2.Februar.2018
Text about things around me
Text about things around me
とても長い事文章を書きたい書きたいと心の片隅に思ってきた。べつに書くことが得意だとかすきだとかは思わないが、自分のこと頭の中にある物事を整理するのに自分にとって一番手っ取り早い方法な気がしているからだ。今の自分にはある程度時間の余裕がある。その時間を勿論だらだらと日々過ごす事も可能だし、趣味の時間に費やすことも可能だろう。しかしながら過去6年にわたってひとつのことを延々とこなして来た後に訪れたこの虚無感を少しでも拭いさるにはなにかを吐き出すことが良い事のような気がしたから。
なにをどの様に書くかはまだいまいち具体的になっていない。自分のことを映し出すいくつもの鏡のような自分を取り巻く物事を自分なりに説明することで、自分自身の事を少しでも理解出来たら良いなと思っている。この文章を書き終えたときに何が自分にとって重要か、この先に向かう方向が過去のベクトルの延長線上にある物だとしたらそれはなにかと言うことが少しでも分かれば、この有限の時間を使って書くことの成果として自分が受け入れられるのではないかと思っている。
元々は履歴書やポートフォリオをアップデートしたいなと思っていた。過去の仕事の内容を本としてまとめたいとも思っていた。それでも長いこと考えているうちに、それは具体的な物事についてまとめたいと言うよりも、その物事を生み出した現在に至るまでの自分について知りたいという欲求からくるアイデアの一つ一つに過ぎなかったのだと言うことが見えてきた。そうこうしているうちに時は淡々と過ぎて行き、焦りと共に自分に対する不甲斐なさがポツポツと湧き上がってきていた。
自分を取り巻く物はさまざまな次元で曖昧な定義のまま浮遊している様に時分には見えている。住んでいる場所、日々の仕事、好きな食べ物等々、具体的にすればするほど抽象的な括りで囲おうとする癖がある。具体性と抽象性の間で、自分が現在の見定めるまま記号を選びそれを自分なりの言葉で自分の好きなように書き連ねることで、その浮遊しているものに映しだされている自分の像のピントを少しずつシャープにできたらなとうっすらと思い描いている。
何から書き出すか、どのように構成されているかが重要なのでは無くて、書き続けていくうちに幾度となく訪れるであろう変化していく思考と文体によって、どこか小川の水流の様な、燃える焚き火の火の様な形があって無いような結末を得ることの方が大事だと思う。整理整頓された本棚の様な人物像は当たり前だが想像してない。矛盾に満ちた、混沌を紡いだような 完成品にはほど遠いものが出来る気がしている。
とりあえず、このまま進めてみる。
とても長い事文章を書きたい書きたいと心の片隅に思ってきた。べつに書くことが得意だとかすきだとかは思わないが、自分のこと頭の中にある物事を整理するのに自分にとって一番手っ取り早い方法な気がしているからだ。今の自分にはある程度時間の余裕がある。その時間を勿論だらだらと日々過ごす事も可能だし、趣味の時間に費やすことも可能だろう。しかしながら過去6年にわたってひとつのことを延々とこなして来た後に訪れたこの虚無感を少しでも拭いさるにはなにかを吐き出すことが良い事のような気がしたから。
なにをどの様に書くかはまだいまいち具体的になっていない。自分のことを映し出すいくつもの鏡のような自分を取り巻く物事を自分なりに説明することで、自分自身の事を少しでも理解出来たら良いなと思っている。この文章を書き終えたときに何が自分にとって重要か、この先に向かう方向が過去のベクトルの延長線上にある物だとしたらそれはなにかと言うことが少しでも分かれば、この有限の時間を使って書くことの成果として自分が受け入れられるのではないかと思っている。
元々は履歴書やポートフォリオをアップデートしたいなと思っていた。過去の仕事の内容を本としてまとめたいとも思っていた。それでも長いこと考えているうちに、それは具体的な物事についてまとめたいと言うよりも、その物事を生み出した現在に至るまでの自分について知りたいという欲求からくるアイデアの一つ一つに過ぎなかったのだと言うことが見えてきた。そうこうしているうちに時は淡々と過ぎて行き、焦りと共に自分に対する不甲斐なさがポツポツと湧き上がってきていた。
自分を取り巻く物はさまざまな次元で曖昧な定義のまま浮遊している様に時分には見えている。住んでいる場所、日々の仕事、好きな食べ物等々、具体的にすればするほど抽象的な括りで囲おうとする癖がある。具体性と抽象性の間で、自分が現在の見定めるまま記号を選びそれを自分なりの言葉で自分の好きなように書き連ねることで、その浮遊しているものに映しだされている自分の像のピントを少しずつシャープにできたらなとうっすらと思い描いている。
何から書き出すか、どのように構成されているかが重要なのでは無くて、書き続けていくうちに幾度となく訪れるであろう変化していく思考と文体によって、どこか小川の水流の様な、燃える焚き火の火の様な形があって無いような結末を得ることの方が大事だと思う。整理整頓された本棚の様な人物像は当たり前だが想像してない。矛盾に満ちた、混沌を紡いだような 完成品にはほど遠いものが出来る気がしている。
とりあえず、このまま進めてみる。
4.Dezember.2017
さること
先週から立て続けにいろんなことが起こっている。
と言っても、自分に関した物事が多い訳ではなく、友人知人の身辺の変化に関してのことの方が多い。
ある友人は、5年以上務めた事務所をさり、恋人のためにニュージーランドへと旅立つ。
とても才能のある友人で、事務所内でもその将来を期待されていただけに、ことのほか彼の決断は僕にとって嬉しい物だったと思う。彼が自分の、自分自身の幸せのために決断を下した事、周囲の評価よりも自分の信じる道を選んだ事、全てにおいて彼はやはり僕の期待を裏切らない。
来年1月には次の場所がきまる。願わくば希望通りであって欲しいと思うが、こればかりは運とその周辺に混在する幾多のおもいの帰結でしかないので仕方ない。
いつになったら一皮も二皮も向けることが出来るのか。
好きなことを大切な人とやり続ける事で一生を終えられることができたらそれは素晴らしいことだと思う。当たり前かもしれないけど、難しい。
と言っても、自分に関した物事が多い訳ではなく、友人知人の身辺の変化に関してのことの方が多い。
ある友人は、5年以上務めた事務所をさり、恋人のためにニュージーランドへと旅立つ。
とても才能のある友人で、事務所内でもその将来を期待されていただけに、ことのほか彼の決断は僕にとって嬉しい物だったと思う。彼が自分の、自分自身の幸せのために決断を下した事、周囲の評価よりも自分の信じる道を選んだ事、全てにおいて彼はやはり僕の期待を裏切らない。
来年1月には次の場所がきまる。願わくば希望通りであって欲しいと思うが、こればかりは運とその周辺に混在する幾多のおもいの帰結でしかないので仕方ない。
いつになったら一皮も二皮も向けることが出来るのか。
好きなことを大切な人とやり続ける事で一生を終えられることができたらそれは素晴らしいことだと思う。当たり前かもしれないけど、難しい。
5.September.2017
消えてゆく記憶
この2週間と少しの間、色々と自分の身体を介して見聞きしてきた。
正直、予想以上に自分の体を通して経験することの意味が再確認できたように思う。
瞑想だけでなく、ホーチミンという街の躍動感、人の活動、空気の汚さ等々。
帰り道の空の上、自分にとってこの感覚がなんなのか熟考する時間はまだある。
正直、予想以上に自分の体を通して経験することの意味が再確認できたように思う。
瞑想だけでなく、ホーチミンという街の躍動感、人の活動、空気の汚さ等々。
帰り道の空の上、自分にとってこの感覚がなんなのか熟考する時間はまだある。
4.September.2017
ホーチミンより
今ベトナムのホーチミンにいる。
今日10日間の瞑想のコースから帰ってきた。
とても、辛かったような辛くなかったような、とても長かったようなそうでもないような、何も変わってないようなもしかしたら変わったような、とても複雑な気分。
明らかに言えることは、一言では表せない複雑な思考の乱高下があって、自分は心にその大きな部分を占められているということ。10日間の間はあれだけ長い長いと思っていたのに、いまになってあまり思い出せないくらいなので、それほど辛かったのだろうと自分自身の気持ちを推し量る。
何かの答えを出しに行ったつもりで、それでもそんなものはないよと言われ、それでも食い下がりつつ自分の心の糧になるようなものを得られるように頑張り抜いたつもり。
心が洗われたなんて表現ではなく、玉ねぎのような幾重にも重なった自分の身を守るための(何から守っているかといえばそれは不明)心の皮が何枚か剥がされて心がいくらか研ぎ澄まされたような感じ。その分答えは出やすいが、それをひた隠そうとする自分の心の動きも見て取れて尚更辛い。
朝4時に起きて夜9時半就寝の生活。アルコールもタバコも携帯もネットも肉も魚も夕食もない生活。強制されていたと言いつつも、とても守られた環境だったのだろうなと出てきて思う。あそこにいれば突発的な心の動揺や痛みなどを回避できるから。それでも過去や未来の良いことや悪いことの妄想が巡り巡ることだけは避けられないけれど。
いますぐそこに帰りたいかといえば、全くもってそうではないけれど、またいつか、2−3年のうちに自分の心のマイルストーンの為にいきたいと思う。
Vipassana meditation
今日10日間の瞑想のコースから帰ってきた。
とても、辛かったような辛くなかったような、とても長かったようなそうでもないような、何も変わってないようなもしかしたら変わったような、とても複雑な気分。
明らかに言えることは、一言では表せない複雑な思考の乱高下があって、自分は心にその大きな部分を占められているということ。10日間の間はあれだけ長い長いと思っていたのに、いまになってあまり思い出せないくらいなので、それほど辛かったのだろうと自分自身の気持ちを推し量る。
何かの答えを出しに行ったつもりで、それでもそんなものはないよと言われ、それでも食い下がりつつ自分の心の糧になるようなものを得られるように頑張り抜いたつもり。
心が洗われたなんて表現ではなく、玉ねぎのような幾重にも重なった自分の身を守るための(何から守っているかといえばそれは不明)心の皮が何枚か剥がされて心がいくらか研ぎ澄まされたような感じ。その分答えは出やすいが、それをひた隠そうとする自分の心の動きも見て取れて尚更辛い。
朝4時に起きて夜9時半就寝の生活。アルコールもタバコも携帯もネットも肉も魚も夕食もない生活。強制されていたと言いつつも、とても守られた環境だったのだろうなと出てきて思う。あそこにいれば突発的な心の動揺や痛みなどを回避できるから。それでも過去や未来の良いことや悪いことの妄想が巡り巡ることだけは避けられないけれど。
いますぐそこに帰りたいかといえば、全くもってそうではないけれど、またいつか、2−3年のうちに自分の心のマイルストーンの為にいきたいと思う。
Vipassana meditation