志貴御県坐神社はJR桜井線の三輪駅の東800m,
大神神社の南450M、山の辺の道沿いにあります。
金屋マイマップ
大和国・城上郡鎮座・月次新嘗と記される式内大社で、
朝廷に献上する為の野菜を栽培する大和六御県神社の一社です。
*大和六御県神社とは、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布(添)
志貴御縣坐神社の鎮座地は嘗ての海柘榴市を脚下に控え
大和平野を見渡す要衝地の金屋です。
東は初瀬道を経て伊勢・東国へ、西は大和川を経て難波・西国へ
南は磐余道を経て飛鳥・紀伊へ、北は山辺道を経て奈良・京都へと通じます。
志貴御縣坐神社の鳥居
志貴御縣坐神社の鎮座地は大和最古の豪族である磯城県主の本拠で、
崇神天皇が営んだとされる磯城瑞籬宮の跡地に比定される場所です。
崇神天皇は、開化天皇と伊香色謎命の間に産まれた皇子で、
19歳で皇太子となり、開化天皇崩御60年の翌年即位しました。
崇神天皇3年秋に宮を磯城に遷し、是れを瑞籬宮としました。
瑞籬宮の大殿には同殿共床で天照大神と倭大国魂神を祀っていましたが
崇神天皇6年にそれぞれ皇女豊鋤入姫命と皇女渟名城入姫を斎主として
宮中の外で祀らせるようにしました。
磯城瑞籬宮跡の碑
志貴御県坐神社の現在の祭神は大己貴命ですが、
当初は磯城県主の祖神である饒速日命を祀っていました。
祭神:饒速日命、大己貴命
磯城氏は大和に侵攻した神武天皇と戦い
敗れて天皇に帰順した大和国の最古の豪族です。
志貴御縣坐神社の拝殿
神武天皇は東征の折り、長髄彦との戦いで苦戦し、
賀茂建角身命が化身した八咫烏の道案内で熊野から北上しました。
大和では、兄磯城・弟磯城の兄弟が神武天皇に立向かいましたが
兄磯城は戦死し、弟磯城は天皇に服従を誓い、
許されて磯城の県主に任ぜられました。
志貴御縣坐神社の本殿
弟磯城は磯城氏として大和王権を支える豪族(県主)として成長し、
綏靖天皇以下6代に皇妃を入れ天皇家との絆を深めました。
県主は古墳時代初期(3 - 4世紀)に成立した姓(職種)で
瑞籬宮は、磯城氏の強大な勢力に支えられて成立した宮と考えられます。
志貴御縣坐神社の磐座