2006年02月

2006年02月25日

鎖の犬

侘介・まんさく












いま午睡から目が覚める。
朝から一度起きていたが、どうも体調が思わしくなく
外は雲ひとつない晴天というのに寒気がして叶わず。
午後になってふたたび臥した。
今、やっと脳が覚醒したような気がする。

今朝見た夢をひとつ…
私が誰か(?)と、一緒に実家の近くを歩いている。
ふとそこに小さな犬小屋と雨に打たれた白い犬が鎖に繋がれているのが目に入る。
私が犬の傍を通ると私の足元にじゃれついてくる。
しかも必死にじゃれついてくる。
どれどれ…と、しゃがんでけたたましくじゃれつく犬を撫でてみる。
長い白い毛並みは黄ばんでいて、ホームレスの頭髪のようにもつれている。
この犬がどれだけ長く飼い主に放置されているかを物語る。
犬は噛みつくでもなく、故意に牙をはずした要領のよい手加減で私の手のひらを噛む。
ちぎれぬばかりに尾を振り、汚れた背中を何度も手のひらに擦り付ける。
そのとき私は、この犬は子どものときに見た隣家の犬だ...ということを思い出す...
私が子どもの頃に見た隣家の犬は、主人に散歩に連れていかれる光景も見たことがなく、ずっと鎖に繋がれたまま餌だけ与えられていた。
そう思えば、今までも何度か夢の中でこの犬を見ていたことも思い出した...
「そうか、お前は私が子どもの頃から今に至るまで、ずっとここに繋がれていたのか」と夢の中で思う。

現実の世界では、隣家の家族は離散している。
「お前を繋ぎとめる飼い主はもういない」
通りすがりである私が、ようやく自分の意思を汲みとれる相手にめぐり合ったことに力いっぱい狂喜乱舞する犬の首輪から錆びた鎖の掛け金を外したとき、
犬はまるで限界まで引き延ばされたゴムが一点の支えを失ってパッと目の前から消えるように。または、手元からミサイルが吹っ飛ぶように駆け出した。

これで自由になったな…  一人で生きてゆけ…




侘介・まんさく_2



myokasyo at 19:05|PermalinkComments(4)TrackBack(0) 妙花 

2006年02月22日

三寒四温

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『三寒四温』という…
毎朝。その日、その日の気温の寒暖の判断つきかねる。
三日の寒さに耐えて、四日目の暖かさに和む。
まだ春とも言えず、もう冬だとも言えない。

または『春風、戸に迫って寒し』ともいう…
春だ、春だと浮かれていても、扉を開けると、実際外に吹く風は存外に冷たく、
現実の寒さを思い知らされる。

なんとなく、
四歩進みたい気分なのに、
現実は三歩下がることを余儀なくされるような...
そんな日がつづく…



高砂百合立ち枯れ...ほか



myokasyo at 15:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2006年02月14日

名人は危うきに遊ぶ











名人は危うきに遊ぶ


白洲正子さんの「名人は危やうきに遊ぶ」を読み終えてから煙草を一服と思い、リビングでTVをつけると、偶然。番組で「白洲正子」のドキュメンタリーをやっていて驚いた。

「美術館のガラスの中にある骨董は顔色が悪いのよね」

本書の中でも、野球の野村監督の(選手を)見つける、育てる、生かす…の例を焼きものに例えて用の美について触れられている。

白洲正子さんが亡くなってから、「日本文化」…といえば、大見得きった大げささなもの…に、なってしまったり。または教養の「部分」となったり。薀蓄や学術的側面だけが強調されたりする記事ばかりが目に付いて、どうも何を聞いても、何を見ても、こちゃこちゃしていて、くさくさしてくる。

「(自分の)直感が大事なのよ」などと、どんと喝破して言ってのけられるような人が減ってしまって、日本が寂しくなってゆくような気が...なんとなくする...。


本書の中で「型」に関する興味深い文章をみつけたので引用…
私がはじめていけばなを習った流派の先代の宗匠は、格花(流派によっては流儀花、生花ともいう)をいけるとき、与えられた数本の花材から手のひらに役枝を選び、本数と高さを揃えて目の前にさっとかざして見ると、その時点でおおかた格花の姿が出来ていた−と伝説めいて聞いたことがある。私はその宗匠が亡くなってから弟子入りしたので、その現場を見たわけではないのだが、今はその情景が分かるような気がする。
近々一度、昔習った「格花」「生花」を生けてみようかと思う。

(以下引用)...

能の型について

今は亡き福原鱗太郎先生の『能の秘密』という随筆の中に、次のような一説がある。
「…近藤乾三氏の<熊野>が、南をはるかに眺むれば、と上げた扇だか何だかをした時は、あつと感心した。このおぢいさん、何も考へていない。たゞ形をしてゐるだけに過ぎないのである。然るに美しい。ああいふのはどうにもならない。ただ美しいというよりほかに言ひやうがない。熊野の境涯とか、この思想とかいふ事は、何の関係もなく、たゞ一人の美女が扇絵お上げてゐる美しさなのである。」
能のかたち、もしくは形式美について、これほどよく語った文章を私は知らない。ここで重要なのは「このおぢいさん、何も考へてゐない。たゞ形をしてゐるだけに過ぎないのである」の一文で近藤乾三氏は長年の修練によって、単に「南をはるかに眺める」以上の、世にも美しい姿を表現したのである。

…現代人はとかく形式というものを嫌う。内容さえあれば、外に現れる形なんてどうでもいいではないか、などという。そこに人間の自由があると思っているらしいが、話は逆なのである。

…型を自分のものにすることで、目をつぶっていても、何も考えなくても、事ははすらすら運ぶ。
下手の考え休むに似たりで、何百年かけて完成した芸術が、個人の浅はかな知恵など寄せ付けるはずもない。
それ程お能の型とは非情なものであり。有難いものである。

…道を失った現代人は、もう一度そこへ還って、ほんとうの自由とは何であるか、見直してみるべきだと思う。




myokasyo at 08:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 読みかきのこと 

2006年02月12日

「かもめ」の赤い薔薇

今にして思えば「薔薇」という花を意識させたのは、
浅川マキが歌う「かもめ」の歌詞の中の<赤い薔薇>だという気がする。
歌を聞いたのは小学生の頃だと思う。
何度も聴いた...という覚えがないのに、そのフレーズは大人になっても消えることはなかった。
その頃の自分がたとえ言葉に出来ないとしても、
「花は無邪気にしていられるだけの代物ではないのだ…」ということを最初に宿らせた。


「かもめ」
(寺山修司 作詞 山本幸三郎 作曲)

おいらが恋した女は 港町のあばずれ いつも
ドアを開けたままで着替えして 男達の気を引く浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらの恋は本物で港町の真夜中いつも
ドアの前を行ったり来たりしてる
だけどおいらにゃ手が出ない
(※おいらは文無しマドロス 薔薇買うゼニも無い だから
ドアの前を行ったり来たりしても 恋した女にゃ手も出ない)
かもめ かもめ 笑っておくれ

ところがある夜突然 成り上がり男が一人
薔薇を両手一杯に抱きかかえて ほろ酔いで女のドアをたたいた
かもめ かもめ 笑っておくれ

女のまくらもとにゃ薔薇の 花が匂って 二人
抱き合ってベッドにいるのかと思うと おいらの心はまっくらくら
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは恋した女の 部屋(※まくらもと)に飛び込んで ふいに
ジャックナイフをふりかざして 女の胸に赤い薔薇の贈り物
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらが贈った薔薇は 港町にお似合いだよ たった
一輪ざしで色褪せる 悲しい恋の血の薔薇だもの
かもめ かもめ 笑っておくれ
かもめ かもめ さよなら あばよ

(※)はアルバムによって変わる、おそらく浅川マキさんのアドリブか?





myokasyo at 21:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 好きな花 

2006年02月11日

サルバドール・ダリの水仙

ダリの水仙













<ナルシスの変貌>から

どうしてこんな水仙が描けるんだろう…
この絵を見るたびに、ダリの花を見つめる視点が尋常ではないのに驚かされる。
花の何を見ているか… 毎日花を見つめていてもこの花の表情を見出すのは至難のことだ。ダリの描く水仙を見るにつけ、デザイン・造形といったことはどこまでいっても、ものの真性を見抜けずある枠から抜け出ることが出来ないように思えてくる。
ダリの描く水仙は自由に飛ぶ蝶のような錯覚を覚えさせてくれる。どこまでも空想の際限のなさ。怖さ。得体の知れぬ視点。決して暴力的ではなく巧妙に理性を破壊してゆくこととか...




ナルシスの変貌









ナルシスト[自己愛]の語源ともなった水仙の学名ナルキサス [narcissus]は、ギリシャ神話のナルキサス[Narcissus] の物語に由来する。

…ナルキサスはたいへん美しい青年。彼の姿を見ると、どんな娘も心を動かさずにはいられない。ところがナルキサスはどんな美しい娘がいても見向きもしない。美しい妖精エコーはナルキサスに出会い恋をしてしまう。あまりにナルキサスに夢中になってしまい、女神ネメシスの言葉さえ耳に入らなくなったエコーは怒りをかい、話す自由を奪われてしまう。それでもナルキサスが忘れられないエコーはナルキサスの後を追うが、話しかけることもできず、まして相手の心をひきつけることなんて出来ない。
「ナルキサスはきっとほかの誰か美しい人に恋をしているにちがいない」
ある日、エコーはナルキサスがいつも同じ時間に出かける後をつけた。やがて森の泉水に来たナルキサスは水面に自分の姿を映し恍惚とする。驚いたエコーは思わず息を呑んだ。人の気配を感じたナルキサスは「誰かそこにいますか」−「いますか。いますか…」
「出ておいで…」「出ておいで…出ておいで…」エコーはナルキサスの言葉を鸚鵡返しに繰り返すことしか出来ない。エコーはナルキサスの前に姿を現すが、ナルキサスはエコーをひと目見ただけで再び水面に映る自分の姿に見とれている。エコーは悲しみに閉じこもり、どんどんやせほそってやがて声だけになってしまう。
その一部始終を天上から見ていたネメシスは「ひとを愛せぬものは自分を愛するがいい」とナルキサスを水仙の花にかえてしまった。










myokasyo at 06:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 好きな花 

2006年02月09日

karemonofutatabi...

karemonofutatabi








春からまた枯れモノである…

去年のBlogで紹介した《枯れ蓮》...
華展が終わったあとは保管場所に困り、仕事で使う一室の片隅に放置されていたが、
某会主催者のお目に留まり、ふたたび出展することに…

「先生。どうか、ぜひ…」(主催者)

「いえいえ、私も花人のはしくれ…花を志すものとして、それではいわゆる<使いまわし>の謗りを免れません。花は一瞬のもの…芸の誇りにかけてキッパリとお断りする…」(私)

と…言いたいところだが、

そうは言わなかった…

「あ、そーですか。どーも、どーも…それは、それはけっこうなことで…」

といきなり営業口調で引き受けてしまった。

...現実と観念はときどき裏腹にものを言う。

「では○○某日、特殊運送で運ばせたいと思うのですが先生のご都合いかがで?」

―センセイという響きに弱みを感じてきた今日この頃… この惑いに打ち勝ったものが本当の芸道を達成する―

「いえいえ、特殊運送なんてとんでもない。私、息子と運びますので…」

「お商売もなさってらっしゃるから、大きな車も持ってらっしゃる…」

「いや、そんな…あはは…」

―息子が軽四のワンボックスを運転し、私がワンボックスの荷台で枯れた蓮の化け物を両腕と股で挟んでまんじりともせず…運搬する…という話は内緒だ…




karemonofutatabi-1













karemonofutatabi-2












myokasyo at 04:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2006年02月08日

猫柳

猫柳














立春も過ぎたというのに、あまり世間が寒いと家に籠り、観念の迷宮に彷徨する。
しかし、取るものも手につかなくなってきたので、なんとか現実に戻らねばと思い、肩のリハビリへ行く…
帰りにふだん行ったことのないスーパーに寄る…
たまには行動パターンの配列を変えないと同一行動ばかりでは視点が変わらなさすぎる。

現実との接点を見出したいと思うが、焼き鳥とクリームパンぐらいしか見出せず、
やはり同じ店内の書店へ… 
また書店…

しかし行きつけではない書店… 
配置も違えば本の取り揃えも客層に合わせていて興味深い。
2〜3冊めぼしいものを物色するが、昨日「別冊太陽・柳宗悦の世界」と「華音・特集源氏物語」を買って、後者は持ち帰ってから一見して完全に失敗したばかりなので、また日を改めようと思いブースを出るその刹那。週刊朝日とサンデー毎日の記事が目を引いたので何十年かぶりに週刊誌を2冊買って帰った。
内容はじつにくだらなく。けっきょく視点は変わらず、現実との接点は見出せず現時点に至る。


猫柳を入れた。しかし自分のイメージしたものには程遠い。まだ倍の材料が必要と知る。

なにせ…【遣る瀬無い】如月。





猫柳-1








myokasyo at 03:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2006年02月06日

春の雪

「春の雪」












おもしろいねえ…
悲哀も気高さも…美しさも空虚さも…
日本も… 宮家も…貴族…も、ついでに言うなら若さも…
滑稽で美しくて儚い...

映画でもやっていたのですがお客入ったのでしょうか…

うは!これは…(∩ω`#)ヾ


この本貰ってから30年後?の読破…
第2部の「奔馬」は以前読んだことがあるので、
今度、機会を見て「暁の寺」「天人五衰」を読んでみる。
しかもこれだけの内容が文庫本なら定価660円。Usedなら189円で読めるか…
これは何とも… 
言うに言えぬ余りある資本(もとで)がかかってるわ…





初版本帯カバーに故川端康成氏の貴重なコメントがあるので引用...


『豊饒の海』の第一巻『春の雪』、第二巻『奔馬』を通読して、私は奇跡に打たれたやうに驚喜した。このやうな古今を貫く名作、比類を絶する傑作を成した三島君と私も同時代人である幸福を素直に祝福したい。ああ、よかったと、ただただ思ふ。この作は西洋古典の骨脈にも通じるが、日本にはこれまでなくて、しかも深切な日本の作品で、日本語文の美細も極致である。三島君の絢爛の才能は、この作で危険なまでの激情に純粋昇華してゐる。この新しい運命的な古典はおそらく国と時代と論評を超えて生きるであらう。


「春の雪」帯カバー



myokasyo at 04:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 読みかきのこと 

2006年02月05日

消えてゆくべき...

寒桜
















そう…
自分で書いていて思った…
花は消えてゆくべきと…











黒百合・貝母-22


















花も言葉も、咲いては消え。

書いては消えてゆくべき…






myokasyo at 02:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2006年02月01日

ふきのとう

蕗の薹














葉を落とすか、残すか。
余計な花を落とすか、残すか。
そもそも、葉を落とす、花を落とすことに逐一ためらい、躊躇するなら、花は地面に生やせておけばよいので、わざわざ切り取って生ける必要はない。
生きとし生ける花を、切り取って「生ける」という行為にたずさわった以上、花を生けるものの宿命。もともと、肉を食い葉を切り取って食す罪深い人間の言い訳と欺瞞。


じつは野草を生けてみれば分かることだが、不要の花や葉、分岐した枝を捌いたほうがより水揚げがよい。
一度、切られて死んだ花を「生きて」見せるのは花にたずさわる者の技ともいえる。バイオで育ってはじめからどこをどう切っても水の揚がる花を生けるのとはわけが違う。

人間は傲慢なので…
「私」が「花」を生けていると思っている。
じつは…「花」に「私」が生けられているのだと思える瞬間に出会えなければ、いつまでも一枝一葉に迷うことになる。

花を生けてゆく道は「迷い」を断つ道だとも思う。
どれほど上手に生けようが、どれほど綺麗に咲き誇ろうが、やがてしおれて朽ちてゆく。
花を生けるものは毎日変わり果ててゆく「無常」を見ている。

逆に「花」はあなたを見ている。
「汝が深遠を見入るとき、深遠もまた汝を見るのである」

例えばあなたが深い井戸の中を覗き込んでいるとする。
井戸の底の水面に映り、暗闇の中からあなたを見つめているのは紛うことなく、いまその瞬間井戸を覗き込むあなた自身の顔だ。

いつまでも長持ちする花を何日も飾って見ようと思うのは…
...埃を被って、なお夢を見続けていたい…と、願うことに似ている。

瞬刻の美しさに長持ちはしない。
人も花も、ひとたび時をえて咲けど、時が来ればやがてしおれて倒れる。
万物自然の理。
「美しい」と思う価値観をどこにおくか。
人はそんな花の現実の姿の中に、自分の人生や、過去や、未来を見出すのではないか。

「花」が「私」を生けるのであれば、
「私」の生ける「花」は、「私」だけの「花」でなくてはいけない。
私の生けた花に、私の背負ってきたすべてのものが凝縮されなけれないけない。
「未練」も「迷い」も画然として切り落としてゆく。




ただし今日は...
一葉も切り落とさず生けた根上げの蕗の薹。


蕗の薹_2






myokasyo at 21:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)