2005年09月

2005年09月30日

パリ

オペラ座パリもオペラ座のあたりは、銀座通りとあまり変わらない。

オスマン通りをオペラ座へむかって歩いて行くと、左にプランタン、ギャラリー・ラファイエットとデパートが並び、まるで銀座のど真ん中にいる様な錯覚におそわれる。事実、歩いてる人の大半といったら大袈裟かもしれぬが、まあ日本人の観光客の多いのにはがっくりきてしまう.
私もそのパリーの美観を損ねる一員として、ある日の午後、男もの専門のデパート、ブルンメルを覗く事にした。

これからスイスですって、寒いわよ。そう、ブルンメルで冬物を買ってらっしゃい、私がお供するわ。
と、パリに住み着いているB夫人の通訳で買い物にでかけてきたのである。

子供のときから僕はデパートが大好きである。昔から新しくデパートがオープンすると、すっとんでって一通り点検したものだ。
最近はデパートも斜陽でその機会は少なくなったが。

まず、最低十か処は飲み食いする場所があるのがいい。
その時の気分に応じて、一人でしずかに書き物をしたい時は地下の片隅に落ち着く。
配偶者の買い物で待たされている時は、上の眺めのいい所。
女の子と一緒の時は、二階か三階のピンクの内装の,一寸メルヘンティックなサロン・ド・テといった具合である。

デパートの魅力は品揃えが豊富な事だ。
個々の品はそれぞれ小売店で売っている物ばかりで、別にデパートにしかないという訳ではないが、それが一つの屋根の下に集合して醸し出す雰囲気の魅力かもしれない。
丁度、オーケストラが、ヴァイオリン、フルート、ティンパニといった様々な楽器が競い会ってハーモニーを生み出す様に。
だから私は最近よくある、二棟に別れた奴は本当はあまり好きでない。売り場が判りづらいし、第一渡り廊下を行ったり来たりでは感興を削がれること夥しい。
オーケストラだって、管と弦が別々の建物で演奏したら、話にならんでしょう。

さてブルンメルに話をもどそう。

先ず,長袖のシャツとセーターを買った.
次はジャケットである.
アメリカやヨーロッパで服を買われた方はお分かりだろうが,日本人の体形にあった上着を探すのは容易でない.胴体に対してむこうの服は腕が長すぎるのだ.腕に合わせると当然ながら裾が短くなる.

これは我々が胴長の為ではない,連中の腕が長すぎるのだと私はB夫人にぼやいた.
ともかく腕捲くりすることにして,茶のスエードのジャケットを一つ買った.

最後はズボン下である.そのものずばりはないので,タイツで我慢する事にした.売り子の出して来たのはえらく長い奴で,これじゃ足の長さが倍もある.と言ってもらうと,売り子はなにやらペラペラと巻くしたてる.
足が太いから,穿けばその分短くなるんですって,とB夫人は面白がっている.

買い物は終わりにして,外へ出てカフェに入った.日差しは強いが,空気はサラッとしている.レモネードを飲みながら手足の長いのや短いのが行き交う様を私は暫く眺めていた.

幸いスイスは思ったほど寒くはなく、厚着の必要はなかった.
が,折角なのでホテルの自室でタイツを試してみる.太い毛すねをむりむり新品のタイツに押し込むと,癪だが足の先まで丁度ぴったし入ってくれた,ああ.

そして日本に戻った.
お土産と一緒に,ジャケット,セーター,シャツ総て子供たちにとられてしまった.が,タイツだけは希望者もないまま,長い事納戸の洗濯紐にスルメの様につるさがっていたが,やがて何処かにしまいこまれて,今日迄ずっと日の目をみていない.


2005年09月29日

ポリサージャリー

ミロのビーナスおなじみのミロのビーナスだが、この両腕がどんな形だったか考えたことはありますか?

じつはこれを一生の研究テーマにしたドイツ人の学者がいた。
フルトヴェングラーといって、あの有名な指揮者ではない、確か人類学者か美学者だったと思う。
片手を差し出したり、腕を組ませたり、お盆をささげ持つ形をとらせたり、どれもさまにならなかったという結果を一冊の論文に纏めている。

その理由付けは、ミロのビーナスはあまりにも腕のない現状に見慣れているため、我々の頭の中にはすでに、両手の備わった理想的なビーナス像がインプットされてしまっている
そのかたちは、見る人の頭の中しか存在しないが、あまりにも完璧なため。現実の姿で現れると、どれもそぐわない感じになるのではないかという。

じつは美容外科のトラブルの一つに、ポリサージャリーというのがある。客観的にはうまくいっても本人が満足せず、何度も手術を繰り返すケースである。
勿論その中には、醜形恐怖症とかパラノイアといった、元来精神病質の患者も含まれるが、

しかし、それだけだったろうか。
僕らは本当に彼女等の悩みに、耳を貸していたのだろうか、

自分でメスを持たなくなり、ある程度過去の手術や患者を客観的に反芻するようになると、もっと奥深い患者の悩みが聞こえてくるような気がする。
例えば、問題は目とか鼻ではなく、唯もっと美しくなりたい。或いはそういわれてみたい。それがかなわぬので、容貌の特定箇所をスケープゴートにして、文句を付けるとか、

叉は、この世にはありえない、頭の中だけの理想像が出来て、それを唯追い求めているとか。
ちょうどフルトヴェングラーがミロのビーナスの欠けた両腕について洞察しているように。

このような悩みに対して、メスはおろか、並みの医師がどう、対処できるのか、未だ僕は答えが出せないでいる。


2005年09月28日

なぜ今エステティックか?

これまで9回ほどエステティックについてブログを載せたが、なぜ僕がエステに関っているのか、時には、医者ともあろうものが、というニュアンスで問いただされるkとがあるので、ここでチョットそのきっかけに触れておく。

北里大学で形成外科を開設したのは30年ほど前だが、まず手がけたことの一つが、美容外科の併設である。
形成外科は火傷や傷跡など、いわゆる再建外科が中心だが、美容外科も大切で、再建と美容は車の両輪のようなものと主張し続けた。

だが美容外科に手を染めるようになって、ある時僕はふと気がついた。

我々は手術がすべてだが、患者はそうじゃないんじゃないだろうか。誰にしても決して手術はありがたくはない。しかし患者さんが我々のところに来るときは、考え抜いたあげく、自分をきれいにするにはこれしかないと、思いこんでくるわけだ。

しかし、と僕は思った。
その前にまだまだやれることがあるのではないか。たとえばお化粧
もし、メークでごまかせるものなら、それに越したことはない。
手術は危険を伴うし、元には戻せない。又、女性なら必ずお化粧はする。手術の切開線一つとっても、メークを前提としてデザインした方が、遙かに隠しやすいのではないだろうか。

また、おけ化粧以外にも、服飾髪型等手術前に総動員して、検討できることはいくらもあるのではなかろうか。
またその中には当然、心理カウンセラーも含まれる。
その上で、ここだけはどうしても手術でしか解決できません、と煮詰まったところで我々の出番になれば、どんなに無駄な危険を冒さずに、又こちらも安心して手術に踏み切れるのではないだろうか。

こうして、カネボウポーラなど化粧品会社の協力で、エステティッシャンを派遣していただくこととなった。そのころカネボウの研究所には、吉田さんという研究熱心な所長さんがおられた。面白いですね、ということで、外来の一室がサロンではないが、こぎれいな施術室に変貌した。

こうしてリハビリメークという、新しい試みが始まった。
まず、美容外科希望の方に、どこまでメークで改善できるか、専門のメークアップアーティストやエステティッシャンが、丁寧に指導する。その上で、やはり手術になれば、今度は医師と共同で、コンピューターで、シミュレーションを行う。そして、ゴールに関して患者との間で納得がいったところで、手術に踏み切る。

手術後も、又彼女等が、スキンケアをかねたメークの指導を行う。
このエステとの共同作業は二つの副産物をもたらした。

まず、術後のスキンケア特にマッサージは、傷跡の治りによいことがわかった。傷跡はしばしば赤く盛り上がるものだが、これがマッサージで早く平らに柔らかになる。又、皮膚移植の跡も早くなじんでくれる。

又フェーシャルを受けることが、カウンセリングの効果があることもわかった。我々は手術が中心で、どうしても十分に患者との話に時間が割けない。診察室では緊張して、患者も聞きたいことが聞けない。
それが、エステの施術室でエステティッシャンに三十分ほど、ゆっくり顔などマッサージしてもらっているうちに、身も心もリラックスして、気楽に悩みをうち明け、施術者の優しい対応で、心が満たされていく場合がしばしばあった。

エステが効果を追及すればそれだけ医療の分野に踏み込むことになり、また、医療もアンチエイジング、代替医療といっ他新しい分野を開拓するにつれ、エステによるリラクゼーションは重要な武器になる。

これから医師とエステの接点は、広がる一方であり、両者の協力体制がもっともっと、推進されれば患者さんやエステの顧客に大して、よりクオリティの高いサービスが提供できると信じているからである。



2005年09月27日

若さの美・本音と建前

それにしても、人は何故、メスに頼ってまで、痛みをこらえ、若さを求めるのだろうか、

そのままで十分魅力的な女性の顔に若返りを目的にメスを入れ、顔の皮を剥がし、顔面神経に気を遣い、術後の出血が気になって気になって、止血に神経を使い果たした時、僕はしばしば自問したものである。

ある女性患者が答えてくれた。
女がね、先生。こんな決意をするのは、男を引き留めようとしているときか、必死に追いかけているときなのよ。とさらりといわれ、ずしりときたことがある。

そんな思い詰めた様子とも思えない、あっけらかんとした患者も増えてきた。一部の心無い医師の宣伝に惑わされてか、化粧感覚で手術を受に来る患者には、こちらが戸惑ってしまう。

最近では男の皺伸ばしも珍しくなくなってきた。ことにアメリカでは、転職に有利というのが錦の御旗の様である。日本では、小泉再選までは爺むさいほうが政界でも、実業界でも幅を利かしてきたようだが。

それでもわが国ではまだまだ美容外科に対する風当たりは強い。

しかし、形の美にこだわるのはいけないことだろうか、そして若さに美を感じることは。
ここで一つ開き直って、形より心という道学者への反論を試みたい

ピエタここに誰でもが慣れ親しんできた彫刻がある。
ミケランジェロのピエタだ。
よく見るとおかしなこと気づかないだろうか。

これほど写実的なのに、キリストは30才で布教を始め、三年後に張り付けにあったとされている。すると33才だ。マリアはその母なら、当然50才は過ぎているはずだ。しかし、このマリアは、キリストより遥かに若い、20才の乙女である。

何を無粋な、これは造形の要請じゃ。と言われるかも知れない。そこが問題なのです。ここバチカンはカトリックの本山、心の世界の指導者である。そこでも、女性の美を表すのに、若さに頼らざるを得なかったという事実を、どう受け止めるのか。

この辺で我々は、若さに美を感じる気持ちを素直に認め、形より心という建前のくびきからも解き放たれてもよいのではないだろうか。


2005年09月26日

奥の細道

帰国してもう一週間がたった。

時差ぼけもほぼ治り、帰国後すぐやられてしまったのどの痛みも治まってきた。
そうすると現金なもので、もう次の海外出張のことを考え始め、成田が恋しくなる。

“いづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず”など、芭蕉を気取るわけではないが、成田に着地した瞬間から、またすぐ離陸したくなるのは何時ものことである。

初日にオーバー・ブッキングで宿に振られたことも、無理して日にちをあわせて飛んでった編集会議が二日後に延期になって、けっきょくは出席できなかったことも、インターネットのつながりが悪く往生したことも、都合悪いことはすべて忘却のかなたに消え去り、今は唯、シュツッツガルトの旧市街で食べたソーセージの美味しかったことや、最後にヒースロー空港のオイスターハウスでキリッとしたシャブリと一緒に流し込んだ生牡蠣や、薄いトーストに載せた北海サーモンのタルタルのとろける様な味わいだけが、彷彿と沸き起こってくる。

学会で友人たちと旧交を温めたことも、ラグデール・ホールでスパを体験したことも、楽しい思い出ではあるが、まず、食い物のほうに想念が行くのは、飢餓線上を彷徨した過酷な幼児体験を持つ昭和一桁でないと分かるまい。

さて今日は、エステ工業会の滝川理事長に昼をご馳走になった。
唯の昼食ではない、元来は月曜が休業日のはずのお気に入りのお寿司屋さんを叩き起こしての、おもてなしである。

いや旨かった
食べるのに夢中で、言いたいことの半分も言えなかったような気がしないでもないが、トロ雲丹と丸茹でのと、その他モロモロでそんなことはどうでもよくなってしまった。

滝川会長は見事な江戸っ子である。
こちらが何も言わずとも、エステティックを正道に乗せてくださる事は間違いない。


2005年09月25日

バーデン・バーデン

“クアハウスを成功させるには、三つの付帯条件が必要です。”
バーデン・バーデンの女市長の説明は明快だった。

“まず、カジノ、そして競馬場。また、劇場も忘れてはいけません。”
数年前、日本にもスパ,ドイツで言うクアハウスがあってもいいのでは、とヨーロッパの施設を見学した際のことである。

ブレンナーズパルクホテルまずは元祖クアハウスのバーデン・バーデンからと、シュツッツガルトからレンタカーでブラックフォレストに入り、バーデン・バーデンの数あるホテルでも最も由緒あるブレンナーズ パルクホテルに宿を取った。
さして大きくないホテルだが、ベル・ボーイからフロントにいたるまで、サービスは行き届いている。

チェックインを済ますとコンシェルジェから、せっかく日本からおいでになったのなら、市長がお会いしたとおっしゃってますが。とのメッセージである。
それはありがたい、では明日の朝でも。
ということでホテルのBMW7シリーズのリムジーンで市庁舎を訪れたのである。

レンガ造りの重厚な建物の二階に市長室はあった。窓に絡まった蔦の緑がみずみずしい。
勧められたコーヒーを飲みながら、渋い赤いスーツを優雅に着こなした市長から、この街の由来を伺った。

バーデン・バーデンがスパとして脚光を浴びたのは16世紀からだが、実際はローマ時代から保養地として栄えていた。
19世紀の半ば、クアハウスが整って各国の元首やVIPで賑あうようになり、ブラームスが長逗留したり、ドストエフスキーがカジノですってんてんになって追い出されたり、と話題には事欠かなかったようである。

いずれにしても数週間という長逗留を前提にしており、現在のドイツでは年に2週間までは保険がカバーするという。

街には昔からあるフリードリッヒスバードと新しくできたカラカラ テルメと二つの浴場がある。
カラカラのほうは今日本でもよく見かける、温水プールを中心にフィットネスやサウナを備えた施設だが、フリードリッヒのほうは伝統的な温水療法で、幾つかの部屋を通り抜け、各部屋で比較的低温の温水浴を受けながら、最後に大浴場で休む仕組みになっている。

ところで、と市長がまた話し始めた。
“フリードリッヒのほうは曜日によって混浴の時間を決めているのをご存知ですか?”
“いえ?”
“じつは私の発案なんですよ。”

この街が老人の町というイメージになってしまったので、若い人を誘致して活性化を図るため始めたら、大当たりで混浴の時間には行列が出来るほどですよ。
と面白そうに話す。

“では貴女ご自身も?”
“ええ、勿論。”とこれまた明快である。しかも
“じつは明日がそうですがご一緒しましょうか?”。
と真顔でお誘いを受けた。

明日はホテルの中の、今で言うアンチエイジング・クリニックの担当医と面談することになっていた。
大変残念ですが、とお断りはしたものの、すでに僕の鋭敏な妄想力はまだ若い女市長の赤いスーツから脱がせはじめ、さらにその下に隠されているはずの、ドイツ語で言えばナツールシェーンハイト(自然の美−つまりヌード))をこの目で確認すべきかどうか、迷い始めたのも事実である。


2005年09月24日

再びベンツ

なに、また年甲斐もなく。
という配偶者の無言の侮蔑を背中に感じながら、僕はヤナセに入荷したばかりの、二人乗りスポーツカー、SLK280のハンドルを手にした。

ベンツブラックの試乗車はまだオドメーターも二桁のまっさらの新車である。
スリーポインテッドスターを真ん中に据えた精悍なマスクは、造りから走りまでまったく生まれ変わった、第二世代のSLKにふさわしい。

これはもう幼児体験のなせるわざと言うしかない。
50年前登場した300SLはその馬力と性能と、そして独特のガルウィングと呼ばれる上に開くドアで、世界中のオートファンに衝撃を与えた。
日本には何台も輸入されなかったろう。今のフェラーリなど比べ物にならぬくらいの高嶺の花だった。

その後、レース場での悲劇的な大事故をきっかけに、ベンツはオートレースから撤退し、近年まで安全を旨としたスポーツカー造りに励んできた。
勿論ベンツの造るものである。安全第一といっても、それなりに性能はずぐれ、魅力的であった、がしかし・・・

そこへ装いも一新した二代目SLK350が登場し、小型とはいえ300SLへのノスタルジアを掻き立てるいでたちで、またたくまに人気車種となったのである。

納車待ちのお客さんが一杯で、となかなかデモカーまで用意できなかったのが、やっと一台今年から輸入開始したSLK280が準備できました、というわけで今日一日の試乗にこぎつけたのである。

ちょうど運良く祭日なので、長女が孫二人移れて遊びに来るという。
上の8歳の男の子は大の車好きである。最近の動向については僕よりはるかに詳しい。
排気量はいくつ、ダブルギゾーストかなどとさっと点検し、バリオルーフというハードトップの自動開閉には痛く満足したようだった、個人的には僕はやはりオープンカーは幌のほうが好きだが。

長女の車に下の孫娘と配偶者を乗せ、我々男二人はオープンエアドライブを楽しみながら、みなとみらいで昼のビュッフェを堪能して帰ってきた。

そうなると孫娘がおさまらない、私も、と頑張る。問題はチャイルドシートである。
やむを得ず、おまわりのいそうなところは避けて、家の近所のショートドライブで彼女には納得してもらった。

そこで総合評価は?

この小型スポーツなかなかなものである。
ことに二人暮しには十分だ。
僕は飛ばし屋ではないので、エンジンは280で十分。
今まで55年間、無事故無違反。もっとも、白バイのメーターが狂ってたり、緊急往診の妨害をされて文句をつけたことはあったが。

ただ4輪駆動でないので冬の雪道をどうかということと、トランクスペースがあまりにも狭いことである。

二台持てるような身分ならともかく、今の4駆のワゴンは十分気に入っているし、便利さから言えば、残念ながら当分は今のままのほう我が家向きといえるであろう。


2005年09月23日

どんぐり異聞:創傷治癒センター誕生記

ドングリこの奇妙な木彫りはドングリである。

径三センチ長さ十センチほどの樫の実が、5センチほどの台座に支えられている。その台座には何か英語が刻まれている。よく見ると、

From little acorns mighty oak trees grow

と書かれている。これはイギリスの格言だそうだ。

この由来を語ることがわが創傷治癒センターの歩みを語ることになるが、まず話を1992年の英国に戻したい。

処はハロゲート。ヨークシャーの中心にある森に囲まれた、人口七万ほどの静かな田舎町である。
我々はここで、スミス&ネフュー社の招きで、第二回Wound Management Symposium に参加していた。我々というのは、当時での北大の大浦教授、慶応の相川教授、女子医大の野崎教授、川崎医大の森口教授、北里大学の黒柳助教授を加えての六人である。

三日間の学会を終えて後、我々はヨークに移動し、スミス&ネフューの研究所を見学する事となる。

スミス&ネフューは御承知オプサイト、コンバテック社デュオダームとともに、当時、湿潤療法の先陣を切っていた。

他の五人の方はいざ知らず、それまで僕は実のところ、湿潤療法に疑いを持っていた。
端的に言えば、キズはかさぶたを作って直すのは間違いで、傷口から染み出るいわゆる浸出液を温存し、湿潤環境で治すべきだ、という学説である。
何か臭い物に蓋で、感染を誘発するのではないかというおそれを抱いていたのは僕だけではない。
これはその頃の、古典的な外科医の共通な認識でもあった。俗に、人間は慣習の奴隷というではないか。

しかし、丸一日使っての、研究所スタッフ総出のレクチャーにより、ジョージ・ウィンターのモイスト・ウーンドヒーリングのコンセプトは僕の全身に染み渡り、古典的医療から解放してくれたのである。

理論はよくわかった、それで実際は、と問いかけると、学術部長のクリス・ロバーツ博士は、カーディフを見学なさい、ご案内しましょうという。

当時カーディフの大学には、キース・ハーディングという若い内科医が、創傷治癒センターの旗印を掲げ、モイスト・ウーンドヒーリングを軸に、創傷治癒と取り組んでいた。
対象はケロイド、褥創、下腿潰瘍と多岐にわたり、信じられないくらい大勢の患者を、スー・ベイルという看護婦と二人でこなしている。
しかも、その合間にラボでも基礎研究を精力的に行っている。これからの創傷治癒の発展は、ひとえに細胞生物学にもとずく、バイオの世界だからである。

実は、とキースは話してくれた。
二年前、このセンターの開設に当たっては、スミス&ネフューが全面的にバックアップしてくれたという。まず、半年をかけて世界中の主な創傷治癒センターを見学し、構想を固め、オストミー(人工肛門)を専門にしていたスー・ベイルを引き抜き、ウーンド・ケア ナースに仕立て、スタートしたところだという。

これはうらやましい、産学協同はこうじゃなきゃならん、日本にもあってしかるべき、と僕はクリスをけしかけた。

よーがす、と彼は言った。いや、よーがす、という日本語を言うはずはないが、クリスやキースがウェールズ訛りで話すとそう聞こえたから面白い。

帰国して早速僕は、大学当局と交渉を始めた。病院長は救命救急の大和田教授で、わかりはいい。幸い、医学部長は僕の同級の、佐藤教授だったので、話は早い。
運営はすべて企業の基金でまかない、場所は小部屋を一つ、工面してもらうこととなった。その基金で、分子生物にたけた優秀な研究員を一人、リクルートすることもできた。

僕はクリスに書いた。こう言うわけでスタート出来そうです、本当にささやかな規模ですが。ついては、オープニングにお招きしたい。

ささやかなセンターで、ビールとするめのささやかなお披露目に、クリスはヨークから駆けつけてくれた。
お祝いに手渡されたのが、この木彫りのドングリである。奥さんのヘザーの手作りだそうな。
そこに彫られた格言、

大きな樫の木も、小さなドングリから。」

は、ささやかな創傷治癒センターの門出に真にふさわしい、餞の言葉であった。

あれから10年。
やっとわが国にもドングリが、いや湿潤療法が根付き始めた。


2005年09月22日

マンハッタンの定宿

戸口に山高帽を被ったドアマンが居なければ,これがホテルだとは誰も気がつかないだろう.

五番街とアメリカ街の間,44丁目でビルの谷間に窮屈をそうに立っている古ぼけた石造りの二十階建ての館は,よく見るとなるほど玄関の庇にホテル・アルゴンキンと印されている.
アルゴンキンとゴンにアクセントをつけてタクシーの運ちゃんに言わないと通じませんよ,とここを定宿にしている演出家の従兄弟に言われたのをおもいだす.

世界の都ニューヨークだ.ホテルはそれこそ星の数程あろう. まずウォールドルフ・アストリヤ.それよりシックなセント・レジス.その他,ケネディ一族のたまり場のカーライルなど,あまり我が国ではしられていない高級ホテルがセントラル・パークを取り囲むように林立している. その中でこのアルゴンキンは所謂高級ホテルではないが,いささかユニークなホテルとして知られている.

1902年の創業以来,雑誌ニューヨーカーの編集者の溜まりとして,又著名な作家や劇作家達の常宿として,洒落ていて暖かみのある,ホテルというよりは日本語の旗籠屋に近いイメージのものとして人気を保ってきた.

20年ほど前、娘とニューヨークを訪れた際、前からの従兄弟の薦めもあり、遅ればせながらそのアルゴンキンに始めて宿を取ったのである。

ごつい木の扉を押し開けて中に入ると、あたりはほの暗く,使い込まれた時代物の家具がしっとり落ち着いた感じを出して,ホテルのロビーというよりは,古い館の居間を感じさせる.右手の奥の小さなカウンターがフロントで,そこでチェックインして昔風のごつい部屋の鍵を受け取った.

エレベーターも時代物で,ボーイが丸い手回しのハンドルをぐるりとまわすとギー,ガタンと動きだす.
部屋もなかなかいい感じだ.骨董品のような家具やスタンド.三つの中一つはつかない電球.暑くもないのにかかりっぱなしのクーラー. だが不思議と安らぐ感じはなんと表現したらいいか.

まあ素敵!丁度お祖母ちゃまのお持てなしって感じ.それもイギリスの田舎家でってとこかな.
娘の言葉がピッタリだった.

このホテルの今一つの魅力はブロードウェイのすぐ傍にあることだ.
隣がタイムス・スクェアでその先はもう劇場街.
キャッツ,コーラスライン,スターライトエクスプレス.ともかく40軒を越す芝居小屋がタイムス・スクェアの回りに犇めいているが,皆歩いて行ける距離だ.
お目当ては当時大人気のオペラ座の怪人だったが,勿論半年先まで売り切れ,当日売りなどとんでもありません.とフロントで言われ,
じゃ,娘よ.42 ストリートにするか?
オッケー,
という訳でゆっくり昼寝をとってから,夜のブロードウェイに繰り出した.

日本でも再三公演があったから,筋は皆さん御承知でしょう.
田舎からスターを夢見てブロードウェイに出で来た女の子が,努力とツキでやっとトップの座を射止めると言う,まことにアメリカ人好みのサクセス・ストーリーだ.
主役は勿論上手だが,その他大勢の粒揃いの事.
全員のタップで始まる幕開けの稽古場のシーンから,唯もうそのド迫力に圧倒されっぱなしだった.
うーん,これじゃ一寸まだ日本では無理ね.と言うのが最近ダンスに凝っている娘の感想だった.

翌朝の朝飯はロビーの奥の明るいダイニング・ルームである.白い壁にロココ調の赤い椅子が可愛らしい.

中央のテーブルには出勤前のビジネスマンが二三人.年寄り夫婦が一組壁際の席に.そして部屋の片隅でキャリアウーマンらしきブルネットの美人が,カフェオレクロワッサンを前にして書き物をしている.
自分でもカフェ・オレクロワッサンを頼みながら娘が言った.
“若い女が一人で朝飯を食べていて,サマになるホテルは珍しいわね.”

“じゃこれから我々もここを定宿にするか”、僕もクロワッサンを齧りながら娘に言ったものである。


2005年09月21日

蜂蜜療法

今朝からのどがチョット痛い。

昨日ロンドンから帰宅し、ついクーラーの下でうたた寝したのがたたったようた。

風邪ではないと思うが、明日からの予定が詰まっているので、念のため朝から蜂蜜をなめている。
医者なら誰でも本音として知ってるが、風邪を治す薬はない。唯咳、だるさ、頭痛等の症状を軽減するだけである。

僕は医者にもかかわらず、くすりは大嫌いなほうである。
絶対必要なら多少の副作用も覚悟で飲むが、それ以外はくすりのお世話にはならないし、患者に聞かれても、毒でないくすりはありません、とそっけない対応をするのも、根が外科医だからだろう。

唯、数年前、のどの痛みが取れなくて困っていたとき、たまたまドイツのブラックフォレストで買ってきた蜂蜜をなめたら、うそのように楽になった経験があるので、以来のどの痛みには蜂蜜をなめることにしている。
唯、どう違うのか、ブラックフォレストの蜂蜜ほどは効果がない。

最近、蜂蜜療法といって、傷に蜂蜜を塗るのがオーストラリアではやっているが、まだ正式に学会の討議の場には乗って来ない。

イメージ的には自然の産物であり、何か効いてもよさそうな気がするので、ウェールズ大学で誰かが研究していると聞いて、そこの創傷治癒センターハーディング教授に国際電話で聞いたところ、効く場合もあるし、効かない場合もある、と歌舞伎町あたりの占い師みたいな答えが返ってきた。

ま、医者のいうことなんてその程度のものさ。

学生時代、内科の教授が湿布について、こう厳かにいったのを思い出す。
まず、どちらかを試してみなさい。暖めて駄目なら冷やしなさい。冷やして駄目なら、暖めるのです。
そんなことなら素人だって言える、そのとき僕は思った。

これが僕が不得要領な内科に見切りをつけて、小泉流に単純明快な外科医の道を選んだ諸般の事情の一つである。


Comments
  • ライブドアブログ