エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@阿遅速雄神社

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)

阿遅速雄神社(大阪市・鶴見区・放出)に関する記事です。

阿遅速雄神社(あじはやお)はJR片町線の放出駅の東200m、
放出街道とも称される中高野街道沿いにあります。

放出マイマップ

放出マイマップ

古大和橋&第二寝屋川
第二寝屋川に架かる古大和橋

踏切から放出駅
JR片町線を渡る放出街道(左:古大和橋、右:阿遅速雄神社)

起源は定かではありませんが、祭神の阿遅鋤高日子根が当地に降臨し
土地を開拓して、民に農耕の業を授け、守護神として祀られたのが創始とされます。

阿遅鋤高日子根は鋤の文字からも推察できますが、農耕で知られる神です。

阿遅速雄神社の神門
阿遅速雄神社の神門

阿遅速雄神社の境内には、仁徳天皇が病になったとき、
阿遅鋤高日子根が夢枕たった菖蒲神池があります。

ここの菖蒲によって病を治癒されたことに因み
菖蒲刈祭は特殊祭典として伝わっています。

阿遅速雄神社の鳥居
阿遅速雄神社の鳥居

阿遅速雄神社は摂津国・東成郡鎮座とされる式内小社です。

祭神: 阿遅鋤高日子根
配祀:八劔大神

大化改新で上町台地の東部を難波大郡(東成郡)、
西部を難波小郡(西成郡)と定められました。
放出は東成郡の更に東・河内湖沿いの湿地に開拓された集落です。

阿遅速雄神社の拝殿
阿遅速雄神社の拝殿

江戸時代中期までは当社は八剣神社と呼ばれていました。

畿内の地誌編集に従事した並河誠所が延喜式の阿遅速雄神社にあたるとし、
阿遅速雄社標石を建て、以降、阿遅速雄神社と改称しました。

阿遅速雄社標石
阿遅速雄社標石

古代の放出は河内湖の北岸に当り、淀川分流の高瀬川の河口でした。

667年新羅の僧の道行が熱田神宮の秘宝「草薙剣」を盗み出し
船で新羅に逃げ帰る途中、嵐に会い、当時淀川の河口だった放出まで戻されました。
道行はこれを神罰と思い、草薙剣を河口に放り投げますが、村人がこれを拾い、
阿遅速雄神社に一時的に保管され、結局、熱田神宮に戻ることになります。
このことから放出という地名がついたと言われます。

古代河内湖

古代河内湖マイマップ

草薙剣で結ばれた縁で阿遅速雄神社と熱田神宮では現在でも、
例祭日にはお互いに参列する慣習が続いているそうです。

しかし日本書紀や熱田神宮の社伝によると実際に草薙剣が熱田神宮に返されたのは
天武天皇が草薙剣の祟りで崩御された686年とあります。
草薙剣は盗まれてから20年近く宮中に保管されていたともあり、
天武天皇が真の窃盗犯かも知れません。

阿遅速雄神社の本殿
阿遅速雄神社の本殿


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阿遅速雄神社の参道⑥船玉神社(東大阪市・鴻池徳庵)
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阿遅速雄神社の参道⑧茨田大宮神社(大阪市・鶴見区・茨田)
阿遅速雄神社の参道⑨古宮神社(大阪市・鶴見区・浜)
阿遅速雄神社の参道⑫野崎街道・千林商店街(大阪市・旭区)
阿遅速雄神社の参道⑬千人塚(大阪市・旭区)
阿遅速雄神社の参道⑭大宮神社(大阪市・旭区・大宮)
阿遅速雄神社の参道⑮強頸絶間(大阪市・旭区・千林)
阿遅速雄神社の参道⑯八幡大神宮(大阪市・旭区・清水)
阿遅速雄神社の参道⑰野崎街道・両国(大阪市・旭区)





阿遅速雄神社の参道⑭大宮神社(大阪市・旭区・大宮)

阿遅速雄神社の参道⑭大宮神社(大阪市・旭区・大宮)に関する記事です。

大宮神社は千林商店街、大宮商店街と2つの商店街の先に鎮座する神社です。
昔は関目七曲がりに一の鳥居があり、そこから北へ1.2kmもの参道が続きました。

大宮神社参道

大宮神社参道マイマップ

千林商店街は全長660mで、220店舗が並ぶ、大阪でもトップの大商店街で、
もちろんアーケードの参道を見学しながらの参拝となりました。
立派な松茸が手頃な値段で沢山並んでいて、しばし夢を見させてもらいました。

何故千林にこんなに多くの商店が集まったのかというと
このあたりは京街道、野崎街道が通る交通の要所で、
この野崎街道に沿って発達したのが千林商店街で、卸問屋も集まりました。


千林商店街
千林商店街

旭区の大宮神社の北500m程に淀川がありますが、
対岸の先の東淀川区・豊里にも安閑天皇を祭神とする大宮があります。
淀川の南岸(左岸)、北岸(右岸)の両岸に同じ豊里の地名もあり不思議です。

実はこのあたりは明治33年(1900年)の淀川改修で今まで陸続きだった場所に、
現在の巨大な新淀川が開削され北岸(右岸)と南岸(左岸)に分かれた歴史があります。

新淀川に分断された後は、渡し舟(平太の渡し)が両岸を繋いでいましたが
昭和45年(1970年)に念願の豊里大橋が架橋されて
昔のように自由に往来が可能になりました。

豊里大橋
 豊里大橋(新淀川に分断された地域を繋いだ)

平太の渡し跡
平太の渡し跡

祭神:応神天皇、神功皇后、姫大神
合祀:十五社大神他

大宮神社の創建は今から約830年前に遡ります。

文治元年2月(1185年)に源義経が平家追討のおり、
この地に立ち寄り、宇佐八幡の神の霊夢を見て目覚めたところ、
梅の木に鏡が掛っていました。

義経は源氏の氏神でもある八幡神の鏡を奉じて平家を打ち滅ぼします。

このことを後鳥羽天皇に奏上して神社建立を許され、
この地に社を建て「大宮八幡宮」と称したと伝えられます。
摂津誌には「南島神社」と記されています。

(大宮神社社伝より)

 

大宮神社1
大宮神社の鳥居


大宮神社2
大宮神社の拝殿

天正11年(1583年)には豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、
当社を「鬼門守護神」と崇めました。

社殿・末社の建立や神域の整備が手がけられ、
社殿は広壮で境内は3ヘクタールもあったと伝わります。


大宮神社3
大宮神社の本殿1

大宮神社4
大宮神社の本殿2


大宮神社には、神社の由緒・歴史を伝える立派な古図があり、
秀吉の時代のものを借りてきました。

右の道が七曲りと呼ばれた京街道で、一里塚も見えます。
七曲がりから白い一の鳥居を潜ると、長い参道(大宮道)が始まり、
楼門・二の鳥居・拝殿・本殿と沢山の境内社が見えます。


大宮神社古図
豊臣秀吉の頃の古図



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<関連記事>

大宮神社の境内①いぼ大神社

拝殿前にそびえるモチの木を神木とするいぼ大神です。

近所のお母さんがモチの木を盛んに触っていましたが、
木肌と自身の肌を交互に撫でると、
疣はもとより、あらゆる病気も必ず治ると言い伝えられています。


大宮神社5
いぼ大神社





阿遅速雄神社の参道⑮強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)

阿遅速雄神社の参道⑮強頸絶間趾(大阪市・旭区・千林)に関する記事です。

強頸絶間趾(こわくび・たえま)は京阪千林駅南西200m
千林商店街の南側、戦災を免れた古い民家が建ち並ぶ路地の一角にあります。


千林駅の周辺は旧京街道沿線で、
京街道から分岐する野崎街道に沿って発達したのが千林商店街です。
明治18年の淀川大氾濫の改修工事が行われるまでは
商店街の近くを淀川が流れていました。


千林商店街
千林商店街


強頸絶間趾は商店街のすぐ側にある下の写真の高い蔵が建つ場所にあります。

この蔵は淀川流域に発達した「段蔵」と呼ばれるもので、
米俵や家財を洪水から守るため、
家の床よりも一段高く石垣を築き、その上に蔵を建てました。


庄屋の段蔵
強頸絶間趾にある段蔵


仁徳天皇の時、暴れ川であった淀川の治水対策としてに茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、
次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(大阪湾)に落とす大工事を行いました。


しかし茨田堤の築造は決壊しやすい場所が2箇所あって万策尽きてしまいます。
そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神からお告げを得ました。

♪武蔵国の人・強頸と河内国の人・茨田連衫子を人身御供にすれば成功する♪

ただちに2名は捕らえられ、衫子は「瓢箪の賭け」に勝ち難を逃れたましが、
強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められ、堤は完成したとされます。


江戸時代の『摂津名所図会』によれば、
「強頸絶間」の跡は絶間池として残っていたとされ、この場所が比定地です。

注1:「瓢箪の賭け」

衫子は人身御供にされる時、瓢箪を川に投げ入れ、これを鎮めたら生け贄になってやると叫び、
龍神との賭けに勝ち助かりました。瓢箪は沈みません。


強頸絶間之址

強頸絶間之址


一方、茨田連衫子が人柱にされそうになった茨田堤の北の難所・
衫子絶間は寝屋川市の太間地区にあり、太間天満宮では袗子を祭っています。


注2)衫(ころも)とは一重の上着のことで、堤の工事で衫子が着ていた服でしょうか?


太間茨田堤記念碑
衫子絶間・茨田堤碑(寝屋川市・太間)


淀川太間公園の堤には茨田堤碑があり、茨田堤の分岐点との説明があります。
茨田堤は外堤と内堤2本あり、本流の外堤は衫子絶間~強頸絶間と流し、
内堤は現在の古川沿いに生駒山西麓方面へ流しその間を茨田屯倉とする説です。


~当時淀川は水量も多く、それを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤です。
一は現在とあまり変わらず西南流し、一は南流して生駒山の西麓で大和川と合していた。
その分岐点がこの碑の建つあたりと考えられる~


茨田堤概念図2
茨田堤概念図



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阿遅速雄神社の参道⑬千人塚(大阪市・旭区)

阿遅速雄神社の参道⑬千人塚(大阪市・旭区)に関する記事です。

5月末日に妻と延々と続く千林商店街を歩き抜けて、
淀川左岸に隣接する城北公園に行ってきました。

淀川マイマップ
淀川マイマップ

城北公園は、明治に行われた淀川付け替え工事で、
空き地となった旧淀川の河川敷を利用して造られた公園で、昭和9年に開園しました。

城北公園内を菅原城北大橋が突っ切り、淀川を跨ぐ形になっています。

城北公園と河川敷は一体化して公園内を巡っていると
淀川堤防に繋がって城北ワンドも目の前です。
淀川はワンドの草木に隠れていますがその後ろです。

菅原城北大橋
ワンドと菅原城北大橋

ワンドの周囲には沢山の人が座り釣りを楽しんでいて、
更にその向こうに見えるのは赤川鉄橋です。

城東貨物線でしたが、来年にはおおさか東線が延長されて通る予定です。

赤川鉄橋
ワンドと赤川鉄橋

堤防の上には祠と碑が見えるので行ってみると、
千人塚という太平洋戦争の犠牲者を弔う施設でした。


1945年6月7日、朝からの焼夷弾の大量投下で工場や民家が炎上し、
近くの住民や繊維工場で働いていた四国の女学生が集団で城北公園に避難しました。
米軍機はゲームを楽しむ様に低空から機銃掃射を執拗に繰り返し、
木に隠れた女学生まで撃ち殺しました。

千人塚
千人塚1

6月7日の惨劇で数万人の人が死に、
その内身元の分からない千人数百人の遺体をここで荼毘にふしたとされます。
ガソリンをかけて遺体を焼き3日3晩に及んだとされます。

千人塚2
千人塚2

前回は長柄橋でも同じ6月7日に400人が機銃掃射で惨殺されたことを
知りましたが淀川のこの当りを通る度に戦争の惨劇が目に浮かびます。

今日妻とここへ来たのは、城北菖蒲園で菖蒲を見る為で
そちらの写真も添付しておきます。

城北菖蒲園1
城北菖蒲園1

城北菖蒲園2
城北菖蒲園2


阿遅速雄神社の参道⑫野崎街道・千林商店街(大阪市・旭区)

阿遅速雄神社の参道⑫野崎街道・千林商店街(大阪市・旭区)に関する記事です。

千林商店街は京阪千林駅の北側から西1号線まで660m、
220店舗に及ぶ活気があって歩くだけでも楽しい商店街です。

大宮神社参道

千林商店街マイマップ

大宮神社は千林商店街、大宮商店街と2つの商店街の西の先端に鎮座する神社です。

大宮神社1
大宮神社の鳥居

大宮の地名は大宮神社が由縁で江戸時代には関目七曲がりに一の鳥居がある広大な神社でした。
森小路~千林~内代の各町を含む一連の地域が氏地でした。

千林大宮商店街アーチ
大宮商店街西アーチ

大宮商店街が終ると一号線を挟んで千林商店街が始まります。

千林商店街アーチ
大宮商店街東アーチと千林商店街西アーチ

このあたりは京街道、野崎街道が通る交通の要所で、
この野崎街道に沿って発達したのが千林商店街で、卸問屋も集まりました。

千林商店街
千林商店街

下の写真では左が京街道(161号)、右が野崎街道です。

京街道野崎観音交差点 (1)
京街道(左)と野崎街道(右)の交差点

交差点の辺りには江戸時代から昭和30年頃まで、 水利や運搬のための井路川が流れていました。
井路川を通る小船は 作物や肥料,人々を運んでいました。

井路川がカーブする場所には朝日地蔵があって、
鼻に棹をさして舟が曲がった為、地蔵の鼻が欠けています。

朝日地蔵1
朝日地蔵1(井路川沿いにあった)

また、歯が痛い時、無言で一週間お参りをすれば治ると言われて、
無事に願いが叶ったら、お礼にお酒をかけるそうです。 

朝日地蔵2
朝日地蔵2(船の棹で地蔵の鼻が欠けている)

千林商店街沿いの浄光寺付近には古い屋敷や蔵が たくさん残っており、
落ち着いた風情をみせています。

家の基礎を高くしたり石垣を組んだりして住居や蔵を建てているのは、
家の前に井路川が流れていた名残です。
また、水害対策のために造られた2階蔵も残っています。 

千林の集落
千林の集落

千林集落には衫子絶間と並ぶ茨田堤の築造の難所の強頸絶間趾があります。
強頸絶間では武蔵の国の強頸が人柱になりました。

強頸絶間之址
強頸絶間之址

井路川は、近世の大阪発展に大きな役割を果たしてきた動脈でした。
千林商店街の井路川は淀川より取水し、鯰江川に流れていました。

千林駅
京阪千林駅

鯰江川は別名野崎道とも呼ばれ八軒屋浜からの「野崎参り」の主力ルートでもあります。
千林の人達は井路川から船で古堤街道の北を東進して野崎観音へ参拝していたのでしょう。

千林商店街東アーチ
千林商店街東アーチ

アーチの先は京阪を潜り野崎へ
京阪高架を潜り野崎へ(昔は船で行った)

野崎街道・両国へ続く

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