エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・耳成山口神社

耳成山口神社(奈良県・橿原市・木原町)

耳成山口神社(奈良県・橿原市・木原町)に関する記事です。

耳成山口神社は近鉄大和八木駅の東1.5km、耳成駅の西1.2km
標高140mの山上近くに鎮座する神社です

香具山畝傍山・耳成山で大和三山とされますが、
畝傍山と耳成山は元は火山でした。

古池から耳成山
古池から耳成山を望む

「耳成」とは「耳無し」のことで、余分なところがない端正な山の意味です。
耳成山の写真が一枚欲しくて、撮影場所を探りましたが、
南麓に古池があり、古池の南から見た耳成山が一番綺麗でした。

♪耳成の、池し恨めし、我妹子が、来つつ潜かば、水は涸れなむ♪ 万葉集

~耳成の池が枯れていれば、あの娘は死ななくてすんだのに~

耳成山古池万葉歌碑
古池万葉碑

耳成山口神社は大和国・十市郡 ・月次新嘗と記される式内大社です。
天皇家の舎殿用材を切り出す山の神として祀られた神社で、
山口14社全てが新嘗に官幣を奉りました。

祭神:大山祗神、高皇産霊神

由緒は不明ですが、奈良時代から平安時代の古文書に記録が残ります。

・天平2年(730)に天皇より稲を給わる
・大同元年(806)、貞観元年(859)に遣使による雨乞い神事


耳成山口神社0
耳成山口神社の鳥居

奈良の山口14社とは、巨勢飛鳥石寸忍坂長谷畝傍耳成、夜支布、伊古麻
大坂當麻、吉野、都祁のことです。

そのうち飛鳥石寸長谷畝傍耳成忍坂が大和六所山口神社と呼ばれ
特に重要な山口神社とされます。

耳成山口神社01
耳成山口神社の登山道

山口神社は通常山の入口にありますが、当社は山上近くにあり珍しい形態です。

江戸時代の享保年間(1716~35)、木原と山之坊の間に耳成山の所有権争いが起こり、
耳成山は木原町の領地とすることで決着したそうです。


耳成山と米川
耳成山口神社と山之坊山口神社

そのため山之坊の宮司は耳成山で祭っていた神霊を奉じて下山し、
代々の子孫の家で祭ってきましたが、
近年になって、現在の山之坊山口神社に遷座したとのことです。

 

耳成山口神社1
耳成山口神社の社殿


<関連記事>
耳成山口神社の参道①山之坊山口神社(橿原市・山之坊町
耳成山口神社の参道②竹田神社(橿原市・東竹田町)
耳成山口神社の参道③十市御縣坐神社(橿原市・十市町)
耳成山口神社の参道⑥戒重春日神社(桜井市・戒重)
耳成山口神社の参道⑦栗殿大神神社(桜井市・栗殿)おうどの
耳成山口神社の参道⑧殖栗神社(桜井市・上之庄) えぐり 
耳成山口神社の参道⑨三十八柱神社(桜井市・大福)みそや    

耳成山口神社の参道⑥戒重春日神社(桜井市・戒重)

耳成山口神社の参道⑥戒重春日神社(桜井市・戒重)に関する記事です。

戒重春日神社は近鉄桜井駅北口から近鉄沿いに西へ900m、
寺川を超えた先、国道169号線に面した場所にあります。

寺川(河合で栗原川と合流)
寺川と戒重春日神社の社叢

祭神:天児屋根命、天太玉命、武甕槌命、比売神

境内社:稻荷社、琴平社、瑜加神社、繁森社

戒重春日神社の鳥居
戒重春日神社の鳥居

戒重春日神社は敏達天皇の訳語田・幸玉宮(おさだ・さきたま)の比定地で、
延喜式内大社の他田坐天照御魂神社の論社でもあります。

幸玉宮,天照御魂神社ともに桜井市・戒重か桜井市・太田が候補にあがります。

桜井市・太田の地とは、以前書いた巻向の他田坐天照御魂神社です。

他田坐天照御魂神社は日読みの地としての立地条件から
桜井市・太田が有力のようです。

訳語田・幸玉宮(おさだ・さきたま)は戒重村の地が明治以前は「他田」と呼ばれ、
この春日神社が他田宮と称していたことから桜井市・戒重説が有力です。

戒重春日神社の拝殿
戒重春日神社の拝殿

以前書いた記事に敏達天皇(538-585)を祭神とする天王寺の五條宮があり、
敏達天皇が皇太子のときに居住した邸跡ともされています。

その敏達天皇(びたつ)と推古天皇の父親は同じ欽明天皇で、
史上初めて夫婦ともに天皇になった人たちです。 

戒重春日神社の本殿
戒重春日神社の本殿

572年、欽明天皇の第2皇子の淳中倉太珠敷(ぬなくら)皇子が
第30代敏達天皇として即位しました。

敏達天皇4年(575)、天皇は卜部に命じて訳語田に暮らす
海部王と糸井王の邸宅の土地を占わせました。

占いは吉となり、その土地を没収して、
そこに新しい宮(幸玉宮)を営んだといわれます。

右から稲荷社、琴平社、瑜加社
境内社(右から稲荷社、琴平社、瑜加社)

この宮は後に悲劇の英雄とされた大津皇子の邸宅となり、
持統天皇による刑の宣告を受けたところでもあります

♪ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ♪

~磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を最後に、私は雲の彼方に去って行くのか~

この歌は謀反の罪で処刑されることになった大津皇子が、
磐余の池に鳴く鴨を見て読んだ無念と失意の一首です。

大津皇子が処刑された場所は自宅のあった訳語田の宮だったと云われ、
この歌はそこへ移送される途中に磐余の池の鴨を見て詠んだのでしょう。

耳成山口神社の参道⑨三十八柱神社(桜井市・大福)

耳成山口神社の参道⑨三十八柱神社(桜井市・大福)  に関する記事です。

三十八柱神社(みそや)は近鉄大福駅の北500m
銭川放水路が寺川に流れ込む地点付近に鎮座します。 

三十八柱神社1
三十八柱神社の鳥居

三十八柱神社は推古天皇の小墾田宮(おはりだ:小治田)の候補地の一つです。

推古天皇は、蘇我氏の邸宅の仮宮・豊浦宮で即位しますが、
603年(推古11年)には国家権力の中心地として小墾田宮を造営します。

その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、
冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われます。

祭神:宮中三十六座の神、伊邪那岐、伊邪奈美

三十八柱神社2
三十八柱神社の拝殿

小墾田宮は、大福以外にも明日香村豊浦や雷丘などの説もあり
以前に記事を書きましたが、これで3箇所全部を訪れたことになります。

説①明日香村、豊浦の 「古宮土壇」 
説②明日香村、雷丘の 「雷丘東方遺跡」 
説③桜井市、  大福の 「三十八柱神社」 

現在では小治田宮と書かれた墨書土器が発見された説②が遺構なども発掘され有力です。

三十八柱神社3
三十八柱神社の本殿

大福の小墾田説は哲学者の梅原猛氏が支持したことでも知られ、
三十八柱神社の境内には「小墾田宮伝承之地」と書かれた梅原猛氏揮毫の碑があります。 

小墾田宮伝承之地の碑
小墾田宮伝承之地の碑

万葉集研究の第一人者・犬養孝氏揮毫の万葉歌碑もありました。
 

♪こもりくの はつせの山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも♪
                       大伴坂上郎女

~初瀬の山はすっかり色づいたことだ。しぐれの雨が降ったに違いない~

犬養孝氏揮毫の万葉歌碑
犬養孝氏揮毫の万葉歌碑


三十八柱神社の西側一体は大福遺跡と呼ばれる
弥生時代前期~飛鳥時代の環濠集落跡です。

小墾田宮説などが生まれる背景には大福遺跡が大きく係っています。

大福遺跡では丁寧に地中に埋められた銅鐸が発見されたり、
国内最古ともいわれる木製仮面が出土したりと、
倭国創生を探る重要な手掛りが出土しています。

大福の北東3kmには大和政権誕生の地、纒向遺跡があります。

鏡祭祀を基盤とする邪馬台国が巻向に成立する以前の弥生時代に、
銅鐸祭祀を行う出雲系列の民族が大福に暮らしていたのです。

銅鐸
大福銅鐸(侵略者・神武天皇から隠すように丁寧に埋められていた)
 

耳成山口神社の参道①山之坊山口神社(橿原市・山之坊町)

耳成山口神社の参道①山之坊山口神社(橿原市・山之坊町)に関する記事です。

御祭神:大山祇命


山之坊山口神社の創建は昭和42年と新しいですが、
本来は耳成山の山頂に鎮座しており
延喜式神名帳の「目原坐高御魂神社」論社の候補ともされています。


山口神社1

山之坊山口神社の鳥居


山之坊山口神社は大和川の支流の寺川の更に支流・米川の畔にある神社で、

米川は飛鳥の山々が源です。

寺川
山之坊山口神社前の米川


山之坊山口神社へは、近鉄耳成駅から南へ10分程歩くと寺川の支流の米川に突き当たり、
そこから米川の流れに沿って西(右)へ15分程下った場所にありました。



山口神社2
山之坊山口神社の拝殿



神社の前を流れる米川は更に耳成山を回り込んで寺川となり、
飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川・・
など沢山の支流を河合あたりで一気に巻き込み大和川になります。

淀川には3川合流がありその地点に岩清水八幡宮が鎮座していますが、
こんなに多くの合流は初めてで、機会を見て確認に行かねばなりません。

地形図を見て気になる地点から関連する神社を探す・・これも楽しみの一つです。


ちょっと脱線してしまいました・・・・・

大和川合流
沢山の支流が一気に合流する大和川



江戸時代の享保年間(1716~35)、木原と山之坊の間に耳成山の境界争いが起こり、
耳成山は木原町の領地とすることで決着したそうです。


そのため山之坊の宮司は耳成山で祭っていた神霊を奉じて下山し、
代々の子孫の家で祭ってきましたが、
近年になって、現在の山之坊山口神社に遷座したとのことです。



山口神社3
山之坊山口神社の本殿

地図
山之坊山口神社の地形図

耳成山口神社の参道⑧殖栗神社(桜井市・上之庄)

耳成山口神社の参道⑧殖栗神社(桜井市・上之庄) に関する記事です。

殖栗神社(えぐり)は近鉄桜井駅の北西1.7km,近鉄大福駅の北東1.3km
寺川の右岸、川合で粟原川を流入する地点の500m北西になります。

殖栗神社の前には太陽光発電の為のパネルが沢山設置されております。
天照大神は桜井市から伊勢へ遷ったことを思うと
今も昔も変わらぬ太陽の恩恵を享受していることを痛感します。


殖栗神社1
殖栗神社の社叢

殖栗神社は大和国・城上郡鎮座の式内小社です。

祭神:殖栗王一座 

祭神の殖栗王は聖徳太子の純粋な弟です。
用明天皇と穴穂部間人皇女の間には四人の皇子が生まれ、
厩戸皇子(聖徳太子)・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子の順です。

殖栗神社の社号標
殖栗神社の社号標

境内には「三十八社」と刻まれた灯籠がありますが、
殖栗神社は明治までは三十八社という社名でした。

明治40年に、十ノ森に鎮座していた春日社を本社の境内に遷座しました。
この十ノ森付近に字エグリ(江操)という地名があったため、
この春日社が式内社・殖栗神社として、三十八社という社名を殖栗神社と改称したそうです。

殖栗神社の鳥居
三十八社の燈篭

殖栗神社の拝殿
殖栗神社の拝殿

殖栗神社の本殿
殖栗神社の本殿

境内社には十ノ森から遷座した春日神社が向って右に、
二ツ神から遷座した稲荷神社が向って左に鎮座しています。

春日神社があった上之庄の東北端の十之森の地には
現在は昭和に建てれた十之森神社が鎮座しています。

境内社
末社の春日神社と稲荷神社

耳成山口神社の参道②竹田神社(橿原市・東竹田町)

耳成山口神社の参道②竹田神社(橿原市・東竹田町)に関する記事です。

竹田神社は近鉄大阪線の耳成駅の北1.5km、寺川左岸、
八木駅の北口八木耳成循環バスの東竹田町バス停前にありました。

寺川
寺川と彼岸花

竹田神社は大和国・十市郡鎮座とされる式内小社です。

祭神:天火明命

現在の祭神は神社側では天香久山命としていますが
新撰姓氏録(815)などの古書には竹田氏の祖人・火明命と書かれており天火明命が有力です。

♪天火明命の五世の後なり。
仁徳天皇の御世に、大和国十市郡の刑坂川(寺川)の辺に竹田神社あり♪

竹田神社の鎮座地には美しい竹が沢山生えており、
竹で箸を作り天皇に献上していたともあります。

竹田神社1
竹田神社の鳥居

天火明命は、神話に登場する神で天火明命の子孫は「天孫族」とよばれます。
先代旧事本紀(平安初期)では天火明命は穂積臣、物部連の祖である
饒速日命と同一神としています。 

また竹田神社で火明命を祀った竹田氏は尾張氏の同族です。 

竹田神社2
竹田神社の拝殿

もう一人の祭神候補の天香久山命(高倉下命)は
饒速日尊(天火明命)と、天道日女命との間に生まれた子で、
物部氏等の祖神である宇摩志摩治命とは母を異にする兄弟です。

天香久山命は饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、
紀伊国の熊野邑に住み、神武天皇の東征を支援しました。

竹田神社3
竹田神社の本殿

竹田の一帯は、大伴氏の大和における拠点の一つでもあり、
額田王以後最大の女性歌人とされる大伴坂上郎女の歌碑が境内にありました。

大伴坂上郎女の父親である大伴安麻呂は壬申の乱(672)では
大海人皇子側に立って兵を挙げた大伴吹負に見方し勝利に貢献しました。

竹田神社の南西5kmには大海人戦勝の神託があった河俣神社(雲梯町) があります。
竹田の大伴氏たちも集結したのでしょう。

♪うち渡す竹田の原に鳴く鶴の 間なく時無しわが恋ふらくは♪
                          大伴坂上郎女
~見渡す竹田の原に鳴いている鶴の声が絶えまないように
私のあなたへの思いは絶えることはない~

竹田神社5
大伴坂上郎女の歌碑

耳成山口神社の参道③十市御縣坐神社(橿原市・十市町)

耳成山口神社の参道③十市御縣坐神社(橿原市・十市町)に関する記事です。

十市御縣坐神社は近鉄・橿原線の新ノ口駅の東1.8km 、
竹田神社から北西に寺川を下ること15分程の寺川右岸にありました。

帰りは神社前の大門橋バス停から八木駅まで
八木耳成循環バスで戻り八木駅近傍の神社も訪ねました。

十市御縣神社1
寺川から見た十市御縣坐神社の社叢

祭神:豊受大神
配祀:市杵島姫命

十市御県坐神社は大和国・十市郡鎮座・月次新嘗と記される式内大社です。

豊受大神は伊勢外宮の祭神でもあり食物の神です。
十市御県で栽培する天皇に献上するための野菜を守護するための祭神です。

竹田神社1
十市御縣坐神社の鳥居

社伝では孝霊天皇記に見える十市県主の祖の大目を祭神としています。
大目の娘の細媛命は孝霊天皇の皇后として、
第8代孝元天皇となる皇子を産んでいます。

十市御縣神社2
十市御縣坐神社の拝殿

先日、田原本町の黒田地区の孝霊神社を訪れましたが、
天皇は庵戸宮(いおと)で孝元天皇以外にも沢山の後継者を育てました。

倭国香媛との間には卑弥呼とされる倭迹迹日百襲や
桃太郎のモデル吉備津彦まで輩出していたのは記憶に新しい所です。

更に孝霊天皇の母も十市県主の娘の五十坂媛で第6代孝安天皇の皇后でした。

十市御縣神社3
十市御縣坐神社の本殿

十市御縣坐神社は大和国に6つある縣に建立された御縣神社の1つです。
大和六御県神社とは、高市葛木十市志貴山辺曾布(添)
 
古墳時代に、朝廷は国造に地方を支配させていましたが、
それとは別に、朝廷が直接支配していた縣(あがた)という土地がありました。
縣の責任者が縣主で,朝廷に食料や物資を納めていました。

四柱神社
四柱神社(工事中で祭神は四柱神社にいました)

十市御縣神社5
神池

耳成山口神社の参道⑦栗殿大神神社(桜井市・栗殿)

耳成山口神社の参道⑦栗殿大神神社(桜井市・栗殿)に関する記事です。

栗殿大神神社(おうどの)は近鉄桜井駅の北660M
大神神社の南西1.7KM、初瀬川左岸280Mにあります。

久しぶりに纒向の古墳に撮影目的で行った帰りに、寄りましたが、
晴れのはずが厚い雲に覆われていて、またしても綺麗な箸墓を撮影できませんでした。

栗殿大神神社へ着た頃には、やっと太陽がでてきて予報どうり強烈な日差しとなりました。

初瀬川
初瀬川(正面に三輪山)

栗殿大神神社は大和国・城上郡・鍬靫とされる式内小社の桑内神社に比定されています。

祭神:大物主命・天児屋根命・金山彦命 

延宝六年の「大神社」と刻んだ石灯籠があり、
1678年には三輪山の大神神社祭神を勧請していたようです。
社名は春日神社と称していましたが明治36年に大神神社と改称しています。

栗殿大神神社の社叢
栗殿大神神社の社叢


栗殿大神神社の鳥居
栗殿大神神社の鳥居

桑内神社なら関係する氏族は桑内氏で本来の祭神は建麻利尼命(たけ・まりね)と推測されます。 
建麻利尼命は天火明命の六世孫、「桑内連、石作連、山辺県主」の祖とされます。

天理市の北部・別所町に建麻利尼命を祭神とする山辺御縣坐神社があり
先日参拝したところでした。

栗殿大神神社の拝殿
栗殿大神神社の拝殿

日葉酢媛の葬儀に際し,垂仁天皇は野見宿禰の進言で殉死の風習を禁じ,
陵墓に埴輪の人馬などを埋めさせました。

この時に垂仁天皇は土師部と石祝作を定めています。
埴輪造りには土師部は野見宿禰、石棺作りには石作の建真利根が抜擢されています。 

栗殿大神神社の本殿
栗殿大神神社の本殿

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