持統天皇

甘樫坐神社の参道⑲野口王墓(高市郡・明日香村・野口)

甘樫坐神社の参道⑲野口王墓(高市郡・明日香村・野口)に関する記事です。

野口王墓は近鉄吉野線・飛鳥駅の東1KMにあります。

野口マイマップ

野口マイマップ

野口王墓は紀に記載される天武持統天皇檜隈大内陵に治定される
両天皇が埋葬された八角形墳です。

治定と科学的見地が一致する数少ない古墳の一つです。

<第40代天武天皇>
先代:弘文天皇(大友皇子)
次代:持統天皇

<第41代持統天皇>
先代:天武天皇
次代:文武天皇

天武・持統陵は最初は686年に崩御された天武天皇のために築かれましたが、
その16年後の702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されました。
2室からなる石室があり、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器が納められました。

天武・持統天皇陵1
天武・持統天皇陵

鎌倉時代の1235年に盗掘され、大部分の副葬品が奪われました。
その際、天武天皇の棺まで暴かれ、持統天皇の銀の骨壺も荒らされました。


天武・持統天皇陵2
天武・持統天皇陵

天武天皇(631-686)は飛鳥時代の第40代天皇で、大海人皇子の名で知られます。
母は斉明天皇で、天智天皇の実の弟です。

兄の天智天皇の皇女を三人(大田皇女・鵜野讃良・大江皇女)も嫁にもらいますが、
皇后で共同で政治をした持統天皇(鵜野讃良)もその一人です。

天武天皇は壬申の乱で、天智天皇の長子の大友皇子に勝利し,
飛鳥京の板蓋宮跡に飛鳥浄御原宮を再建・大極殿を増設し
持統天皇との2代に渡り天皇中心の律令政治の整備を行いました。

飛鳥京
飛鳥京(浄御原宮)

飛鳥浄御原宮と大極殿
飛鳥浄御原宮跡と大極殿(エビノコ郭)

持統天皇(645-702)は天智天皇の皇女で、大化改新が始まった年に生まれました。
皇女時代の名前は、鵜野讃良と言います。

讃良は、もちろん我が北河内に今も残る地名で、
彼女の乳母の出身地が、讃良郡鵜野村だったことに由来しします。

壬申の乱では妃の中で鵜野讃良(持統天皇)だけが
天武と一緒に吉野へついていきました。
それが縁で大海人皇子(天武天皇)の皇后となります。

天武天皇


686年の天武天皇の死後は、自ら政事を行い,
我が子の草壁皇子を即位させるため、腹ちがいの子の大津皇子を処刑したりしますが、
草壁皇子も結局死んでしまいます。

そのために藤原京を造営し、690年に自ら持統天皇として即位しました。
♪♪春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山♪♪ 持統天皇

天武・持統天皇陵4
天の香具山



加守神社の参道⑬大津皇子陵 (葛城市・染野)

加守神社の参道⑬大津皇子陵(葛城市・染野)に関する記事です。

大津皇子陵は近鉄南大阪線・二上神社口駅の南2km、
標高517mの二上山雄岳山頂にあります。

二上山マイマップ

二上山マイマップ

二上山へは當間山口神社当りから登りましたが、
雄岳と雌岳の稜線(馬の背)に出ると
大阪平野が一望でき、富田林から大阪湾、淡路島まで全てが鮮明でした。

大津皇子陵は雌岳と違い展望の効かない二上山雄岳の山頂にありました。

湧水
二上山登山道の流水

大阪方面
二上山馬の背から大阪平野を望む

壬申の乱(672)に勝利した大海人皇子は、
その翌年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となりました。

天武天皇には、草壁皇子をはじめ、十七人の皇子や皇女がいて、
大津皇子や姉の大伯皇女もその仲間でした。

そのなかでも、先帝天智天皇の娘である持統天皇の草壁皇子、
姉の大田皇女の息子の大津皇子が最有力でした。

大津皇子陵1
雄岳山頂の大津皇子陵1

大津皇子家系図


特に幼少時に母をなくした大津皇子は、文武に優れ人望があったとされます。
そのため、草壁皇子の立太子決定後も、持統の憂いを招き、
謀叛のかどで死刑に処せられ二上山に葬られたとされます。

伊勢の斎宮から都に召された同母姉の大伯皇女(おおく)は、
二上山頂に眠る大津皇子を偲び、悲しみの歌を残しています。

♪現身の ひとなる吾や 明日よりは  二上山を 弟背(いろせ)とわが見む♪
(この世に生きている私は、明日からは二上山を弟だと思って見ます)

♪神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに♪
(伊勢の国にいればよかったのに、なぜ大和に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないのに)

大津皇子陵2
雄岳山頂の大津皇子陵2

伊勢斎宮が制度として定着したのは、天武天皇の時で
正式記録が残る初代斎宮の名は、娘の大伯皇女です。

壬申の乱の戦勝祈願の神への御礼として、大伯皇女は十二歳のとき斎王に選ばれ、
宮を出て泊瀬で潔斎、大津皇子の刑死で任を解かれるまで
十二年間を伊勢の地で神に奉仕しました。

於美阿志神社の参道⑲文武天皇陵(高市郡・明日香村・栗原)

於美阿志神社の参道⑲文武天皇陵(高市郡・明日香村・栗原)に関する記事です。

文武天皇陵は明日香村の高松塚古墳の南200m程にある
直径28mの円墳です。

檜前マイマップ

明日香日隈マイマップ


古墳の周囲には棚田があり、明日香を遠望できる風光明媚な場所でした。


棚田
文武天皇陵周囲の棚田

先代:祖母の持統天皇
次代:母の元明天皇


文武天皇家系図


第42代文武天皇は、名を軽皇子といい、草壁皇子の第2子に当たりますが、
軽皇子は7歳で父草壁皇子を失ない、祖母の持統天皇に寵愛されて育ちます。


そして持統の擁護もあって、15歳の異例の若さで天皇の座に就きます。


文武天皇陵1
文武天皇陵1

文武天皇陵2
文武天皇陵2

文武天皇の在位期間は10年で、25歳の若さで亡くなりますが、
業績としては天智天皇・天武天皇の願望だった
大宝律令を701年に完成・公布しています。

文武天皇陵3
文武天皇陵3

日本には6人の女性天皇がいましたが、そのうちの3人が
文武天皇王朝の前後で即位しています。

文武天皇の先代の持統天皇は祖母、
次代の元明天皇は文武天皇の母、
次次代の元正天皇は姉に当たります。

適切な男子天皇が現れるまで、
女性たちで天皇の座を守ってきたようです。

文武時代の天皇歴任者

忍陵神社の参道⑩讃良白鳳3寺(河内国・讃良郡)

忍陵神社の参道⑩讃良白鳳3寺(河内国・讃良郡)に関する記事です。


高宮廃寺、讃良寺、正法寺は白鳳時代に河内国・讃良郡に建立された古代寺院です。


3寺とも東西2塔をもつ薬師寺式伽藍で、
1kmおきに一直線に並んだ姿は威容だったと思います。


その3寺を結ぶレイラインには同じ白鳳時代に讃良郡で灌漑事業をした
行基建立の御机神社・権現滝などもあり、水の祈りも見えてきます。


讃良白鳳3寺レイライン
讃良白鳳3寺レイライン1(讃良郡)


この讃良白鳳3寺レイラインを更に南へ伸ばし続けると
なんと藤原京の大極殿に当ることに気づきました。


藤原京は讃良郡(ささら)と同じ名前の
鵜野讃良(うの・ささら)こと持統天皇が建設した都です。


讃良は、四條畷市と大東市と寝屋川市の一部を含む古代「讃良郡」です。


讃良郡鵜野村を拠点とした宇努連出身の女性が持統天皇の乳母となり、
持統天皇にとっては、ここが生まれ故郷のような場所になった為、
鵜野讃良という名前が付けられました。


讃良白鳳3寺レイライン2(全体)
讃良白鳳3寺レイライン2(全貌)


讃良寺は四條畷市の忍岡古墳の北側を流れる、讃良川の両端にあり、
昔から白鳳期の瓦が多く出土する場所でした。


正法寺の瓦と同じ型で成形された瓦が発見され、
正法寺の後に讃良寺が築かれたことが判っています。

讃良寺と正法寺は同じ系列の氏族が建立した寺かも知れません。


讃良川
讃良川(讃良寺があった場所)


3寺の一番南に位置する正法寺は生駒山北部、清滝街道の登り口に築かれました。

行基菩薩が建立したの49院の1つとも言われます。

四條畷市史によると正法寺は鵜野讃良の乳母の出身の宇努連(うの)の氏寺で、
鵜野讃良皇女は幼少時を正法寺で過ごしたと見られています。


正法寺の山門

現在の正法寺(江戸時代に南の中野へ移転)


3寺の一番南に位置する高宮廃寺は寝屋川市を南北に走る河内街道沿いにあります。

高宮廃寺は秦氏と同属の高宮氏が河内太秦に建立した寺です。

周辺には高宮氏の氏神社である大杜御祖神社・高宮神社や、
高宮氏の住居跡などが発掘整備されています。


大杜御祖神社の拝殿
大杜御祖神社の拝殿(高宮廃寺跡)



讃良白鳳3寺レイラインの先にある藤原宮
東漢一族の技術力・経済力を全面的に結集して築かれた都です。


高宮氏は元々は葛城襲津彦が新羅を攻略した際に日本連れ帰り、
葛城に住まわせた氏族です。
その後、葛城氏が滅亡し雄略天皇の中央集権政策で
東漢氏や秦氏の管轄になりました。
高宮氏は阿知使主の後裔ともされ、
当初は東漢氏に全面的に組入れられました。


讃良白鳳3寺レイラインをとおして、鵜野讃良・東漢氏・宇努連・高宮神主・行基と
白鳳期に活躍した人達のロマンが見えてきます。


讃良白鳳3寺レイライン3(藤原京)
讃良白鳳3寺レイライン(藤原京)


忍陵神社の参道⑮正法寺(四条畷市・中野本町)

忍陵神社の参道⑮正法寺(四条畷市・中野本町)に関する記事です。

小野山正法寺はJR片町線の忍ヶ丘駅の南700mにある
古代寺院・正法寺の法灯を継ぐ寺です。

清滝マイマップ
中野マイマップ


小野山正法寺の石柱の右隣は「准檀林」と刻された自然石の石碑です。
「准檀林」とは幕末に建立された仏教の学問所でした。


正法寺の山門
正法寺の山門


正法寺は社伝によると奈良時代の聖武天皇の勅願により、
行基菩薩が建立したの49院の1院と伝わります。


これより北の清滝の字正法寺にありましたが、
江戸時代の元和年間(1615~24年)に中野の現在地に移転したとされます。


正法寺の本堂
正法寺の本堂


小野山正法寺の山門を入ると観音堂の右手には
仏像が見守る貯水盤がありますが、
これは石棺の身で、旧正法寺跡地から遷されたものです。


国中神社の社頭にある立石が、この棺の蓋だそうで、
旧正法寺は白鳳時代に古墳を潰して建てた大寺です。


貯水盤
境内の貯水盤


観音堂の左手には2基の大型の石碑があります。

南無阿弥陀仏と刻まれた碑は「六字名号碑」で、
これも古墳時代の石棺の蓋を利用したものです。


十三仏塔は市内7基の中で最大のものです。
十三仏塔が流行したのは戦国時代で
死後の極楽往生を願い生前に建立・祈願したそうです。


正法寺石仏
六字名号碑(1536年造)と十三仏塔(1590年造)


旧正法寺跡地は当寺の西500m,四條畷市清滝の地にあります。


最近の発掘調査によると奈良時代より
古い白鳳時代に創建されたことが分かり
中門、塔、講堂などの存在が確認されています。


古代寺院の河内国・讃良郡に建てられた
白鳳文化が広まる飛鳥時代の後期(7世紀後半)ごろに建てられました。


旧正法寺跡
旧正法寺跡


不思議なことに正法寺と同じ白鳳時代・讃良郡に
1kmおきに讃良寺高宮廃寺と相次いで古代寺院が建てられました。


しかも3寺院は一直線に並んで作られており、
延長上には鵜野讃良(持統天皇)の藤原京本薬師寺が見えます。


讃良郡の古代寺
讃良郡の古代寺(一直線に並ぶ)


鵜野讃良の名前は持統天皇の乳母の出身が讃良郡鵜野村の宇努連(うの)である為です。
宇努連が持統天皇の藤原京に期待して3寺を建立したとも思えます。


また3寺は東塔、西塔のある薬師寺形式で、
藤原京の本薬師寺は持統天皇の病気平癒を祈願して建てられた寺でもあります。


正法寺復元画
正法寺復元図






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