2009年03月

2009年03月30日

【踊子草(おどりこそう)】

odorikoso


今日は澄みきった青空で、風もなくお天気もよく、
こんな日は、きっと、もう踊子草は咲いてるだろう..って、ことで、
近くの消防署の倉庫の裏の土手まで散歩に出かけたんですね。
道すがら、うぐいすが鳴き、ほか名前の知らない鳥もあちこちで囀り。
やがて刈り取られるであろう路傍のナズナやタンポポもいっぺんに咲き始め、こりゃ春ですね。

踊子草は、まだ短くてひ弱ですが、群生していました。
先端の葉の部分が赤紫に紅潮し、ラベンダー畑とは言えないものの、こんな土手に寝転がったら気持ちいいだろうなぁ、なんて、
横の国道には、車がビュンビュン走っているので、
そんなところに丸坊主で髭だるまの男が寝転がってると、すぐ警察に通報されるかもしれませんね。

踊子草を摘み取って帰りますと、
たまたま来ていた家内の実家のおっ母が、

「どれどれ、踊子草ってどんなものよ?」..と、訊くものですから、

これこれ..と見せてあげると、

「へぇ〜、これが踊子草。うちの畑で毎日引いても引いても蔓延ってくる雑草やな..」と言うんですが..

「捨てる神あれば、拾う神あり..」っていうんでしょうか。

まあ、どちらもまったく神に似つかわしくない二人ですが、無言で顔を見合わせた次第です。
そんなところで、特別なオチはありませんが..




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myokasyo at 17:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2009年03月29日

小野妹子の謎

naiwakyu

▲写真は[大阪歴史博物館]:
1Fエントランスホールからエレベーターで一気に10F「古代フロア」へ、
大阪都心を見下ろす高層に、いきなり奈良時代の後期難波宮の大極殿が原寸で復元されています。
窓の外の風景との対比がミスマッチで、なかなか衝撃的な空間です。

とにかく...
推古一六年六月の壬寅の朔(ついたち)、前年に使者として隋に向かった小野妹子は、隋からの使者・裴世清(はいせいせい)ら12人とともに海路を瀬戸内海から、難波の津に着いたといいます。
飛鳥朝は。この使者たちを、飾り船三十艘で江口に出迎えて、使者を迎えるためにわざわざ新館を建造して歓待したといいますが、ここ難波宮跡が、隋の使者たちを迎えた同じ場所であったかどうかは分かりません。

naniwakyu_2

日本の「いけばな」文化において、最古の体系を持つ「池坊」の祖、「小野妹子」を追ってゆくことによって、世界の中でも特異な花の文化を持つ、日本の「いけばな」文化の基層を知る手がかりになるかもしれない..と思って調べ始めたのです。

ところで、遣隋使(推古天皇十五年(607))として、実名で登場する人物としては日本史上初の、中国との橋渡し役を務めた小野妹子について、その業績に比して、伝記や資料の少なさはわりと意外です。
小野妹子を大使とした遣隋使が成功裏に終わり、妹子はのちに大徳冠という、冠位十二階の最高位に上り詰めることは、『続日本紀』や『新撰姓氏録』。『池坊由来記』にもその冠位が記されています。妹子の子である毛人も、天武朝には太政官兼刑部大卿に任じられ大錦上(正四位)まで昇格しています。

おそらく隋からの文化や制度が、遣隋使から朝廷に伝わり、後の律令制度改革に大きく貢献したと思われるのですが、大徳冠にまで登りつめたその後の妹子の業績を『日本書紀』は、ほとんど記していません。
しかも『日本書紀』が記すのは、小野妹子が隋からの帰り道、隋の皇帝から預かった国書を百済人に盗まれるという失敗談を記しているのです。これには驚かされます。
...妹子の臣、奏して曰さく、「臣(やつかれ)参還る時に、唐(もろこし=隋の皇帝)の帝、書を以って臣に授く。然るに百済国を経過る日に、百済人、探りて掠み取る。是を以って上るを得ず」


これに対して、
...群臣、議りて曰はく。「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失わず。是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失うや」といふ。
即ち流刑に坐す。時に天皇、勅して曰く、「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、たやすく罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良し」とのたまふ。すなわち赦して坐したまわず。(書紀)


つまり、妹子の、隋からの返書紛失に対し、群臣たちは「死んでも、使者の本分を守らねばならないのに、隋からの返書紛失とは、なんたる失態。即、流刑にすべし」という意見となったが、天皇が、妹子と共に同行してきた隋からの「使者(客)たちに、妹子が罪を負ったという話が聞こえては、心象もよくないから、よって罪にすべきではない..」と宣ったので赦免された... という話が日本書紀推古一六年六月の帖に記されているのです。

私たちは、教科書で習う小野妹子が「遣隋使」として活躍したことはよく知っていますが、隋皇帝からの返書を「紛失」したなどという話は、あまり知らないですね。よほど日本書紀を読み込んでいる人くらいしか知らないのではないかと思います。

ところで、この話、よくよく考えてみるとおかしい。

六月朔(ついたち)に、難波の津に着いた隋からの使者たちを、飾り船三十艘で江口に出迎えて、使者を迎えるためにわざわざ建てた新館で歓待し、飛鳥に入ったときは飾騎(かざりうま)七十五頭を仕立て、国家をあげて迎えているわけです。
その遣隋使たる妹子が、返書である隋の国書を紛失したなどとなれば、大失態なわけで、国使が相手の国の皇帝から預かった国書を紛失するなど、前代未聞の大事件ですが、天皇はその失態を不問にし、そのうえ小野妹子はその後、昇進もしている。
第一、飛鳥を訪問した隋側の使者・裴世清をふたたび隋まで送り届けている。ふつう、こういう大失敗をした人にすぐにまた再度の遣隋を命じるものでしょうか?


そもそも国書は、隋側の国使である裴世清が持っているわけですから、小野妹子が持っていること自体がおかしいのです。この一件に関して、『日本書紀』寄りの見解を示す坂本太郎氏の『聖徳太子 (人物叢書 )』にも、さすがに奇異に感じたらしく、

「総じて、このことはありそうもないことで充たされている。(略)私はむしろその事実性に疑いを持つ。造り事は妹子ではなく、『書紀』の編者またはその原資料の筆者だと思う。その人は妹子の偉大な功績にも落ち度があったことを示そうとして、こうした文をつくったのではあるまいか。(略)なお、もっと憶測を施せば、小野氏に何等かの反感を持つものが、こうした記事を作ったのではあるまいか。」
...と述べられています。

このあたり、同じ出来事を記している隋側の記録、『隋書倭国伝』をみると、さらに奇怪なのですが、順を追ってみます。

さて、隋使は飛鳥の都に入る。
このとき飛鳥側は、飾り馬七十五頭で海石榴市(つばいち)で出迎え、額田部連比羅夫が礼辞を述べた。このことは『随書』に、二百余騎を従え郊労せしむ...とあり、日本書紀の飾騎七十五匹よりも多い日本側の歓待ぶりを記す。額田部連比羅夫の名は、大礼哥多田比として随側にも記録され、大礼という日本側の冠位も記される。最近、聖徳太子の十七条憲法は後世の創作だとされるのですが、十二階は隋の客観的な隋の資料にも見える。馬の数など微妙なくいちがいがあるのですが、ここまでは、隋日双方の資料は、ほぼ整合しています。

問題は、十二日、隋国使謁見の場面。

ここで、『日本書紀』には、隋側国使との不思議な謁見の場面が描かれていて、
...「時に使主裴世清、親(みずから)書(ふみ)を持ちて、両度再拝みて、使いの旨言上して立つ。その書に曰く「皇帝、倭皇帝を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至(まう)でて懐(おもひ)を具(つぶさ)にす。朕、宝命を歓び承けて、区宇に臨み仰ぐ...」(書紀)
と続く皇帝の返書を、裴世清は書面で読み上げる。

阿部鳥臣が庭に出て、国書を受け、奥に進むと、大伴噛連が迎えてそれを受け、大門(「みかど」と解されている)の前の机の上において奏し、事は畢(終)った..とあるのです。
しかし、こんなおかしな謁見があるのでしょうか?
大門の前の机の上という大門を文字通り門であるとすると、庭中から天皇の御殿までの間に門があることになっています。十八年の新羅使を迎えたときにも、そんな記述はないのでそのような門があるとは考えられず、かといって天皇を「大門」と書いて「みかど」と読ませる例も日本書紀の中にほかの記述でも例がないというのです。

『日本書紀』では、わざわざ曖昧な表現を使って、隋の国使が天皇に謁見したのか、していないのか、分からないような文章の書き方がなされています。

このあたり、隋側の記録『随書倭国伝』には、

「其の王、清と相見え、大いに悦びて曰く、我聞く、海西に大隋礼儀の国ありと。故に朝貢せしむ...」(隋書倭国伝

と隋使に直接言葉をかけており、裴世清もそれに返答している。

このときの日本の王を、『隋書』は「其の王、多利思比孤(たりし<す>ひこ)」とあり、しかも王の妻は「雞弥(きみ)」。太子は「和歌弥多佛利(わかみたふり)」と、随書では、日本の王家の家族の名に至るまで克明に記録しているのです。
このときの『日本書紀』による王(天皇)は、推古女帝であり、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、諡号は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと:『古事記』では豊御食炊屋比売命)ですから、随書による「多利思比孤(たりしひこ)」との音写とはぜんぜん整合しない。
そもそも、「比孤(ひこ)=彦」は、男姓(男帝)を意味し、推古女帝の時代に、中国大使・裴世清は、妻も皇子もいる男帝と話を交わしたと記録しているのです。

どちらかが、何事かを隠しているのですが、考えてみれば飛鳥を訪問をする側の隋に、隠蔽や、訪問国の王の名前を間違えたり、待遇に潤色や歪曲を施す必要はないように思われますね。
記述の不自然さはむしろ『日本書紀』側にあると思うわけです。

不思議ですね? ...続きます。




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myokasyo at 04:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) よもやまばなし 

2009年03月26日

ダニエル・オスト イン 金閣寺

ost_in_kyoto_2009


ダニエル・オスト イン 金閣寺行ってきましたよ〜
金閣寺に到着して、とにかく昼食を..と、入ったそば屋さんで、
コーヒーブレイク中のダニエルさんにばったりお会いできたのは感激でした。


ost in kyoto 2009


作品はいつもながらすばらしい出来ですが、
規模的には年々小ぶりになってるかな?という印象は否めないですね。
これはアーティストではなく、主催者側の事情だとは思いますが。

京都は、場所によっては桜もちらほら...
ただし、晴れ間が見えたかと思うと、一時日中に氷雨も降り、天候定まらず、とにかく寒い一日でした。
ダニエルさんが、日本の使い捨てカイロを持参しているのを目撃しましたが、
生け手の側からすれば、春先の花のイベントはとにかく寒さが辛い{{{{(+ω+)}}}} ガクガクブルブル...
体調管理が大切ですね。どうかお疲れでませんように...

ダニエル・オスト イン 金閣寺会場は京都北山・金閣寺方丈・会期は明日3月27日まで。
北山オロシの寒さ厳しい季節ですが、花に携わる方は必見だと思いますよ〜


ost in kyoto 2009_3

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myokasyo at 23:49|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 娑婆の花 

2009年03月25日

有馬の籠

arima_no_kago


貝母はこの時期、好きな花です。
ユリ科ですが、変わってますよね。

あとは水仙各種、スノードロップ。

籠は... これも変わってますね。
ほんとうは二段重ねになっていて、
おそらくランチボックスに使うのだと思うのですが、

子どもが小さい頃、有馬に行って見つけた籠です。
長い階段をずうーっと登っていった先にある、
おじいさんとおばあさんと二人でやってる、小さいけど、有名な籠屋さんです。
いまも、お二人ともご健在でしょうかね...?

細い竹籤の目と、塗りは根来塗り風。
朱塗りの下地の黒漆を、ところどころ磨り出しにしています。
写真が暗すぎて、籠の見事な細工が見えませんね。
落としも、ガラスかなにかにすればよかったですね。



arima_no_kago_2



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myokasyo at 18:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2009年03月23日

【貝二種・貝母(バイモ)百合・クリスマスローズ・スノードロップ】

IMG_0015


「読書禁物」...

読みかけていた『隠された十字架』を未明に読み終えて眠り込み。
こんどは、昼を過ぎても強度の眼精疲労と偏頭痛でベッドから起き上がれず。昨日はまる一日をボウにふってしまいました。
おかげで、知人の三味線の演奏会にも伺えず。義理の悪いことです。
いっそ一日、「本ヌキ日」にしようと思ったのですが、
夕方ぐらいから頭痛がましになったので、
また読み続け、門脇禎二の『蝦夷と入鹿』を一冊読んでしまいました。

今日は、ようやく体調も正常に..
また、いずれまとめますが、
なんでも、知りすぎるとよくない..っていうか、
知らないほうがよいこともあるな...って思います。

そんなことってあります。



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myokasyo at 20:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 妙花 

2009年03月21日

“須恵器”なげいれ二種

ryukinka


昔の手前話で恐縮ですが、
私が四、五歳くらいまで、父母や姉と住んでいた家の庭には須恵器が出土しました。

姉の話によりますと、
その頃まだ健在でひと夏滞在していた広島の爺ちゃんが、
「いっちょ、畑でもつくるけん ( と言ったかどうかは知りませんが...)」と、
裏庭を耕しはじめたところ、そう深くない場所からゴロゴロ須恵器が出てきたといいます。

いまどきは、そんなものが出てきたら、すわっ!発掘調査..とかになるんでしょうが、
当時は、「なんだかえらいモン掘り当てた」とかで、不気味になって、
植木屋さんに、ぜんぶ引き取ってもらった..と言います。

近年、うちの最寄駅から三駅むこうの街では、駅前再開発のときに弥生時代の遺跡が発掘されて、その弥生時代の遺跡の、なお最下部から縄文期の土器片も発掘されたといいますから、上に上に街が出来ているわけですね。
考えれば、歴史的に古い街道筋なんで、このへんは川沿いに掘れば、まだなにか出てきそうです。

最近、青森県で出土した、合掌土偶が「国宝」に指定されたといいます。
「日本の文化的基層は、縄文にある」..とは、梅原猛の言葉ですが、
この土偶の姿を見るとたしかに、仏教伝来よりも、民間信仰としての道教の影響よりも、もちろんキリスト教伝来よりも以前に、
理屈で説明できない何か、この国特有の世界観なり、死生観なり思想があったとしか思えませんね。


ところで、

ryukinka_3


ひところハマッて蒐集した骨董の須恵器にリュウキンカ、桃紅侘介を入れてみました。

どちらも、剣山など使わず、器の中に細い木の枝や、草の茎の撓(しな)りの力を利用して留め、その撓りの挟む力を利用して花を挿してゆきます
手(variation)は限られますが、花に、驚くほど自然な傾きが出ます。
傾く花が、なげいれの本道ですね。いちどお試しを..




momobeniwabisuke





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myokasyo at 23:16|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 妙花 

2009年03月20日

椿百話【つらつら椿の秘密】

IMG_0018^^



忘れていたわけではありません。
この話の続きです。


というのも、
銀行員が、
妙なことを言い出すものですから。

 巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を

 ...って、
 あれ、九月に詠まれた歌なんですよ。
 不思議だと思いませんか? ...って話です。

そのときの話は、それだけで終わりです。
もともと、私の好きな万葉歌なので、何か、なぜか気になっていたのですが、

この歌は、大宝元年(701)九月、すでに皇位を孫の文武天皇にゆずった先帝持統の、紀伊行幸に従った坂門人足(さかとのひとたり)が、大和国巨勢で詠んだ一首であるといいます。
そもそも私は、この歌を九月に詠まれた歌とは知らなかったのです。

てっきり、春の初めか、寒中の椿が未だ満開にならない時期の歌だと思っていました。
だから、椿満開の春を待ち焦がれて「春の巨勢の野」が瞼に浮かぶ... というふうに思っていたのですが、九月とはあまりに意外です。
旧暦九月といえば、暦で秋とはいえ、残暑の日差し真っ只中...
そんな時期に「椿」の歌を詠むとはね?

どうやら、この歌には伏線があります。

河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(巻一−五六 春日蔵人老)

これは河上って言って曽我川という川です。曽我川の上のほとりのつらつら椿っていうのは、いろいろ説があるが、点々と連なり、咲いている椿の花、いま咲いているんですね。それをようくようく、つらつらに、ようくようく見ても見ても見飽きないよ。巨勢の春野は何ていいところだろうという歌がある。で、この歌はどちらが先かといえば正確なところは分からないが、僕は「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野」が先でしょう、と思います。(わたしの万葉百首上巻 犬養孝)

「河上の つらつら椿...」を詠んだ春日蔵人老という人について、誰なのかは分かりません。
ただ、「見れども飽かず..」ということは、じっさいに椿が満開に連なって咲いている情景を見て詠んでいるということはなんとなく分かります。

「巨勢山の つらつら椿...」についても、詠み人の坂門人足という人については分かりません。

もし、人足が、春日蔵人老の歌を知っていたとすれば、「河上の つらつら椿...」の、暗喩ではないかと思うのです。

春日蔵人とは、後の藤原、当時の中臣の一族の誰かを指すのではないか。その返歌、もしくは痛烈な諧謔皮肉の意図ではないか。

人足の歌で、「巨勢の春野を」は、原文では「許湍乃春野乎」となっています。
歌の始めに「巨勢山乃」とあるので、「同じ地名に、わざわざ別の字を当てるのは不自然である..」というのは多くの方が指摘されていて、いろいろな解釈がなされているのですが、私はこの地に本貫地を置く豪族「許世(こぜ)氏」のことを言っているのではないかと思うのです。

許世(巨勢=許勢)氏で思い出すのは、許世徳陀高(こせのとこたこ)という人物なのですが、

『法隆寺資材帳』によれば、法隆寺に最初に食封を下されたのが大化三年(647)。孝徳天皇に願い出て、この最初の食封三百戸を寄進した人物が、許世徳陀高(こせのとこたこ)であり、『日本書紀』においては、巨勢徳太(巨勢徳陀古)と書かれている人物。
梅原猛の『隠された十字架』によれば、巨勢徳太(巨勢徳陀古)とは、じつに聖徳太子の嫡子とされている山背大兄皇子(やましろおおえのみこ)殺害の現場部隊長だったというのです。

『日本書紀』には、「蘇我臣入鹿、独り謀りて、上宮の王(みこ)等を廃(す)てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす」とあるのですが、そもそも、聖徳太子は蘇我氏の一族でり、その息子である山背大兄皇子は蘇我蝦夷にとっては甥、入鹿にとっては従兄弟にあたります。山背大兄皇子と蘇我氏は濃い親戚関係にあり、血縁だけでなく、いずれも飛鳥に仏教を推進する勢力の代表でもあるはずなのです。ところが、『日本書紀』では、なぜか蘇我一族同士が内紛を起したこととして描かれている。
そして、このとき入鹿は山背大兄皇子殺害に直接手を下していない。

「蘇我臣入鹿、独り謀りて..」というわりには、じっさいに直接行動したのは巨勢徳太と土師娑婆(はじのさば)であり、土師娑婆はこの事件で死ぬのですが、巨勢徳太はその後、孝徳朝において左大臣に昇格するのです。

そして、梅原猛の言葉を借りれば、「太子の子孫をここで殺したその殺害者たちが、汚れた手をも洗わずに、太子を祭った...」のが、『法隆寺資材帳』の記録からみる「法隆寺」であるというのです。


話は、ずいぶん逸れましたが、

「つら」は連なる。たくさん並んで咲く椿の花の意..

「つらつら...」つらつらと考える...の意..

「つら」とは「面(つら)」...という意味もあるでしょう。

椿とは、海石榴(つばき)でもあり、海石榴市(つばきち)といえば、推古十六年( 609年)四月、小野妹子が遣隋使の大任を果たして帰国し、隋の使者裴世清と下客十二人を、飾り馬七十五匹を遣わして海石榴市の路上に出迎えたという『日本書紀』の記述に従えば、遠路隋からの使者に飛鳥朝が国を挙げての歓待を奉じた国交成功の記念の場所でもあるともいえます。

坂門人足という人物の素性が分からないかぎり、どうしようもないのですが、夏に「椿」の歌を詠むというのは、何か尋常ではない他の意図があるようにしか思えないわけです。

蛇足を承知で書き記せば、「面に唾(つらにつばき)」の意味も捨てきれない。
山背大兄皇子殺害で手を汚し、その後、代々の栄達を果たした唾棄すべき殺害者とその隠れた首謀者への嫉視か軽蔑か嘲笑。「おれは本当のことを知っているぞ」の心理が隠されているのではないか、という推理も捨てきれないのです。



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myokasyo at 01:45|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 椿百話 

2009年03月15日

あざとき... あざとし...

azatoki azatoshi


花屋さんに貰ったレシートに[SPバラ...]と書いてあったから、
ようするにスプレー薔薇という意味でありましょう。
スプレー薔薇と、自宅の庭の馬酔木(あせび)です。

・我が背子に、我が恋ふらくは、奥山の、馬酔木の花の、今盛りなり

(大意)あなたのことを、密かに思っている私の心は、奥山に咲く馬酔木の花のように、いまいっぱいに咲き盛っています。

そんな浮いた話は、私の周りのどこにもありませんが、馬酔木だけはうちの庭に満開です。

これで三夜続いた「洋花」三部作の終わりなんですが、
今日は、自然光で撮るには限界の照度だったので、室内光が一部入ってしまい、
全体の写真は撮ることができませんでした。
また全体を撮っておきたいのですが、明日出かけるので明後日に撮れるかどうか。

ところで、薔薇と馬酔木を合わせるのに、
器をどうするか、考えたのですが、
器に迷ったときは韓国青磁を使ってみます。
李朝でもなく、高麗青磁でもなく、新羅土器でもない、
現代韓国青磁です。


韓国青磁は「あざとい」 ...と、思うのです。
あざとさ、あざとい...にはいろいろな意味がありますが、
私の印象から言えば、キワモノ利口ともいうべきか。
洋花でも和花でも、南国の花でも中国華でも合わせることができる。

そう何でも、うまく合わせられるのは、ずるいと思うのですが、
ずるいほどうまくゆくのです。

もうひとつ、私は梅瓶を持っていますが、
耳付でも、広口でも何でもいいのですが、韓国青磁をひとつ持っておくと、
たとえば、頂き物の洋花を、頂いた人の前でバサッと生けるときなんかに便利です。




azatoki_azatoshi_



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myokasyo at 01:15|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 妙花 

2009年03月13日

シンクロニシティも かひのうち

scabiosa.


共時性というのか、
まあ、よくあることなのですが、
昨日、「洋花礼賛」と一緒に撮った花が、
貝とスカビオサだったのですが、

今日はじめて開いた
この方も、なぜか貝を使ってるな...

と、思ったのです。

そういえば、このあいだ行った茶会も、
香合はアコヤ貝だったし、
潜在意識の中に、そんなことが残っていたのかもしれない。

三月って、

「貝」だな...

「甲斐」
「【峡】かひ」
「交(か)ひ」

 袖摺りあうも多少の縁

 シンクロニシティも かひのうち



Scabiosa_



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2009年03月12日

洋花礼賛

IMG_0001^^


ちょいと用で、
花屋さんなんかをのぞくと、
春の花、続々入荷中..ってことで、
あんまり色彩が綺麗なんで、
花生け人としては、
思わず衝動買いしてしまいますね。

ラナンキュラス・レイネッテ
チューリップ・ウェストポイント
リューココリーネ
ネオポリターナ...
あとは、ストックとかフリージアとか...

ところが、
洋花の名前は何度聞いても覚えられませんね。

覚えられません。

覚える気がないのかもしれません。
まあ、書いたら覚えられるかもしれないので書いておきます。

その点、和名の花というのはなぜかすぐに覚えられるのですが、
たとえば、春の花でミヤコワスレ(都忘れ)...

なんだか、都から追放されたり、
帰ることができなくなった理由(わけ)ありの姫か、殿か..
道すがら名も無き野辺の草花にふと足を止める。
人生の終(つい)の棲家となった片田舎で見る愛らしい名もなき草花。
一本手折って眺めてみれば、
脳裏をかすめて思い出す、過去の自分の都での栄耀栄華..。
若かりし日の夢幻の日々... 
瞬時の妄想から、はっ..として我にかえる。

ああ、思い出しちゃいけない。
ふりかえっちゃいけない、もう戻らない過去の日々。
思い出せばまた、夢のような過去と、現在の境遇とのギャップに涙が滲む。

ああ...、これがミヤコワスレ.. 

...とかね。


これが、唐突に「リューココリーネ」とか、
「ネオポリターナ」...とか、言われても覚えられるわけないね。
何か覚え方があれば教えてください。



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