エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・宇奈太理坐高御魂神社

宇奈太理坐高御魂神社(奈良市・法華寺町)

宇奈太理坐高御魂神社(奈良市・法華寺町) に関する記事です。

宇奈太理坐高御魂神社(うなたり)は近鉄大和西大寺の東1.7km,
広大な平城京跡の東端、宇奈太理(うなたり)の森の中に鎮まる神社です。

宇奈太理の森
宇奈太理の森(オオヨシキリが鳴く平城京跡の葦原から)

宇奈太理神社の南には平城京内に造られた離宮跡の東院庭園があり、
近年の発掘で大規模な園池が見つかり研究調査が進んでいます。

東院庭園は平城京遷都の時(710)に造られ9世紀中ごろまで
天皇の離宮などとして何回も修復が繰り返され使用されてきました。

聖武天皇(701-756):平城京遷都の時「南苑(南樹苑)」を造営
称徳天皇(718-770):宴会や儀式を催した「東院玉殿」
光仁天皇(709-782):平城宮内の離宮とした楊梅宮(やまもも) 
平城天皇(774-824):奈良の地に隠棲した楊梅宮址

宇奈太理神社も江戸時代には楊梅神社(やまもも)と呼ばれ
東院庭園との関係も伺えます。

東院庭園
東院玉殿(後ろは若草山と春日山)

祭神:高御魂尊、天太玉命、思兼命

宇奈太理坐高御魂神社は大和国・添上郡に鎮座、月次相嘗・新嘗と記される式内大社です。

「宇奈太理」の文字は、菟名足・菟足・宇奈足などと表記されウナタリと読みます。

宇奈太理神社は武内宿禰の勧請と伝えられる古社で、
日本書紀には持統天皇6年(692)に新羅の調(貢物)を奉った5社の中の1社と記されます。

注)5社とは伊勢神宮、住吉大社、紀伊神社、大倭神社、菟名足神社

宇奈太理神社1
宇奈太理神社の拝殿


宇奈太理坐高御魂神社の本殿
宇奈太理神社の本殿

式内社の宇奈太理坐高御魂神社の論社は古市の今木荘にあった菟足社で、
東院の宇奈太理神社は平安京遷都以後に創建されたという説があります。

現在、その古市の菟足社は穴吹神社に併祀され、
春日大社へ勧請された井栗社とされています。

 井栗神社
春日大社の境内の井栗神社(式内・
宇奈太理坐高御魂神社の論社)

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宇奈太理坐高御魂神社の参道①平城京(奈良市・佐紀町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道①平城京(奈良市・佐紀町)に関する記事です。

佐紀神社から葛木神社へ行くとき
突然目の前に平城京の大極殿が現れました。

平城京は今回の予定にはありませんが、
私の体は大極殿の威容に引き込まれてしまい
後日の為に少しだけでも時間を割いて見学することにしました。

大極殿1
突然現れた平城京の大極殿(円柱の樹木は柱を模す)
 
平城京は710年に藤原京から遷都されてた奈良時代の京で、
784年に長岡京へ遷都するまでの75年近く使われました。

遷都当初は天皇が暮す内裏と大極殿・官舎があった程度でした。

大極殿は天皇の即位式や外国使節との面会など、
国のもっとも重要な儀式のために使われていた建物です。

その大極殿の中へ無料で入れるようなので覗いてみました。

大極殿2
平城京内部から見た大極殿

大極殿に上って見ると「大極殿」の遥か南に朱雀門が見え
広大な平城京が実感できます。

平城京跡は近鉄奈良線の西大寺駅~新大宮間にある広大な広場です。
甲子園球場の30倍程の矩形の土地の中央の南端に朱雀門、
北端に大極殿が対面する配置になっています。

今は近鉄電車の車窓からは朱雀門が間近に見えます。
しかし復元工事が完成する前は、こんな広い場所に2-3名ほどの人が
発掘作業をしているのが車窓から見え、気の遠くなる膨大な作業を痛感していました。

平城京跡
大極殿から見下した平城京(遥か彼方に朱雀門)

朱雀門
朱雀門(真ん中に大極殿)

大極殿の展示で一番の圧巻は即位・朝賀・外国使節に謁見など
大礼の際に天皇が着座した高御座(たかみくら)です。
 
高御座
高御座1

高御座2
高御座2

平城京には奈良時代前期の一次大極殿と
奈良時代後期の二次大極殿と二つの大極殿があります。

先ほど中へ入った大極殿は一次大極殿で、
その南東300mに二次大極殿があり基壇が復元されています。

二次大極殿の基壇の後ろに見える古墳は平城天皇楊梅陵(やまもも)です。
平城天皇は平安京遷都を行った桓武天皇の長男ですが、
藤原薬子に惑わされ平城遷都を画策した天皇です。

平城京建設の為に破壊された古墳に埋葬してもらい、
平城遷都を夢みていたのですね。

大極殿跡
二次大極殿の基壇と平城天皇楊梅陵(やまもも)


宇奈太理坐高御魂神社の参道②佐紀神社( 奈良市・佐紀町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道②佐紀神社( 奈良市・佐紀町)に関する記事です。

佐紀神社は西大寺の東900m程に位置する大和国・添下郡鎮座とされる式内小社です。

御前池は平城京大極殿のすぐ近く(北西300m)にあり、
佐紀神社を探している時に突然大極殿が現れてその威容に驚かされました。

大極殿1
佐紀神社参拝道中で見た平城京大極殿

鯉の養殖池の御前池を挟んで東と西に同じ名前・祭神の佐紀神社が2社あります。
東が亀畑・佐紀神社、西が西畑・佐紀神社と言います。

御前池
御前池(向かって右に亀畑・佐紀神社、左に西畑・佐紀神社)

御前池の東に鎮座するのが亀畑・佐紀神社です。

祭神:天児屋根、経津主、六御県命

亀畑・佐紀神社は天武天皇2年(673)に創始され、
佐紀神社の北側に超昇寺が創建されると(835)と、その鎮守社として栄えました。

佐紀神社の鳥居
亀畑・佐紀神社の鳥居

超昇寺は平城天皇の皇子の高丘親王が,
835年楊梅宮(やまもも)の跡地をたまわって建設された寺院で、平安時代に隆盛を極めました。

しかし中世には平重衡率いる平家軍による南都焼き討ち事件(1180年)があり
東大寺・興福寺などともに超昇寺・佐紀神社も焼かれ超昇寺は衰退し,廃絶しました。

佐紀神社東1
亀畑・佐紀神社の社殿

御前池の西に鎮座するのが西畑・佐紀神社で亀畑佐紀神社から分霊したものです。

祭神:天児屋根、経津主、六御県命

佐紀神社西1
西畑・佐紀神社

西畑・佐紀神社の東隣、御前池の西淵に釣殿神社がありますが、
平安時代に東の亀畑・佐紀神社から分霊した境外末社で、
江戸時代には独立しています。

祭神:天児屋根命、釣殿神(経津主命・六御県命)、市杵島姫命

釣殿神社
釣殿神社の社殿
 

宇奈太理坐高御魂神社の参道④磐之媛陵( 奈良市・佐紀町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道④磐之媛陵( 奈良市・佐紀町・字ヒシゲ)に関する記事です。

磐之媛陵は近鉄の平城駅(へいじょう)の東1.6km、
JR平城山駅(ならやま)の南1.3kmにある、
奈良山の南に位置する佐紀古墳群に属する墓の一つです。

奈良山は平城山とも書かる大和と山城を結ぶ古くからの交通路があった場所で、
奈良盆地北部と京都府木津町との境界を東西に走る標高100m前後の低丘陵です。

磐之媛陵1
水上池より望む磐之媛陵遠景

佐紀古墳群は古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれた
大和政権の大王陵を多く含む古墳群です。

<大王陵の営まれた場所の推移>

大和・柳本古墳群(3世紀~5世紀初頭)
    ↓
佐紀盾列古墳群(4世紀後半~5世紀前半)
    ↓
古市・百舌古墳群(4世紀後半~6世紀前半)


磐之媛陵2
磐之媛陵1カキツバタ

磐之媛命に関しては仁徳天皇と別居して、京田辺の筒城宮で暮すまでは以前に書きました。

その後、仁徳天皇の誘いにも応じず筒城宮で亡くなり、
奈良市の平城山(ならやま)で亡くなったと紀に書かれます。

仁徳天皇35年夏6月、皇后磐之媛命は筒城宮でなくなられ
37年冬11月12日、皇后を平城山(ならやま)に葬った。

卅五年夏六月、皇后磐之媛命、薨於筒城宮。
卅七年冬十一月甲戌朔乙酉、葬皇后於乃羅山。

宮内庁は、佐紀古墳群のヒシアゲ古墳を仁徳天皇の皇后だった磐之媛命の墓に比定し、
平城坂上陵と呼んでいる。

磐之媛陵3
磐之媛陵2拝所

<ヒシアゲ古墳>磐之媛命平城坂上陵

形状   :3段築成の前方後円墳
サイズ  :全長219mm、後円部径124m
築造時期 :5世紀中葉 
被葬者   :磐之媛
出土品   :円筒埴輪 
その他     :二重濠

磐之媛陵4
磐之媛命平城坂上陵の墓標

磐之媛は葛城襲津彦の娘です。

古代日本は農具や武器の素材としての鉄を朝鮮に頼っており、
これらを安定的に輸入できることが外交の根本です。

葛城襲津彦はこうした外交の重要な役割を担うことで、政権内での地位を高め、
磐之媛が仁徳の皇后にまでなります。

しかし天皇家との外戚関係を強める発言権を増す葛城氏にもライバルがいました。
同じ大和国の奈良山を拠点にした和珥氏(わに)です。

嫉妬深いと書かれる磐之媛の最大の相手である八田皇女は和邇氏の女性で、
政権内での和珥氏と葛城氏の関係を反映したものと思われます。

磐之媛の死の3年後の仁徳38年には八田皇女を仁徳天皇の皇后になります。

ヒシアゲ古墳2
一部復元された周堤と外濠の埴輪

磐之媛命陵のすぐ南には、水上池という大きな溜池が広がります。

水上池一帯は、かっては、佐紀沼・佐紀沢と呼ばれた湿地帯です。

垂仁天皇は、水稲農耕のために、多くの池溝を開発しました。
日本書紀には垂仁天皇が灌漑の為に狭城池(さきいけ)を造ったと記され
狭城池は、この佐紀の水上池であるとも考えられています。

中臣郎女が大伴家持に贈った歌
♪をみなえし佐紀澤に生ふる花かつみ かつても知らぬ恋もするかも♪(万葉集)

水上池
佐紀澤に生ふる花かつみ(水上池に咲く、かきつばた)

宇奈太理坐高御魂神社の参道③佐紀葛木神社( 奈良市・佐紀町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道③佐紀葛木神社 ( 奈良市・佐紀町)に関する記事です。

葛木神社は平城京大極殿跡の北500mに鎮座する神社です。

葛木神社は仁徳天皇が皇后の磐之媛を偲んで建立したと伝わる神社で、
東南500mに磐之媛陵があります。

磐之媛陵の所在地は奈良市佐紀町字ヒシゲで、
ヒシアゲ古墳とも呼ばれる全長219mの前方後円墳です。

葛木神社
葛木神社の鳥居

磐之媛は葛城襲津彦の娘の仁徳天皇皇后となり、
履中天皇・反正天皇・允恭天皇を産み葛城氏の全盛期に貢献しました。

しかし磐之媛は、仁徳天皇が八田皇女を妃としたことに納得できず
激怒して、難波の高津宮を出て山城の筒城宮(京都府京田辺市)へ入り
天皇とは永久の別居生活となります。

葛木神社2
葛木神社の拝殿

祭神:葛城
一言主大神

拝殿前の由緒によると当社は金剛山山頂にある
金剛山葛木神社と関係の深い神社のようで、
そこから一言主を分霊したものと思われます。

葛木神社3
葛木神社の拝殿2

葛木神社4
葛木神社の本殿

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑤平城天皇陵( 奈良市・佐紀町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑤平城天皇陵( 奈良市・佐紀町) に関する記事です。

平城天皇陵は近鉄大和西大寺駅の東1.2km、
佐紀古墳群に属する古墳で、市庭古墳と呼ばれます。

この平城天皇は、あの平安遷都を行った第50代の桓武天皇の長男、
嵯峨天皇の兄にあたります。

復元された平城京の2次大極殿の基壇のすぐ後ろに見える古墳が平城天皇陵で
正に平城の名前に相応しい場所に祀られています。

大極殿跡
平城京2次大極殿基壇と平城天皇陵

平城天皇は弟の嵯峨天皇に皇位を譲り隠居しますが、
義母の藤原薬子にそそのかされて、
上皇となって、都も平安京から平城京に戻そうとします。

しかし平城上皇側は、嵯峨天皇が送った田村麻呂の率いる精兵によって鎮圧され、
薬子は毒を飲んで自害し、上皇は髪を剃って仏門に入り薬子の乱は収まります。

壬申の乱以来の皇室大戦争になる寸前で、危機は回避されたことになります。 

平城天皇陵
平城天皇陵拝所1

平城天皇陵は楊梅陵(やまもも)と呼ばれ一等地に葬られたように見えますが、
実は平城天皇は、古代に築造された天皇とは無縁の他人の古墳に葬られました。

市庭古墳(平城天皇陵)は前方後円墳ですが、
平城京建設のために前方部は潰され、
残った後円部に平城天皇を埋葬したというのです。

平城天皇は反乱を起こしたのに島流しにもされずに、
陵まであてがわれたのだから 、良かった方でしょう。

平城天皇陵2
平城天皇陵拝所2

<市庭古墳>
形状       :前方後円墳
サイズ    :全長253m,後円部径147m
築造時期:古墳時代中期前半(5世紀前半)
出土品   :円筒埴輪、動物埴輪などが出土している。
特記      :後円部の中心部分は平城天皇陵に指定

平城天皇陵(水上池より)
水上池より望む平城天皇陵


宇奈太理坐高御魂神社の参道⑥日葉酢媛命陵・山上八幡神社( 奈良市・山稜町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑥日葉酢媛命陵・山上八幡神社( 奈良市・山稜町 に関する記事です。

山上八幡神社は近鉄平城駅の東南500m,
日葉酢媛命陵の拝所の南側に隣接する陵を参拝する為の神社です。

祭神:誉田別命、天照大神、天児屋根命

山上八幡神社1
山上八幡神社の鳥居

垂仁天皇の皇后である狭穂姫が兄狭穂彦の謀反に加担して自殺する時に,
丹波道主の娘を妃にするよう進言しました。

このとき丹波道主は5人の娘を全て垂仁天皇に贈り恭順の意を示します。

垂仁に贈った5人の娘とは、
日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛です。
日葉酢媛(ひばす)は皇后となり景行天皇や倭姫命らを産んでいます。

山上八幡神社2
山上八幡神社の拝殿

ついさっき神社鳥居ですれ違った親子3代の家族連れが
日葉酢媛命陵で賑やかに話す声が社殿の奥から間近に聞こえ
山上八幡神社と日葉酢媛命陵が至近距離にあるのが良く分かります。

山上八幡神社3
山上八幡神社の拝殿から本殿(その先は日葉酢
媛命陵)

日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后で、
その葬儀の時に野見宿禰が殉死制度の代わリに
埴輪制度を提案しました。

陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、
以後も踏襲されるようになりました。

<佐紀陵山古墳>日葉酢媛命陵
形状    :前方後円墳
サイズ   :全長210mm、後円部径195m
築造時期 :4世紀末
被葬者    :日葉酢媛命
出土品    :銅鏡、埴輪(大型埴輪 衣笠形、盾形、家型) 
埋葬施設 :竪穴式石室と木棺
その他      :石室立石

日葉酢媛命陵1
日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)

佐紀陵山古墳からは蓋形埴輪が出土しています。
蓋形埴輪は古墳時代中期初めに現れますが、貴人にさしかける傘を表しています。

衣笠型埴輪
日葉酢媛命陵から出土した蓋形埴輪(きぬがさ)

日葉酢媛命陵の東側は松並木の続く細い小道があり、
右は全長約210メートルの佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、
左は全長約220メートルの佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)です。

成務天皇は日葉酢媛の孫にあたりますが、
2つの古墳が極度に密接して造られています。

わざと2つの古墳は密接させたと考えられておりますが、
被葬者はとても縁のある人たちなのでしょう。

日葉酢媛命陵2
松並木の小道の右は
日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)

成務天皇陵が日葉酢媛命陵と接する場所で歪んで見えるため
成務天皇陵の方が後に造られたと考えられています。

成務天皇陵2
松並木の小道の左は成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)
 
第13代成務天皇は景行天皇の子供、日本武尊の義理の兄弟に当たります。
極端に情報量の乏しい天皇ですが、この時代の主人公は日本武尊なのでしかたありません。

皇居は志賀高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)とされます。

<佐紀石塚山古墳>成務天皇陵
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長210mm、後円部径132m
築造時期:4世紀末~5世紀初頭
被葬者  :成務天皇
出土品  :鏡・玉・剣
埋葬施設:竪穴式石室と長持形石棺

成務天皇陵1
成務天皇陵拝所

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑦神功皇后陵・山稜八幡神社( 奈良市・山稜町・宮ノ谷)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑦神功皇后陵・山稜八幡神社( 奈良市・山稜町・宮ノ谷) に関する記事です。

山稜八幡神社は近鉄京都線平城駅の南東100mにあり、
電車の中からも鳥居と社叢がよく見える神社です。

仔細は分かりませんがとても奇麗に手入れされた神社で、
参拝時も地元の人が大勢で参道の掃除をしている最中でした。

山稜八幡神社1
山稜八幡神社の鳥居

神功皇后陵の南側に鎮座し神功皇后陵を守護してきました。

祭神:神功皇后、応仁天皇、玉依姫命

山稜八幡神社の鎮座地はもともと鷹塚と呼ばれ、
黄金の鷹(応神天皇の化身・八幡大菩薩)を埋めたという伝説があります。

山稜八幡神社2
山稜八幡神社の拝殿

本殿の真北に神功皇后陵・拝所があり、
山稜八幡神社で参拝すれば神功皇后陵にも参拝したことになります。

上空から見ると山稜八幡神社の社地も前方後円墳に見え
盾列ではなく縦列に佐紀古墳群が並んでいるのが良くわかります。

山稜八幡神社3
山稜八幡神社の本殿

神功皇后陵へは山稜八幡神社の鳥居の階段を下りて入口に戻り
西側の道から回り込んで行きました。


神功皇后陵は佐紀古墳群を構成する古墳の1つで
狹城楯列池上陵(さき・たてなみ)とされた宮内庁管理の陵です。

神功皇后陵1
神功皇后陵1

佐紀古墳群は平城宮の北部にあり、4-5世紀に造られた天皇陵を中心にする大型の古墳群です。
佐紀は古墳時代初期には曾布県主が治めた朝廷の直轄地で、
東のウワナベ古墳から西の神功皇后陵まで、
200mを超える7基の大型前方後円墳が並びます。

神功皇后陵4
神功皇后陵2

神功皇后陵は後円部の墳頂に祠堂をつくり五社神古墳(ごさし)と呼ばれていました。
佐紀古墳群では最大の古墳で、全国の古墳の中でも箸墓に続き12位の大きさです。

<五社神古墳>神功皇后陵
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長275mm、後円部径195m
築造時期 :4世紀後半~5世紀初頭 
被葬者   :神功皇后
埋葬施設 :長持型石棺(推定)
出土品     :壺形埴輪、円筒埴輪
 
神功皇后陵2
神功皇后陵3

拝所内に延享2年(1745)~寛政2年(1790)の年号が刻まれた灯篭があります。

神功皇后陵3
神功皇后陵4


参拝の後はバードウォチングを兼ねて周濠を散策しましたが
初夏の五社神古墳は周濠に野鳥が遊ぶ花の天皇陵でした。

御陵兆域原標 (3)
御陵兆域原標に止まるアオサギ


あおさぎ
古墳のコロニーで子育て中のアオサギ

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑨ウワナベ・コナベ古墳(奈良市・法華寺町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑨ウワナベ・コナベ古墳(奈良市・法華寺町)に関する記事です。

平城山丘陵は、奈良県と京都府の県境を東西に延びる丘陵で、
その県境の奈良側に沢山の古墳が造営され中央にウワナベ・コナベ古墳が見えます。

平城山丘陵は西部を佐紀丘陵、東部を佐保丘陵とも呼びますが、
ウワナベ・コナベ古墳は佐紀山古墳群の東端にある古墳です。

佐紀盾列古墳群航空写真文字
 平城山古墳群(左:佐紀山古墳群、右:佐保山古墳群)

ウワナベ・コナベの名前の由来には、「うわなり・こなみ」説があり、
うわなりは後妻、こなみは前妻という意味だそうです。

平安時代末から戦国時代まで行われた習俗で,
離縁になった前妻 (こなみ) が後妻 (うわなり) に嫌がらせをする行動をいいます。
前妻が別れた夫の寵愛をほしいままにしている新しい妻を妬むあまり,
仲間の婦人らとともに後妻のところへ押しかけたそうです。 

前妻は仁徳天皇の前皇后の磐之媛命、後妻が後皇后の八田皇女しかありませんね。

ウワナベ古墳
 ウワナベ古墳全景

ウワナベ古墳は、宮内庁により仁徳天皇の後妻である八田皇后の陵墓参考地とされる
全長200mを超える前方後円墳です。

<ウワナベ古墳>
形状:前方後円墳
サイズ:全長 205m、後円部径 128m、後円部高20m
築造:5世紀中頃 
被葬者:八田皇女
出土品:円筒埴輪

ウワナベ古墳
ウワナベ古墳前方部

コナベ古墳はウワナベ古墳の西側、ヒシアゲ古墳の南側に隣接する200m級の前方後円墳です。
宮内庁はヒシアゲ古墳を磐之媛皇后の平城坂上陵、
コナベ古墳を磐之媛皇后の陵墓参考地として同一人物を2陵で指定していることになります。

<コナベ古墳>
形状:前方後円墳
サイズ:全長 204m、後円部径 125m、後円部高20m
築造:5世紀前半 
被葬者:磐之媛命
出土品:円筒埴輪

コナベ古墳
コナベ古墳

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑧添御縣神社(奈良市・歌姫町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑧添御縣神社(奈良市・歌姫町)に関する記事です。

添御縣神社(そえの)は近鉄京都線平城駅の東北東1.3km
JR関西本線の平城山駅の西2Kmに位置します。

因みに近鉄の平城駅は「へいじょう」
JRの平城山駅は「ならやま」と読みます。

添御縣神社の鳥居
 添御縣神社の鳥居

歌姫町には平城京で舞や唄を披露する人たちが居を構えていた場所で、
添御縣神社は「歌姫神社」とも呼ばれています。

752年の東大寺大仏開眼会には1万人以上が出席し、
大導師を勤めたインド天笠僧の菩提僊那(せんな)の法要の後、
中国・朝鮮・ベトナム・ペルシャの楽曲や舞踊が披露されたそうです。
その名残りが歌姫町の名前の由来となっています。

添御縣神社の拝殿
添御縣神社の拝殿

添御県坐神社(歌姫)は大和国・添下郡・月次新嘗と記される式内大社です。 
論社は奈良市三碓町の同名社です。

添御縣神社(歌姫)は平城京のすぐ傍にあり、平城京が長安に並ぶ国際都市を目指し、
国際色豊かな天平文化が花開くのを見てきました。

祭神:速須佐之男命
配祀:櫛稻田姫命、武乳速命

武乳速命は津速玉命の御子で添の御縣の地の祖神です。

添県(曽布)は添上・添下両郡をあわせた地域で
高市・葛木・十市・志貴・山辺の各県とともに,
大和国のいわゆる六県の1つで,代々天皇の御膳に野菜を献上していました。

注1)大和六御県神社とは、高市葛木十市志貴山辺曾布(添)
 
添御縣神社の本殿
添御縣神社の本殿

添御縣神社(歌姫)の境内には長屋王万葉碑があります。

長屋王の変で自害に追い込まれる少し前、
奈良山を越えて山城に向かう時に道祖神に幣をささげて旅の安全を詠んだ一首です。

♪佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ♪  万葉集 長屋王
ー佐保をすぎ奈良山の峠に手向に置く幣に、早く無事に帰って妻に会えるよう祈りを込めたー

万葉碑(長屋王)
長屋王万葉碑

添御縣神社(歌姫)の南東500mには塩塚古墳があります。
この付近は奈良時代には平城京の松林苑で、
塩塚古墳も庭園を構成する1施設として扱われ、
削られ建物が建てられていたようです。

<塩塚古墳>
形状  :前方後円墳
サイズ :全長105m
築造時期:5世紀前半
副葬品 :剣、刀子、鉄斧、鎌

塩塚古墳
塩塚古墳

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑮押熊八幡神社(奈良市・押熊町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑮押熊八幡神社(奈良市・押熊町) に関する記事です。

押熊八幡神社は近鉄京都線・高の原駅の西3.4KM
ならやま大通り沿いにあります。

鎮座地の押熊町は神功皇后との皇位を争いに敗れて死んだ香坂王・忍熊王の兄弟の
弟である忍熊王(おしくま)に因んでつけられた地名です。

押熊八幡神社の社叢
押熊八幡神社の社叢

押熊町の北には神功町が接しており長年の因縁を感じます。
また押熊八幡神社の北側には兄の香坂王(籠坂王:かごさか)に因んだカゴ池があります。

ゆらら温泉とかご池
カゴ池とゆらら温泉

押熊八幡神社の創始は江戸時代の元禄(1688~1704)で
奈良市の中山八幡神社から分霊を勧請しました。

祭神:仲哀天皇、応神天皇
八幡神を祀る前は現在末社の八大竜王神社が祀られていたそうです。

押熊八幡神社の拝殿
押熊八幡神社の割拝殿

祭神の応神天皇も、香坂王・忍熊王兄弟も同じ仲哀天皇の子です。

応神天皇の母は神功皇后で、香坂王・忍熊王兄弟の母は大中姫です。
大中姫は宝塚市・中山寺の白鳥塚古墳当りで被葬者説がありました。

押熊八幡神社の本殿
押熊八幡神社の本殿

押熊八幡神社の東30mに、忍熊王・香坂王の兄弟墓の旧跡地があり、
忍熊王子社とも呼ばれています。
 

忍熊王子社の社叢
忍熊王子社の社叢

忍熊王子・香坂王子旧蹟地の碑が鳥居横に立てられています
径16m、高さ2m余りの円墳で、
周囲三方をセメント造塀で囲まれています。

祭神:忍熊王子・香坂王子

忍熊王子社の鳥居
忍熊王子社の鳥居

香坂皇子が兎我野で赤い猪に殺され、
忍熊皇子は、宇治で最終決戦となりますが、
敗北して琵琶湖に入水し、宇治川で遺体が発見されます。

忍熊王・香坂王の兄弟墓
忍熊王・香坂王の兄弟墓

石宝殿
石宝殿

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑪成務天皇陵(奈良市・山稜町)

宇奈太理坐高御魂神社の参道⑪成務天皇陵( 奈良市・山稜町 に関する記事です。

成務天皇陵は近鉄平城駅の東南500m,
佐紀古墳群を構成する古墳の1つです。

考古学名は佐紀石塚山古墳と称され、
宮内庁からは狭城盾列池後陵(さき・たてなみ)に治定されています。

佐紀古墳群は奈良県と京都府の県境を東西に延びる平城山丘陵にあり、
成務天皇陵は丘陵の西端にある古墳です。

佐紀古墳群
佐紀古墳群

佐紀古墳群は平城宮の北部にあり、
4-5世紀に造られた天皇陵を中心にする大型の古墳群です。
佐紀は古墳時代初期には曾布県主が治めた朝廷の直轄地で、
200mを超える7基の大型前方後円墳が並びます。

成務天皇陵が日葉酢媛命陵と接する場所で歪んで見えるため
成務天皇陵の方が後に造られたと考えられています。

成務天皇陵
成務天皇陵と日葉酢媛命陵

成務天皇は日本武尊の異母兄弟で皇位は日本武尊の子の仲哀天皇に譲っています。
12景行天皇、13成務天皇、14仲哀天皇は同じ足彦(たらしひこ)の称号を持ち
志賀高穴穂宮での生活体験があります。

先代:父の景行天皇
次代:甥の仲哀天皇
別称:稚足彦尊、若帯日子天皇(わかたらし)
治世:131-190年

成務天皇家系図
成務天皇家系図


成務天皇は高穴穂宮で長きにわたり政治を行い、大和政権の行政機構の整備を図りました。

「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天下治らしめしき」(古事記)


山河を隔にして国県を分かち、行政区画として国・郡・県邑を定めました。
それぞれに国造・稲置等を任命して、
国造の半数が成務天皇の時に設置されたともあります。

太安万侶は古事記の序文で、国堺を定めたことは
神武、崇神、仁徳、成務、允恭の歴代五天皇の業績の一つとして評価しています。


成務天皇陵2
成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)
 

<佐紀石塚山古墳>成務天皇陵

形状   :前方後円墳
サイズ  :全長210mm、後円部径132m
築造時期:4世紀末~5世紀初頭
被葬者  :成務天皇
出土品  :鏡・玉・剣
埋葬施設:竪穴式石室と長持形石棺

成務天皇陵1
成務天皇陵拝所

成務天皇の皇居は志賀高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)とされます。

穴太の地は記紀に記される景行、成務、仲哀天皇の三代が営んだ
志賀高穴穂宮の伝承地です。


穴太周辺は飛鳥時代には渡来文化のメッカとなった場所で、
志賀高穴穂宮の遺跡はまだ見つかっていませんが、
渡来人の住居跡、群集墓、穴太廃寺などが発掘されています。


高穴穂宮跡碑
高穴穂宮址碑


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