エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

宇治川

宇治神社の参道③宇治川太閤堤跡(宇治市・莵道)

宇治神社の参道③宇治川太閤堤跡(宇治市・莵道)に関する記事です。

「宇治川太閤堤跡」は宇治川に架かる宇治橋の下流400m、
宇治川右岸で発見された豊臣秀吉が築いた堤の遺構です。

現在2021年完成を目指して太閤堤公園として整備が進められています。

太閤堤跡
宇治川太閤堤

宇治川太閤堤碑
宇治川太閤堤碑

秀吉は伏見城築城に伴い、奈良街道を兼ねた小倉堤を小倉から豊後橋(観月橋)まで築きました。
併せて宇治橋から分流して西に向かい、巨椋池に流入していた宇治川を巨椋池から切り離すために、
槙島堤を造り流れを遮り北の流路にまとめ迂回させて流しました。

現在槙島堤は宇治川堤防に受け継がれ、小倉堤は巨椋池干拓により一部を残し削平されました。

巨椋池

巨椋池マイマップ

太閤堤跡マップ

太閤堤跡マイマップ

発見された宇治川太閤堤跡は、この槇島堤の始点部・宇治橋付近の右岸部分に当ります。

太閤堤公園では太閤堤が宇治川護岸として機能していた
安土・ 桃山時代の様子が再現されています。

太閤堤復元モニュメント
太閤堤跡復元公園

太閤堤は16世紀末に築造された後、宇治川氾濫のために埋没し
現在は茶畑の下に埋もれている部分もあります。

菟道稚郎子の墓(宇治墓)
菟道稚郎子墓と茶畑(茶畑の下が太閤堤跡)

発掘された堤には、水勢を緩和したり、流れの向きを制御したりする為に
石出し・杭出しなどの水制が定間隔で設置されていました。

護岸は直線的に400m続いたと考えられ、本来の地形を反映して工法を変えて造られている。
水制には石出しと杭出しがあり、石出しはほぼ90m間隔で3ヵ所確認されていています。

杭出し
杭出し(水勢を緩和、流れの向きを制御)


 

巨椋神社の参道⑭大藤神社(久世郡・久御山町・北川顔馬嶋)

巨椋神社の参道⑭大藤神社(久世郡・久御山町・北川顔馬嶋)に関する記事です。

大藤神社は淀駅の南1.8km、
宇治川に架かる淀大橋を渡った久御山町の北川顔バス停の側にあります。

大藤神社マイマップ

大藤神社マイマップ

淀大橋
淀大橋(宇治川左岸へ渡る)

大藤神社の北川顔(きたかわづら)という風変わりな地名は
木津川の北端にあったことが由来しています。
江戸時代の木津川は北川顔村に接して北流し、
淀城下に突き当たって西にふれ、宇治川に合流していました。

宇治川右岸には淀川顔という地名がありますが、今渡ってきた宇治川も以前は北を流れ
淀大橋当りに川は無く陸続きだったことによります。

宇治川上流
北川顔の対岸は淀川顔(明治までは陸続き)

北川顔バス停
北川顔バス停


大藤神社は巨椋池の南東部に当り、北川顔・藤和田地区の氏神で、
明治のはじめまで牛頭天王を祀り、牛頭天王社と呼ばれていました。

祭神:素盞嗚尊

木津川と宇治川に挟まれた北川顔と藤和田地区では、
室町時代から野菜苗が栽培されており、
今では550年の歴史を持つ淀苗として定着しています。

大藤神社の鳥居
大藤神社の鳥居

明和7年(1770)には、大旱魃が発生し、淀城主の稲葉丹後守は
玉田神社と大藤神社に参詣され悪疫除けと五穀豊穣を祈願したとの記録が残ります。

城主祈願の7日目に大雨が降り、住民は喜び、作物はよみがえって悪疫も消えたそうです。

大藤神社の拝殿
大藤神社の拝殿

社頭には江戸時代の元禄8年(1681)に奉納された手水鉢が置かれています。

大藤神社の手水鉢
大藤神社の本殿

大藤神社の南向いには若宮八幡宮が鎮座しています。

若宮八幡宮の社殿
若宮八幡宮の社殿





與杼神社の参道③淀渡船場道(京都市・伏見区)

與杼神社の参道③淀渡船場道(京都市・伏見区)に関する記事です。

現在の宇治川は淀駅の南側を淀競馬場に沿って流れていますが、
明治期の改修までは淀駅の北を流れ、淀城の北で桂川と合流していました。

淀小橋地図
明治改修前の宇治川


三川合流と淀城
三川合流と淀城


淀駅前には水車のモニュメントがあり、
駅周辺には宇治川に関係する種々の石碑が置かれています。


石碑を大きく2分すると、改修で消えた宇治川を記憶に残す為の記念碑と、
宇治川が現在の南に移されたためにできた淀渡船場に関係する碑です。


「淀の水車」モニュメント
「淀の水車」モニュメント


淀城は、宇治川・桂川・木津川の三川合流点付近を干拓してできた川中島に築かれた水城です。
淀城の西側と北側には大型水車が設置され城内に水を取り込んで園池に流しました。


♪淀の川瀬の水車 だれを待つやらくるくると♪


淀城跡
淀城跡


明治18年(1885)の大洪水に端を発する淀川流域全体改良工事の一環として
明治30~44年に宇治川の付け替えが行われました。


宇治川を付替え、合流点を淀から八幡まで下げ、巨椋池から完全に切り離すための工事で、
宇治川は現在の水路となりました。


淀小橋は、明治の付替え以前に宇治川に架けられていた橋で、
淀城と納所村(のうそ)の間に架けられた長さ130mに及ぶ橋でした。


納所の地名は、淀川を行き来する船の港として物産を納める倉庫からです。
現在の納所交差点は6辻からなる複雑なポイントで改修前に沢山の川が集まった名残のようです。


淀小橋跡碑
淀小橋跡碑

納所交差点(6線)マイマップ

納所6辻交差点マイマップ


江戸時代には朝鮮国王が日本に朝鮮通信使を12回も派遣しましたが、
唐人雁木跡は彼らの船着場のことです。


「雁木」とは船着場の階段の意味で、朝鮮通信使はここで船を降り、
東海道を江戸へ向かいました。


唐人雁木跡碑
唐人雁木跡碑


明治の淀川改良で宇治川は北に移されましたが、
この付替えで今まで淀と陸続きだった一口(いもあらい)が
淀と隔てられ、渡し船が運航されました。


その渡船場道にある大淀中学校の校庭に
「淀川渡船場道」を示す碑が置かれています。


淀川渡船場道碑
淀川渡船場道碑(大淀中)


渡船場道には嘗て淀藩が設立した明親館を母体とする明親小学校があり、
明治天皇御駐輦跡碑が置かれています。


明治10年に明治天皇が関西に行幸し、
明親小で休息されたことの記念碑です。


この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,
明治天皇は半年近くも京都に滞在されました。


明治天皇御駐輦跡碑
明治天皇御駐輦跡碑


淀川渡船場道の先は現在の宇治川で、淀水路取水口がありました。
対岸は明治初めまでは淀と陸続きだった一口(いもあらい)で、
現在の地名も久世郡久御山町西一口です。


疱瘡(天然痘)の古名「いもがさ」洗い流す池だったのが
「いもあらい」の地名由来です。
三方が巨椋池に囲まれ出口が一口だった為、
一口で「いもあらい」と読むようになりました。


淀水路取水口
淀水路取水口

淀水路2
淀水路(河津桜で知られる)






御香宮神社の参道②伏見港(伏見区・葭島金井戸町)

御香宮神社の参道②伏見港(伏見区・葭島金井戸町)に関する記事です。

伏見港は京阪中書島駅の南口にある伏見港公園に戦後まであった港で、
嘗ては淀川水運の拠点で、中書島駅付近は港町として賑わってい場所です。


伏見港は秀吉が築いた港ですが、江戸時代始めには高瀬川ができたことで、
伏見から京都市中心部に物資を送ることが可能となり、
それが、伏見港発展の基礎を築きました。


草津湊から鳥羽作道を経由した大阪湾から京都への物流ルートが
伏見港から高瀬川を経由するルートへとシフトしました。


伏見港公園文字
伏見港公園


文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城しました。
そのとき治水・物流のインフラとして太閤堤を構築しましたが、
伏見港は、その水路・陸路の大改造の一貫で、造られたものです。


宇治橋のあたりで巨椋池に注いでいた宇治川を池と分離し、
宇治川の流れを北に迂回させて、伏見城の南側に伏見港を築きました。


太閤堤は槇島堤・小倉堤・・・などの堤の総称で、
その堤により宇治川は巨椋池から分離されほぼ現在の流路となりました。
現在の宇治川左岸に沿うのが槇島堤、近鉄京都線に沿うのが小倉堤です。


さらには伏見城の西に外堀となる濠川が掘られ、
この濠川と宇治川が合流している地点に造られたのが、
大阪と伏見を結ぶ水運の拠点・伏見港だったのです。


巨椋池と太閤堤_LI
巨椋池と太閤堤(明治時代)


現在の宇治川と濠川の合流点付近は、伏見港公園の散策路があり
伏見港復元モニュメント・三栖閘門・三栖洗堰などが整備されています。


三栖閘門は大正から昭和初期の淀川改修工事の時に造られたもので、
宇治川から濠川を経て伏見港へ入る為の設備です。


現在三栖閘門は使われていませんが、閘門のなかに船乗り場があり、
十石舟の遊覧コースになっています。


三栖閘門
三栖閘門


濠川は三栖閘門の手前で2つに別れ、
濠川の豊富な水は三栖洗堰から宇治川に流れ込みます。


堰の上が散策ルートの一部になっていて、豪快な合流点の風景を見ることもできました。


三栖洗堰1
三栖洗堰1
三栖洗堰2(濠川・宇治川合流点)
三栖洗堰2(濠川・宇治川合流点)

伏見みなと橋
伏見みなと橋

三十石船モニュメント
三十石船モニュメント(伏見港復元模型)


江戸時代、三十石船が客を乗せて淀川を渡って伏見・大阪間を往来しました。
明治末期にはその姿を消しましたが、現在は屋形船の遊覧船として復活しています。
三十石船、十石舟が濠川遊覧し、並木や酒蔵など歴史的な風情を楽しめます。


濠川遊覧(十石船)
濠川遊覧(十石船)




生田神社の参道⑦熊野神社(神戸市・中央区・中山手通)

生田神社の参道⑦熊野神社(神戸市・中央区・中山手通)に関する記事です。

熊野神社は宇治川左岸160m
阪神神戸線・西本町駅の北700mの丘陵に鎮座します。

走渦と呼ばれた宇治川は改修されて水量は少なく嘗の面影はありません。


宇治川と宇治川公園
宇治川と宇治川公園


宇治川は熊野神社の南400mで暗渠化され、
商店街の下を潜り、ハーバーランドの海へ流れ込んでいます。


昭和13年の阪神大水害の教訓で、暗渠廃止の六甲山ですが、
宇治川は暗渠をやめられず暗渠前に水門があるのかも知れません。

暗渠前の水門
暗渠前の水門


熊野神社の鎮座する台地は、古くは宇治野山と呼ばれ、
法隆寺の747年の古文書によると、
その付近は摂津国・雄伴郡・宇治郷と称されています。


宇治郷は菟道稚郎子の名代の宇治部が宇治川流域から会下山あたりに住みついた場所です。
宇治部は宇治物部氏だったと考えられています。


注)雄伴郡は、淳和天皇の時代、天皇の諱「大伴」に発音が近い為、八田部郡と改名



熊野神社の鳥居
熊野神社の鳥居


紀記によると菟道稚郎子の母は宮主宅媛で、
宮和珥氏の祖,日触使主(ひふれ)の娘とされます。


しかし先代旧事本紀では菟道稚郎子の母は香室媛(かむろ)で、
伊香色雄命の曾孫の物部多遅麻(たじま)の娘とされています。
香室媛は物部山無媛とも称され、
応神天皇との間に3人の子息・息女(兎道稚郎子・矢田皇女・雌鳥皇女)を成しました。


矢田皇女は仁徳天皇の妃八田皇女で、
八田部郡の地名は八田皇女の名代が付近にあったためともされます。


熊野神社の二の鳥居
熊野神社の二の鳥居


熊野神社は宇治物部氏が創建したしたもので、
その後、福原遷都の際に藤原邦綱が再建したものです。


祭神:伊弉諾命、伊弉冉命

熊野神社を中興した藤原邦綱は五条大納言とも称する平清盛の友人で、
福原遷都の時は新都造営役を担当していました。


熊野神社の拝殿
熊野神社の拝殿


藤原邦綱は、頭を痛めて福原京の町割り案を多数出し、
早期に熊野神社の付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建てました。


福原遷都が廃案になり、安徳天皇が、京都に戻る時にその宇治新亭に滞在したことが
源頼朝の友人・吉田経房の日記「吉記」に記載されています。


熊野神社の本殿
熊野神社の本殿





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