野口王墓は近鉄吉野線・飛鳥駅の東1KMにあります。
野口マイマップ
野口王墓は紀に記載される天武持統天皇檜隈大内陵に治定される
両天皇が埋葬された八角形墳です。
治定と科学的見地が一致する数少ない古墳の一つです。
<第40代天武天皇>
先代:弘文天皇(大友皇子)
次代:持統天皇
<第41代持統天皇>
先代:天武天皇
次代:文武天皇
天武・持統陵は最初は686年に崩御された天武天皇のために築かれましたが、
その16年後の702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されました。
2室からなる石室があり、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器が納められました。
天武・持統天皇陵
鎌倉時代の1235年に盗掘され、大部分の副葬品が奪われました。
その際、天武天皇の棺まで暴かれ、持統天皇の銀の骨壺も荒らされました。
天武・持統天皇陵
天武天皇(631-686)は飛鳥時代の第40代天皇で、大海人皇子の名で知られます。
母は斉明天皇で、天智天皇の実の弟です。
兄の天智天皇の皇女を三人(大田皇女・鵜野讃良・大江皇女)も嫁にもらいますが、
皇后で共同で政治をした持統天皇(鵜野讃良)もその一人です。
天武天皇は壬申の乱で、天智天皇の長子の大友皇子に勝利し,
飛鳥京の板蓋宮跡に飛鳥浄御原宮を再建・大極殿を増設し
持統天皇との2代に渡り天皇中心の律令政治の整備を行いました。
飛鳥京(浄御原宮)
飛鳥浄御原宮跡と大極殿(エビノコ郭)
持統天皇(645-702)は天智天皇の皇女で、大化改新が始まった年に生まれました。
皇女時代の名前は、鵜野讃良と言います。
讃良は、もちろん我が北河内に今も残る地名で、
彼女の乳母の出身地が、讃良郡鵜野村だったことに由来しします。
壬申の乱では妃の中で鵜野讃良(持統天皇)だけが
天武と一緒に吉野へついていきました。
それが縁で大海人皇子(天武天皇)の皇后となります。
686年の天武天皇の死後は、自ら政事を行い,
我が子の草壁皇子を即位させるため、腹ちがいの子の大津皇子を処刑したりしますが、
草壁皇子も結局死んでしまいます。
そのために藤原京を造営し、690年に自ら持統天皇として即位しました。
♪♪春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山♪♪ 持統天皇
天の香具山