エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@魚住住吉神社

魚住住吉神社(兵庫県・明石市・魚住町・中尾)

魚住住吉神社(兵庫県・明石市・魚住町・中尾)に関する記事です。

魚住住吉神社は山陽魚住駅の南300m
播磨灘に面した海岸沿いに鎮座する神社です。


山陽魚住駅では駅の通路から深海の雰囲気が漂い、
海の神社へ参拝する気分が高まります。


山陽魚住駅1
山陽魚住駅1

山陽魚住駅2
山陽魚住駅2


魚住住吉神社は海からの参拝者を迎える形の鳥居・参道で、
実際に海岸を散歩してきた近所の人たちが盛んに参拝していました。


当社は神功皇后が大阪の住吉大社を建てる前、三韓征伐の往路で参拝した神社で、
魚住は住吉神社の発祥の地とも称されています。


住吉神社の鳥居
住吉神社の鳥居(海から迎える)


海に向けた石鳥居の傍には灯台の役目を兼ねた常夜灯があり、
その先に青い海と沢山の釣り船が見えました。


住吉神社から見える海岸は錦浦とも呼ばれ現在の地名にも残りますが、
松に掛けた神功皇后の衣が錦のように輝いたことによります。

灯台を兼ねる常夜灯
灯台を兼ねる常夜灯(錦浦)


神功皇后は三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難しましたが、
住吉大神に戦勝祈願をすると暴風雨が鎮まりました。


神功皇后は凱旋帰国後に、播磨灘の住吉大神に敬意を表し、
摂津国の住吉郡に住吉大社を創建しました。


住吉神社の楼門
住吉神社の楼門


狛犬
楼門の狛犬


住吉神社の能舞台
住吉神社の能舞台


摂津国の住吉大神より「播磨国に渡り住みたい。
藤の枝の流れ着く所に祀れ」との託宣があり、
藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いたとされます。


住吉神社の拝殿
住吉神社の拝殿

雄略天皇8年(464)に藤が流れ着いた魚住のこの場所に
住吉大神を勧請したのが当社の創建です。


祭神:底筒男命、中筒男命、表筒男命、気長足姫命

住吉神社の本殿
住吉神社の本殿


住吉神社の境内に続く住吉公園には神功皇后祈願場所ともされる旧社地跡があります。

神功皇后が新羅遠征の折り、当海岸で停泊し、神籬をたてて戦勝を祈願した場所です。

雄略天皇8年に大阪の住吉大社から勧請した時はこの場所に住吉大神を祀りました。

その後、正応5年(1292)には少しだけ移動し現在地となりましたが
六角形燈籠の礎石は当時のものが残っています。


住吉神社の旧社地跡
住吉神社の旧社地跡(神功皇后祈願場所)

住吉神社の鳥居の外は播磨灘で、魚住漁港が海岸に広がっています。
鹿ノ瀬と呼ばれる水深2m~40mの太陽光線がたっぷり届く浅い棚で
大量のプランクトンが発生する古くからの漁場です。

魚住の地名はその名前の通り多くの魚が住む場所から付けられたものですが、
命名の起源は古く判明しません。

魚住漁港
魚住漁港


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魚住住吉神社の参道⑧明石岩屋神社(明石市・材木町)

魚住住吉神社の参道⑧明石岩屋神社(明石市・材木町)に関する記事です。

岩屋神社は明石駅の南西1km,
漁船や釣り船で賑わう明石港のすぐ西側に鎮座しますが、
太古に淡路島の岩屋から勧請した神社です。

明石港(プレジャーボート)
明石港(釣り船)

明石港は10年前は大型旅客船が頻発していましたが、
今は淡路ジェノバラインによる岩屋航路のみになり、
波止場は夜明けに漁を終えた漁船や釣り船で満杯でした。

明石港の漁船は皆明石丸という名前で、
束ねた大型の底引き網が船尾に立てかけてあります。

明石港の漁船
明石港(底引き漁船)

明石の漁船の底引き漁はタコ、イカ、アナゴ・・・などですが、
一人でやる船が多いそうで、命懸けの仕事です。

漁師さんの日焼けでできた深い皺を見ると人生の重みを感じます。


漁を終えた漁船
明石港2(漁を終えた漁師)

岩屋神社は播磨国・明石郡鎮座とされる伊和都比売神社の論社のひとつで、
成務天皇の時、淡路島の岩屋より勧請したのが創祀です。

祭神:伊弉諾命
配祀:伊弉冊命、大日孁命(おおひるめのみこと)、月読命、恵比寿命、素盞嗚命

 
岩屋神社の鳥居
岩屋神社の社頭

岩屋エビス、六所大明神、伊和都比売神社、などと呼ばれていました。

社頭には真鯛を釣り上げ笑みを浮かべる恵比寿像が置かれ、
本殿裏にも耳が遠い恵比寿に再度祈願する拝所がありました。

恵比寿像
岩屋神社の恵比寿像

明石港には船の間には産まれたばかりの子魚が群れていて
クラゲが沢山浮遊していました。
伊弉諾、伊弉冊の子の蛭子も淡島から流されたとされますが、
明石港から明石浦漁港へと続く海岸線は蛭子を祀る祠が多くありました。

明石港3(クラゲ)
明石港を浮遊するクラゲ

明石海峡には海難防止と豊漁を願って行われる夏の風物詩「オシャタカ舟神事」があり、
岩屋神社の創始の様子が再現されています。

岩屋神社の社殿
岩屋神社の社殿

氏子の若者が小さな木舟を「おしゃたか」と叫びながら、
海に放り投げて進むという夏に行われる奇祭です。

「おしゃたか」は「おじゃったか」(おいでになったか)という明石の方言です。

岩屋神社の内陣
岩屋神社の内陣

成務天皇の時、淡路岩屋の石屋神社から伊弉諾尊、伊弉册尊ら6神を迎えることになり、
明石から舟を出し、一族郎党を引き連れ淡路島に渡りました。

祭神を舟に遷し帰路に向う途中、明石海峡の潮流が速い為、明石浦に着けることが出来ず、西方の松江海岸沖の赤石(明石の起源)の所で一夜を過ごしました。
明朝、波風もおさまり、無事に現在の地に鎮座されたと伝わります。

この神々を祭ったのが岩屋神社で、子孫に伝えるための祭りが「オシャタカ舟神事」です。

大蔵海岸2
明石海峡(淡路岩屋方面)





魚住住吉神社の参道⑩旧波門崎燈籠堂(明石市・港町)

魚住住吉神社の参道⑩旧波門崎燈籠堂(明石市・港町)に関する記事です。

明石川河口から明石浦漁港を東へ進むと明石港波止場があり、
旧波門崎燈籠堂は石造の灯台が見えました。


波門崎とはかつて燈籠堂が置かれた明石港の岬
旧波門崎燈籠堂は明暦3年(1657)に当時の明石藩主・松平忠国が築いたものです。


旧波門崎燈籠堂
旧波門崎燈籠堂


明石港は燈籠堂より36年前(1621)に
明石藩主・小笠原忠真によって城造りの一貫として砂浜に築かれた港です。


明石港は江戸時代に漁業の冨を得るために意図的に造られた城下町とも言えます。


明石港に入る漁船
明石港に入る漁船


明石は古くから漁業が主要な産業の一つで、
他の城下町以上に「魚」に重きを置いた町割が行われました。


江戸時代には東魚町、西魚町があり、
東魚町が現在の「魚の棚」で「魚の町」として全国に知られている場所です。


魚の棚アーケード
魚の棚1


東魚町には鮮魚、西魚町には干鰯屋が軒を連ね、城下の台所の役割を果たしていました。
西魚町 86 軒、魚屋 56 軒、うち問屋 5 軒、干鰯屋 50軒ともあります。

正月にはアカガイ、タラなどを納めたとの記録も残ります。

魚の棚2
魚の棚2(明石蛸)


明石には明治時代に漁業の発展に貢献した中部幾次郎がいます。


明治 4 年(1871)に鮮魚仲買い業の家に生まれた幾次郎は、
鮮魚を素早く運搬できる発動機船を開発し、日本の近代漁業の先駆者になりました。
現代のように冷凍技術が発達していない時代では、魚はスピードが勝負でした。


中部幾次郎(明石公園)
中部幾次郎(明石公園)


幾次郎は遠洋漁業、さらには南氷洋の捕鯨へと進出し、
日本漁業を世界の漁業に育てあげた功労者の一人です。

幾次郎が創った会社は、大洋漁業として、いまも健在です。


明石浦漁港
明石浦漁港

明石浦漁港(宗田造船)
明石浦漁港(宗田造船)


古代の明石湊は現在の明石港の西1kmにある明石川河口にありました。

播磨国風土記には、古代山陽道の 「明石の駅家」 、「林の湊」が記されており、
その位置関係から明石川の河口付近にあったと推測されます。
 
日本書紀には允恭天皇の養老4年の海人男狭磯(あま・おさじ)の記載があり
允恭天皇も明石湊から淡路島へ渡り、狩猟をしております。
五世紀以前には明石川河口に港らしきものがあったものと思われます。


明石川河口
明石川河口(古代の明石湊)


 


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魚住住吉神社の参道⑭稲爪神社(明石市・大蔵本町)

魚住住吉神社の参道⑭稲爪神社(明石市・大蔵本町)に関する記事です。

稲爪神社は山陽電鉄・大蔵駅の西500m線路沿いにある神社です。

大蔵駅から旧山陽道に入り
穂蓼八幡神社→大蔵海岸→西林寺→稲爪神社と
初めての地を散策しました。


大蔵海岸1
大蔵海岸1(明石海峡)

今日は芦屋周辺での参拝予定でしたが、
早朝の大阪の空が透明だったので、
瀬戸内海の紺碧の海が見たくなり明石まで足を伸ばしました。

山陽道では大蔵海岸の道標があったので早速目的の海岸線へ出ました。
明石海峡を見ながら釣りをする人、散歩する人様々ですが
眼前の海峡に引き込まれてか、皆寡黙でした。


大蔵海岸2
大蔵海岸2(明石大橋)


稲爪神社は越智益躬が韓国からの侵略者を倒した記念に、
自分の国の伊予大三島の大山祇神社を祀った神社です。

祭神:大山祇神、面足大神、惶根大神

稲爪神社は播磨国・明石郡鎮座とされる伊和都比売神社(いわつ)に比定される社です。

古くは稲妻大明神と称しており、稲妻から稲爪に変化しました。

稲爪神社の注連縄柱
稲爪神社の注連縄柱


面足大神(おもだる)と惶根大神(あやかし)は日本書紀に現れる夫婦神で、
良縁を授ける神として信仰されています。


また越智氏(おち)は小千氏(おち)、河野氏などとも標記され、
伊予国を根拠地として栄えた氏族です。

稲爪神社の楼門
稲爪神社の楼門


推古天皇の時、韓国から不死身の鉄人が8千人の部隊を引連れ日本を来襲しました。

九州では鉄人を退治できず、明石まで迫った時、
伊予国の越智益躬に鉄人の討伐が命じられました。


随神
稲爪神社の随神


益躬は、計略を用いて鉄人に降参したふりをして、大和朝廷へ向かう先導役となりました。

明石の浜で鉄人達が休息をした時、空が突然曇り、稲妻がおき、
おどろいた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せました。
益躬は大山祇神の託宣に従い弓矢で足裏を射て鉄人達を壊滅しました。
この矢を「鬼ざしの矢」といいます。


拝殿と「鬼ざしの矢」
稲爪神社の拝殿と「鬼ざしの矢」

明石鯛
奉納酒樽(明石鯛)


越智益躬は大山祇神が現れたこの地に故郷の大山祇を勧請して、

稲妻神社と名付け、後に稲爪に変わったのが当社です。

拝殿内部(右に牛)
稲爪神社の拝殿内部


稲爪神社の本殿
稲爪神社の本殿


その後、越智益躬の子の武男が稲爪神社の辰巳の方角に
社を建て父を祀り越智神社としました。

越智神社の祭神:鴨部大神(越智益躬)

しかし後年、九州で鉄人たちの進撃を防ぐことができなかった
武士の子孫たちが参勤交代でこの地を通る様になります。
自分達の先祖を恥じて、越智神社を避け船で通る諸侯もいました。

当時の明石城城主はこれを不憫に思い、
宝永2年(1705)に越智神社から穂蓼八幡と改名し、社殿も新築しました。

大蔵八幡神社
穂蓼八幡神社(越智神社)の鳥居

穂蓼八幡神社の拝殿
穂蓼八幡神社の拝殿




魚住住吉神社の参道⑬腕塚神社(明石市・天文町)

魚住住吉神社の参道⑬腕塚神社(明石市・天文町)に関する記事です。

腕塚神社は山陽電鉄・人丸駅の西50m線路沿いにある祠です。


源平合戦で活躍した武将、平忠度(ただのり)の右腕を祀った神社で、
腕の病の治癒で信仰されています。


腕塚神社の祠1
腕塚神社の祠1


寿永三年(1184)一ノ谷の合戦に敗れた平忠度は両馬川あたりで、
追撃を続けてきた岡部忠澄たちに追いつかれて決戦になります。


平忠度は源氏方の岡部忠澄との一騎討ちで優勢でしたが、
岡部忠澄の家人が加勢して右腕を斬り落とされ、死を悟って首を刎ねられました。
享年41歳。


♪行きくれて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主人ならまし♪  忠度

清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人でもありました。

忠度が馬を並べて戦った両馬川は現在は暗渠と化しています。


腕塚神社の祠2
腕塚神社の祠2





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