2010年08月

2010年08月22日

籠に生ける秋草(その1

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秋草を籠に生ける。

野に咲く草花の種類がいっそう増す秋には、
座敷に置いても軽やかな雰囲気を醸しだしてくれる「籠」を使い。
ふだんよりも花数を多く挿して季節の風情を愉しみます。
畳床、板床を問わず、薄板を使わない直置き。

うまく考えたものです。

たしかに、これが焼きものだと、そうはいかない。
花数を入れると、重くなるでしょうね。

本来は、茶席でいう風炉の「名残(なごり)」の季節。
十月に使う手法ですが、
野に秋草咲きだせば、使わぬ手はないですね。

秋草先走り…


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2010年08月20日

夜ひらく

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カラスウリの花は、
自然光で写真を撮ろうとする私にとって難題です。

ご存じのとおり。
カラスウリの花は日光を嫌い、
夕闇から翌早朝、日の出までの間に開花する。

よって、
みごとなレース状に縁取られた、
真っ白な花を見ることができるのは、それが暗い闇の中でのこと。


もういちど整理しよう。
私は、生と死の問題にこだわり続けてきた。
しかし、それを宗教の道を通って探求することはできない。
なぜなら、私は「誰かがすでに語った絶対の真理」というものを受け入れることができないし、
そういう真理や絶対者や教祖への「信仰」をもつこもまたできないからである。
こういうと、「じゃあ、あなたは無神論者、唯物論者、科学主義者なのですね」と問われるに違いない。
私がこの小論でいいたいのは、そういうような、
「宗教を信じないものは、即、唯物論者だ」
というような二分法をやめてくれませんか、ということである。

この点は、私にとっては、とても大事なことなのだ。
「私は宗教を信じていませんが、しかしながら唯物論者ではありませんよ。
 私は宗教を信じていませんが、科学主義者ではありませんよ。
 私は宗教を信じていませんが、唯物論者でもありませんよ。」

こういうことを、平然と言えるような世の中が、はやく来てほしい。

                               宗教なき時代を生きるために



第三の道がある…

夢は夜開く。

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2010年08月17日

夏が哭いている

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いくら暑い、暑いと云っても、
物ごと、何事も、
爛熟は崩壊の序章。
あとには、かならず衰退と終焉が待っている。

残暑…

あついあつい夏の爛熟は、
ひとつの季節が、終末に近づいているという証拠。
いまを盛りに啼く蝉も、哀れ、日、一日と、その数を減らしてゆく。

滅びの前の、

夏が哭いている。


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2010年08月13日

『道草花伝』

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たとえば、

娘がまだ小さい頃、
摘んだ草花の持ち方の要領も得なくて、
たんぽぽやシロツメ草などの野草を摘んでは、
温かい小さな拳の中に、汗をかくほど大事そうにギュッと握りしめていた。

子どもの力一杯に握られた花は、萎れてしまっているのだけど、
そんな花の姿も情景も、私はいまも忘れない…
これもまた「萎れし花」。
世阿弥の「萎れし花」とはちがう。


「いけばな」って、
初心の修行中は「形(かたち)」ばかりを一所懸命勉強するけど、
いつのまにか手段が目的にすり替わらないように注意しなければいけない。
形は、熟練すればするほどうまくはなるけど、それが目的にすりかわったらそこで終わってしまう。
それは「花」を生けたのではなく、花で「形」を生けたことにしかならない。


最終的には、

「自分」が、
この世に生れてきて、
今までに、
あっ…て、気づいたり、ずっと記憶に残っていたり… 
今生で無数に出会った、情趣や情景の残像を、
花に託して表してみる…って、
そんなことじゃないか…








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2010年08月09日

萎れし花(しおれしはな)

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今日は難しいですよ…
世阿弥の「萎れし花(しおれしはな)」です。

15世紀の日本において、同時代の能役者・世阿弥が語る 
…「萎れし花」の「美意識」についてです。
よくまあ、「言挙げせぬ…」この国、この時代において、
芸術論、芸能論ともいうべき、
ここまでの論述ができたものだと率直に思うのです。
イギリスでシェイクスピアが生まれる、およそ200年も前の話です。

『風姿花伝第三問答條』にて、
世阿弥が語る「萎れし花」を考えるとき、
情報量であるとか、生活の利便性であるとか、教育や知識というものと、
人が感受性で捉える「美意識」との間には、なんら関係がないな…と、
むしろ現代のほうが、「美しい…」と捉える感受性がステレオタイプになってしまっていて、
その「幅」や「奥行き」自体は狭くなってるんじゃないか…と、つくづく考えさせられます。


問。常の批判にも、萎れたると申す事あり。いかやうなる所ぞ

答。これは悉くに記すに及ばず。その風情現はるまじ。
  さりながら、正しく、萎れたる風體はあるものなり。
  これも、ただ、花によりての風情なり。
  よくよく案じて見るに、稽古にも振る舞いにも及び難し。
  花を極めたらば知るべきか。

 q.いつもよく聞く批判の言葉に「萎れたる」ということがあるが、これはどういうことか?
  
 a.これは書き表し難い…その風情が現実の目に確かなものとはいえない。
  しかし、正しく「萎れた風體(ふうてい)」というものは存在する。
  これも、ただ「花」があってこその風情である。
  よくよく考えてみるに、稽古によっても、振る舞いによっても、
  作為によって演じて演じられるものではない。
  「花」を極めた者だけが知り得ることかもしれない。
  
  されば、遍(あまね)く物まねごとに無しとも、
  一方の花を極めたらん人は、萎れたる所をも知る事あるべし。
  しかれば、この萎れたると申す事、花よりもなほ上の事に申しつべし。
  花無くては、萎れ所無益なり。(それは)湿りたるになるべし。

  あらゆる演技演目において「ある」ということではないが、
  ひとつの「花」を極めた者が「萎れたる所」を知ることがある。
  つまり、この「萎れたる」ということは、「花」よりもなお上位のものである。
  (しかし、元来…)「花」のない者が、萎れを演じるのは無益なこと。
  それは「萎れ」ではなく「湿り」となる。

  花の萎れたらんこそ面白けれ、
  花咲かぬ草木の萎れたらんは、何か面白かるべき。
  花を極めん事一大事なるに、その上とも申すべき事なれば、
  萎れたる風體、返す返す大事なり。


  (極まった…)「花」が、やがて萎れるから美しく情趣深いのであって、
  咲くことも極まることもなく、
  草木のみが「萎れ」ていていたとしても、なんら情趣の湧くものではない。
  「花」を極める事だけでも一大事であるのに、
  まだその上となれば「萎れたる風體」とは、返す返すも大事なことである。
  
 
  さるほどに、譬えにも申し難し。古歌に云わく、

  薄霧の 籬の花の朝じめり 秋は夕べと誰か言ひけん

  また云わく、

  色見えで 移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける
  
  かやうなる風體にてやあるべき。心中にあてて公案すべし。

  そして世阿弥は「萎れたる花」の譬(たとえ)として、
  古今集と新古今集から引用し二首の歌を添え、
  「心の中でよく考えよ」と結んでいます。
  ※注釈は、岩波文庫『風姿花伝』※注を参考にして考えた[※ichi的解釈]。
  能、演技、舞踏に関わらず、花に携わる方、ご一読をお勧めします。
  日本の「美意識」って、底なしに奥深いよね…




風姿花伝 (岩波文庫)





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myokasyo at 08:18|PermalinkComments(8)TrackBack(0) 妙花 

2010年08月08日

ひぐらしが木霊(こだま)す…

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夜通し本を読んでいると、
とつぜん、蜩(ひぐらし)の第一声が聞こえてくるのです。

枕元の携帯で時間を確かめると午前4時45分。
窓の外を見ると、空は濃い青インクを水に溶かしたような色。

夜明けの第一声とともに、少しづつ奏でる声の数が増えてゆき、
四方を山々に囲まれているこの辺りは、少しづつ… 
やがて全山を覆うような蜩の声の奏でる交響曲となります…

夕方に聴く蜩は、他の蝉の声や車の騒音などに混じって、いかにも疲れて聴こえますが、
早朝は、ほとんど… 澄みわたる山の空気に蜩の声だけが木霊し、一段と格調高く聴こえます。

時間を追って、やがてほかの種類の蝉も鳴き始めるので、
蜩の交響曲を愉しめるのは30分程度かな…


そして、鳥も囀りはじめ… 

夜から朝の境のおわり…
一曲の終わり…

朝と一日のはじまり…







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myokasyo at 05:18|PermalinkComments(8)TrackBack(0) よもやまばなし 

2010年08月07日

親ばか話で恐縮ですが…

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Octavo Congreso Internacional de Mayistas

ただの親ばか話で恐縮ですが…

娘が、マヤ文明の国際研究会議で研究論文を発表するというので、そのお知らせです。
8月8日〜11日と4日間あって、発表は8月10日の9:00〜11;30の間ってことかな?
スペイン語のプログラムなのでさっぱり分かりません。
読める人、教えてください。
親父は行けませんので、どなたかお近くにお越しの節はぜひお立ち寄りを。
(※尚、会場にお立ち寄りできるかどうかは不明…)
独り、異国の地の娘に加護を…





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myokasyo at 15:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0) よもやまばなし 

2010年08月04日

抑圧系+崩壊系

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子どもころから、
決まりきったこと繰り返してやるのが嫌いなんですよね…
ま、誰でもそうでしょうが…

でも人生って、たしかに要所、要所で大まかに変化、変更はあるけど、
大半は同じことの繰り返し。
その中で残された時間だけが少なくなってゆく。

「いけばな」は、右も左もわからないところから、
「やってはいけない」と俗に言う、複数流派に師事したことで、
自ずと、なんらかの流派のクセが残っているのですが、
さいわい洋花については、誰にも系統だって習っていない…
いわば、ここだけが自己流…

で、よくよく自分の生けたものを観察するに…

これは「抑圧+崩壊」系だな…と。

少なくとも…

誰もが喜ぶ花屋さんの花ではないわね… 

たぶんそういうのは挿せないと思うし… 挿したくないのだと思う。


花屋さんと華道家のちがい、とか、最近よく考えます。

抑圧された反復する日常が、脳の中で静かに崩壊してゆく… 

そんな花が、いま生けたいんですよね…




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2010年08月02日

唯脳花

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「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」[唯脳論(養老猛司)


なるほど…

養老氏の言葉を借りれば、「生けられた花」は、みなヒトの意識によって作られた脳の投射。
逆に自然は、ヒトの予測不可能、制御不可能な意識の外にある。

降雨50ミリで排水可能に計画された都市の水路の[50ミリ]とはヒトの意識がはじき出したもの。
そこに、100ミリを超える予測不可能の局所集中豪雨が来れば制御不可能。水路から排水が街に溢れだすのは当然。
つまり、自然は「無」意識下にある。




ところで、

自然環境の中で屈折し、二度も三度も曲がりくねって育ったこのユリを「生けること」についてどう考える?

「こっちへ向け」とばかりに、捩じったり矯めたりすれば、これはヒトの意識的「作為」。
「これは使えないわ」とばかりに、
…スーパーの商品に出せない曲がった胡瓜みたいに…
捨ててしまえば、これは「排除」「断絶」。


そのままの姿で上手に付き合う… 

それも脳の投射にはちがいないけど、
そのあたりが、人間(ヒト)にできる自然との上手な付き合い方ではないか?と…
「生ける…」は「活ける」。「生きる」。


どうか… 
「そのあたり…」で、カンベンしてやってください。







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