2008年05月

2008年05月31日

卯の花垣


unohanagaki


卯の花の 匂う垣根に
ほととぎす 早も来鳴きて
忍び音もらす 夏は来ぬ

日本では、古代の南米やエジプトのように、
星や太陽を観測して、種や苗を植えたということを、あまり聞ききません。
温帯モンスーン気候で、中でも比較的、四季がはっきりとした特徴を持つ日本列島では、古くから花が咲いたり、終わったりすることで、いろいろな農法の種まきや収穫の合図としていたようです。

卯の花が咲く頃、田植えが始まり、
里山にほととぎす鳴き、

そして夏は来ぬ...







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2008年05月28日

縞葦(しまあし)

shimaashi















夕方から雨になった。
今夜は、太平洋側が荒れるのだそうだ。

午後...
数日間、気になっていた原稿をひとつ仕上げて、ほっとしたのもつかの間。
また、新たなプレッシャー...
しかしなぁ... いろいろある...

ソーウツで分裂気味だ...
ま...ソーウツで分裂は、子どもの頃からそうなので、
自分でも御し方は心得ているつもりだ。
まあ、だいたい...
躁で、鬱で、分裂ということは、いわばふつうの人ということだ。

総会シーズンなので、夜に会合があったが、
クルマで出かけたため、アルコールも飲めず、早々に帰ってきた。
こういった会合がまた、何か足りない。
たとえて云えば、口を半開きのまま、数時間耐えるような感じとでも云えばいいか...
物ごと、付き合いかたを変える時期なのかもしれないな。
やみくもにスケジュールを分散されては、集中できるものも集中できない。


少ない時間だが、明るいうちに赤花蛍袋、蔓桔梗(蔓日々草ともいう)、縞葦を入れた。
縞葦は、今から六月にかけてが、ちょうど入れ頃で、よく似合う。
夏も盛りになると、線の細い縞葦より、野趣の深い縞すすきに取って代わられる。
季節が、より激しくなってくるからね...





shimaashi2

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2008年05月27日

蒲公英・穂先耳掻草(たんぽぽ・ほさきみみかきぐさ)

tanpopo













たとえば、。Outsider Artin Japan[3]の中で、
辻勇二さんは、下書きもなく、真っ白な紙だけを前に、自分だけの空想の街を書いていく。
透視図法も遠近法も無縁でありながら、描かれる街は、ちゃんと全体に整合性が取れている。
白紙の中央あたりに、数件の家を描いたあと、突拍子もなく、紙の一番隅っこのほうへと描く対象が移るさまは、もうすでに完成した街全体が、彼自身の頭の中に、出来上がっているのだと思わせる。

ところで、彼らは、それぞれ、自分のスタイルを徹底的に繰り返す。
つまるところ、私などは、技術の度合いや、気持ちの変化や、「飽き」に従って、自ら、スタイルやバリエーションを広げたり変えてしまうのだが、逆に、オリジナルとは、創作の中で、徹底的に反復して繰り返されるものなのかもしれない。




tanpopo.mimikakigusa






tanpopo.mimikakigusa-1







tanpopo.mimikakigusa-3







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2008年05月26日

時計草(とけいそう)

tokeisou















光周性を発見したアメリカ農務省のアーリントン試験場で。(19)34年当時、種子の発芽検査をしていたトゥール(E.H.Toole)は、友人のフリント(L.H.Flint)に種子発芽におよぼす光の作用を調べるように頼みました。すぐにフリントは、「レタスの種子は微弱な白色光を1分間照射すれば発芽がおきる」ことを見つけました。そこで市販の色ガラスを使って「何色の光が発芽に効くのか」を調べたのです。
その結果、黄色、橙色。赤色の光は、レタスの種子発芽を引きおこすけれども、紫色、青色、緑色の光は発芽をおこさないことを見つけました。
さらに、赤色光を短時間与えた直後に青色光を照射すると、先に与えた赤色光の効果は打ち消されてしまうので、フリントは「この反応は光可逆的である」ことに初めて気がついたのです。
(p30「植物は何色の光を見ているのか」)

植物の葉や茎は、弱い光のもとでは、光を受けやすいほうへ向いたり、光のさしてくるほうに向かって成長する性質(光屈性)を示します。
しかし、強い光のもとでは、逆に避ける方向に伸びたり曲がったりします(負の光屈性)。
さらに、もっと強い光が長時間当たると、再び光のほうに向かって成長することも知られています。
(p134「フォトトロピンの発見」)

植物は何を見ているか






花って何を見ているのでしょうね?
ぼんやりとした黄や橙や、赤い光を見ているのでしょうか。
あなたは花を見ているが、
花は、あなたを、
そんなふうに見ているのかもしれませんね..


今日は、いい天気になりました...風が心地いい。












tokeisou




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2008年05月25日

アウトサイダー・アート(その2

アウトサイダー・アートの世界―東と西のアール・ブリュット



(引用)
浮上しはじめた日本のアール・ブリュットたち
文:はたよしこ


館長リュシェンヌ・ペリー氏は、アール・ブリュット・コレクションで日本と同時期に開催する、日本のアール・ブリュットを紹介する特別展「Japon」のカタログにアール・ブリュットというものの本質をこう記している。
「並外れた才能あるアーティストを選択する上での基準定義を明示するもの。すなわち、美的、哲学的な秩序に則っている。その基準とは、芸術教育を受けていないということ、制作活動や表象の行程に新たな意味づけをすること、独創的かつ一貫性のある表現体系の適用、特定の文化に列しないこと、などである。また、制作活動の自給自足的な発展、受け手の不在、作者がいかなる文化的社会的認知や賛辞にも無関心であること、などが挙げられる」


■日本のアウトサイダー・アートの流れ

...この現状は、欧米に比べると明らかに異なっている。なぜそうなのか。このことを考えるとき、ヨーロッパと日本の状況にある違いに気づく。
意外かもしれないが、それは発見されて以来の歴史の長さの問題ではない。日本において初めてアウトサイダー・アート的なものへ関心が寄せられたのは1938年、あの山下清を世に知らしめた『特異児童作品展』(早稲田大学大隈講堂)とされているが、それはヨーロッパの発見と20年足らずの違いでしかない。(略)この展覧会は当時、安井曽太郎、梅原龍三郎、小林秀雄などを始めとするそうそうたる面々が発言したほどの大きな議論を呼び、美術史上の一大事件であったようだ。
しかしその後、放浪の旅に出た山下清は、新聞社のキャンペーンにより1954年に鹿児島で見つけ出され、そのあと彼を売り出していったのは、精神科医の式場隆三郎である。このあたりから山下清作品への美術的評価が変質していってしまったようだ。
教育者、社会啓蒙家としての意欲に燃えていた式場は、その後の展覧会の会場にも「知的障害者の教育相談所」などを併設して、障害者教育の側面を付加していった。戦後社会の建てなおしという風潮も手伝ってか、表現自体の面白さについて貪欲なヨーロッパの方向性とは、ずいぶん異なる角度になっていったわけだ。山下清も、ランニング姿で放浪する「裸の大将」というヒューマンストーリーに収束されていった。

1955年、滋賀の施設展に合わせて『美術手帖』(美術出版社)が出した臨時増刊号『ちえのおくれた子らの作品』も全体的にやはり教育と啓蒙に終始している。こういう状況から、それらの作品に対してほとんどの美術関係者は、美術とは無縁の対岸の出来事として認識するようになってしまった。(略)

...本質的な意味でのアウトサイダー・アートと障害者のアートはけっしてイコールではない。本来アウトサイダー・アートとは、もっと広範囲であり、正規の美術教育とも、美術界のメインストリームともまったく無縁に、独自の方法と発想によって作られた芸術を指している言葉である。


■アウトサイダー・アートの力

ここでひとつ考えねばならないことは、子供の絵とアウトサイダー・アートのことだ。このふたつはよく混同されるが、これは根本的に異なっていると思う。岡本太郎は著書『今日の芸術』にこう書いている。
「子供の絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきした自由感があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じることがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力はわれわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。なぜだろうか」と。そしてその問いに、それは子供の自由は、苦しみや傷つきに無自覚であり、許されている間だけの微笑ましく楽しい自由であり、だから子供の絵には深い力はないのだと、彼は自ら答えている。
不足感が強ければ強いほど大きく深く、ときには止めどないほどのエネルギーとなって内蔵されていく何か。それが人の表現衝動の源にあるのではないだろうか。


■日本アウトサイダー・アートの展望

私たちは本腰を入れて考えなければならない時期が来ていると思う。それは福祉分野だ、美術分野だ、と分けて考えるようなことではないのではないか。
作品たちに真摯に向き合えば自ずと視点はボーダレスになる。美術界を支配しがちなおかしな特権主義や難解な理論も、福祉現場を支配しがちなおかしな平等主義や教育主義も、虚心な表現にとって、かえってバリアーになってしまうのでは意味がない。
ボーダレスとは作品の力を前にした「理屈の武装解除」である。インサイダーとアウトサイダーといった分類を始め、文化、歴史などのさまざまな枠を超え、作品の持つ魅力的な力が私たちに多様な視野を与えてくれ、新しい価値観のイメージを喚起させるということを考えれば、私たちにとってこの収集保存の努力は必須なのではないかと思う。



>ボーダレスとは作品の力を前にした「理屈の武装解除」である...

うわぁ〜... 仰るとおりですね...

アートの世界は陸上競技に似てる。
陸上競技では、先輩だ、後輩だといっても、後輩のほうが、ピュ―ッと、タイムで先輩追い抜いてしまえば勝ちみたいなところがある。
まあ、先輩として敬意をはらうとか、先輩のほうが人望や組織力があるとかないとか、という問題は別としてね。

アートもじつは、インパクトの問題で、いくらオーガナイズされたヒエラルキーの上に立っていても、「ものすごくつまらない...」というのは、よくあること。

で、本来、能力のある人が、ある段階から成長が止まってしまったり、組織にスポイルされて、作品がぜんぜんつまらなくなることなんてのもよくある。

そういうの見てると、「あ〜芽を摘まれてるなぁ...」とか思うのですがね。
おれなんか「ああ、こりゃもうダメだぁ...」と思って、結局、いけばなの世界から離れてしまったのだけど、途端に作品を出す機会も、人さまに見て頂く機会もなくなっちまいましたね...(笑

オーガナイザーがいま一番恐れるのは、アウトサイダー・アートに象徴されるような、イン、アウト、またはプロ、アマ、ボーダレス化のインパクトじゃないか...って気がします。
アートが、もっともっと、ボーダレスになれば、「花」も、よりおもしろくなってくるかもね...









myokasyo at 21:59|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 読みかきのこと 

2008年05月24日

箱根空木(はこねうつぎ)

hakoneutugi












...というわけで、
思わず、nageireさんと、カブッてしまいましたが...
ま、こんなこともありますね (´ー`)ノ

庭先、半寸の草にしかじ...とは、
前にもこのBlogで書いたと思うのですが。
遠くへ珍花、高貴な花を求めずとも、自分ちの庭の咲く花に思いを致せ...ってことですね。
ところが、私の母親の年代となりますと、どうやら戦後の苦しい時代に育ったせいか、とにかく「花」といえば、蘭とか薔薇とか、豪華な花が好きです。
花は、「花屋」で求める「花」のことで、野草などは、どうやら眼中になかったようで...

でも、最近は、私の影響かどうか?そうでもなくなったようで...
野草なども摘んで生けているのをしばしば見かけます。







hakoneutugu-2









hakoneutugi-3










myokasyo at 20:45|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 妙花 

2008年05月22日

デルフィニウム・ エリンジュウム

デルフィニウム・エリンジュウム













いつの頃からか、デルフィニウムが好きです。
夏が近づく頃の色。
硝子の器に、水をいっぱい張って、
足元は、
子どもたちがプールでバタ足の練習をするように...





デルフィニュウム3













デルフィニュウム/







myokasyo at 20:41|PermalinkComments(6)TrackBack(0) 妙花 

2008年05月20日

【華物語 (コミック)】埜納 タオ, 槙 佑子 (著)

華物語 (講談社コミックスキス)



仕事用のBlogでも、この本の感想を書いたのですが、
とにかく、よく立ち寄らせていただく「いけばな」のBlogに掲載されていて、
何度もカバーのイラストを見ているうちに、どんな内容なのか、つい興味が湧いて衝動買いしたんですよね...潜在意識下への『反復』とは恐ろしいものです。

...で、しかも、
Amazonから届いても、数ヶ月放置しておいて、さあ読んでみよう、と項をめくったら、
「あ!なんだコミックだったのか」と、はじめて気づいた自分にアキレました(笑 
Amazonにもちゃんとそう表示されているのに、注意力散漫もいいとこですね...

ここで、白状しますと、じつは、ごく少数の作家以外のマンガが苦手です。
...というのも、フキダシの中の文字だけでなく、絵の細部まで見てしまう(笑
「あ、この背景上手に描いてるな」とか...ね

...でもまあ、読んでみますと、1時間ほどで読めます。

ストーリーは、主人公である若いOLの女の子が、失恋ともいえないような、小さな出来事(shock)がきっかけで、偶然眼に留まったいけばな教室へ足を運ぶ… そして、季節ごとに変わる花や、自然に触れてゆくうちに、自分自身も内面から成長してゆく… という感じの内容です。

本書の中では、これらの出来事が日常の生活にリンクして、すごくライト感覚で描かれていますが、...ここで、オヤジ世代である私は...、この中からいろいろ示唆に富むことをヘヴィに学び取ろうとするわけです。


「人はパンのみにて生くるにあらず」とは、新約聖書の中の言葉ですが、人は仕事と家の往復だけでは生きてゆけない。息が詰まってしまいます。

若い女の子や、男の子には、そこにもうひとつ、「恋」が入って、「パンと恋」で生きよう…とするのですが、それでも息が詰まってしまうことなんてざらに起こってくる。

そんなときに第三の事象である何かに出会う…とか「見つける」ことって大事なんですよね... 仕事にも恋にも重要なメンタルな部分を、二点で支えるよりは、「もうひとつ」加えた三点で支えることで、より強固にする。

つまり、日常生活の中で受ける「緊張」を、どこかでうまく開放し、どこかで集中させる「緊張と開放」の心のバランスを、三点の中で上手にとりあってゆく。とくに今まで振り向きもしなかった自然や草花に触れることの開放感は、また特別なものがあります。
いわば「生き方のコツ」みたいなものを、『華物語』は教えてくれます。

そこで、私が常々提唱する新格言は…

 人はパンと恋のみにて生くるにあらず...

 ...されど、まあ、恋は、一番大事にせえよ〜(笑...

                って具合でしょうか?




myokasyo at 04:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 読みかきのこと 

2008年05月14日

花で生きる...

今年十月は、生徒のやっくんと約束した十周年花展ですが、
早いのですが、もう案内用のDMを発注しました。
なにせ、押し迫ってくると出来ないのでね...

でも、春(もう初夏ですが...)に、
秋の季節の花展の、DMイメージを考えるのはちと辛い。

DMの花は、過去の秋に生けた作品。
写真は、ほとんどこのブログから...

ん〜... まだ分かりませんが、私の花は、
「なげいれ」というよりも、今回は「創作」になりそうです。 

タイトルは、「花と生きる...花で生きる...『花の会』十周年展」です。

ちょっと大げさで恐縮なんですが、
DMの制作に、あんまり時間なかったので、このぐらいしか思いつかなかった...(笑

使った写真は以下四点...






kiku







http://blog.livedoor.jp/myokasyo/archives/50668199.html



karehasu





枯蓮
http://blog.livedoor.jp/kazegasasayaku/archives/50270372.html



kaede














http://blog.livedoor.jp/kazegasasayaku/archives/50247594.html



yomena













嫁菜・溝蕎麦
http://app.blog.livedoor.jp/kazegasasayaku/tb.cgi/50196530


















myokasyo at 03:37|PermalinkComments(2)TrackBack(0) よもやまばなし 

2008年05月09日

牡丹(ぼたん)

botan














牡丹の花が咲いています。

写真を撮りながら、
ボ〜タンの花が〜、咲ぁいて〜いる〜♪と、人知れず口ずさんでいました。

あれ? しかし...よく考えたら。
 
ああ、あれはミカンの花だった...と思い直しました。
誰にも聴かれてなくてよかった。

そんな季節です。







myokasyo at 01:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 娑婆の花