エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

・交野天神社・樟葉宮

交野天神社(大阪府・枚方市・樟葉丘)

交野天神社(大阪府・枚方市・楠葉丘)に関する記事です。

交野天神社(かたの・あまつ・かみのやしろ)は京阪樟葉駅の東北東2km
淀川左岸1.2km
鏡伝道と呼ばれる道沿いの原生林の中に鎮座します。 


祭神:光仁天皇
創建:787年(延暦6年)

交野天神社1
交野天神社の鳥居

桓武天皇は長岡京の南の地(樟葉)に郊祀壇(こうしだん)を設けて
父・光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀りました。 

これは
中国の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇(てんだん)を設けて
天帝を祀る儀式を模倣して行われました。

以上は枚方市教育委員会の説明ですが、簡単に言うと下記ようなことかも知れません。

「長岡京(北極星)を中心にして、冬至の北斗七星の位置にあわせて、
南郊(樟葉)に天子の祭壇(交野天神社)を配置し、天帝(光仁天皇)を祭りました。」

※1:郊祀とは古代中国で、天子が郊外で行った天地をまつる国家の最重要儀式。
冬至には国都の南郊で天をまつり、夏至(げし)には北郊で地をまつった。


交野天神社12
交野天神社の拝殿

奥にある本殿および手前の末社八幡神社は、
共に一間社流れ造り(いっけんしゃながれづくり)・桧皮葺(ひかわぶき)で
鎌倉時代から室町時代の特色を持ち、国の重要文化財に指定されています。

本殿の北東には継体天皇の樟葉宮跡と伝えられる末社・貴船神社があります。

交野天神社2
交野天神社本殿および末社八幡神社社殿


<関連記事>
交野天神社の参道①樟葉宮
枚方市・楠葉丘)
交野天神社の参道②二ノ宮神社(枚方市・船橋本町)
交野天神社の参道③片埜神社(大阪府・枚方市・牧野阪)
交野天神社の参道④王仁博士の墓(枚方市・藤阪東町)
交野天神社の参道⑤日置天神社(枚方市・招堤)
交野天神社の参道⑥朝原神社(枚方市・牧野阪)
交野天神社の参道⑦瘡神社(枚方市・牧野本町)
交野天神社の参道⑧アテルイとモレの塚(枚方市・牧野阪)
交野天神社の参道⑨久須々美神社(枚方市・牧野本町)
交野天神社の参道⑩三之宮神社(枚方市・穂谷)
交野天神社の参道⑪百済王神社(枚方市・中宮)
交野天神社の参道⑫御殿山神社(枚方市・渚本町)
交野天神社の参道⑬村野神社(枚方市・村野)
交野天神社の参道⑭山田神社(枚方市・山之上)
交野天神社の参道⑮御狩野神社(枚方市・禁野)



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交野天神社の参道①樟葉宮(枚方市・楠葉丘)

交野天神社の参道①樟葉宮枚方市・楠葉丘)に関する記事です。

武烈(ぶれつ)天皇の死後応神・仁徳系の皇室の血筋が途絶えました。

このため遠い血筋にあたる継体天皇(けいたい)が後継者として選ばれました。

継体天皇は越前(福井県)から河内国交野郡まで
琵琶湖・淀川水系を辿り日本列島を横断しました。

そして507年に枚方・樟葉丘の交野天神社奥にあった樟葉宮で
仁賢天皇皇女の手白香皇女(たしらか)を迎え即位しました。


交野2
交野天神社本殿(右は末社:八幡神社)

交野天神社(かたの・あまつ・かみのやしろ)本殿横の小道の先にある
貴船神社(穂掛神社)の盛り上がった土地が樟葉宮の伝承地です。

樟葉宮2

継体天皇が宮殿の場所として樟葉を選んだのは、
在地の豪族である茨田連小望(まんだ・むらじ・おもち)の
娘関姫(せきひめ)が天皇の妃の一人だったことに関係していると考えられています。

ここは三川が合流する地点の豪族・茨田氏(茨田)を味方にして
結果的に近畿の交通・経済の要衝の地を抑えました。

淀川は琵琶湖に通じ琵琶湖から福井はすぐ近くです。
継体天皇にとっては淀川水系が自分の勢力のネットワークを結ぶ絶好の場所でした。

このあと20年も淀川水系を転々とし勢力を確実につけたたあと大和に入ったそうです。


樟葉宮3
樟葉宮跡の丘にある穂掛神社(貴船神社)

樟葉宮の南には過去に月の名所だった鏡伝池があります。
11世紀前半の藤原実経(さねつね)が
「日本紀を見侍り(みはべり)て継体天皇を」と云う詞書を付けて
続古今和歌集に以下の歌を残しているとのことです。

♪くもらじな真澄の鏡影そうる楠葉の宮のはるの夜の月♪

ー澄み切った鏡のような池に、楠葉の宮が、春の夜の月の光を浴びて池に影を落としている。
樟葉宮で即位された継体天皇の心も、この池のように輝いていたことでしょうー

交野天神社の参道③片埜神社(枚方市・牧野阪)

交野天神社の参道③(枚方市・牧野阪)に関する記事です。

片埜神社は京阪牧野駅の南東250m
淀川支流の穂谷川の右岸120m
淀川左岸1kmにあります。

片埜神社1
片埜神社の鳥居と南門

片埜神社は河内国・交野郡・鍬靫とされる片野神社に比定される式内小社です。
天覧相撲に勝った恩賞に河内の領地を拝領した野見宿禰が、
須佐之男(スサノウ)を祀って創建しました。

祭神:須佐之男、菅原道真
 

片埜神社2
片埜神社の拝殿

魏志倭人伝によると、日本には弥生時代の末期(西暦250年頃)までは
殉死の風習があったと記されます。

♪女王卑弥呼の死後、直径百歩の墓を造り、男女の奴隷百人以上も殉葬した♪


日本書紀によると垂仁天皇(西暦300年頃)の弟の倭彦命(やまとひこ )が死んだとき、
墓のまわりに仲良かった側近を生き埋めにしたそうです。
殉死者は数日間も死なずに昼夜呻き(うめき)続け、死後は犬や鳥が腐肉を喰らったそうです。


同年に続けて皇后が無くなりましたが、垂仁天皇は野見宿禰(のみすくね)の進言に従って
人・馬などの埴輪を墓に立てて代替とすることを命じ、殉死を禁止しました。


片埜神社3
片埜神社の拝殿内部

後の律令制のもとで、天皇の葬儀を司る土師氏(はじし)は
野見宿禰の子孫で埴輪や土師器(はじき)も造りました。

社家の岡田家ではその「土師家」の鎮守と伝わり、
野見宿禰や菅原道真を祭神としていますが、
「饒速日命」、や「交野忌寸の祖神」などの祭神説もあるそうです。 
穂谷川と同じ天野川 は「饒速日命」の勢力範囲でしたから、
交野物部氏系列の方が納得できます。


片埜神社の本殿
片埜神社の本殿

豊臣秀吉が大阪城築城(1583年)にあたり、
片埜神社(かたの)を鬼門鎮護の社と定め、
石垣にも鬼の顔を刻んで対面させたそうです。

片埜神社の鬼

境内に置かれている鬼面


片埜神社は大阪城の鬼門除けの神社とされたことから、
現在でも厄除の神として信仰されています。

鬼は片埜神社の象徴・守り神とされていて、
絵馬や御朱印には鬼面が描かれており、
節分の豆まきでは「鬼は内」と唱えるそうです。

絵札
鬼面の絵馬

調度撮影した日が11月15日だったので七五三の日です。
それで子供神輿が出ていたのでしょう。

七五三とは、数えで3歳の男子女子・5歳の男子・7歳の女子が、
神社にお参りをし、今後の無事成長を祈る行事です。


何故3歳・5歳・7歳かというと

3歳児は髪を伸ばす髪置(かみおき)の儀、
5歳男児は袴をつける袴着(はかまぎ)の儀、
7歳女児は大人の着物を着る帯解(おびとき)の儀
のなごりとされています。


神輿


境内の
依姫社の祭神は玉依姫命、大国主命、市寸島姫命です。

依姫社1
依姫社

玉依姫は初代天皇である神武天皇の母であり、
山彦の恋人だった豊玉姫の妹です。

依姫社2
依姫社2


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瘡神社(枚方市・牧野本町)に関する記事です。


瘡神社(皮膚病、火災除けの神様)
御祭神:瘡神(くさがみ)、火酢芹命(ほすせりのみこと)


片埜神社の東の近傍に境外社の瘡神社(くさがみしゃ)があります。

瘡(くさ)とは皮膚にできる、おできや発疹のことで
天然痘などの恐ろしい病気を疱瘡(ほうそう)とも呼びました。

瘡神とは瘡を直してくれる神様で、平安時代には活躍されていたようです。

瘡神社1
瘡神社


菅原道真が左遷され大宰府へ向う途中、
道真の馬が病気で倒れ路傍に埋葬されました。


地元の人が馬の墓に沢山の草を供えたことから草神様と呼ばれ、
この草が同音の瘡(くさ)に変わり、瘡神社となったそうです。

瘡神社2
瘡神社の拝殿1


ちょっと拝殿の中を覗いたら、可愛い馬や道真など色々おりました。



瘡神社3
瘡神社の拝殿2


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朝原神社に関する記事です。


片埜神社の境外社の朝原神社の祭神は猿田彦神です。


猿田彦は、二ノ宮神社(枚方)・春日神社(寝屋川)等で紹介しましたが
天孫降臨の際、瓊瓊杵命(ににぎ)を出迎えて先導役を務めたことから
導きの神様、道の神、旅人の神とされてきました。


このことから猿田彦は道祖神・塞の神と同一視されて
日本全国の道祖神で「猿田彦神」が祀られています。


道祖神とは悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神で、
旅の安全を守る神でもあります。

二ノ宮神社(枚方)・春日神社(寝屋川)の猿田彦神社も以前は境外社として
路傍に置かれて道祖神の役目を果たしていたそうです。


朝原神社
朝原神社の社殿

朝原神社は片埜神社(かたの)と瘡神社(くさがみ)の間にあります。
瘡神社の場所で馬が倒れた菅原道真を猿田彦が道案内し
片埜神社から蹉跎神社(さだ)へと行ったのでしょう。

ここで倒れた馬の替わりに牛に乗ったのでは・・夢想は続きます。




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交野天神社の参道⑧アテルイとモレの塚(枚方市・牧野阪)

交野天神社の参道⑧アテルイとモレの塚(枚方市・牧野阪)

片埜神社の隣の牧野公園内にアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)という名の蝦夷の墓があります。

アテルイ2


アテルイ3
アテルイとモレの墓

『伝 阿弖流為  母禮 之塚』


肥沃な蝦夷地日高見国の征服は
古くからの朝廷の悲願でしたが
延暦8年には5万余りの朝廷群が北上川河畔で
アテルイの軍に大敗する有様でした。


しかし802年(延暦21年)4月、
征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイと副将モレに
やっとのことで勝利し、7月に2人を伴い帰京しまた。


その年の秋8月13日、蝦夷の首長
アテルイとモレの2人は、征夷大将軍・坂上田村麻呂らの
助命嘆願もむなしく、「野生獣心反覆無定」として河内国で処刑されました。


両名最期の地と目され、
また首塚の伝えをもつ当地に、この塚を建立しました。
(平成19年3月4日 伝阿弖流為 母禮 之塚建立実行委員会)

アテルイ1
アテルイとモレの塚


この牧野阪の塚が首塚、 
この近くに宅地開発で消失した宇山古墳があり、
それが胴塚と呼ばれており 
アテルイとモレたちのものと伝承されてきました。


調査の結果200年ほどアテルイの時代より古いことが判ってきたそうです。
しかし私にとっては伝承も検証した事実と同じ位大きな意味を持つ歴史です。
このように分かりやすくして伝えてくれて感謝します。



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交野天神社の参道⑨久須々美神社(枚方市・牧野本町)

交野天神社の参道⑨久須々美神社に関する記事です。

祭神は久須々美大神(くくすみ)

久須須美神社は旧:坂村字九頭神
(現:牧野本町1丁目7番地)にあったそうですが
現在は片埜神社に合祀されています。

その神社があったと思われる場所の近隣では
近年になって枚方市が本格的な調査を行った
九頭神(くずがみ)廃寺史跡公園があります。

九頭神廃寺1

飛鳥時代後期建立の古代寺院の説明板に

「九頭神廃寺の氏神だった延喜式式内社・久須々美神社が
寺院の南西部に造営していた・・」

との主旨が記載されています。

九頭神廃寺2
九頭神廃寺遺跡


九頭神廃寺の南近傍に2つの祠が置いてあり
久須須美神社との関係を連想します。

久須々美神社1
大きい方の祠

久須々美神社2
小さい方の祠

祠自体は古ぼけていて何の説明もありませんが
お供えしてある榊はとても瑞々しく、安堵した次第です。

久須々美神社3
瑞々しい榊

更にその南を隆々と流れる穂谷川は、
治水の先駆者として知られる継体天皇が
暮した越前の九頭竜川へ注いでいるのかも知れません。

穂谷川
穂谷川

交野天神社の参道②二ノ宮神社(枚方市・船橋本町)

交野天神社の参道②二ノ宮神社(枚方市・船橋本町)に関する記事です。

二ノ宮神社は京阪樟葉駅の南1.4km
淀川支流」の船橋川の右岸140m
淀川左岸900mに位置します。

社伝によれば、仁徳天皇(4世紀)の創始で、
用明天皇(585年)、桓武天皇(797年)
から織田信長(1573年)、豊臣秀頼(1584年)にいたるまで
多くの有名人が二ノ宮神社の再建に関っています。


だだ一ノ宮神社(片埜神社)にはとても肩入れした豊臣秀吉だけは
信長の痕跡が残る二ノ宮神社が嫌いなのか、
信長が寄進した広大な社地を没収したとあります。

二宮神社1
二ノ宮神社の鳥居

主祭神は一ノ宮(片埜神社)と同じで須佐之男命(すさのおのみこと)です。


2番手は稲田姫命(くしなだひめ)
 ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、
須佐之男命(すさのお)により助けられ妻となりました。


3番手は大国主命(おおくにぬし)
須佐之男命の試練に絶え出雲を手中に治めましたが、
天照大神に出雲を譲ることになります。



二宮神社2
二ノ宮神社の拝殿

本殿は工事中でしたが、社史によると
「一ノ宮(牧野片埜神社)の建築に次ぎて推賞すべき本群有数のものなり」
とのことです。

本殿の中を少しだけ覗いてみると、可愛い狛犬が神棚を守っています。

二宮神社4
本殿の神棚

裏庭をよく見ると岩座(いわくら)もありましたが、
仁徳天皇の初期の時代のご神体でしょうか?

岩座
岩座


狛犬の足に赤い紐を巻いてました。


狛犬

狛犬

狛犬の足の紐は、足止め祈願して結ばれているそうです。


狛犬の念の入った紐を一本持ち帰りその人の履物に結んでおくと
立ち去った人の足が止まって、再び家に戻って来るそうです。


そういえば狛犬だけは神社が、たとえ火事にあっても
決してその場所を離れることはありませんでした。

ボケ老人の徘徊にもきっと効果があると思いますし、
恋人の気移り防止にも効能があります。

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<関連記事>

二ノ宮神社の境外社①御旅所(枚方市・船橋本町)に関する記事です。

この御旅所は慶長八年(1603)に豊臣秀頼が寄贈したものです。

御旅所

二ノ宮神社の御旅所

もともと御旅所には地蔵堂が付設されていましたが、
明治の神仏分離令で二ノ宮神社手前にある
西方山の浄土寺の門前に移されました。

地蔵菩薩1
西方山・浄土寺前の地蔵堂

地蔵堂の中の地蔵菩薩は生まれてくる子供たちの安泰を加護し
不幸にも早く亡くなった幼子の冥福を祈ります。

地蔵菩薩2
地蔵菩薩


由来
地蔵堂の由来

 
近くの街道には多数の地蔵が置かれていましたが
不幸にも早世した幼な児たちかも知れません。

地蔵菩薩3



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交野天神社の参道⑪百済王神社(枚方市・中宮)

交野天神社の参道⑪百済王神社(枚方市・中宮)に関する記事です。
 

祭神:百済国王と須佐之男(牛頭天王)
創建:8世紀後半(奈良時代)


百済王神社鳥居
鳥居


百済王の子孫の敬福が奈良時代の750年に創建しました。

百済王神社拝殿
百済王神社拝殿


天智天皇は昔からの盟友である百済を救済するため
倭国(日本)の総力(4万人・船800隻)をあげて
朝鮮半島の白村江(はくすきえ)で唐・新羅軍に戦いを挑みました。
しかし技術に勝る唐・新羅軍に大敗し(663年)
百済の復興は成りませんでした。


百済国は2人の兄弟の王子である
豊璋(ほうしょう)と善光(ぜんこう)を人質として倭国に献上していました。
白村江の戦いで兄の豊璋は現地で戦死し、
弟の善光は日本に残ったため長生きします。

百済王神社本殿1
百済王神社本殿



滅亡した百済から沢山の百済人が倭国(日本)へ亡命し
難波付近に住みつきました。


百済人は知識・技術に優れており
百済王・善光を筆頭に高級官僚として迎えられ、
子孫代々まで繁栄していきます。


その百済王の4代目・敬福が東大寺大仏建立に
多額の献金をしたことが聖武天皇に認められ
河内の守に栄転となります。

敬福の一族は枚方・中宮の地に移り住み、
先祖供養のために百済寺・百済王神社を創建しました。


百済王神社本殿2
百済王神社本殿


百済王神社の隣には百済王氏の氏寺である百済寺跡があり
現在国の特別史跡として発掘作業が進んでいます。



百済寺1
百済寺跡の石碑

百済寺3
百済寺跡の西塔の礎石

百済寺は奈良時代末期から建てはじめられ、
平安時代の初期に完成、
11~12世紀に焼失したものと考えられています。

その伽藍配置は、金堂の前に東西の2つに塔を持つのが特徴の薬師寺式です。


薬師寺方式
薬師寺方式


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王仁博士の百済門に関する記事です。

日本に論語や千字文を伝えた王仁(わに)博士の功績は誰でも聞いたことがあると思います。
その 王仁先生は日本最大の古墳で知られる仁徳天皇の若き頃の家庭教師だったようです。
 
♪難波津に 咲くや この花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花♪
この歌は天皇即位を嫌がった仁徳天皇に
王仁先生が即位を促した歌で今の此花地区の地名にも残っています。

近年になって枚方市が
 JR藤坂駅近くにある伝王仁の墓を整備して
立派な百済門まで作りました。
 
王仁博士
 王仁博士の百済門



交野天神社の参道⑫御殿山神社(枚方市・渚本町)

交野天神社の参道⑫御殿山神社(枚方市・渚本町)に関する記事です。

祭神:品陀和気命(応神天皇)

枚方の渚は惟喬親王の別荘・渚院のあった場所で、
惟喬親王(これたか)に関係する場所として、渚院址・粟倉神社・御殿山神社があります。
この3つを訪れるなら道も紆余曲折するために、地図も分かりにくく
京阪電車の横を流れる黒田川を牧野方面に遡ることをお勧めします。

途中黒田川から北川沿いに曲がり、最初の橋を南下すれば渚院址・御殿山神社へ通じていますし
更に北川を遡ると粟倉神社へ通じる道に出られます。

黒田川支流北川
黒田川を少し北へ行き、北川に沿って右へ曲がる

御殿山と呼ばれるだけあって神社の山は遠くからでもすぐに分かり
御殿山駅を東進すれば御殿山神社へは行けますが、
黒田川から廻り込むのが正式な参道で、こちらに一の鳥居があります。

御殿山は淀川を一望できる小高い丘ですが、
名称の由来は惟喬親王の渚院の東屋に起因するとも、
江戸初期に淀藩主永井伊賀守が陣屋を建てたためとも伝わります。

一の鳥居1
新緑で萌える社叢と一の鳥居


この丘の上に鎮座するのが御殿山神社ですが
その神社自体が永井伊賀守の陣屋跡と推定されています。

このブログでも何度か登場した淀藩の城主・永井尚政の三男、
尚庸(なおつね)が、河内に2万石を分与され築いた陣屋跡で、
御殿山神社の隣にある御殿山公園が曲輪跡と推定されています。

元々は中世に「渚城」という城砦があったそうで、戦国時代には軍事的な要衝でした。

御殿山神社3
御殿山神社の社標と二の鳥居

御殿山の鎮座地は渚本町ですが、
平安時代には渚院という惟喬親王(これたか)の交野ケ原狩猟時の別荘がありました。


この渚院の邸内址に建立された、観音寺境内に栗倉神社(枚方市・小倉町)の御旅所があり
その御旅所に品陀和気命(八幡大神)を勧請して西栗倉神社とし、
明治3年に御殿山の丘の上に遷座したのが起源です。

御殿山神社4
御殿山神社の拝殿

御殿山神社5
御殿山神社の本殿

枚方市の渚地区は実はバードウォッチングで淀川へ行ったときに良く訪れる場所ですが
野鳥撮影は装備も重く御殿山神社参拝が中々実現できませんでした。
今回やっと渚周辺を周回でき安堵しています。

051113夕焼
淀川の夕焼け

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①粟倉神社(枚方市・小倉町)に関する記事です。


祭神:応神天皇

粟倉神社は御殿山神社の北800m程にある小さな祠ですが
平安時代初期には惟喬親王の別荘だった渚院の地に、
粟倉神社のお旅所ができ、現在の御殿山神社の母体になっています。


粟倉神社2
粟倉神社の社殿



嵯峨天皇が814年に交野ケ原ヘ行幸されたときに
粟倉寺や同じく枚方にある百済寺に綿を献じましたが、
この記録が菅原道真が編纂した類聚国史(るいじゅう)に載っているそうです。


また粟倉寺の瓦を製造していた粟倉瓦窯跡も発掘されており、
平安時代初期頃には既に粟倉寺が存在しており、
その鎮守が粟倉神社の始まりとも想像します。


粟倉神社4
粟倉神社の本殿

宇治の子守神社には惟喬親王が帝に大鷲退治を命じられ
渚院で大鷲を射止め宇治の小倉村で子守神社を創始したとの由緒があります。


その子守神社の鎮座地が粟倉神社と同じ小倉村という名前で、
現在の粟倉神社は小倉公民館の場所にあり、地名の関連もありそうです。


粟倉神社1

小倉公民館にある粟倉神社


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②渚院址(枚方市・渚元町)に関する記事です。


平安時代、枚方から交野一帯は交野ケ原といわれ、
皇族・貴族が鷹狩りや花見に訪れる場所で、
文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたか)の別荘・渚院がありました。

皇位継承に失敗した惟喬親王は、在原業平らと交野ケ原で狩や歌会などの遊興に耽り、
当ブログでも度々登場しています。

*三足の白雉が、渚の院に飛んで来て死んだので白雉塚古墳で弔った
*狩猟時の愛鷹が消えたので、「日を止め置かせ給え」と日置天神社で祈った
*帝に大鷲退治を命じられ交野ケ原で大鷲を射止め宇治の小倉村で子守神社を創始

その惟喬親王の渚院址が渚保育園の片隅にあります。


渚院1
渚院址標

惟喬親王や在原業平の渚院での遊興の様子が
伊勢物語や古今和歌集にも収められています。

<在原業平が渚院の桜を見て詠んだ歌>

♪世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし♪
ー世の中に桜がなかったら、人の心は桜が散るのに一喜一憂せずに、のんびりするであろうにー

<返歌>
♪散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき♪
ー散ってゆくからこそ、いっそう桜は素晴らしいのです。この世の中に、永遠に変わらないものなど何があるでしょうかー

伊勢物語絵巻に惟喬親王たちの花見の様子が収められています。

渚院2
伊勢物語絵巻・渚院(東京国立博物館所蔵)

貞観14年(872年)惟喬親王は出家して比叡山の麓に隠棲され、
渚院は寂れ粟倉神社の御旅所が残るのみとなり、
その御旅所が御殿山神社になります。

江戸時代になると渚院の跡地には、観音寺が建てられ、
現在は観音寺の名残の鐘楼と渚院碑が建てれています。

渚院3
観音寺の鐘楼と渚院碑




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交野天神社の参道⑮御狩野神社(枚方市・禁野)

交野天神社の参道⑮御狩野神社(枚方市・禁野)に関する記事です。

御祭神:仁徳天皇 、須佐之男、百済王
創建:江戸時代初期(1659~1672)に禁野(きんや)の和田寺に祭祀

御狩野神社と和田寺は同じ敷地内にある守護寺・鎮守社です。

御狩野神社1
御狩野神社の鳥居


御狩野とは平安時代禁野は貴族の狩り場だったことに由来し
禁野村に伝わる記録では
「惟喬親王(これたか)の時、白雉の霊を祀る雉大明神の神祠が建てられた。」
とありこれが御狩野神社の神社の真の起源だと思います。

白雉塚古墳の天井石


惟喬親王(844-879)御遊興の時、三足の白雉が、
渚の院に飛んで来て死んだので、
和田寺の上方の薬子山の頂に塚を造って葬ったといわれています。
(既に存在していた古墳に雉の墓を造ったと思われます。)

三足白雉霊と刻んである碑石は、
現在は和田寺内に移され保存されていますが、
碑石の文字は判読し難いまでになっています。


注1)渚院とは惟喬親王(これたか)の交野ケ原狩猟時の別荘(枚方市渚元町)
注2)禁野とは皇族の鷹場で、一般人は立入り禁止とする「禁野」に指定

注3)惟喬親王(これたか)とは皇位継承に失敗し、在原業平らと交野ケ原で

狩や歌会などの遊興に耽った

その雉の塚は白雉塚古墳(はくちづか)として
昭和40年まで禁野の地に保存されてきましたが
翌年工事で破壊・消滅しました。

石室の天井石の一部が枚方市民会館の裏庭にあります。



古墳の石
白雉塚古墳の天井石


<白雉塚古墳(はくちづか)概要 >


所在地 禁野本町2丁目
円墳(直径約30メートル、高さ4メートル)、横穴式石室
遺物 土器・埴輪・金属製品・石製品




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交野天神社の参道⑬村野神社(枚方市・村野本町)

交野天神社の参道⑬村野神社(枚方市・村野本町)に関する記事です。

祭神:須佐之男命(すさのお)・櫛名田比売(くしなだ)


鎌倉時代の弘安2年2月8日(1279)に社務職間に不和があり、
片埜神社から分霊して村野神社と山田神社の2社が誕生しました。
村野神社と山田神社は双子の神社です。

その2年後の弘安4年(1281)には、弘安の役があり、
蒙古軍が文永の役に続き再度博多に14万の大軍で来襲しましたが
日本軍の応戦と暴風のために壊滅しています。



村野2
村野神社の社殿

村野神社には、創建以前の平安時代にも社の前身があり、
平安前期の皇族である惟喬親王(844~879)は
よく交野ケ原へ狩猟や遊興でやってきて、
その際は村野神社へも寄ったそうです。

村野3
村野神社の社殿内部

村野神社には枚方市釈尊寺町に村野神社遥拝所があります。
その遥拝所には古代信仰の香りがする立派な岩座があります。

村野神社遥拝所0
村野神社遥拝所


村野神社遥拝所
村野神社遥拝所

村野神社遥拝所1
村野神社遥拝所の岩座

一方山田神社は村野神社の南西1km枚方市山乃上にあります。

山田神社
山田神社社殿

山田神社には石神社という末社が本殿の中にあります。

寛弘元年(1004)頃、
安倍晴明が枚方の藤田里(とうだ)に滞在して
加持石で病気快癒の祈祷をしました。

その加持石が村野神社遥拝所の岩座らしく、
田中修理が山田神社内で
病気全快の神様の石神(しゃくしん)を祀りました。


注1)加持祈祷とは、病気・災難などをはらうために行う祈祷
注2)陰陽師(おんみょうじ)とは朝廷の官職の1つ。
   現代では日本の伝統的な呪術の専門家とされ、
   安倍晴明などが特に有名。
   最近では小説・映画の「陰陽師」により認知度も高まっている。

村野神社


交野天神社の参道⑩三之宮神社(枚方市・穂谷)

交野天神社の参道⑩三之宮神社(枚方市・穂谷)に関する記事です。

枚方市には一ノ宮(片埜)神社二ノ宮神社、三ノ宮神社があります。

その三之宮神社は枚方市の東部の穂谷地区にあります。

穂谷は里山として整備・再生され、
ため池・雑木林・棚田が蘇り日本の原風景が見られる場所です。 
そしてそこには多種多様な生物が棲み、秋には農作物が実り、収穫祭があります。


里山
穂谷の棚田

そんな里山を流れる穂谷川を包み込む森の中に三之宮神社があります。

御祭神:須佐之男命、御食津神(みけつ)、大国主命、天津神、住吉大神、仁徳天皇

三ノ宮神社1
鳥居

社伝によると、341年(仁徳天皇29年)の創建で、
古くは穂谷、津田、芝(尊延寺)、杉、藤坂の5ヵ郷の鎮守社でした。


三宮神社拝殿
拝殿
三宮神社拝殿2
拝殿内部

拝殿に続く本殿があります。
拝殿から見て右が春日社・本殿・厳島社と3つの社殿が並んでいます。


本殿
春日社・本殿・厳島社

境内には境内社の稲荷社・熊鷹大明神が祀られています。
熊鷹大神は勝負の神様ということですが、それ以上は判りません。


熊鷹明神
熊鷹大明神

本殿の裏には玉垣で囲まれた中に大きな石が2つあります。

それが三之宮神社の御神体の岩座です。

断面が三角形ですが、これを屋根に見立て屋形石と呼ばれていました。
2隻の屋形船で誰が来たのでしょうか?
この御神体のため、三之宮神社は屋形大明神との通称があります。

 

屋形石
御神体・屋形石の写真


拝殿の左には、注連縄がかけられた高さ1メートル程の立石があります。

立石
雨乞いに使われた立石

三之宮神社は雨乞いの神様としても信仰されていました。


雨乞いの際、いくら祈っても雨が降らない時、
最後の手段として村民が太鼓や鐘を鳴らしながら、
御神体であるこの立石を穂谷川に投げ落として雨を祈願しました。
そして雨が降れば引き上げたそうです。


お百姓さんは雨のためなら神様も投げ飛ばすとは凄まじいものを感じます。


交野天神社の参道⑭山田神社(枚方市・山之上)

交野天神社の参道⑭山田神社(枚方市・山之上)に関する記事です。


祭神:須佐之男命(すさのお)・稲田姫(いなだ)


鎌倉時代の弘安2年2月8日(1279)に社務職間に不和があり、
片埜神社から分霊して山田神社と村野神社の2社が誕生したようです。

山田神社1
山田神社の鳥居

山田神社2
山田神社の拝殿


山田神社には春日神社・石神社・稲荷神社という3つの末社があります。
境内社としているのは稲荷神社だけで、後は本殿内部で祀っています。

下の写真は本殿内部の様子ですが、
中央が山田神社、左が石神社、右が春日神社と相殿となっています。

山田神社3
山田神社の本殿

社殿の左上に石神社の額束(がくづか)も置かれていました。

石神社
石神社の額束


石神(しゃくしん)は病気全快の神様です。
安倍晴明(あべせいめい)が枚方の藤田里(とうだ)で
加持石で行った祈祷の効力が永遠に続く様に願いを込めて、
山田神社内に石神社が祀られました。

この安倍晴明の加持石が村野神社遥拝所の岩座かも知れません。

注1)加持祈祷とは一般に、病気・災難などをはらうために行う祈祷
注2)陰陽師(おんみょうじ)とは平安時代の官職の1つ。
   日本の伝統的な呪術の専門家とされ、安倍晴明が有名。
  

村野神社遥拝所1
加持石(村野神社遥拝所の岩座)



村野神社

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村野神社

交野天神社の参道⑤日置天神社(枚方市・招堤)

交野天神社の参道⑤日置天神社(枚方市・招堤)に関する記事です。

日置天神社は京阪枚方市駅の北東4km
淀川支流の穂谷川の右岸300mにあります。

祭神:天御中主、菅原道真


天御中主(あめの・み・なかぬし)は星もない、混沌とした宇宙に現れた最初の神様です。
宇宙に天や地そして天地を照らす光を生み出しました。

古代の宇宙観ですが、宇宙にも始りと終りがあるという
現在の最先端の天文学と同じ考えには驚きです。

鳥居
日置天神社の鳥居

日置天神社境内とその周辺は、
「日置山遺跡」と呼ばれる古墳時代から中世までの複合遺跡で、
古墳を破壊して、その上に集落を開発した跡が見られるそうです。


鎌倉時代~室町時代,この辺りは日置郷と呼ばれ、
東高野街道筋に発達した集落として賑わい,
社寺が沢山建立され,日置千軒とも言われました。



拝殿
日置天神社の拝殿


日置天神社には、惟喬親王(844~897)が交野ヶ原で狩猟された時、
愛鷹の姿が見えなくなり、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と
天神(天御中主)に祈ったとの伝承があるそうです。



本殿
日置天神社の本殿


近代には菅原道真も祭神(天神)として加わり、
撫で牛が奉納されていますが、
その後ろには、勇壮な「だんじり」の姿も見えていました。



牛
撫で牛

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日置天神社のだんじり(枚方市・招堤)に関する記事です。

10月19日(土)、20日(日)と連続して雨降りで家にいました。
調度、日置天神社が秋の例祭で、よく行く山田池公園・穂谷川の近くにあることを知り
突然ですが、傘を差してお参りに行くことにしました。
秋の例祭に沢山の「だんじり」が見れると聞いたことがあった為です。


日置天神社境内には曳行されない、8基のだんじり小屋が孤を描くように並んでいました。

中横・九十分・新屋敷・宇山林・・・・など8つの町の「だんじり」があり壮観でした。

だんじり1
弧を描く、だんじり小屋


近年では一台だけ修復して、少しだけ曳くこともあるそうですが、
今年は大雨のためか、曳く気配はありませんでした。



だんじり2
日の出の「だんじり」


屋根からにらんでる彫物は獅子噛(ししがみ)で、
飛び降りて噛み付きそうです。



だんじり3
獅子噛(ししがみ)

左右の彫り物は歌舞伎役者のようです。


だんじり4


花台の彫物でが、筋肉隆々で力ありそうですね。。

だんじり5
花台の彫物

雨でカメラも、服も濡れましたが、無理して出かけて良かったでした。 


交野天神社の参道④王仁博士の墓(枚方市・藤阪東町)

交野天神社の参道④王仁博士の墓(枚方市・藤阪東町)に関する記事です。

王仁博士の墓はJR片町線・長尾駅の南800m
正俊寺、菅原神社の間の道を上った先にありました。


前回は藤阪駅から蛇行する道に迷いましたが、
長尾駅から行けば道標もあり、すんなりと着きました。


王仁博士の墓は江戸時代中期の儒学者・並河五一郎が禁野和田寺の古文書をもとに
藤阪御墓谷の自然石を発見し王仁博士の墓としたものです。


枚方は百済王族の子孫が住んだ場所で百済寺・百済王神社もあり
百済出身の王仁博士には相応しい場所です。

百済門
百済門1

応神天皇の御代(390-394)百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢ぎました。


阿直岐は経典にも優れる知識人でしたが、
応神は、阿直岐に勝る王仁博士が百済にいることを知り倭国へ招きます。

王仁博士は百済から論語・千字文を携えて渡来し、
皇太子の菟道稚郎子の師となり漢字を教えたました。


百済門
百済門2

王仁博士は14代百済王である貴須王の孫の辰孫王と同一人物との説があります。


辰孫王は渡来の時、鍛治師・機織師などの技術者も連れてきて河内一帯に広まりました。
辰孫王の子孫は河内国藤井寺や柏原辺りに住み、
西文氏(かわちふみ)の祖となり子孫は文筆で朝廷に仕えました。


論語と千字文
千字文(左)と論語(右)

柏原市の国分市場に松岳山古墳があり辰孫王の墳墓とも言われています。
辰孫王が王仁博士であるならそこが王仁の墓ということになります。


松岳山古墳は4世紀に築造された墓で、喪船を模した埋葬施設で知られます。


王仁博士の墓1
王仁博士の墓1

王仁博士の墓2

王仁博士の墓2(中央の石が並河五一郎が発見した石)


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