2007年01月

2007年01月27日

週末、花友を訪ねる。

木之下さんの花‐3














今日、花の友人の二人展を見に行ってきました。
花と書のコラボ…です。

う〜mmm… 爆発していますね…
明日(1/28)まで、ココでやっています。お近くのかたはぜひ。





たまたま、そのギャラリーに併設されている喫茶ブースに勅使原蒼風さんの書があったので、
写して来ました。オリジナルを間近で見るのは初めてでした… これは、思わぬ拾いモノ。

勅使原蒼風「創」



















myokasyo at 20:11|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 娑婆の花 

2007年01月26日

さて、月だ...

月齢








何か...
釈然とはしないまま、月日は過ぎる。
いつかまた、
そう遠くではない未来に...

「あ..」

...と、
運転中などに気づいたりするのかもしれない。
からまった糸が解けるように。
なるほど...そうだったのか... と。


さて、月だ...

『朔(ついたち)の黒い月が初めて光を現した二日月から始まって、
眉のような三日月が、夜を数えるごとに満ちて、
上弦の月といわれる七日月、八日月に。
そして十五夜の満月。
十六夜(いざよい)は満月よりやや遅れて出る「いざよふ」の意。
十七夜は立待月(たちまちづき)、十八夜が居待月(いまちづき)、
十九夜が寝待月(ねまちづき)あるいは臥待月(ふしまちづき)、
さらにもう一夜経ると更待月(ふけまちづき)、そして下弦の月は、
二十二夜、二十三夜の月をいう』


...とある。
 (十年ほど前の『家庭画報』より図、文ともに引用)・・・・
月って、
「見た」からそこにあるらしいよ...量子論では...(笑





(以下引用)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『量子論は、物質の位置や速度、スピンの向きといったあらゆる状態は、観測するまでは何一つ決まっていないと主張してきました。その主張の正しさがアスペの実験にによって証明されたことになるのです。』


「月は我々が「見た」からそこにあり、我々が見ていないときにはそこにはいないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていないときにも、月は変わらずそこにあるはずだ。」
                        ―「隠れた変数」を導き出そうとしたアインシュタイン―


『巨大な月をミクロの世界と同列に考えることはできないかもしれませんが、量子論を突き詰めて考えれば、誰も月を見ていない場合、月はある一ヶ所にはいないことになります。誰かが見たときだけ、月の居場所は確定するのです。』



「量子論」を楽しむ本




myokasyo at 21:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0) よもやまばなし 

2007年01月16日

【峠】

旧街道












峠を越える

さきに書いた「初夢」以来…
「大きな坂を越える…」ということは、
いつのまにか、自分の中で、強迫観念になっている。

だからといって、
現実に「峠道」を越えることに何の意味はない…と思ったが、
強迫観念がそうさせる。
距離にすれば、15キロに満たぬ短い距離だが、
旧街道に残る要衝の峠を、ひとり歩いて越えた。
天気がよくて味方してくれる…

「越えなきゃ…」
「何を?」
「何か…」

何か分からない「何か…」






myokasyo at 00:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 娑婆の花 

2007年01月15日

【失せもの】

青文字















「失せもの」ひとつ見つかる。
すっきりした。
「どろろ」に出てくる百鬼丸が、腕を一本、魔物から取り戻したような、すがすがしさ。

残るは… 二つになるか…?
それとも三つ...?

おそらく西尾幹二の言葉だと記憶している。
書いてあった雑誌?記事?単行本? …何の本のどこで読んだのか?
「唯物論くそくらえ…」
その前後の文章をどうしても記憶しておきたいので、探す…

もうひとつは田口ランディの「オカルト」…の中の一節。
本が見当たらない。
でも、これは同じ本を再度、本屋さんに買いに行けばすむ問題。
もう一度買い直すのはくやしいので、まだもう少し探す…

サルトルの『嘔吐』は買いなおした。
これは、どこに出て行ったか行方がはっきりしている。
娘がドイツに持って行ってしまった。
もしかしたら以前持っていたものと、翻訳者がちがうかもしれないが、
今は、とりあえず手元にあっていつでも確かめられる。

こうなりゃ本フェチだ。
たとえば、もう一度読みたい本で、
他人に貸してあげた本だが、戻らぬまま借主と不和になったので、戻らなくなってしまった本がある。
古書でみつけたいが、今の所Webでも見つからない。
本のタイトル自体、記憶が曖昧なのだから打つ手なし…

1.「四季の…?茶花…」?
2.「写真で(?)…見る(読む?)般若心経」
3.「Rose…(?)」(写真とエッセイ/訳本)

        どなたか知っている方があれば情報を…

しかし… 並べてみるとかなりキモい読書趣味だ。
分裂気味にもなるわな…
いつまでも、あると思うな、親と金と本。



大事なもうひとつの「失せもの」は今や冬眠中か...?
それとも二度と戻らぬ...





青文字‐2



myokasyo at 04:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2007年01月10日

【SAMURAI学考察(その2)】

葉隠入門



■忍ぶ...

恋の至極は 忍ぶ恋と見立て候
逢いてからは恋のたけが低し
一生忍んで思ひ死(じに)する事こそ恋の本意なれ
     
       「葉隠」聞書第二/ 『葉隠入門』/三島由紀夫



「言挙げせぬ…」という言葉を書いてから、
ずいぶん以前に覚えた<言葉>の記憶に引きもどされた。

恋の至極は 忍ぶ恋… の、「告白せぬ恋」。もつと進んで「逢わぬ恋...」と、
「言挙げせぬ…」とは、
時代的には、ぜんぜん離れているのだが、
なにか古くから、日本人の心情をあらわす同じ気脈を感じる。

(言挙げせぬ… について、ココに分かりやすく説明しているサイトを発見したのでご参照を…)

幸か不幸か。短期、長期の欧米人留学生(及び居候含む)延べ7人と、過去5年に遡って生活を共にさせていただいた経験で言うと、
同じ年代の日本の学生は、彼らに比べて本当に自己主張しない。
何人か集まっていても、日本のコは、自分の意見を言わないものだから、
ほぼ…どんな欧米人からも、一方的に、ご高説を賜っている図になっている(笑
彼らのディペードの様子を見ているとよく分かるが、
かれら(欧米人)は、自分の意見を通すことが「能力」だと信じているように思えるし、弁証法、弁論術を磨くための勉強を怠らない。
検証するに… そういえば日本の学校って、先生が黒板に一方的に書いて、喋って、
生徒って、ただ黙って座って聞いてノートをとってるだけですよね。

「言挙げせぬ… 」は、案外今も続いているのだ。


ところで、この本を買ったのは、高校生の頃だ。
学校の帰り道、学校の最寄り駅のわりと大きな本屋で買った。
懐かしい… まだあるんだろうか…  
 
あ、Webで調べると、まだ健在…

ところで、その本屋から歩いて10分ほどの距離のところで、司馬遼太郎さんが住まわれていた…
…というのは大人になってずいぶん経ってから知ったこと...で、驚いた。
司馬さんの本の中のどこか(『この国のかたち』か、『風塵抄』か、『街道をゆく』シリーズのどこか…)に、私が学生時代、しょっちゅう立ち寄った、その本屋のことが少しだけ書かれていている。
もしかしたら、同じときに居合わせたこともあったのじゃないか…?と、今頃、幻のようなことを考えたりする…

本屋で居合わせたといえば…
東京に居た頃、深夜の六本木の本屋で黒柳徹子さんに出くわした。
TVで見る、あのままの髪型、格好だった。
高級車を横付けし、
「花」の写真集?か… 画集?
装丁のしっかりした大きな本を二冊ほど抱え、
棚から一冊取り出し、その頃、私には「払えないな…」と思う金額を払って、
待たせている高級車に乗り込んで帰っていった。

なんのことはない… 思い出ばなし…
この頃、分裂症気味なので、脈絡なくてすみません。



人間一生
誠に わずかの事なり
好いたことをして暮らすべきなり
夢の間の世の中に、
すかぬ事ばかりして 苦を見て暮らすは
愚かなることなり
この事は、悪しく聞いては害になる事ゆえ
若き衆などへ終(つい)に語らぬ奥の手なり。
我は寝る事が好きなり。
今の境涯相応に、いよいよ禁足して、
寝て暮らすべしと思ふなり。

「葉隠」聞書第二/ 『葉隠入門』/三島由紀夫










myokasyo at 03:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) よもやまばなし 

2007年01月06日

【SAMURAI学考察(その1)】

シモビリカの月








■切り結ぶ太刀の下こそ...

昨年末のBlogで「苦しい、苦しい…」と
書いていて思い出したのだが、
小学生の頃、習っていた剣道の稽古で覚えた言葉がある。

「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、一歩踏み込め、あとは極楽」 

                     ...という。

その当時、剣道の極意だと聞いた。
調べてみると、Web上でも諸説ある。
「舞い降りる太刀の下こそ地獄なれ、あとは極楽」
「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、踏み込みゆけば、あとは極楽」
という…
後者は、『勝海舟物事処遇』の極意としている。

微妙な表現の際はあれど、大意はほぼ変わりないものと思う。
ようするに、振り下ろされる真剣をかわし、または受け止めて切り結び、闘う相手の息もかかる距離の鍔迫り合いとなったときの緊張感とエネルギーは並大抵ではない。動悸は激しく、血圧は上がり、目は充血し、呼吸は苦しくなる。これが『地獄』の一丁目とは言葉からも伝わってくる。
『地獄』とはいわゆる「迷い」のことだろう。
引いて打つか、進んで斬るか、自分はこの勝負で死ぬのか生きるのか?鍔迫り合いとなったとき、双方がその生命をかけて、進退を迷っている状態を、「地獄」と考えて差し支えない。
「生死」に関わることではないにせよ、剣道の試合でもこれによく似たことは経験できる。
戦うものは互いに苦しいのである。

言葉の次は、「…一歩踏み込め、あとは極楽」と続く。
「たんだ踏み込め…」も、「踏み込みゆけば…」も、「一歩踏み込め…」も、いわば意味は同じ。
「前進しろ」「積極策を採れ…」と言っているのである。
そして、積極策のあとには『極楽』が待っていると予言する。

なるほど…

迷いを断って積極策を採れば『極楽』を得ることが出来る…
しかし、待てよ…と思わねばならない。
この場合『極楽』の意味は二つあって一方は当然、「勝利」を意味する。
積極策を採って「勝利」を得た解放感はすばらしい。
息も詰まる地獄の緊張感から一気に魂が開放され、「勝利」の余韻に酔うことが出来る。

では、もう一方の『極楽』とは? それは「敗北」に他ならない。
剣道の試合ならば、「くっそ〜…」で終わり、一礼のあと、すごすごと引き揚げ、荷物をまとめて早々と会場をあとにして、帰りの駅で缶ジュースの1本でも飲むところだ。
だが真剣勝負での「敗北」は「死」を意味する。
つまり、死んで『極楽』にゆくことによって地獄の「緊張」から「開放」される。



■...死ぬことと見つけたり


ひとたびこの世に生を受けて 滅せぬものの あるべきか        − 能楽『敦盛』

武士道といふは、死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸据わって進むなり。        −『聞書第一 葉隠入門(三島由紀夫)』


江戸時代。武士が主君に忠義を尽くすことを本分とした時代の言葉であるから、「敗北」しても「名誉ある死」が与えられる。

なお、敢えて付け加えておくならば、昨今騒がせる「自殺」に対し、これらを「死」の美化でも、自殺賛美でもないことを、ひとこと申し添える。
 本書の中で三島由紀夫は『行動的な死(斬り死)と自殺(切腹)とを同列に置く日本独特の考えであり… 名誉を守るための自由意志の極限的な姿である』と断じている。自由意志とは、自分をある任意の1点とすれば、左右両サイドに伸びる無限のベクトルと考えるべき。だが、今の子ども達は、ある一方を大人たちに封殺されてしまい、もう一方の選択肢だけでしか物事を考えられない無理難題の圧迫の中で育てられている。思考は両方に無限に伸びるベクトルであると思う。

自殺するくらいならいじめっこと刺し違えて死ねと教室で教えれば、それが抑止力になる。    
                                   −『Will2月号 (日下公人)』

それも自由な選択肢だ…

なお、「敗北」を喫して生き残り、
恥を晒しても「再起」「再興」を意図しなければならない現代は、江戸時代の武士よりも、
ある意味、より精神的にタフでなければならないともいえる。

…なんだか一晩掛かって、書いたわりには、
あとで読み返すとたいへん支離滅裂な文章だ… 寝よ…

                                   不定期な後日につづく…


myokasyo at 06:09|PermalinkComments(4)TrackBack(0) よもやまばなし 

2007年01月02日

【初夢】

千両 紅白餅花















初夢を見た。
二時間ほど午睡したときに...

小学生時代の同級生とX’masの日に同窓会をしようという話になった。
同級生の私以外にメンバーは4人。
不思議なのはこれら4人とも、小学生時代にも、現在にも交際のない、
どちらかといえば地味で、影の薄いクラスメイトだった。
X’masといえど、約束した日は7日だった。
当日、暗くなってから電車で出かける… すでに遅刻していた。
待ち合わせの、二つ手前の駅の近くで降り、遅刻のお詫びのために、
お菓子の入ったサンタの面3つと、よく見かける赤いブーツ1つを買う。
どうやって次の駅にたどり着いたか…?
思い出した。流しのタクシーに乗った。
ところが、とにかく街は人で溢れていて、
あと一駅ぶんの距離でどうにも車が人ごみに遮られて前に進めない。
そもそも田舎のこの街に、秋祭りといえど、
夜に、こんなに人で溢れるような光景を見たことはない。

「お客さん、これじゃあ無理ですね…」
「じゃ、ここで… 降りて歩きます」
「すいません」

ふだん、車でしょっちゅう通り過ぎる街だが、
タクシーを降りて歩き出せば、そのうち意外な光景に出くわした。
大きな坂の街だ(現実にはない)。
これを越えてゆけば待ち合わせの場所にたどり着けるのは分かっているが、
「これを越えてゆくのは、かなりホネだな…」と思う…

待っている同級生たちには申し訳ないが、ずいぶん待たせることになる…と考えた…





myokasyo at 20:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 夢々うらないごと