この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2014の第14日目の記事として書かれました



皆さまこんにちは!引越ししたてのブログにお越しくださってありがとうございます。
 

今回のアドべントカレンダーの企画でご覧になられる方もいらっしゃるかと思いますので、最初に軽く自己紹介をいたします。

わたくしN2は、京都のChickenDiceGames<チキンダイスゲームズ>というサークルで代表をやらせてもらっています。

自前のゲームとしては『アカプルコ(2012)』『アルケミストラグル(2012)』『うそつきかわうそ(2013)』など、ディベロッパーとしまして『Ageof Craft(2014)』『Ageof Revive(2014)』などをリリースしています。詳しくは弊サークルサイトをご覧ください。
 

この一連の企画のために、開店休業状態だったブログをお引越し&復活させてみました。

どうか御笑覧くださると幸いです。



さて、ここまで2週間ほどの先達の皆さんの記事を拝見したところ、比較的ゲーム創作の内奥の話し、つまり「いかようにしてルールを構築するか」に力点を置かれたものが多いように思います。
そこで、私は少しだけ視点を外側にずらしてみたいと考えました。ゲームに“テーマ”を付与する際のあれこれを論じてみたいのです。


テーマってなんぞ?

我々ボードゲーマーは、非常に気楽に「テーマ」という言葉を使います。曰く「クニツィアの作品はテーマとの乖離性が云々かんぬん…」「『村の人生』は“死”というテーマさえもメカニクスの中にうんたらかんたら…」外部から見ると結局何をいっとるんだという感覚でしょう。
でも、例えば「フェーズ」「インパルス
(ちと古いか)」「カードドリヴン」「ワーカープレイスメント」「拡大再生産」「収束性」などの専門用語群から比べると、「テーマ」なんてものは、ひどく普通で、それこそ日常会話の切れ端に登場してもおかしくないものです。

ただ、もしよくわからないまま使っていたとすれば、ちょっとした問題です。


あらためて考えると、「テーマ」って一体なんでしょう?それは言うまでもなく「作品の背景、ストーリー部分」です。そんなことは知ってるって??いえ、私が述べたいのは、“それだけ”だということなんです。


一般的な「テーマ」という語の用法は、もうすこし広い範囲を指しています。例えば映画や小説におけるテーマは「初期ローマ帝国の植民地支配(※1)」「荒廃した近未来と人造人間(※2)」というよりは「不屈の勇気と神の奇跡」「人ならざるものの語る人の実存性」など、もっと抽象的で高尚なものと言えます。では、どうしてボードゲームのテーマは、前者のみを指すのでしょう?


テーマなんていらない?

この答え、ひいては「テーマ」を知るために、手っ取り早い方法があります。

逆の例を見てみる、つまり「テーマの存在しないボードゲーム」を想起すれば良いのです。


囲碁やリバーシなどいわゆる「アブストラクト系」とよばれるものの多くは、テーマを持たないか、あるいは極限に薄められています。同人ゲームの例をあげれば、GAME NOWAさんの『Lタイルズ』などにも特定のテーマは見当たりません。

ところで実際これらのゲームを遊んで、物足りなさを感じた人は少ない筈です。


何が言いたいのか、ぼつぼつお分かり頂けたのではないでしょうか。つまり「テーマは、なくても構わない」ということなのです!!

のっけから暴論を吐いていますが、これは本論を通じて私が述べたいことの根源にあるのです。


前段の話に戻りましょう。ボードゲームは、映画や芸術ではありません。こういったもので通例「テーマ」として認識されるのは「表現者の伝えたいこと」です。翻ってボドゲにおいて「デザイナーの意図」とは、作品背景ではなくゲームのルールに集約されているのです。「W・クラマーってすげぇな、、争いの舞台をスペインに持ってくるなんて!(※3)」などという人を見たことがありません。

要するに舞台装置はボードゲームのほんの一部分に過ぎないのです。


これから私が語るのは、そういう「一部」をどう仕上げていくか、ということです。


テーマ界の水戸黄門たち

ところで皆さんは、本論のタイトルのような疑問を持たれたことはないでしょうか?

私はゲームを自分で買いはじめたある日、ふと同じようなテーマばっかり増えていることに気づきました。最初は自分が史学科出身だから無意識に買ってるのかも、と思いましたが、どうも違うようです。

やっぱり多いのです!ローマ帝国だか中世だかの古い時代の偉いさんになって、色々働かしてるうちに建物が建って嬉しい!という様なヤツが。。特にプレイに1時間以上かかる中量級からのタイトルは、石を投げれば大体そんなのに当たります。


また、度し難いことに、我々もそういうものをありがたがって遊んでいるのです。今日も明日も飽きもせずに。

ボードゲーマーは知っています。この卓が終わったあと、早晩また古代世界で水道橋やら神殿やらを建設するために働かされることを。それでも楽しんでいるのです。これはもう展開が読めているのに水戸黄門にチャンネルを合わせてしまう爺さまと変わりありません。


ただ、これだけ被害者がいる以上、我々がお馬鹿だというだけでは結論になりません。

これらの要素に黄門さまのような中毒性があるのでしょう。これは考えてみる必要がありそうです。


僕たちは、日常にうんざりしている

上記のテーマは、大きく2つのエッセンスに分けられます。「舞台が昔であること」「建築ゲームであること」です。

これらが喜ばれる理由には、「没入」というキーワードを設定して考えてみたいと思います。


中毒性のあるゲームは、多かれ少なかれそのゲームの中にプレイヤーを取り込んでしまう、食虫植物のような働きをします。これが「没入」です。

これは無論ゲームのルールに負うところも大きいでしょう。しかし敢えてテーマで「没入」を惹起するならば、その方法は2つ。「テーマを排除する」か「非日常のごっこ遊びを提供する」かのどちらかです。


前述したとおり、テーマとはゲームデザイン上の一部に過ぎません。強い表現をするなら「不純物」と言ってもいいかも知れません。テーマ選択の失敗は、しばしばゲームをつまらないものにします。それを避けるために敢えてテーマを設けないのも立派な「テーマ選択」と言えるでしょう。
実際余計な背景物語や、凝りすぎて視認性が悪くなったボードなどに気を逸らされることなく、プレイヤーはゲーム中、常にルールと対戦相手の動きのみに集中できます。これはもう立派な「没入」状態にあると言えます。


一方、テーマを付与することにしたのならば、もう力技でプレイヤーをテーマの「異空間」に引きずり込まねばなりません。これは案外重労働なのです。

一部の熟練された者以外、プレイヤーは簡単にはゲーム世界に「没入」してはくれません。理由は簡単です。彼らは現実世界の日常を生きているからです。


多くの人にとって、日常とは「よくある事の繰り返し」です。突然空から女の子が降ってきたりしません。自分にだけ乗れるロボットが隠されてたりはしません。

それでも生きていかねばならないのが現実で、忙しく、それでいて退屈な日々から逸れ、わずかばかりの「非現実」を求めてゲームを遊ぶという方は多いはずです。

そういうところへおもむろに「舞台は現代です」「会社で働くあなたは・・」とインストがくれば、たちまち「非日常の魔法」は解け、ゲームに前のめりになる姿勢は薄れようというものです。


もちろん極端なことを言っています。私は現代社会をテーマにしたゲームで面白いものをいくつも知っています(※4)。ただ、それらはみな恐ろしいまでに強烈な個性やルールを持っています。そこまでしなければプレイヤーを虜にできないのか、という程に。

手っ取り早く現代人に没入を促すには、彼らの想像を羽ばたかせやすく、なおかつ“ここにはないもの”すなわち「過去の世界」を借りてくるのが有効だとの判断は当然でしょう。


また、「建築」というテーマもその延長線上にあります。別に資源を支払った結果、建物を得る義理はないのです。契約書だって構いませんし、料理だっていいはずです。それでも色々なゲームが「建築」にこだわるのは、それが、プレイヤーの日常から遠い位置にあるからでしょう。


いまは一級建築士か巨大会社の重役でもないと、そうポンポンと様々なビルを建ててやろうなどとは思えません。ところがゲーム中ではあなたは都合のいいことに中世の大領主、あるいは大商人です。ルールの許す限り好きなだけ土木事業をおこない、名誉を浴びることが可能なのです。こんなに痛快なことはそうありません!


偉大なるマンネリの中で

結局、TRPGならずともプレイヤーはゲームの中に没入させてくれる「非日常のごっこ遊び」を求めているのです。その度しがたい夢、それでいてより普遍的な夢をかなえてくれる装置作りを目指した結果が、この「時代をさかのぼって建築する」様式に結実したのだと思っています。


私は、この状況をボードゲームの進化の結果として、大変良いものと受け止めています。

ただ、実際「右を向いても左を向いても似たような見かけのゲームばかり」という問題はあるでしょう。しかし、これこそデザイナーの腕の見せ所ではないでしょうか。
 

いきなり河岸を変えてアレですが、アニメ「ガンダム」シリーズには「宇宙が舞台」「仮面をかぶった腕利きがいる」「ツノの付いた白いロボットで戦う」などのいわゆる“お約束”があります。これらは足かせではなく、その中でクリエイターが力を出し合う土俵として機能しています。


ボードゲーマーの心性が根本的に変わらない限り、おそらくこの様式美への需要はまだまだ衰えることはないでしょう。

ならば、マンネリを恐れず、むしろその只中でいかようにして自分の色を出すのか、そこに注力することが求められると私は思っています。


では具体的に、テーマにオリジナリティを出すにはどうすれば良いのでしょう?

そこをレクチャーし過ぎてしまうとそもそも独自性が失われかねないので、究極的にはデザイナー自身が考えないといけません。ただ私からは、三点ほど方法を挙げておきます。


A:背景となる国や時代設定をひねる

もっとも外見的にわかりやすい手法です。『サンクトペテルブルグ』では、あなたはピョートル大帝時代のロシア貴族になります。『ツォルキン』はプレイヤーをマヤ文明の信仰の世界へといざないます。これは共和政の元老院議員になったり、封建領主に賄賂を送ったりするのとは異なる、特別な経験をプレイヤーに与えます。


ただし、デザイナーにもその時代・世界に対する勉強が必要です。職人カードの中にピョートル帝が入っているのは、彼が船大工をはじめ様々な職能に通じていたからであり、天文台が破格の強さを発揮するのは、大帝が暦を改めたためでしょう。

テーマとして取材する限り、歴史も二次創作となんら変わりありません。ある程度以上の知識に裏打ちされてはじめて、魅力的なフレーバー足りえるのです。


B:特定の要素に焦点をしぼる

これも例を先に挙げましょう。『フィレンツェの匠』では、“芸術”というファクターがゲーム全体を貫く芯になっています。プレイヤーは自宅()に様々な建物や地形を配置しますが、それらは皆、招聘した芸術家にインスピレイションを与え、良い仕事をしてもらうためにあるのです。ルネサンス期のヨーロッパというありがちな設定も、『公園』『湖』『森』などの癒し系タイル群の存在感によってかき消されています。


最近のゲームにも好例はあります。『デウス』は、ヘレニズム系の国家となり建物カードをプレイして建築を行なう、というほとんど「いつものアレ」で済まされかねないほどの背景の作品ですが、「神殿」と「その他の建物」を視覚的にもプレイ上でも異なるものとしてデザインしています。結果としてプレイヤーの視線が“神殿の動向”に注がれ、タイトルでもある「デウス()」というテーマを印象付けるのに役立っています。


C:悪い心をくすぐる

ところで我々は、ふだん現代社会のくびきの中で、一応表面上はおとなしく生活しています。しかし先述のとおり、プレイヤー達はゲームに非日常の体験を求めているのです。
警察に見つかる前に非合法品を売りさばいてみたい(※5)、よその工場の敷地に産廃をぶちまけてやりたい(※6)、もし出来たらさぞかし胸のすく思いだろう!そういう悪い心をみな少しはどこかに抱え持っているはずです。

こう書くとなにやら悪党のようですが、そもそもこの世に完璧な聖人君子などおらず、仮にいたとしてその様な御仁と卓を囲んでも、あまり楽しくはないでしょう()


人間である以上、ゲームの中でならちょっとばかり悪事をはたらいてみたいという邪心は、例えば大聖堂を建立したい、ドラゴンを退治したい、などという名誉心・冒険心と表裏になって同居しているものです。そこを刺激するようなスリルあふれるテーマを得れば、王道・邪道の違いなく傑作はおのずから生まれ来るでしょう。


例を挙げるならば『クレオパトラと建築士』がそうです。プレイヤーは建築競争に勝つため、汚職を繰り返して資材を貯めます。もちろん清廉潔白なプレイもできないことはないですが、勝てない上に面白くありません()。おまけに最後には一番の汚職者は女王様のペットのワニの餌にされてしまうというご褒美、もといオチつきです。


D:ある要素を省く

上記の三点では凡庸だとお考えの方には、ひとつ変り種の手法をお教えします。


まったくの手前味噌で恐縮ですが、弊サークルの作品『Age of Craft』シリーズは、65種類の建築物のなかに、この手の中世風世界ではお約束のキリスト教的建物(「大聖堂」や「礼拝堂」など)を設けていません。一方パッケージアートは教会をイメージしています。

つまりこの世界には存在しているにも関わらず、プレイヤーには建てられない建築物もある、ということです。聖堂建築は代々王や領主の仕事なのかもしれません。宗教的権威が強く、商人の分際には不可侵の領域なのかもしれません。


これは多分に暗示的で、ほとんど気づかれることのない、言わば隠し味のようなものです。ただ、あえて省いた部分が余白となって、プレイヤーの想像力を刺激するきっかけになってくれれば、と考えています。


奇をてらうことについて

私が今日お話ししてきたのは、あくまで「ストレートの投げ方」つまり一般的・普遍的なテーマに真正面から挑むことについてです。カーブやスライダーまで話そうとすると、これと同じかそれ以上の分量が必要になってきます。フォークやスプリットをご希望の方は、私ではなく北条投了師にお尋ねください()


ただ、私からも言えることがあります。それは、いわゆる王道テーマでも、思わず笑ってしまう様な変わったテーマでも根本はひとつ、プレイヤーに「ありえない体験」を提供できるかどうか、ということです。


しかし、ただ奇をてらってみただけのテーマ選びでは、プレイヤーを振り向かせることは難しいでしょう。
たしかに毎日の生活やニュースの中には、“ゲームにできそうなもの”が隠されています。しかしそれらの素材をいきなり鍋に叩き込んだだけでは、単にハチャメチャなだけで日常的すぎる主題と化してしまいます。「粗野な日常」はゲームへと没入させる魔法を解いてしまい、かえってプレイヤーを白けさせるのみかも知れません。


「そんなん自分やりたいか?」わが師、北条投了の口癖です。


テーマは敗北せねばならぬ

長々と書いてきましたこの文章も、この章立てで最終となります。テーマに関してあれやこれやと書き散らしてしまいましたが、私はいま、改めて冒頭の一文を振り返っています。


テーマとは舞台と背景、それだけで良い。


魅力的な背景設定を作り出そうとするあまり、テーマの内容に凝りすぎてしまう。例えばルールブック冒頭の世界観の説明が気合いの入った長文でなかなか終わらない、あるいはカード上のフレーバーテキストが効果テキストより目立っている、そんなゲームを時々見かけます。


これらは「作品」としては上々であっても、ゲームとしては「ルールがテーマに負けている」状態にあると言えます。

「いいや違う!俺はゲームをテーマ買いしかしない奴を知っているぞ!」と言う方もおられるでしょう。
しかし実際そういう思い入れの強い人ほど、大好きなテーマと実際のルールや内容との落差が大きければ、落胆を示されるものです。誰だって似通ったテーマの中でなら、より面白いルールのゲームをつかみたいのが本音だからです。


ではルールがテーマに食われてしまわないためにはどうすれば良いのか、これは簡単です。


語りすぎないこと。


この一点に尽きると考えています。


設定を盛り込みすぎないことで「ルールがテーマに勝利している」例をひとつ挙げたいと思います。

私がもっとも好きな同人ゲーム『ヴォーパルス』についてです。

このゲームのルールブックの序文からうかがえるのは、どうやら戦が始まりそうなこと、鉱石が強そうなこと、ややファンタジックな世界であること、100年間にわたる物語であること、これくらいです。


ではそれ以外の魅力はどこに詰まっているかというと、ルールとカードの中に、ひっそりと沈んでいるのです。 

よくこのゲームの代名詞として使われる「経年」という概念ですが、正直これは「回数制限」の変形亜種のようなもので、新規のメカニクスとして捉えるべきかは私には結論が出ません。
しかし確かにプレイヤーたちに新しさを感じさせたのは、カードが“老いていく”というテーマと、経年チップというルールが抜群にかみ合ったためでしょう。
フレーバーがなくとも、ルールや効果に“穏やかに語らせる”ことによって重厚な世界観は存立しうるということを証明したゲームだと思います。


デザイナーは、言ってみればゲームの神です。いかようなゲームを作ろうとも自由なのです。
ただ
造物主として振舞える嬉しさのあまり、作中に自らの“語り”を多量に混入させてしまえば、それは途端にデザイナーだけの閉じた世界となり、プレイヤーたちは違和感を覚えるかも知れません。


正確を期するならば、神様でいられるのは「作っている間」だけなのです。
それが一旦リリースされ人々に遊ばれる際には、作り上げた背景はもはやデザイナーの手を離れ、プレイヤーたちの共有物となったと言っても過言ではありません。

そうなる前に、あらかじめ皆の住みよい世界を整備しておくことも、
創造主の務めではないでしょうか。





お読みいただきありがとうございました。明日15日目は、MoB GAMESの宮野さんの記事になります。『盗賊ロワイアル』『YAMINABE』『うそつき王国』『ドンクラーヴェ』などのデザイナーで、大阪でオープンゲーム会「MoB会」を主催されています。ゲームマーケットでもよくお隣りでお世話になっています。どんな記事になるのか、楽しみです!


※1:映画『ベン・ハー』
※2:映画『ブレードランナー』
※3:『エル・グランデ』
※4:例えば『アクワイア』など
※5:『ラッツィア』
※6:『利益・廃液』