エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・植木神社

植木神社(三重県・伊賀市・平田)

植木神社(三重県・伊賀市・平田)に関する記事です。

植木神社は伊賀市の中央東部の大山田地区(標高300M程度)、
服部川右岸の伊賀街道沿い平田宿にある神社です。

伊賀線の茅町駅から阿波線の汁付行きのバスにのり、
荒木から服部川に沿って伊賀街道を東進し、大山田地区・宮の前バス停で下車しました。

道路の中央の分離帯には大榎とその下に水神社の祠、
服部川淵に水神社の標石があります。

服部川の支流の平野川や中野川がこの地で合流しており、
水害が多発した地区と思われます。
近くには真泥の地名も残り、広い沼地であったと思われます。

榎・庚申堂(水神社)
大榎の下に水神社

伊賀街道と三重県道2号の交差点に大山田橋が架かり服部川が望めます。

私にとって大山田は伊賀市探索を開始する前から興味ある場所でした。
大山田橋周辺の服部川流域は琵琶湖の始まりとされる「大山田湖」があった場所です。
その「大山田湖」の跡地へ偶然にも植木神社参拝でいきなり来てしまいました。

大山田橋の東側に河川敷公園がありますが、
今から350万年前の地層が服部川の河床に出ている場所で、
ゾウやワニの足跡化石が発見されました。

服部川
大山田橋から服部川下流(琵琶湖の始まりの大山田湖だった)

植木神社の入り口は平田交差点の一本西側の道にあり、
鳥居を潜ると植木神社祇園祭の標石、芭蕉碑、梵鐘などがありました。

植木神社は鳥坂神社、葦神社の2式内小社を合祀しています。

<合祀2式内小社>

伊賀国・山田郡鎮座とされる鳥坂神社 
伊賀国・山田郡鎮座とされる葦神社  


植木神社の鳥居
植木神社の鳥居

鐘楼
 
植木神社の鐘楼

寛弘元年(1004)播磨国広峰山から牛頭天王を勧請したのが創始で、
文永2年(1265)洪水のため当地へ遷座し植木牛頭天王と称したとされます。

祭神:須佐之男命、櫛稲田姫命
配祀:大友皇子命、住吉三神、ほか多数

植木神社の拝殿1
植木神社の拝殿1



植木神社の拝殿2

植木神社の拝殿2


伊賀国は7世紀には阿拝郡、伊賀郡、山田郡、名張郡の4郡に分割されました。
ここ山田郡は山田郡司の娘・伊賀宅子娘で知られる地で、
宅子娘の子の大友皇子は植木神社の祭神の一柱です。

伊賀宅子娘は天皇の世話をする采女として天智天皇の後宮に入り,
大化4年(648)に大友皇子を産みました。


しかし大友皇子は壬申の乱で敗れて自殺し、
伊賀宅子娘は郷里の大山田へ帰り、わが子の冥福を祈って鳳凰寺廃寺を建立しました。
その鳳凰寺廃寺跡が植木神社の東700Mの薬師寺に残されます。


植木神社の本殿
植木神社の本殿


薬師寺境内(鳳凰寺廃寺)の境内東に住吉社の刻銘の燈籠が1基あり、
ここが植木神社が合祀した住吉神社の元地と思われます。

この住吉神社には山田郡司、その娘の伊賀宅子娘が氏神としていたとの伝承があるようです。


「住吉社」「慶応元年」を刻む燈籠
住吉社の銘を持つ燈籠(薬師寺)

植木神社のある平田宿は伊勢に続く伊賀街道の宿場町として栄えた宿場街で、
荘厳な祇園祭が執り行われてきました。

この地に疫病が流行った時に須佐之男命が現れて
薬として「梅」と「牡丹」を授けたことが祭りの始まりとも言われています。

祇園祭の時に奉納するのが「せえろく餅」という和菓子で、
老舗の和菓子屋では「つばや」では
今では平田宿の名物菓子として毎朝作るようになったそうです。


つばや菓子舗

つばや菓子舗

<関連記事>
植木神社の参道①鳳凰寺跡(伊賀市・鳳凰寺)
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植木神社の参道⑩伊賀街道・新天神橋(伊賀市・下阿波)
植木神社の参道⑪須智荒木神社(伊賀市・荒木)
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植木神社の参道⑪須智荒木神社(伊賀市・荒木)

植木神社の参道⑪須智荒木神社(伊賀市・荒木)に関する記事です。


荒木神社は伊賀線上野市駅から東へ3KM
服部川左岸,荒木山の北麓に鎮座する神社です。

これから利用したい三重交通バス・阿波線の調査も兼ねて
上野市駅前から汁付(しりつけ)行きのバスに乗って行きました。


服部川
服部川寺田橋


鎮座地の荒木は荒木又右衛門の誕生地でもあり、
荒木バス停の場所に大きな誕生地碑がありましたが、
鍵屋の辻の決闘の地はここから西4kmにありました。

服部川右岸を東進する、阿波線のバスとは別れて、
寺田橋は渡らずに服部川左岸から荒木集落へ入りました。

山田盆地を見渡す荒木山山頂付近には
4世紀後半の車塚古墳が築かれています。


旧伊賀街道と荒木集落
旧伊賀街道と荒木集落(背後は荒木山)


荒木集落は伊賀郡・服部郷・荒木村と呼ばれた場所で、
荒木又右衛門が生まれた荒木氏館跡が発掘されています。


荒木氏館跡は幅3mからの堀で囲まれた15-16世紀の環濠住宅で、
フイゴ羽口や鉄さいが多く出土し、付近に鋳造施設があったと思われます。

荒木集落と用水路
荒木集落と用水路


荒木集落を進むと集落の東端に須智荒木神社の参道があり
2基の石灯篭と須智荒木神社の社号標があります。

須智荒木神社は伊賀国・阿拝郡鎮座と記される式内小社です。


祭神:猿田彦命
配祀:武内宿禰命、葛城襲津彦命


須智荒木神社は猿田彦命を主祭神とするために、
通称、白鬚明神と呼ばれています。


須智荒木神社の社頭
須智荒木神社の社頭


須智荒木神社の社殿へ続く石段前には大灯篭がり、
白鬚社で行われた木白主催の俳席で芭蕉が詠んだ句碑があります。

奥の細道の旅から伊賀に戻り、実家から近畿周遊中の頃47歳の作です。


♪♪畠うつ音や あらしのさくら麻♪♪  荒木村白髭社にて  (芭蕉)

ー春になって畠を打つ音が聞こえる 芽吹き始めた桜麻は春の嵐に揺れているー


大灯篭
大灯篭


祀神の葛城襲津彦の歌がたった一首万葉集にあり、それが荒木にも関わっています。

♪葛城の襲津彦 真弓荒木にも 頼めや君が我が名告りけむ♪   万葉集
ー葛城襲津彦が持つ弓に使う真弓の荒木のように、頼もしいあなたが、妻として私の名を告げたのでしょうか。ー

須智荒木神社の拝殿
須智荒木神社の拝殿


須智荒木神社の須智(すち)は名張郡周智郷の周智(すち)で、出自に繋がるキーです。


須智氏の拠点は伊賀国・名張郡の南端、
大和国との境に近い宇陀川流域だそうで、現在の安部田に当りと考えられます。


当社は名張の周智一族の分派が荒木に遷り、
新しく田畑を開墾し、開墾の祖を祀ったもの。
新田を開墾することを新墾治(あらきばり)とも言い、
荒木の地名は新墾治からともあります。


須智荒木神社の本殿
須智荒木神社の本殿


須智荒木神社は須知の稲置の一族の祖神である
安寧天皇の御子・師木津日子命(しきつひこ)を祀ったものとも伝わります。

師木津日子命には子が二人いました。

その一人は伊賀の須知の稲置・那婆理(なばり)の稲置・三野の稲置の祖先です。

師木津日子命は猪使連の祖ともあります。

鹿肉と猪肉は共に宍肉(ししにく)と呼ばれ、
猪使連は食肉に携わる職の宍人部の先駆けです。

荒木又右衛門の誕生地
荒木又右衛門の誕生地碑(西4kmに鍵屋の辻)

植木神社の参道①鳳凰寺跡(伊賀市・鳳凰寺)

植木神社の参道①鳳凰寺跡(伊賀市・鳳凰寺)に関する記事です。

鳳凰寺跡は平田宿の東端・植木神社の東600m
服部川右岸にある
薬師寺の境内から発掘された古代寺院の遺跡です。

伊賀街道と三重県道2号が交差する北側に鳳凰寺集落への里道があり
薬師寺、鳴塚古墳の標識があります。

鳳凰寺道標
薬師寺(鳳凰寺廃寺)、鳴塚古墳の道標

鳳凰寺廃寺は伊賀国・山田郡・竹原郷にあった古代寺院で、
寺遺跡があるのは薬師寺のみですが、現在の鳳凰寺集落一帯が寺域と見られています。

国民の祝日・山の日の参拝でしたが、
水田の先に鳳凰寺集落が見え、集落の中央にある薬師寺は国旗がたなびいていました。

遠くから目指す集落へ近づくとき感動で心が振えましたが、
日本人に埋め込めらたDNAが、たなびく国旗に共振するのでしょう。

鳳凰寺集落
鳳凰寺集落(海の日なので薬師寺に国旗)

伊賀国は7世紀には阿拝郡、伊賀郡、山田郡、名張郡の4郡に分割され、
4郡にはそれぞれ三田廃寺、財良寺跡、鳳凰寺廃寺、夏見廃寺と1寺院づつ造られました。


薬師寺
鳳凰寺廃寺の遺跡がある薬師寺


この白鳳廃寺を建立したのは
伊賀宅子娘という山田郡司(竹原連)の娘です。

伊賀宅子娘は天皇の世話をする采女として天智天皇の後宮に入り,
大化4年(648)に大友皇子を産みました。

大友皇子は天智天皇の跡を継ぎ、次期天皇を期待される皇子で、
伊賀宅子娘も、その一族たちの権力も大幅に増大していたと思います。


しかし大友皇子は弘文天皇として即位して間もなく
壬申の乱(672)で叔父の大海人皇子に敗れ首を吊って自害します。

伊賀宅子娘は郷里の大山田へ帰り、

わが子の冥福を祈って鳳凰寺廃寺を建立したといわれます。

鳳凰寺跡碑
鳳凰寺址碑と薬師寺本堂

薬師寺は鳳凰寺廃寺の跡に建てられた寺で
境内には七世紀後半・鳳凰寺廃寺の礎石跡が20余りが残っています。

鳳凰寺廃寺の規模は現在の鳳凰寺集落一帯に及び
出土した白鳳期、奈良期の古瓦から、
鳳凰寺が七堂伽藍の大寺であったことがわかりました。

鳳凰寺廃寺の礎石
鳳凰寺廃寺の礎石(薬師寺境内)

鳳凰寺軒丸瓦
鳳凰寺廃寺の軒丸瓦(素弁八葉蓮華紋)

鳳凰寺出土の甕
鳳凰寺廃寺出土の甕


建立の為の瓦は伊賀国では岩屋瓦窯、殿山瓦窯などから供給されましたが、
鳳凰寺廃寺は遠く奈良の岩屋瓦窯から運ばれたことが分かっています。

阿拝郡の寺の瓦は同じ阿拝郡の殿山瓦窯から運び
山田郡、伊賀郡、名張郡の寺は大和の岩屋瓦窯から運ばれています。

伊賀北部の阿拝郡は阿閇氏の本拠地ですが、伊賀南部は阿保氏の本拠地でした。
山田郡は遠い岩屋瓦窯から瓦を運んでいたのは、阿保氏の勢力下だったためと思います。

壬申の乱での大海人皇子の伊賀北進にあたっては
山田郡司の娘伊賀宅子娘が大友皇子の母であるため
南部の阿保氏は大海人皇子に応援できませんでした。
北部の阿拝郡の阿閇氏が見方し大友軍に勝利した為、
その後、阿閇氏が主体となり伊賀国を支配したのでしょう。

♪大海人皇子は名張の駅家を焼き、伊賀の駅家を焼き払い、
阿拝で阿閇氏が数百の兵を率いて一行に加わり勝利した。♪



古代寺院と瓦窯
古代寺院と瓦釜の分布

 

植木神社の参道③鳴塚古墳(伊賀市・鳳凰寺)

植木神社の参道③鳴塚古墳(伊賀市・鳳凰寺) に関する記事です。

鳴塚古墳は平田宿の東端・植木神社の東2KM
鳳凰寺廃寺の遺跡が出土した薬師寺の東1.5KMにある
大山田盆地では最後に築造された前方後円墳です。

植木神社東側の道に鳳凰寺、鳴塚古墳への道標がありました。

鳳凰寺道標
植木神社の東側にある道標

鳴塚古墳は白鳳廃寺(薬師寺)を越えた更に東
鳳凰寺地区の集落も途絶えた東端にあります。

鳴塚古墳がある鳳凰寺地区には76基の古墳があり、
その多くは鳳凰寺集落の東の山林や丘陵に築造されています。

鳳凰寺跡碑
鳳凰寺址碑と薬師寺本堂

鳴塚古墳(なりづか)は全長37mの前方後円墳で
山田郡司(竹原連)の娘の伊賀宅子娘の墓との伝承があります。
 

壬申の乱(672年)の後、伊賀宅子娘は郷里の大山田へ帰り、
わが子の大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を建立したといわれます。


鳴塚古墳遠景
鳴塚古墳遠景

竹原郷の首長を葬った墳墓とも考えられており、
天皇の譲位があると墓が鳴ることから鳴塚と呼ばれてきました。

竹原郷の伊賀皇子(大友皇子)を敗死させた、
天武天皇の即位に意義を唱えて鳴るのでしょう。

<鳴塚古墳>
形状:前方後円墳
築造:6世紀前半
サイズ:全長37m
出土品:乳文鏡、玉類、須恵器
被葬者:伊賀宅子娘、
竹原郷の首長

 
鳴塚標識

鳴塚標識と後円部

以前この塚に伊賀宅子娘を祭神とする鳴塚社が鎮座していました。

鳴塚社の祭事では宅子が年中緑色のお召し物だったことから
緑色の椿の葉で包んだ椿餅が振る舞われたそうです。 

IMG_9231
鳴塚古墳全景
 
6世紀前半ごろ、横穴式石室としては導入期の石室が完存しています。

鳴塚古墳石室
鳴塚古墳石室

伊賀米の収穫が近づいた8月半ばの水田はイナゴでいっぱいでした。
 

イナゴ

イナゴ


植木神社の参道⑨伊賀街道・槙野橋(伊賀市・下阿波)

植木神社の参道⑨伊賀街道・槙野橋(伊賀市・下阿波)に関する記事です。
槙野川は笠取山に源を発し、長泉寺の東で服部川左岸に注ぐ川です。


槙野橋を渡った左岸に「オオサンショウウオ」のパネルがある。
オオサンショウウオがこの当りに巣穴があり生息していたらしい。
新大仏寺前の服部川下流1km程に槙野橋があり、槙野川が服部川に注いでいます。


オオサンショウウオ
槙野橋に架かるオオサンショウウオのパネル

オオサンショウウオ幼生
オオサンショウウオの幼生


槙野橋の先にに山ノ神が3基もあります。
1月7日頃に山ノ神の祭が行われますが、
大山田は名張と同じ鍵引き神事を行う地区だ。


山ノ神が春になると里に下りてきて、田の神となるといういわれから、
1月7日の早朝に山の神のところへ行き、ウツギの枝で作った鍵を注連縄に引っ掛け、
鍵引き歌を歌い鍵を引っ張り、豊作祈願する行事です。

須原の山の神
須原の山の神


山ノ神から去ろうとしたとき槙野川の常滑滝のような景観が垣間見え足を引き止められた。
それにしてもこのボールの様に刳り抜かれた跡は一体何!!


謎は家に帰ると北海道の土石流のニュースで偶然にもすぐに分った。

今年は史上に残る猛暑日が続く異常気象で、
台風が何本も続けて北国を襲い
それで起こった石狩川の土石流の映像が全くこの写真と同じだった。


3つもの山神碑がおかれている槙野川と服部川の合流点は
山の神が怒り土石流が頻発した場所だったのかも知れない。


槙野川 (3)
常滑滝のような槙野川


昔から土石流には蛇抜けと法螺抜けがあるという。
蛇抜けは通常の土石流の報道で見られる竜が這ったような跡だ。


一般の解釈とは全く違うようだが、これが法螺抜けと直観した。

豪雨で地面に水が多くたまると地面内の水圧が高まり
カッポ、カッポと音をたて地下水が吹き上げる現象が起こる場所が山にはある。


その水圧で岩が吹き飛ばれた跡が、これでこれが法螺抜けだと思う。
水圧で飛び出した大岩が蛇抜けを起こして下流の山が崩壊する。
これが土石流の原理だろう。

槙野川 1
槙野川の法螺抜け


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