2005年11月30日

根拠薄弱なままパズルに勤しむ

私の発言が根拠薄弱な観念論であるのは自覚している。
一世紀前、マックス・ヴェーバーらは、それらを非難した。
論拠・データを元に発言する正しさを説いた。

ただ、それから一世紀…半世紀を経過した頃からか、具体的データを
握った者にしか発言権が無いような、情報の掌握という権力強化が
進んできたように思う。国は恣意的にデータを集め政治的に利用する
ようになった。昨今、アメリカにその傾向があることを指摘されるが、
日本がそうであることは、あまりTVメディアでは報じない。
国会では野党による追及があるが、与党は惚けるだけで時間潰しに
終始する。

蛇足ながら、大戦後、多くの国が南北・東西に分断された。これも
ヴェーバーが提案していた…同じ政治制度もそれを導入する国の
基礎となる文化が違えば異なる結果が得られるであろう想定から、
結果だけを見て政治の優劣を決められないであろう…という指摘に
答えるものであったかに、私には思える。


ともかく。
恣意的にでも集められるデータという部分を全体として錯覚している
ような…データ化できない実体は、あたかもこの世に存在しない
かのような風潮が、逆にそのデータ至上主義のような意志決定機関の
矛盾が、この社会を歪んだものにしているのではないかと考えるわけです。


だから、私は、
漠とした流行の変遷と、発言力のあった者の思想の変遷とを並べて、
集合的無意識…ユングの唱えたそれと同じではないと思うが…の変遷を
各集団における偏倚を測ろうと思っているわけです。
所詮データは過去しか測れない。前例主義は未来を描けない。
社会の実態…その個別具体に興味が無い…と言った方が
正確かもしれないけれど。

その扱いは、占い師・占星術師が扱っているものと似ていると思う。
所詮社会・集団の指向性は、太古よりさほど変わらぬ同じ人間の
重ね合わせの原理によって現れているのだから。

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