November 24, 2007

青い日章旗

181afd39.jpgもうだいぶ経ってしまいましたが、行ってきました国立競技場。U22日本代表対U22サウジアラビア代表の試合です。私はイギリスでチャンピオンズリーグを2試合見て以来、都合3回目のサッカー観戦です。結果はご存知の通り、0-0のスコアレス・ドローで日本代表が北京オリンピックの出場権を勝ち取ったあの試合です。

試合の話から先にしますと、前半は、どうしても勝たなければいけないサウジアラビア代表が試合を押し気味に進めまして、青山敏弘のスーパープレーがなければ失点、というところまでいきました。しかし、前半35分をすぎたあたりから日本側にもチャンスがうまれ、李や細貝の惜しいシュートなどがありました。しかし、結局決められずにドロー。結果オーライだけが強く印象に残った試合でありました。

しかし、試合よりも強く印象に残ったのは、日本代表を応援する人々であり、スタジアムの雰囲気でありました。

スポーツ社会学の世界では、スポーツのナショナリズムをいかに理解するのか、ということについて、大きく見解が分かれています。ひとつは、スポーツが喚起するナショナリズムは、やはり現状の体制の擁護に寄与し、排外主義と国民の団結を促進し、ひいては政治支配や戦争にまで動員されるナショナリズムである、とする主に左翼を中心としたナショナリズム批判の文脈で理解されるもの。もうひとつは、スポーツのナショナリズムは所詮「90分のナショナリズム」にすぎず、上記のような政治的機能はほとんどなく、むしろ日韓ワールドカップのときのように、その人が楽しむためならば、その時々で「イングランドナショナリスト」になったり、「ブラジルナショナリスト」になったりする、あいまいなものである、とする見解であります。

今回、ゴールのほぼ真裏に陣取ったこともあって、周囲は熱狂的なサポーターだらけ。試合前には割り箸とA4の紙で作った日の丸や「ニッポン」コールがちりばめられた応援歌の歌詞を配り歩いている人からそれらをもらい、周囲にはいたるところで「必勝」とか「闘魂」とかかれた日の丸の大旗が打ち振られているわけです。試合開始前には、藤井フミヤの独唱が全く聞こえなくなるほどの声量で「君が代」が歌われ、試合が始まると、コートを着てても寒さを感じるほどの気温8度・風速6mのなかで、上半身裸になって熱烈な応援を繰り広げている人までいます。

反日サヨク知識人の端の端くれに位置する私は、どうしても「ナショナリスト」になるには戸惑いと羞恥心があり、90分間の最後の最後まで「ニッポン」をコールすることはなかったわけですが、周囲はそんな私のチンケな思いをよそに、90分間ほぼやむことなく「ニッポン」が連呼されていたわけであります。

そうした環境のなかでもひときわ私ども(同じYゼミのS氏とN君)の関心を引いたのが、写真でアップした「青い日章旗」なのです。ご存知の通り、日章旗は赤で描かれるのが本来のものなのですが、これはサッカー日本代表のシンボルカラーである青でそれを描いているんですね。おそらく、戦前ならば不敬罪にも問われそうなシロモノなわけですが、「ナショナリスト」がそれを正々堂々と打ち振っているわけです。

そして、当然といえば当然なのですが、JFA(日本サッカー協会)のシンボルである八咫烏はいても、天皇の「御真影」など影も形もない。しかし、八咫烏のもともとの由来から言えば、それは神武天皇の神話と切ってもきれない関係にあるわけで、天皇家と深いつながりのあるもの。JFAのシンボルとしての採用の由来から考えても、天皇がいてもむしろ不思議ではないんですが、天皇は影も形もないわけです。

これらの事柄を考えてみると、おそらくスタジアムの「ナショナリスト」たちは、天皇の権威やナショナリズムの政治的機能とは切れたかたちで、ナショナリズムを楽しんでいるし、ナショナリズムで遊んでいるのではないだろうか。もちろん、こうしたナショナリズムの経験が個人の政治的意識に反映することはあるだろうし、こうした現象の政治性は別に考察の対象となるんだろうが、それでも彼らは主観的にはナショナリズムを遊び、楽しんでいるように見える。

だからこそ、JFAのシンボルや「君が代」がいかに天皇との関係が深いものであろうとも、スタジアムのナショナリストたちが戦前のように天皇に格別の敬意をもった接し方(例えば御真影に最敬礼するとか、)をすることはないだろうし、「大東亜戦争肯定論」にくみすることもないだろう。私がもし「ナショナリスト」だったらば、オリンピックの最終戦という重要な試合には「Z旗」(「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」を意味し、日本海海戦やマリアナ沖海戦など重要な海戦などで用いられた)を掲げる、というようなアイデアが浮かぶのだが、そうした政治性と切れた「ナショナリスト」たちには、おそらくそういった発想は浮かばない。スタジアムのナショナリストたちは、そういった右翼的・原理的な知識や発想から切れたところに存在するからである。

このように考えるならば、おそらく始めに挙げた左翼のスポーツナショナリズムの理解の問題性が理解されよう。原理的なナショナリズムの理解でスポーツナショナリズムを分析しようとすると、その刃はひたすら虚空を切り続けることになろう。原理では見えないものが現場にはある、と思わせるような経験。それがスタジアムにはあった。

mygod_bass at 03:28コメント(4)トラックバック(0)観戦記  

トラックバックURL

コメント一覧

1. Posted by ともぞー   November 26, 2007 00:21
まあ、相手がサウジということもあるかもね。
しかし、朕さんを崇拝する懐古的ナショナリズムとは別に、現代的文脈におけるナショナリズムもあるわけで(別に全部が悪いということもないだろうけど)。
異なる属性のもの(と思い込んでいる)に対する感情と、自身の置かれた環境との併せ技に民衆の中にあるナショナリズムは敏感に反応していると私は思うけれど。どーだろか。
石原にしてもそうだけど、朕さんとは別個のナショナリズム運動が大きな力を持っているのではないか、と思ったりする。
2. Posted by ダメ院生   November 27, 2007 00:47
いや、ここでいいたいのは懐古的とかシビックとかそういうナショナリズムの違いの話ではなくて、ナショナリズム批判をする方は、こういったナショナリズムの実態というか、原理的批判が通じない実態をつかまえる必要がある、ということ。天皇は原理的解釈のたとえとして出してるだけであって、シビックナショナリズムの代表が石原、とする解釈もナベオサを通じて知ってますからねw
3. Posted by ともぞー   December 21, 2007 01:26
個人的にはシビックナショナリズムの主語(提供元ね)に石原を持ってくるのは実は違和感があったりするんだけども。(そもそもポピュリズムが蔓延する現代にシビックでないナショナリズムが実体として存在しうるのかという気もしなくもない。)
なんというか、奴の発想は懐古主義であれ、シビックなものであれ、「ナショナリズム」といわれるものに一見親和的な外面とは裏腹に醒めた見方してんなーと思うことがあったりするわいな。
左右1軸では切れんとも思っているが、さて。
まあ、
>その刃はひたすら虚空を切り続けることになろう。
は賛成。
4. Posted by ba   August 19, 2008 11:50
旗の縫い方が載ってるサイト教えて下さい。

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
livedoor プロフィール
Archives
最新コメント
訪問者数

  • ライブドアブログ