五十猛

桑田神社の参道⑩伊達神社(亀岡市・宇津根町)

桑田神社の参道⑩伊達神社(亀岡市・宇津根町)  に関する記事です。

伊達神社(宇津根)はJR亀岡駅の南口から線路に沿って西へ1.4Km
曽我谷川を超えた先、JR踏切の北側、法蔵寺前にあります。

余部マイマップ

宇津根マイマップ

伊達神社(宇津根)の北250mには桂川に架かる宇津根橋があり、
津根橋の下流が保津川、上流が大堰川とも呼ばれています。

伊達神社(宇津根)の社叢
伊達神社(宇津根)の社叢


実際には伊達神社(余部)から600m曽我谷川を下ってきましたが、
JR山陰線の赤い鉄橋付近で曽我谷川と分かれて
西の伊達神社(宇津根)へ向かいました。

曽我谷川
曽我谷川と赤いJR鉄橋


伊達神社は丹波国・桑田郡鎮座とされる式内小社で,
伊達神社(宇津根)は余部町の社からの分祀ともされます。

伊達神社(宇津根)は明治までは隣接する法蔵寺の境内社でしたが、
延享4年(1747)の大堰川の氾濫によって
宝蔵寺とともに流出し記録類が全て失われました。

伊達神社1
伊達神社(宇津根)の鳥居

祭神:五十猛命

五十猛は、素戔鳴尊の御子で、「杉、檜、楠」など八十木種を播き育てた植林の神です。

高天原を追放された素戔嗚尊とともに新羅に天降りますが、
新羅には植えずに全てを持ってきて、
日本中に植えたので、青山に被われる国となりました。

伊達神社2
伊達神社(宇津根)の社殿

五十猛は射楯神(いたて)とも呼ばれ
播磨国総社の射楯兵主神社の祭神でもありました。

伊達神社3
伊達神社(宇津根)の本殿


奥州藤原氏の藤原秀衡の三男・忠衡(ただひら)の別荘が宇津根にあり、
その霊を祀ったのが伊達神社(宇津根)、別荘がのちに法蔵寺となったともされます。

忠衡は父の秀衡の遺言を守り源義経を主君としますが
対立した兄の泰衡に殺されます。

法蔵寺
法蔵寺


桑田神社の参道⑨伊達神社(亀岡市・余部町)

桑田神社の参道⑨伊達神社(亀岡市・余部)   に関する記事です。

伊達神社(余部) はJR山陰線亀岡駅の西1.2KM、
曽我谷川右岸にあり、上流1.4kmには先日参拝した走田神社があります。

余部マイマップ

余部マイマップ

亀岡市の南部は大阪の高槻市、茨木市などの山々と接しています。
亀岡開拓の為に神々が談合した黒柄山(くろがら)などが分水界となって、
芥川・安威川~年谷川・曽我谷川と分けています。

曽我谷川はその分水界に源を発して亀岡市内を北流し
保津峡下りの乗場あたりで桂川(保津川)に流入する1級河川です。

社叢
曽我谷橋から見た曽我谷川と伊達神社(余部) の社叢

伊達神社は丹波国・桑田郡鎮座とされる式内小社です。

論社の伊達神社(宇津根町)は、
余部町の社からの分祀とも伝わります。

祭神:五十猛命

伊達神社1
伊達神社の鳥居

五十猛は、素戔鳴尊の御子で、八十木種(杉、檜、楠・・)などを播き育てた植林の神です。

高天原を追放された素戔嗚尊とともに新羅に天降りますが、
新羅には植えずに全てを持ってきて、
日本中に植えたので、青山に被われる国となりました。

伊達神社2
伊達神社の社殿1

地名の余部(あまるべ)は、兵庫県の香住町の余部鉄橋が有名ですが
亀岡を始め各地にあるそうです。

余部は古代の余戸(あまるべ)と言う条里制に因む名称です。
1里=50戸の区画を厳密に守る例も多いそうで、
50戸に満たない余りの集落に起因する地名とのことです。

伊達神社3
 伊達神社の社殿2

伊達神社4
境内社の稲荷神社


日前神宮・国懸神宮の参道⑬三生神社(和歌山市・伊太祈曽)

日前神宮・国懸神宮の参道⑬三生神社(和歌山市・伊太祈曽)に関する記事です。

三生神社は伊太祁曽神社の東500m
伊太祈集落の南端にある伊太祁曽神社の旧社地「亥の杜」にある祠です。
背丈程ある草に覆われ、入る道はありませんでしたが、
意を決して草むらの中へ入りました。

伊太祁曽マイマップ

伊太祁曽マイマップ


祭神:五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命

これら3神は紀伊国に木種をもたらした兄妹神で、「伊太祁曽三神」と総称されています。

亥の森
三生神社の社叢(亥の森)

伊太祁曽神社は本来は、日前神・国懸神がある秋月に鎮座していましたが、
垂仁天皇16年に日前神・国懸神が祀られることになり、
その地を明け渡し「亥の杜」に遷座しました。

大宝2年(702)に五十猛命・大屋都姫命・都麻津姫命の三神を分離することになります。
五十猛命は「亥の杜」の伊太祁曽神社に残り
大屋都姫命は宇田森へ、都麻津姫命は吉礼へ遷座しました。



三生神社の鳥居
三生神社の鳥居


生い茂る草をかき分け参道の無い「亥の杜」の中に入ると
伊太祁曽神社の境外摂社の三生神社が鎮座しています。

なにもかもが真新しい豪奢な造りの現在の伊太祁曽神社から
「亥の杜」へ来ると過去の時代に入ったようで清々しい気分にありました。

<伊太祁曽神社の遍歴>
垂仁天皇16年    :伊太祁曾村に亥の杜に遷座
大宝2年(702):五十猛命・大屋都姫命・都麻津姫命の三神を分離
和銅6年(713):亥の杜から現在地に遷座


三生神社の祠
三生神社の祠





日前神宮・国懸神宮の参道⑫伊太祁曽神社2(和歌山市・伊太祈曽)

日前神宮・国懸神宮の参道⑫伊太祁曽神社2(和歌山市・伊太祈曽)に関する記事です。

伊太祁曽神社の続きで、祇園神社・杉の神木・
境内古墳について書いています。

伊太祁曽マイマップ

伊太祁曽マイマップ

伊太祁曽神社の境内南には五十猛命の父である
須佐之男命を祀る祇園神社があります。


祇園神社1
祇園神社の鳥居

須佐之男命は木が無い日本の山に木を植えて、
緑に溢れた美しい国にしようと考えました。

須佐之男命が鬚を抜いて放つと、杉の木になり、
胸毛を抜いて放つと檜木に、尻毛は槙木に、眉毛は楠木になりました。


須佐之男命は木の使い方を人々に教えました。

「杉と楠は、船
を造るのによい。檜は宮を造るのによい、槙は棺を造るのによい。
たくさんの木の種を播きなさい」

 
須佐之男命は三人の子神の五十猛命・大屋都姫命・都麻津姫命に、
国全体に木種を播くように命じました。

そしてこの三神が棲む国が「木の国」となり、
紀伊国と呼ばれ和歌山県になりました。


磐坐
祇園神社前の磐坐

祇園神社
祇園神社の祠


五十猛命は古事記では大屋毘古神とも称される神です。

兄神に狙われ殺されそうになった大国主命は
母の勧めで出雲から大屋毘古神の助けを求めて木の国へ逃げます
大屋毘古神は大国主命を大杉の木の股を潜らせて根の国へ逃がします。

ご神木の大杉
神木の大杉(昭和に落雷で燃えた)
木の股くぐり
木の股くぐり(災難除けに効能)

気生神社(五十猛荒魂)
気生神社(五十猛荒魂)


伊太祁曽神社の鳥居前の東側はときわ山と呼ばれる丘陵で
3基の円墳が築かれおり、その内の1基が発掘調査されています。

20mの標識があり、まずはその古墳を見に行きました。

ときわ山古墳の道標

伊太祁曽神社古墳の道標

直径16mの円墳で奈良時代初期の横穴式石室があります。
丁度この場所に伊太祁曽神社が遷座した頃に築かれた古墳です。

<伊太祁曽神社古墳>
形状     :円墳
サイズ  :直径16m
築造    :奈良時代初期
副葬品   :鎌倉時代に盗掘
埋葬施設:横穴式
石室(全長5.6m)

ときわ山古墳の墳丘
伊太祁曽神社古墳の墳丘

緑泥片岩の板石を積んだ綿密な石室で、
玄室内には棺台、石棚、石梁が設けられているそうです。


ときわ山古墳の石室
伊太祁曽神社古墳の石室




日前神宮・国懸神宮の参道⑫伊太祁曽神社(和歌山市・伊太祈曽)

日前神宮・国懸神宮の参道⑫伊太祁曽神社(和歌山市・伊太祈曽)に関する記事です。

伊太祁曽神社は和歌山電鐵・貴志川線・伊太祈曽駅の南200m
木の神が鎮まる山東盆地にあります。

伊太祁曽マイマップ

伊太祁曽マイマップ

伊太祁曽神社は和歌山三社参りの一社で、
和田川を遡ると日前神宮・国懸神宮・竃山神社・伊太祁曽神社の順に巡ることができます


伊太祈曽駅
伊太祈曽駅

伊太祁曽神社は大規模な氾濫で有名な和田川を跨ぐ
常磐橋を渡った先にあります。

和歌山は古代から中世にかけて庄園の多かった地域で、
伊太祁曽は旧山東荘の中心にあり、
伊太祁曽神社の旧称は山東宮、
伊太祁曽駅は当初は山東駅と呼ばれていました。


和田川と常磐橋
和田川と常磐橋

伊太祁曽神社は日本国土に樹木の種を播き、
青山と成した五十猛命(いたける) を祀る神社です。


五十猛命の住むこの地は古来より林業の盛んな地であったので「木の国」と呼ばれ、
やがて紀伊国と呼ばれるようになりました。

伊太祁曽神社の鳥居
伊太祁曽神社の鳥居

伊太祁曽神社は紀伊国・名草郡・月次相嘗新嘗とされる名神大社です。

祭神:五十猛命

配祀:大屋都姫命、都麻津姫命

三神は須佐之男命の御子で五十猛命が三神の兄、
大屋都姫命が姉で、都麻津姫命が妹です。

紀伊国に木種をもたらした神で、「伊太祁曽三神」と総称されています。


伊太祁曽神社の割拝殿
伊太祁曽神社の割拝殿


五十猛命が天上からたくさんの木の種を持ち帰り、
日本の国中に播いて、国土を青山にしました。

この功により五十猛命は、有功(いさおし)の神として、
紀伊国に鎮座するようになりました。


伊太祁曽神社の本殿拝所
伊太祁曽神社の本殿拝所

伊太祁曽神社は本来は、日前神・国懸神がある秋月に鎮座していましたが、
垂仁天皇16年に日前神・国懸神が祀られることになり、
その地を明け渡し「亥の杜」に遷座しました。

大宝2年(702)に五十猛命・大屋都姫命・都麻津姫命の三神を分離することになります。
五十猛命は「亥の杜」の伊太祁曽神社に残り
大屋都姫命は宇田森へ、都麻津姫命は吉礼へ遷座しました。


伊太祁曽神社の本殿
本殿(左:都麻津姫、右:大屋都姫命)


伊太祁曽神社の本殿2
本殿(手前:大屋都姫命)


伊太祁曽神社2へ続く





記事検索
カテゴリー
読者登録
LINE読者登録QRコード
最新コメント
ユニークアクセス
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

アクセスカウンター

    • ライブドアブログ