エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

大和国(磯城・葛城・香芝)

鏡作神社・鏡作坐天照御魂神社(奈良県・磯城郡・田原本町・八尾)

鏡作神社・鏡作坐天照御魂神社(奈良県・磯城郡・田原本町・八尾)に関する記事です。

鏡作坐天照御魂神社は、近鉄橿原線の田原本駅の北1km、
鏡作麻気神社とは寺川を挟んで西側に鎮座します。

鏡作坐天照御魂神社は大和国・城下郡鎮座・月次新嘗と記される
鏡作坐天照御魂神社に比定される式内大社です。 


鏡作坐天照御魂神社1
鏡作神社の鳥居

このあたり一帯は、古代に銅鏡の製作を専業としていた鏡作部たちの本拠地でした。


田原本町付近には、
鏡作伊多神社(宮古・保津)、
鏡作麻気神社(小阪)、鏡作坐若宮神社(八尾)
など色々な鏡作神社があります。


伊多は「鋳た」、麻気は「磨け」と鏡の製作を効率良く分担していたことが伺われます。


そして当社の北500mには唐古遺跡があり、青銅器の鋳造遺物も多く出土し、
古代鏡作部との関係も注目されています。


鏡作坐天照御魂神社3
鏡作神社の拝殿1


鏡作坐天照御魂神社4
鏡作神社の拝殿2

当社は鏡作神社と呼ばれ、三種の神器の一つである八咫鏡を製作した、
石凝姥(いしこりどめ)を始めとする、鏡作三所大名神をお祀りしています。

主祭神の石凝姥は五伴緒の一神として瓊瓊杵尊に随伴して天降りしました。
五伴緒とは天児屋命天太玉命天鈿女命玉祖命石凝姥命のことです。 


石凝姥は石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女と言う意味で、
鋳物の神・金属加工の神として信仰され、鞴神社の祭神でもありました。、


中央:天照・国照彦・火明命(あまてる・くにてるひこ・ほあかり)
右: 石凝姥 (いしこりどめ)
左: 天糠戸(あめのぬかと)

鏡作坐天照御魂神社5

鏡作神社の本殿1

鏡作坐天照御魂神社の起源は、
ご神宝の銅鏡を天照国照彦火明命と称えて祀ったものです。

天照国照彦火明命は天照御魂神とも呼ばれる太陽の神様です。
関西には坐天照御魂神社は四社あり、鏡作神社もその一社でした。

木嶋坐天照御魂神社(京都府・太秦)
他田坐天照御魂神社(奈良県・桜井市)
鏡作坐天照御魂神社(奈良県・磯城郡)
新屋坐天照御魂神社(大阪府・茨木市)

鏡作坐天照御魂神社6
鏡作神社の本殿2(天糠戸・天照国照彦火明命・石凝姥)

第10代崇神天皇の頃、天照大神の伊勢遷宮に伴い、
三種の神器である八咫鏡も笠縫邑~伊勢神宮で祀ることになります。

そのために宮中で祀る神鏡が無くなり、八咫鏡を作った石凝姥の子孫の鏡作師が、
日像鏡を改鋳して、別の鏡を製作することになりました。
このときの試作品の鏡がこの鏡作神社の神宝ということです。

神宝の鏡は欠けたのでは無く、
試作で銅が十分に充填しないものを自分たちの宝にしたのでは?と思っています。
天照大神や天皇の鏡だから恐れ多くて完全な複製は鋳造できなかったのでしょう。

注ー1)
日像鏡(ひがた)

日像鏡は日矛鏡(ひぼこ)とともに、石凝姥命が八咫鏡に先立って造った鏡とされ、
現在は日前神宮・國懸神宮(和歌山市)の御神体。


鏡作坐天照御魂神社11
神宝の銅鏡

境内には天八百日命を祭神とする摂社の鏡作坐若宮神社があります。


鏡作坐若宮神社2
摂社の鏡作坐若宮神社

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鏡作神社の参道⑩多神社(奈良県・磯城郡・田原本町)
鏡作神社の参道⑪秦楽寺(磯城郡・田原本町・秦庄)
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鏡作神社の参道⑮池坐神社・朝霧黄幡比売神社(磯城郡・田原本町・法貴寺)
鏡作神社の参道⑯法貴寺斎宮神社(磯城郡・田原本町・法貴寺)
鏡作神社の参道⑰森市神社(磯城郡・田原本町・大安寺)
鏡作神社の参道⑱千代春日神社(城郡・田原本町・四条)
鏡作神社の参道⑲岐多志太神社(磯城郡・田原本町・伊与戸)



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鏡作神社の参道①鏡作麻気神社(磯城郡・田原本町・小阪)

鏡作神社の参道①鏡作麻気神社(磯城郡・田原本町・小阪)に関する記事です。

鏡作麻気神社は、(ががみつくり・まけ)は近鉄田原本駅の北東1.4km、

寺川を挟んで、鏡作天照御魂神社の東に鎮座します。

鏡作麻気神社は大和国・城下郡鎮座の鏡作麻気神社に比定される式内小社です。 


鏡作麻気神社6
寺川

田原本町付近は太古には、銅鏡の製作をしていた鏡作部が暮らしていた地域で、
当社を始め種々の鏡作神社がその歴史を伝えています。

鏡作坐天照御魂神社(八尾)、鏡作坐天照御魂神社(岩見)、鏡作麻気神社(小阪)、
鏡作伊多神社(宮古)、鏡作伊多神社(保津)


鏡作麻気神社1
鏡作麻気神社の社殿

主祭神 天糠戸命 (あめのぬかど)


祭神の天糠戸命は、天照大神を天岩戸から誘い出すために鏡を造った鏡作部の先祖です。



鏡作麻気神社2
鏡作麻気神社の拝殿

銅鏡は通常展示されている神獣などの模様がある面が裏面で、
逆の表面が鏡として使用されてきました。



「麻気」とは、その表面の鏡面を磨くことで、鏡作部たちのなかでも、
とても特殊な技術が必要な作業です。

それもただ綺麗に磨くのではなく、魔鏡となるまで磨き続ける大変な仕事です。


鏡作麻気神社3
拝殿に潜む龍神


魔鏡とはその表面の鏡面に太陽光を当て反射光を壁に投影すると、
神々の世界が映しだされる魔法の鏡です。


日巫女(ひみこ)は、太陽祭祀の場で「卑弥呼の鏡」を用いて、
幻想的な現象を引起し、人心を掌握していきました。


鏡作麻気神社4
鏡作麻気神社の本殿



今年の1月29日京都国立博物館から銅鏡の「魔鏡現象」を解明したとの発表がありました。


「魔鏡現象」は、鏡に光を当てたとき、反射した光が鏡の裏面の文様を映し出す現象です。

この現象が起きるようにするには、厚さが薄いところで1ミリ程度になるまで磨き、
1μという、目では見えないごく僅かなくぼみで裏面の模様を鏡面に転写させます。


ここに光が当たると反射した光が収束し、壁などに投影したとき、
裏の文様が映し出されるというわけです。




魔鏡
京都国立博物館が解明した「魔鏡現象」



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片岡神社(奈良県・北葛城郡・王寺町)

片岡神社(奈良県・北葛城郡・王寺町)に関する記事です。

片岡神社はJR王寺駅の南1.1km
片岡山の東南麓
片岡王寺の法灯を継ぐ元鎮守の放光寺の東隣に鎮座します。

また南隣には片岡王寺の大伽藍が出土した王寺小学校があります。


王寺航空写真2文字

片岡山と葛城川
片岡神社の旧社地・片岡山と葛下川

片岡神社が鎮座する片岡の地は、万葉集にも登場する場所です。

♪片岡の、この向つ峰に、椎蒔かば、今年の夏の、蔭にならむか♪  万葉集 


また片岡は聖徳太子の伯母とされる片岡姫が住んでいた場所でもあり、
片岡神社の東隣にある岩松寺は片岡姫が最初に建立した寺院でもあります。

その後、片岡姫は片岡中山に営んだ片岡宮を寺に改め、片岡王寺と称し
王寺の地名由来ともなります。

注1)最近は聖徳太子の子女には片岡姫王が居られ、聖徳太子の娘である片岡姫王の創建との説が有力なようです。 


片岡神社の鳥居
片岡神社の鳥居

片岡神社は大和国・葛下郡・月次新嘗と記される片岡坐神社に比定される式内大社です。

祭神:八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神

大同元年(806年)に片岡神の神戸(租庸調の税を神社に納めていた農民)のことが出てくるので、その頃には片岡神社が存在したされます。『新抄格勅符抄』
貞観元年(859年)の正月には正五位下に昇叙されたと記されます。『三大実録』
正暦5年(994年)疫病や天変地異が続いたため、中臣氏が救済を祈願したとされます。『社伝』

片岡神社の拝殿
片岡神社の拝殿

本社社殿の向かって左に境内社が四社あり、その中の一社に摂社の大原神社があります。
百済王系の大原史氏(ふひと)が片岡姫王を支えて片岡王寺を創建したとの説もあります。

大原史氏は敏達天皇系を主張するようになったともあり、

片岡王寺を創建したのは敏達天皇の後裔の大原門部(大原真人)との説もあります。

片岡神社の境内社
片岡神社の境内社(大原神社他4社)

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片岡神社の参道④
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片岡神社の参道⑤
久度神社 (北葛城郡・王寺町・久度)
片岡神社の参道⑥親殿神社(北葛城郡・王寺町・本町)芦田池
片岡神社の参道⑦火幡神社(北葛城郡・王寺町・畠田) 明神山から遷座
片岡神社の参道⑧白山姫神社(北葛城郡・王寺町・畠田)香搭寺
片岡神社の参道⑨永福寺(北葛城郡・王寺町・畠田) 
片岡神社の参道⑩畠田古墳(北葛城郡・王寺町・明神) 
片岡神社の参道⑪明神山水神社(北葛城郡・王寺町・畠田)
片岡神社の参道⑫乳垂地蔵(北葛城郡・王寺町・畠田)
片岡神社の参道⑬送迎の踊り場(北葛城郡・王寺町・畠田)

鏡作神社の参道⑩多神社(奈良県・磯城郡・田原本町)

鏡作神社の参道⑩多神社(奈良県・磯城郡・田原本町)に関する記事です。

通称は多神社ですが、正式名は多坐弥志理都比古神社(おお・みしりつ)です。
多は、太安万侶の太とも書き、古代の豪族の多氏(おおうじ)の本拠地です。


祭神 :第一社 神武天皇(神八井耳命の父)
    第二社 神八井耳
            第三社 神沼河耳(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
            第四社 玉依姫命(神八井耳命の祖母)

弥志理都比古(みしりつひこ)とは祭神の神八井耳のことです。
 

多坐弥志理都比古神社の社標(おお・みしりつ)
多坐弥志理都比古神社の社号標

多神社は、近鉄橿原線の「田原本町」駅から南へ徒歩で30分,
飛鳥川の右岸に鎮座する古社です。  

田原本駅から北が鏡作りの氏族、南が日本の農業の開拓者である多氏で、
両氏族に関連する神社が、南北に分かれて幾つも鎮座しています。
 

飛鳥川
多神社前を流れる飛鳥川


多神社は、三輪の檜原神社と同じく、
天照大神を皇居から伊勢に遷座する途中で祭った、笠縫邑の候補地でもあります。

春分・秋分の日には、三輪山から太陽が登り、
二上山に太陽が沈む日祀りの地でもあるそうです。
 

多坐弥志理都比古神社の鳥居(おお・みしりつ)
多神社の鳥居

また多神社は多遺跡と呼ばれる弥生時代の環濠集落跡の中心に鎮座しており、
弥生土器、木器、銅剣などが出土しています。

大和政権が成立する前の弥生時代からここの集落で稲作を行い、
多神社の場所で神に感謝する祀りが行われていたのでしょう。

銅鐸0
弥生時代の収穫の感謝祭

多神社の祭神は神武天皇とその妻そして神武夫妻にできた兄弟の四神です。
兄が神八井耳で、弟の神沼河耳(かむ・ぬなかわ)は第3代綏靖天皇(すいぜい)です。

神八井耳は弟に天皇の座を譲り、これを助けて天神地祇を司ることになりますが、
そのとき創始したのが、この多神社です。

多坐弥志理都比古神社の拝殿(おお・みしりつ)
多神社の拝殿

多氏は名門中の名門として、古事記を編纂した太安万侶を初めとして、
日本の歴史をつくる人を沢山輩出します。


多坐弥志理都比古神社の本殿(おお・みしりつ)
神武天皇夫妻と息子兄弟の四神を祀る多神社の本殿



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多神社の境外社①小杜神社 こもり


小杜神社(こもり)は多神社・多坐弥志理都比古神社の境内摂社です。


祭神:太安万侶


太安万侶(~723年)は古事記を編纂した奈良時代の官人で、
日本文化の発展に貢献した多氏の中でも、最も広く知れ渡った人です。

多氏は安万侶の代で姓を多から太に変わったそうです。


小杜神社1
小杜神社の社殿1


古事記の編纂に当たっては、
稗田阿礼(ひえだのあれい)が覚えていた歴史の内容を喋り、
それを太安万侶が聞いて筆記・編集し、
奈良時代が始まったばかりの712年に完成したとのことです。

ちなみに日本書記の完成は720年ですが、

もっとおおくの人と年月が掛かっています。

小杜神社2
小杜神社の社殿2


1979年に奈良市内の此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見されました。


それまでは安万侶の存在を疑問視する人もいたそうですが、
太安万侶の名前が刻まれた墓誌と火葬遺骨が出土し、実在が証明されました。

太安万侶が存在しないと言うまえに、
誰が古事記を作ったかを言わなければ歴史学の腐敗しかないのですが・・~


2012年には多神社の元に、奈良市のお墓で見つかった「太安万侶のお骨」が
分骨されて帰ってきたそうです。
そこで、小杜神社境内に古事記編纂1300年の記念碑を建て、
故人を偲ぶことにしたそうです。



太安麻呂の記念碑
太安万侶記念碑


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多神社の境外社②屋就神命神社 やつぎ

屋就神命神社(やつぎ・しんめい)は多神社の南西300mにあり、
飛鳥川をヘだてて鎮座する境外摂社で、
八剣神社と称されるされる式内社です。

飛鳥川の右岸が磯城郡・田原本町、左岸が橿原市・大垣町の為に、
多神社の近くにあるのに、地名が大きく変わっています。


屋就神命神社(やつぎ)1
屋就神命神社の社標


屋就神命神社(やつぎ)2
屋就神命神社の鳥居

その多神社の主祭神の神八井耳には四皇子がいて、
屋就神命神社は四皇子神を祀る神社の一社と言われています。


四皇子神を祀る神社とは以下の3社が多神社の近くにありました。

・皇子神命神社
・姫皇子命神社
・屋就神命神社

屋就神命神社(やつぎ)3
屋就神命神社の社殿
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多神社の境外社③皇子神命神社 みこかみ

皇子神命神社は多神社の南100mにある境外摂社で、
小さな祠しかありませんが、若宮とも称される式内社です。


祭神:皇子神命


皇子神命神社1
皇子神命神社
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多神社の境外社④姫皇子命神社 ひめみこかみ


姫皇子命神社は多神社の境内摂社で東200m多集落と畑との境界に鎮座します。

祭神:姫皇子命


姫皇子神命神社1
姫皇子命神社の社殿(東向き)

多神社の四皇子神の一社です。

祭神の姫皇子とは神八井耳命の娘とも
神武天皇の娘とも、天照大神若魂とも言われています。


姫皇子神命神社2

姫皇子命神社の拝殿


多神社及び他の摂社はすべて南向きなのに、
姫皇子命神社だけは東向きです。


姫皇子命は、太陽神からのご神託を受ける巫女で、
姫皇子神社は太陽神を祭る聖地だったのでしょう。


崇神天皇の頃に、宮中を出た天照大神が
最初に祀られた笠縫邑を姫皇子命神社に比定する説もあるそうです。

これは姫皇子命神社で太陽神を祭っていたことによるそうです。

姫皇子神命神社3
姫皇子命神社の本殿


立派な土壇に鎮座する可愛い末社2社も東向きで、とても気になる神社でした。

姫皇子神社末社2社
姫皇子命神社の末社(東向き)


しかし多神社は弥生時代から続く神社です。
天照大神の伊勢遷宮より遥かに古い時代から太陽祭祀を行っていたと思います。

弥生時代




孝霊神社(磯城郡・田原本町・黒田)

孝霊神社(磯城郡・田原本町・黒田)に関する記事です。

孝霊神社は近鉄・田原本線の黒田駅の南250M、
聖徳太子が斑鳩の里と飛鳥の里を往来した太子道に面して鎮座しています。


孝霊天皇神社
太子道に面した社頭

孝霊神社は庵戸神社(いおと)とも称しますが
ここから北西400Mにある庵戸宮(いおと)が営まれた法楽寺の境内にあった鎮守社です。

明治の神仏分離で、法楽寺境内から現在の黒田池畔に遷座しました。


孝霊神社の社叢
黒田池と孝霊神社の社叢

孝霊天皇は、紀によれば,孝安天皇と天皇の兄娘の押媛との間に生まれ、
孝安天皇を御所市の玉手丘上陵に葬り,黒田に庵戸宮を営みました。

庵戸宮は孝霊天皇が崩御し、第8代孝元天皇により
軽境原宮(牟佐坐神社)に遷都されるまでの間政権の中枢となった場所です。


孝霊天皇神社の鳥居
孝霊神社の鳥居

祭神:孝霊天皇、倭迹迹日百襲姫、吉備津彦、稚武彦

祭神は第七代孝霊天皇とその子女です。

庵戸宮で産まれた吉備津彦は、たくましく成長し
崇神天皇から全国制覇を目指す四道将軍の一人として吉備に派遣されます。

吉備津彦は犬飼部、猿飼部、鳥飼部とよばれる家臣団を率いて
百済から渡来した温羅と称する製鉄に優れた吉備国の武装勢力を退治します。

これが桃太郎伝説として現在に伝わります。


孝霊神社の拝殿
孝霊神社の拝殿

祭神の吉備津彦と倭迹迹日百襲姫は桃とも深く係りを持つ同母兄弟です。
吉備津彦は桃太郎、百襲姫は桃を使った鬼道で桃とも深く係ります。

倭迹迹日百襲姫(やまと・とと・ひももそ)は、
得意の鬼道を用いて崇神天皇の政治を助けました。


孝霊天皇神社本殿
孝霊神社の本殿

百襲姫の墓所は箸墓古墳で卑弥呼の墓として広く知られています。

箸墓古墳の近くの巻向遺跡の中枢部では
百襲姫(卑弥呼)の館と見られる三世紀前半に建造された大型施設が発見されました。

その場所から祭祀に用いたとみられる2千個を超す桃の種が発見されました。


桃の種
百襲姫の館から発見された桃の種

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廣瀬大社(奈良県・北葛城郡・河合町)

廣瀬大社(奈良県・北葛城郡・河合町)に関する記事です。

廣瀬大社は法隆寺駅JR大和路線の法隆寺駅から南南東2km
近鉄田原線の佐味田駅から北北東2km程
三郷の龍田神社からは東へ6km
大和川の支流の合流地点・河合の地にあります。
 

法隆寺駅
JR法隆寺駅

廣瀬大社は曽我川・飛鳥川・寺川・富雄川・・
など全ての支流が大和川に合流する河合の地点に鎮座する水の守り神です。

龍田の風神・廣瀬の水神と称せられ、
両神が力を合わせて、この地域の風水害を防ぎ、穀物の豊作を守護してきました。

廣瀬大社河合
大和川合流地点(河合)

ほとんどの支流が合流したあとの大和川ですが、御幸橋から見る風景が最高でした。
天武天皇が684年に行幸の折り廣瀬川と呼ばれた大和川に
橋を架けたのが御幸橋の始まりです。

大和川(御幸大橋) (3)
御幸橋から見た大和川

神社の参道に平行に流れる小川の先には太鼓橋がありました。
このあたりは明治時代中頃までは河合浜という船着場で、
物資の集散地として賑わったそうです。

太鼓橋の下を流れる小さな小川がかつての入江の名残と想像します。

太鼓橋
太鼓橋

廣瀬大社は大和国・広瀬郡・月次新嘗と記される名神大社です。

祭神   :若宇加能売命(わかうかのめ)
相殿  :櫛玉命、穂雷命


若宇加能売命は水の守り神で河川の氾濫を防ぎ、五穀豊穣を守る神であり、
これらのことから、食物を守る御膳神(みけつ)とされています。

天照大神に捧げる食物を司る豊受大神の分身ともされる神です。

一の鳥居
廣瀬大社の一の鳥居(400mの参道が続く)

崇神天皇9年、広瀬の河合の水足池と呼ばれる沼地が
一夜で陸地に変化し橘が数多く生えました。
そのことが祟神天皇に伝わり、その地に社殿を建てて祀ったのが創始とされます。

廣瀬大社の拝殿
廣瀬大社の拝殿

その後、日本書紀には天武天皇4年(675年)に
風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、
これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされています。

4月と7月に分けて行う理由として、
4月は田植えの前に稲の成長に必要な雨が降ることを願い、
7月は収穫前に、暴風雨などで田畑が荒らされないように
との祈りを込めた祭司と思われます。

廣瀬大社の拝殿2
廣瀬大社の拝殿2


廣瀬大社の本殿
廣瀬大社の本殿

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廣瀬大社の参道⑱於神社(北葛城郡・広陵町・大塚)うえの 
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孝霊神社参道⑫糸井神社(磯城郡・川西町・結崎)に関する記事です。


同じ磯城郡の田原本町の鏡作神社は寺川の左岸にありましたが、
糸井神社はその寺川の4km程下流右岸にあり、河合付近の8川合流も間近です。

このあたりは洪水ハザードマップが完備していて、
「想定浸水深」の警告表示が各所にあり、
大和川が氾濫したら浸水1.5M、
寺川が氾濫したら浸水1.3Mなどと明示されており、
昔からの水害の地だったことが想像されます。


寺川(鏡神社下流)
寺川と糸井神社の社叢


祭神:本殿 豊鍬入姫命(とよすきいり)
   二ノ宮 猿田彦命
   三ノ宮 綾羽明神(あやは)
   四ノ宮 呉羽明神(くれは)


豊鍬入姫は、父の崇神天皇の命で、宮中に祀られていた天照大神を
檜原神社の地・笠縫邑に遷し、
倭姫命と交代するまで祭祀を続け,これが斎宮の起源となり現在に続きます。


豊鍬入姫を祀る神社:豊鍬入姫宮(檜原神社)、糸井神社
豊鍬入姫の墓:ホケノ山古墳


糸井神社1
糸井神社の鳥居


糸井とは結崎付近の地名とみられ、
繊維紡績業の栄えた地域で、その糸井郷を治めた豪族が糸井造(みやつこ)です。


糸井神社の祭神として天日槍説もあるそうですが、
天日槍というと兵庫県北部の但馬がゆかりの地として有名です。


その但馬の朝来市にも糸井郷があり、蚕の糸を紡ぐのに適した井戸水が豊富だったことから
繭の「糸」と井戸の「井」をとり「糸井」となったとも伝えられます。


また奈良の倭にも天日槍との関係が考えられる兵主神社の代表格の大兵主神社があり、
倭の草創期に但馬からも天日槍が呼ばれて、養蚕の開発を行ったとも見られます。


糸井神社2
糸井神社の拝殿


綾羽と呉羽が主祭神との説もあり、どちらにしても機織に関係する歴史を持つ神社です。

綾羽と呉羽は飛鳥の於美阿志神社の記事でも登場した神様です。

大陸からの機織の技術集団が渡来し、
この集団に漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の織り姫がおり、
漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖となっています。


糸井神社3
糸井神社の本殿


拝殿の中には沢山の絵馬が奉納されていて、
その中央には、雨乞いの様子を描いた
天保13年の「結崎の太鼓踊り絵馬」が掲げてあります。


これは明治のころまで雨乞い成就を祝って踊られた「なもで踊り」と言うもので、
二基の大太鼓の中で、数十人もの人がきらびやかな衣装をつけ、
鼓など手に踊る様子が描かれています。


スイカを切売りする人なども描かれていて、
雨が降ったお礼のお祭りで願満踊りとも呼ばれていたようです

糸井神社6
「なもで踊り」の絵馬


「なもで踊り」は雨乞いをしても雨が降らない時の最後の手段で、
雨を降らしてくれれば、「なもで踊り」を氏神に奉納しますと約束します。
そして雨の降り方で「なもで踊り」の規模が決まります。

この絵馬は大規模なので、相当量の雨が降ったものと思われます。

糸井神社7
「なもで踊り」の絵馬(きらびやかな衣装で踊る人々)

雨は欲しいけれど洪水も多々あった川西町
もう雨は十分ですので、これくらいで収まって下さい・・との願いもあったでしょう。

 

孝霊神社の参道⑭島の山古墳(磯城郡・川西町・唐院)

孝霊神社参道⑭島の山古墳(磯城郡・川西町・唐院)に関する記事です。


奈良の前方後円墳約300基のうち第21番目に大きな古墳だそうですが、
一見してとても美しい古墳ですし、バス釣りの人も多い明るい古墳に感じました。

また島の山古墳の西隣には糸井神社と関係の深い比売久波神社があり、
2施設がお互いに景観を引き立て合っていて、古くからの関係を連想します。


築造:4世紀末頃
構成:前方後円墳
サイズ:全長200m、後円部径105m、前方部幅95m


被葬者として蘇我入鹿、応神天皇の后の糸井媛の2説ありますが、
大和川水運を支配した古代豪族に関わるものと推測されます。


島の山古墳には前方部と後円部に埋葬施設があり、2人が別々に埋葬されていました。
後円部の埋葬施設は過去に盗掘にあり副葬品は殆ど残っていませんでした。



島の山古墳
島の山古墳

しかし前方部は未盗掘で、平成8年の調査で
夥しい数の石の腕輪、ネックレス、銅鏡が発掘されています。

武器が無く、装飾品ばかりであることから前方部の被葬者は女性ではと考えられています。


男性が後円部の中心的な埋葬施設に葬られ、
女性が前方部に陪葬されています。

女性が応神天皇の后である糸井媛、
男性が糸井媛の父の島垂根(桜井田部連祖)との説があり、説得力があります。




糸井媛の前方部の埋葬施設から発掘された夥しい数の石の腕輪とは
車輪石、鍬形石と呼ばれるは古墳時代の碧玉製の腕飾です。


車輪石は弥生時代に女性・小児の腕飾として用いた巻貝(カサガイ)の形を,
拡大して碧玉で模写加工したものです。

女性用の腕輪・車輪石(碧玉製腕輪)島の山古墳
前方部から発掘した車輪石(80ケ)

鍬形石は弥生時代に男性の腕飾として用いた巻貝の形を,
そのまま碧玉で模写加工したものです。


男性用の腕輪(鍬形石)島の山古墳
前方部から発掘した鍬形石(21ケ)


孝霊神社の参道⑬比売久波神社(磯城郡・川西町・唐院)

孝霊神社参道⑬比売久波神社(磯城郡・川西町・唐院)に関する記事です。

比売久波神社(ひめくわ)は姫桑とも記し、
桑葉をご神体としていた養蚕の神社です。


同じ養蚕関係の糸井神社の西500m、
合流が間近の寺川と飛鳥川の中間にあります。


祭神:久波御魂(くわ)
         天八千千姫(あめのやちち)


天八千千姫は、天棚機姫(あまの・たなばた)とも称され、
天香具山に桑を植えて蚕を飼い、絹織物を織った女神として伝えられます。


石標
比売久波神社の社標と鳥居


天棚機姫というと七夕伝説発祥の地である
交野の機物神社(はたもの)の祭神でもあり、以前記事を書きました。


天棚機姫は天照大神の天岩戸隠れに際しては、
天照大神の衣服を織って、天岩戸から外の世界へ誘い出した神でした。


そして交野の地は養蚕を営んだ秦氏のお墓・倉治古墳糸吉神社などもありました。


二の鳥居
比売久波神社の社殿


比売久波神社の地は、
聖徳太子が斑鳩の宮と推古天皇小治田宮を往復された
「太子道」沿いにあります。


そして近くには聖徳太子の腹心だった秦河勝が活動した跡が色濃く残る地で、
秦庄(はたのしょう)には秦河勝が創建した秦楽寺(じんらく)があります。


社殿1
比売久波神社の拝殿


本殿
比売久波神社の本殿(春日大社の旧社殿:江戸初期)

 
比売久波神社から西の飛鳥川までは唐院と呼ばれる地名です。

その飛鳥川に山羊がいました。

山羊 (3)
飛鳥川


葛木倭文坐天羽雷命神社(奈良県・葛城市・加守)

葛木倭文坐天羽雷命神社(奈良県・葛城市・加守)に関する記事です。

葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎ・しとり・あめは・いかづち)と長い名前ですが
一般には加守神社と呼ばれています。

加守神社は近鉄二上神社口駅から15分、二上山への登山道入口にあります。

途中雪の降る中、溜池から二上山を間近に望み、
雄岳の頂上も近いことを実感しました。

雪の二上山
参道から望む二上山

葛木倭文坐天羽雷命神社は大和国・葛下郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。
論社は葛城市・寺口の博西神社です。 

現在は倭文・掃守・二上神社の三社が祀られています。

中央:倭文神社(天羽雷命)あめは・いかづち
右殿:掃守神社(天忍人命)あめ・おしひ
左殿:二上神社(豊布都霊神,大国魂命)

加守神社1注連縄柱
葛木倭文坐天羽雷命神社の注連縄

倭文(しとり)とは梶の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布のことです。

秦氏や漢織・呉織などで今までにでてきた織物技術は
古墳時代に大陸から伝わった絹織物の技術です。

これに対し倭文とは、倭の文様で、大陸から伝わる以前、
弥生時代から日本にあった織物技術のことと思われます。

その倭文を伝えてきた倭文氏が祖人の天羽雷命を祀ったのが倭文神社で、
当社がその本流です。

天羽雷命は天照大神を天岩戸から誘い出すために、
文布(あや)を織ったとされる機織りの祖神です。
 
加守神社2拝殿
葛木倭文坐天羽雷命神社の拝殿1

左殿の二上神社は二上山山頂にある葛木二上神社の遥拝所だったとされます。

祭神の豊布都霊神と大国魂命は、
二上神社からそれぞれ石上神宮と大和神社に勧請されたという伝承があります。
 
加守神社2拝殿2
葛木倭文坐天羽雷命神社の拝殿2

右殿の加守神社は産育の神として知られる天忍人命を祀っています。
当社の社家は蟹守氏(かもり)、地名や社名の加守・掃守(かもり)も蟹守に由来します。

天忍人命は神武天皇の父である鵜草葺不合の生誕のときにその胎便を掃除した神です。
後裔の蟹守氏は宮殿の掃除・鋪設に奉仕した掃部になっています

加守神社3本殿
本殿(中央:倭文神社、右殿:掃守神社、左殿:二上神社)


加守神社4磐座
加守神社の磐座

神社の入口には「産婆大西氏の碑」「産婆梅塚氏の碑」があり、
いずれも建立は昭和8年で、産婆さんたちからも信仰されていることが判ります。

加守神社5
産婆の碑

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加守神社の
参道⑥葛木二上神社(葛城市・染野)  
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加守神社の参道調田坐一言尼古神社(葛城市・疋田)
加守神社の
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加守神社の
参道海積神社(葛城市・太田)
加守神社の参道⑪
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加守神社の参道⑬大津皇子陵 (葛城市・染野)  
加守神社の参道⑲石園座多久虫玉神社(大和高田市・片塩町)

加守神社の参道⑲石園座多久虫玉神社(奈良県・大和高田市・片塩町)

加守神社の参道⑲石園座多久虫玉神社(奈良県・大和高田市・片塩町)に関する記事です。

石園座多久虫玉神社(いその・たく・むしたま)は、
近鉄南大阪線の高田市駅の北
40mに位置します。

虫玉神社1
多久虫玉神社の鳥居

多久虫玉神社は大和国・葛下郡・月次新嘗と記される式内大社です。


祭神:建玉依彦、建玉依姫
配祀:豊玉彦、豊玉姫


祭神の建玉依彦と建玉依姫は
下賀茂社の祭神である賀茂建角身の子供で、
建玉依彦は後に賀茂県主となります。


洛北の上賀茂神社の摂社・土師尾社(はじお)の祭神も建玉依彦ですが、
土師器・陶器に繋がる祖になります。


虫玉神社3
多久虫玉神社の拝殿

虫玉神社5
多久虫玉神社の拝殿内部

本来の祭神は「多久虫玉神」という説もあります。

多久虫玉で私が連想したのは、
仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)が京田辺・多々羅(筒城宮)で見たという蚕でした。

古事記には、下記記述があるそうです。
一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、
三色に変わる珍しい虫(蚕)を見た。

虫玉神社6
多久虫玉神社の本殿

石園座多久虫玉神社は龍王宮とも呼ばれ、水神としての信仰も篤かったようです。

三輪山の南から二上山付近まで東西に貫く古道を横大路(伊勢街道)というそうです。
その横大路に沿うように大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍の尾
とする伝承があるそうです。

虫玉神社2


<関連記事>

①片塩浮穴宮跡

石園座多久虫玉神社は、第三代安寧天皇の宮である片塩浮穴宮跡の伝承地でもあります。

近くの三倉堂池から弥生時代後期の木棺・埴輪・七鈴鏡などが発掘され
片塩浮穴宮との関係が考えられています。

安寧天皇片塩浮穴宮跡
片塩浮穴宮跡碑

②笠神明神

大和高田市の磯野は源義経の愛妾(あいしょう)の静御前の母(磯野禅尼)の里です。
美貌で名高い静御前は母の里・高田市に戻って、生涯を終えたとする伝説があります。

静御前は源義経と共に、源頼朝に追い回され、心疲れて病気になります。
その時に、静御前が病気平癒を祈ったのが境内社の笠神明神です。

笠神の社1
静御前が病気平癒を祈った笠神の杜

静御前は美貌と白拍子(歌舞を歌い舞う遊女)だったことでも知られています。

笠神の社2
源義経の愛妾・静御前




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葛木坐火雷神社・笛吹神社(奈良県・葛城市・笛吹)

葛木坐火雷神社・笛吹神社(奈良県・葛城市・笛吹)に関する記事です。

葛木坐火雷神社(ほのいかづち)は笛吹神社とも呼ばれ、
近鉄御所線の忍海駅(おしみ)西2.5km、葛城山の東麓に鎮座する古社です。

当社は元々は火雷神社と笛吹神社という別々の神社でした。
ところが平安時代に火雷神社の社勢が衰え、
古代より笛吹連の本拠地だった当地の笛吹神社に合祀されました。
その笛吹連の子孫の持田氏が代々宮司を務め、現在で85代目とのこと。 

笛吹神社1
笛吹神社の社叢

笛吹神社は標高170mのイチイガシが群生する扇状地にあり
社頭には22mの天然記念物のイチイガシが聳えます。

この悠久の社叢の中には、笛吹氏の祖の古墳も包まれており
太古から育んできた恵みの森です。

また当社は古来より波波迦の木を宮中に献上していた事でも知られています。
波波迦の木(ははか)の皮で雄鹿の骨を焼いて吉凶を占いました。

笛吹神社2
笛吹神社のイチイガシ

葛木坐火雷神社は大和国・忍海郡鎮座・相嘗新嘗・二座と記される名神大社です。

祭神:火雷大神、天香山命
配祀:大日霊貴尊、高皇産霊、天津彦火瓊瓊杵、伊古比都幣命

火雷大神(ほ・いかづち)は葛木坐火雷神社の祭神で、天香山命は笛吹神社の祭神 でした。

笛吹神社3
笛吹神社の鳥居と社号標

火雷大神は、雷や稲妻の猛威から守護してくれ、雨の恵みをもたらす神です。
死んで黄泉の国へ下った伊邪那美命の全身に発生した8柱の雷神の総称が火雷大神です。

注1)8柱の雷神とは炎の火雷神、暗闇の黒雷神、雷鳴の鳴雷神、稲妻の伏雷神、
土雷神、若雷神、裂雷神、析雷神です。

笛吹神社4
笛吹神社の拝殿1

当社の社伝によると祭神の天香山命は石凝姥命のことです。

石凝姥命は天照大神が天岩戸に籠もったとき、
天香山の土を掘って鏡を作り、竹で笛を作って吹き鳴らした、
と神話に伝えられています。

笛吹神社5
笛吹神社の拝殿2
 
笛吹神社6
笛吹神社のロシア製大砲(日露戦争の記念)

本殿の北西には横穴式石室に家形石棺を安置した円墳があり、
笛吹連の祖・櫂子(かじし)の父である建多折(たけた・おり)の墓といわれています。
笛吹神社の周囲に笛吹古墳群があり、この古墳に眠るのはその盟主です。 

<笛吹神社古墳>
形状    :円墳
サイズ   :約26m、高さ4m
築造時期:6世紀前半
被葬者    :笛吹連の盟主 
出土品  :金銅装の大刀他

また火雷大神とは文字どうり鍛冶生産・鉄器生産の神のことで、
この地域の古墳に葬られた人々が係わった職業と考えられています。 

笛吹神社7
笛吹古墳1

笛吹神社の社伝によると祖人の櫂子に以下の様な伝承があります。

*崇神天皇が大彦命を北陸に差向けた軍に櫂子(かじし)も加わった。
*奈良山で建埴安彦が大和を襲撃しようと進軍していることを知り櫂子が天皇に報告した。
*大彦命は建埴安彦を討伐するため出陣し、木津川を挟んで対峙した。
  このとき櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので建埴安彦は潰走した。
*崇神天皇は櫂子の戦効を賞して天盤笛と笛吹連の姓を与えた。

笛吹神社8
笛吹古墳2

<関連記事>
笛吹神社の参道①柿本神社(葛城市・柿本)
笛吹神社の参道②葛木御縣神社(葛城市・葛木) :みあがた
笛吹神社の参道③金村神社(葛城市・新庄町大屋) 
笛吹神社の参道④博西神社(葛城市・寺口)   
笛吹神社の参道⑤大宝天皇神社(葛城市・南藤井)  
笛吹神社の参道⑥為志神社(葛城市・林堂)   :いし
笛吹神社の参道⑦笛吹若宮神社(葛城市・南花内)  
笛吹神社の参道⑧脇田神社(葛城市・脇田)  
笛吹神社の参道⑩角刺神社(葛城市・忍海)  
笛吹神社の参道⑪飯豊天皇陵(葛城市・北花内)  
笛吹神社の参道⑫火振山古墳(葛城市・南藤井)  
笛吹神社の参道⑬神明神社古墳(葛城市・寺口)  
 

笛吹神社の参道①柿本神社(葛城市・柿本)

笛吹神社の参道①柿本神社(葛城市・柿本)に関する記事です。

柿本神社は近鉄御所線の新庄駅前にあり、
ホームからでもお参りできそうな距離です。

祭神:柿本人麻呂

柿本神社の祭神は柿本人麻呂(660-720)で、
飛鳥時代の宮廷歌人として知られます。

柿本神社の鎮座地は、祭神と同じ柿本ですが、
これは柿本人麻呂が持統天皇から領地を賜って居住した場所と伝わります。

人麻呂の歌は持統天皇(645-703)の即位からその崩御の間に多く詠まれており、
この女帝と係りが深いものと思われます。

柿本神社1鳥居
柿本神社の社殿

人麻呂は郡司として石見国(島根県・益田市)へ赴任地し、石見の地で没しました。

770年に人麻呂の遺骨を石見から葛城のこの地に改葬して、
傍らに社殿を建てたのが柿本神社の始まりといわれています。

柿本神社2
柿本神社の本殿

拝殿の南側の「柿本太夫人麻呂之墓」と刻まれた石碑があり、
江戸時代播州明石から転封となった大和郡山藩主松平信之が
元和元年(1681年)に建てたものと伝わります。

柿本神社3
柿本神社の人麻呂塚

人麻呂が葛城を偲んだ歌碑もあります。

♪春柳 葛木山に たつ雲の 立ちても坐ても 妹をしそ思ふ♪

柿本神社4
人麻呂の万葉歌碑

人麻呂の遠縁にあたる真済(しんぜい)は、
柿本神社の境内に影現寺(ようげんじ)を建立し、
自らが彫ったとされる人麻呂の木造を安置しました。

「はめ込み式の首は、夜中に月の出る方向に向く」との言い伝えがあります。

柿本人麻呂人形
人麻呂木造(影現寺HPより借用)

人麻呂の命日の4月18日にはチンポンカンポン祭が行われます。
かつて神事の時に打ち鳴らしていた太鼓や鉦、笛の音に由来しています。

柿本神社5影現寺
影現寺の鐘楼


笛吹神社の参道②葛木御縣神社(葛城市・葛木)

笛吹神社の参道②葛木御縣神社(葛城市・葛木)に関する記事です。

葛木御縣神社は近鉄御所線・新庄駅の西1.4km
葛城山の西麓、新庄中学校前に鎮座する小さな神社です。
 
新庄中学校
葛城山麓の新庄中学校

葛木御縣神社は大和国・葛下郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。

祭神:剣根命、瓊瓊杵命

葛木御縣神社1
葛木御縣神社の社号標

祭神の剣根命は初代の葛城国造です。

神武天皇は日本制覇を達成した神武2年に2名の日本最初の国造を決めます。
これは初代倭国造とされる椎根津彦命とともに国造の最も古い例とされます。

1.椎根津彦命が大和国中央部を支配した倭国造
2.剣根命が大和国南西部を支配した葛城国造

葛木御縣神社2
葛木御縣神社の拝殿

葛木御縣神社は大和国に6つある縣に建立された御縣神社の1つです。
大和六御県神社とは、高市葛木十市志貴山辺曾布(添)
 
古墳時代に、朝廷は国造に地方を支配させていましたが、
それとは別に、朝廷が直接支配していた縣(あがた)という土地がありました。
縣の責任者が縣主で,朝廷に食料や物資を納めていました。


葛木御縣神社3
葛木御縣神社の本殿

雄略天皇が皇位継承争いで、
葛城氏の長の円大臣(つぶら)の館に逃げ込んだ眉輪王(まゆわ)を攻めます。  
雄略は館を焼き払い、円大臣の所領を没収し、天皇の直轄領とします。

これが葛木御縣の起源と考えられています。
 
極楽寺ヒビキ遺跡
葛城円の館(極楽ヒビキ遺跡:雄略に焼かれた跡が発掘)

加守神社の参道⑦石光寺(葛城市・染野)

加守神社の参道⑦石光寺(葛城市・染野)に関する記事です。

石光寺(せっこうじ)は、二上山麓にある浄土宗の寺院で山号は慈雲山で、
飛鳥時代後期の創建とみられる當麻寺と並ぶ古寺です。

参拝した2月の中旬は石光寺の名物の牡丹は終わっていましたが、
二上山を背景に蝋梅が満開でした。

蝋梅
二上山を背景に蝋梅

万葉の人々は二上山をあの世への通い道、他界との接点と考えていましが
石光寺はその入り口に位置する寺院です。

石光寺は中将姫がハス糸を五色に染めたという井戸で知られる寺です。
また伝説どおりに寺名に由来する光る石仏も出土した
季節の花が咲き乱れる極楽浄土のような寺でした。

石光寺1
石光寺の山門

山門を潜ると二つの本堂があり、右が阿弥陀堂、左が弥勒堂で、
1991年の弥勒堂建て替え時に旧金堂跡など2棟の建物が発見されました。

右:常行堂 (阿弥陀堂)左:弥勒堂 (旧金堂跡)
右が阿弥陀堂、左が弥勒堂

石光寺は7世紀末から8 世紀初頭の建立であり
弥勒菩薩を本尊とした弥勒堂として建てられました。

その後、塔や金堂など伽藍が整備されましたが、
精巧なつくりの礎石が境内に残っています。

石光寺塔跡
奈良時代の礎石

当麻曼荼羅縁起絵巻で伝わる 光る弥勒菩薩が発掘調査で出土し、
その縁起が正しいことが実証されました。

染井の近くにあった染寺は、天智天皇の勅願により、
光る石を彫り込んで作った弥勒菩薩を本尊として創建された

天智天皇の勅願により石仏及び堂塔を建てたことは、
皇室と関わりある寺として建立されたことを物語っています。

弥勒菩薩出土品2
出土した光る弥勒菩薩(石光寺HP)

発掘調査ではこの弥勒菩薩の他に瓦、仏が出土しました。
(せん) とは仏像を型押ししたタイルで飛鳥時代に流行したお堂の壁飾りです。

磚仏2
弥勒堂から出土した磚仏

あらかじめ制作しておいた型に粘土を押し当てて形をとり、乾燥、焼成して造りますが、

木像や石像と異なり、大量生産に向くメリットがあります。
お堂の天井・壁面の全面を金箔を施した磚仏で張り付け荘厳さを強調します。

 磚仏
磚仏を壁に貼り付けた模様


笛吹神社の参道⑩角刺神社(葛城市・忍海)

笛吹神社の参道⑩角刺神社(葛城市・忍海)に関する記事です。

角刺神社は近鉄御所線の忍海駅(おしみ)北側、
葛城川の支流・安位川を渡った場所に葛城歴史博物館と同居する神社です。

祭神:飯豊青命

忍海駅
忍海駅(角刺神社はすぐ傍)

安位川
葛城川支流の安位川(右が角刺神社の社叢)

記紀によると、忍海には短期間ですが、国政の中枢が置かれました。
飯豊女王が政務を執った場所が忍海角刺宮で、角刺神社です。

飯豊女王の角刺宮は歌に詠まれるほど立派な宮殿だったそうです。

♪倭辺に 見が欲しいものは 忍海の この高城なる 角刺の宮♪ (日本書紀)

渡来人の技術を駆使して、誰もが見たくなるほど立派な宮殿を建てたものと思われます

角刺神社1
角刺神社の社号標と忍海寺

角刺神社2
角刺神社の境内

雄略天皇は天皇の後継者になりうる男子を、ことごとく暗殺した為に
第22代清寧天皇と第23代顕宗天皇に到る空位の期間を
顕宗・仁賢兄弟の姉である飯豊天皇が政務を執ることになりました。

この雄略の天皇粛清の時、眉輪王を匿った罪で
葛城氏の首長の葛城円(つぶら)も焼き殺されます。

角刺神社4
角刺神社の拝殿とL字に曲がる神木

葛城円は葛城襲津彦の孫にあたりますが、
雄略の為に武内宿禰以来繁栄を誇った葛城本家が滅びてしまいます。

葛城首長一族が没落した後、葛城は天皇直轄領となり渡来系の忍海氏が台頭します。

葛城本家が滅びるなかで忍海氏が生き残ったのには
忍海郎女つまり飯豊女王の存在が大きいと考えられます。

角刺神社45
角刺神社の本殿

角刺神社の境内には忍海寺があり、
「飯豊女王の化身」と伝えられる十一面観音菩薩立像が安置されています。

歴史から忘れ去られた女帝をしのんで毎月17日に法要を行っているそうです。

角刺神社46
境内にある忍海寺

飯豊天皇が忍海角刺宮で政務を取っていた時、
毎朝この池で顔を洗って、池に自分の姿を映していたという故事から、
この池は「鏡池」と呼ばれています。

また奈良時代には、當麻寺にいた中将姫が、
鏡池に咲く蓮で糸を紡ぎ曼陀羅を織り上げたという伝えが残っています。

角刺神社6
角刺神社の鏡池

加守神社の参道⑥葛木二上神社(葛城市・加守)

加守神社の参道⑥葛木二上神社(葛城市・染野) に関する記事です。

葛木二上神社は二上山の雄岳山頂に鎮座する神社です。

野鳥撮影で重いレンズの持ちすぎで足の調子が芳しくないので躊躇していましたが、
寒波の続く冬、やっと春らしくなった日にハイキンングを兼ねて参拝してきました。

二上山はこのブログでも何度も出てくる山で、是非とも登りたい山でした。

二上山
ラクダの背中のような二上山

近鉄南大阪線の二上神社口駅から西へ
尾根筋の道を雄岳頂上まで1時間余りで登るコースです。

登山口の葛木倭文坐天羽雷命神社で祭る二上神社は
山上の葛木二上神社を麓まで遷座したものです。

葛木倭文坐天羽雷命神社の社号標
登山口へ下した二上神社(葛木倭文坐天羽雷命神社の社号標)

真冬の服装できましたが、どんどん暖かくなり
汗を拭きながらやっとのことで517mの頂上へつくと二上神社の社がありました。

葛木二上神社は大和国・葛下郡に鎮座する月次新嘗と記される式内大社です。

御祭神:豊布都霊神 (とよ・ふつみたま)、大国魂神 

豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承があるそうです。

葛木二上神社1
葛木二上神社の社1

布都御魂(ふつのみたま)は十束剣とも言う剣で石上神宮のご神体です。
伊邪那岐が布都御魂で迦具土の首を切り、建御雷(たけみかずち)が生まれました。

大和神社の倭大国魂神は崇神天皇が淳名城入姫(ぬなきいり)に祀らせましたが、
髪落ち体痩せ、祭祀ができなくなる程で、皇族で祭るのは辞め
津神である大倭氏に属する長尾市を祭主として祭った神です。 
 
葛木二上神社2
葛木二上神社の社2

<由緒>
豊布都霊神又の名を建御雷神と申して大国主命国譲りの談合の結果、
その御子、建御名方神と海辺で力競べの角力を取り、この難問を解決された神で、
この角力は日本の名勝負の第一に挙げられています。

大国御魂神は建速佐男神の御孫で非常に温和な神で、専ら富国に努力され、
星祭の神つまり厄除けの神として祭られています。

この二神を総じて、文と武の神、縁むずびの神として、あがめられています。


葛木二上神社3
葛木二上神社の神木・榊

雄岳はあまり展望が利かず、休憩する人もいませんでしたが
標高474m雌岳の山頂は公園のように明るく、
360度のパノラマを沢山の人が楽しんでいました。

雌岳
日時計が置かれる雌岳山頂

雌岳の山頂から東方向は山の辺道~伊賀~三重の山々も見えました。
春のような暖かい日なのに黄砂もスギ花粉もない素晴らしい日で
昔歩き回った日本アルプスの山々を暫し夢見ました。

三重方面
雌岳の山頂から見た東の山々

駅の標高が180m近くだから340m位も問題なく登れたことになり
次回からの参拝コースの自信に繋がりました。

帰りは雄岳と雌岳の鞍部から染野の方に降り、
染野大池のガチョウ夫婦に挨拶して帰りました。

がちょう
染野大池のツールーズ ガチョウ

笛吹神社の参道④博西神社(葛城市・寺口)

笛吹神社の参道④博西神社(葛城市・寺口) に関する記事です。

博西神社は近鉄御所線・新庄駅の西2km程に鎮座する美しい神社です。
博西(はかにし)とは墓の西、屋敷山古墳の西にある神社という意味です。

敷山古墳は5世紀中期頃に造られた全長145mの前方後円墳で、
葛城地方の代表的な古墳のひとつです。

屋敷山古墳鳥瞰図
博西神社鳥瞰図

博西神社は大和国・葛下郡鎮座・月次新嘗と記される
葛木倭文坐天羽雷命神社に比定される式内論社です。

祭神:下照比売命、菅原道真

博西神社1
博西神社の社叢

もと倭文神社(しずり)とも称し、天羽雷命を祭神としていました。

天羽雷命は當麻町加守の葛木倭文坐天羽雷命神社が同名の式内社にあたるものとして、
下照比売命を祭神として祀るよう変わったそうです。

天羽雷命は天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる神です。

博西神社2
博西神社の鳥居と拝殿

織物の神、機織の神として信仰され
中世に当地を支配した布施氏が當麻町太田の棚機の森から勧請したとも伝わります。

加守の倭文神社はそれをさらに遷したものとの伝承もあります。

倭文(しとり)とは、倭の文様で、古墳時代に大陸から絹織物が伝わる以前、
弥生時代から日本にあった織物技術のことと思われます。

博西神社3
博西神社の拝殿

祭神は、北殿が下照比売命(右)、南殿が菅原道真(左)とされており、
社殿は重要文化財にも指定されています。

博西神社4
博西神社の本殿

加守神社の参道②當麻山口神社(葛城市・當麻)

加守神社の参道②當麻山口神社(葛城市・當麻)に関する記事です。

當麻山口神社は二上山登山口に鎮座する大和国14社の山口神社の1社で、
大和国・葛下郡鎮座・月次新嘗と記される式内大社です。

奈良の山口14社とは、巨勢飛鳥石寸忍坂長谷畝傍耳成、夜支布、伊古麻
大坂當麻、吉野、都祁のことです。

祭神:大山祇命
合祀:瓊瓊杵命、木花咲耶姫

當麻山口神社1
當麻山口神社の鳥居

當麻山口神社2
當麻山口神社の拝殿

本殿の左右には摂社で式内小社の當麻都比古神社も鎮座します。

當麻寺を創建したこの地の豪族當麻氏の氏神として、
男女二柱をお祀りしています


祭神:麻呂子皇子、當麻津姫

當麻山口神社本殿
當麻山口神社の本殿

麻呂子皇子は、当麻皇子のことで、聖徳太子の異母弟で當麻氏の祖人です。

推古天皇10年(602)に、聖徳太子の弟の来目皇子(くめ)が、
任那を滅ぼした新羅征討のため、
征新羅大将軍として戦いに臨みますが筑紫で病死してしまいます。

當麻山口神社5
誕生1年後の初夜宮に絵馬を奉納する絵馬殿

當麻山口神社6
初夜宮に奉納された絵馬(左が男子、右が女子)

来目皇子死去の翌年の603年4月には代わりに
麻呂子皇子が征新羅将軍となって難波から船で出発しました。

しかし播磨国明石で妻である舎人皇女が死んだために、
皇女を明石に葬った後引き返したとされます。

情けない話に聞こえますが、
皇族が戦地に赴くのは播磨からせいぜい筑紫までで、
新羅まで行って戦うことは無かったようです。

當麻山口神社7
雷で引裂かれた神木


加守神社の参道⑤當麻蹶速塚(葛城市・當麻)

加守神社の参道⑤當麻蹶速塚(葛城市・當麻)に関する記事です。

奈良は相撲発祥の地でもあります。
以前に訪れた桜井市・穴師には野見宿禰を祀る相撲神社がありましたが、
この葛城の當麻には野見の対戦相手の當麻蹶速塚があります。

當麻の地は當麻寺を建立した當麻氏の本拠地ですが、
當麻蹶速はその祖人となります。

當麻蹶速塚2
當麻蹶速塚1(相撲館けはや座の前)


當麻蹶速塚1
當麻蹶速レリーフ

日本書紀では垂仁天皇の前で當麻蹶速と野見宿禰が
試合をしたのが相撲の始まりと記されます。

当時の相撲には土俵が無く
互いに蹴り合った後に、當麻蹶速は腰を踏み折られて死んだとされます。

蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地になりました。

相撲をとった場所は當麻村の「腰折田」とされ、
現在の香芝市良福寺の西南、二上山の撮影で賑わう千股池北堤に比定されています。

展覧相撲(野見vs當麻)
當麻蹶速と野見宿禰の戦い

奈良時代には相撲節会と呼ばれる行事が始まり、
毎年七月七日に平城京で相撲が行われるようになります。

春日大社の例祭でも相撲節会と同じ神事が行われており
相撲節会に関連する絵や力士の伎楽面が残されています。

注)伎楽(ぎがく)とは、中国から伝わった仮面をつけて演じる台詞のない無言劇です。
飛鳥・奈良時代に流行りましたが、雅楽の伝来によって廃れました。

相撲節会(春日大社蔵)
相撲節会に臨む力士の準備模様(春日大社蔵)

伎楽面力士(ぎがく)
力士の伎楽面(春日大社蔵)


笛吹神社の参道⑧脇田神社(葛城市・脇田)

笛吹神社の参道⑧脇田神社(葛城市・脇田)に関する記事です。

脇田神社は忍海駅(おしみ)の西へ2kmに鎮座する神社です。

脇田は笛吹と同じく葛上郡(葛城南部)と葛下郡(葛城北部)に挟まれた忍海郡の地名で、
狭い郡ですが、鉄生産を行った重要な地域です。

忍海駅
近鉄御所線・忍海駅

鳥居前には「天満宮」の社号標があり、
かつては菅原道真を祀る神社であることが分かります。

脇田神社1
脇田神社の鳥居

脇田神社は古代寺院の地光寺東遺跡に鎮座します。

祭神:菅原道真、天照大御神、天児屋根、市杵島姫

脇田神社2
脇田神社の拝殿

鳥居前には「天満宮」の社号標があり、菅原道真を祀る神社であることが分かります。

脇田神社3
脇田神社の本殿

脇田神社の境内入口には地光寺の東塔の心礎があります。

地光寺2
古代寺院・地光寺の東塔の心礎

県道を挟んで西側に 地光寺旧跡碑があります。

地光寺旧跡は脇田神社のある東遺跡、碑がある西遺跡があります。

東遺跡には七世紀後半に建立された地光寺、
西遺跡には八世紀前半に建立された地光寺が出土しています。


地光寺1
地光寺旧跡碑

地光寺は鉄生産に関わった渡来系氏族の忍海氏の氏寺です。

東遺跡から出土した地光寺は7世紀後半に建立された薬師寺式伽藍配置の寺です。

地光寺
薬師寺式伽藍配置の地光寺


地光寺旧跡は鬼面紋軒丸瓦が発見されたことで知られます。
地光寺で採用された鬼面紋軒丸瓦は大和での出土は三例で非常に珍しいものです。

鬼の顔をした瓦の源流は新羅にあり、忍海と新羅の関係は5世紀以降8世紀になっても続いていることが分かります。

注1)忍海と新羅の関係は五世紀初め、葛城襲津彦が新羅から連れ帰った捕虜により始まります。

葡萄唐草紋軒平瓦
 鬼面紋軒丸瓦

加守神社の参道①長尾神社(葛城市・長尾)

加守神社の参道①長尾神社(葛城市・長尾)に関する記事です。

大阪の堺と奈良の葛城を結ぶ古代の街道は二上山北麓を越える長尾街道と
二上山南麓を越える竹内街道がありますがどちらも長尾神社で終ります。

そして長尾神社前から藤原京の入口となる横大路(初瀬街道)が始まり、
長尾神社の鎮座地は極めて重要な位置にありました。

長尾神社2
長尾神社の社叢と竹内街道道標

長尾神社は大和国・葛下郡、月次新嘗と記される式内大社で、
長尾の森の広大な神域に鎮座する古社です。

祭神:水光姫命(豊御富)、白雲別命

長尾神社3
長尾神社の鳥居

水光姫(みひかり)は神武天皇が東征に際し吉野・川上村を巡幸している時、
井戸の中から現れた神で、吉野川の水を守る水神・井戸の神様でもあります。

記紀では尾が光っていたとされ、水光姫命は白蛇の姿で降臨され
別名は豊御富(とよみほ)とされます。

白雲別命は水光姫命の父とされます。

長尾神社4
長尾神社の拝殿1

春分と秋分には太陽が大神神社の三輪山から昇り、長尾神社の二上山に沈みます。
 
長尾の名前は蛇の長い尾ともされ、
蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承があります。

横大路に沿うように大神神社を「龍の頭」、高田の竜王社を「龍の胴」、
長尾神社を「龍の尾」ともされます。 

長尾神社5
長尾神社の拝殿2

長尾神社6
長尾神社の本殿

水光姫命が応神天皇の御代に竹内村の三角磐に降臨され
子孫の加弥比加尼(かみひかね)に命じて当地に祀られたもので
その姿は白蛇であって神社の北東の御陰井に封じた。
(境内案内板より)
 
長尾神社8
長尾神社の御陰井跡


加守神社の参道⑪鍋塚古墳(葛城市・竹内・鍋塚)

加守神社の参道⑪鍋塚古墳(葛城市・竹内・鍋塚)に関する記事です。

鍋塚古墳は當麻寺駅の南1.4km、磐城駅の西1.1Km
竹内街道の南側にある古墳です。

竹内街道
鍋塚古墳航空写真

鍋塚古墳は5世紀前半の築造と推定される古墳ですが、
長髄彦の墓との伝承があると知り、
當麻地区を訪ねた帰り道に足を伸ばしてみました。

<鍋塚古墳>
形状   :円墳
サイズ  :直径46m
築造時代 :古墳時代中期
被葬者説1:長髄彦
被葬者説2:竹内街道の首長

鍋塚古墳1
鍋塚古墳1

記紀によると、神武天皇が日向から瀬戸内海を通って大和に攻め入った時、
生駒山の麓、石切の日下で皇軍を迎え撃ったのが長髄彦です。

皇軍は長髄彦の攻撃の凄まじさに迂回して、熊野から大和に攻め入り、
奈良市の富雄で長髄彦は討ち取られました。

鍋塚古墳2
鍋塚古墳2

古代の日本では朝鮮半島から持ち込まれた文明の品々は
河内湖周辺に上陸した後に政権の中枢である大和へ運ばれました。

その時の大動脈の一つが難波と大和を結ぶ竹内街道です。

その竹内街道の大和の入口付近に竹内遺跡があり、
縄文から奈良・平安時代と連綿と
人々の営みがあったことが証明されています。

この竹内遺跡から5世紀代の韓式土器や
朝鮮伝来の初期須恵器が沢山見つかっています。

注)韓式土器とは、渡来人によって持ち込まれた土師器と須恵器の中間に位置する土器で、
ロクロなどの新しい技術が使われており、、甑(蒸器)や鍋などがあります。

その数の多さから河内から
集めた渡来物資を保管する物流倉庫があったと考えられています。

そして鍋塚古墳に始まり、塚畑古墳などはこの物流を管理した
地域の首長の墓と考えられています。

竹内遺跡韓式土器と土師器
竹内遺跡出土の韓式土器(中央の
高坏ほか)と土師器


笛吹神社の参道⑫火振山古墳(葛城市・南藤井)

笛吹神社の参道⑫火振山古墳(葛城市・南藤井)に関する記事です。

火振山古墳は近鉄御所線・新庄駅の南西1.6km、
溜池を挟んで大宝天皇神社の東側にある古墳です。

大宝神社鳥瞰図
火振山古墳の鳥瞰図

葛城地区では第4位の大きさを誇る前方後円墳(全長95m)です。

五世紀初頭に室宮山古墳(238m)が突如現れ、その後も掖上鑵子塚古墳(150m)、
屋敷山古墳(135m)、火振山古墳と100m級古墳が造られます。

これらは時期や古墳の大きさなどから、古代豪族葛城氏の族長の墓と考えられています。

火振山古墳1
火振山古墳1

火振山古墳の火振山とは、文字どおり「火を振る山」という意味です。

これは古墳時代より後の飛鳥時代の頃、
この古墳の上に飛鳥の都を防衛するために設置された、
のろし台のようなものがあったからと推測されます。

<火振山古墳>
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長95m、後円部径55m、前方部幅36m
築造時期:西暦450年~500年
被葬者  :葛城氏の族長

火振山古墳2
火振山古墳2

加守神社の参道⑨棚機神社(葛城市・太田)

加守神社の参道⑨棚機神社(葛城市・太田) に関する記事です。

バスで奈良県道30号御所香芝線を竹内、兵家と南下し太田あたりで降りて
京阪名道路に沿って西へ向かいます。
車の少ない里の道を選び梅を見ながらの散策です。

途中、京阪名道路を超える歩道橋を渡り、少しだけ西へ上がると
京阪名道路沿いに棚機神社の社殿が見えます。

梅
棚機神社への里道

棚機神社のあたりは「棚機の森」と呼ばれ、
この場所に古代の布の神を祀る葛木倭文坐天羽雷命神社があったとされます。

「棚機の森」から葛木倭文坐天羽雷命神社を寺口の博西神社に遷座し、
加守の倭文社はそれをさらに遷したものとも伝承されているそうです。

祭神:天棚機姫神

棚機神社1
棚機神社の鳥居

「七夕」と書いて「たなばた」と読みますが、
これは宛字で、本来は「棚機(たなばた)」と表記するそうです。

「棚機」とは棚すなわち横板のついた織機のことで、織姫が使う機織り機を指しています。

棚機神社2
棚機神社の社殿

5世紀頃、葛城山麓の棚機神社周辺には
染色技術を生業とする置始氏や、機織技術に優れた倭文氏(しずり)などの伴造がおり、
大陸から機台付の機、それを織る織女、七夕儀礼がもたらされました。

この地で日本最初の 七夕儀礼が行われ、朝廷に献上する織物が盛んに織られました。
 
注1)伴造(とものみやつこ)とは大和政権に職能奉仕をした技術者集団の長

棚機神社3
古墳と伝えられる小丘


笛吹神社の参道③金村神社(葛城市・新庄町大屋)

笛吹神社の参道③金村神社(葛城市・新庄町大屋) に関する記事です。

金村神社は近鉄御所線・新庄駅の西1.8km程にある、
屋敷山古墳と博西神社に挟まれた小さな祠です。

屋敷山古墳鳥瞰図
金村神社鳥瞰図

屋敷山公園と新庄文化会館の間を流れる高田川の両岸は桜並木で、
葛城山を望む花見を夢想しながら西へ歩を進めていると、
金村神社らしき社叢が前方に見えてきました。

金村神社1
高田川(左:新庄文化会館、右:屋敷山公園) 

金村神社は大和国・葛下郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。

祭神:大伴金村

大伴金村は、神武天皇の東征で功績があった道臣命を祖とする大伴氏の末裔で、
5世紀から6世紀にかけて大連として天皇に変わり執政を行った豪族です。

金村神社2
金村神社の鳥居

大伴金村が平群氏を打倒して即位させた武烈天皇ですが、
武烈には子ができず、後継者を定めずに崩御します。

同じ大連どうしの大伴金村と物部麁鹿火(あらかび)らが合議し、
越前に暮らす男大迹王(継体天皇)を皇位継承者として畿内に迎えます。

男大迹王は翌年に武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后として、
河内国の樟葉宮で継体天皇として即位します。

その後、継体天皇擁立に功があった大伴金村が権勢を振るう時代が続きますが、
金村が引退すると政治の実権は物部氏単独へ、そして蘇我氏へと変遷します。

金村神社3
金村神社の社

加守神社の参道⑫鳥谷口古墳 (葛城市・染野)

加守神社の参道⑫鳥谷口古墳 (葛城市・染野) に関する記事です。

鳥谷口古墳は二上山中腹、當麻山口神社の北側、染野大池を見下ろす丘陵にあります。

この池から見る二上山はとても綺麗で、真ん中の丘に鳥谷口古墳が見えます。
 
染野大池
染野大池から望む二上山

二上山から東に派生する尾根の先端上に築かれたこの古墳は、
昭和58年の土取り工事中に偶然に発見され、
この場所の小字名から鳥谷口古墳と名付けられました。

鳥谷口古墳1
鳥谷口古墳1

<古墳>
古墳名     :鳥谷口古墳 
形状    :四角墳
サイズ   :1辺7m
埋葬施設 :横口式石槨
築造年代 :7世紀後半
被葬者   :大津皇子


鳥谷口古墳2
鳥谷口古墳2

二上山山上に大津皇子の墳墓があり知られていますが、
しかし鳥谷口古墳の方が大津皇子の墳墓だと言われています。

大津皇子(663年 - 686年)は、
文武共に優れて抜群の人望があったと記紀に記される天武天皇の皇子です。
母は持統天皇の姉・天智天皇の娘の大田皇女です。

天武天皇が崩御すると、
我が子を天皇にしたい持統により謀反を理由に捕えられ自害させられました。

鳥谷口古墳3
鳥谷口古墳3

二上山と言えば、大津皇子のために姉の大伯皇女が詠んだ
「万葉集」の歌があります。
 
♪うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む♪
 
この歌の詞書には
「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に大来皇女の哀傷して作らす歌…」
とあり、皇子の亡骸が二上山に葬られたと、記されています。

現在、皇子の墓は二上山雄岳山頂にあるとされていますが、
この鳥谷口古墳こそ、「万葉集」に記された大津皇子の墓の可能性が
高いと考える人も多いそうです。

大津皇子歌碑
大津皇子の万葉碑

 

笛吹神社の参道⑦笛吹若宮神社(葛城市・南花内)

笛吹神社の参道⑦笛吹若宮神社(葛城市・南花内)に関する記事です。

笛吹若宮神社は近鉄御所線・新庄駅の南800m程に鎮座する小奇麗な神社です。

笛吹若宮神社1
笛吹若宮神社の境内


祭神:天香山命

祭神の天香山は、高倉下のことで、神武天皇に神剣を届けた神様ですが、
笛吹連の祖神にあたります。

香山命の後裔にあたる、櫂子(かじし)が崇神天皇の時代に
建埴安彦との戦いで功があり、
心霊をも慰める名楽器の天磐笛を賜り、笛吹連の名を命ぜられました。

笛吹若宮神社2
笛吹若宮神社の拝殿

聖徳太子を始めとする飛鳥時代の高貴なかたは、
二上山の西麓・大阪の飛鳥の「王陵の谷」に埋葬されています。


このとき
二上山・竹内峠を越え近つ飛鳥(大阪府太子町)に向かう葬列を、
人麻呂の挽歌にともなって笛吹の一団が葬送行進曲を奏でたともされます。

笛の音が聞こえてくる情緒溢れる伝承です。


笛吹若宮神社3
笛吹若宮神社の本殿

笛吹神社の参道⑥為志神社(葛城市・林堂)

笛吹神社の参道⑥為志神社(葛城市・林堂)に関する記事です。

為志神社(いし)は近鉄御所線・新庄駅の南西1.3km、
県道254線沿いに鎮座する神社です。

為志神社1
為志神社の鳥居

為志神社は大和国・忍海郡鎮座とされる式内小社です。

祭神:伊古比都弊命(いこひつべ)
    
伊古比都幣は笛吹神社に配祀されている神ですが、
明治43年に笛吹神社に合併されました。

遷座した社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建てたそうですが、
昭和57年にこの地に再興されました。
 
為志神社4
為志神社遺蹟(明治の笛吹神社に合祀の時設置)

為志神社の鎮座地の忍海郡は、
葛上郡(葛城南部)と葛下郡(葛城北部)に挟まれた地で、
狭い郡ですが、鉄生産を行った重要な地域です。

式内社は葛上郡に13社、葛下郡に15社もあるのに、
この忍海郡には笛吹神社(火雷神社)と為志神社の2社しかありません。

忍海の名は大和時代に朝鮮半島から渡ってきた渡来人集団漢人の一つで、
鍛冶技術に秀でた忍海漢人に由来します。 

為志神社2
為志神社拝殿

日本書紀によると、葛城襲津彦は、新羅の草羅城(さわら)を攻略した際に
捕虜を連れ帰ります。

この捕虜が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四箇所に住み漢人の祖となります。

忍海漢人は、大和朝廷ではなく葛城氏に私的に職務奉仕していました。
しかし葛城氏が五世紀半ばに滅亡した後、中央集権化を進める雄略天皇により
阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏へと組み入れられます。

為志神社3
為志神社本殿


加守神社の参道⑧調田坐一言尼古神社(葛城市・疋田)

加守神社の参道⑧調田坐一言尼古神社(葛城市・疋田) に関する記事です。

調田坐一言尼古神社(つくだ・ひとことねこ)は
近鉄・尺土駅の南900mの住宅街にある神社です。

棚機神社方面の太田地区から流れてくる太田川の東岸に鎮座します。

太田川(棚機神社より) (2)
太田川と祠

太田川の東に神社があるのは判っているのですが、
入る道が判らずに神社の周囲を何度も回ってしまいました。

結局、自転車遊びをしている小学校高学年の女子に
道案内してもらい、やっと参拝することができました。

調田坐一言尼古神社1
調田坐一言尼古神社の社頭

祭神:一事尼古大神、事代主大神

調田坐一言尼古神社は大和国・葛下郡鎮座、月次、新嘗とされる式内大社です。

一事尼古の尼古とは高貴な男神を示し、
古来一つの願いごとなら必ずかなえてもらえる
一願成就の神様として知られています。

調田坐一言尼古神社2
調田坐一言尼古神社の鳥居

祭神の事代主は大国主命の子で、国譲りに際して父に国土の献上を勧めました。

釣り好きなことから、海と関係の深いえびすと同一視され
海の神、五穀豊穣、商売繁盛の神、として信仰されてきました。

調田坐一言尼古神社3
調田坐一言尼古神社の拝殿1

地名の疋田は低湿地を意味し、
調田および槻田神(つきだ)の語が転訛して、
「ひきだ」と言われるようになったものとも考えられます。

調田坐一言尼古神社4
調田坐一言尼古神社の拝殿2

雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、
天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。

雄略天皇が名を問うと
「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。

天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。

一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。

調田坐一言尼古神社5
調田坐一言尼古神社の神木

 

加守神社の参道⑩海積神社(葛城市・太田)

加守神社の参道⑩海積神社(葛城市・太田)に関する記事です。

海積神社(わたつみ)は、奈良バスで奈良県道30号御所香芝線を
竹内、兵家と南下し太田あたりで降りて東へ20分程の場所にあります。

田畑に囲まれひっそりとした木立の中に鎮座する神社です。

水神宮
水神宮の碑

古来「竜王社」として崇敬されていたようで、

竜王は仏法守護の神で、水神・海神として農耕神として信仰されてきました。
明治の神仏分離により、社名・祭神とも改められたようです。

途中の常楽寺前に水神宮の碑があります。

祭神;海積豊玉彦命


海積神社1
海積神社の鳥居

因みに高田市の竜王宮が西面しているのに対し当社は東面しているから古来、
姉妹の宮といわれたと言われます。

海積神社2
海積神社の割拝殿

7月の行われる夏祭りは、地元では「ボロソ」という変わった名称で呼んでいます。
かつては小麦餅を酢で練ったものを神前に供え、これをボロソと称したとも言われています。

この神社には人身御供の伝説が伝えられています。 

毎年一度必ず妙令の処女の生供を為さずは五穀実らず田野山林大いに荒れに損じたり。
旧磐城村史)

海積神社3
海積神社の本殿1

昔、この辺りの土地を狒々(ひひ)が荒らしたんで、
毎年村では、娘を人身御供に差し出して、狒々を鎮めていたそうです。
それを知ったある豪傑が狒々を退治して、
その亡骸を埋めた土地が『猿墓』で、今でも小字名として残ります。

それから後も娘の代わりに、人肉の匂いがする小麦を酢で練った餅を供え、
お参りをするようになったのが『ボロソ』の始まりと言われます。

海積神社4
海積神社の本殿2

鴨都波神社(奈良県・御所市・宮前町)

鴨都波神社(奈良県・御所市・宮前町)に関する記事です。

鴨都波神社(かもつわ )は近鉄・御所駅の南300m
葛城川支流の柳田川を渡った先にあります。

柳田川の両岸は桜並木で、桜の蕾も大分膨らんできて、
例年になく寒かった今年の冬も終り、
桜の季節も間近なことを感じさせてくれます。

柳田川・柳田橋から
柳田橋から柳田川

金剛、葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥地です。

鴨都波神社は鴨氏・葛城氏によって祀られた神社で、
高鴨神社が上鴨社、葛城御歳神社が中鴨社、鴨都波神社は下鴨社とも呼ばれます。

鴨都波神社1
 鴨都波神社の鳥居

祭神:積羽八重事代主命、下照姫命
配祀:建御名方命、大物主命

鴨都波神社は大和国・葛上郡・月次相嘗新嘗とされる
鴨都波八重事代主命神社に比定される名神大社です。

社伝によれば、崇神天皇の時代、
大神神社を祀った太田田根子の孫の大鴨積が創建しました。

鴨都波神社3
 鴨都波神社の拝殿

事代主は大国主の子とされますが、
国譲り神話の中で出雲の神とされるようになりました。

事代主は元々は大和・葛城の田の神で、鴨族の農業の守護神でした。

このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、
現在でも宮中の御巫八神の一つになっています。

注1)宮中の御巫八神とは?
神皇産霊神、高皇産霊神、魂留産霊、生産霊、足産霊、大宮売神、御膳神、事代主神

鴨都波神社4
 鴨都波神社の拝殿2

当地は葛城川と柳田川の合流地点であり、元々は水の神を祀っていました。

鴨都波神社一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡で、
弥生時代の土器や農具が多数出土しています。

鴨都波神社5
 鴨都波神社の本殿

弥生時代初期には南8km にある高鴨神社付近を本拠地とし、
金剛山・葛城山東麓の谷間の斜面を利用して
陸稲や稗、粟などの畑作農耕をしていました。

弥生時代中期にその一部の鴨族が
水稲農耕に適した鴨都波の地へ降り、大集落を形成しました。 

彼らの農耕に必要な水や田の守り神が、事代主命でした。
葛木水分神社1
金剛山・葛城山東麓の谷間の棚田

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鴨都波神社の参道⑤吉祥草寺(御所市・茅原)
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鴨都波神社の参道⑦孝安天皇陵(御所市・玉手
鴨都波神社の参道⑧孝安天皇神社(御所市・玉手
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鴨都波神社の参道⑪駒形大重神社(御所市・楢原)
鴨都波神社の参道⑫鴨山口神社(御所市・櫛羅)
鴨都波神社の参道⑬祟道神社(御所市・櫛羅)
鴨都波神社の参道⑭長柄神社(御所市・長柄)
鴨都波神社の参道⑮多太神社(御所市・多田)
鴨都波神社の参道⑯葛木水分神社(御所市・関谷)
 

加守神社の参道③傘堂(葛城市・染野)

加守神社の参道③傘堂(葛城市・染野)に関する記事です。

葛城市から二上山の雄岳・雌岳の稜線を目指す、
馬の背コースの登山口には美しい染野大池があります。

実はこの大池は村人の水飢饉を救うために
葛城で奉行をしていた吉弘統家(よしひろ・のりいえ)が
300年以上も前の江戸時代に開削した人口の溜池です。

吉弘統家は郡山藩主・本多正勝の家来でしたが、
吉弘氏はもともとは豊後国の戦国大名・大友氏の一族です。

染野大池
染野大池と二上山

染野大池の東南端に傘堂と呼ばれる
一本の柱に屋根が乗る風変わりな建物があります。

これは吉弘統家が、主君の郡山藩主・本多政勝の没後に、
その菩提を弔うために建立したものです。

傘の形の傘堂
染野大池の傘堂

傘堂は、新在家、今在家、染野の3地区の農民によって
藩主と、染野大池開削に尽力した人々の菩提を弔う供養塔として
三百年以上守り続けられてきました。

並んで建つ墓碑は向かって右が「吉弘統家」、左は「藤懸玄達」のものです。

染野大池の八朔法要
大池築造に尽力した「吉弘統家」達の墓碑

傘堂はいつの頃からか、安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。

心経を唱えながら柱の周囲を回ったり、
傘堂の印を腰巻に押してもらい無病息災を祈願するものだったそうです。

 傘堂
無病息災を祈願し柱をぐるぐる回る人々

現在の染野大池はハイイロガンを改良した西洋ガチョウの
ツールーズ ガチョウが主になっていました。

がちょう
染野大池の主の夫婦ガチョウ


鴨都波神社の参道⑯葛木水分神社(御所市・関屋)

鴨都波神社の参道⑯葛木水分神社(御所市・関屋)に関する記事です。

長柄集落から葛木水分神社(みくまり)まで
水越街道を登っての参拝となりました。

青色い湖のような奈良盆地を見下ろしながら、
水温む水越川のせせらぎを遡る感動のコースです。
葛木水分神社1
水越街道の写真1 棚田

沢の音を聴いていると
50年ほどまえ秩父の里を歩き
初めて山に魅せられた時のことが浮かんできました。 

よっぽど幸せな顔をしていたのでしょう。
地元大好きなお母さんに2人も話しかけられ
御所市の自慢話を聞かせて頂きました。


葛木水分神社3
水越街道の写真2 猫柳の芽吹き
 
葛木水分神社2
水越街道の写真3 水越川

祭神:天水分神、国水分神 

葛木水分神社は大和国・葛上郡・月次新嘗と記される名神大社です。

大和国には吉野・宇陀都祁葛木の4水分神社があり、
本社はその一つで御祭神の水分神は田畑の灌漑を司る農業神です。

葛木水分神社4
葛木水分神社の鳥居

水分(みくまり)は水配り(くばり)の事で
水の分配を司る神で、水源地や水路の分水点などに祀られます。

水越川は金剛山(1125m)と葛城山(960m)の鞍部の水越峠に源を発する川で、
葛木水分神社は奈良と大阪の水の分配に関係する神社です。

葛木水分神社5
葛木水分神社の拝殿

金剛山から河内国に流下する水を人工的に分水して
水越峠を越えて大和国へ流れるようにしたのが現在の水越川で,
水越峠の地名は分水界を越えた川に由来します。

葛木水分神社6
葛木水分神社の本殿1

水越峠を越えた金剛山西麓(河内)には
崇神天皇の時、水飢饉祈願の為に祀られた建水分神社や、
美具久留御魂神社が鎮座があります。

このことからも古墳時代初期には
金剛山の東麓、西麓の水分が最重要な課題だったことが判ります。


葛木水分神社7
葛木水分神社の本殿2

笛吹神社の参道⑬神明神社古墳(葛城市・寺口)

笛吹神社の参道⑬神明神社古墳(葛城市・寺口)  に関する記事です。

公園化されている奈良県社会教育センター敷地内にある古墳です。

中戸新池という池の周囲は遊歩道があり綺麗に整備されていますが
神明神社古墳はその中の「いにしえの丘」に位置し
その優美な姿を身近で見ることが出来ます。

かつらぎの森
奈良県社会教育センター

屋敷山古墳の北側に位置している神明神社古墳は、
切石を用いた横穴式石室を内包する終末期の古墳として知られます。

形状   :円墳
サイズ  :径20m
埋葬施設:横穴式石室(全長6m、高さ1.5m、幅2m)
出土遺物:鉄製環金具、銀製金具、水晶切子玉、鉄釘
築造年代:7世紀後半
被葬者  :この地の土豪
 
神名神社古墳1
神明神社古墳1

墳丘は南側だけを二段に築いた直径20m前後の円墳で、
花崗岩の切石を用いた南東に開口する横穴式石室があります。
 
神名神社古墳2
神明神社古墳2

石室内には中扉と前扉をはめ込んだ溝が2重にあり、
扉の取手に使用された銀製金具も出土しています。

この石室が牢屋として使用された跡と思われます。

神名神社古墳3
切り石で組立てた石室(扉を嵌めた溝がある)

古墳の奥には綺麗に清掃された神明神社が鎮座し、
神明神社古墳の被葬者をお守りしています。

祭神:天照皇大神

神名神社1
神明神社1

神名神社2
神明神社2

神明神社古墳から更に東に行くと皿池古墳の石碑が立っています。

皿池古墳は、径25mの円墳で、発掘調査がされていないので、
詳細は不明ですが、須恵器 円筒埴輪などが出土しています。

皿池
皿池と正面に皿池古墳

皿池古墳
皿池古墳

鴨都波神社の参道⑪駒形大重神社(御所市・楢原)

鴨都波神社の参道⑪駒形大重神社(御所市・楢原)おおしげに関する記事です。

駒形大重神社(おおしげ)は近鉄・御所駅の南西3Km,
鬱蒼とした檜林の中に鎮座する神社です。

九品寺(くほんじ)の北側の鬱蒼とした森に鎮座しています。

九品寺は行基によって創建された浄土宗の寺院で
中世には御所城主・楢原氏の菩提所でした。

駒形大重神社1九品寺
九品寺

駒形大重神社は大和国・葛上郡に鎮座する葛木大重神社に比定される式内小社です。

駒形神社と大重神社は、別々に祀られていましたが、
明治40年に合祀されて現在に至っています。

大重神社の祭神:説1)葛木犬養 
大重神社の祭神:説2)滋野貞主 
駒形神社の祭神:木股神 

駒形大重神社2
駒形大重神社の社頭

駒形大重神社3
駒形大重神社の鳥居と階段

大重神社の祭神説1の葛木犬養は、中大兄皇子の命により、
飛鳥板葺宮の大極殿で蘇我入鹿を暗殺した刺客です。

葛木犬養は葛城稚犬養網田(わかいぬかい・あみた)と言い、
元々は犬を用いて屯倉の守衛をしていた犬養部です。

犬養部は、守衛により培ってきた武芸を活かし、軍事氏族となりました。

駒形大重神社4
駒形大重神社の拝殿

大重神社の祭神説2の滋野貞主は
中世の大和武士である楢原氏の祖先の滋野貞主です。

滋野貞主(785-852)は平安時代前期の漢詩人で、
古今の文書を編集するなど,文化事業に実績を残し、仁明天皇の信任を得ました。

滋野氏は葛上郡楢原を本拠とする豪族で、
楢原氏、伊蘇志臣などとも呼ばれていました。

駒形大重神社5
駒形大重神社の本殿

駒形神社の祭神の木俣神は、
大国主が因幡の白兎を助けた時に八上姫に生ませた子神です。

八上姫は大国主の最初の妻でしたが、須勢理姫を正妻に迎えたため、
八上姫は嫉妬し、子を木の俣に刺し挟んで実家の因幡に帰ってしまいます。
そのために、その子が木俣神と呼ばれます。

駒形大重神社6
駒形大重神社の境内(鬱蒼とした社叢)


片岡神社の参道⑤久度神社 (北葛城郡・王寺町・久度)

片岡神社の参道⑤久度神社 (北葛城郡・王寺町・久度)に関する記事です。

竜田川に沿って生駒市・平群町・王寺町へと南下しましたが、
王寺で竜田川は大和川に合流します。

西に見えていた生駒山もここまで来ると小さくなり、
眼前には信貴山の雄岳・雌岳が聳えています。


信貴山
信貴山の雄岳・雌岳

久度神社は近鉄・王子駅の西400m、大和川の左岸にあり、
境内に接する大和川堤防は護岸工事の最中でした。


大和川1
明治橋より望む大和川

久度神社は大和国・平群郡鎮座とされる式内小社です。

祭神:久度神・誉田別命・天児屋根命・底筒男命

昭和43年に京都市北区の平野神社から久度神を勧請し、
千年以上の昔に京都へ去った祭神が、
悠久の時を経て再び奈良に戻ってきたものです。


久度神社1
久度神社の社頭

平野神社は794年に桓武天皇の平安遷都の時に
奈良から、今木神・久度神・古開神を遷座して祀ったのが創始とされます。

今木神は織手芸の守護神、久度神は竈(かまど)・台所の守護神、
古開神は煮炊きなど神事に用いる斎火(いみび)の守護神とされます。


久度神社2
久度神社の鳥居

今木神・久度神・古開神は平城京で祀れていた神で、
久度神社は久度神の元社ということです。

遷都と同時に遷座ということは、
平安京の存続に不可欠な神だったと思われます。

また長岡京には3神を遷座しなかったということは
長岡京は最初から仮の都とも思われます。


久度神社2
久度神社の拝殿

クド(久度)という言葉は竈を意味するそうで、
天皇の食を饗する竈には「平野・庭火・忌火」の三竈があり、
久度神を始めとする三神が置かれ天皇を守護していたものです。


久度神社1
久度神社の本殿

高鴨神社(奈良県・御所市・鴨神)

高鴨神社(奈良県・御所市・鴨神)に関する記事です。

高鴨神社へは御所市循環バスの高天口バス停で下車し以下の夢のコースでの参拝です。

高天口バス停⇒高天彦神社⇒橋本院⇒菩提寺⇒伏見八幡神社⇒高鴨神社⇒風の森神社⇒風の森バス停

高鴨神社は金剛山中腹にある伏見八幡神社から里道を東へ、
県道30号線の下を潜り、突き当りの三叉路を南下した鴨神地区にあります。

高鴨神社1
高鴨神社への途上・金剛山を望む

高鴨神社は大和国・葛上郡・月次相嘗新嘗とされる
高鴨阿治須岐託彦根命神社に比定される名神大社です。

祭神:阿遅鋤高日子根
配祀:下照比売、天稚彦命

高鴨神社は少なくとも弥生時代初期には祭祈の場所となった日本最古の神社の一つです。

また京都の上賀茂・下鴨神社を初めとする全国の賀茂神社の総本社で、鴨族発祥の地です。

高鴨神社2
高鴨神社の鳥居

高鴨神社の境内には氷室池がありますが、 
氷室は冬にできた氷を貯蔵して、夏に天皇に献上する場所です。

当地には地下水・伏水も多く氷を保存するには最適な場所だったのでしょう。

また当神社の北東1kmの五百家(いうか)の地には銅の鉱脈が走っており
鴨族と金属精錬技術との関係も伺えます。
 
高鴨神社6
高鴨神社の氷室池

鴨族は弥生時代初期には高鴨神社付近を本拠地とし、
金剛山・葛城山東麓の谷間の斜面を利用して陸稲や稗、粟などの畑作農耕をしていました。

弥生時代中期には、その一部の鴨族が
水稲農耕に適した御所市中部~北部の葛城川流域に移動して大集落を形成しました。 

東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀り、
宮前町の地に移った一族は鴨都波神社を祀り、
それぞれ高鴨神社が上鴨社、御歳神社が中鴨社、鴨都波神社が下鴨社と呼ばれています。

高鴨神社3
高鴨神社の拝殿

鴨族は、この水稲農耕の文明を持って日本全国に伝搬し
農地・集落の開拓を行ったものと思われます。

高鴨神社4
高鴨神社の本殿

祭神の阿遅鋤高日子根と下照比売は大国主命と多紀理毘売(たぎり)の子供です。
西神社では二人の母の多紀理毘売命が祀られています。

多紀理毘売は宗像三女神の一柱で、海の神として広く祀られています。

祭神:多紀理毘売
配祀:天御勝姫命・塩冶彦命・瀧津彦命

高鴨神社5
高鴨神社の摂社・西神社

飛鳥時代になると出雲国造(みやつこ=首長)が大和まで、やってきて神賀詞を奏上しました。

その神賀詞を詳しく表現すると以下の4か所に出雲の神の和魂を献上し、
大和朝廷をお守りします、と決意表明しているのです。

神賀詞の四神が鎮まる場所とは三輪山・飛鳥・葛木の鴨・雲梯(うなて)です。

①三輪山には大国主⇒
大神神社

②飛鳥(フグリ山)には加夜奈流美神⇒飛鳥坐神社
③葛木の鴨には阿遅鋤高日子根(あじすき・たかひこね)⇒高鴨神社
④雲梯(うなて)には事大主命⇒河俣神社


出雲神賀詞4社new

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鴨都波神社の参道①野口神社(御所市・蛇穴)

鴨都波神社の参道①野口神社(御所市・蛇穴)に関する記事です。

野口神社は近鉄御所駅の南1km、
葛城川に架かる御所橋南詰あたりに鎮座する神社です。

野口神社の鎮座する場所の地名は蛇穴(さらぎ)と言って、
恐ろしいというか、とても印象的な名前です。

葛城川
御所橋から葛城川

祭神:神武天皇、彦八井耳

祭神の彦八井耳は神武天皇と姫踏鞴五十鈴姫(ひめたたら)の間に
産まれた三兄弟の長男です。

長男:彦八井耳命(ひこやい)⇒堤根神社の祭神
次男:神八井耳命(かむやいみみ)⇒多氏の祖
三男:神渟名川耳命(かむぬなかわみみ)⇒2代綏靖天皇(すいぜい)

野口神社1
野口神社の鳥居

彦八井耳は淀川に日本最古の堤防、茨田堤を築いた茨田氏の先祖で、
茨田堤遺構を残す堤根神社の祭神でもあります。

その彦八井耳の後裔が淀川から蛇沼の地に移住し
氾濫を起こす葛城川流域の治水に尽力して、
この地の農耕を盛んにしたものと思われます。

野口神社2
野口神社の拝殿(本殿は工事中で解体)

蛇穴(さらぎ)とは蛇がトグロを巻き丸くなる状態をいいます。

毎年5月に行われる野口祭では藁で14メートル余りの大蛇を作り
村内を巡り、「蛇綱曳き」の神事の後、最後に拝殿の蛇塚に納めます。

役行者に恋した娘が蛇身に化けて後を追い、
村人が汁をかけて蛇を退治したという故事に因んだ祭りです。

野口神社3
藁の大蛇を納める蛇塚

鴨都波神社の参道②室八幡神社(御所市・室)

鴨都波神社の参道②室八幡神社(御所市・室)に関する記事です。

室八幡神社は墳丘長238m,全国16位の前方後円墳である
室宮山古墳の後円部の東麓に鎮座する神社です。

宮山古墳1(桜田池公園より)
宮山古墳(室大墓古墳)

祭神:誉田別命

境内に第6代孝安天皇(日本足彦国押人尊)の秋津嶋宮跡の石碑が建ちます。

このあたりの東側は現在も秋津の地名が残り、
孝安天皇が政治を行った秋津嶋宮があった場所とされます。

室八幡神社4
秋津嶋宮跡の石碑

孝安天皇の父は第5代孝昭天皇、
母は尾張連の娘の世襲足媛(よそたらし)
皇后は兄の天足彦国押人の娘の押媛 です。

孝安天皇、父の孝昭天皇ともに皇居・陵が御所市北部にあり
とても御所市に縁のある親子だと思います。

祟神天皇が三輪山に大和朝廷を開く前は、
この葛城に王朝があったことを ひしひしと感じます。

室八幡神社1
室八幡神社の鳥居

孝安天皇の皇居の名称の秋津嶋は記紀での本州のことで、
伊邪那岐・伊邪那美の大八島の島産みで最後にできた島です。

1.淡路島
2.四国 
3.隠岐島 
4.九州 
5.壱岐島 
6.対馬 
7.佐渡島
8.本州 (秋津嶋)

室八幡神社2
室八幡神社の拝殿

日本では古くはトンボのことを秋津と呼んでいました。

日本書紀では、神武天皇が本州の山々を見て、
連なるトンボ(秋津)のようだと言ったことから
日本の国土を指して秋津島とされたともあります。

 
室八幡神社3
室八幡神社の本殿

宮山古墳2
宮山古墳の入口



鴨都波神社の参道③室宮山古墳(御所市・室)

鴨都波神社の参道③室宮山古墳(御所市・室)に関する記事です。

室大墓古墳は近鉄御所駅の南3km程にあり、
御所市循環バス・室からは徒歩10分程でした。

長柄地区を本拠とした葛城襲津彦の墓と言われ、
全国で第16位の大きさを誇り天皇陵墓に匹敵する巨大古墳です。

<室
宮山古墳>
形状   :3段築成の前方後円墳
サイズ  :全長238m、後円部径105m、高さ25m
築造時期:5世紀前半 
被葬者  :葛城襲津彦(4世紀末~5世紀前半)
出土品  :形象埴輪、銅鏡、石製勾玉、剣類、 
埋葬施設:竪穴式石室内に長持形石棺

宮山古墳1(桜田池公園より)
宮山古墳の全容

葛城氏は日本最古の大豪族の1つで、
神武天皇の時代に剣根命(つるぎね)が初代葛城国造とされます。

神功皇后の時代には、武内宿禰が皇后を助けて新羅出兵を行いますが
その武内宿禰の末裔の一人が葛城襲津彦です。

葛城襲津彦自身も、 神功皇后・武内宿禰が勝ち取った
朝鮮半島の領土を死守するため本土と大陸の間を奔走します。 

宮山古墳2
宮山古墳の入口(室八幡神社)

葛城襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、
履中天皇・反正天皇・允恭天皇を産んでいます。

更に孫娘の黒姫を履中天皇の皇后とし長期間にわたり
天皇家との外戚関係を築き続けます。 

宮山古墳3
宮山古墳の階段

二基の竪穴式石室がありますが、墳頂には露出した石室の天井石が見え、
竜田石を用いた長持形石棺が埋納されています。

長持形石棺は王の柩ともされるもので竪穴式石室に安置されたままの状態で
見学することができる貴重な古墳です。

宮山古墳4
墳頂にある露出した石室天井石

長持形石棺は蓋・底・側面の6枚の石で組立てられる石棺で、
運搬用の縄をかける突起があります。

石材には兵庫県高砂の竜田石を使うものが多く見られます。

長持は衣類などを収納する直方体のケース。

宮山古墳7
長持形石棺(穴は盗掘孔)

埋葬施設を囲むように巨大な盾、靫(矢を入れる道具)、甲冑を模した武器の形象埴輪が置かれ、
古墳の大きさだけでなく、内容の面からも天皇の墓に匹敵する威容を誇ります。

室宮山古墳模型
石室の埋葬状態(武器の埴輪は内側、外側に家埴輪)

朝鮮半島から持ち込まれたの伽耶(かや)の船形埴輪の破片から、
その時期に朝鮮で活動していた葛城襲津彦の墓と裏付けされました。

葛城襲津彦は記紀に現れるだけでなく
朝鮮半島の史書である百済記にも同時代に
朝鮮で活動した記録がみられ存在が確実視されています。

宮山古墳5
靫の形象埴輪モニュメント

靫形埴輪(ゆき)
宮山古墳の石室の周囲を囲んでいた形象埴輪

滑石で造られた斧、刀子(とうす:ナイフ)、勾玉など
実際の器物を模造した祭祀用具も出土しています。

滑石製刀子と斧
宮山古墳から出土した滑石製斧と刀子

滑石勾玉 (2)
滑石製勾玉

古墳を降りてのバス停への帰り道にすれ違ったお婆さんに、
「山の墓へ行ったんか。よかったやろう!」と声を変えられました。

御所市の人は地元自慢の人が多く、ホットな気分になりました。

鴨都波神社の参道⑫鴨山口神社(御所市・櫛羅・大湊)

鴨都波神社の参道⑫鴨山口神社(御所市・櫛羅・大湊)に関する記事です。

鴨山口神社は近鉄・御所駅の西1.9Km,葛城山の東麓に鎮座する神社です。

現在の鎮座地は葛城山ロープウェイ登山口駅の東1.3km程ですが、
昔は現地の西北・葛城山入口にあったそうですが、
天災起こり山岳崩れて今の地に奉られたと伝えられます。

櫛羅(くじら)という地名は土砂崩れの「崩れ」が語源とされますし、
大湊からは湖も連想します。

鴨山口神社1
鴨山口神社の鳥居

鴨山口神社は大和国・葛上郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。

大和国には14社の山口神社がありますが、鴨山口神社はその本社にあたります。

奈良の山口14社とは、巨勢飛鳥石寸忍坂長谷畝傍耳成、夜支布、伊古麻
大坂當麻、吉野、都祁のことです。

祭神:大山祇命、大霎貴尊、御霊大神、天御中尊 

大霎貴尊(おおひるめ)は天照大神の別名です。

鴨山口神社2
鴨山口神社の拝殿1

本殿に安置される大霎貴座像・御霊大神座像の二体は、
室町期に造られた一木造彩色像で、国の重要文化財に指定されています。
 
鴨山口神社3
鴨山口神社の拝殿2

鴨山口神社は古くから朝廷に皇居の用材を献上する神社で、
山口祭を司りました。

山口祭は伐採のために山に入る際に行なわれた神事で、
山の入り口で行なわれる山の神の祭りのことです。 

伊勢神宮の 20年に一度の式年遷宮では、
最初に行なわれるのが山口祭で、広く知られています。

鴨山口神社4
鴨山口神社の拝殿3

鴨山口神社5
鴨山口神社の本殿

高鴨神社の参道①高天彦神社(御所市・高天)

高鴨神社の参道①高天彦神社(御所市・高天)に関する記事です。

高天彦神社へは御所市が運営している循環バスの
高天バス停から直線距離1km、
急坂の参道をノンビリ登って40分程で到着しました。

高天彦神社1注連縄柱
高天彦神社の参道入り口

きつい登山道を登りきり、イノシシ除けの扉を開き
鬱蒼とした森林を抜けると広々とした明るい高原に出ます。

高天原は金剛山の中腹に広がる別天地で、
高天の集落・高天彦神社の社叢の背後に
神体山の白雲峯が聳えます。

神体山
高天彦神社の神体山・白雲峯

高天彦神社は大和国・葛上郡・月次相嘗新嘗とされる名神大社です。

祭神:高皇産霊、市杵嶋姫命、菅原道真

高天彦とは高皇産霊の別名で、付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地です。
高天原は葛城王朝発生の地でその中心が高天彦神社です。

高天彦神社3大杉
樹齢数百年の杉並木

祭神の高皇産霊(たかみむすび)は葛城氏の祖神で、
高皇産霊は天地創造の時、高天原に出現した神です。

高天彦神社は高木が神格化された神とされる高皇産霊に相応しく
参道の両側には樹齢数百年の並木杉があります。

高天彦神社4鳥居
高天彦神社の鳥居


<高天彦神社由緒>

天照大神の子の天忍穂耳尊に、
高皇産霊の娘、栲幡千々姫命(たくはたちじひめ)が嫁ぎ、
御子の瓊々杵尊が高天原から降臨される。

その神話に言う高天原がこの台地である。

御祭神を氏神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、
亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。

高天彦神社5
高天原旧跡地の石碑


高天彦神社6
高天彦神社の社殿

境内末社に三十八神社がありますが、葛城王朝の歴代の王を祭る神社です。

三十八神社
葛城三十八皇神を祀る三十八神社

社殿の左脇には土蜘蛛を埋めた跡とされる蜘蛛塚があります。
土蜘蛛とは日本の先住の人々のことです。

日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、
それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺しました。

それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったとされます。

高天彦神社7土蜘蛛塚
土蜘蛛が埋められた蜘蛛塚

高鴨神社の参道⑩葛木御歳神社(御所市・東持田)

高鴨神社の参道⑩葛木御歳神社(御所市・東持田)に関する記事です。

今年は天候が不順となり、雨が多い春でした。
しかし今日は一日中快晴とのことで、
葛城山や金剛山の萌える若葉が麓からもよく見える日でした。

早朝から御所市の住人が遠出する車で、
幹線道路への入り口は長い渋滞ができていましたした。

金剛山・葛城山
金剛山(左)と葛城山(右)

葛木御歳神社へは御所市循環バスの「かもの湯」バス停から
船宿寺経由で初夏の里道を1時間程のんびりと北上して行きました。

ムラサキサキゴケ
葛城川沿いに咲く紫鷺苔

葛城川に沿った里道ではレンゲ、タンポポ、ムラサキサキゴケなど
色とりどりの野草が咲き乱れ、
予期していなかった牧場にも遭遇し楽しい散策となりました。

牧場
葛木御歳神社近くの牧場

葛木御歳神社は大和国・葛上郡・月次新嘗とされる名神大社で、
背後の御年山を神体山とします。

祭神:御歳神
配祀:大年神、高照姫命

葛木御歳神社鳥居1
葛木御歳神社一の鳥居と御年山

葛木御歳神社は全国の御歳神社・大歳神社の総本社です。

祭神の御歳神は古事記にみえる穀物神で、
大年神と香用比売の間に生まれた神で、須佐之男命の子孫に当たります。

正月の門松は御歳神が降臨するための依代であり、鏡餅は御歳神への供え物です。
鏡餅のおさがりのお餅には御歳神の魂が込められており、
これを「御歳魂(おとしだま)」と呼び現在の「お年玉」の起源になっています。

葛木御歳神社
葛木御歳神社二の鳥居

葛木御歳神社を祀った鴨族は弥生時代初期には高鴨神社付近を本拠地とし、
金剛山・葛城山東麓の谷間の斜面を利用して陸稲や稗、粟などの畑作農耕をしていました。

弥生時代中期には、その一部の鴨族が
水稲農耕に適した御所市中部~北部の葛城川流域に移動して大集落を形成しました。 

御所市中部の東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀り、
御所市北部の宮前町に移った一族は鴨都波神社を祀りました。

高鴨神社が上鴨社、御歳神社が中鴨社が鴨都波神社を下鴨社とも呼ばれています。

葛木御歳神社拝殿
葛木御歳神社の拝殿

葛木御歳神社拝殿2
葛木御歳神社の拝殿内部


葛木御歳神社本殿
葛木御歳神社の本殿

高鴨神社の参道⑥風の森神社( 御所市・鴨神)

高鴨神社の参道⑥風の森神社( 御所市・鴨神) に関する記事です。

風の森神社は高鴨神社の東800m
御所市循環バス停・風の森から徒歩10分の位置にあります。

このあたりが大和盆地の南端に位置する風の森峠(280M)で、
その頂上に鎮座するのが風の森神社で志那都比古神社とも呼ばれます。

風の森神社1社叢
風の森神社社叢

祭神:志那都比古神

風の森は日本で一番早く稲作が行われた地域とも言われます。

西南の風が強く、農作物を風水害から守る為に
防風林を作り、小祠を祀ったのが風の森神社の所以です。

風の森神社2
風の森から望む金剛山・葛城山方面

祭神の志那都比古神(しなつひこ)は風神とされ、
伊邪那岐・伊邪那美の間に生まれた神であり、
伊邪那美が朝霧を吹き払った息から生まれた神とされています。

風の森神社3
風の森神社の社殿1


風の森神社4
風の森神社の社殿2


高鴨神社の参道②蜘蛛窟(御所市・高天)

高鴨神社の参道②蜘蛛窟(御所市・高天) に関する記事です。

高天彦神社の境内には蜘蛛塚がありましたが、
神社の東150m程の鬱蒼とした森の中には蜘蛛窟があります。

大和朝廷に屈しない先住民を土蜘蛛と言い、
土蜘蛛を殺して埋めた場所を蜘蛛塚、
蜘蛛が居住していた場所を蜘蛛窟と言います。

土蜘蛛窟1
高天原の蜘蛛窟の森

日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、
それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。 
それでこの村を高尾張邑から葛城邑と名前を変えたと記しています。

♪♪高尾張邑に、土蜘蛛有り。
其の人となり、身短くして手足長し。
侏儒と相類へり。皇軍、葛の網を結ひて掩襲ひ殺す。
因りて号を改め其の邑を葛城と曰ふ。♪♪

土蜘蛛窟2
高天原の蜘蛛窟

高尾張邑は崇神朝頃までの尾張氏の本拠で
以後は葛城から美濃、飛騨などに移住しました。

尾張氏の中にも神武天皇に服従しないものがおり、
それを征伐したのが葛城氏とも思えます。

高天彦神社7土蜘蛛塚
高天彦神社の蜘蛛塚


高鴨神社の参道⑤伏見八幡神社(御所市・伏見)

高鴨神社の参道⑤伏見八幡神社(御所市・伏見・奥神)に関する記事です。

高天原から林道を下り、伏見菩提寺の南200mの位置にあります。

金剛山の東麓・大和三山を見渡せる景勝地に鎮座し、
斜面の棚田が風景を引き立てます。

奈良盆地
棚田と大和盆地

祭神:応神天皇、天児屋根命、天照大皇神

この金剛山東麓の地は応神・仁徳天皇の頃、
葛城氏の本拠地として栄えたところです。

葛城氏の祖とされる葛城襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、
履中天皇・反正天皇・允恭天皇を産んでいます。

伏見八幡神社1
伏見八幡神社の鳥居と社号標

創建の詳しいことは不明だそうですが、
聖武天皇時代に創建との伝承があるそうです。
菩提寺も聖武天皇時代の創建、とあり菩提寺の鎮守だったようです。

先神門
伏見八幡神社の拝殿

中央が主祭神の応神天皇を祀る本殿で、
間口が三つある三間社流造です。

向かって左の右殿に天児屋根命、
向かって右の左殿に天照大神が
それぞれ一間社流造の社殿に祀られています。

現在の本殿、摂社は、安土桃山期の建立当時の姿をとどめており、
県内には同時代に建立された建物は殆ど存在せず、
貴重な文化遺産とのことです。 

伏見八幡神社3
伏見八幡神社の本殿

伏見八幡神社の社殿の裏には沢山の境内社とともに
古墳があります。

墳丘の頂に鎮座するのは弁財天神社で、
此処をさして、「奥神」の地名がついたとの説もあります。

伏見八幡神社4
伏見八幡神社の古墳

弁財天神社
古墳の墳丘に鎮座する弁財天神社

伏見八幡神社6
古墳の石室


高鴨神社の参道⑪巨勢山口神社(御所市・古瀬)

高鴨神社の参道⑪巨勢山口神社(御所市・古瀬)に関する記事です。

吉野口駅の北300m,国道沿いに巨勢山口神社への参道の道標があります。

この道標には巨勢山口神社と大倉姫神社の名前が刻まれており、
葛中学校(葛尋常高等小学校)の校庭にあったものを
国号309号の完成に伴い平成4年にこの場所に遷したとのことです。

大倉姫神社社号標
巨勢山口神社参道の石標

道標に従い巨勢山口神社への参道を登り始めるとすぐに展望が開け、
曽我川の対岸の丘に、芝生にKUZUの文字が描かる葛中学校が見えます。

今回の散策ではこの葛中学校は
どこからでも良く見え良い道しるべとなりました。

葛小中学校
KUZUの文字が葛見える中学校(右上)

参道は曽我川の支流の古瀬沢に沿い
ユニークな古瀬沢砂防ダムがあり,
周辺には「古瀬沢水辺の楽校」が整備されています。

古瀬沢ダム
古瀬沢砂防ダム1

葛中学校は10年程前から、環境に重点をおいた葛小中一貫教育を開始し、
この水辺の楽校でも農業を行っているそうです。

周辺はタチツボスミレが群生する素晴らしい環境でした。

古瀬沢ダム2
古瀬沢砂防ダム2

タチツボスミレ
タチツボスミレ

「古瀬沢水辺の楽校」から巨勢山口神社の鳥居を潜り、
見通しの利かない森林の中を10分程登り詰めた場所に社殿がありました。

巨勢山口神社は大和国・葛上郡・月次新嘗とされる式内大社で、
古瀬邑(こせむら)・巨勢山の中腹・標高200mに鎮座します。

祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊

巨勢山口神社1
巨勢山口神社の鳥居

巨勢山口神社は大和国14社の山口神社の1社で、
当初の祭神は大山祇命と思われます。

奈良の山口14社とは、巨勢飛鳥石寸忍坂長谷畝傍耳成、夜支布、伊古麻
大坂當麻、吉野、都祁のことです。

巨勢山口神社2
巨勢山口神社の社殿1

巨勢山口神社3
巨勢山口神社の社殿2


鴨都波神社の参道⑩葛城一言主神社(御所市・森脇)

鴨都波神社の参道⑩葛城一言主神社(御所市・森脇)に関する記事です。

葛城一言主神社は御所駅の南西4Km、
御所市循環バス森脇バス停から徒歩10分程の位置にあります。

郡山と五條を結ぶ下街道を御所駅から南へ歩くと、30分ほどで幸町交差点があります。
そこに葛城川の支流・水越川に沿う里道があり、
それが葛城一言主神社への参道です。

水越川に沿って西へ遡ると、
葛城一言主神社の一の鳥居があり、風情のある集落があります。

葛城一言主神社一の鳥居
葛城一言主神社の一の鳥居

鳥居のすぐ傍にあるこの建物は、
昔ながらの天然醸造を続ける片上醤油です。

一言主神社1
片上醤油と水越川

一の鳥居を潜り、更に西へ進むと葛城山の麓に、
葛城一言主神社の社叢が見えてきます。

古くは葛城山頂にあったのを山下に移したとされます。

一言主大神は事代主大神と同一視されていますが、
元々は事代主は鴨族の農業を守る神、
一言主は一言の願いであれば叶えてくれる神です。
 

一言主神社2
葛城一言主神社の社叢

祭神:一言主大神(事代主)
合祀:幼武尊(雄略天皇)

葛城一言主神社は大和国・葛上郡・月次相嘗新嘗とされる名神大社です。

神社一帯は武内宿禰、葛城襲津彦を祖とする葛城氏の本拠地で、
4世紀末に勢力を伸ばし、5世紀末には衰退・没落してしまいます。

一言主神社3
葛城一言主神社の二の鳥居

雄略天皇が葛城山で猟をしている時に天皇と同じ姿・動作をする者が現れます。
天皇が何者かと問えば「私は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と言います。
それが一言主大神です。雄略天皇は畏まり、無礼を詫びて衣服を献上したという。

「吾は雖悪事、而一言、雖善事、而一言、言離之神、葛城之一言主之大神なり」

一言主神社拝殿
葛城一言主神社の拝殿1

葛城一言主神社の鎮座地の森脇は、
第2代綏靖天皇(すいぜい)の皇居とされる高丘宮の伝承地でもあります。

事代主の娘の姉(媛蹈鞴五十鈴媛)が綏靖天皇の母、
事代主の娘の妹(五十鈴依媛)が綏靖天皇の皇后、
事代主との係りの深い場所に皇居を営んだことになります。

一言主神社5
葛城一言主神社の拝殿2

葛城一言主神社の境内には、
神武天皇紀の土蜘蛛の墓とされる蜘蛛塚があります 

土蜘蛛は、昆虫の蜘蛛ではなく、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちのことです。

神武天皇が自分に戦いを挑む土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように
頭、胴、足と別々に切って埋めた塚と伝わります。

一言主神社6
葛城一言主神社の蜘蛛塚

御神木は樹齢1200年というイチョウの古木(乳銀杏)です。
健康な子供を授かり、母乳が良く出るようにとの信仰を集めています。

一言主神社7
葛城一言主神社の乳銀杏

加守神社の参道④當麻寺(葛城市・當麻)

加守神社の参道④當麻寺(葛城市・當麻)に関する記事です。

當麻寺は二上山東麓、近鉄南大阪線の当麻寺駅の西500mにある
飛鳥時代に創建された寺院です。

當麻寺1
近鉄当麻寺駅

二上山は、大和の東の三輪山に対比される西に位置する歴史上重要な山です。

大和盆地に暮らす人から見ると、夕陽が二上山の2つの峰の間に沈むことから、
西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先とされ、最適の地に建てられた寺です。
 
當麻寺2
當麻寺付近から望む二上山

當麻寺の社伝によると、7世紀に聖徳太子の異母弟の
当麻皇子により開基された寺院とされます。

この地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である当麻氏の氏寺とも、
当麻皇子が河内に建立した寺を当地に遷した寺ともいわれます。

當麻寺3
當麻寺の仁王門

当麻氏の氏寺として発展した當麻寺ですが、
中世になると中将姫の寺として知られるようになり
本尊も弥勒仏から中将姫が織った当麻曼荼羅に変わります。

當麻寺4
當麻寺本堂

「当麻曼荼羅」とは極楽浄土の様子を表したもので、
中将姫伝説で知られます。

中将姫は藤原豊成(704-765)の娘ですが、継母から執拗ないじめを受け
若くして當麻寺に出家し極楽往生祈る日々を暮らします。

中将姫の名前の由来は8才の時、孝謙女帝(718-770)が催した節句の祝賀で、
中将姫は見事に琴を弾いて、三位中将の位を賜ったことによります。

しかしこのことは継母の嫉妬をさらに広げることになります。 

当麻寺西塔
當麻寺西塔

當麻寺の北800mにある石光寺には、
中将姫が織った曼荼羅の蓮糸を染めたとされる「染の井戸」があります。 

姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がり、
一夜にして織り上げたのが、当麻曼荼羅です。 

 石光寺染の井戸
石光寺の「染の井戸」

中将姫の説話は世阿弥や近松門左衛門らによって謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなり
一般民衆にも広く流布されます。

江戸時代には中将姫一代記(1801年)なる絵本も描かれています。

5巻でひと組、中将姫の誕生から没するまでを描いたものです。

中将姫1
中将姫一代記の表紙と目次

中将姫2
左:中将姫の誕生  右:継母のいじめ

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