水尾神社の参道⑬三重生神社(高島市・安曇川町・常磐木)に関する記事です。
三重生神社と継体天皇伝承地
安曇川沿いに走る県道23号線の南側に一直線の長い参道があり、
一の鳥居の200m西に三重生神社の社殿があります。
それにしても高島市で祀られるのは継体天皇の父母ばかりで、
ここで生まれた本人を祀る神社は無いようです。
祭神:彦主人王
配祀:振媛
一の鳥居の200m西に三重生神社の社殿があります。
三重生神社は近江国・高島郡・二座と記される式内小社で、
継体天皇の父母の彦主人王と振媛を祀る神社です。
継体天皇の父母の彦主人王と振媛を祀る神社です。
それにしても高島市で祀られるのは継体天皇の父母ばかりで、
ここで生まれた本人を祀る神社は無いようです。
祭神:彦主人王
配祀:振媛
三重生神社の鳥居と一直線に続く参道
社頭の由緒には、三重生神社は古来勅使が参向する社とあり、
勅使が詠んだ「うしの祭り」の歌が刻されています。
<勅使の詠まれた御歌>
♪近江なる うしの祭りのこととへば 如月なかば雪は降りつつ
近江のや うしの祭りのこととへば 志らゆう花を雪とまかへて♪
祭神の彦主人王は「ひこうし」とも読み、
背後の台地にある彦主人王の墓は牛塚と呼ばれます。
うしの祭は現在にも伝わり、
雪の2月ではなく、若草萌える4月におこなわてれています。
うしの祭では弓矢旗などを持つ行列の中に釣り竿を持つ者もおりますが、
彦主人王は釣りが好きだったそうです。
彦主人王は釣りが好きだったそうです。
振媛は越前三国の坂中井で暮らしていましたが、
近江国高島郡の三尾之別業(別荘)の彦主人王へ嫁ぎました。
振媛は出産のとき、三尾神社の拝殿を産所として
彦人、彦杵、彦太の三つ子を安産されました。
三重生神社と呼ばれるのは、この三つ子に因みます。
御子が五歳のとき、父の彦主人王が薨去され、
振媛は彦杵と彦太をお連れになって越前高向宮に戻り、
養育されていましたが、13年後に振媛も薨られました。
長男の彦人は、この地で成長され北越五ヶ国を治められました。
三男の彦太は、後の26代継体天皇となられました
三重生神社の南200mには
戦国時代の武将・川副秀政の菩提寺の正法寺があります。
戦国時代の三重生は川副氏の所領で、
正法寺は川副秀政の居城・三重生城の城跡に建てられた寺です。
三重生城跡には高さ2mもの土塁が残り墓域になっています。
秀政の子の政義は織田信長の上洛時、六角氏に与して三重生城に籠城しましたが、
柴田勝家らに攻められ川副氏は滅亡しました。