エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@阿遅速雄神社

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)に関する記事です。

阿遅速雄神社はJR片町線の放出駅の北口から東200m程にある、
摂津国・東成郡鎮座とされる式内小社です。

祭神: 阿遅鋤高日子根(あじすき)
配祀:八劔大神

阿遅鋤の鋤(すき)から農業の神様と推察されます。

阿遅速雄(あぢはやお)神社鳥居1
阿遅速雄神社鳥居

この難しい漢字は、阿遅速雄神社(あじはやお)と読み、
鶴見区の放出(はなてん)という面白い地名の一角にあります。

放出は古代は淀川の河口で、淀川は河内湖と呼ばれる湖に注いでいました。

阿遅速雄(あぢはやお)神社拝殿1
阿遅速雄神社拝殿

667年新羅の僧の道行が熱田神宮の秘宝「草薙剣」を盗み出し
船で新羅に逃げ帰る途中、嵐に会い、当時淀川の河口だった放出まで戻されました。

道行はこれを神罰と思い、草薙剣を河口に放り投げますが、村人がこれを拾い、
阿遅速雄神社に一時的に保管され、結局、熱田神宮に戻ることになります。

このことから放出(はなてん)という地名がついたと言われます。

阿遅速雄神社と熱田神宮では現在でも、
例祭日にはお互いに参列する慣習が続いているそうです。

阿遅速雄(あぢはやお)神社本殿1
阿遅速雄神社本殿

阿遅速雄神社の入り口にお蔭灯籠と呼ばれる説明付きの石燈籠が立っています。

 「この灯籠は、慶応4年(1868、明治元年)に建立されたお蔭灯籠です。
お蔭まいりという伊勢神宮への参詣を記念して建立されました・・・・・・・」

この灯籠が大阪市内で唯一残ったお蔭灯籠ということです。

お陰灯篭1

阿遅速雄神社の境内には、仁徳天皇に因む水のない菖蒲神池があります。、

石碑には、
「史蹟 菖蒲神池 仁徳天皇が病になったとき、ここの菖蒲によって治癒された」
と刻まれています。

仁徳天皇が病で苦しんでいたとき、
阿遅鋤高日子根神(あじすき・たかひこね)が夢枕に立ち、
「神池の菖蒲を刈って祀れ。そうすれば必ず御病は治癒するであろう。」
との神託があり、神池の菖蒲を祀ったところ、忽ちに平癒されたそうです。


それに因み菖蒲刈祭は特殊祭典として伝わっています。

菖蒲神1

史蹟 菖蒲神池


<関連記事>

阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)
阿遅速雄神社の参道③皇大神宮(城東区・今福南)
阿遅速雄神社の参道④古堤橋(城東区・今福南)
阿遅速雄神社の参道⑤三郷橋稲荷神社(城東区・今福西)
阿遅速雄神社の参道⑥栄照寺(城東区・今福西)
阿遅速雄神社の参道⑦若宮八幡大神社(城東区・蒲生)
阿遅速雄神社の参道⑧新喜多大橋(城東区・蒲生)
阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)
阿遅速雄神社の参道⑪関目神社(大阪市・城東区・成育)
阿遅速雄神社の参道⑫野江水神社(大阪市・城東区・野江)
阿遅速雄神社の参道⑬京街道七曲がり(大阪市・城東区~旭区)
阿遅速雄神社の参道⑭千林商店街(大阪市・旭区)
阿遅速雄神社の参道⑮千人塚(大阪市・旭区)
阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)
阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間(大阪市・旭区・千林)






阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)

阿遅速雄神社の参道⑱大宮神社(大阪市・旭区・大宮)に関する記事です。

大宮神社は千林商店街、大宮商店街と2つの商店街の先に鎮座する神社です。
昔は関目七曲がりに一の鳥居があり、そこから北へ1.2kmもの参道が続きました。

大宮神社参道

大宮神社参道マイマップ

千林商店街は全長660mで、220店舗が並ぶ、大阪でもトップの大商店街で、
もちろんアーケードの参道を見学しながらの参拝となりました。
立派な松茸が手頃な値段で沢山並んでいて、しばし夢を見させてもらいました。

何故千林にこんなに多くの商店が集まったのかというと
このあたりは京街道、野崎街道が通る交通の要所で、
この野崎街道に沿って発達したのが千林商店街で、卸問屋も集まりました。


千林商店街
千林商店街

旭区の大宮神社の北500m程に淀川がありますが、
対岸の先の東淀川区・豊里にも安閑天皇を祭神とする大宮があります。
淀川の南岸(左岸)、北岸(右岸)の両岸に同じ豊里の地名もあり不思議です。

実はこのあたりは明治33年(1900年)の淀川改修で今まで陸続きだった場所に、
現在の巨大な新淀川が開削され北岸(右岸)と南岸(左岸)に分かれた歴史があります。

新淀川に分断された後は、渡し舟(平太の渡し)が両岸を繋いでいましたが
昭和45年(1970年)に念願の豊里大橋が架橋されて
昔のように自由に往来が可能になりました。

豊里大橋
 豊里大橋(新淀川に分断された地域を繋いだ)

平太の渡し跡
平太の渡し跡

祭神:応神天皇、神功皇后、姫大神
合祀:十五社大神他

大宮神社の創建は今から約830年前に遡ります。

文治元年2月(1185年)に源義経が平家追討のおり、
この地に立ち寄り、宇佐八幡の神の霊夢を見て目覚めたところ、
梅の木に鏡が掛っていました。

義経は源氏の氏神でもある八幡神の鏡を奉じて平家を打ち滅ぼします。

このことを後鳥羽天皇に奏上して神社建立を許され、
この地に社を建て「大宮八幡宮」と称したと伝えられます。
摂津誌には「南島神社」と記されています。

(大宮神社社伝より)

 

大宮神社1
大宮神社の鳥居


大宮神社2
大宮神社の拝殿

天正11年(1583年)には豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、
当社を「鬼門守護神」と崇めました。

社殿・末社の建立や神域の整備が手がけられ、
社殿は広壮で境内は3ヘクタールもあったと伝わります。


大宮神社3
大宮神社の本殿1

大宮神社4
大宮神社の本殿2


大宮神社には、神社の由緒・歴史を伝える立派な古図があり、
秀吉の時代のものを借りてきました。

右の道が七曲りと呼ばれた京街道で、一里塚も見えます。
七曲がりから白い一の鳥居を潜ると、長い参道(大宮道)が始まり、
楼門・二の鳥居・拝殿・本殿と沢山の境内社が見えます。


大宮神社古図
豊臣秀吉の頃の古図



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<関連記事>

大宮神社の境内①いぼ大神社

拝殿前にそびえるモチの木を神木とするいぼ大神です。

近所のお母さんがモチの木を盛んに触っていましたが、
木肌と自身の肌を交互に撫でると、
疣はもとより、あらゆる病気も必ず治ると言い伝えられています。


大宮神社5
いぼ大神社





阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)

阿遅速雄神社の参道①八剱神社(城東区・鴫野東)に関する記事です。

祭神:八劔大明神、
素戔嗚尊、水波能売神

八剱神社は室町時代・応永年間初期(1396)の創始で
鴫野村の老翁に熱田大神からのご託宣があり、
祠を建て小蛇を祀ったのが始まりとされます。

八劔神社1
八剱神社の鳥居

八劔神社は全国にある神社ですが、
特に岐阜県(24社)や愛知県(14社)に多い草薙剣を祭神とする神社です。

岐阜県の伊吹山は日本武尊が邪神に冒され死因となった場所です。
また愛知県は宮簀姫(みやず)が
尊から託された草薙剣をご神体として熱田神宮を創建した場所です。

その武神の八劔神社群を源頼朝を始めとする武家が再興し、
さらには徳川家康が崇拝した歴史がありそうです。

八劔神社2
八剱神社の社殿と社号標

今回参拝した八剱神社はJR片町線沿いに鎮座しますが、
東は放出駅で草薙剣と縁の深い阿遅速雄神社があります。

新羅の僧の道行が熱田神宮から「草薙剣」を盗み出し
船で逃げ帰る途中断念し、剣を淀川の河口に放り出し、
阿遅速雄神社で保管されました。

八劔神社3
八剱神社の拝殿

草薙剣と十束剣、混同している面もあるので、この際に整理しておきます。

草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくも)と呼ばれる剣で、熱田神宮のご神体

①素戔嗚尊が、八岐大蛇の尾から取り出し高天原の天照大神に献上
②剣は天孫降臨の際に、三種の神器として瓊瓊杵尊に渡される
③天照大神の大和から伊勢遷宮で伊勢神宮のご神体とされる
④日本武尊が東征にあたり、伊勢の倭姫から草薙剣を授かる
⑤宮簀姫(みやず)は草薙剣を御神体として熱田神宮を創建
⑥天智・天武天皇の頃668年、熱田神宮の草薙剣盗難
⑦各地を変遷 阿遅速雄神社⇒天武天皇の宮中⇒熱田神宮返却(686)

八劔神社4
八剱神社の拝殿から本殿

十束剣は布都御魂(ふつのみたま)とも言う剣で石上神宮のご神体

①伊邪那岐が十束剣で迦具土の首を切り、建御雷(たけみかずち)が生まれる
②素戔嗚尊の十束剣から天照大神が3柱の女神を産む
③素戔嗚尊は十束剣で八岐大蛇と戦い、尾にあった草薙剣に当たり刃が欠ける
④建御雷が天鳥船とともに降臨し、十束剣で大国主を脅し国譲りに成功
⑤神武東征の折り、高倉下が神武天皇の下に十束剣を持参し勝利・大和朝廷開始
饒速日が神武に降り、宇摩志麻治が朝廷に忠誠を尽す為に十束剣を宮中で祭る
⑦伊香色雄の手によって石上神宮に遷され、布都御魂として御神体となる

八劔神社5
八剱神社の本殿


八劔神社6
境内社の戎神社・幸神社・弁天社



阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)

阿遅速雄神社の参道⑲強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)に関する記事です。

強頸絶間趾(こわくび・たえま)は京阪千林駅南西200m
千林商店街の南側、戦災を免れた古い民家が建ち並ぶ路地の一角にあります。


千林駅の周辺は旧京街道沿線で、
京街道から分岐する野崎街道に沿って発達したのが千林商店街です。
明治18年の淀川大氾濫の改修工事が行われるまでは
商店街の近くを淀川が流れていました。


千林商店街
千林商店街


強頸絶間趾は商店街のすぐ側にある下の写真の高い蔵が建つ場所にあります。

この蔵は淀川流域に発達した「段蔵」と呼ばれるもので、
米俵や家財を洪水から守るため、
家の床よりも一段高く石垣を築き、その上に蔵を建てました。


庄屋の段蔵
強頸絶間趾にある段蔵


仁徳天皇の時、暴れ川であった淀川の治水対策としてに茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、
次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(大阪湾)に落とす大工事を行いました。


しかし茨田堤の築造は決壊しやすい場所が2箇所あって万策尽きてしまいます。
そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神からお告げを得ました。

♪武蔵国の人・強頸と河内国の人・茨田連衫子を人身御供にすれば成功する♪

ただちに2名は捕らえられ、衫子は「瓢箪の賭け」に勝ち難を逃れたましが、
強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められ、堤は完成したとされます。


江戸時代の『摂津名所図会』によれば、
「強頸絶間」の跡は絶間池として残っていたとされ、この場所が比定地です。

注1:「瓢箪の賭け」

衫子は人身御供にされる時、瓢箪を川に投げ入れ、これを鎮めたら生け贄になってやると叫び、
龍神との賭けに勝ち助かりました。瓢箪は沈みません。


強頸絶間之址

強頸絶間之址


一方、茨田連衫子が人柱にされそうになった茨田堤の北の難所・
衫子絶間は寝屋川市の太間地区にあり、太間天満宮では袗子を祭っています。


注2)衫(ころも)とは一重の上着のことで、堤の工事で衫子が着ていた服でしょうか?


太間茨田堤記念碑
衫子絶間・茨田堤碑(寝屋川市・太間)


淀川太間公園の堤には茨田堤碑があり、茨田堤の分岐点との説明があります。
茨田堤は外堤と内堤2本あり、本流の外堤は衫子絶間~強頸絶間と流し、
内堤は現在の古川沿いに生駒山西麓方面へ流しその間を茨田屯倉とする説です。


~当時淀川は水量も多く、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤です。
一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西麓で大和川と合していた。
その分岐点がこの碑の建つあたりと考えられる~


茨田堤概念図2
茨田堤概念図



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阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)

阿遅速雄神社の参道⑩鯰江川(都島区・片町~城東区・今福)

かつての鯰江川は大川の支流で城東区・今福の三郷橋を起点に
天満橋の上手の備前島まで全長1.5km、川幅30Mにも及ぶ川でした。


鯰江川は現在は埋め立てられていますが、
鯰江川の跡と右岸の古堤街道は2本の隣接する道路となっていて、
当時を想像しながら散策を楽しめる街道です。

鯰江川と古堤街道(今福)
鯰江川と古堤街道


嘗て、京阪電車天満橋と京橋駅の間に野田橋駅(片町駅)があり,
野田橋は駅のすぐそばの鯰江川に架かっていました。


野田橋で京都を目指す京街道と奈良を目指す古堤街道はここで別れます。
古堤街道は鯰江川・寝屋川に沿って東へ進み
生駒山を越え奈良を目指す街道です。



野田橋跡
野田橋跡


JR京橋駅には京阪モールとイオン京橋の間に、
環状線のホーム下を潜る道が2本あります。

大きい道が元の鯰江川、小さい道が鯰江川の堤だった古堤街道です。

鯰江川は埋め立てられて道路になりました。
写真の道路はその鯰江川の跡で、川の雰囲気が残っています。


鯰江川
鯰江川だった道路(イオン歩道橋から東方向)


その北側の狭い道路、これが鯰江川の土手道で古堤街道です。
京阪沿線に暮らす人達には馴染みの京橋駅前の石段は土手に上がる為のものでした。


京橋駅前の階段
鯰江川の土手道への石段


石段の上(土手上)では京街道から分岐した古堤街道が鉄道(JR京橋駅)の下を潜っています。


古堤街道
古堤街道(鯰江川の土手道)


京橋駅付近は太平洋戦争の終戦前日に大空襲があった場所でもあり、
駅傍には京橋駅爆撃慰霊碑があります。


終戦にあたり、大阪城一体にあった兵器工場(砲兵工廠)を抹消するために
爆撃機の大群がやってきてそのうちの一発が
京橋駅ホーム下に避難していた一般人を襲い、何百人もが焼死したそうです。


京橋駅爆撃慰霊碑
京橋駅爆撃慰霊碑
火除地蔵
火除地蔵尊


鯰江川に戻り、JR環状線を潜った後に、振り向いた写真です。
赤レンガの遺跡かと思ったら高層住宅のようです。

鯰江川
鯰江川(JRを潜り西方向)


古堤街道を進むと都島区と城東区の分岐に出て、
交差点の隅に鯰江川に架かっていた蒲生橋の親柱があります。


鯰江川は大阪市東北部の悪水を排除するための川で、
この川には鯰が多かったことから鯰江川と呼んだとされています。


蒲生橋親柱
蒲生橋親柱


新喜多橋近くになると古堤街道と鯰江川に出来た道が接近してきて、
古堤街道のほうが高いのが実感できる場所があります。


下の写真には石段が写っていますが、これは鯰江川から堤へ上がる石段です。


鯰江川と古堤街道
鯰江川(左)と古堤街道(右)


新喜多橋を過ぎ相変わらずくねくねと曲がる道を
東へ進むと三郷橋稲荷神社があります。


三郷橋は鯰江川の起点で、三郷井路がこの下で合流したあと、鯰江川となります。

今福には鯰江小、鯰江中、鯰江公園と今でも鯰江の名称が多く残っており、
鯰江川の影響を大きく受けた場所であることが分かります。


三郷橋稲荷神社
三郷橋稲荷神社


<野田橋跡>


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