2009年04月30日

日本と朝鮮半島2000年(ETV特集より)

日本と朝鮮半島2000年の歴史、高松塚古墳、四神、朝鮮半島を伝わって日本に伝わった、仏教伝来の記録、古代人々は海峡を越えた、石澤範夫NHKアナ、笛木優子女優、立命館大学山屋幸久教授、韓国ホンイク大、キム.テシク教授解説、卑弥呼、玄界灘、どのような交流か、壱岐島、2000年前の集落、原の辻遺跡、大規模な集落、東アジアの交易センターであった、船着場、南北400m、積み石技術で作られた突堤、朝鮮半島からもやってきた、煮炊きに使う鍋、居留地があった、水稲流,当時の船、玄界灘を自由に行き来していた、米を作る技術で始まる、炭化米、水田跡、佐賀県、たばたき遺跡、水田稲作は日本にどのように伝えられたか、板付け遺跡、一枚の大きさが現代と同じ規模、1994年、人骨が見付かる、水田稲作を始めた人に特徴、弥生人と縄文人に違いがある、大陸、ヨーロッパの人によく似ている、人口増加、食料が安定すると増加、8割以上が渡来人で占められている、ヌクト、韓国の南の島、弥生時代、韓日間の交易に重要な役割、意図的に抜歯の習慣、日本からの弥生の土器が朝鮮半島に持ち込まれていた、倭国大乱で卑弥呼が現れる、大和大国の登場、まき向き遺跡、遺跡の中心地の発掘、べに花の染料、朝鮮半島からやってきた、特に重用された、ヌクト、日本と韓国の中継点、当時の日本人がヌクトに住み着いていた、両者の交流が活発であった、巨大な古墳時代、
4世紀公開土王碑、1500の文字が刻まれている、この国の大王の記録、4世紀後半から高句麗が舞台、周安、公開土王妃が都を置いた、倭が朝鮮半島中西部まで侵入、明治時代の中頃、日本の軍人が文字の写しを取っていった、8世紀中頃、日本書紀に両国の7つの国を統合した、明治時代中期、任那の地名、現在ナクトン川の下流域にあった、地元の人々は伽耶国は日本と交易していた、テソンドン古墳、様々な副葬品、巴型銅器、防御用の盾に使った、大阪南部の古墳群、巴型銅器が見つかっている、倭と親密な関係にあった、紀元2世紀から鉄の製品が多かった、農具、工具の鉄製品が見つかっている、北の高句麗と対抗した、きんかん伽耶国として独立した文化を築いていた、倭に支援を求めた、562年任那日本府を滅ぼす、高句麗や新羅と戦う、1920年好き太王碑文、高句麗に不利な条件を誇大に書いている、伽耶国には日本が労働力として入って来た、鉄を輸出する代価として労働力を得ていた、伽耶にしろ百済にしろ軍事支援が必要であった、日本の飛鳥寺、最初の本格的な寺院、釈迦如来像、とても古い感じがする、飛鳥寺発掘、一塔三金堂式、プヨ、百済の都が置かれていた、王興寺跡、飛鳥寺に似ている、王興寺、五重の塔、一塔三金堂方式、舎利器が発見、貴重な手ががり、百済時代の金属工芸、玉で出来た飾り、勾玉、飛鳥寺でも金銀の飾りや玉類が発見されている、勾玉も見付かる、577年王興寺が建てられた、飛鳥寺は588年に建てられた、11年しか違わない、聖明王像、当時存亡の危機、高句麗、新羅の勢力が強大となる、百済お互いに協力したいと釈迦三尊像(法隆寺)1990年台座の内側から個人的な落書き、官僚のレベルなどが分る、漢字の文化が定着、仏教が文字文化をもたらした、飛鳥寺が中心的な役割、仏教の伝来、隋書倭国伝、仏教を百済に求めた、6世紀大和政権、統一国家の形成、仏教を日本に伝え援助を求めた、
百済は新羅によって奪われた、中国南朝→百済→日本、基本的で重要なルート、中国の仏教が日本に伝来した、日本には文字はなかった、610年唐と新羅の連合軍により百済陥落、663年白村江の戦い、しかし唐、新羅の連合軍に大敗、高句麗までが唐、新羅に負けた、多くの渡来人が日本に流れてきた、
飛鳥には高松塚古墳、四神の図、古代の高句麗と日本の交流を示すもの、高句麗の古墳江西大墓壁画と似ている、中国に起源、日本と朝鮮半島、中国と
忠実に再現されている、7世紀中期、百済、高句麗が滅亡、日本の古代文明、より親密な関係を見つけることが出来る、今年1年を通してシリーズで伝えていく、


myanchan at 11:47│Comments(0)TrackBack(1) 歴史 

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1. 南下する高句麗軍、決戦の日  [ 考える野帖 ]   2009年05月20日 20:46
 満を持して朝鮮半島を南下する高句麗軍。これを阻止せんと迎え撃つ倭・百済・伽耶連合軍。両者の衝突を想像してみよう。  居酒屋で友人(武器考古学者)と飲むと、こうした話で...

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