エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

@開口神社

開口神社(大阪府・堺市・甲斐町)

開口神社(大阪府・堺市・甲斐町)に関する記事です。

開口神社(あぐち)は阪堺電軌・宿院駅の東400m
大阪湾に面する南海線堺駅の南東750mにあり、
海の水先案内人である塩土老翁を祀る社です。

開口神社0
開口神社の西門

神功皇后の三韓征伐の帰途、
この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝わります。

開口神社は和泉国・大鳥郡鎮座とされる式内小社で、

海を守り、塩を司る塩土老翁神(しおつちおじ)を祭神とします。

祭神:塩土老翁、素盞嗚神、生国魂神

塩土老翁神は山幸彦が兄の海幸彦の釣針をなくして困っていた時、
綿津見大神(豊玉彦)がいる、竜宮城を訪れるよう助言してくれた神様です。



開口神社1
開口神社の拝殿

開口(あぐち)という社名は神功皇后を守護した塩土老翁神(しおつちおじ)が、
それまで口を開いたことがなかったのに、
神功皇后から神撰(神様の食べ物)を頂き、
それを食べる為に初めて口を開いたことに由来します。

開口神社2
開口神社の額

神社には膨大な数の末社や石碑などがあります。
日本創生期の古いものだけでなく、
近代の高校や幼稚園発祥の石碑も多くあり
堺市の歴史を伝え続けているところが
素晴らしい神社だと思いました。

開口神社4
開口神社の境内の地図

開口神社の境内には影向石があります。

開口大神(あぐち)である塩土老翁が現れたとき、
この影向石(ようごうせき)に腰かけ、
その後住吉大社に向かい、住吉大神になりました。

影向石1
影向石1(ようごうせき)

塩土老翁がこの影向石に座り、
行基や弘法大師とも会談したも伝承されます。

影向石3
影向石2(ようごうせき)


境内社には舳松神社がありますが、舳松村(へのまつ)は堺市にある地名です。

神功皇后が三韓征伐の凱旋の際、
軍船九艘が上陸した所を九艘小路(くそうのしょうじ)、
船の舳(へさき)を括り(くくり)付けた所を舳松町(へのまつ)といい
現在も地名が残ります。

甲斐町の地名も神功皇后が胄を宿院の内に埋められたことから
「胄の町」から変わってきたそうです。

舳松神社2
舳松神社


境内末社の岩室神社は菅原神社の相殿です。

岩室神社の祭神は金山彦大神他二柱とあります。


金山彦大神は鉱業・製鉄業の神様です。

伊邪那美(いざなみ)が自分が産んだ火之迦具土神(ひのかぐつち)に
焼き殺されるときに、口から吐きもどしたものから、
金山彦大神と金山姫大神が産まれました。


菅原神社1
岩室神社

堺市の西の境界に岩室(いわむろ)、釜室(かまむろ)という気になる地名があります。


堺市というと4世紀の終りごろに造られた大仙古墳が有名ですが、
その古墳時代には泉北のほうに、お茶碗などを焼いて造る須恵器の工場がありました。


須恵器を焼いたかまのあとは1000以上あるといわれ、
平安時代までは日本で一番大きい須恵器を作るところだったそうです。

岩室(いわむろ)、釜室(かまむろ)は須恵器にかかわる地名です。


室(むろ)というのは、山の岩間の洞穴のことで、蔵の意味もあるそうで,
須恵器などを、室に保管していました。

また、釜室の「釜」の字は「窯」の意味ももっており、
内部が室になった須恵器窯そのものを示す地名とも考えられます。


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開口神社の参道⑥宿院頓宮(堺市・宿院町)

開口神社の参道⑥宿院頓宮(堺市・宿院町)に関する記事です。

御祭神:住吉大神、大鳥井瀬大神

宿院頓宮(しゅくいん・とんぐう)住吉大社の御旅所で、
創建時期は住吉大社と同じくらい古いようです。

宿院は堺の地名ですが、僧侶が出張した時に泊まる施設のことで
御旅所のことです。

頓宮とは一時的に神が滞在する宮のことで、
行宮とは長期にわたって滞在する宮のことです。


宿院頓宮1

阪堺軌線に乗り、大和川を超えて紀州街道を南下すると
フェニックス通り(国道26号)との交差点に宿院駅があり、
宿院頓宮はそこから徒歩1分程です。

阪堺軌線は天王寺駅の地下で乗り、どこまで乗っても200円で、
本数も多くとても便利な路面電車です。

宿院頓宮3
阪堺軌線の宿院駅

宿院頓宮祭2
大和川に掛る阪堺軌線の鉄橋


後に大鳥大社の摂社も遷座され、
それ以来2社の頓宮(御旅所)になっています。

歴史ある住吉大社・大鳥大社の両大社の御旅所とは
祭りの時は凄いのでしょうね。

下の写真はフェニックス通りに建てられた住吉・大鳥両大社頓宮石碑です。
その石碑の後ろに3本の椰子の木が写っています。
堺は昭和20年に壊滅的な大空襲にあい、
戦後復興の象徴としての椰子の木の一種である
フェニックス(不死鳥)が植えられて、フェニックス通りと呼ばれています。

宿院頓宮2
住吉・大鳥両大社の頓宮石碑とフェニックス

8月1日の夏祭りでは住吉大社から宿院頓宮まで神輿を担ぎます。

宿院頓宮祭り
宿院頓宮に到着した神輿

宿院頓宮の境内には兜神社跡の石碑があります。
神功皇后が三韓征伐から堺に帰られた時、
宿院頓宮の場所で兜を埋めて戦勝を祝い、
そこが兜神社となりました。

兜神社は明治時代になって開口神社(あぐち)に合祀され、
現在は境内にある飯匙堀(いいがいぼり)で夏祭りの神事が行われます。
 
宿院頓宮4
兜神社石碑


宿院頓宮の境内には潮涸珠の伝説を持つ飯匙堀(いいがいぼり)があります。

山幸彦は、鹽土老翁(しおつちのおじ)の勧めで竜宮へ行き、
海神の女豊玉姫と結ばれました。
その時、海神から潮涸珠(しおふるたま)・潮満珠(しおみつたま)を授かります。

陰なる潮満珠(潮干珠)を住吉大社の玉出島(
大海神社・玉之井)に納め、
陽なる潮涸珠はこの地の飯匙堀(いいがいぼり)に納めました。

飯匙堀0
飯匙堀(いいがいぼり)石碑


住吉大神は8月の住吉大社の夏祭りで
宿院頓宮へ渡御(とぎょ)されます。

10月に行われる大海神社の例祭で
玉出島(玉之井)に戻ることが恒例となり、
これを「陰陽の御祓」といいます。

飯匙堀1
飯匙堀(いいがいぼり)鳥居


飯匙堀(いいがいぼり)は潮涸珠を埋めた為、
どんな豪雨にあっても堀に水が溜まることはないそうです。
窪んだ飯匙堀の中央に岩座があります。

飯匙堀2
飯匙堀と中央の岩座

飯匙堀(いいがいぼり)は、
元々は池の形が飯匙(しゃもじ)に似ているところから
命名されたといわれます。

現在は飯匙(しゃもじ)の形をした絵馬に願い事を書いて、祈願します。

飯匙堀3
飯匙(しゃもじ)の形をした絵馬



開口神社の参道①ふとん太鼓(堺市・甲斐町)

開口神社の参道①ふとん太鼓(堺市・甲斐町)に関する記事です。

ふとん太鼓とは河内周辺で担がれる大型の太鼓台のことです。
堺の秋祭りでは、ふとん太鼓と呼ばれる大きな神輿を担いで練り歩きます。


高さ約四メートル、総重量三トンにも及ぶそうで、
神様が座る朱色のふとんを五枚重ね、鮮やかです。

ふとん太鼓の祭りは、江戸時代の1830年頃には行われていたそうで、
現在では9月中旬を中心に開口神社をはじめ多くの神社で行われています。


ふとん太鼓
ふとん太鼓


<ふとん太鼓の祭りを行う神社>
開口神社、菅原神社、船待神社、方違神社、百舌鳥八幡宮、華表神社他




だんじりとの違いを明確にするために、堺市から両者の絵を借りてきました。


①ふとん太鼓は神輿で担ぎます。


ふとん太鼓


②だんじりは曳き綱で引っ張ります。
だんじり

開口神社の参道②石津太神社(堺市・浜寺石津町)

開口神社の参道②石津太神社(堺市・浜寺石津町)

石津太神社(いわつた)は南海電車の堺駅、
浜寺駅の中間の石津川駅の南300m程の紀州街道沿いにあります。

このあたりは、石津という地名で、
昔は浜辺で伊奘諾命・伊奘册命に流された
蛭子命が漂着した場所です。

蛭子命が天磐樟船で漂着したとき、
船に積んでいた五色の宝石(神社の御神体)を埋め、
その場所の目印に置いたのが「五色の石」の標石で、
今も石津太神社の前に置かれています。
 

石津太神社8
五色の石

第五代天皇・懿徳天皇(いとく)の息子の孝昭天皇の7年に
蛭子命を祀る社殿を造営したのが、石津太神社の創始です。

このことから日本最古の戎社と称しています。


石津太神社3
石津太神社の社標

なお、同じ地区に「石津神社」が鎮座し、同じく蛭子命を祭神としますが、
石津郷が人口増加を受けて、2村に分かれたときに、
それぞれの氏神として分祀したためとのこと。

どちらも延喜式に和泉国・大鳥郡鎮座と記載される式内小社の石津太神社の論社です。

石津太神社4
石津太神社の鳥居

本殿は北と南の2つがありますが、北本殿に主祭神を祀っています。

北本殿(右):蛭子命・八重事代主命・天穂日命(石津連の祖神)
南本殿(左):天照大神(靱大神宮)・建御名方富命


石津太神社6
石津太神社の拝殿


石津太神社7
石津太神社の本殿

毎年12月に行われる石津太神社の冬季例祭は、
「やっさいほっさい」として広く知られています。

「やっさいほっさい」とは、蛭子命が石津の浜に
漂着した際の出来事に由来するもので、
石津の浜に流れ着いた蛭子命を、
漁師が108束の薪を燃やして暖めたという伝説があります。

祭りでは、太古の昔の勇壮な火渡神事がとり行われ、
薪の燃え残りを持ち帰ると厄払いに効果があるといわれ、
毎年多くの人々で賑わいます。
 

やっさいほっさい
やっさいほっさい(蛭子命を温めた108束の薪)



開口神社の参道④船待神社(堺市・西湊町)

開口神社の参道④船待神社(堺市・西湊町)に関する記事です。

船待神社は阪堺電車の御陵前駅の近く、
南側200m程の紀州街道沿いに鎮座する神社です。

御陵前駅では、御陵を探したけれど見つかりません。
実は御陵とは仁徳天皇陵のことで、ここから徒歩30分も掛かるそうです。
でも昔は御陵前駅が一番近い入り口だったそうです。

 

船待神社1
御陵前駅

仁徳天皇陵へ通じる府道・御陵通沿いに環濠都市堺の環濠(土居川)がありました。

15世紀から16世紀にかけて、堺が日本一の貿易港として栄えた時、
日本は戦国時代に突入します。

日本各地で戦がおこり、町は焼土と化します。
堺では貿易で富を得た商人たちが、町を守るために、西は海でほかの三方には濠をつくり、
入口となる橋には門番をつけ、外から敵が入れないようにしました。

そのため堺は平和な町として、ますます栄え、その濠が土居川の始まりです。


船待神社2
環濠の土居川

祭神:天穂日命
合祀:菅原道真

船待神社は菅原道真が船を待ったことに由来する社名です。

元は和泉国大鳥郡塩穴郷(御陵前駅から東1km程)にあり、
塩穴天神社と言われ、菅原氏の祖神である天穂日命を祀っていました。


船待神社3
船待神社の鳥居

平安時代の901年、菅原道真が太宰府へ左遷のとき
伯母の覚寿尼(かくじゅに)に別れを告げる為に、藤井寺の道明寺を訪れます。

その帰りに船を待つ間に、
道真の祖先にあたる天穂日命を祀る塩穴天神社(船待神社)を参拝し、
松の木を植えて出発しました。


船待神社5
船待神社の拝殿1

船待神社6
船待神社の拝殿2

その100年後の1001年に、道真の子孫の菅原朝臣為紀がこの地を訪れた折に、
菅原道真を合祀して船待天神社と改名したそうです。

その後に現在の湊町に遷座して、船待神社となりました。

 

船待神社7
船待神社の本殿

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船待神社の境内①瘡神社

瘡神社の祭神:少彦名命

境内社には6世紀には既に存在していたとされる瘡神社(かさ)があります。

敏達天皇の時代(572~585年)に、瘡疾(できもの)が流行し、多くの死者が出ます。
当時の村人が医薬の祖神の少彦名命を祀り、祈願したところ、
霊験あらたかにして、瘡に病む人は忽ち平癒します。
元は旧湊村中筋に鎮座されていたが、明治40年に当社に遷座とのこと。


船待神社9
船待神社の瘡神社

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船待神社の境内②不動明王


船待神社8
不動明王





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