エナガ先生の講義メモ

野鳥撮影がきっかけで鳥から教えてもらったこと、興味をもって調べたことをメモしていきます。 

阿保親王

阿保親王塚古墳の参道①阿保天神社(芦屋市・上宮川町)

阿保親王塚古墳の参道①阿保天神社(芦屋市・上宮川町)

阿保天神社はJR芦屋駅の南東200mに位置します。

昔は天滿宮および阿保天神社と呼ばれ、
打出天神社と同じ菅原道真をお奉りして多くの人々に親しまれていました。

昭和20年8月の阪神大空襲で焼失し、7年後に今の本殿や拝殿が新設されました。
その際、芦屋ゆかりの阿保親王や在原業平を加えてお奉りし
阿保神社と呼ばれるようになりました。


祭神:阿保親王、在原業平、菅原道真


阿保天神社の拝殿

阿保天神社の拝殿

阿保親王には、芦屋周辺を所領地にしたという言い伝えがあります。
親王はこの地とこの土地の人々を愛し、親王塚に黄金一千枚と金の瓦一万枚を埋めて
飢饉の際には掘り出して穀物と換えるようにと伝えたという伝説も残っています。

阿保親王の伝承は芦屋だけでなく、大阪松原や奈良櫟本にもありますが、
いずれも土地でも地元の人々を大切にしたようで、皆から慕われていました。



阿保天神社の本殿
阿保天神社の本殿


阿保天神社の舟形手水鉢には大きな盃状穴があります。


盃状穴とは岩石や石造物等に彫られている盃状の穴の事です。
縄文時代から近年まで子孫繁栄を願って、
女性のシンボルを模した穴が彫られました。


盃状穴のある手水鉢
舟形手水鉢(大きな盃状穴)


廣田神社の参道⑲阿保王塚古墳(芦屋市・翠ケ丘町)

廣田神社の参道⑲阿保親王塚古墳(芦屋市・翠ケ丘町)に関する記事です。


芦屋は昔から在原業平や、
業平の父の阿保親王が居住していたと伝承されてきた町です。

芦屋市東部、大阪湾に注ぐ宮川の流域には保親王塚や阿保天神社があり、

どちらもかつて打出と呼ばれた地域の所属です。


打出の地名由来は神功皇后の軍隊が打ち出るからとも
陸路の山陽道がはじめて海浜に打ち出たからとも言われます。


宮川
宮川流域の住宅(昔は打出)


阿保親王は平城天皇の子で、在原業平の父親です。
翠ヶ丘の翠(みどり)とは、阿保親王の御陵とされる親王塚を包む森に生い茂る
翠松に由来するともいわれています。

地元では阿保親王の墓と信仰されている塚ですが、
実際は阿保親王の時代より500年程古い4世紀後半に築造された古墳です。


翠ヶ丘古墳群の最有力首長墓であり多量の三角縁神獣鏡が出土した事から、
被葬者は大和政権と直接結びついていた事が想定されます。


<阿保親王塚>
形状 :円墳
サイズ:径36m、高さ3m
築造 :4世紀後半
被葬者:翠ヶ丘古墳群の首長
出土品:三角縁神獣鏡他

阿保親王塚1
阿保親王塚1


古墳築造時は大阪湾から瀬戸内海に臨む海岸線だった場所で
三角縁神獣鏡が出土した古墳が海岸線沿いに点在しています。


3世紀後半に神戸市灘区の西求女塚古墳が築造され、
その後、処女塚古墳→東求女塚古墳→ヘボソ塚古墳→阿保親王塚古墳と、
4世紀末まで西から東に向かって一定の距離を置きながら古墳の築造が継続しています。


阿保親王塚拝所1
阿保親王塚拝所1


拝所の正面にある石燈籠は長州藩主毛利候が寄進したものです。
毛利氏は大江音人(おとひと)の末裔にあたり、
音人の実父が阿保親王とされることから阿保親王を尊崇していたものです。


阿保親王塚拝所2(毛利寄進の石灯籠)
阿保親王塚拝所
2(毛利寄進の石灯籠)

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阿保親王塚古墳の参道①阿保天神社(芦屋市・上宮川町)


狭山神社の参道⑥阿保神社(松原市・阿保)

狭山神社の参道⑥阿保神社(松原市・阿保)に関する記事です。

松原市の北側へ行くと一体は阿保の地名で、至るところで阿保の表記が見られます。
阿保の地名は平城天皇の子で、在原業平の父親でもある、
阿保親王が住んでいた事に由来します。

阿保神社周辺図
阿保神社周辺図

河内松原駅から駅前商店街を少し北へ行くと、阿保茶屋とよばれていた場所があります。
阿保茶屋は長尾街道と中高野街道が交わる要衝の地で
旅人の休憩場所としてお茶屋がありました。

南北の道は、守口と高野山方面を結ぶ中高野街道で、
東西の道は堺と大和長尾神社あたりを結ぶ長尾街道です。  

阿保茶屋
阿保茶屋(長尾街道と中高野街道交差点)

しばらくすると街道の右手に鴨や鷺で賑わう海泉池(かいずみ)があらわれます。
海泉池は池底から泉が湧く池で、阿保親王が掘った灌漑池の一つです。

阿保の土地は、水利の便が悪く農民たちが困窮していたため、
親王は邸宅の中庭の池を灌漑用に改造して農民に開放しました。

阿保親王が農業生産を奨励したので、阿保の地は豊かになり、
村人は、邸宅の池を親王池と呼ぶようになったとされます。

海泉池
海泉池

北堤の公民館前に、海泉池の堰高を決める満水石が残されています。
文化5年に西阿保村と三宅村が立ち会い、堰高7寸5分と決めたそうで、
阿保親王の造った池が近年まで有効活用されていたことが分かります。

海泉池満水石
海泉池満水石

海泉池満水石の先の道を北に周りこむと阿保神社の前に出ます。
石鳥居のすぐ先に拝殿がありますが、小さな境内ですが何本もの大楠があります。

祭神:菅原道真

阿保神社の鳥居
阿保神社の鳥居

901年には菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中、
道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告げた帰途、
阿保の土地を通られて当社で休息されました。

その縁起で菅原道真公を祀る阿保神社が建てられたと伝わります。

阿保神社の拝殿
阿保神社の拝殿

本殿右側には阿保親王と厳島姫命を祀る阿保親王社と厳島神社があり,
阿保親王の居住地と伝えられています。

阿保親王の母は葛井寺(藤井寺)出身の葛井藤子で、
阿保は葛井寺に近いので阿保神社は藤子の縁の場所かも知れません。

阿保親王住居跡碑
阿保親王住居跡碑

葛井寺は平安初期には寺は衰退しかけていたのですが、
平城天皇は妃の葛井藤子の願いを聞いて葛井寺再建の指示をされ、
阿保親王と在原業平と二代にわたって修復整備に尽力します。

阿保親王社と厳島神社
阿保親王社と厳島神社

本殿左側には樹齢1100年の楠があり、根張りが見事でした。

阿保神社の楠
阿保神社の楠


和爾下神社の参道⑤在原神社(天理市・櫟本町)

和爾下神社の参道⑤在原神社(天理市・櫟本町)に関する記事です。

和爾下神社はJR桜井線の櫟本駅(いちのもと)の南南東700M
西名阪自動車道の南側、上街道沿いにあります。

櫟本駅
無人駅の櫟本駅

社号標石は表が在原寺、裏が在原神社となっており、
明治の廃仏毀釈によって廃寺となった在原寺が前身です。

祭神の阿保親王は在原業平(825-880)の父で、平城天皇の第1皇子でした。

「在原寺縁起」によると阿保親王は石上(櫟本も石上だった)の在原の地に暮らし、
承和2年(835)に平尾山にあった補陀落山本光明寺を在原に移して在原寺を創建したそうです。
在原業平は、この石上で産まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名付けられたとあります。

祭神:在原業平、阿保親王

阿保親王は血筋からすれば天皇にもなれる血筋ですが、、
薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移ってしまいます。

阿保親王は平城天皇の薬子の変に連座した罪により
在原氏の姓を与えられ皇族から皇族の家臣に左遷され(臣籍降下)、
業平も兄・行平らとともに在原氏を名乗るようになります。

在原寺の社号標
在原寺の社号標石(裏は在原神社)

櫟本の在原神社は粋な神社で、伊勢物語中の1話を参考にして
世阿弥が作った謡曲「井筒」の名残を境内に残した神社です。

伊勢物語の各段の主人公は在原業平と同一視されますが、
謡曲「井筒」でもこれを踏襲し、主人公夫婦を業平とその妻(紀有常女)としています。

在原神社の本殿1
在原神社の社殿

井筒とは井戸の上部を木や石で丸く囲んだ部分のことです。
境内には謡曲の題材となった「井筒の井戸」があり、
謡曲の舞台となっている”大和国石上の在原寺の旧跡”が当所だとされます。

幼児の時に、この井筒で背丈を業平と計りあった井筒の女(実は紀有常の娘)が現われ、
業平との在りし日の交情を語り合い二人は夫婦になります。

♪筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに♪  業平

井筒の井戸
謡曲「井筒」の井戸

しかしプレイボーイの業平は八尾の高安に浮気相手の女でき
毎晩奈良から生駒山を越えて河内の八尾に行くようになります。

しかし業平の妻は怒るどころか業平を心配した歌を詠み業平は
夫婦の危機を乗りこえ、愛を取り戻しました。

♪ 風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ ♪ 
~風が吹くと沖の白波が立つ竜田山を、夜中に貴方は一人で越えているのでしょうか。
     ああ、心配だ~


姫丸社
姫丸社(業平の妻・井筒の女を祀ります)

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