エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@菅原天満宮

菅原天満宮(奈良市・菅原町)

菅原天満宮(奈良市・菅原)に関する記事です。

菅原天満宮は近鉄橿原線の尼ヶ辻駅の西北800m
喜光寺の隣、北東側にあります。

尼ヶ辻駅前には「菅原道北」と刻まれた大きな道標があり、
垂仁天皇陵が線路の西側に望めます。

尼ヶ辻駅の道標
尼ヶ辻駅の道標

垂仁天皇陵当り一帯は菅が生い茂る場所で菅原邑と呼ばれ土師氏が住んでいました。

野見宿禰は垂仁天皇の時、皇后の葬儀で埴輪を作り殉死を止めるよう提案します。
これにより野見宿禰の子孫は土師連を名乗り、下って天武天皇の時に土師宿禰の姓を賜ります。
 
垂仁天皇陵
垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)

菅原天満宮は大和国・添下郡鎮座の菅原神社と記される式内小社です。

祭神:天穂日命、野見宿禰、菅原道真

天穂日命、野見宿禰は土師氏の祖人で、土師氏は代々古墳造営や葬送儀礼に携わってきました。
菅原氏は奈良時代に、この菅原邑で土師から地名の菅原に改名した氏族で、
菅原道真はその菅原氏の末裔です。

菅原天満宮の鳥居
菅原天満宮の鳥居と社号標(銘)「菅家発祥之地・菅公御誕生所」

一帯はかつての菅原邑で、菅原道真の祖先である菅原氏の根拠地で
菅原天満宮の西隣の喜光寺は元は菅原氏の氏寺で菅原寺と称しました。

菅原天満宮の拝殿
菅原天満宮の拝殿

桓武天皇の御代に菅原道真(845-903)の曽祖父にあたる
菅原古人(750-819)ら一族15名が土師姓から菅原姓へ改姓を願い出ます。
菅原古人たち一族は大和国菅原邑に住んでいたことからで、以降は菅原氏を名乗ります。

菅原古人には弟ともされる秋篠安人がいます。
古人たちに続い秋篠安人ら6名が願い出て土師姓から本拠地の地名の秋篠姓に改称しました。

古墳時代も終わり古墳造営・葬送儀礼は時代に沿わず
土師の姓を替えることで生業の領域を広げようとしたものと思われます。

菅原天満宮の本殿
菅原天満宮の本殿

以降、菅原古人は遣唐船で唐に渡り見識を増やし、帰国後は学問の分野で頭角を表します。

文章博士として、皇太子に講義する役に就き、
とうとう現在のの大学総長にあたる大学頭にまで出世しました。
菅原氏の学問好きは古人の子孫にも代々受け継がれ道真に引継がれます。



神牛
菅原天満宮の神牛

菅原氏を伝える唯一の菅原神社なのだから、道真のことより
菅原邑や菅原古人たちのことをもっと伝承して欲しいです。

左)度会春彦社(右)稲荷社
度会晴彦社(左)と稲荷社(右)

菅原天満宮の参道①喜光寺(奈良市・菅原町)
菅原天満宮の参道②垂仁天皇陵(奈良市・尼辻西町)
菅原天満宮の参道③安康天皇陵(奈良市・宝来)蓬莱神社
菅原天満宮の参道⑨薬師寺(奈良市・西ノ京町)
菅原天満宮の参道⑰
大安寺(奈良市・大安寺)




菅原天満宮の参道⑰大安寺(奈良市・大安寺)

菅原天満宮の参道⑰大安寺(奈良市・大安寺)に関する記事です。

大安寺はJR奈良駅の南2km
JR桜井線京終駅の西1.6kmに位置する古代寺院の大安寺の法灯を継ぐ寺です。

大安寺は関西に点在する聖徳太子霊跡23番に指定されています。

現在の大安寺周辺に奈良時代に建設された塔、僧坊、瓦窯など
当時の遺構が色々復元されており見ごたえがありました。

大安寺の南門
大安寺の南門(四天王像が出土した当時の南大門跡)

1月23日(土)の大安寺は朝の8時から大混雑でした。
笹酒が振る舞われる笹酒祭りとのことで門前は車で大渋滞、
バスでも大勢乗って次々と駆けつけており境内が人で溢れるのは一目瞭然でした。

大安寺本堂
大安寺の本堂

桓武天皇の父である光仁天皇が白壁王としてこの寺に住み
凡庸・暗愚を装って皇位継承の難を逃れ酒歌に興じ長生きをしたのが笹酒の由来です。

光仁天皇は62歳の高齢で即位したにも関わらず
後の御霊会の慰霊の対象になる陰謀に巻き込まれながら
11年も天皇を務め天寿を全うします。

大安寺笹酒
大安寺の笹酒

大安寺の起源は聖徳太子が大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごり・しょうじゃ)とされます。
熊凝精舎が百済大寺、高市大寺、大官大寺と移転と改称を繰り返し、
平城京遷都とともに現在地に移転して大安寺となったと記されます。

平城京配置図
 
平城京寺院配置


奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、
東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、南大寺の別称がありました。

伽藍(文字)
大安寺式伽藍(遣唐僧・道慈律師が完成)

熊凝精舎は、大和郡山市額田部に現存する額安寺(額田寺)がその跡との説もあります。
病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(舒明天皇)に、
熊凝精舎を本格的な寺院にすべきと指示を出します。


大安寺塔跡
大安寺東塔跡

太子の指示で田村皇子が、舒明天皇11年(639年)、
百済川(曽我川)のほとりに建て始めたのが
百済大寺です。 

奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡で 
高さ100mの九重塔をもつ法隆寺式伽藍が検出されています。


大安寺西塔跡碑
大安寺西塔跡(七重塔の痕跡を残す塔心礎)

日本の仏教の発展に関与した僧侶たちの原点は大安寺にあるようで、
奈良時代、大安寺には海外からの名僧を含む887名の僧が居住していました

・東大寺大仏開眼会の大導師を勤めた天笠(インド)僧の菩提僊那(せんな)
・奈良仏教の指導的役割を担った唐の高僧の道璿(どうせん)
・東大寺大仏完成の法要で舞楽を奉納し、ベトナムの林邑楽を伝えた仏哲
・大安寺の平城京移設に尽力した道慈
・鑑真を日本へ招請するため唐に派遣された普照と栄叡、
・空海や最澄と交流のあった勤操


大安寺中房跡
僧侶たちが暮らした中房跡

笹酒祭りで大混雑の大安寺境内の外では
カワラヒワたちが赤く実ったピラカンサの果実を貪っていました。

カワラヒワ
ピラカンサの果実を貪るカワラヒワ

<関連記事>
大安寺の参道①杉山古墳・瓦窯跡(奈良市・大安寺)
大安寺の参道②推古天皇社(奈良市・大安寺)御霊神社 
大安寺の参道③大安寺八幡神社(奈良市・東九条町)   





大安寺の参道①杉山古墳・瓦窯跡(奈良市・大安寺)

大安寺の参道①杉山古墳・瓦窯跡(奈良市・大安寺)に関する記事です。

杉山古墳・瓦窯跡は大安寺の北500mにある
大安寺旧境内に残る史跡の一つです。


杉山」古墳入口
杉山古墳入口

杉山古墳は、5世紀後半(古墳時代中期)に造られた前方後円墳で、
大安寺が平城京に遷る200年以上前からあった古墳で、
奈良時代から大安寺の境内で保護されてきたものです。

平城京造営の際に取り壊されなかった数少ない古墳で
当時の大安寺の記録である『資財帳』には、池并岳と表現されています。
大安寺は平城京建設に伴い計画的に移された国家寺院で、
杉山古墳とその周濠は景観の為に池并岳(いけ・ならび)として保存されたものです。

<杉山古墳>
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長154M,後円部径80M 
周濠   :幅30M
築造時期: 5世紀後半


杉山」古墳外形
 杉山古墳全景

家型埴輪
杉山古墳出土の家型埴輪

杉山瓦窯跡群は、杉山古墳の発掘調査の際に検出された6基の瓦窯です。

燃焼室、焼成室、煙道からなる構造で
奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いたものです。

杉山古墳は大安寺の建設資材調達の場で、
古墳前方部から土砂や葺石が寺院の建設現場運び出されました。

その跡地に築かれたのがこの瓦窯群です。
窯は古瓦を積み上げて粘土で固めて築かれ、
一度に500枚ほど焼き、燃焼室の天井を壊して取り出す方式です。
 

瓦窯跡

復元された2号瓦(窯燃焼炉の壁は古瓦)

 




大安寺の参道②推古天皇社(奈良市・大安寺)

大安寺の参道②推古天皇社(奈良市・大安寺)に関する記事です。

推古天皇社は現大安寺の境内東側に鎮座する小さな祠です。

祭神:豊御食炊屋姫尊(推古天皇)
境内社:金毘羅権現

推古天皇社の社叢
推古天皇社の社叢

大安寺伽藍絵図では南大門を入った地点に、東は推古天皇社・西は聖徳太子社があり、
古代寺院の時期の創始とも考えられる古い神社です。

伽藍(文字)
大安寺伽藍絵図

推古天皇を眉目秀麗な美人とする社頭の由緒がとても気に入りました。
<由緒>
御祭神は第29代欽明天皇の皇女であって、18歳にて第30代敏達天皇の皇后となられた。
皇后は眉目秀麗な美人だったと伝えられている。
第32代崇峻天皇崩御の後、皇位を巡って、さまざまの動きがあって、
日本における最初の女帝となられ、聡明な聖徳太子に摂政を委ねられて、
政治は国家意識を昂揚し理想社会を求める事であった、
「外交の刷新・仏教に依て日本民族の思想と生活を改める事等」、
従って日本の歴史の中でも輝かしい時代であった。


<第33代推古天皇>
名前  豊御食炊屋姫 
父    欽明天皇
母   蘇我堅塩媛
在位 593-628年(36年間)
人生 554-628年(75歳) 


推古天皇社の社殿
推古天皇社の社殿

75歳で死去するまで36年間も天皇を務めた聡明な飛鳥美人だと思っています。
皇位を廻る暗殺が多発する時代に天寿を全うするまで女帝を務めたのだから
様々な派閥から期待されたのでしょう。

蘇我馬子と物部守屋の神仏戦争でも
大半の勢力が馬子側に付いたのも推古天皇の人徳と思っています。
殯中に穴穂部皇子に犯されそうになったり、それを阻止した寵臣三輪逆が物部守屋に殺されたり、
やさしい推古天皇も愛想を尽かしたのでしょう。

その後、馬子に請われて、彼女は39歳で豊浦宮において即位し
甥の聖徳太子を皇太子として大臣馬子と両輪で巧みな政治改革を実行させます。

また天皇としての姿勢も潔癖で厳しく、
外戚で重臣の馬子に対しても、私腹を肥やす要求には応じなかったことが記されています。
 
飛鳥美人
聡明な飛鳥美人




大安寺の参道③大安寺八幡神社(奈良市・東九条町)

大安寺の参道③大安寺八幡神社(奈良市東九条町)  に関する記事です。

大安寺八幡神社は大安寺の鎮守社で、
大安寺の旧境内、東西塔跡の北側隣接する神域の杜に鎮座します。

元岩清水八幡の社叢
大安寺八幡神社の社叢(手前は大安寺東塔跡)

祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
斉衡2年(855年)に、大安寺の僧侶行教が大安寺に宇佐の八幡神を勧請しました。

この頃宇佐から大和や山城に八幡神が何度も分霊されています。

東大寺・手向山八幡宮は749年創建
大安寺八幡宮は855年大安寺の僧行教が創建
石清水八幡宮は大安寺の僧行教が860年に創建
薬師寺・休ケ岡八幡宮は(889~898)に薬師寺の僧栄紹が創建

元岩清水八幡の鳥居
大安寺八幡神社の鳥居


行教は50年前の大同2年(807)にも唐から帰朝の折に宇佐に寄ったとの話もあり、
石清水八幡宮の元宮との伝承も大安寺にあります。
しかし石清水八幡宮は国をあげて正式に宇佐から勧請したものです。
行教は何度も宇佐に赴いているようで、その実績を評価されてのこと思われます。

元岩清水八幡の神門
大安寺八幡神社の神門


行教は大安寺の僧侶でしたが、清和天皇の勅命で貞観元年(859年)に宇佐八幡宮へ参篭、
石清水八幡宮を創設し、貞観5年(863年)には伝燈大法師位に任じられました。

また行教は石清水八幡宮別当安宗の叔父でもあり、男山との縁を感じます。

元岩清水八幡の中門
大安寺八幡神社の中門



元岩清水八幡の拝殿
大安寺八幡神社の拝殿


男山の北麓にある神応寺や交野市にある須弥寺は、
行教が岩清水八幡宮の警固のために創建した寺院です。

京阪沿線には行教の足跡が色々あるようで、
行教の岩清水八幡宮への思いが伝わります。

元岩清水八幡の本殿
大安寺八幡神社の本殿



元岩清水八幡の狛犬
ユーモラスな狛犬と神使の鳩

参拝を終えて、塔跡で休憩していると神社の社叢からエナガたちが出てきて
目の前で賑やかに毛虫を採餌しはじめ、しばし楽しませてもらいました。

えなが2
 社叢でエナガの群れが食事中





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