エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

宇治川

與杼神社の参道②伏見港(伏見区・葭島金井戸町)

與杼神社の参道②伏見港(伏見区・葭島金井戸町)に関する記事です。

伏見港は京阪中書島駅の南口にある伏見港公園に戦後まであった港で、
嘗ては淀川水運の拠点で、中書島駅付近は港町として賑わってい場所です。


伏見港は秀吉が築いた港ですが、江戸時代始めには高瀬川ができたことで、
伏見から京都市中心部に物資を送ることが可能となり、
それが、伏見港発展の基礎を築きました。


草津湊から鳥羽作道を経由した大阪湾から京都への物流ルートが
伏見港から高瀬川を経由するルートへとシフトしました。


伏見港公園文字
伏見港公園


文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城しました。
そのとき治水・物流のインフラとして太閤堤を構築しましたが、
伏見港は、その水路・陸路の大改造の一貫で、造られたものです。


宇治橋のあたりで巨椋池に注いでいた宇治川を池と分離し、
宇治川の流れを北に迂回させて、伏見城の南側に伏見港を築きました。


太閤堤は槇島堤・小倉堤・・・などの堤の総称で、
その堤により宇治川は巨椋池から分離されほぼ現在の流路となりました。
現在の宇治川左岸に沿うのが槇島堤、近鉄京都線に沿うのが小倉堤です。


さらには伏見城の西に外堀となる濠川が掘られ、
この濠川と宇治川が合流している地点に造られたのが、
大阪と伏見を結ぶ水運の拠点・伏見港だったのです。


巨椋池と太閤堤_LI
巨椋池と太閤堤(明治時代)


現在の宇治川と濠川の合流点付近は、伏見港公園の散策路があり
伏見港復元モニュメント・三栖閘門・三栖洗堰などが整備されています。


三栖閘門は大正から昭和初期の淀川改修工事の時に造られたもので、
宇治川から濠川を経て伏見港へ入る為の設備です。


現在三栖閘門は使われていませんが、閘門のなかに船乗り場があり、
十石舟の遊覧コースになっています。


三栖閘門
三栖閘門


濠川は三栖閘門の手前で2つに別れ、
濠川の豊富な水は三栖洗堰から宇治川に流れ込みます。


堰の上が散策ルートの一部になっていて、豪快な合流点の風景を見ることもできました。


三栖洗堰1
三栖洗堰1
三栖洗堰2(濠川・宇治川合流点)
三栖洗堰2(濠川・宇治川合流点)

伏見みなと橋
伏見みなと橋

三十石船モニュメント
三十石船モニュメント(伏見港復元模型)


江戸時代、三十石船が客を乗せて淀川を渡って伏見・大阪間を往来しました。
明治末期にはその姿を消しましたが、現在は屋形船の遊覧船として復活しています。
三十石船、十石舟が濠川遊覧し、並木や酒蔵など歴史的な風情を楽しめます。


濠川遊覧(十石船)
濠川遊覧(十石船)


生田神社の参道⑦熊野神社(神戸市・中央区・中山手通)

生田神社の参道⑦熊野神社(神戸市・中央区・中山手通)に関する記事です。

熊野神社は宇治川左岸160m
阪神神戸線・西本町駅の北700mの丘陵に鎮座します。

走渦と呼ばれた宇治川は改修されて水量は少なく嘗の面影はありません。


宇治川と宇治川公園
宇治川と宇治川公園


宇治川は熊野神社の南400mで暗渠化され、
商店街の下を潜り、ハーバーランドの海へ流れ込んでいます。


昭和13年の阪神大水害の教訓で、暗渠廃止の六甲山ですが、
宇治川は暗渠をやめられず暗渠前に水門があるのかも知れません。

暗渠前の水門
暗渠前の水門


熊野神社の鎮座する台地は、古くは宇治野山と呼ばれ、
法隆寺の747年の古文書によると、
その付近は摂津国・雄伴郡・宇治郷と称されています。


宇治郷は菟道稚郎子の名代の宇治部が宇治川流域から会下山あたりに住みついた場所です。
宇治部は宇治物部氏だったと考えられています。


注)雄伴郡は、淳和天皇の時代、天皇の諱「大伴」に発音が近い為、八田部郡と改名



熊野神社の鳥居
熊野神社の鳥居


紀記によると菟道稚郎子の母は宮主宅媛で、
宮和珥氏の祖,日触使主(ひふれ)の娘とされます。


しかし先代旧事本紀では菟道稚郎子の母は香室媛(かむろ)で、
伊香色雄命の曾孫の物部多遅麻(たじま)の娘とされています。
香室媛は物部山無媛とも称され、
応神天皇との間に3人の子息・息女(兎道稚郎子・矢田皇女・雌鳥皇女)を成しました。


矢田皇女は仁徳天皇の妃八田皇女で、
八田部郡の地名は八田皇女の名代が付近にあったためともされます。


熊野神社の二の鳥居
熊野神社の二の鳥居


熊野神社は宇治物部氏が創建したしたもので、
その後、福原遷都の際に藤原邦綱が再建したものです。


祭神:伊弉諾命、伊弉冉命

熊野神社を中興した藤原邦綱は五条大納言とも称する平清盛の友人で、
福原遷都の時は新都造営役を担当していました。


熊野神社の拝殿
熊野神社の拝殿


藤原邦綱は、頭を痛めて福原京の町割り案を多数出し、
早期に熊野神社の付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建てました。


福原遷都が廃案になり、安徳天皇が、京都に戻る時にその宇治新亭に滞在したことが
源頼朝の友人・吉田経房の日記「吉記」に記載されています。


熊野神社の本殿
熊野神社の本殿


巨椋神社の参道⑤許波多神社(宇治市・五ケ庄)

巨椋神社の参道⑤許波多神社(宇治市・五ケ庄)に関する記事です。


許波多神社(五ケ庄)宇治川に架かる隠元橋の東詰に鎮座する神社です。
神社前の道を20分程東に歩けば、黄檗山萬福寺・黄檗公園があります。


黄檗(文字)
2つの許波多神社と柳山


許波多神社(こはた)は五ケ庄と木幡(こわた)の2箇所にありますが、
元々は黄檗公園の柳山に鎮座していた元社を遷座したものです。


 木幡へは中世には分霊していますが、
この五ケ庄の社は明治初期まで柳山に鎮座していました。 

祭神や由緒も2社とも細部では異なりますが大枠は類似しています。


許波多神社社標
許波多神社の社標


祭神:天忍穂耳尊、瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)


社殿によると孝徳天皇が大化改新(645)が始まった年に
中臣鎌足に命じて、皇祖を祀るために現社地の東方の柳山に創建したとされます。


皇祖とは天皇の先祖のことで、天照大神の子の「天忍穂耳尊(あめの・おしほ・みみ)」
その子の「瓊々杵尊」更にその曾孫にあたる「神武天皇」たちが祀られています。
 

許波多神社鳥居
許波多神社の鳥居


壬申の乱が勃発する前年の671年10月、
天智天皇からの離別を決意した弟の大海人皇子が、
近江を発ち大和の吉野に向かって出発しました。


その途中当社に参詣し、鞭(むち)としていた柳の枝を社頭に挿し、戦勝祈願をしたところ、
柳が芽吹いて繁茂したため、その地を柳山と名付け、柳大明神と呼んだと伝わります。


許波多神社拝殿
許波多神社の拝殿


許波多神社本殿
許波多神社の本殿


手水舎の下の左右の石は旧鎮座地である
黄檗公園の宮川に架かっていた橋桁です。


許波多神社(五ヶ庄)は、明治八年まで柳山の地(黄檗公園)にありましたが、
陸軍省の火薬庫建設のために、隠元橋東詰の現社地に遷座して、
社名を「許波多神社」に戻しています。


宮川橋桁
許波多神社の手水舎


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許波多神社の参道①隠元橋(宇治市)




與杼神社の参道⑤お登勢明神(伏見区・南浜町)

與杼神社の参道⑤お登勢明神(伏見区・南浜町)に関する記事です。


祭神:お登勢


お登勢明神は寺田屋の庭に鎮座する神社で
お登勢の100回忌を祈念し1977年に創建されました。


お登勢(1829-1877年)は伏見の船宿・寺田屋の女将で、 

人の世話をすることが大好きで、
坂本龍馬を初めとする尊皇攘夷派の志士たちを支援しました。


お登勢が龍馬とお龍の仲を取り持ったこともあり、
お登勢明神には良縁成就のお参りにくる人も多いそうです。



お登勢明神1
お登勢明神


寺田屋は薩摩藩の定宿で2つの事件が起こりました。


一つ目は1862年の薩摩藩士同士の乱闘事件
二つ目は1866年の坂本龍馬の暗殺未遂事件


一つ目の騒動ですが、薩摩藩の急進派藩士が、
関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して寺田屋に集結しました。

それを知った薩摩藩主の父島津久光は
選りすぐりの部下を鎮圧に向かわせますが
斬り合いの乱闘となり、多くの死傷者が出ます。

寺田屋には薩摩藩から多額の見舞金が入り、即座に畳や襖を取り替えて、
営業できるように整えたそうです。


お登勢明神2
寺田屋(1868年鳥羽伏見の戦いで焼失)


二つ目の騒動は、寺田屋の2階で寝ようとしていた坂本龍馬が
伏見奉行所の襲撃を受ける有名な話です。

龍馬が家族にあてた手紙などによると、龍馬はピストルで応戦し、
護衛の長府藩士・三吉慎蔵、恋人のお龍を連れて薩摩藩邸に逃げたとされます。


九死に一生を得た龍馬ですが、翌年の1867年には、
京都河原町近江屋で惨殺されてしまいます。

河原町通り四条と三条の間に
「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地」の石碑があります。




お登勢明神3
坂本龍馬像


寺田屋の裏手は水路で覧船として十石舟と三十石舟が運航されています。

この水路は宇治川派流と呼ばれ、伏見城築城に伴う建築資材を運ぶため、
巨椋池の入江を改良し流路改修工事によりつくられた河川港です。


お登勢明神4
濠川(ほりかわ)の十石船


伏見城の外堀であった濠川(宇治川派流)沿いには
江戸時代に問屋、宿屋、酒蔵が建ててられ、
米や薪炭、できた酒などを運ぶ小舟が往来していました。

大阪からの旅人や船から荷揚げされた物資が馬や荷車に積み替えられ、
陸路を行くための中継基地として繁栄を極めました。



現在も柳に酒蔵が映える往時の佇まいを残しています。


お登勢明神7
月桂冠大倉記念館

濠川の両岸には柳をはじめ街路樹がたくさん植えてあり、
宿木も寄生していて、春には宿木の実を狙ってレンジャクもやってきます。

レンジャク
濠川(宇治川派流)で水を飲むレンジャク

巨椋神社(宇治市・小倉町)

巨椋神社(宇治市・小倉町)に関する記事です。

私にとって神社参拝の楽しみの一つは、
地図を片手に初めての土地を探索し、新たな発見をすることです。

しかし現地に着いて散策を開始する前、車の中から探索は始まっています。


近鉄丹波橋駅から小倉駅へ向かう車窓から右手に見える
広大な田畑は巨椋干拓地で、昭和初期までは巨椋池でした。


巨椋池は動植物が豊富で、鴨の狩猟・漁業が栄え
蓮・菱などの水生植物も自生し、収入源となりました。

かつての巨椋池は夏には蓮見の船で賑わい、
その名残が現在も干拓地に点在し、田畑を潤す紅一点となっています。


hasu01

巨椋池の名物だったハスが点在する巨椋干拓地


小倉駅から巨椋神社への参道には、お茶の産地・宇治らしく、
丸久小山園の本社工場があり、お茶の販売も行っていました。


丸久小山園は元禄年間、太閤堤のお陰でお茶に適した地となった小倉の里で、
園祖小山久次郎が茶の栽培と製造を手がけたのが始まりです


小山園 (2)
丸久小山園の本社工場(ショールーム)


茶畑も多々ありましたが、参拝した4月下旬はまだ寒い為か、筵が掛けてありました。
でも伊賀の山並みをバックに筵の茶畑も雰囲気のある風景でした。


茶畑
筵が掛った茶畑


巨椋神社の創建当時、この地には、巨椋池という巨大な池があり、
宇治川は一旦巨椋池に注いでおり、遊水地の役目を果たしていました。


秀吉は京と大阪を結ぶ経済・軍事の大動脈である京街道の整備に着手しますが、
その水路となる淀川の水深を確保するため、太閤堤を築き
宇治川と巨椋池を分離して、淀川と宇治川を直結させてしまいます。


巨椋池3
太閤堤が築かれる前の巨椋池(宇治川が巨椋池に流入)


祭神:武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、比咩神

 
巨椋神社は椋の巨木が繁茂する古社らしい雰囲気のある古社ですが、
この地に繁栄した巨椋氏一族がその祖神を祀ったのが当社の起こりとみられます。


巨椋神社の鳥居2
巨椋神社の鳥居




巨椋神社の拝殿
巨椋神社の拝殿


平安時代末期には藤原氏の荘園となったので、
藤原氏の氏神である春日4神を勧請して春日神社と改称しています。
明治10年に式内社と認められ、現在の社名に改められました。

巨椋神社の拝殿内部
巨椋神社の拝殿内部


巨椋池の畔には木地師の一族が住み、巨椋連となり、その末裔が巨椋氏です。

木地師とは、回転する「ろくろ」を使って木材を削り、
鉢や盆などの木製品を作る職人たちのことです。


巨椋池の周囲には椋木(むくのき)の巨木が多く、
巨椋の地名の由来ともなっています。


椋木は硬質な木材で加工して道具を作るのに最適な材料で、
木地師にとって、貴重な木でした。


巨椋神社の本殿2

巨椋神社の覆屋と本殿


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巨椋神社の境内①子守神社(宇治市・小倉町)

巨椋神社の参道①旦椋神社(宇治市・大久保町)あさくら
巨椋神社の参道②皇大神宮社(宇治市・広野町)
巨椋神社の参道③縣神社(宇治市)

巨椋神社の参道④許波多神社(宇治市・木幡)
巨椋神社の参道⑤許波多神社(宇治市・五ケ庄)
巨椋神社の参道⑩珠城神社(久世郡・久御山町・市田) 
巨椋神社の参道⑪雙栗神社(久世郡・久御山町・佐山双栗)  さぐり
巨椋神社の参道⑫室城神社(久世郡・久御山町・下津屋室ノ城)  


宇治神社の参道⑥彼方神社(宇治市)

宇治神社の参道⑥彼方神社(宇治市)に関する記事です。

祭神:宗像神

水戸藩で編纂された大日本史では祭神は宗像神とされ、
宇治川の水難加護の為と思われます。
 
京阪宇治駅を出て、宇治橋とは反対方向の東(左)側で、
「東屋の古跡」を通りすぎた先の「椎本の古跡」にあります。

「東屋の古跡」「椎本の古跡」ともに源氏物語の古跡です。

彼方神社1
彼方神社の鳥居と社標

彼方神社は「おちかた」と読むそうで、
日本書紀の忍熊皇子と神功天皇の宇治での戦いの記事に、
この彼方神社の場所が登場します。

神功皇后は三韓征伐の凱旋帰国の途上、
筑紫で誉田別尊(応神天皇)を出産しました。

仲哀天皇の皇子である忍熊王は、
次の天皇が、この幼い皇子に決まることを恐れ、
筑紫から凱旋する神功皇后軍を迎撃します。

しかし、兎我野(とがの:梅田)では兄の香坂王(かごさか)が
祈狩(うけい・かり)で占いますが、勝運はなく赤い猪に殺されます。

忍熊王は、劣勢で逆に追い込まれ、宇治で最終決戦になり敗北します。


彼方神社2

彼方神社の祠

忍熊王の軍隊は五十狹茅宿禰(いさち)、倉見別が加わり、
熊之凝(くまのこり)が先鋒となります。

一方神功皇后は武内宿禰と和邇氏の先祖となる武振熊に戦闘を命じます。

両軍は宇治川を挟んで対峙しますが、このとき熊之凝が、味方の兵を鼓舞して歌います。

♪♪彼方の疎林の松原に渡って、槻弓に鏑矢をつがえ、
貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ戦おう。
武内宿禰の腹の中には、小石が詰っている筈はない。さあ戦おう♪♪
 
しかし忍熊皇子は、武内宿禰の偽りの降伏宣言に騙され、
武装を解いたために敗走し、
五十狭茅宿禰とともに琵琶湖で投身自殺します。

♪♪さあ、君よ、振熊のために痛手を負うよりは、
鳰鳥の淡海(琵琶湖)に潜って死んでしまおう♪♪

その遺骸は数日後に宇治川から発見されたという。

彼方神社3
彼方神社の磐座

石清水八幡宮の参道③三川合流(京都府・八幡市)

石清水八幡宮の参道③三川合流(京都府・八幡市)に関係する記事です。

男山丘陵地帯にある石清水八幡宮の眼下で、
日本を代表する桂川・宇治川・木津川の三つの大河が合流して
淀川となり大阪湾へ流れます。

三川合流png(文字2)

三川合流


この三川合流は自然の姿ではなく、豊臣秀吉により造られたものです。

秀吉が工事をする前は、桂川・宇治川・木津川は
巨椋池という巨大な淡水湖に流れ込み、
遊水池を形成していました。


豊臣秀吉は太閤堤を築き、
三川を巨椋池から切り離し、
京都と大阪を結ぶ大動脈(水路と陸路)を整備し
関西の経済繁栄のインフラをつくりました。

巨椋(文字)
巨椋池と太閤堤


お花見で有名になった背割提は、
木津川と宇治川の境の堤で、その先端までいけば
2川の合流地点へ出ます。



背割堤
現在の背割提



巨椋池は動植物が豊富で、鴨の狩猟・漁業が栄え
蓮・菱などの水生植物も自生し、収入源となりました。

かつての巨椋池は夏には蓮見の船で賑わい、
その名残が現在も干拓地に点在し、田畑を潤す紅一点となっています。


hasu01
巨椋干拓地に点在する蓮


巨椋池はその後、昭和初期には、埋めたてられて巨椋干拓地となり、
現在では広大な田畑となっています。


巨椋干拓地
昭和29年の巨椋干拓地


参照:宇治川十帖(宇治歴史資料館発行)



宇治神社の参道②宇治川先陣碑(宇治市・宇治)

宇治神社の参道②宇治川先陣碑(宇治市・宇治)に関する記事です。

宇治川右岸から、橘橋が宇治川の中州に架かっているので渡ってみました。

中州には「平家物語」に記された、
宇治川の合戦を偲ぶ「宇治川先陣碑」があります。

橘橋
橘橋


源氏義経率いる二万五千の軍勢は、
木曽義仲を討とうと宇治川左岸に陣取り、
右岸の義仲勢五百騎と対峙しますが、橋は壊されて渡れません。

義経勢は宇治川の激流にしばし躊躇しましたが、
梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱の2騎が飛び出します。

一瞬出遅れた高綱は、とっさに「馬の腹帯がゆるんでおるぞ」と景季に声をかけ、
景季が腹帯を直す際に一気に川を渡り一番のりをしました。


先陣碑1
宇治川先陣碑


木曽義仲は、平安時代末期の源氏の武将で、源義経とは従兄弟に当ります。

源平合戦では1180年に、後白河上皇一派から平家追討の命令を受け、
木曽義仲は源頼朝たちとともに挙兵します。

しかし京都に入るや、義仲は後白河上皇と対立し、暴挙が凄まじく、
仲間の源義経が義仲追討軍になります。

源平合戦の最初の戦いは、なんと源氏同士の戦いになってしまったのです。

義経と義仲は宇治川の激流を挟んで対峙し、決戦が始まります。


この時代の戦法としては、味方の先頭を切って、
敵陣に駆け込み”先陣を切る”ことが重要でした。

味方の軍勢は、この後に続き、一斉に敵の陣地へなだれ込み、
戦いの勝敗を決する大きな要因となります。

戦に勝利すれば、先陣を切った者は、
功労者として、多大な恩賞と、名誉を手にすることが出来るのです。


この功労者となるための軍隊の先頭の奪い合いが、
義経軍の梶原影季と佐々木高綱の先陣争いです。


佐々木高綱が対岸に一番乗りし、義経軍は一斉に宇治川を渡河し、
木曽義仲は壊滅していくことになります。




先陣碑3
梶原景季と佐々木高綱の先陣争い

宇治神社の参道④橋姫社(宇治市・宇治)

宇治神社の参道④橋姫神社(宇治市・宇治)に関する記事です。

主祭神:瀬織津姫(せおりつひめ)


橋姫神社は大化改新の翌年(646年)に宇治橋を架けるとき,
橋の守護神として祭られました。

橋姫5
宇治橋

宇治橋西詰の鳥居をくぐり、しばらく行くと左手にある小さな神社が橋姫神社です。

西詰鳥居
宇治橋西詰の鳥居

橋姫社1

橋姫神社の鳥居


境内には水の神の橋姫神社と住吉神社が並んで祭られています。
手前が住吉神社で奥が橋姫神社です。

橋姫神社1
住吉神社と橋姫神社


橋姫神社2
橋姫神社



橋姫社3


橋姫には恐ろしい伝説があります。

昔、宇治に橋姫という公家の娘がいました。

橋姫は、自分が恋した男を他の女に奪われて嫉妬に狂い、
貴船神社の
奥宮に丑の刻参りをし、鬼に変えてくれと祈りました。


そのご神託により宇治川に21日間浸かり、生きながら鬼に化身しました。

そして、自分を捨てた男や縁者その女を次々と殺し続け、京中の人を震え上がらせました。



奥の院2
貴船神社の奥宮

宇治神社の参道⑧宇治橋(宇治市)

宇治神社の参道⑧宇治橋(宇治市)に関する記事です。

宇治橋は646年(大化2年)、僧の道登(どうと)によって架けられた橋で、
橋姫神社が宇治橋の守り神として、地域の人々を見守ってきました。

宇治橋・瀬田の唐橋・山崎橋は日本三古橋の一つに数えられる橋です。

注-1)大化改新
645年,天智天皇・藤原鎌足ら革新的な豪族が蘇我家を滅ぼして
開始した古代政治史上の大改革。

注ー2)道登
道登は飛鳥時代の僧侶。645年に僧侶の統制に当たる十師の一員に任ぜられた。
高句麗に留学した経験を持ち,飛鳥寺に住んだ。


橋姫5
宇治橋

 
橋姫神社は、江戸時代までは、宇治橋の三の間と呼ばれる、
橋の突起した場所に置かれていました。

三の間は宇治橋特有のもので、その名前の由来は
西詰から三つ目の柱間に設けられているところによるものです。

戦国時代になると、豊臣秀吉や松永秀久は茶会の際には、
この三の間から水を汲ませたそうです。
 


三の間
三の間



昔の木の橋には橋桁を雨水などによる腐食から守るために
桁隠しが設けられました。

現在の宇治橋はコンクリート製ですが、
従来の宇治橋を模してヒノキの桁隠しが備え付けられ
橋の内部を隠し景観を守っています。
 

桁隠し
桁隠し

橋の上流側 には橋桁ごとに、流木よけが設置され、
橋桁を流木の衝撃から守っています。

流木よけは、宇治川の伝統的漁法であった
網代木(あじろぎ)をイメージした形になっています。


注ー3)網代木
網代漁(あじろりょう)で使う網代(あじろ)を繋ぎとめた杭(くい)のこと
網代は、魚を獲るために竹や木で編んだ籠の仕掛けで鮎の稚魚を獲った。



流木よけ
網代木をイメージした流木よけ

何気なく通過していた宇治橋も
調べてみると色々と工夫がされていることが判りました。


宇治神社の参道⑦朝霧橋(宇治市・宇治)

宇治神社の参道⑦朝霧橋(宇治市・宇治)に関する記事です。


朝霧橋は宇治の中洲と右岸を結ぶ長い赤橋です。

琵琶湖から流れる宇治川の水は水量も多く、淀川全体の70%を占めます。

宇治の山々を背景に朝霧橋を渡ると時間をタイムスリップしたような気持になります。

朝霧橋1
朝霧橋


朝霧橋を渡ると宇治神社の赤い鳥居が見えてきます。


宇治神社鳥居
宇治神社の鳥居



朝霧橋のたもとには、
源氏物語「宇治十帖」を象徴するモニュメントもあります。

向かって右側の女性が浮舟、左側の男性が匂宮です。
そして、二人はともに小舟で中州(橘の小島)へ渡たり、逢瀬を重ねます。


やがて浮舟は、この匂宮の激しい求愛と、
誠実な愛情を注いでくれる薫との板挟みとなって
入水することになります。


朝霧橋2
宇治十帖モニュメント



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