エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・水尾神社

水尾神社(滋賀県・高島市・拝戸)

水尾神社(滋賀県・高島市・拝戸)に関する記事です。

水尾神社(みお)はJR湖西線・近江高島駅の北西2.5KM
リトル比良とも呼ばれている標高565mの岳山(三尾山)の北麓にあります。

高島は継体天皇の出生地で、周辺には関連する史跡が多く残されています。

安曇川地形図
水尾神社と継体天皇関連史跡


高島郡の一体は継体天皇の祖先である水尾氏の拠点で、古代文明が栄えた場所です。
水尾神社は水尾氏繁栄の基盤を築いた祖人を祀る社で、
背後の岳山には、磐衝別命が永眠していると伝承されています。

三尾山
岳山と水尾神社の社叢

三尾神社鳥居1
水尾神社入口鳥居

水尾神社は近江国・高島郡・月次新嘗二座と記される名神大社です。
祭神:磐衝別命、比咩神

磐衝別命 (いわつくわけ)は垂仁天皇の皇子で三尾氏の祖人です。
比咩神は継体天皇の母の振媛(ふりひめ)のことで
振媛は磐衝別命の六世孫とされ二神は三尾氏の家系と繋がります。

三尾庭園から境内
水尾庭園から境内全景

三尾神社拝殿
水尾神社拝殿

磐衝別命が、鎮座地の高島郡・三尾郷に来て、
猿田彦命を三尾大明神として祭り、神戸を寄進されました。
鎮座地の拝戸は猿田彦命を拝んだことに因みます。

磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、
磐衝別命を祀る社として創建したのが水尾神社・河南社です。

三尾神社本殿
水尾神社拝殿から本殿

振媛は越前三国の坂中井で暮らしていましたが、
近江国高島郡の三尾之別業(別荘)の彦主人王へ嫁ぎました。
振媛は三尾之別業で男大迹王(継体天皇)を生み、
彦主人王が早世したため越前に帰郷して、男大迹王を養育しました。

継体天皇にとっては近江国高島郡は生まれた場所で、
越前三国の坂中井は育った場所となります。

三尾神社本殿3
水尾神社の本殿

水尾神社は岳山から萩の浜へ注ぐ和田打川(水尾川)の右岸300mにありますが、
嘗ての水尾神社には水尾川を挟んで河南社と河北社の二社殿がありました。

河南社の祭神は磐衝別命、河北社の祭神は振姫でしたが、
河北社は、昭和45年の台風で倒壊し,現在は河南社(現水尾神社)の本殿に祀られています。

和田打川(三尾川)
和田打川(水尾川)左に河南社、右に河北社

河北社の旧社地の名残は残っていませんが、
現在の水尾神社の北側,県道296号を挟んだ場所に
河北社の社号標が保存されています。

北本殿の社号標
河北社の社号標

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水尾神社の参道①大炊神社(高島市・音羽)

水尾神社の参道①大炊神社(高島市・音羽)に関する記事です。

師走の早朝、まだ暗い間に家を出ましたが、
がら空きの湖西線は東側の車窓からは琵琶湖からの日の出、
西側からの車窓からは雪化粧をした朝焼けの比良山が望め感動の光景を味わえました。

湖西線1
琵琶湖の日の出

比良山系は比叡山の北にあり、一体では天狗、猿、猿田彦などが信仰されています。

高島の湖畔には猿田彦命を祭神とする白鬚神社の総本社があり、
今日参拝予定の水尾神社の別称でもある三尾大明神は猿田彦命のことです。

湖西線2
朝焼けの比良山

高島市には、高島町と安曇川町があり、
近江国高島郡三尾郷は継体天皇が生まれた場所です。
高島駅周辺の史跡を見てから大炊神社→水尾神社→長田神社と
水尾神社の関係する神社を回る予定です。

近江高島駅近くの勝野も三尾の一部で、湊に万葉歌碑がありました。

♪大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ ♪  万葉歌
ー天皇の御船が泊まって、風待ちしている高島の、三尾の勝野の渚が思い出されるー

三尾の勝野の津
三尾の勝野津

大炊神社(おおい)はJR湖西線・近江高島駅の北1km、
長谷寺の薬師堂の隣にあり、大炊神社も長谷寺の一部だったようです。

大炊神社は建久3年(1192)水尾神社の大炊殿の旧址に社殿を創建し、
音羽村の産土神としたのが創始です。

祭神:事代主神

大炊神社の鳥居
大炊神社の鳥居

大炊とは天皇の召し上がる食べ物、それを調理することを意味で、
大炊殿は、主にご飯やお餅などの穀物類からなる神饌、
神様のお供え物を調理していた建物です。

今の祭神は事代主神ですが、大炊をお供えした神とは猿田彦のことでしょう。

大炊神社の拝殿
大炊神社の拝殿

高島はやはり北国で、数人の氏子たちが本殿の雪囲いに大忙しでした。
その風景を見ながら登山者が何人も足早に通り過ぎていきました。

大炊神社は岳山(三尾山)の登山口で、
周辺に、50基から成る「音羽古墳群」があります。
6世紀後半から7世紀初頭にかけての村落形群集墳で、
音羽の地に勢力を持っていた一族の家族墓と推定されています。

大炊神社の本殿
大炊神社の本殿(雪囲いの付設中)

大炊神社と同じ敷地にある長谷寺は白蓮山と号し、
本尊は十一面観世音菩薩です。
淡海公藤原不比等が母堂のため堂宇を建立したと伝えられています。
 
堂はもとは岳山頂上近くにありましたが、
参詣者の便のため現地に遷されたとされています。
山頂近くの旧地には石窟があり、石仏が安置されています。

奈良桜井市の長谷寺には高島郡三尾ヶ崎から流れてきた霊木で
十一面観音を造ったとの縁起が伝わり
高島長谷寺は大和長谷寺の元寺とも思われます。

♪朱鳥元年(686)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図を西の岡に安置、
のち神亀四年(727)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、
衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、
十一面観世音菩薩をお造りになられました。♪
       (大和長谷寺縁起)

長谷寺
長谷寺・薬師堂

水尾神社の参道③大溝城跡(高島市・勝野)

水尾神社の参道③大溝城跡(高島市・勝野)に関する記事です。

大溝城跡はJR近江高島駅の東南約150m,琵琶湖の内湖水域にあります。

勝野の水域は、古代びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良津で、
今も残る漁港の湖際に万葉歌碑がありました。

♪大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の渚し思ほゆ ♪  万葉歌
ー天皇の御船が泊まって、風待ちしている高島の、三尾の勝野の渚が思い出されるー

三尾の勝野の津
勝野の渚

近江高島駅東口の道路を東へ進むと分部神社の脇に大溝城道標があります。
道標に従い細い道を進むと広い空き地があり、
その奥に見える小高い森が、大溝城の本丸跡です。

大溝城道標
大溝城道標

天正6年に軍事上この地を重視した織田信長は、
甥の信澄に大溝城を築かせて城主として配しました。

その時に、信澄は高島郡内の商家や寺院などを移して城下町を造りました。

大溝城の本丸跡
大溝城の本丸跡

石段を登ると上は平坦になり天守台跡があり堀の内湖も望めました。
当時の水城の雰囲気が随所に残った素晴らしい城跡でした。

天守台跡
大溝城の天守台跡

大溝城の設計は明智光秀とされ、内湖を巧みに利用した水城であり、
鴻溝城(こうこう)とも呼ばれました。

大溝城は琵琶湖を通じて坂本城、安土城、長浜城とも繋がり
信長の全国制覇への野望も感じられる城跡でした。

大溝城
内湖を利用した水城

信澄の死後、大溝城には京極高次も入城し
浅井三姉妹お初は、京極高次の正室として
この大溝城で新婚生活を送ったとの説明もありました。


天守台跡から望む
天守台跡から内湖天然堀

大溝城主は短期間で移り変わりますが、
江戸時代が始まると、関ヶ原で東軍に鞍替えした分部氏の功績が認められ、
分部光信(わけべ)が伊勢津から大溝城2万石に移封になります。

光信がこの地に大溝陣屋を構えて以降、
分部氏は明治維新まで近江高島で統治を続けました。

分部神社
分部神社

大溝城跡の内湖は乙女ヶ池に続き、現在では釣りや散策を楽しむ公園となっています。
乙女ヶ池の名前は昭和初期に淡水真珠の養殖場となった頃に付けられた名前です。

乙女ヶ池
本丸の南東の乙女ヶ池

内湖は魚や水藻の宝庫で、
早朝にはそれを狙うカンムリカイツブリも入っていました。

カンムリカイツブり2
カンムリカイツブリ(内湖は魚の宝庫)

乙女ヶ池の南、白ひげ浜付近で国道161号線を離れ、旧西近江路に入ると、
草深い山中の墓地に、高さ1.6mもある、苔むしたの鵜川四十八体石仏群が見られます。

室町時代頃に造られた様ですが、
こんなに沢山の石仏がさりげなく置かれているのも当地の魅力です。

鵜川四十八体石仏群
鵜川四十八体石仏群 (西近江路)



水尾神社の参道④白鬚神社(高島市・鵜川)

水尾神社の参道④白鬚神社(高島市・鵜川)に関する記事です。

白鬚神社はJR湖西線・近江高島駅の南3km、
琵琶湖の対岸東側には雪を被った伊吹山が迫り、
南側には沖島が見える風光明媚な場所にあります。

伊吹山
乙女が池から伊吹山

琵琶湖 沖島
琵琶湖南対岸には沖島

全国の白鬚神社の総本社とされる近江最古の社で、
沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称されます。

大鳥居
白鬚神社の大鳥居

白鬚神社は、比良山系が琵琶湖にもっともせり出した明神崎と呼ばれる岬の突端にあり、
背後の山は比良山の一峰で明神山といい、白鬚神社は比良明神とも呼ばれます。

祭神:猿田彦命

猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起にも見え、
水尾神社の神奈備山である岳山と当社の背後の明神山は直線距離3.5kmと近く
両社の関係も想像されます。

白鬚神社の拝殿
白鬚神社の拝殿(拝殿は分部光信が造営)

社伝では、垂仁天皇25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが創建とされ、
白鳳2年(674)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったともあります。


白鬚神社の拝殿2
白鬚神社の拝殿2

「日本三代実録」では貞観7年(865)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載され、
この「比良神」が白鬚神社とされ公式の記録となります。
「比良神」はもともとは比良山の神で、猿田彦命とされます。

白鬚神社の本殿
白鬚神社の本殿(本殿は豊臣秀頼・片桐且元が造営)

境内社の若宮社の背後には比良連峰の明神山が聳えています。
当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(岩戸社)が残るほか、
明神山山頂まで磐座と古墳群が続きます。

若宮社
若宮社と明神山

本殿奥にある赤鳥居を潜り石段を登ると境内社の前に紫式部の歌碑があります。

♪三尾の海に 網引く民のひまもなく 立居につけて 都恋しも♪   紫式部

国司として父に従い船路で越前に向う途中、高島の三尾崎の浜辺で、
漁をする人々の網を引く光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌です。


紫式部の歌碑の奥には、いくつかの摂社末社があり、その一番奥が岩戸社です。
岩戸社は古墳の石室前に祠が建てられ、その右に大きな磐坐が祀られています。

岩戸社
岩戸社

岩戸社磐坐
天岩戸磐坐

奈良桜井市の長谷寺には高島郡三尾ヶ崎から流れてきた霊木で
十一面観音を造ったのが寺の創建との縁起があります。

大和長谷寺にある初瀬白髭神社は、近江の高島白鬚神社から猿田彦を勧請したもので、
この時に近江にいた仏師・工人が初瀬に遷り十一面観音を奉祀したとの考え方があります。

初瀬の白髭神社は近江国高島郡の三尾大明神を大和で祀った神社ということになります。

注:髭と鬚の違い
「髭」口の上、「鬚」あごひげ、「髯」ほおひげ
高島の猿田彦はあごひげが生え、初瀬の猿田彦は口ひげが生えていた


初瀬白髭神社
初瀬の白髭神社

水尾神社の参道②長田神社(高島市・永田)

水尾神社の参道②長田神社(高島市・永田)に関する記事です。

長田神社(おおい)はJR湖西線・近江高島駅の北1.5KM
和田打川左岸沿いにある
継体天皇の祖先である三尾氏の伝承を伝える社です。

和田打川と長田神社の社叢
和田打川と長田神社の社叢

長田神社は水尾神社の祭神・磐衝別命が朝夕拝んだ「三尾大明神」とされます。

磐衝別命(いわつき・わけ)は天成神道を学ぶために三尾郷に来住し、
朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(長田神社)を遙拝したので、
水尾神社の地は拝戸と呼ばれます。



長田神社の社叢
長田神社の社叢

磐衝別命は垂仁天皇と綺戸辺(かにはた・とべ)の間にできた子で、
同母妹に仲哀天皇を産んだ両道入姫がいます。


磐衝別命家系図
磐衝別命の家系図

長田神社は近江国・高島郡鎮座とされる式内小社で、
天安2年(858)の創立とされます。

祭神:事代主神、天鈿女命

境内社:伊邪那美神社、天照皇太神宮、高麗神社、神明神社

長田神社の鳥居
長田神社の鳥居


祭神の天鈿女命は、和田打川上流にある水尾神社の河北社が、
洪水で流されて来たために、その神霊を、本社相殿に祀ったとされます。

長田神社の拝殿
長田神社の拝殿

長田神社の本殿
長田神社の本殿



長田神社の周囲を巡る水路
長田神社の周囲を巡る水路


長田神社の鎮座地の永田は、近江源氏の一派である永田氏に依ります。

高島氏の高島胤信は高島郡永田(長田郷)を本拠として永田氏を名乗り、
永田城城主となり、高島郡に勢力を持ちました。

戦国時代には田中氏、朽木氏らと共に六角氏の傘下に入り勢力を維持しましたが、
六角氏の滅亡により没落しました。

長田郷碑
長田郷碑

水尾神社の参道⑨志呂志神社(高島市・鴨)

水尾神社の参道⑨志呂志神社(高島市・鴨)に関する記事です。

志呂志神社(しろし)はJR湖西線・安曇川駅西口の南1.4km、
鴨川の右岸50m、八田川、青井川など多くの川が集まる、
三尾氏の古代祭祀場に鎮座します。

天皇橋
天皇橋

一体は継体天皇と天皇を支えた三尾氏の遺跡の多い場所で、
鴨川に架かる橋は天皇橋と称し、
志呂志神社も江戸時代には「天皇社」と称していました。 

志呂志神社の南側に隣接して稲荷山古墳がある
その天皇橋の欄干にはめ込まれているプレートは
鴨稲荷山古墳の石棺から出土した大刀の直弧文をデザイン化したものです。


直弧文
天皇橋から鴨川を望む

鴨川に沿う叢林の南側の一部を境内にした神社で、
水害が多かったことが想像されます。



志呂志神社の社叢
志呂志神社の社叢

志呂志神社は創祀は宝亀元年(770)、
近江国・高島郡鎮座とされる式内小社です。

祭神:瓊々杵尊、玉依姫命

志呂志神社の鳥居
志呂志神社の鳥居

往古は、川中島の白州に鎮座し、
天下を所知食(しろしめ)す皇孫(瓊々杵尊)を祀り、
志呂志神社と称したとされます。

志呂志神社の拝殿
志呂志神社の拝殿

文治3年(1187 )に源頼朝が10貫文の社領を寄進したとの記録があります。
杏葉型の轡が天皇橋の下あたりの川跡から出土しています。
これは、当時の武将たちが戦勝祈願などで馬具を志呂志神社に奉納したものと思われます。

杏葉型の轡
杏葉型の轡




志呂志神社の本殿
志呂志神社の本殿

鴨川を挟んで北は縄文時代から近世に至る多彩な遺構が出土する天神畑遺跡です。
青井川改修で平成20年度から発掘が進み、
志呂志神社の元地・川中島の白州についても遺構が明確になっています。

古くは天皇橋あたりで青井川、八田川、鴨川が合流していました。
京都の下鴨神社が高野川と賀茂川の中州にある糺の森で祭祀を行ったように
三尾氏も川中島の白州を拠点としたものと思います。

天神畑遺跡では大壁建物の遺跡や古墳時代の祭祀場などが発掘され
志呂志神社は三尾氏の祭祀を執り行った神社だったと思われます。



祭祀場

志呂志神社の祭祀場・天神畑遺跡(滋賀県教育委員会資料)

水尾神社の参道⑩鴨稲荷山古墳(高島市・鴨)

水尾神社の参道⑩鴨稲荷山古墳(高島市・鴨)に関する記事です。

鴨稲荷山古墳はJR湖西線・安曇川駅西口の南1.4km
鴨川の右岸100m、志呂志神社の南隣にあります。

安曇川地形図
稲荷山古墳と継体天皇関連史跡

鴨稲荷山古墳に面する県道23号線は福井県・小浜市から高島へ続く道です。
明治35年(1902)その道路を拡張工事中に、
豪華な副葬品を多数納めた未盗掘の石棺が見つかりました。

鴨稲荷山古墳標識
鴨稲荷山古墳標識

墳丘長45メートル前後の前方後円墳で、6世紀前半の築造とみられていますが
現在は前方部は消滅し、後円部の頂に石棺が保存されています。

鴨稲荷山古墳
鴨稲荷山古墳後円部

上空から見ると前方後円墳らしき形が微かに見えます。

<鴨稲荷山古墳>
形状   :前方後円墳
サイズ  :全長45m、後円径25m、高さ5m
築造時期:6世紀前半
出土品
  :冠・環頭大刀・杏葉など副葬品
埋葬施設:家形石棺
被葬者   :
三尾君首長

鴨稲荷山古墳
鴨稲荷山古墳上空写真

後円部から出土した巨大な石棺内から、
金銅冠・沓・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀・鹿装大刀などの
豪華絢爛な副葬品が発見されました。

加耶の影響を受けた純金製の耳飾りなど副飾品が出土したことから、
朝鮮半島との交流が盛んだったことを裏付けます。

朝鮮半島の新羅王陵の出土品と酷似していることが指摘されています。

鴨稲荷山古墳石棺1
刳抜き式石棺1

石棺は、二上山で産した凝灰岩製の刳抜き式石棺です。

遠隔地からわざわざ巨大な石材を搬入したことや、
国際色豊かな副葬品は、地方豪族の造作では無理で、
大和政権から授与されたものと思われます。

鴨稲荷山古墳石棺2
刳抜き式石棺2


古墳の被葬者は三尾で生まれ継体天皇を支えた三尾君首長の墓とする説が有力です。

継体天皇の妃に、三尾氏の女性である若比売と倭媛がいます。
被葬者はその父か兄で、継体天皇の即位などの際に力を尽くした者と推測されています。

石棺内復元図
石棺内復元図(豪華な副葬品)

付近は継体天皇に関する史跡の宝庫で、
古墳北側を流れる鴨川には天皇橋が架かります。

その天皇橋の欄干にはめ込まれているプレートは
鴨稲荷山古墳の石棺から出土した大刀の直弧文をデザイン化したものです。

注1:直弧文とは
4-5世紀の、古墳の石室・石棺・埴輪・刀などにみられる直線と弧線とを組み合わせた文様。


直弧文
鴨川に架かる天皇橋

覆屋で覆われてガラス越しですが、石棺内復元図があり、
副葬品について勉強になりました。
ガラス越しの遺跡では曇って見えない遺跡も多い中、写真も撮れて最高でした。


水尾神社の参道⑪えな塚(高島市・安曇川町・三尾里)

水尾神社の参道⑪えな塚(高島市・安曇川町・三尾里)に関する記事です。

継体天皇のえな塚はJR湖西線・安曇川駅西口の南850m
鴨川の左岸400mにあります。

安曇川地形図
えな塚と継体天皇関連史跡


えな塚に面する県道23号線は福井県・小浜市から高島へ続く道で、
継体天皇との繋がりを想像します。

えな塚案内板
えな塚案内板

「えな」は胞衣と書き、へその緒・胎盤のことです。
後の継体天皇、男大迹王(おほど)が出産された際の胞衣を埋めたとされる塚です。

継体天皇の母・振姫がお産のあと天皇の「へその緒」を埋めたのが、
この胞衣塚だと伝えられています。

<えな塚>
形状:円墳
サイズ:径11.5m
築造時期:6世紀


えな塚
継体天皇のえな塚

継体天皇の母の振媛は越前の坂中井で暮らしていましたが、
近江国高島郡・三尾郷の彦主人王へ嫁ぎました。

振媛は三尾氏の三尾郷で男大迹王(継体天皇)を生み、
彦主人王が早世したため越前に帰郷して、男大迹王を養育しました。

御殿川
えな塚の南側の石灯籠と御殿川

えな塚のある三尾里は高島郡・三尾郷にも通じ、継体天皇に纏わる伝承の多い土地です。

えな塚の南側を流れる川は御殿川といい、付近は御殿と呼ばれます。

御殿川周辺は天神畑・上御殿遺跡の場所で、
彦主人王と振媛の館とも思われる大壁建物の遺跡が発掘されています。

南300mの鴨川に架かる橋は「天皇橋」
天皇橋南詰の志呂志神社も江戸時代は「天皇社」
鴨稲荷山古墳の被葬者は継体天皇の皇子との説もある墓です。

天皇橋
鴨川に架かる天皇橋


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水尾神社の参道⑦与呂伎神社(高島市・安曇川町・青柳)

水尾神社の参道⑦与呂伎神社(高島市・安曇川町・青柳)に関する記事です。

与呂伎神社はJR湖西線安曇川駅の東1.8km
安曇川右岸1km、鴨川左岸1.5kmの地点にあります。

社名の与呂伎、與呂伎、万木は、「よろぎ、ゆるぎ」と読み、
社叢の松杉の老樹はかつての万木の森の最期の遺跡です。

与呂伎神社の社叢
与呂伎神社の社叢・万木の森

万木の森(ゆるぎ)は鷺の森とも呼ばれ
「鷺」とともに和歌に詠まれることが多かった場所です。

♪高島や ゆるぎの森の鷺すらも ひとりは寝じと争うものを♪(古今和歌集)

この古今和歌集の歌は清少納言の枕草子の「鳥の随想」の中の鷺の場面で登場しています

♪鳥は、異所のものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。・・・

鷺は、いと見目も見苦し。眼居なども、うたて萬になつかしからねど、
ゆるぎの森にひとりは寝じとあらそふらむ、をかし。・・・・♪(枕草子)

~鷺は、見た目もよくない
目つきなども、万事につけて怪しく、親しみにくいけれど
「ゆるぎの森で一人で寝ない」 と、メスを巡って争うというのは、おもしろい~

与呂伎神社の鳥居
与呂伎神社の鳥居

与呂伎神社は近江国・高島郡鎮座とされる式内小社です。
また祭神の子守神は、水分神であることから、
式内・大水別神社の論社にもなっています。

祭神:子守神

与呂伎神社の社殿
与呂伎神社の社殿

地名の青柳は、東万木村(ゆるぎ)を青柳の里と称した事によるもので、
「青柳橋」に古碑が建てられています。
この古碑は、東万木村の住人の関宗順が、古都の歌人に詠まれた名所「青柳橋」が
忘れ去られることを恐れ弘化3年(1846)に建てたものです。

青柳橋古碑
関宗順の建てた碑(青柳橋古碑)




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今宮神社(高島市・安曇川町・西万木)


今宮神社はJR湖西線安曇川駅の東500mにある
与呂伎神社の論社です。

今宮神社は安曇川町の太田神社とともに水尾神社の御旅所の跡と伝えられ
水尾神社の広大な社域を示し、往時の繁栄を推測する遺跡です。

今宮神社の社叢
今宮神社の社叢

西万木の日吉神社の飛地境内社です。

祭神:大山咋神命

<今宮神社の由緒>
・天正17年滋賀郡日吉大行事権現(酒造りの神)分霊を遷し勧請
・明治に至り今宮神社と改名
・明治維新以降、日吉神社と春秋の祭祀を連綿奉祀

今宮神社の社殿
今宮神社の社殿

水尾神社の参道⑧陽明園(高島市・安曇川町・青柳)

水尾神社の参道⑧陽明園(高島市・安曇川町・青柳)に関する記事です。

陽明園はJR湖西線・安曇川駅の東1kmにあるにある
中国・明朝の思想家である王陽明の記念公園です。

予定にはありませんでしたが、道中に突然と現れた異国情緒たっぷりの公園で
しかも無料とあって疲労した足に鞭打って覗いてみました。

安曇川は陽明学者の中江藤樹の出身地で、
藤樹神社、藤樹書院跡、藤樹記念館などがある一角に設けられています。

陽明亭
陽明亭

30年ほど前に、王陽明の生誕地である中国浙江省余姚市と
中江藤樹の生誕地の安曇川町との交流が始まり
その友好のシンボルとして、開園された公園です。

余姚市の人が地元の花崗岩を使用し、製作した王陽明の等身大の石造があります。

<王陽明>
(1472~1528) 中国、明代の儒学者
浙江省余姚(よよう)出身
心即理・知行合一を説き、陽明学を完成、実践倫理を開く
軍事的才能もあり、寧王宸濠の乱を平定

<中江藤樹>
(1608~1648) 江戸時代前期の儒者
近江高島郡出身、日本の陽明学の祖
村民を教化し、近江聖人と慕われる
著作に「翁問答」「孝経啓蒙」「大学考」

王陽明像
王陽明像

王陽明の説く「知行合一」とは、
読書のみによって理に到達することはできない、
仕事や日常生活の中での実践を通してのみ真実に到達するという思想です。
正しいと思ったらすぐに実行せよ!と言うことです。

この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、中江藤樹が広めました。

幕末には吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山など
多くの革命実践派が育ち倒幕運動に発展します。


しかし知行合一の思想で、正しいと信じたことを実践した若者たちは
非業の最期を向かえることになります。

陽明門
陽明門


水尾神社の参道⑮田中神社(高島市・安曇川町・田中)

水尾神社の参道⑮田中神社(高島市・安曇川町・田中)に関する記事です。

田中神社はJR湖西線・安曇川駅の西2km、
安曇川右岸に広がる泰山寺野台地の東端部、
田中王塚古墳を主墳とする田中古墳群の南側にあります。

一体は継体天皇の父母である彦主人王と振姫に関わる
史跡・神社が密集する場所です。

安曇川地形図
田中神社と継体天皇関連史跡

田中神社のある田中集落が見えてくるとその左手には
雪を被った山々が見えてきます。

方向からすると武奈ヶ岳周辺の山々ですが、
調度比良山脈の真北から望む配置で、連なる山々が皆重なってしまいます。

南西方面(田中神社の左)
田中集落遠景

街道の田中交差点の西側に北へ向かう田中神社の参道があり
道の両脇の大きな石灯籠に驚かされます。

この石灯籠から大鳥居、社殿前の石段まで太い参道が300m程一直線で続きます。
5月には田植えの神事である田中祭が行われ、
流鏑馬神事が行われるそうです。

田中神社の石灯籠
田中神社の石灯籠
田中神社の鳥居
田中神社の鳥居
田中神社の社叢
田中神社の社殿への石段

長い馬場が終わると石段の登りですが、
石段脇に鎌倉時代に造られた三基の石造宝塔と、
二基の宝篋印塔がさりげなく置かれてあり、またまた驚かされます。
広い境内に調和してとても美しく感じました。

田中神社の鎌倉時代石造品
石造宝塔と宝篋印塔

田中神社は田中郷の産土神、五穀豊穣の守護神
田植神または五月神とされ、古代より信仰されてきた神社です。

明暦の縁起によると、平安時代初期の貞観年間(859-877)の創祀とありますが、
第8代孝元天皇のとき、田中神が晴天の祈願をしたなどという情報も伝わります。

祭神:建速素盞嗚尊 
配祀:奇稻田姫命、八柱御子神


田中神社の拝殿
田中神社の拝殿

田中神社は古代から田中古墳群を守護してきた神社で、
本殿の裏山一帯には田中古墳群が展開されています。

継体天皇の父である「彦主人王」の墓とされる田中王塚古墳を盟主として、
70基の古墳からなる田中古墳群が続きます。


田中神社の本殿
田中神社の本殿

本殿の右には境内社の三尾神社があります。

継体天皇の母の振姫の産所と呼ばれる「もたれ石」の地に鎮座していましたが、
当神社の境内に遷座しました。
三尾神社からは神代文字書「秀真伝」40巻と三尾大明神本土記が伝わりました。

三尾神社
境内社の三尾神社
田中神社の磐坐
田中神社の磐坐

水尾神社の参道⑰安産もたれ石(高島市・安曇川町・田中)

水尾神社の参道⑰安産もたれ石(高島市・安曇川町・田中)

高島市は継体天皇の出生の地で、
安産もたれ石は安曇川右岸に広がる
泰山寺野台地(たいさんじの)の東端部にあります。

航空写真で見ると安曇川の流路の両側には隆起した山並みが迫っています。
これは河岸段丘と呼ばれるもので、安曇川の流路に沿って
平坦部と急斜面が階段状に重なった地形です。

河岸段丘の上は安全で食料となる動植物も多く、
縄文時代以前から人類が好んで暮らしていた場所でもあります。

安曇川地形図
もたれ石と継体天皇関連史跡


もたれ石は継体天皇の父・彦主人王が眠る田中王塚古墳への参道入口にあります。

県道298号線の田中交差点の北520mに「安産もたれ石」の道標があり、
そのすぐ近くに「もたれ石」と「三尾神社旧跡地碑」があります。

高島市は史跡の道標や説明がしっかりしており、
このような小さな史跡にも比較的迷うことなく訪問できます。

安産もたれ石道標
「もたれ石」の道標

周囲の写真を撮っていると、標識の前の家から男性が出てきて、
私と挨拶を交わした後「旧跡地碑」に拝んでから
猿が群れる山の方へ散歩に出かけました。

「もたれ石」は森の中なのに雑草もなく、綺麗に整備されていました。
近所の方が自分の庭の様に毎日掃除しているのでしょう。

安産もたれ石1
「安産もたれ石」

<もたれ石説明文抜粋>
ここは嘗て三尾神社が鎮座した場所でもあり、細長い石碑はその旧跡碑です。
三尾神社は天成神道を伝える神主の山崎命が創始したものです。

彦主人王の妃・振姫がここで産湯を営み、
3つ子を産み末子の彦太王が後の26代継体天皇となりました。

振姫はこの石にもたれて、3つ子を産んだとされ
妊婦が石を手でなで、自分の腹部をさすって安産を願う風習が伝わりました。

安産もたれ石2
左前:三尾神社跡碑、右奥:安産もたれ石

三尾神社は大正4年に田中神社に遷座し、
現在は田中神社の本殿左手にあります。

大津市園城寺にも三尾神社がありますが、
伊弉諾尊の赤、白、黒三つの腰帯が赤尾神、白尾神、黒尾神となり、「三尾」と称したとあります。

同じ社名の三尾神社の「三つ子」と「三つ腰帯」、関連がありそうです。

三尾神社
三尾神社(田中神社境内)



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水尾神社の参道⑭田中王塚古墳(高島市・安曇川町・田中)

水尾神社の参道⑭田中王塚古墳(高島市・安曇川町・田中)に関する記事です。

継体天皇の父・彦主人王が眠る田中王塚古墳を主墳とする田中古墳群は
高島平野の中央を流れる安曇川右岸に広がる泰山寺野台地の東端部に位置します。

標高130m琵琶湖が望める静かな場所で、私が参拝した時は猿の群れが群行中でした。
畑を荒らしたり、夜屋根で騒いだり、女性や子供を威嚇したりと
地元の人は翻弄されているようでした。


安曇川地形図
田中古墳群と継体天皇関連史跡

県道298号・田中交差点の北400mに、
下の写真の様な泰山寺野への道標があり、その道を上った300m程の場所にあります。
また田中神社からは、本殿横に道標があり、どちらも良く整備された分かり易い道です。

彦主人王御陵入口
田中古墳群への道

田中古墳群は5世紀~6世紀に築造された
70基に及ぶ三尾氏の墓です。
田中王塚古墳以外の2~70号墳は10m~20mクラスの円墳か方墳で
埋葬施設は木棺直葬または横穴式石室です。

田中古墳群分布図
70基の田中古墳群

しばらくすると見事な檜並木があり、その奥に1号墳の田中王塚古墳があり、
その後ろに2~70号墳が密接して続きます。

丁度高島歴史資料館の方が古墳の確認に来ておられ、
鎖を越えて王塚の回りを一周できることを教えてもらいました。

田中王塚古墳の参道
檜並木の参道(鎖を越えて一周)

通称は「王塚」、
または彦主人(ひこうし)から「牛塚」とも呼ばれいます。
三重生神社の牛の祭もあり、現地では牛との関係も多いようです。


2段重
ねの円墳で、周囲の古墳より格段に規模が大きく、
古墳時代中期のものと考えられています。

5世紀後半の築造で、継体天皇の誕生が450年頃とすると時代も合うことになります。

<田中王塚古墳>
形状       :2段築成の円墳
サイズ    :径58m、高さ10m
築造時期:5世紀後半
出土品   :埴輪、葺石
埋葬施設:粘土槨と推測
被葬者   :彦主人王


田中王塚古墳の拝所
田中王塚古墳拝所


被葬者は、継体天皇の父である彦主人王と伝えられています。

彦主人王は近江国、北越五カ国を治めており、
越前国・坂中井より妃として迎えた振姫が三つ子を産みました。
末弟の彦太王が26代継体天皇となりました。

父の彦主人王は彦太王が5歳の時に崩じられこの地に埋葬されました。

田中王塚古墳1
田中王塚古墳

宮内庁が前方部を造成し、前方後円墳擬きにしたらしく、
拝所は前方部に付設されています。

宮内庁が造成した前方部
宮内庁が造成した前方部

檜並木の入口近くにある田中36号墳は、
田中古墳群のうちで初めて本格的な発掘調査された古墳です。

6世紀後半の築造で、直径24メートル、高さ4メートルの円墳です。

石室の全長は7.9メートル、壁面には赤色の顔料が塗られてあり、
九州地方の古墳の特徴である石屋式横穴式石室が検出されました。

<田中36号墳>
形状   :円墳
サイズ  :直径24m、高さ4m
築造時期:6世紀後半
埋葬施設:石屋式横穴式石室
副葬品  :馬具・土器類
被葬者   :継体天皇一族の重臣

田中古墳群36号墳1
田中36号墳

「石屋式」とは仕切り石で区切った遺体安置場所がある形式の石室で、

継体天皇と九州との関係の深さを裏付ける資料です。

「石屋式」の横穴式石室
「石屋式」の横穴式石室


水尾神社の参道⑫安閑神社(高島市・安曇川町・三尾里)

水尾神社の参道⑫安閑神社(高島市・安曇川町・三尾里)に関する記事です。

安閑神社はJR湖西線・安曇川駅の南西650m、
鶴塚、えな塚など三尾氏を連想する遺跡も多い三尾里の集落にあります。

高島市は興味深い史跡が密集していてとても楽しい場所です。

三尾里の集落
三尾里の集落

文禄年間(1593-96)に権現堂として創祀され、文化元年(1804)に現在地に再建されました。
祭神:安閑天皇

安閑天皇は当地で生まれた継体天皇の子ではありますが、
三尾氏の女性である若比売や倭媛との間にできた子ではなく、
尾張氏の女・目子媛との間にできた長子です。

安閑神社の社叢
安閑神社の社叢


安閑神社の社殿
→安閑神社の社殿

安閑神社境内には「神代文字の石」と「力石」があり、
特に絵文字の様な文様が刻まれた神代石は以前から是非みたい遺跡の一つでした。

神代石は絵とも文字とも判別しにくい陰刻がされた石で、
古墳の一部を橋にしていたものとも伝わります。
漢字が渡来する前から日本にあった神代文字と称されるものです。

神代石の隣の力石は鎌倉時代の古今著聞集に記されている
高島郡に住む大井子の伝承を伝えます。
美人で力持ちの大井子はこの力石を持ち上げて水田の用水の流れを変えて
水でもめる村人を反省させました。
また相撲大会に出る男を鍛えて活躍させたともあります。

神代石と力石
境内に神代石と力石

神代文字はまだ解明されていませんが、弥生時代の陶器に焼かれた絵模様にも見えます。

神代文字
神代文字

安閑神社の北120mに鶴塚があります。
県内屈指の大型の宝塔で、裏に二体の仏像の刻されています。
 
♪武将が、ここで雄鶴を射落としたところ首が無かった。
翌年、雌鶴を射落としたところ、羽根の間に雄鶴の首の骨を挟んでいた。
鶴の夫婦の情に心を打たれた武将は塔を建て、鶴夫婦の霊を弔った

鶴塚1
鶴塚

雁供養の塔の歴史は古く古代印度や中国にもあります。
菩薩が肉を食う僧を戒めようとして雁に化し、
空から落ちて死んだ跡に塔が建てたものとされます。


鶴塚2
裏に二体の仏像



<安閑神社>



<鶴塚>

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水尾神社の参道⑯佐田神社(高島市・安曇川町・田中馬場)

水尾神社の参道⑯佐田神社(高島市・安曇川町・田中馬場)に関する記事です。

佐田神社はJR湖西線・安曇川駅の西2km
田中神社の鳥居前を左に入った場所にあります。

佐田神社は近江国・高島郡鎮座とされる式内小社・田部神社の論社です。

祭神:佐田彦命(猿田彦)

創祀年代不詳ですが、田植神・五月神と称して田植の際神事が行われていたそうで
現在の田中祭りに継承されています。

佐田神社の鳥居
佐田神社の社殿

田中神社、佐田神社の鎮座する高島郡田中村は、
日本全国の田中氏のルーツの場所ともされます。

田中村産まれの人では戦国時代の武将・田中吉政が有名です。
田中吉政の先祖は近江源氏高島氏の一族で田中城の城主であったともいわれ、
関ヶ原で石田三成を捕獲し功をあげました。

近江源氏の一派が田中村で暮らし、平常時は田畑を開墾していたものと思われます。

佐田神社の本殿
佐田神社の本殿

水尾神社の参道⑬三重生神社(高島市・安曇川町・常磐木)

水尾神社の参道⑬三重生神社(高島市・安曇川町・常磐木)に関する記事です。

三重生神社はJR湖西線・安曇川駅の北西2.5km、
安曇川の右岸450m、
安曇川が形成した河岸段丘状の台地の東麓にあります。

安曇川地形図
三重生神社と継体天皇伝承地

安曇川沿いに走る県道23号線の南側に一直線の長い参道があり、
一の鳥居の200m西に三重生神社の社殿があります。

三重生神社は近江国・高島郡・二座と記される式内小社で、
継体天皇の父母の彦主人王と振媛を祀る神社です。

それにしても高島市で祀られるのは継体天皇の父母ばかりで、
ここで生まれた本人を祀る神社は無いようです。

祭神:彦主人王
配祀:振媛

三重生神社の鳥居
三重生神社の鳥居と一直線に続く参道

社頭の由緒には、三重生神社は古来勅使が参向する社とあり、
勅使が詠んだ「うしの祭り」の歌が刻されています。

<勅使の詠まれた御歌>
♪近江なる うしの祭りのこととへば 如月なかば雪は降りつつ
 近江のや うしの祭りのこととへば 志らゆう花を雪とまかへて♪

祭神の彦主人王は「ひこうし」とも読み、
背後の台地にある彦主人王の墓は牛塚と呼ばれます。

うしの祭は現在にも伝わり、
雪の2月ではなく、若草萌える4月におこなわてれています。
うしの祭では弓矢旗などを持つ行列の中に釣り竿を持つ者もおりますが、
彦主人王は釣りが好きだったそうです。


三重生神社の社頭
三重生神社の社頭


振媛は越前三国の坂中井で暮らしていましたが、
近江国高島郡の三尾之別業(別荘)の彦主人王へ嫁ぎました。

振媛は出産のとき、三尾神社の拝殿を産所として
彦人、彦杵、彦太の三つ子を安産されました。

三重生神社と呼ばれるのは、この三つ子に因みます。

三重生神社の拝殿
三重生神社の拝殿

三重生神社の本殿には三個の鈴があり三本の鈴尾が垂れています。
この地は三つ子とされる継体天皇の三に絡んだものが多く、
三重生や三尾の地名もその事例です。

大津市の園城寺に地主神の三尾神社がありますが、
同社は三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となり、三重生神社との関連が偲ばれます。

三重生神社の本殿
三重生神社の本殿(左は気比神社:仲哀天皇)

御子が五歳のとき、父の彦主人王が薨去され、
振媛は彦杵と彦太をお連れになって越前高向宮に戻り、
養育されていましたが、13年後に振媛も薨られました。

長男の彦人は、この地で成長され北越五ヶ国を治められました。
三男の彦太は、後の26代継体天皇となられました

三重生神社・石造宝塔
鎌倉時代の石造宝塔

三重生神社の南200mには
戦国時代の武将・川副秀政の菩提寺の正法寺があります。

戦国時代の三重生は川副氏の所領で、
正法寺は川副秀政の居城・三重生城の城跡に建てられた寺です。
三重生城跡には高さ2mもの土塁が残り墓域になっています。

秀政の子の政義は織田信長の上洛時、六角氏に与して三重生城に籠城しましたが、
柴田勝家らに攻められ川副氏は滅亡しました。

三重生城
三重生城跡の土塁に聳える楠(正法寺)


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水尾神社の参道⑥青柳太田神社(高島市・安曇川町・青柳)

水尾神社の参道⑥青柳太田神社(高島市・安曇川町・青柳)に関する記事です。

青柳太田神社はJR湖西線安曇川駅の北東1.6km
安曇川右岸700m、鴨川左岸1.8kmの地点にあります。

街道から比良山方面を望むと、山並みの奥に頂に雪が積もった山が見えましたが、
これが安曇川の源流・百里ヶ岳でしょう。
安曇川は百里ヶ岳の水を集め山中を蛇行し、
朽木村を経由して琵琶湖に注ぐ太古からの河川です。

比良山
太田神社の参道(比良山)

安曇川は縄文から弥生にかけて活躍した海人族を統率した安曇氏の拠点の一つです。

安曇氏は、安曇磯良(あずみのいそら)を始祖とし、
玄界灘の福岡志賀島から全国に移住し、信州の安曇野などにもその名前が残っています。

また滋賀県の滋賀・志賀は安曇氏の根拠地の志賀島に起因するものです。

安曇川(百里ヶ岳)
安曇川と百里ケ岳

安曇氏は安曇川を遡り、朽木も開拓したと思われます。
朽木村は林業が盛んで、安曇川では木材運搬のための筏流しが行われ、
水運安全を祈る「しこぶち」信仰が伝わります。

「しこぶち」は思子淵・志子淵・志故淵・志古淵などと標記され、
筏乗りの安全を守る為、安曇川の魔物を退治してくれる安曇氏の神様です。

青柳太田神社
太田神社の社叢

青柳太田神社は新旭太田神社とともに
近江国・高島郡鎮座とされるの大田神社の論社です。

古墳時代以降に天押日命の後裔・大伴大田宿禰の子孫が、
安曇氏が開発を始めた安曇川流域へ移住して開拓したものと思われます。
古来、青柳には旱魃が多く、当社で雨乞祭が行われていたともあります。


祭神:大田神(猿田彦神)、宇須売命(天鈿女命)     

太田神社の鳥居
太田神社の鳥居

太田神社は近隣の今宮神社とともに水尾神社の御旅所の跡と伝えられ
日吉神社の飛び地境内社ともされています。


太田神社の社殿
太田神社の社殿

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