エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@泉井上神社

泉井上神社(大阪府・和泉市・府中町)

泉井上神社(大阪府・和泉市・府中町)に関する記事です。

泉井上神社はJR阪和線の和泉府中駅の東400mにあり
和泉五社総社と泉井上神社の2つの神社が鎮座しています。

和泉府中の名前の由来は至ってシンプルで、
周辺には弥生時代からの祭祀場で沢山の泉があり、
奈良時代には泉井上神社を神域として和泉国の国府・国衙が造られたためです。

和泉府中駅
和泉府中駅

和泉国は奈良時代の757年に河内国から独立して国になりました。
そのとき国府の国衙が置かれた場所が、泉井上神社の鎮座地で、
そこには和泉清水と呼ばれる霊泉が沸いていたので和泉国と命名されました。

泉井上神社の鳥居
泉井上神社の鳥居

国の重要な施設を集めた都市域を国府、
またその中心となる政務機関の役所群を国衙、
さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と定義されています。

泉井上神社の境内
泉井上神社の境内

古代日本の国司の仕事の一つが、
自分の国にある全ての神社を巡って参拝することでした。

しかしそれは大変な時間と労力が必要になるため、
国府の近くに総社を設け、一箇所だけ参拝すれば、
全て巡回したことになるようにしました。

和泉国では泉井上神社の境内に和泉五社総社を建立し
大鳥大社、泉穴師神社、聖神社、積川神社、日根神社の神を始めとし、
和泉国62座を祀りました。

和泉五社総社拝殿
和泉五社総社拝殿

和泉国分寺は、南西4-5kmの和泉市国分町におかれていました。

国分寺は国衙から離れているようにも感じますが、
河内、伊賀、丹波でもこの位は離れていました。
国分寺は国府の入口で国府の中核である国衙と間には
役人を始めとする和泉国の主要人物の住居や農地があると思います。

和泉国府への訪問客は一旦国分寺で禊をし
旅の旅の垢を落としたあと国司に対面したのでしょう。

和泉五社総社本殿
和泉五社総社本殿

泉井上神社(本社)は和泉五社総社を建立する前からあった
「和泉清水」を守護していた神社と思われます。

今は「和泉清水」は消滅し本殿脇にその名残があるのみですが、

太古からの霊水で、飲料水や農業用水としても利用されてきた貴重な資源です。

泉井上神社の拝殿
泉井上神社の拝殿

泉井上神社は和泉国・和泉郡と記される式内小社です。

祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇


和泉国には神功皇后の逸話も多く残ります。

神功皇后が三韓征伐の凱旋帰国の際に、忍態王の反乱が起こり
その制圧のため和泉国も関わったものと思われます。

泉井上神社の拝殿内部
泉井上神社の拝殿内部

和泉国府跡一体は弥生時代から古墳時代ころの集落跡の府中遺跡の一部です。

府中遺跡では、縄文時代中期前半(5000年前)の土器も出土していることから、
この頃には和泉府中駅周辺に人々が暮らし始めていたことがわかっています。

泉井上神社の周辺からは沢山の泉と水辺祭祀の跡が発掘され、
和泉国府として栄える頃には条里開発からも除外される神域として確立されていました。

泉井上神社の本殿
泉井上神社の本殿

九十九王子の11番目・井ノ口王子は当社の南800m、
井ノ口町の槙尾川に架かる柳田橋北詰に石碑が建っています。

井口王子跡
井口王子跡

泉井上神社の境内南には末社の熊野神社があります。
平安末期から鎌倉前期の熊野御幸の最盛期に、まだ湧水があったとすれば、
ここが王子社であった可能性は高いとの見方もあるようです。


熊野神社
境内社の熊野神社

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泉井上神社の参道⑨信太森葛葉稲荷神社(和泉市・葛の葉町)

泉井上神社の参道⑨信太森葛葉稲荷神社(和泉市・葛の葉町)に関する記事です。

信太森葛葉稲荷神社はJR阪和線・北信太駅の南西300mにあり、
信太森駅西口から幾つも赤鳥居が点在し神社まで導いてくれます。

信太森葛葉稲荷神社の赤鳥居
信太森神社の赤鳥居

信太森は清少納言が枕草子で♪もりは信太の森♪と称え、
古代から多くの歌人たちが和歌に詠んだ場所です。

その面影は当社の東2kmに信太山丘陵に現在も残っており、
大小多数の池沼とそれらをとりまく湿地群があり、
貴重な自然や生態系が残っています。

信太山丘陵
信太山丘陵

当時は信太山丘陵の森が信太森葛葉稲荷神社まで広がっていたものと思われ、
当社の境内には信太森の社叢が残っています。

信太森葛葉稲荷神社の社叢
信太森神社の社叢

信太森は歌舞伎・浄瑠璃で知られる葛の葉の舞台となった場所で
安倍晴明の父・安倍保名と母・葛の葉姫が出会った場所として広く知られています。

信太森葛葉稲荷神社の神門
信太森神社の神門

和銅元年(708)に元明天皇が信太森の楠の化身・白龍に神事をおこなったのが創始とされ、
その神木を御神体として信太森葛葉稲荷神社の社殿が建立されました。

祭神:宇迦御魂神、大己貴命、大宮姫命、素盞男命、猿田彦命、若宮葛ノ葉姫

信太森神社の本殿
信太森神社の本殿

朱雀天皇の御代(930~946)、安倍晴明の父・安倍保名(やすな)が、
信太森で猟師に追われた白狐を匿います。
その際にに負傷したことがきっかけで、
白狐の化身・葛の葉姫と結ばれ、童子丸(安倍晴明)を授かりました。
しかしその後、葛の葉姫は我が子に正体を知られてしまい、悲しい別れとなりました。

♪恋しくば 尋ね来て見よ  和泉なる信太の森の うらみ葛の葉♪    
葛の葉姫

葛の葉姫の歌
葛葉姫歌碑

信太森葛葉稲荷神社の神紋は「裏見の葛の葉」です。
当地は葛の生息地で境内には三葉のうち表が一枚、裏が二枚の葛が生えていました。
「うらみの葛の葉と」の「うらみ」とは「裏見」のことを表しております。

境内には和泉式部の「裏見の葛の葉」の歌碑もありました。
和泉式部は和泉国に因んだ名前で、和泉守・橘道貞の妻として和泉で暮らしたことがありました。
その道貞との夫婦生活が破綻した時の歌とされます。

♪秋風は すごく吹くとも 葛の葉の うらみがおには 見えじとぞ思ふ♪   新古今集 和泉式部
~秋風が吹いても夫は帰ってきませんが、葛の葉のように恨み顔(裏見)は見せません~ 

信太森葛葉稲荷神社の神紋2
信太森神社の神紋「裏見の葛の葉」

神木の楠で樹齢2000年とも伝わります。
「千枝の楠」と言われ枝が四方に繁茂し、
幹が2本に分かれていることから夫婦楠とも呼ばれています。

左の枝は昭和58年に折れたそうで、そこに2匹の白蛇の亡骸があったので
楠木龍王二柱大神として境内に祀ったそうです。


信太森葛葉稲荷神社の楠
信太森神社の神木(樹高21m、幹周り11m)

姿見の井戸は白狐が葛の葉姫に化身したとき、鏡の替わりに姿を映した井戸です。

姿見の井戸
姿見の井戸

江戸時代の風景
信太森の江戸時代の風景




泉井上神社の参道⑧池上曽根遺跡(泉大津市・曽根町~和泉市・池上町)

泉井上神社の参道⑧池上曽根遺跡(泉大津市・曽根町~和泉市・池上)に関する記事です。

池上曽根遺跡はJR阪和線の信太山駅の西600Mにある
弥生時代の環濠集落遺跡です。

60万㎡に達する大集落遺跡で、
弥生時代前期から後期(BC300年~AD200年)まで営まれしたが
その後は利用されませんでした。

後方には大阪湾が迫り、信太山丘陵からも2kmと近く、
海と山に挟まれた豊かな土地であったようです。

遺跡周辺では、樫などの広葉樹の森や、芦・ススキなどの湿地草原が広がっており、
遺跡の北西側には水田を開墾していたものと見られます。

池上曽根遺跡鳥瞰図
池上曽根遺跡中核部

集落は祭り、生産、居住の用途によって整然と区分けされています。

池上曽根遺跡の中核には巨大な高床建物と大井戸に代表される祭祀場(祭りの場)があり、
それを囲むよう金属工房(生産の場)が設けられています。
集落は2重の環濠で囲まれ、その周辺には最大時200軒もの住宅域が密集しています。

池上曽根遺跡全体像
池上曽根遺跡中心部遠景(左は生産の場、右は祭りの場)

高床建物は80畳を誇る弥生時代最古最大の神殿です。
3度修復されて100年以上同じ場所に建っており
弥生時代初期から強力な首長がいたと思われます。

大井戸は神殿の中央前に掘られた井戸で、
遠くからでも良く目立つ大きさ、配置になっており
神殿で行われた儀式の最重要の施設と思えます。

井戸から大量の水を汲んで豊作を祈る
水辺祭祀のような事が行われていたのかも知れません。

いずみの高殿
高床建物と大井戸


高床建物屋根内部
高床建物の屋根内部(中央2本の柱が屋根裏まで突き抜ける)

高床建物は地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物で、
26本の柱で構成されていました。
直径60cmもある当時の柱の根元が17本も残されていました。

年輪年代法による鑑定で大型建物の檜柱が紀元前52年に伐切されたことが分かり
弥生時代の実際の年代が初めて明確にされたのも池上曽根遺跡の成果の一つです。

高床建物の形状は土器に描かれていた切妻屋根の建物の模様をもとに、
全体の形が決められました。

掘立柱
掘立柱(左:復元品、右:出土品)

大井戸は、直径2.3mの大楠を刳りぬいて井筒にしており、
刳りぬき井戸としてはわが国最大のものです。
発掘されたときも水が湧いており、二千年間も生き続けてきた井戸です。

やよいの大井戸
大井戸(左:復元品、右:出土品)

神殿周囲には石器や土器を埋めた「祭りの場」がつくられ、
ものづくりを重要視した人達が暮らしていた集落と思われます。

祭祀の痕跡を示すサヌカイト埋納施設がありました。
サヌカイトは2万年前の旧石器時代から弥生時代まで
武器や農具として使用された貴重な石で、それを埋納して祭ったものです。

サヌカイトの埋納
サヌカイトの埋納


鋭利な刃物に加工できるサヌカイトは讃岐岩と呼ばれる
香川県坂出市や奈良県の二上山周辺で採取される硬質の岩石です。
現地で加工して、集落まで運んで余剰品は埋めて保管していました。
弥生時代になると実用ではなく、祭祀としての埋納が多いようです。

石槍や石鏃などは石で打ち砕いてつくり、石斧・石包丁などは砥石で磨いて鋭利にしました。

サヌカイトの加工
サヌカイトの加工(石で打ち砕く)


石器埋納施設
石器埋納施設

祭りの場と生産の場の境界付近には蛸壺が埋納されていました。
当時は海岸も近く、海産物は池上曽根遺跡に暮らした住民にって重要な食べ物でした。

蛸壺の穴に縄を通して蛸壺を複数繋げて沢山のイイダコを漁獲していたようです。
イイダコの他にもタイ・ハモ・スズキそれに猛毒のフグも調理していたことが分りました。

蛸壺
左がイイダコの蛸壺、右が漁網の錘

祭りの場の南には住居が一切存在せず、火を使う施設と作業小屋があり、
内部には青銅器や鉄器を作っていた当時の工房の跡も見つかりました。

池上曽根遺跡の発展の一翼を担ったと考えられる金属器製作工房は、
祭祀場の周辺に配置されていました。

生産の場
生産の場(金属器の製作工房)

金属製品には銅鐸、鉄鐸などの言葉がありますが弥生時代には銅鐸が盛んに製造されました。

鐸という文字で’さなぎ’と読ませますが、
銅鐸の鋳型の中から美しい銅鐸が出てくる様子は
蛹の中から美しい蝶や蝉が現れる様子に酷似していることからです。

銅鐸鋳型2
銅鐸の製造(左:銅鐸鋳型 右:銅鐸)

環濠の周辺では、おびただしい数の竪穴住居が見つかりましたが、
発掘された資料を元に丸い竪穴住居と四角い竪穴住居の2棟を復元しています。

竪穴住居とは、当時一般の人々が暮らしていた住居です。
地面に大きな穴を掘り、木で組んだ枠に屋根をかけた建物で、
数万年前に考案され、鎌倉時代まで使われていました。

環濠と竪穴住居(右が矩形、左が丸型) (2)
環濠の内に竪穴住居(右が四角、左が丸)

食器の分析から弥生人は日常は稗や粟に米を混ぜた雑炊を食べ
祭りの日には蒸した米を高坏にもって食べたと想像されます。

現在でも祝日には餅米を加えた米を蒸しておこわや赤飯を食べる風習がありますが、
こうした風習は弥生時代から存在した可能性があります。

竪穴住居内部
竪穴住居の食事風景

弥生時代になっても縄文時代の主食であった団栗なども各地の遺跡から出土しています。
縄文以来の伝統食である団栗ダンゴなども依然、食べられていたことが窺えます。

米は不作の時もあるから色々な備えが必要でしょうね。

ドングリの保存
保存食・団栗

環濠からは多量の土器・石器や獣骨、農工具を中心とした木製品出土しました。
その中に鳥をかたどった木製品がありました。
遺跡公園では神殿の屋根の木の鳥を飾っていますが、
実際は集落外周の環濠付近の門に設置し魔よけをしていたものと思われます。

鳥の魔除けを設置した門が鳥居の原型で後に鳥が省略されたようです。
 
鳥形木製品
鳥の魔除け(左:出土品、右:復元品)

また、濠の中から、豚の下顎の骨がまとまって出ています。
古来、中国ではブタが魔除けの象徴として崇められてきました。
豚は、恐怖の象徴であって、豚の頭骨や下顎骨で、
邪悪を退け死者の霊・魂を護るそうです。

墓に入れた豚小屋の模型
墓に入れた豚小屋の模型(中国)




泉井上神社の参道⑪旧府神社(和泉市・尾井町)

泉井上神社の参道⑪旧府神社(和泉市・尾井町)に関する記事です。

旧府神社(ふるふ)はJR阪和線の北信太駅東口の南600m、
小栗街道(熊野街道)の西30mを南北に走る小道沿いにあります。

注)大阪府道30号は熊野街道(小栗街道)の一部を継承する路線で、阪和線と並走。

旧府神社の社叢
旧府神社の社叢

旧府神社は和泉国・和泉郡・鍬と記される舊府神社に比定される式内小社です。
小さな神社ですが、葛葉姫を始めとする色々な伝承を持つ素敵な神社でした。

祭神:素盞嗚命

旧府神社の境内
旧府神社の境内

旧府神社には、神功皇后の行宮所の小竹宮(しののみや)に由来するとの説があります。
信太(しのだ)の旧表記が小竹田(しのだ)で、
神功皇后の小竹宮から派生したものとする説です。
当社より南の伯太神社、泉井上神社にも皇后巡行の伝承があります。

旧府神社の拝殿
旧府神社の拝殿

忍熊王の反乱に合った神功皇后が、攻撃に出る為に小竹宮に入られると、
何日も夜のような暗さが続いたとされます。
このような変事は二人の神官を合葬をしたために起こった
阿豆那比の罪(あずなひ)と呼ばれるそうです。

♪小竹祝・天野祝という仲の良い二人の神官がいたのだが、小竹祝が病死します。
これを悲しんだ天野祝が、小竹祝の亡骸の傍で亡くなり、
一緒に葬ったことがあったそうです。
墓を開けて棺に納めなおし、別々に葬ると、昼が戻ったそうです♪

旧府神社の本殿
旧府神社の本殿

旧府神社の境内社には「白狐化石」を神体とする若宮社があります。

漁師に追われた白狐が逃れるために化けた石とされ、
元々小栗街道沿いにあったものがここに遷されたそうです。

若宮社(白狐化石)1
若宮社「白狐化石」1


若宮社(白狐化石)2
若宮社「白狐化石」2




泉井上神社の参道⑩聖神社(和泉市・王子町)

泉井上神社の参道⑩聖神社(和泉市・王子町)に関する記事です。

聖神社(ひじり)はJR阪和線の北信太駅の南1.5km、
聖神社の一の鳥居が熊野街道(小栗街道)沿いにあります。

安倍晴明はこの聖神社を創建した渡来人・信太首に天文学を教わり陰陽師になりました。

聖神社の一の鳥居
聖神社の一の鳥居


聖神社の境内に入ると昆虫トラップ禁止の張り紙が沢山貼られていましたが、
今でも多くの生物が生息している神域であることが良く分かりました。

古くは聖神社の境内一帯は「信太の森」、当社は「信太明神」とも呼ばれていたそうです。

陰陽師の安倍晴明の出自を物語る「葛葉伝説」の中では、
この「信太の森」で晴明の父・保名と母・葛之葉が出会った場所とされます。

聖神社の二の鳥居
聖神社の二の鳥居

聖神社は和泉国・和泉郡・鍬と記される式内小社で、
泉井上神社を総社とする和泉五社にも選ばれています。

和泉五社とは1大鳥大社、2泉穴師神社、3聖神社、4積川神社、5日根神社

聖神社境内
聖神社の境内

聖神社の創建は白鳳3年(675)で、天武天皇の勅願により
百済系渡来人の信太首(しのだ・おびと)が聖大神・信太明神を祀ったものとされます。

祭神:聖大神

聖大神は古事記に登場する穀物神である大年神の御子神です。
「ひじり」は「日知り」で、太陽の位置を知り、暦を理解している聖大神は農業に必須の神です。

聖神社の拝殿
聖神社の拝殿

北助松駅から山側へ延びる中和泉街道 は「布引の道」と呼ばれています。  
「布引」の名は、聖大神が海を渡って渡来し、助松の浜から上がってこられる際に、
信太郷まで布を引いたためその名がついたためと伝わっています。

聖神社の本殿1
聖神社の本殿1

聖大神は渡来氏族の陰陽師・信太首が信仰していた神でもあります。

ここまできて「葛葉伝説」の意味が私にもやっと分かりました。
陰陽師
・安倍晴明の母である葛葉姫は信太首一族の女だったのです。
信太首が安倍晴明に天文学などの科学を教えて陰陽師に育てあげたのです。

聖神社の本殿
聖神社の本殿2

江戸時代には聖神社の氏子達は暦製造の特権を許されたとされますが、
渡来系陰陽師・信太首の天文学を引き継いだものともいえます。

末社三神社
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平岡神社
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