2018年12月31日

はじめに

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はじめまして。
マイケルです。
いまだ未熟者ではありますが、求道の志を持つ者です。
いかなる宗教や組織にも属さず、独学で、
試行錯誤を繰り返しながら、手探りで進んでいきます。
≪少しでもマシな自分≫への探究はどうしても暗中模索になると思います。

独りよがりで自己満足的な悟りではなく、本当に自他を救いうるような≪智慧≫と≪力≫とをもたらしてくれる真の解脱・悟りを目指していこうと、志だけは大きく持っております。

K大師をはじめ、山崎弁栄や黒住宗忠、中村天風、本山博、五井昌久、ジョセフ・マーフィー、ジョージ・アダムスキー、そしてパラマハンサ・ヨガナンダ、スワミ・ラーマ、ニーム・カロリ・ババなどのヒマラヤ聖者を心から敬愛しています。その他にも尊敬する導師はたくさんいます。

禅、密教、真宗、日蓮宗などの仏教、原始仏教、キリスト教神秘主義や古神道などの宗教の勉強をもっと広く深く進めていきたいと思っています。

このブログは、そんな私の備忘録です。どうぞよろしくお願いします。

※ブログタイトルにあるK大師とは、私の父が尊敬している神人というか大霊能者です。
※上の写真は、千年に一度の聖者、山崎弁栄上人の絵です。



mysticart at 22:16|PermalinkComments(15)

2018年02月12日

真の信仰とはなにか。

口先だけで神の名を何回唱えようと、「神を信じます」と何回宣言しようと、それだけでは神を真に信じていることにはならない。

自分では神を信じているつもりであっても、一旦何か大事があると、途端に動揺し不安の虜になってしまうのが常であり、その都度、自分の信仰心が偽りのものであったことに気づかされる。
眼に見えぬ何かを信じるということは、やはりとても難しいことに思われる。

スワミラーマ師の『ヒマラヤ聖者とともに』を読んでみても、真の信仰者がいかに少ないかがわかる。天候の不順により、スワミラーマの一団に命の危険が迫ってきたとき、そこにいた多くの宗教学者が怯え絶望し、運命を呪った。彼らは神を語りはするが、神を心から信じる者は一人もいなかったのだ。

神人の黒住宗忠も、一度つり橋を渡っている最中に、大きくつり橋が揺れて、思わずヒヤッとしてしまったことがあった。宗忠先生はそのことを強く恥じ、信仰が真に徹してはいなかったことを反省したという。

それだけ信仰というものは難しく、神人といえども極め難いものであるが、信仰を通して人間は進化し、解脱へと至れるというのはやはり真実であるらしい。

山崎弁栄上人の高弟である笹本戒浄は、その著書『礼拝儀講話』で、阿弥陀如来への信仰に徹することで、誰でも解脱でき、知恵の眼が開かれることを説いた。驚異的な能力と智慧が、信仰心の伴った念仏によって開花することを明らかにした素晴らしい名著と言える。山崎弁栄師や笹本戒浄がお説きにいなる解脱や悟りは、世間に流布する自己満足的なそれではなく、明からな知恵や能力の開花を伴うもので、早い話が、千里眼とか天眼とかいう神通力の開花を必ず伴っている。

また、本山博先生は以下のようにおっしゃっている。一部を抜粋させていただく。素晴らしい記事なので、是非、玉光神社HPで全文をお読みいただきたい。信仰とは何かを考える際の大きな手掛かりとなる。


玉光神社HPより引用。

その時は、お金は全部で二千円しかなかったそうだ。
それなのに、マンドリンに七百五十円も払って、あとどうするつもりなんだろうと母に言うたらね、「うん、神様が要るものはちゃんと整えてくださるから、お金の事なんか気にしてない」って。
皆もそうなったらいいねえ。皆はそんなに神様を信じてるかなあ?
信じたら神様は信じたように、――本当に信じたら、信じたようにしてくださるんだよ。
すっかり信じないで、半信半疑だと、神様は決してしてくださらない。


そういうふうに神様を信じきってる、神様がなんでもしてくださる、と思ってる、そういう人が本当の信仰者、本当の宗教者なんだよ。
そういう人には苦しみはないんだよ。





mysticart at 15:14|PermalinkComments(0)修行日記 

2018年01月11日

神を慕う心無くして、神の名を何千回も唱えることの哀れさ

阿弥陀様を愛する心なんて少しもないくせに、ただ自分の幸福のために「南無阿弥陀仏」と一日に幾千万遍と唱え続ける人のことを、「気の毒な人」と弁栄上人はおっしゃっている。


お慈悲のたより



mysticart at 16:20|PermalinkComments(0)ひとりごと 
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