生田神社の参道⑦熊野神社(神戸市・中央区・中山手通)に関する記事です。

熊野神社は宇治川左岸160m
阪神神戸線・西本町駅の北700mの丘陵に鎮座します。

走渦と呼ばれた宇治川は改修されて水量は少なく嘗の面影はありません。


宇治川と宇治川公園
宇治川と宇治川公園


宇治川は熊野神社の南400mで暗渠化され、
商店街の下を潜り、ハーバーランドの海へ流れ込んでいます。


昭和13年の阪神大水害の教訓で、暗渠廃止の六甲山ですが、
宇治川は暗渠をやめられず暗渠前に水門があるのかも知れません。

暗渠前の水門
暗渠前の水門


熊野神社の鎮座する台地は、古くは宇治野山と呼ばれ、
法隆寺の747年の古文書によると、
その付近は摂津国・雄伴郡・宇治郷と称されています。


宇治郷は菟道稚郎子の名代の宇治部が宇治川流域から会下山あたりに住みついた場所です。
宇治部は宇治物部氏だったと考えられています。


注)雄伴郡は、淳和天皇の時代、天皇の諱「大伴」に発音が近い為、八田部郡と改名



熊野神社の鳥居
熊野神社の鳥居


紀記によると菟道稚郎子の母は宮主宅媛で、
宮和珥氏の祖,日触使主(ひふれ)の娘とされます。


しかし先代旧事本紀では菟道稚郎子の母は香室媛(かむろ)で、
伊香色雄命の曾孫の物部多遅麻(たじま)の娘とされています。
香室媛は物部山無媛とも称され、
応神天皇との間に3人の子息・息女(兎道稚郎子・矢田皇女・雌鳥皇女)を成しました。


矢田皇女は仁徳天皇の妃八田皇女で、
八田部郡の地名は八田皇女の名代が付近にあったためともされます。


熊野神社の二の鳥居
熊野神社の二の鳥居


熊野神社は宇治物部氏が創建したしたもので、
その後、福原遷都の際に藤原邦綱が再建したものです。


祭神:伊弉諾命、伊弉冉命

熊野神社を中興した藤原邦綱は五条大納言とも称する平清盛の友人で、
福原遷都の時は新都造営役を担当していました。


熊野神社の拝殿
熊野神社の拝殿


藤原邦綱は、頭を痛めて福原京の町割り案を多数出し、
早期に熊野神社の付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建てました。


福原遷都が廃案になり、安徳天皇が、京都に戻る時にその宇治新亭に滞在したことが
源頼朝の友人・吉田経房の日記「吉記」に記載されています。


熊野神社の本殿
熊野神社の本殿