エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・阿遅速雄神社

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)に関する記事です。

阿遅速雄神社はJR片町線の放出駅の北口から東200m程にある、
摂津国・東成郡鎮座とされる式内小社です。

祭神: 阿遅鋤高日子根(あじすき)
配祀:八劔大神

阿遅鋤の鋤(すき)から農業の神様と推察されます。

阿遅速雄(あぢはやお)神社鳥居1
阿遅速雄神社鳥居

この難しい漢字は、阿遅速雄神社(あじはやお)と読み、
鶴見区の放出(はなてん)という面白い地名の一角にあります。

放出は古代は淀川の河口で、淀川は河内湖と呼ばれる湖に注いでいました。

阿遅速雄(あぢはやお)神社拝殿1
阿遅速雄神社拝殿

667年新羅の僧の道行が熱田神宮の秘宝「草薙剣」を盗み出し
船で新羅に逃げ帰る途中、嵐に会い、当時淀川の河口だった放出まで戻されました。

道行はこれを神罰と思い、草薙剣を河口に放り投げますが、村人がこれを拾い、
阿遅速雄神社に一時的に保管され、結局、熱田神宮に戻ることになります。

このことから放出(はなてん)という地名がついたと言われます。

阿遅速雄神社と熱田神宮では現在でも、
例祭日にはお互いに参列する慣習が続いているそうです。

阿遅速雄(あぢはやお)神社本殿1
阿遅速雄神社本殿

阿遅速雄神社の入り口にお蔭灯籠と呼ばれる説明付きの石燈籠が立っています。

 「この灯籠は、慶応4年(1868、明治元年)に建立されたお蔭灯籠です。
お蔭まいりという伊勢神宮への参詣を記念して建立されました・・・・・・・」

この灯籠が大阪市内で唯一残ったお蔭灯籠ということです。

お陰灯篭1

阿遅速雄神社の境内には、仁徳天皇に因む水のない菖蒲神池があります。、

石碑には、
「史蹟 菖蒲神池 仁徳天皇が病になったとき、ここの菖蒲によって治癒された」
と刻まれています。

仁徳天皇が病で苦しんでいたとき、
阿遅鋤高日子根神(あじすき・たかひこね)が夢枕に立ち、
「神池の菖蒲を刈って祀れ。そうすれば必ず御病は治癒するであろう。」
との神託があり、神池の菖蒲を祀ったところ、忽ちに平癒されたそうです。


それに因み菖蒲刈祭は特殊祭典として伝わっています。

菖蒲神1

史蹟 菖蒲神池


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阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)
阿遅速雄神社の参道③皇大神宮(城東区・今福南)
阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)
阿遅速雄神社の参道⑤三郷橋稲荷神社(城東区・今福西)
阿遅速雄神社の参道⑥栄照寺(城東区・今福西)
阿遅速雄神社の参道⑦若宮八幡大神社(城東区・蒲生)
阿遅速雄神社の参道⑧新喜多大橋(城東区・蒲生)
阿遅速雄神社の参道⑨京橋(大阪市・都島区・片町)

阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)
阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)
阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間(大阪市・旭区・千林)



阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)

阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)に関する記事です。

大宮神社は千林商店街、大宮商店街と2つの商店街の先に鎮座する神社です。

千林商店街は全長660mで、220店舗が並ぶ、大阪でもトップの大商店街で、
もちろんアーケードの参道を見学しながらの参拝となりました。
立派な松茸が手頃な値段で沢山並んでいて、しばし夢を見させてもらいました。

何故千林にこんなに多くの商店が集まったのかというと
このあたりは京街道、野崎街道が通る交通の要所で、
この野崎街道に沿って発達したのが千林商店街で、卸問屋も集まりました。


千林商店街
千林商店街

旭区の大宮神社の北500m程に淀川がありますが、
対岸の先の東淀川区・豊里にも安閑天皇を祭神とする大宮があります。
淀川の南岸(左岸)、北岸(右岸)の両岸に同じ豊里の地名もあり不思議です。

実はこのあたりは明治33年(1900年)の淀川改修で今まで陸続きだった場所に、
現在の巨大な新淀川が開削され北岸(右岸)と南岸(左岸)に分かれた歴史があります。

新淀川に分断された後は、渡し舟(平田の渡し)が両岸を繋いでいましたが
昭和45年(1970年)に念願の豊里大橋が架橋されて
昔のように自由に往来が可能になりました。


豊里大橋
豊里大橋(新淀川に分断された地域を繋いだ)

祭神:応神天皇、神功皇后、姫大神
合祀:十五社大神他

大宮神社の創建は今から約830年前に遡ります。

文治元年2月(1185年)に源義経が平家追討のおり、
この地に立ち寄り、宇佐八幡の神の霊夢を見て目覚めたところ、
梅の木に鏡が掛っていました。

義経は源氏の氏神でもある八幡神の鏡を奉じて平家を打ち滅ぼします。

このことを後鳥羽天皇に奏上して神社建立を許され、
この地に社を建て「大宮八幡宮」と称したと伝えられます。
摂津誌には「南島神社」と記されています。

(大宮神社社伝より)

 

大宮神社1
大宮神社の鳥居


大宮神社2
大宮神社の拝殿

天正11年(1583年)には豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、
当社を「鬼門守護神」と崇めました。

社殿・末社の建立や神域の整備が手がけられ、
社殿は広壮で境内は3ヘクタールもあったと伝わります。


大宮神社3
大宮神社の本殿1

大宮神社4
大宮神社の本殿2


大宮神社には、神社の由緒・歴史を伝える立派な古図があり、
秀吉の時代のものを借りてきました。

右の道が七曲りと呼ばれた京街道で、一里塚も見えます。
七曲がりから白い一の鳥居を潜ると、長い参道(大宮道)が始まり、
楼門・二の鳥居・拝殿・本殿と沢山の境内社が見えます。


大宮神社古図
豊臣秀吉の頃の古図



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<関連記事>

大宮神社の境内①いぼ大神社

拝殿前にそびえるモチの木を神木とするいぼ大神です。

近所のお母さんがモチの木を盛んに触っていましたが、
木肌と自身の肌を交互に撫でると、
疣はもとより、あらゆる病気も必ず治ると言い伝えられています。


大宮神社5
いぼ大神社


阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)

阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)に関する記事です。

祭神:八劔大明神、
素戔嗚尊、水波能売神

八剱神社は室町時代・応永年間初期(1396)の創始で
鴫野村の老翁に熱田大神からのご託宣があり、
祠を建て小蛇を祀ったのが始まりとされます。

八劔神社1
八剱神社の鳥居

八劔神社は全国にある神社ですが、
特に岐阜県(24社)や愛知県(14社)に多い草薙剣を祭神とする神社です。

岐阜県の伊吹山は日本武尊が邪神に冒され死因となった場所です。
また愛知県は宮簀姫(みやず)が
尊から託された草薙剣をご神体として熱田神宮を創建した場所です。

その武神の八劔神社群を源頼朝を始めとする武家が再興し、
さらには徳川家康が崇拝した歴史がありそうです。

八劔神社2
八剱神社の社殿と社号標

今回参拝した八剱神社はJR片町線沿いに鎮座しますが、
東は放出駅で草薙剣と縁の深い阿遅速雄神社があります。

新羅の僧の道行が熱田神宮から「草薙剣」を盗み出し
船で逃げ帰る途中断念し、剣を淀川の河口に放り出し、
阿遅速雄神社で保管されました。

八劔神社3
八剱神社の拝殿

草薙剣と十束剣、混同している面もあるので、この際に整理しておきます。

草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくも)と呼ばれる剣で、熱田神宮のご神体

①素戔嗚尊が、八岐大蛇の尾から取り出し高天原の天照大神に献上
②剣は天孫降臨の際に、三種の神器として瓊瓊杵尊に渡される
③天照大神の大和から伊勢遷宮で伊勢神宮のご神体とされる
④日本武尊が東征にあたり、伊勢の倭姫から草薙剣を授かる
⑤宮簀姫(みやず)は草薙剣を御神体として熱田神宮を創建
⑥天智・天武天皇の頃668年、熱田神宮の草薙剣盗難
⑦各地を変遷 阿遅速雄神社⇒天武天皇の宮中⇒熱田神宮返却(686)

八劔神社4
八剱神社の拝殿から本殿

十束剣は布都御魂(ふつのみたま)とも言う剣で石上神宮のご神体

①伊邪那岐が十束剣で迦具土の首を切り、建御雷(たけみかずち)が生まれる
②素戔嗚尊の十束剣から天照大神が3柱の女神を産む
③素戔嗚尊は十束剣で八岐大蛇と戦い、尾にあった草薙剣に当たり刃が欠ける
④建御雷が天鳥船とともに降臨し、十束剣で大国主を脅し国譲りに成功
⑤神武東征の折り、高倉下が神武天皇の下に十束剣を持参し勝利・大和朝廷開始
饒速日が神武に降り、宇摩志麻治が朝廷に忠誠を尽す為に十束剣を宮中で祭る
⑦伊香色雄の手によって石上神宮に遷され、布都御魂として御神体となる

八劔神社5
八剱神社の本殿


八劔神社6
境内社の戎神社・幸神社・弁天社

阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)

阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)に関する記事です。

強頸絶間趾(こわくび・たえま)は京阪千林駅南西200m
千林商店街の南側、戦災を免れた古い民家が建ち並ぶ路地の一角にあります。


千林駅の周辺は旧京街道沿線で、
京街道から分岐する野崎街道に沿って発達したのが千林商店街です。
明治18年の淀川大氾濫の改修工事が行われるまでは
商店街の近くを淀川が流れていました。


千林商店街
千林商店街


強頸絶間趾は商店街のすぐ側にある下の写真の高い蔵が建つ場所にあります。

この蔵は淀川流域に発達した「段蔵」と呼ばれるもので、
米俵や家財を洪水から守るため、
家の床よりも一段高く石垣を築き、その上に蔵を建てました。


庄屋の段蔵
強頸絶間趾にある段蔵


仁徳天皇の時、暴れ川であった淀川の治水対策としてに茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、
次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(大阪湾)に落とす大工事を行いました。


しかし茨田堤の築造は決壊しやすい場所が2箇所あって万策尽きてしまいます。
そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神からお告げを得ました。

♪武蔵国の人・強頸と河内国の人・茨田連衫子を人身御供にすれば成功する♪

ただちに2名は捕らえられ、衫子は「瓢箪の賭け」に勝ち難を逃れたましが、
強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められ、堤は完成したとされます。


江戸時代の『摂津名所図会』によれば、
「強頸絶間」の跡は絶間池として残っていたとされ、この場所が比定地です。

注1:「瓢箪の賭け」

衫子は人身御供にされる時、瓢箪を川に投げ入れ、これを鎮めたら生け贄になってやると叫び、
龍神との賭けに勝ち助かりました。瓢箪は沈みません。


強頸絶間之址

強頸絶間之址


一方、茨田連衫子が人柱にされそうになった茨田堤の北の難所・
衫子絶間は寝屋川市の太間地区にあり、太間天満宮では袗子を祭っています。


注2)衫(ころも)とは一重の上着のことで、堤の工事で衫子が着ていた服でしょうか?


太間茨田堤記念碑
衫子絶間・茨田堤碑(寝屋川市・太間)


淀川太間公園の堤には茨田堤碑があり、茨田堤の分岐点との説明があります。
茨田堤は外堤と内堤2本あり、本流の外堤は衫子絶間~強頸絶間と流し、
内堤は現在の古川沿いに生駒山西麓方面へ流しその間を茨田屯倉とする説です。


~当時淀川は水量も多く、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤です。
一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西麓で大和川と合していた。
その分岐点がこの碑の建つあたりと考えられる~


茨田堤概念図2
茨田堤概念図



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阿遅速雄神社の参道⑨京橋(大阪市・都島区・片町)

阿遅速雄神社の参道⑨京橋(大阪市・都島区・片町)に関する記事です。

大阪城の北側は大川、寝屋川、第二寝屋川と川が集中している場所です。

江戸時代にはこの川を通して人・物の流れも集まり、大坂の富が築かれました。
大川は山科に繋がり、寝屋川は河内・大和へと繋がる幹線水路でもありました。

京橋水系図
川が集中する京橋


京橋口は大阪城の出入り口で、京橋口に架けられた寝屋川を跨ぐ橋が「京橋」です。
因みに京橋口も京橋駅もこの「京橋」に起因します。

京橋の後ろの高い歩道橋は、大坂橋で昭和48年架橋ですが「大坂橋」の名前は
「大坂橋 天正13年」(1585年)の銘が刻された擬宝珠に因みます。


京橋大坂橋
京橋と大坂橋

「京橋」の北詰には京橋川魚市場跡の碑があります。
京橋川魚市場は大坂の3大魚市場の一つで、
他の二つは雑喉場の生魚市場、永代浜の干鰯市場です。


海魚では無く、川魚専門の市場だったことが「京橋」の特徴です。

                    

京橋川魚市場跡

京橋川魚市場跡

川魚市場風景
京橋川魚市場風
景(摂津名所図会)

北側の大川と寝屋川の合流点へ行って見ると、
大川に歩行者・自転車専用の川崎橋が架かり川崎地蔵尊が見守っています。

かつてあった渡船の「川崎渡」があったそうで、川崎地蔵が守護していたのでしょう。

川崎橋と川崎地蔵尊
川崎橋と川崎地蔵尊

寝屋川左岸にある赤い煉瓦の建物は、かつての日本陸軍軍事工場の化学分析場です。
大阪砲兵工廠と呼ばれるアジア最大の兵器工場で、
太平洋戦争終戦前日の空爆で崩壊し、この化学分析場だけが残りました。



旧大阪砲兵工廠化学分析場
旧大阪砲兵工廠化学分析場1

砲兵工廠
旧大阪砲兵工廠化学分析場2

OBP
(大阪ビジネスパーク)は大阪砲兵工廠跡地に建てたもので、
空爆では多くの一般人も巻き添えとなり焼死しました。

寝屋川には空襲で火にまかれた民衆が多数飛び込んだそうです。

寝屋川とOBP
砲兵工廠跡地に建てたOBPと寝屋川



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阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)

阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)

かつての鯰江川は大川の支流で城東区・今福の三郷橋を起点に
天満橋の上手の備前島まで全長1.5km、川幅30Mにも及ぶ川でした。


鯰江川は現在は埋め立てられていますが、
鯰江川の跡と右岸の古堤街道は2本の隣接する道路となっていて、
当時を想像しながら散策を楽しめる街道です。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道


嘗て、京阪電車天満橋と京橋駅の間に野田橋駅(片町駅)があり,
野田橋は駅のすぐそばの鯰江川に架かっていました。


野田橋で京都を目指す京街道と奈良を目指す古堤街道はここで別れます。
古堤街道は鯰江川・寝屋川に沿って東へ進み
生駒山を越え奈良を目指す街道です。



野田橋跡
野田橋跡


JR京橋駅には京阪モールとイオン京橋の間に、
環状線のホーム下を潜る道が2本あります。

大きい道が元の鯰江川、小さい道が鯰江川の堤だった古堤街道です。

鯰江川は埋め立てられて道路になりました。
写真の道路はその鯰江川の跡で、川の雰囲気が残っています。


鯰江川
鯰江川だった道路(イオン歩道橋から東方向)


その北側の狭い道路、これが鯰江川の土手道で古堤街道です。
京阪沿線に暮らす人達には馴染みの京橋駅前の石段は土手に上がる為のものでした。


京橋駅前の階段
鯰江川の土手道への石段


石段の上(土手上)では京街道から分岐した古堤街道が鉄道(JR京橋駅)の下を潜っています。


古堤街道
古堤街道(鯰江川の土手道)


京橋駅付近は太平洋戦争の終戦前日に大空襲があった場所でもあり、
駅傍には京橋駅爆撃慰霊碑があります。


終戦にあたり、大阪城一体にあった兵器工場(砲兵工廠)を抹消するために
爆撃機の大群がやってきてそのうちの一発が
京橋駅ホーム下に避難していた一般人を襲い、何百人もが焼死したそうです。


京橋駅爆撃慰霊碑
京橋駅爆撃慰霊碑
火除地蔵
火除地蔵尊


鯰江川に戻り、JR環状線を潜った後に、振り向いた写真です。
赤レンガの遺跡かと思ったら高層住宅のようです。

鯰江川
鯰江川(JRを潜り西方向)


古堤街道を進むと都島区と城東区の分岐に出て、
交差点の隅に鯰江川に架かっていた蒲生橋の親柱があります。


鯰江川は大阪市東北部の悪水を排除するための川で、
この川には鯰が多かったことから鯰江川と呼んだとされています。


蒲生橋親柱
蒲生橋親柱


新喜多橋近くになると古堤街道と鯰江川に出来た道が接近してきて、
古堤街道のほうが高いのが実感できる場所があります。


下の写真には石段が写っていますが、これは鯰江川から堤へ上がる石段です。


鯰江川と古堤街道
鯰江川(左)と古堤街道(右)


新喜多橋を過ぎ相変わらずくねくねと曲がる道を
東へ進むと三郷橋稲荷神社があります。


三郷橋は鯰江川の起点で、三郷井路がこの下で合流したあと、鯰江川となります。

今福には鯰江小、鯰江中、鯰江公園と今でも鯰江の名称が多く残っており、
鯰江川の影響を大きく受けた場所であることが分かります。


三郷橋稲荷神社
三郷橋稲荷神社


<野田橋跡>


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阿遅速雄神社の参道⑧新喜多大橋(城東区・蒲生)

阿遅速雄神社の参道⑧新喜多大橋(城東区・蒲生)に関する記事です。

新喜多大橋は地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生四丁目駅の南350m,
京橋駅から古堤街道を東へ1kmほどにある寝屋川に架かる橋です。

江戸時代から明治時代にかけて寝屋川は、大阪の市街と河内をつなぐ交通の要路で、
今福は茨田地区の「浜」とともにその中継地として栄えました。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

現在の新喜多大橋の東側に今福船着場がありました。
大正の初期、巡航船は寝屋川の天満橋から片町-鴫野橋-朝日橋を経て、
新喜多大橋までを往復していました。

新喜多大橋橋梁
新喜多大橋
 
明治に引かれたJR片町線は今福を通らず、南の放出駅を通過したため、
今福の住民には通勤・通学手段がありませんでした。

そんな事情で大正3年(1914)に大阪市内と今福を往復する巡航船が運行されたそうです。

今福船着き場
今福船着場と巡航船

屋根・腰掛が付いた30人乗りの船で、昭和初期に市バスが乗り入れるまで
学生や砲兵工廠(こうしょう)に通勤する人たちの交通機関となりました。

砲兵工廠は大阪城公園にあった東洋最大の兵器工場で、
働いていた人は最盛期で6万人ともされ周辺住民の大きな働き場でもありました。

定期と回数券
船の定期券と回数券

新喜多大橋の南側は新喜多(しぎた)地区となり、
新喜多新田会所跡碑があります。

もともとこのあたりには旧大和川が流れていましたが、
宝永元年(1704)の付替え工事の際に、新喜多新田が開発されました。
新喜多新田は京橋から東大阪市域に及ぶ広い新田で、
周りの湿地や沼地が次々に水田となり、この辺りが開けていくきっかけとなりました。

新喜多新田を開発したのが鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の三人で、
その名前の一字ずつを取って新喜多の地名となりました。

新喜多新田会所跡
新喜多新田会所跡

新喜多新田会所跡の南30mには楠根川跡緑陰歩道があります。

楠根川はかつて平野川分水路と寝屋川を結んでいた長さ1km,
幅員9~15mの川で、新喜多橋付近で寝屋川に注いでいました。

楠根川跡緑陰歩道は、昭和44年の第二寝屋川開削により、
埋め立てられた楠根川を遊歩道として整備したものです。

楠根川跡緑陰歩道
楠根川跡緑陰歩道

阿遅速雄神社の参道⑥栄照寺(城東区・今福西)

阿遅速雄神社の参道⑥栄照寺(城東区・今福西)に関する記事です。

栄照寺は地下鉄・長堀鶴見緑地線の蒲生四丁目駅の南500m,
古堤街道沿いにある浄土真宗本願寺派の寺です。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道


古堤街道は別名野崎道とも呼ばれ「野崎参り」のルートでもありました。

江戸時代、新田開発が落ち着くと、水路や船着き場が整備され水上交通が発達しました。
野崎観音への参詣は大阪の八軒屋浜から住道浜・観音浜まで舟で行けるようになり
「野崎参り」という庶民の娯楽へ定着していきました。


野崎道跡碑
旧野崎街道碑

当時、大坂から今福・徳庵を経ての野崎参りは、
屋形舟で鯰江川や寝屋川を遡るか、古堤街道を歩くかのどちらかでした。
 
寝屋川沿いから栄照寺~三郷橋へ行く三叉路、
今福小学校の西南角に「旧野崎街道碑」が建っています。

寝屋川(極楽橋付近)
寝屋川(極楽橋付近)

野崎観音への水路
野崎観音へのルート

栄照寺は野崎街道碑がある三叉路を三郷橋方面へ行く途中にあり、
本堂の屋根に梵
鐘があるという風変わりなお寺です。

栄照寺の境内には室戸台風で倒壊した校舎の下敷となった学童たちを祀る
遭難学童の碑が建てられています。


栄照寺
栄照寺の本堂(屋根上に鐘楼)

昭和9年9月室戸台風が京阪神を襲い、3000人もの死者が出ました。
栄照寺の場所でも鯰江第二小学校(聖賢小学校)と鯰江第三小学校(今福小学校)で

校舎が全壊し、児童55人死亡、228人重軽傷という痛ましい犠牲を出しました。

栄照寺の屋根の鐘楼は来たるべきスーパー台風への警鐘を鳴らす為に
高い場所に置かれたのでしょう。

室戸台風遭難学童之碑
室戸台風
遭難学童之碑


阿遅速雄神社の参道③皇大神宮(城東区・今福南)

阿遅速雄神社の参道③皇大神宮(城東区・今福南)に関する記事です。

皇大神宮は地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生四丁目駅の南600m,
寝屋川の右岸200m,古堤街道沿いにある神社です。
近くには三郷橋、栄照寺などがあります。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

平安時代末期に摂津国今福村が開発された時に豊作祈願のために、
天照大御神をお祀りしたのが始まりと伝えられています。

祭神:天照大御神

鎮座地の城東区一体は平安時代には榎並荘(えなみ)と呼ばれた荘園で、
淀川と大和川の合流地点付近にあたります。
当社は、その榎並荘の一鎮守社として信仰されていました。
伊勢神宮の神税を納める斎蔵があった榎並荘は
今福樋の東南の小丘に鎮座していたともあります。

皇大神宮の鳥居
皇大神宮の鳥居

皇大神宮の鎮座地は摂津国東成郡の所属となります。

今福という地名は今は新しい、
福は荘園時代の田地・米蔵などの封戸で、
新しい封戸の意味だそうです。

貴族,寺社などに新たに支給された封禄の地といったところでしょうか。
難波津に近いことから皆が欲しがる荘園だったようで、所有者がしばしば変っています。
1030年代までは法隆寺、それ以降は近衛家、春日社、北野社など多様です。

皇大神宮の拝殿
皇大神宮の拝殿

今福は江戸時代には油などを運ぶ剣先舟の拠点の港で、
交通の要路でもあり商業が繁栄しました。

皇大神宮の本殿
皇大神宮の本殿

皇大神宮の境内には宇賀御魂神を祀る小女郎稲荷が祀られています。

元は旧大和川堤の狐山にあった社で、
大和郡山の源九郎稲荷、泉州信太の葛葉稲荷と並ぶ有名な稲荷大明神でした。

「摂津名所図会大成」には「霊験あらたかなりとて参詣人すこぶる多し、
社壇もっともきらびやかに造立ありて美なり」と記され、
今の極楽橋あたりまで参詣人目当ての茶店が軒を連ねて賑っていたとのことです。

小女郎稲荷
小女郎稲荷

道祖神(子授け石神)
道祖神(子授け石神)


阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)

阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)に関する記事です。

古堤橋は今福の寝屋川沿いにある橋で、とても興味が湧く橋でした。
橋の北からは城北川が、南からは平野川分水路が寝屋川に合流しており、
まさに川の交差点になっています。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

城北川は昭和15年に造られた寝屋川と淀川を繋ぐ全長5.6kmの運河です。
城北川に架かる古堤橋の目前に巨大な寝屋川口水門があり、
寝屋川との水の流れを制御しています。

古堤橋
寝屋川と寝屋川口水門

この水門の特徴は寝屋川の洪水を防ぐだけでなく、
淀川の水を寝屋川に流して汚泥で汚れた寝屋川の水を清浄することにあります。

古堤橋2
城北川と寝屋川口水門

上潮で河川が逆流している時に、大川口水門だけを開いて
城北川を綺麗な淀川の水で満杯にします。

そして引き潮時には寝屋川口水門だけを開いて、
淀川の水を汚濁した寝屋川に流して浄化させます。

城北川の浄化機能
城北川の水質浄化のしくみ

淀川の水は綺麗な飲料水に利用される水ですが、寝屋川の水は汚水です。
古堤橋の東には今福下水処理場があり、
旭区・都島区他の汚水を処理して寝屋川に放流しています。

管轄区域の汚水は地下の下水道管を通って今福下水処理場で、沈殿ろ過します。
ろ過した水は消毒して寝屋川に流し、残った汚泥は送泥ネットワークにて、
最終、平野下水処理場で焼却・溶融処分されます。


寝屋川分流水門
古堤橋周辺水処理施設



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阿遅速雄神社の参道⑦若宮八幡大神宮(城東区・蒲生)

阿遅速雄神社の参道⑦若宮八幡大神宮(城東区・蒲生)に関する記事です。

若宮八幡大神宮は地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生四丁目駅の南400m
古堤街道沿いに位置する個性的で楽しい神社です。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

蒲生の地は、古来寝屋川と鯰江川が東西に流れている為に低湿地で、
葦や蒲の穂が一面に茂っていました。

蒲生の地名は蒲穂が名産だったためで、摂津名所図会に書かれています。
♪名産蒲穂、蒲生村より出る。数寄屋の天井、縁側の筵に用ゆ。色美にして尺長し♪


若宮八幡大神宮の鳥居
若宮八幡大神宮の鳥居

蒲生は、水運の便もよく、古堤街道が東西に貫通しており、
浪速における庶民の生業・農耕の地として繁栄してきました。
          
若宮八幡大神宮は、浪速に都を定めた仁徳天皇を偲び、
蒲生の村人が神祠を勧請創建したものと伝えられております。

祭神:仁徳天皇


若宮八幡大神宮の拝殿
若宮八幡大神宮の拝殿

若宮八幡大神宮の本殿
若宮八幡大神宮の本殿


若宮八幡大神宮は大坂冬の陣のときに、
徳川方の佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝祈願した場所です。

長19年(1614)冬、翌年の夏の二度にわたり
徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻めて豊臣家滅亡を計ります。
          
この冬の陣の鴫野・京橋口の戦いで、豊臣方の木村長門守と戦った
徳川方の佐竹義宣の本陣が当神社境内でした。

楠の根株の絵馬堂
佐竹義宣・本陣跡と楠の根株の絵馬堂

この際、佐竹側の軍兵が境内の楠を切り倒して篝火にしました。
戦後佐竹家から贖罪の為に矢が献納されましたが、
明治18年(1885)の洪水で本社とともに流失致しました。

この楠は、その後根株より芽を出し順調に成長しておりましたが、
明治20年頃樹勢が衰えて伐採され、その後絵馬堂が建てられました。


昭和12年以上前の境内絵図
昭和初期の若宮八幡大神宮
手水屋
カラフルな手水屋
鯛乗り恵比寿
手水屋の鯛乗り恵比寿


阿遅速雄神社の参道⑤三郷橋稲荷神社(城東区・今福西)

阿遅速雄神社の参道⑤三郷橋稲荷神社(城東区・今福西)に関する記事です。

三郷橋稲荷神社は地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生四丁目駅の南350m、
古堤街道沿いの三叉路にある大正時代に建てられた小さな神社です。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道

全長1.5kmの鯰江川の起点の場所で、ここに三郷橋が架かっていました。
今は埋め立てられている鯰江川は三郷井路が三郷橋の下で合流したあと、
蒲生から京橋を経由し天満橋で大川に流入していました。

三郷橋稲荷神社
三郷橋稲荷神社遠景

三郷橋稲荷神社は古代舟が発見された大正時代に建てらた神社です。

祭神:白瀧大明神、 岩国大明神、福丸大明神


三郷橋稲荷2
三郷橋稲荷神社2

大正6年(1917)、今福三郷橋閘門樋の工事のとき、
鯰江川の川底から楠の大木をくりぬいた丸木舟が発見されました。
楠木の大木を半分に割って刳り抜いた長さ14mの大きな舟でした。

この舟は、大和政権時代のものと推定され、
古代にはこの地域は一面内海で池や沼が点在していました。

河内湖と三郷橋
古代舟が航行していた頃の三郷橋

発掘された舟は三郷橋の近くに置かれていて、
各地から弁当持参で見物に来る人もあったそうです。
その後、大阪城内に展示されていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。

三郷橋水門の石柱
三郷橋閘門樋の石柱(皇大神宮)
今福の丸木舟出土跡
今福の丸木舟出土跡パネル

三郷橋付近は大阪冬の陣の古跡でもあり、大阪冬の陣古戦場碑が社頭にあります。

佐竹義宣、上杉景勝が、木村重成、後藤又兵衛と戦った大阪冬の陣最大の激戦地です。
当時、今福・蒲生一帯は水田や沼地で、戦いは堤や街道沿いで行われました。

大阪冬の陣古戦場碑
大阪冬の陣古戦場碑

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