エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・泉井上神社

泉井上神社(大阪府・和泉市・府中町)

泉井上神社(大阪府・和泉市・府中町)に関する記事です。

泉井上神社はJR阪和線の和泉府中駅の東400mにあり
和泉五社総社と泉井上神社の2つの神社が鎮座しています。

和泉府中の名前の由来は至ってシンプルで、
周辺には弥生時代からの祭祀場で沢山の泉があり、
奈良時代には泉井上神社を神域として和泉国の国府・国衙が造られたためです。

和泉府中駅
和泉府中駅

和泉国は奈良時代の757年に河内国から独立して国になりました。
そのとき国府の国衙が置かれた場所が、泉井上神社の鎮座地で、
そこには和泉清水と呼ばれる霊泉が沸いていたので和泉国と命名されました。

泉井上神社の鳥居
泉井上神社の鳥居

国の重要な施設を集めた都市域を国府、
またその中心となる政務機関の役所群を国衙、
さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と定義されています。

泉井上神社の境内
泉井上神社の境内

古代日本の国司の仕事の一つが、
自分の国にある全ての神社を巡って参拝することでした。

しかしそれは大変な時間と労力が必要になるため、
国府の近くに総社を設け、一箇所だけ参拝すれば、
全て巡回したことになるようにしました。

和泉国では泉井上神社の境内に和泉五社総社を建立し
大鳥大社、泉穴師神社、聖神社、積川神社、日根神社の神を始めとし、
和泉国62座を祀りました。

和泉五社総社拝殿
和泉五社総社拝殿

和泉国分寺は、南西4-5kmの和泉市国分町におかれていました。

国分寺は国衙から離れているようにも感じますが、
河内、伊賀、丹波でもこの位は離れていました。
国分寺は国府の入口で国府の中核である国衙と間には
役人を始めとする和泉国の主要人物の住居や農地があると思います。

和泉国府への訪問客は一旦国分寺で禊をし
旅の旅の垢を落としたあと国司に対面したのでしょう。

和泉五社総社本殿
和泉五社総社本殿

泉井上神社(本社)は和泉五社総社を建立する前からあった
「和泉清水」を守護していた神社と思われます。

今は「和泉清水」は消滅し本殿脇にその名残があるのみですが、

太古からの霊水で、飲料水や農業用水としても利用されてきた貴重な資源です。

泉井上神社の拝殿
泉井上神社の拝殿

泉井上神社は和泉国・和泉郡と記される式内小社です。

祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇


和泉国には神功皇后の逸話も多く残ります。

神功皇后が三韓征伐の凱旋帰国の際に、忍態王の反乱が起こり
その制圧のため和泉国も関わったものと思われます。

泉井上神社の拝殿内部
泉井上神社の拝殿内部

和泉国府跡一体は弥生時代から古墳時代ころの集落跡の府中遺跡の一部です。

府中遺跡では、縄文時代中期前半(5000年前)の土器も出土していることから、
この頃には和泉府中駅周辺に人々が暮らし始めていたことがわかっています。

泉井上神社の周辺からは沢山の泉と水辺祭祀の跡が発掘され、
和泉国府として栄える頃には条里開発からも除外される神域として確立されていました。

泉井上神社の本殿
泉井上神社の本殿

九十九王子の11番目・井ノ口王子は当社の南800m、
井ノ口町の槙尾川に架かる柳田橋北詰に石碑が建っています。

井口王子跡
井口王子跡

泉井上神社の境内南には末社の熊野神社があります。
平安末期から鎌倉前期の熊野御幸の最盛期に、まだ湧水があったとすれば、
ここが王子社であった可能性は高いとの見方もあるようです。


熊野神社
境内社の熊野神社

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泉井上神社の参道⑨信太森葛葉稲荷神社(和泉市・葛の葉町)

泉井上神社の参道⑨信太森葛葉稲荷神社(和泉市・葛の葉町)に関する記事です。

信太森葛葉稲荷神社はJR阪和線・北信太駅の南西300mにあり、
信太森駅西口から幾つも赤鳥居が点在し神社まで導いてくれます。

信太森葛葉稲荷神社の赤鳥居
信太森神社の赤鳥居

信太森は清少納言が枕草子で♪もりは信太の森♪と称え、
古代から多くの歌人たちが和歌に詠んだ場所です。

その面影は当社の東2kmに信太山丘陵に現在も残っており、
大小多数の池沼とそれらをとりまく湿地群があり、
貴重な自然や生態系が残っています。

信太山丘陵
信太山丘陵

当時は信太山丘陵の森が信太森葛葉稲荷神社まで広がっていたものと思われ、
当社の境内には信太森の社叢が残っています。

信太森葛葉稲荷神社の社叢
信太森神社の社叢

信太森は歌舞伎・浄瑠璃で知られる葛の葉の舞台となった場所で
安倍晴明の父・安倍保名と母・葛の葉姫が出会った場所として広く知られています。

信太森葛葉稲荷神社の神門
信太森神社の神門

和銅元年(708)に元明天皇が信太森の楠の化身・白龍に神事をおこなったのが創始とされ、
その神木を御神体として信太森葛葉稲荷神社の社殿が建立されました。

祭神:宇迦御魂神、大己貴命、大宮姫命、素盞男命、猿田彦命、若宮葛ノ葉姫

信太森神社の本殿
信太森神社の本殿

朱雀天皇の御代(930~946)、安倍晴明の父・安倍保名(やすな)が、
信太森で猟師に追われた白狐を匿います。
その際にに負傷したことがきっかけで、
白狐の化身・葛の葉姫と結ばれ、童子丸(安倍晴明)を授かりました。
しかしその後、葛の葉姫は我が子に正体を知られてしまい、悲しい別れとなりました。

♪恋しくば 尋ね来て見よ  和泉なる信太の森の うらみ葛の葉♪    
葛の葉姫

葛の葉姫の歌
葛葉姫歌碑

信太森葛葉稲荷神社の神紋は「裏見の葛の葉」です。
当地は葛の生息地で境内には三葉のうち表が一枚、裏が二枚の葛が生えていました。
「うらみの葛の葉と」の「うらみ」とは「裏見」のことを表しております。

境内には和泉式部の「裏見の葛の葉」の歌碑もありました。
和泉式部は和泉国に因んだ名前で、和泉守・橘道貞の妻として和泉で暮らしたことがありました。
その道貞との夫婦生活が破綻した時の歌とされます。

♪秋風は すごく吹くとも 葛の葉の うらみがおには 見えじとぞ思ふ♪   新古今集 和泉式部
~秋風が吹いても夫は帰ってきませんが、葛の葉のように恨み顔(裏見)は見せません~ 

信太森葛葉稲荷神社の神紋2
信太森神社の神紋「裏見の葛の葉」

神木の楠で樹齢2000年とも伝わります。
「千枝の楠」と言われ枝が四方に繁茂し、
幹が2本に分かれていることから夫婦楠とも呼ばれています。

左の枝は昭和58年に折れたそうで、そこに2匹の白蛇の亡骸があったので
楠木龍王二柱大神として境内に祀ったそうです。


信太森葛葉稲荷神社の楠
信太森神社の神木(樹高21m、幹周り11m)

姿見の井戸は白狐が葛の葉姫に化身したとき、鏡の替わりに姿を映した井戸です。

姿見の井戸
姿見の井戸

江戸時代の風景
信太森の江戸時代の風景


泉井上神社の参道⑧池上曽根遺跡(泉大津市・曽根町~和泉市・池上町)

泉井上神社の参道⑧池上曽根遺跡(泉大津市・曽根町~和泉市・池上)に関する記事です。

池上曽根遺跡はJR阪和線の信太山駅の西600Mにある
弥生時代の環濠集落遺跡です。

60万㎡に達する大集落遺跡で、
弥生時代前期から後期(BC300年~AD200年)まで営まれしたが
その後は利用されませんでした。

後方には大阪湾が迫り、信太山丘陵からも2kmと近く、
海と山に挟まれた豊かな土地であったようです。

遺跡周辺では、樫などの広葉樹の森や、芦・ススキなどの湿地草原が広がっており、
遺跡の北西側には水田を開墾していたものと見られます。

池上曽根遺跡鳥瞰図
池上曽根遺跡中核部

集落は祭り、生産、居住の用途によって整然と区分けされています。

池上曽根遺跡の中核には巨大な高床建物と大井戸に代表される祭祀場(祭りの場)があり、
それを囲むよう金属工房(生産の場)が設けられています。
集落は2重の環濠で囲まれ、その周辺には最大時200軒もの住宅域が密集しています。

池上曽根遺跡全体像
池上曽根遺跡中心部遠景(左は生産の場、右は祭りの場)

高床建物は80畳を誇る弥生時代最古最大の神殿です。
3度修復されて100年以上同じ場所に建っており
弥生時代初期から強力な首長がいたと思われます。

大井戸は神殿の中央前に掘られた井戸で、
遠くからでも良く目立つ大きさ、配置になっており
神殿で行われた儀式の最重要の施設と思えます。

井戸から大量の水を汲んで豊作を祈る
水辺祭祀のような事が行われていたのかも知れません。

いずみの高殿
高床建物と大井戸


高床建物屋根内部
高床建物の屋根内部(中央2本の柱が屋根裏まで突き抜ける)

高床建物は地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物で、
26本の柱で構成されていました。
直径60cmもある当時の柱の根元が17本も残されていました。

年輪年代法による鑑定で大型建物の檜柱が紀元前52年に伐切されたことが分かり
弥生時代の実際の年代が初めて明確にされたのも池上曽根遺跡の成果の一つです。

高床建物の形状は土器に描かれていた切妻屋根の建物の模様をもとに、
全体の形が決められました。

掘立柱
掘立柱(左:復元品、右:出土品)

大井戸は、直径2.3mの大楠を刳りぬいて井筒にしており、
刳りぬき井戸としてはわが国最大のものです。
発掘されたときも水が湧いており、二千年間も生き続けてきた井戸です。

やよいの大井戸
大井戸(左:復元品、右:出土品)

神殿周囲には石器や土器を埋めた「祭りの場」がつくられ、
ものづくりを重要視した人達が暮らしていた集落と思われます。

祭祀の痕跡を示すサヌカイト埋納施設がありました。
サヌカイトは2万年前の旧石器時代から弥生時代まで
武器や農具として使用された貴重な石で、それを埋納して祭ったものです。

サヌカイトの埋納
サヌカイトの埋納


鋭利な刃物に加工できるサヌカイトは讃岐岩と呼ばれる
香川県坂出市や奈良県の二上山周辺で採取される硬質の岩石です。
現地で加工して、集落まで運んで余剰品は埋めて保管していました。
弥生時代になると実用ではなく、祭祀としての埋納が多いようです。

石槍や石鏃などは石で打ち砕いてつくり、石斧・石包丁などは砥石で磨いて鋭利にしました。

サヌカイトの加工
サヌカイトの加工(石で打ち砕く)


石器埋納施設
石器埋納施設

祭りの場と生産の場の境界付近には蛸壺が埋納されていました。
当時は海岸も近く、海産物は池上曽根遺跡に暮らした住民にって重要な食べ物でした。

蛸壺の穴に縄を通して蛸壺を複数繋げて沢山のイイダコを漁獲していたようです。
イイダコの他にもタイ・ハモ・スズキそれに猛毒のフグも調理していたことが分りました。

蛸壺
左がイイダコの蛸壺、右が漁網の錘

祭りの場の南には住居が一切存在せず、火を使う施設と作業小屋があり、
内部には青銅器や鉄器を作っていた当時の工房の跡も見つかりました。

池上曽根遺跡の発展の一翼を担ったと考えられる金属器製作工房は、
祭祀場の周辺に配置されていました。

生産の場
生産の場(金属器の製作工房)

金属製品には銅鐸、鉄鐸などの言葉がありますが弥生時代には銅鐸が盛んに製造されました。

鐸という文字で’さなぎ’と読ませますが、
銅鐸の鋳型の中から美しい銅鐸が出てくる様子は
蛹の中から美しい蝶や蝉が現れる様子に酷似していることからです。

銅鐸鋳型2
銅鐸の製造(左:銅鐸鋳型 右:銅鐸)

環濠の周辺では、おびただしい数の竪穴住居が見つかりましたが、
発掘された資料を元に丸い竪穴住居と四角い竪穴住居の2棟を復元しています。

竪穴住居とは、当時一般の人々が暮らしていた住居です。
地面に大きな穴を掘り、木で組んだ枠に屋根をかけた建物で、
数万年前に考案され、鎌倉時代まで使われていました。

環濠と竪穴住居(右が矩形、左が丸型) (2)
環濠の内に竪穴住居(右が四角、左が丸)

食器の分析から弥生人は日常は稗や粟に米を混ぜた雑炊を食べ
祭りの日には蒸した米を高坏にもって食べたと想像されます。

現在でも祝日には餅米を加えた米を蒸しておこわや赤飯を食べる風習がありますが、
こうした風習は弥生時代から存在した可能性があります。

竪穴住居内部
竪穴住居の食事風景

弥生時代になっても縄文時代の主食であった団栗なども各地の遺跡から出土しています。
縄文以来の伝統食である団栗ダンゴなども依然、食べられていたことが窺えます。

米は不作の時もあるから色々な備えが必要でしょうね。

ドングリの保存
保存食・団栗

環濠からは多量の土器・石器や獣骨、農工具を中心とした木製品出土しました。
その中に鳥をかたどった木製品がありました。
遺跡公園では神殿の屋根の木の鳥を飾っていますが、
実際は集落外周の環濠付近の門に設置し魔よけをしていたものと思われます。

鳥の魔除けを設置した門が鳥居の原型で後に鳥が省略されたようです。
 
鳥形木製品
鳥の魔除け(左:出土品、右:復元品)

また、濠の中から、豚の下顎の骨がまとまって出ています。
古来、中国ではブタが魔除けの象徴として崇められてきました。
豚は、恐怖の象徴であって、豚の頭骨や下顎骨で、
邪悪を退け死者の霊・魂を護るそうです。

墓に入れた豚小屋の模型
墓に入れた豚小屋の模型(中国)


泉井上神社の参道⑪旧府神社(和泉市・尾井町)

泉井上神社の参道⑪旧府神社(和泉市・尾井町)に関する記事です。

旧府神社(ふるふ)はJR阪和線の北信太駅東口の南600m、
小栗街道(熊野街道)の西30mを南北に走る小道沿いにあります。

注)大阪府道30号は熊野街道(小栗街道)の一部を継承する路線で、阪和線と並走。

旧府神社の社叢
旧府神社の社叢

旧府神社は和泉国・和泉郡・鍬と記される舊府神社に比定される式内小社です。
小さな神社ですが、葛葉姫を始めとする色々な伝承を持つ素敵な神社でした。

祭神:素盞嗚命

旧府神社の境内
旧府神社の境内

旧府神社には、神功皇后の行宮所の小竹宮(しののみや)に由来するとの説があります。
信太(しのだ)の旧表記が小竹田(しのだ)で、
神功皇后の小竹宮から派生したものとする説です。
当社より南の伯太神社、泉井上神社にも皇后巡行の伝承があります。

旧府神社の拝殿
旧府神社の拝殿

忍熊王の反乱に合った神功皇后が、攻撃に出る為に小竹宮に入られると、
何日も夜のような暗さが続いたとされます。
このような変事は二人の神官を合葬をしたために起こった
阿豆那比の罪(あずなひ)と呼ばれるそうです。

♪小竹祝・天野祝という仲の良い二人の神官がいたのだが、小竹祝が病死します。
これを悲しんだ天野祝が、小竹祝の亡骸の傍で亡くなり、
一緒に葬ったことがあったそうです。
墓を開けて棺に納めなおし、別々に葬ると、昼が戻ったそうです♪

旧府神社の本殿
旧府神社の本殿

旧府神社の境内社には「白狐化石」を神体とする若宮社があります。

漁師に追われた白狐が逃れるために化けた石とされ、
元々小栗街道沿いにあったものがここに遷されたそうです。

若宮社(白狐化石)1
若宮社「白狐化石」1


若宮社(白狐化石)2
若宮社「白狐化石」2


泉井上神社の参道⑩聖神社(和泉市・王子町)

泉井上神社の参道⑩聖神社(和泉市・王子町)に関する記事です。

聖神社(ひじり)はJR阪和線の北信太駅の南1.5km、
聖神社の一の鳥居が熊野街道(小栗街道)沿いにあります。

安倍晴明はこの聖神社を創建した渡来人・信太首に天文学を教わり陰陽師になりました。

聖神社の一の鳥居
聖神社の一の鳥居


聖神社の境内に入ると昆虫トラップ禁止の張り紙が沢山貼られていましたが、
今でも多くの生物が生息している神域であることが良く分かりました。

古くは聖神社の境内一帯は「信太の森」、当社は「信太明神」とも呼ばれていたそうです。

陰陽師の安倍晴明の出自を物語る「葛葉伝説」の中では、
この「信太の森」で晴明の父・保名と母・葛之葉が出会った場所とされます。

聖神社の二の鳥居
聖神社の二の鳥居

聖神社は和泉国・和泉郡・鍬と記される式内小社で、
泉井上神社を総社とする和泉五社にも選ばれています。

和泉五社とは1大鳥大社、2泉穴師神社、3聖神社、4積川神社、5日根神社

聖神社境内
聖神社の境内

聖神社の創建は白鳳3年(675)で、天武天皇の勅願により
百済系渡来人の信太首(しのだ・おびと)が聖大神・信太明神を祀ったものとされます。

祭神:聖大神

聖大神は古事記に登場する穀物神である大年神の御子神です。
「ひじり」は「日知り」で、太陽の位置を知り、暦を理解している聖大神は農業に必須の神です。

聖神社の拝殿
聖神社の拝殿

北助松駅から山側へ延びる中和泉街道 は「布引の道」と呼ばれています。  
「布引」の名は、聖大神が海を渡って渡来し、助松の浜から上がってこられる際に、
信太郷まで布を引いたためその名がついたためと伝わっています。

聖神社の本殿1
聖神社の本殿1

聖大神は渡来氏族の陰陽師・信太首が信仰していた神でもあります。

ここまできて「葛葉伝説」の意味が私にもやっと分かりました。
陰陽師
・安倍晴明の母である葛葉姫は信太首一族の女だったのです。
信太首が安倍晴明に天文学などの科学を教えて陰陽師に育てあげたのです。

聖神社の本殿
聖神社の本殿2

江戸時代には聖神社の氏子達は暦製造の特権を許されたとされますが、
渡来系陰陽師・信太首の天文学を引き継いだものともいえます。

末社三神社
末社三神社

平岡神社
平岡神社


泉井上神社の参道⑮篠田王子(和泉市・王子町)

泉井上神社の参道⑮篠田王子(和泉市・王子町)に関する記事です。


篠田王子跡はJR阪和線の北信太駅の南770m、
熊野街道(小栗街道)沿いにある聖神社の一の鳥居を潜らずに
画面右に少し入った路地にあります。

聖神社の鎮座地の王子町の地名は、篠田王子があったことに由来するもので、
一の鳥居近くに篠田王子跡碑が建っていました。

聖神社の一の鳥居
聖神社の一の鳥居

篠田王子は、九十九王子の9番目の神社で
和泉市内には、篠田(信田)、平松、井口(茶井)の3王子があります。
篠田王子は明治42年(1909)に葛葉稲荷に合祀され現存していません。

建仁元年(1201)、後鳥羽上皇が熊野詣を行い
ここ篠田王子で禊ぎを行った後、聖神社に参拝しています。
歌人の藤原定家が付き添い道中を詳細に記録しています。

篠田王子跡1
篠田王子跡碑

因みに後鳥羽上皇は全部で28回もの熊野詣を行い、
このときが第4回目で、往復に22日を要したそうです。
これを10ヶ月に1回という驚異的なペースで繰り返したことになりますが、
単なる道楽では無く、政治的な密談等も行われていたようです。

熊野詣の途上、王子社では、白拍子・馴子舞・里神楽・相撲などの芸能が演じられたそうで
和歌に熱心だった後鳥羽上皇の時は和歌の会が催されたそうです。

後鳥羽上皇の28回目の熊野詣は、承久の乱勃発の3ヶ月前で、
熊野の衆徒の応援にもかかわらず後鳥羽上皇は鎌倉幕府に敗れ隠岐に流されます。
これにより院生政権は崩壊し、熊野御幸は終焉に向かいます。

篠田王子跡2
篠田王子2


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泉井上神社の参道⑦曽彌神社(泉大津市・曽根町)

泉井上神社の参道⑦曽彌神社(泉大津市・曽根)に関する記事です。

曽彌神社はJR阪和線信太山駅の西800m、
弥生時代の環濠集落、「池上曽根遺跡」の西側にあります。

池上曽根遺跡の中からも曽彌神社の社叢がよく見えます。

曽彌神社の社叢2
曽彌神社の社叢(池上曽根遺跡の高床建物の左)

鎮座地の曽根町は古代曽根連の名に因むもので、
天武天皇四年(675)に曽根連が祖神の饒速日命を祀ったのが創始です。

古代氏族の曽根連は曽根造/曽根宿禰などと表記される物部氏の一族です。
饒速日命の六世孫伊香色雄命の後裔、あるいは采女臣同祖とされます。

曽彌神社の鳥居
曽彌神社の鳥居

曽彌神社の境内
曽彌神社の境内

曽彌神社は和泉国・和泉郡鎮座とされる式内小社で
神位は従四位上、社格は村社です。

祭神 :饒速日命、伊香我色雄命
合祀:二田物部神

曽彌神社の拝殿
曽彌神社の拝殿

曽彌神社の拝殿2
曽彌神社の拝殿2


曽彌神社の境内には二田物部神を祀っていた二田国津神社の碑があります。
明治42年の神社合併で曽根町の西隣・二田町(ふつた)からの合祀です。

二田物部氏は饒速日命の天降りに供奉(ぐぶ)した「天物部等25部人」の筆頭に記載が見え、
曽根連は二田造の後裔とも考えられます

二田町の地名は二田物部氏によるもので、
二田古池公園の南古池は、二田物部が掘ったとされる池です。

曽彌神社の本殿
曽彌神社の本殿

乙巳の変の4年後の大化5年(649)、
孝徳紀の大化五年三月条に、「物部二田造塩」の名が見えます。

蘇我石川麻呂は異母弟の蘇我日向の讒言により、自殺に追い込まれましたが、
このとき石川麻呂の遺体の首を斬り落としたのが二田造塩でした。


中大兄皇子の妃の遠智娘は父の石川麻呂が物部二田造塩に斬り刻まれたと聞いて、
傷心して悲しみ悶え泣きました。
遠智娘に従事する者は塩の名を口にすることを忌み嫌って、改めて堅塩(きたし)と言いました。
しかし遠智娘は傷心して死んでしまいます。


二田国津社の碑
二田国津社の碑


泉井上神社の参道⑱和泉黄金塚古墳(和泉市・上代町)

泉井上神社の参道⑱和泉黄金塚古墳(和泉市・上代町)に関する記事です。

和泉黄金塚古墳はJR和歌山線・富木駅の南1.3km
泉北クリーンセンターの東側にある
和泉地方を代表する古墳時代前期の前方後円墳です。

三体合葬、景初三年銘鏡、巴形銅器を付けた盾などで一世を風靡した古墳ですが、
実際に行って見ると道標は皆無で、やっと辿り着いた墳丘には柵があり、
歓迎されていない感じでした。

和泉金剛塚古墳
和泉金剛塚古墳

和泉黄金塚古墳は太平洋戦争の時、陸軍の軍事施設として塹壕が縦横無尽に掘られ、
今もその跡が残ります。
昭和20年、当時17才だった森浩一氏が塹壕跡に遺物が露出しているのを知り、
末永雅雄博士と緊急調査をしたことに端を発し本格的発掘が始まりました。

<和泉黄金塚古墳>
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長94m、後円部径57m
築造時期:4世紀後半
出土品  :銅鏡、革製漆塗盾、勾玉、鉄鏃
埋葬施設:3基の粘土槨
被葬者   :中央は女性の司祭者
       東は成人男性の首長
       西は男性の武人

和泉黄金塚実測図
和泉黄金塚古墳実測図

万葉集にも歌われた風光明媚な場所ですが、取石池は埋め立てられて消滅しています。
墳丘の奥に煙突が見えますがこれが泉北クリ-ンセンターのもので、ここが取石池(とろす)でした。

♪妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし♪  万葉集

和泉黄金塚後円墳丘
後円部墳丘

和泉黄金塚古墳は信太山丘陵の北西端に築かれた古墳で、
海抜30m、後円部は40mの高さで
視界を遮るものは無く、360度の展望は爽快そのものでした。

道標もなく、柵で囲まれた古墳への疎外感も吹き飛んで、
秋風の中、暫し絶景を堪能しました。

和泉黄金塚後円部墳頂
後円部墳丘

信太山丘陵は4世紀末からその斜面に窯をきずいて須恵器の生産が行われた地です。
初期の須恵器は黄金塚の東南地帯で生産されており、
被葬者たちも関わっていたと思われます。

日本書紀に書かれた茅渟県陶邑は泉北丘陵一帯に及ぶもので信太山はその西にあたります。
茅渟県陶邑では1000基もの数の窯が築かれ須恵器が焼かれました。

和泉黄金塚後円部墳頂2
後円部墳丘

後円部から粘土槨に木棺を納めた埋葬施設3基(中央槨・東槨・西槨)が発見されました。

中央槨の人物を葬るために古墳が築かれ、
その後、左右に穴を掘って東槨・西槨の二人が葬られたようです。

遺出物、歯牙の分析などから中央槨は女性、東槨・西槨は男性と推察されています。
中央槨は装飾品(頸飾り、腕飾り、腰飾り)を装着したままで埋葬されています。

後円部粘土槨
後円部の粘土槨

中央槨の棺外から出土した画文帯四神四獣鏡には、景初三年(239年)の銘があり
卑弥呼の鏡とも騒がれました。
しかし古墳の築造時期は四世紀半ばから後半とされており百年以上の差があります。
鏡は日本で鋳造されたものとの見方もあります。

景初三年銘 画文帯神獣鏡
景初三年銘の画文帯神獣鏡

東槨では盾の表面につけた巴形銅器が3個発見されました。
これにより、それまで不明だった巴形銅器の用途が、盾の装飾品と判明しました。

盾は中央槨に向かい立てかけてあり、これにより中央槨が最初に造られ
その後、その東側を掘ったために壁ができ立てかけたものと推察されます。

巴形銅器3個が着いた革製漆塗盾
巴形銅器

中央槨の棺内からは銅鏡1枚と
勾玉、棗玉、管玉、石釧、車輪石などの装飾品類の他に
杖の上端か下端に嵌め込まれたものと思われる類例の無い水晶製筒型製品が見つかりました。

装飾品
杖に付けた水晶製品(上の穴に杖を刺した)

この被葬者たちは池上曽根集落などの元かた居住した弥生人の後裔なのか、
あるいは西からきた侵略者なのか気になるところです。

崇神8年に大規模な疫病がはやり、大和の国土が荒廃した時、
堺の陶邑
太田田根子探しあて、
大和の
三輪山神主として、大物主を祀らせました。

このことから陶邑周辺は池上曽根集落などの大物主を信仰する
弥生人が生き残っていたものと夢想しています。


泉井上神社の参道⑬伯太神社(和泉市・伯太町)

泉井上神社の参道⑬伯太神社(和泉市・伯太町)に関する記事です。

伯太神社はJR阪和線・信太山駅の南東約500m
信太山丘陵の西麓に位置します。

伯太神社前の街道を上り続ければ小栗街道と交差し
その先には境外摂社の丸笠神社があり一体は伯太陣屋があった場所です。

伯太神社の鳥居
伯太神社の鳥居

伯太神社は和泉国・和泉郡鎮座とされる博多神社に比定される式内小社で、
白鳳2年(673)の創建とされます。

祭神:応神天皇、比売神、伯太比古命、伯太比売命
合祀:天照大神、小竹祝丸、天野祝丸、熊野大神、菅原道真、天児屋根命

伯太神社の拝殿
伯太神社の拝殿

伯太は博多とも表記され、伯太の地名は伯太神社の祭神伯太比古、伯太比売に由来します。

河内国分寺付近には同じ伯太比古・比売を祀る伯太彦神社伯太姫神社があますが、
田辺史の祖人である伯孫(ふひと・はくそん)とその妻とされます。
田辺史氏は伯太首とする説もあり、伯太氏は田辺史氏の同族で百済系渡来人ともあります。

伯太神社の拝殿
伯太神社の拝殿

伯太比古・伯太比売の命は、伯太族の祖神であり、
伯太族は、藤原不比等を養子として育てた氏族とも言われます。

藤原氏の黄金時代の基盤を造った藤原不比等は
壬申の乱の後、天智天皇の皇子ということで、
山科の田辺史大隅の家で養われていたとの説があります。

田辺史大隅は百済系史官で、
百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうそうです。

田辺史(ふひと)と同じ名前を貰った不比等は、
この時代の文化繁栄に多大な力を持った百済系史官に養育されたのです。

伯太神社の本殿
伯太神社の本殿

伯太神社の向かいには明治初年までは伯太神社の神宮寺だった新宮山龍雲寺があります。

寛治年間(1087-94)に白河法皇が熊野行幸をした時に脳を患い、
伯太から遙か彼方の熊野山に向かい全快治癒の祈念をしたところ、
飛竜降臨の前兆を感じたため、この地に那智の飛龍権現の分霊を勧請したそうです。

新宮山龍雲寺
新宮山龍雲寺


泉井上神社の参道⑭丸笠神社(和泉市・伯太町)

泉井上神社の参道⑭丸笠神社(和泉市・伯太町)に関する記事です。

丸笠神社は信太山駅前の道を東へ1.1km、
街道沿いに参道があり石鳥居と丸笠山古墳の標石があります。

その前の道に入って迷いましたが、街道を真っ直ぐいけばこの鳥居があります。

丸笠神社の鳥居
丸笠神社の鳥居

石鳥居を潜るとすぐに丸笠神社が守護する丸笠山・丸笠古墳が眼前に現れ
細い参道が昼なお暗い森の中へと続きます。

荒れた小道で中に入るのには少し勇気が必要です。

丸笠古墳遠景
丸笠古墳遠景

森のなかにはいるとロープの境界があり、
丸笠山古墳の標識と「丸笠山古墳は伯太神社の神域です。・・・」の立て札があります。


よく見ると丸笠神社へ通じる道があるので、
ロープ沿いに行かないで更に奥へ進んでください。

丸笠古墳標石
丸笠古墳の標石

丸笠神社は和泉国・和泉郡鎮座とされる式内小社です。

丸笠山古墳の前方部に拝所があり、本殿は設けず、
直接古墳を祀る古代の祭祀形式を取った神社です。

丸笠神社の祠1
丸笠神社の祠1


丸笠山古墳は4世紀に築かれた95mの前方後円墳で、
泉州最大の信太千塚古墳群の一つです。

これらの古墳は茅渟県主一族や
壬申の乱で功を立てた、古代氏族坂本氏の家族墓と想定されています。

茅渟は和泉国の沿岸の古称で、現在の大阪湾の東部、
堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯です。
5世紀の雄略天皇の頃から茅渟県主と云う有力豪族がこの地に存在していました。

坂本氏は紀氏の同族で天武天皇側にたって戦い、
河内から大和に来る敵を防ぎましたが結局敗れたとあります。

丸笠神社の祠2
丸笠神社の祠2

丸笠神社の前に後円部の高まりがあり、墳丘上に白い椅子が置かれていました。
目印の様でした。

三方には濠の名残とされる溜池が残っていますが、
周囲は住宅地開発の工事中で、その中核部に位置する古墳でした。

<丸笠山古墳>
形状:前方後円墳
サイズ:全長95m
築造時期:4世紀末
土品:埴輪類
被葬者:茅渟県主一族、坂本氏


丸笠古墳墳丘
丸笠古墳の後円部墳丘


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