エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@垂水神社

垂水神社(大阪市・吹田市・垂水町)

垂水神社(大阪市・吹田市・垂水町)に関する記事です。


垂水神社は阪急千里線の豊津駅前の西600m、
神崎川右岸の2kmに位置する神社です。


神崎川の右岸400mには五反島遺跡がありますが、
この五反島遺跡は旧神崎川の遺跡で
垂水神社は平安時代に五反島で八十嶋祭を司っていたともされる神社です。


神崎川は延暦4年(785)に淀川を結ぶ運河が開削された川で、
平安京にとっては西国との物流路となる特別な川でした。


神崎川(吹田)

垂水神社と神崎川マイマップ


豊津駅前では神崎川支流の糸田川と上の川が合流しています。
両川とも千里丘陵から流れる川ですが、天井川で度々洪水を起こした為に、
昭和初期に、上の川が付替えられ、この地点で糸田川に合流することになりました。


垂水神社へは南流する糸田川と別れて、旧吹田街道沿いを西へ徒歩15分程度です。


糸田川と上の川が合流
糸田川(右)と上の川(左)が合流


垂水の地名由縁は飛鳥時代の孝徳天皇(645-654)の時、
旱魃で水不足の難波宮まで架け樋を通して水を流したことに始まります。


大化の改新のときに都が奈良から難波長柄豊碕宮(前期難波宮)に遷されました。
当神社は、難波長柄豊碕宮の北9kmに鎮座し、起源も難波宮設立の時期に重なっています。


垂水神社の一の鳥居
垂水神社の一の鳥居


千里丘陵の南部にあたる垂水基岡(千里山)の南麓に鎮座しています。


「垂水」というのは「垂れ水」すなわち「滝」ということで
多くの「垂水」は消滅しましたが、垂水神社の境内に由縁の滝が僅かに残ります。


垂水神社の表参道(垂水基岡)
表参道と垂水基岡


垂水神社の注連縄柱
表参道の終わり・社殿への石段


垂水神社は摂津国・豊島郡・月次新嘗と記される名神大社で、
第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を主祭神とします。


祭神:豊城入彦命
殿神:大己貴命、少彦名命


孝徳天皇の時(645-654)に旱魃があり、
豊城入彦命六世孫の阿利真公(ありま)が「垂水岡」から
高樋で難波長柄豊碕宮まで水を通しました。
その功により阿利真公は「垂水公」の姓を賜り、垂水神社を管掌したとされます。


垂水神社の拝殿1
垂水神社の拝殿1


祭神の豊城入彦命の母は紀伊国の荒河戸畔(あらかわ・とべ)の娘の
遠津年魚眼眼妙媛(とおつ・あゆ・めまぐわし)で、
初代齊宮の豊鍬入姫命の同母兄にあたります。


垂水神社の拝殿2
垂水神社の拝殿2

崇神天皇は豊城入彦命と活目尊(垂仁天皇)のどちらを後継者とするか、
それぞれの見た夢で決めました。

豊城命の夢は三輪山に登り、東に向かって槍や刀を振り回すもの。
活目尊の夢は三輪山に登り、四方に縄を張って雀を追い払うもの。

弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして天皇とし、
豊城命は東国を平定させるために派遣しました。

豊城入彦命は日本武尊のモデルとも考えられています。


垂水神社の本殿
垂水神社の本殿


延喜式によると垂水神社は住吉大社・大依羅神社・中臣須牟地神社などともに
八十嶋祭を司る神社と記される神社です。


垂水神社が八十嶋祭に使用した鏡は径5寸と書かれますが、
近年旧神崎川の五反島遺跡から延喜式の記述に相当する古鏡が発見され、
五反島で八十嶋祭が行われたとの説が浮上しています。

鏡2(河道内出土)
八十嶋祭の古鏡

垂水神社の社殿の西は鬱蒼とした森で垂水の滝があり、
志貴皇子(~716)の万葉歌碑があります。


志貴皇子は天智天皇の第七皇子で皇位継承から外れ詩人として暮らしていましたが、
息子の白壁王が、光仁天皇として即位しため、脚光を浴びました。


♪石走る垂水の上の早蕨の
     萌え出づる春になりにけるかも♪   志貴皇子の歌


志貴皇子の歌碑
志貴皇子の歌碑


垂水の滝ゾーンには小瀧・本瀧様々の周囲に様々な祠が祀られています。
垂水公が垂水神社を祭る以前はこの様な水の神を祀る祠が点在する場所だったのでしょう。

垂水神社は旱魃の際に祭祀をおこなう神社のひとつで,
しばしば朝廷から祈雨の奉幣を受けていました。


垂水の滝道標
垂水の滝道標

垂水神社は弥生時代中期から後期にかけての垂水遺跡の場所でもあります。

これまでの発掘調査で、丘陵上で竪穴式住居跡や掘立柱建物跡などが確認され、
丘陵上に弥生時代の集落が展開していました。

垂水の滝・本滝
垂水の滝・本滝

垂水の滝・小滝
垂水の滝・小滝



垂水遺跡出土土器
垂水遺跡出土の弥生土器

<関連記事>
垂水神社の参道①吉志部神社(吹田市・岸部北)
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垂水神社の参道⑲新在家八満宮(摂津市・新在家)




垂水神社の参道①吉志部神社(吹田市・岸部北)

垂水神社の参道①吉志部神社(吹田市・岸部北)に関する記事です。

吉志部神社はJR東海道線・岸辺駅の北西1km、
紫金山公園にあります。

紫金山公園は野鳥が囀る自然公園で
吉志部神社の他に瓦窯跡、博物館もあり1日かけて楽しめる場所です。

吉志部神社

紫金山公園マイマップ

岸辺は古くから吉志部と表記されていた場所で、
明治時代に吉志部村が合併して岸辺村と変わっています。

当社は「八社明神」とも「太神宮」とも呼ばれていましたが、
明治3年(1870)年に吉士氏の本拠地の「岸部」にちなんで
「吉志部神社」という社名に変更しました。

一の鳥居と参道
吉志部神社の一の鳥居

吉志部神社は摂津国・島下郡に所属で、
島下郡は701年の大宝律令により三島郡が島上郡・島下郡に分けられて成立しました。

一の鳥居から二の鳥居まで一直線の参道が延々と続きますが、
この参道は島下郡条里の方位に一致するといわれます。


吉志部神社の参道
吉志部神社の参道(島下郡条里の名残)

社殿によると第15代応神天皇の時に大和国の磯城瑞籬宮(しき・みずがき)より
勧請・創建したものとされます。
磯城瑞籬宮は第10代崇神天皇の皇居です。

吉志部神社の二の鳥居
吉志部神社の二の鳥居

吉志部神社は6世紀末から7世紀初頭にかけて朝鮮半島より渡ってきた、
難波吉士氏(きし)が本拠地に祖霊神を祀って一族の守護神社としたものです。

吉士氏の祖には難波三綱がいます。

難波吉士三綱は672年の壬申の乱で大海人皇子の側につき、
都を脱出した大津皇子に同行しました。

大海人皇子の勝利で吉士氏も認められ繁栄したものと思われます。


吉志部神社の神門
 吉志部神社の神門(元は割拝殿)


難波吉士氏は阿倍氏の管理下に置かれ、
阿倍氏の遠祖である大彦命の後裔を称しました。
大彦命と難波三綱が本来の祭神だったのかも知れません。

<現在の祭神>
中座:天照大神、豊受大神
左座:八幡大神、素盞嗚大神、稲荷大神
右座:春日大神、住吉大神、蛭子大神

吉志部神社の拝殿
吉志部神社の拝殿


戦国時代に焼失・壊滅しますが、
三好長慶の孫で吉志部姓を名乗る家次と一和の兄弟が再興します。
造営は舌味村の大工によると伝わります。

吉志部神社の本殿
吉志部神社の本殿と境内社(大川神社)

吉志部神社では秋の例大祭に、「どんじ」と呼ばれる特殊神事が行われます。

「どんじ」の主な内容は稚児と呼ばれる幼女が
餅米を蒸した白蒸しや小判餅、茄子、栗、柿を串にさしたお供えを神社へ奉納することです。

幼女は特殊ないでたちで神へ仕える巫女の性格を負い、
神社の裏にある釈迦ヶ池に住む大蛇への人身御供の名残と伝えられています。


どんじ祭り(当事)
どんじ祭り(当事)

幼女が被っているものはサンドラ(桟俵)と呼ばれる御幣がついた藁製の輪で、
かつて神饌を頭上運搬するのに用いられてきたものです。

中央の奥に並んでいる背の高い藁のお供えは主食の餅米を蒸した白蒸です。
最前列の中央には菓子と呼ばれる串に刺された副食です。

どんじ祭り(当事)2
どんじ祭りの奉納物

吉志部神社の背後には大蛇が棲んでいた釈迦ヶ池があり、
高速道路の騒音も消え、生け贄にされた稚児の残像が浮かびます。

釈迦ヶ池
釈迦ヶ池

吉志部神社の周囲は吉志部瓦窯跡と呼ばれる国の史跡です。
平安京への遷都の時、大量の瓦を焼き平安京造営のニーズに応えました。

吉志部瓦窯の模型
吉志部瓦窯跡




垂水神社の参道⑯味生神社(摂津市・一津屋)

垂水神社の参道⑯味生神社(摂津市・一津屋)に関する記事です。

味生神社は門真市駅からモノレールに乗り、鳥飼大橋を渡った南摂津駅の南850m
淀川右岸土手沿いに鎮座する神社です。

摂津市マイマップ

摂津市マイマップ


桓武天皇が淀川と三国川(神崎川)を結ぶために鯵生野を開削し、
味原牧と呼ばれる牧場が広がっていた「アジ」と呼ばれた地域です。

鳥飼大橋
鳥飼大橋


味生神社の鳥居は参道では無く、淀川に向けて建てられています。


鳥居の横には宮ノ下渡し跡の説明板があり、
船でやってくる人たちを迎える為の鳥居だったことが分かります。


一津屋味生神社は京都から熊野詣に出かける人や
摂津国と河内国を行き交う人たちで大いに賑わったことと思います。

味生神社
味生神社の鳥居(淀川から船客を迎える)


宮ノ下渡しは、摂津の一津屋と河内の大庭を結ぶ渡しで、
戦国時代末から昭和初期まで続いたそうです。


昭和29年の鳥飼大橋完成によって姿を消しましたが、
「鳥飼の渡し」とともに摂河を結ぶ重要な交通上の役割を果たしてきました


宮ノ下渡し跡
宮ノ下渡し跡


味生、味府、味生、味経、鯵生などと表記されますがアジフと読みます。


味生は難波宮ができるまで孝徳天皇の仮宮「味経宮」が置かれた場所です。
味経宮のあったといわれる場所に、後に味経神社が建てられました。

味生神社の拝殿
味生神社の拝殿

さらに、長岡京遷都の翌年の延暦4年(785 )
和気清麻呂が淀川と安威川(神崎川とも)をつなぐ大工事にかかったため、
味経神社は3分割されそれぞれの村の守護神として移転されたといわれています。


それが別府の味府神社、一津屋の味生神社、新在家の八幡宮とされます。


祭神:素盞男命、天照大神、八幡大神


味生神社関係図
味経宮トライアングル・マイマップ


味生村(あじふむら)は、現在の摂津市の南西部にあり、
摂津国島下郡の別府村・一津屋村・新在家村をもって発足しました。

味生神社の鎮座地は、味生と一津屋(ひとつや)の地名が混在していますが、
味生は一津屋を含むもっと広い地域にあたります。

味生神社の本殿
味生神社の本殿


味生神社の境内には旧一津屋公会堂の建屋が保存されており郷愁を誘います。


大正2年に芝居小屋として建築されたもので、
旅回りの劇団公演や地元青年団の芝居などが行われていました。


旧一津屋公会堂
旧一津屋公会堂


往路で寄った大阪モノレール南摂津駅では、井路舟を展示していました。


一津屋地区は、昭和40年頃まで湿田地帯で、
刈り取った稲などを載せた舟が行き交う水郷風景が見られていました。

井路舟は、湿田に農道代わりに張り巡らされていた井路を行き来し、
リヤカー代わりに肥料や収穫した稲などの運搬に使われていました。


人が乗るときは櫂棒で水路底や土手を押して進み、
荷をたくさん積む時には人は乗らず、
綱をつけて水路わきの畔から引っ張るなどして使用しました。


井路船
井路船

井路
水路


帰路は淀川を遡り、鳥飼仁和寺大橋を渡って寝屋川へ帰りました。
鳥飼の堤防には「千本つきの歌碑」がありました。

これは明治の新淀川開削の時、付近の農民も駆り出され
男はトロッコを女は丸太や杵で堤防を突き固める作業に従事した時のものです。

千本つきの歌碑
千本つきの歌碑

寒波の続く淀川の土手では大勢の人がランニング、ウォーキング、球技などに熱中しており、
早春の野草オオイヌノフグリ、ヒメオドリコウが色づいていました。

ベニマシコのたちも春の渡りが近づき、採餌に夢中で警戒心が薄れていました。

ベニマシコ♂
淀川河川敷のベニマシコ♂

バニマシコ♀
淀川河川敷のベニマシコ♀





垂水神社の参道⑥アサヒビール旭神社(吹田市・出口~西の庄町)

垂水神社の参道⑥アサヒビール旭神社(吹田市・出口~西の庄町)に関する記事です。


旭神社はアサヒビール発祥の地・吹田市にある神社です。

JR東海道線と阪急千里線が交差する交点の北側領域に展開している
アサヒビール吹田工場の迎賓館地区にあります。

アサヒビール航空写真

吹田街道マイマップ

アサヒビールの南側は泉殿宮で、
近代までは吹田三名水の一、泉殿冷泉が湧き出る場所でした。

吹田三名水の残る二は、佐井寺の佐井の清水と垂水神社の垂水の滝です。

明治22年(1889)、この清水をドイツのミュンヘンに送り、
ビール醸造に最適との保証を得て、アサヒビール(大阪麦酒)を建設しました。

アサヒビール工場
アサヒビール工場

その工場の向かいにアサヒビールの「先人の碑 迎賓館」があります。
ここの庭園にとてもみごとなしだれ桜が咲いていて、一般に開放されていました。

しだれ桜
迎賓館のしだれ桜

明治の創業以来好調を維持したアサヒビールですが、
戦後の高度成長期で東京一極集中が進む中、長い低迷期に入ります。

昭和62年「アサヒスーパードライ」の発売以降、経営状態を回復し、
現在も発泡酒・第三のビールに取り組み好調を維持しています。

先人の碑は「アサヒスーパードライ」発売の翌年に建てられたもので、
当初の先輩先達を忘れず、発展を続けるとのちかいの碑でした。



先人の碑
先人の碑

迎賓館の庭園の東には明治39年(1906)に創建された旭神社があります。

平成元年に工場の敷地内から庭園に遷座したものです。

旭神社の鳥居
旭神社の鳥居

祭神:天照大御神、伏見大神、松尾大神、少彦名大神、神農大神

伏見大神は産業の神、松尾大神は酒造りの神
少彦名大神と神農大神は医薬の神です。


旭神社の本殿1
旭神社の本殿1

旭神社の本殿2
旭神社の本殿2




垂水神社の参道③天津神社(吹田市・岸部北)

垂水神社の参道③天津神社(吹田市・岸部北)に関する記事です。

岸部天津神社はJR京都線の岸辺駅の南西400m、
線路を貫通する岸辺南地下道の少し南側に位置する祠です。


地下道から園児達の大きな騒ぎ声が聞こえたので覗いてみました。


岸辺南地下道1

岸辺南地下道1(天津神社はトンネルに入らない)


トンネル内は全面に楽しい壁画が描かれ、お化け屋敷のような雰囲気で
園児たちの楽しい遊び場のようでした。


岸辺南地下道2

岸辺南地下道2


トンネルからもとの道に戻りレトロな曲道を進むと並田酒店があり、
右に入ると天津神社があります。


並田酒店
並田酒店を右へ


地名の岸部は吉志部神社の吉志部で
朝鮮からの渡来人である吉師が住んでいたことからの地名です。


天津神社の小祠は忍熊王の首が埋められた場所に建つという言い伝えがあります。
忍熊王は、五十狭茅宿禰と謀反を起こし、
追いつめられて両者ともに瀬田川の渡場に入って死んだといわれます。

天津神社全景
天津神社全景

五十狭茅宿禰の後裔に「難波の吉士」という氏族がおり、
吉志部の地域を支配していたとされます。


天津神社境内の燈籠には「難波吉師霊燈」と刻まれており、
こうした考えが吉志部で広く受け入れられていたからと思われます。


天津神社の社殿
天津神社の社殿と燈籠


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