エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@城南宮

城南宮(京都市・伏見区・中島・鳥羽離宮町)

城南宮(京都市・伏見区・中島・鳥羽離宮町)に関する記事です。

城南宮は、近鉄京都線の竹田駅の南西1.2km、
平安京の羅城門から南に3kmに位置します。


竹田駅から南へ行くと近衛陵の多宝塔が見え、
そこから安楽寿院、鳥羽陵、北向不動尊、白河陵、城南宮と連続して史跡があり、
効率的に鳥羽離宮跡の探索をすることができました。


鳥羽離宮地図
鳥羽離宮地図


城南宮の西200mには鴨川が南流し、千本通りに架けらた小枝橋があります。

小枝橋は平安京の入り口の橋になっていた場所で、
戊辰戦争の発端である鳥羽・伏見の戦いの舞台になった橋です。

小枝橋は鳥羽作道に架けらた橋ですが、中世の鴨川はもっと東を流れ、
鳥羽離宮は桂川と鴨川に挟まれた場所に位置していました。


鴨川に架かる小枝橋
鴨川に架かる小枝橋


城南宮は延暦13年(794)の平安京遷都に際し平安宮の南の守護神として
国常立尊を奉祀したのが創始です。

平安時代以前は現在境内摂社で式内社の真幡寸神社が鎮座していた場所です。

祭神:国常立尊、八千矛神、息長帯日売尊


城南宮の東鳥居
城南宮の東鳥居


寛治元年(1087)白河上皇は後院として鳥羽離宮の造営に着手しました。
広大な苑池が造られその河畔に仏殿と寝殿を兼ねた華麗な建物が建立されました。

城南宮は鳥羽離宮の鎮守とされ苑池の島に造られた馬場殿におかれました。

毎年、春と秋には王朝の風俗を再現した「曲水の宴」が催されていますが、
神苑の小川に盃を流し、盃が回るまでに和歌を詠むという、古式ゆかしい行事です。


馬場殿文字
馬場殿と城南寺

城南宮は方違えの宿所や熊野詣の精進所となり、方除・厄除神として信仰されました。

日・月・星を象す城南宮の神紋は神功皇后の旗印に因んだもので、
方除の神徳を表すものです。
航海の羅針盤として日・月・星は必須のものでしたし、
渡鳥はこれを頼りに地球の自転を計算して大海を渡ります。

城南宮の赤鳥居
城南宮の赤鳥居

城南宮の拝殿
城南宮の拝殿



城南宮の神紋
城南宮の神紋(日・月・星)

城南宮の本殿0
城南宮の本殿


境内には伏見八名水の一つとされる『菊水若水』が湧き出る手水舎があり、
この湧水を飲むとあらゆる病が治るとされます。


名水と呼ばれる井戸は全国各地~近くは宇治などにもありますが、
料亭の人と思いますが大型ペットボトル20本を満タンにする姿は初めてでした。


鳥羽離宮跡の地下水はどこも現役の名水のようで、
他の井戸でもこれと同じ水の大量運搬の光景を目にしました。


手水舎(菊水・若水)
手水舎(菊水・若水)

菊水・若水を運ぶ
大量の菊水・若水を運ぶ料理人


今回、鳥羽離宮から城南宮へ参拝したのは、平安京の遺跡を巡る散策の一貫でした。
その散策で平安京大極殿跡の真北に今宮神社、真南に城南宮、
そして真東に岡崎神社があることを体感した次第です。

桓武天皇の平安遷都の始め王城鎮護を目的に創建された、
平安京の四隅に置かれた大将軍社の記事は多くありますが、
この三社は平安宮の大内裏の位置にまで合致している厄除神です。


大内裏の西の厄除神は不明ですが、城南宮は王城鎮護の当初の大将軍社だと信じています。


王城鎮護の社2
王城鎮護の大将軍社


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城南宮の参道⑰宇賀神社(京都市・南区・東九条) 
城南宮の参道⑱伏見稲荷御旅所(京都市・南区・西九条)





城南宮の参道⑱伏見稲荷御旅所(京都市・南区・西九条)

城南宮の参道⑱伏見稲荷御旅所(京都市・南区・西九条)に関する記事です。

伏見稲荷大社の御旅所は東寺のすぐそばにありますが
これには深い訳があります。


伏見稲荷御旅所
伏見稲荷御旅所の鳥居


伏見大社は全て5神の相殿ですが、
神輿も5基あり稲荷祭りの際はこの御旅所へやってきます。

田中社・上社・中社・下社・四之(しの)大神の
5基の神輿が入る奉安(ほうあん)殿です。

御旅所1
5社の神輿を格納する奉安殿

昭和48年に今の奉安殿に整備する際、
上命婦社、下命婦社、両大神宮を合祀して御旅殿を設置しました。

御旅所2
御旅殿


伏見稲荷大社で一番大切なお祭りが稲荷祭りで
初夏のGWの頃10日余り続きます。

一言で言うと神様の御里帰りです。

稲荷祭りは神幸祭(しんこう)・氏子祭・還幸祭(かんこう)の3つに分かれます。


・往路の神幸祭で、神殿の神霊を神輿に載せて御旅所へ移動(渡御:とぎょ)
・現地の氏子祭では5基の神輿がそれぞれ自分の神様へ挨拶(巡幸)
・復路の還幸祭では御旅所へ出御した神霊を神殿へ戻します。(還御:かんぎょ)


稲荷祭りの最後の日に還幸祭を行いますが
御旅所から東寺に挨拶して、伏見稲荷大社戻ります。

東寺では僧侶により、神へのお供えを受けます。(神供:しんきょう)

還幸祭3

神輿が東寺前を通過

神輿はとても重いのでトラックで拠点まで移動します。

還幸祭2
東寺で神供を受ける


何故伏見稲荷大社の御祭神とは、無関係の東寺によるのでしょうか?。

東寺・西寺は平安遷都と同じ年794年から建設が着手されており
国家の威信をかけた事業でした。


823年には嵯峨天皇は国家の繁栄を期して、
唐から帰朝してまもない弘法大師に東寺の早期完成を命じました。


その後、五重塔をつくる材木として稲荷山の木を伐採しましたが、
稲荷神の祟りで天皇が病気になり、
朝廷は稲荷社に神階を贈り、謝罪しています。


この事件により稲荷社は東寺と密接な関係を持つことになり、
また鎮守神となったことから東寺周辺に御旅所ができました。


稲荷大神と真言宗は協調しながら日本全国に広まっていきます。

稲荷祭・氏子祭での5基の神輿の行き先
①上之社  大宮能売(おおみやのめの)大神・・・ 東九条
②中之社  佐田彦(さたひこの)大神 ・・・ 西九条
③下之社  宇迦之御魂(うかのみたま)大神・・・ 塩小路・中堂寺
④田中社  田中(たなかの)大神・・・ 不動堂
⑤四之(しの)大神 ・・・ 東寺・八条



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城南宮の参道⑯六孫王神社(京都市・南区・壬生川通)

城南宮の参道⑯六孫王神社(京都市・南区・壬生川通)に関する記事です。

六孫王神社は、JR京都駅八条口の西800Mにある神社で、
多田神社(川西)、壺井八幡宮(羽曳野)とともに「源氏三神社」の1つとされています。

梅小路公園の南隣で、猛暑の日曜日の昼間、
この八月末で閉館という機関車館の気車の汽笛が絶えず響いていました。

六孫王神社1
六孫王神社の鳥居

六孫王神社は源経基(つねもと)嫡子の源満仲が
963年に邸宅に建立したのが始まりです。

祭神:六孫王大神(源経基)

六孫王とは多田神社を創建した源満仲の父・源経基のことで源氏の原点です。
経基は清和天皇の第六皇子「貞純親王(さだすみ)」の子である事から「六孫王」と名乗りました。

六孫王神社2
六孫王神社の拝殿


源経基は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み遺言されます。

♪霊魂滅するとも龍となり西八条の池に住みて
子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ♪

経基の子の満仲は遺骸を当地に埋葬し、
社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりとなります。

六孫王神社3
六孫王神社の本殿

境内中央に神龍池がありますが、
掃除のために水を全て除去していたので写真はありません。

満仲誕生のおり、その神龍池の側の井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、
安産を祈願し産湯に使ったのが誕生水弁財天社です。

六孫王神社4
誕生水弁財天社(六孫王の嫡子・満仲の誕生を祈願)

六孫王神社5
満仲誕生水(京都七ツ井の1つ)

あまりにも暑かったので、近くの京都水族館で涼んで帰りました。
夏休み中で混んでいましたが、撮影も十分楽しめ機会があったらまた寄ってみたい場所です。

京都水族館


京都水族館2






城南宮の参道⑰宇賀神社(京都市・南区・東九条)

城南宮の参道⑰宇賀神社(京都市・南区・東九条) に関する記事です。

宇賀神社は京阪電鉄・鳥羽街道駅の北西900m,
十条通の陶化橋を渡った鴨川右岸にあります。

陶化橋の「陶化」の由来は嵯峨天皇が洛陽に習って名づけた「陶化坊」からとも、
稲荷の音よみが「とうか」ともあり、宇賀神社あたりも陶化だったと思われます。
 
十条陶化橋より鴨川
十条通り陶化橋より鴨川上流を望む

祭神:宇賀御魂、天照大神

宇賀御魂は伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神とされ
穀物、食べ物の神様と言われます。
 
宇賀神社1
宇賀神社の鳥居

宇賀神社は古くは宇賀塚とよばれており、
藤原鎌足がこの塚の上に社を建てたのが神社の始まりとされます。

藤原鎌足は飛鳥時代の人物で、宇賀神社は京都では相当な古社とされます。

宇賀神社2
宇賀神社の拝殿

藤原鎌足が、月の輪で狩猟をしていたとき、この地で金璽(金印)を得て、
後の世に都がうつされ、この地で子孫が繁栄することを予知し、
そのしるしとして金璽をここに埋めて塚としました。

その125年後に京都に平安京が遷され予知の通り
鎌足の子孫は藤原摂関家として繁栄することになります。
 
宇賀神社3
宇賀神社の本殿1

宇賀神社の一体には藤原氏の五摂家の一つとして代々摂政,関白を務めた
九条家の邸宅が立ち並びました。
 
宇賀神社4
宇賀神社の本殿2

本殿の左右に銀杏の巨木があり、
右の銀杏の奥に樹齢500年の椋の木があります。

沢山の大型車が行き交う国道24線沿いにあって、
これらの巨木が静寂な空間を醸し出してくれます。
 
宇賀神社5
宇賀神社の神木(樹齢500年の椋)


城南宮の参道④近衛天皇陵(伏見区・竹田・浄菩提院町)

城南宮の参道④近衛天皇陵(伏見区・竹田・浄菩提院町)に関する記事です。


近衛天皇陵は近鉄京都線の竹田駅の南300mにあり、
電車の車窓から見える早朝の多宝塔は美しく、以前から興味を引かれる建物でした。


実際に訪れてみると、近衛天皇陵は安楽寿院の南側にあり、
安楽寿院の西側には鳥羽天皇陵まであります。
標識や説明ボードも多く整備されており、千年前の院政時代に引き込まれました。

鳥羽離宮地図
鳥羽離宮地図


鳥羽天皇は3名の自分の皇子(崇徳・近衛・後白河)を天皇に即位させ
28年間も院政を続けた平安末期の権力者です。


近衛天皇は鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)の子で、
3歳で即位させられ、異母兄の崇徳・後白河との権力争いの中で、
17歳の若さで早世した哀れな天皇です。

鳥羽天皇家系図
近衛天皇家系図


<近衛天皇>
先代:兄の崇徳天皇
次代:兄の後白河天皇
天皇:1142-55
御陵:安楽寿院南陵


安楽寿院山門
安楽寿院


安楽寿院は1137年に鳥羽上皇が創建した寺で、
その時に本御塔と呼ばれる三重塔に自分の生前墓を造りました。


その11年後には同じ安楽寿院に鳥羽上皇の皇后・美福門院のために生前墓を造り、
こちらを新御塔と称しました。


しかし美福門院(1117-60)は鳥羽上皇と同じ場所に葬られるのが嫌で、
遺言で高野山に葬るように指示していました。

この為、久寿2年(1155)、近衛天皇が御所としていた近衛殿で死去すると、
紫野で火葬され母の墓である新御塔に葬られることになりました。


注)新御塔とは安楽寿院南陵のことで、現在の多宝塔は豊臣秀頼が再興したもの


近衛天皇陵1
近衛天皇陵・多宝塔


近衛天皇は墓は伏見区の鳥羽離宮となりましたが、
近衛天皇が実際に暮らしていたのは現在の京都御所の北西にある近衛殿の地です。

近衛殿は藤原氏の分家で、五摂家のひとつ近衛家の邸宅です。

近衛天皇の葬儀の準備時に、院号(戒名、諡号)を決める打合せがありました。
院号を近衛殿とする案も出ましたが、近衛とは天皇の護衛兵のことで
天皇の戒名には不適切との反対意見もあったことが記されています。


近衛天皇は平安京の東1kmの近衛殿を皇居としていました。
内裏が京都御所へ遷るのは室町時代のことで、
近衛天皇の時代は当初の平安宮内裏が天皇の邸宅でした。
しかし平安宮内裏は火災等で住めなくなることがあり、
里内裏と呼ばれる民家を皇居にすることも良くありました。

近衛天皇陵2
近衛天皇陵(近衛天皇安楽寿院南陵)






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