となりますが、
敗北して琵琶湖に入水し、宇治川で遺体が発見されます。

 

中山寺古墳2
白鳥塚古墳2(巨大天井石)

中山寺には聖徳太子が大中姫と忍熊皇子の霊を祀ったとの伝承があり,
そのために白鳥塚古墳が大中姫の墓とされ逸話が出来たものと思われます。

♪♪白鳥塚古墳が、仲哀天皇の先后である大中姫の墓で、
大中姫の子、忍熊皇子もこの地に葬られた。

異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、
忍熊皇子の霊が白鳥となって古墳の羨道からが飛び出し、
中山寺奥之院の石の中に消えた♪♪


中山寺古墳3
 
白鳥塚古墳3(巨石石室)

 

中山寺古墳4
白鳥塚古墳4(くり貫き式家形石棺)
 

売布神社の参道③伊和志津神社(宝塚市・伊孑志)

売布神社の参道③伊和志津神社(宝塚市・伊孑志)に関する記事です。

伊和志津神社は阪急宝塚駅から2つ目、阪急今津線の逆瀬川駅で下車し、
逆瀬川(さかせがわ)を下ること15分程にある神社です。

当社の地名の伊孑志(いそし)は気になる名前ですが、
六甲山系の武庫山麓の武庫川右岸の地名です。

逆瀬川駅
阪急今津線の逆瀬川駅

伊和志津神社は逆瀬川が武庫川に流入する400m手前の地点にあり、
逆瀬川の名前の由来は武庫川が氾濫すると逆流することによります。

篠山盆地から宝塚に流れ落ちた武庫川は、
水量も多く増水時には流れも激しくなります。

逆瀬川
武庫川の支流の逆瀬川

祭神 須佐男命

伊和志津神社(いわしず)は摂津国・武庫郡鎮座・月次新嘗と記される
伊和志豆神社(いわしず)に比定される式内大社です。 

同じ武庫郡の廣田神社の摂社・伊和志豆神社が論社です。

伊和居津神社1
伊和志津神社の鳥居

延喜式神名帳には伊和志豆と記されています。

境内にある手水舎横の碑(明治27年建立) には伊和志豆とありますので、
伊和志津に変更されたのはそれ以降だと思われます。
 
伊和居津神社4
伊和志豆神社の社号標と手水舎

伊孑志は、イソシと読み、日本書紀の仲哀天皇紀に見られる
古代氏族・伊蘇志臣ゆかりの地です。

伊蘇志臣は紀氏と同族で、天道根命の後裔氏とあります。

伊蘇志は五十迹手(いとで)と呼ばれた筑紫の伊都県主の祖です。

筑紫に行幸した仲哀天皇をでむかえ,伊蘇志の名をあたえられたとされ、
それがなまって伊都になったと伝えられます。

伊和居津神社2
伊和志津神社の拝殿

伊和居津神社3
伊和志津神社の拝殿2

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<関連記事>
伊和志津神社の境内①宝塚水天宮

平清盛の孫で史上最年少の安徳天皇を祀る神社です。

祭神:安徳天皇

安徳天皇は生後まもなく皇太子となり、数え三歳にして第81代天皇に即位されました。

しかし、東国で挙兵した源氏勢力が優勢となり、
平氏は安徳帝と三種の神器を携えて、壇ノ浦へ追い詰められます。 

最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は、「浪の下に極楽浄土があります」と慰め、
二人は海中へ身を投じます。
 

没年8歳という歴代最年少の天皇です。 
 

宝塚水天宮
安徳天皇を祀る宝塚水天宮

宝塚と安徳天皇の関係を調べてみると、
近隣の能勢に安徳天皇は壇ノ浦で生き延びたとの面白い逸話がありました。

江戸時代の1817年に能勢の農家の屋根裏から竹筒に入った古文書が発見され、
藤原経房という人が、息子に書いた手紙と分かりました。

壇ノ浦から
安徳天皇を守って能勢まで来たが
その一年後に安徳天皇が崩御されたことが記されています。
 

売布神社の参道⑭多太神社(川西市・平野)

売布神社の参道⑭多太神社(川西市・平野)に関する記事です。

多太神社は能勢電の平野駅の南へ300m程の位置にあります。

しかし今回は私とっては初めての猪名川の雰囲気を味わいたく
鼓滝駅から2駅程の区間を歩いて見ました。
多田神社2御社橋
猪名川

鼓滝駅前には猪名川に多田銀橋が架かり多田銀山を彷彿とさせます。

多田銀山は、古くから採掘された鉱山で、
東大寺の大仏の建立の際に銅が使用されたと伝わります。

江戸時代にも採掘が続けられており、銀山町として栄えましたが
明治以降は生産量は減少し、昭和48年に閉山しました。

多田銀橋の右上の丘は鼓ケ滝遺跡で、
標高100mの地にある弥生時代後期の集落遺跡です。

農耕に適さない山上に集落を営んだのは、
倭国大乱の時代で危機をいち早く知らせる
のろし台だったと考えられています。

銀橋
猪名川に架かる多田銀橋(右上の丘が鼓ケ滝遺跡)

多太神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる式内小社で、
平安時代以降、清和源氏の一派・多田源氏が氏神として信仰してきた神社です。

現在の祭神は日本武尊、大鷦鷯尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊です。

しかし、元々は、大和国・葛上郡 の多太神社と同じ、
祖神、太田田根子命を祭っていたと考えられています。

多太神社1
多太神社の鳥居

多太神社の地は大神郷(おおむち)と言い
川西市の多田から東谷のあたりをさす古い地名だそうです。

大神郷は大神氏(みわ)の本拠地の大和国大神郷と同じ地名で、
この地にも大神氏が居住したものと思われます。

大神神社の一族・大神氏がその祖神である
太田田根子を祀ったのが当社の創始です。

多太神社2
多太神社の拝殿

太田は多太、多田、大田とも書かれ、
太田の地は創世記の日本を知る上で重要な地名です。

*大田田根子は堺の大田から呼ばれて大物主を祭ります。
*呉越の呉の国から勝氏(すぐり)が日本に来て、紀伊・摂津三島・播磨揖保に大田村を残している。
(播磨国風土記)
*勝氏は秦氏のもとで使え、勝部集団を使い水田開発し、大田という地名を日本各地に残した。

多田銀山や弥生時代の集落も大田田根子の一族と関係しているように思えます。

多太神社3
多太神社の本殿

多太神社4
遥拝所と磐座


多太神社5福禄寿
福禄寿社

売布神社の参道④中山荘園古墳(宝塚市・中山荘園)

売布神社の参道④中山荘園古墳(宝塚市・中山荘園)に関する記事です。

中山荘園古墳は中山寺から売布神社へ行く途中の参道から
丘陵上に見えた存在感のある古墳です。

近くに見えるので予定を変更して寄ろうとしましたが、
くねくねと曲がる住宅街の道に迷い、
どうしても辿りつけず別途詳細地図を持参しての見学となりました。

中山荘園方面
売布の狐池からみた中山荘園方面の丘陵 

中山荘園古墳はライオンズマンションの敷地内の公園にあり、
マンション建設の規模を縮小してまで残してくれた古墳でした。

中山荘園古墳1
中山荘園古墳1

中山荘園古墳は中山寺白鳥塚古墳の西400m、
標高75m付近の見晴らしの良い丘陵南斜面に築かれた八角墳です。

八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵に多く、
飛鳥時代の古墳制度を考える上で重要な遺跡ということで
国の指定史跡になったそうです。

中山荘園古墳2
中山荘園古墳2

<中山荘園古墳>
形状 :八角墳
サイズ:径13m、高さ2.6m
築造 :七世紀中旬
出土品:ほとんど無し
被葬者:不明

中山荘園古墳3
中山荘園古墳3

中山荘園古墳4
中山荘園古墳4(石室内部)

八角墳の形状に関しては、八角形が天下八方の支配者という
中国の古代思想の影響からとも言われます。

八角墳としては京都府山科区の天智天皇陵や奈良県明日香村の天武・持統合葬陵などがあり、
いずれも本人の古墳に間違いないとされています。

中山荘園古墳5
中山荘園古墳5(発掘当時の八角形の石垣に囲まれた状態)

売布神社の参道⑪小戸神社(川西市・小戸)

 売布神社の参道⑪小戸神社(川西市・小戸)に関する記事です。

小戸神社(おおべ)は阪急宝塚線・川西能勢口駅の北東500mに位置します。

社地は猪名川を境界に大阪府の池田市に隣接し、境内から五月山が大きく見えます。

小戸神社1
小戸神社の鳥居

小戸神社は摂津国・河辺郡鎮座とされる式内小社です。

小戸(おおべ)の地名の由来は、雄家郷(おべ)から転化したもので、
雄家郷の中心は小戸神社あたりに比定されています。

雄家郷がおかれた河辺郡は明治期には
川西市・伊丹市・宝塚市・尼崎市の全域を含む広範囲な郡でした。

小戸神社2
小戸神社の拝殿

祭神:大山津見
合祀:天児屋根素盞嗚命

明治の合祀令で、素盞嗚命は小戸の八阪神社から
天児屋根命は花屋敷の細川姫神社から合祀されています。

小戸神社3
小戸神社の本殿

室町時代からの樹齢500年を数える天然記念物の大楠があり、
左の欅と助け合って共存してきましたが、
近年の道路工事による環境の悪化でとうとう枯死してしまいました。

欅と楠
左が大欅、右が枯死した大楠

つい最近まで小戸神社の境内には、
九頭龍伝承を継ぐ神社の一つである白龍神社がありました。

枯死した楠はその白龍神社の神木でしたが、
白龍神社は古文書に従い、鹿島神社の名前に戻されています。

久々知妙見宮は清和源氏の祖、
源満仲(多田満仲 912- 997)が開基したと伝わる妙見宮である。
天徳元年(957年)源満仲が矢文を放ったところ、岩に当たった。
その岩を矢文石と名付けて、その地に妙見宮を祀った。

小戸神社4
小戸神社の境内社・鹿島神社(かつての九頭龍伝承社)

小戸神社の西側・川西市役所一体に
弥生時代後期から中世にかけての小戸遺跡があります。

竪穴住居跡、土器・埴輪・ガラス玉・管玉・鉄鏃など
バラエティーに富んだ遺品が出土しました。

鍛冶をしたときにできる鉄くず(鉄さい)が出土し、
古墳時代には農具・武器などの鉄製品を作っていたことが判りました。

小戸遺跡出土の土師器
小戸遺跡出土の古墳時代の土師器(小型丸底壺)

雨乞いや厄払いで使用された奈良時代の土馬が出土しています。

雄家郷(おべごう)と呼ばれた場所で官人がここに生活し、
平城京と同じ神事が行われていたと思われます。

土馬
厄払いで使用された奈良時代の土馬

売布神社の参道⑬多田神社(川西市・多田院・多田所町)

売布神社の参道⑬多田神社(川西市・多田院・多田所町)に関する記事です。

多田神社は能勢電鉄平野駅の南西1.3km程に位置します。

その平野駅の改札を出た場所が歩道橋の上で、
そこに平野駅近くの観光場所として
駅の北500mの三ツ矢記念館と平野鉱泉跡が案内されていました。

当地は平野鉱泉を利用した三ツ矢サイダー発祥の地ですが
多田神社の祭神の源満仲(912-997)が平野鉱泉の発見者であり
三ツ矢サイダーの祖人でもあります。 

平野駅
能勢電鉄・平野駅

平安時代の中ごろに、源満仲が住吉大社より神託を受け、
矢を放ち、落ちた多田に城を築き、
矢を見つけた御家人に三ツ矢の姓と家紋を与えたという伝説があります。

この居城の近くで源満仲公が鷹狩りをした際、天然鉱泉を発見し、
明治初年頃まで「平野温泉郷」として栄えました。

なお三ツ矢記念館の地に鎮座する住吉神社は、
住吉大社から鉱泉の守り神として住吉大明神を勧請したものです。

多田神社1御社橋
多田神社の社叢と御社橋
 

多田の地は清和源氏武士団発祥の地であり、
源満仲が天禄元年(970年)に多田院を建立したのが多田神社の創始です。

祭神:源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家 

清和源氏は第56代清和天皇を祖とする
数多くの流れがある源氏の中でも武門の名家です。

多田神社3社頭
多田神社の南大門


多田神社4随身門
多田神社の随身門

第2の祭神の源頼光は満仲の長男で、
父満中の多田の地を相続し武士団を継承しました。

源頼光は武士団を従えていたことから、
大江山での酒呑童子退治や土蜘蛛退治などの説話も多くでき、
当時の英雄として語られています。

多田神社5拝殿
多田神社の拝殿1

第3の祭神の源頼信は満仲の三男で、
源氏の本流の河内源氏を確立します。

頼信は河内国司に任ぜられて、河内国石川郡壺井(羽曳野)に居を構えました。
その後、頼信の子の頼義と孫の義家の三代が壺井を本拠地としたことから
河内源氏の発祥の地と言われます。

羽曳野には壺井八幡宮や頼信・頼義・義家の三代の墓がある通法寺もあり、
去年末に地図も作ったので、やはり河内源氏のお参りにも近い内に行くことにしました。

多田神社6本殿
多田神社の拝殿2


源頼信は関東で起こった平忠常の乱を平定することにより、
武将としての名を高めました。
これ以降、河内源氏は坂東の武士たちと主従関係を結ぶようになり、
後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築きます。

河内源氏から鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利氏、甲斐武田氏、徳川氏などが生まれ
今後の日本の武士社会の源流を造ったといえます。

多田神社7本殿
多田神社の本殿

売布神社の参道①中山寺(宝塚市・中山寺)

売布神社の参道①中山寺(宝塚市・中山寺) に関する記事です。

中山寺は阪急宝塚線の中山観音駅前にある安産祈願で知られる寺で、
三十年以上も前に家内と腹帯をもらいに行った記憶があります。

山号は紫雲山、紫雲山中山寺とも大本山中山寺とも称され、
聖徳太子の建立とされます。

中山寺1
中山寺の山門

山門の仁王像の前には、ワラジがぎっしりが奉納されています。
このワラジは巡礼の途中でワラジが磨り減った時に、奉納のワラジを借用したとのことです。

中山寺仁王
仁王像の大草鞋

中山寺2
山門の奉納草鞋

中山寺は聖徳太子が推古天皇の時(593-628)に
滅亡した物部氏と物部守屋の霊を鎮めるためと、
仲哀天皇の妃、大仲姫と二人の皇子、
香坂王と忍熊王の供養のために創建されたとされます。

中山寺3
中山寺の本堂1(妊婦の為のエスカレータ)

聖徳太子が四天王寺を建てるのに適した土地を探しているとき、
太子に滅ぼされた物部守屋が悪鬼となって現れますが、
太子が祈ると悪鬼は退散しました。

中山寺4
中山寺の本堂2

その夜、太子の夢枕に大仲姫が立ち、お告げがありました。
「この地より北に紫雲のたなびく地がありますので、
その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」

太子は「紫雲山中山寺」と名付け、数多くの堂塔を立てたとされます。


中山寺5
大願塔

中山寺の境内には大仲姫の墓とされる白鳥塚古墳があります。
忍熊皇子の霊が白鳥となって古墳の羨道からが飛び出し、
中山寺奥之院の石の中に消え成仏しました。

我が子を思う大仲姫の心が安産を守ってくれるのでしょう。


白鳥塚古墳
白鳥塚古墳
 
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