閉塞した現代を切り裂く刃、エロス。
ここでいうエロスとは恍惚とその世界に浸る態度であり、このブログはエロス的視点で我々を窮屈に縛り付ける価値観を再構築する試みである。

■第1章では、この世界を認知する、生きる手法としての【エロス】について考えてきた。

この第2章では、その【エロス】の見方によって、この世の中を具体的に見、再定義していこうと思う。 

人は、生まれてから、1)五感をもって世界を認知し、2)他者との関わりの中で、コトバを知り、思考を手に入れ、3)社会の中で、「私」を完成させる。

エロスの見方によれば、この世界は「私」という認知が生み出した幻である。この世界が、「私」という「観るモノ」によって構築されているものならば、そこをたどることで何がが見えてくるだろう。

その中で、この世界に絶対的なものがあるのか、その哲学的な命題についてにじり寄ることが出来るかもしれない。

まずは 1)、2)の認知の世界に立ち向かう前に、3)社会=「他者と私の関係」について考えていこう。
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■社会とは人の集まりである。

家庭、子供の遊び仲間、学校、会社、自治体、国家、すべて社会である。

人間は社会に関わらないで生きていくことは可能かもしれないが、育つことはできない。

フリードリヒ2世は、神聖ローマ帝国の皇帝(在位:1220年 - 1250年)。彼は、学術的な好奇心から人体実験を行った。その一例として、教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るため、乳母と看護師に授乳している赤子に向かって何も話さないように命じた実験がある。しかし、育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死に、フリードリヒの苦労は無駄になった。
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■人間の赤ん坊が育っていく上で、愛情が不可欠なのである。人間の作り出す社会というものが、少なくとも親子関係、家族という意味においては、愛によって築かれているものであるということだ。

その愛に満たされた最小単位の社会の中で人間は育っていく。それ無しに人間として育つことはできない。

■ネグレクトが子供をどのようにしてしまうのか。

ルーマニア チャウシェスクの独裁政権時代。人工中絶禁止と人口増加政策により、政権が崩壊した時には10万人以上の孤児が大型施設の劣悪な環境に押し込まれていた。

その後の子供たちの発達過程に関する研究がある。(メリーランド大学ネイサン・フォックス教授 研究報告「チャウシェスクの子どもたち」/子ども虐待防止世界大会2014)

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子どもたちを里親に預けるグループと施設に残るグループにランダムにわけ、さらにブカレストで生活する施設養育の経験のない子どもたちが3つ目のグループとして選ばれた。子どもたちについては42カ月、54ヶ月、8歳、12歳の時点で脳や言語の発達やIQ、心理状態などを調査・比較した。

ネイサン教授によると、脳の発達は乳幼児期に集中していて、保護者との密接な関係の中で刺激を受けることが重要だという。施設で生活していた子どもたちは、地域の家庭で暮らしていた子どもたちに比べてIQや言語、脳の発達に大幅な遅れが見られた。

24カ月より前に施設から出た子どもたちにはIQや言語の表出、内在化障害(うつ、ひきこもり、強迫症状など)、アタッチメント(愛着)の安定に大幅な改善が見られた。24カ月以降に施設を出た子どもたちにも精神面や社会的機能力の改善は見られたが、愛着や脳活動(EEG)については、24カ月以前に施設を出た子どもほど改善しなかった。

一方で、脳の一部分や多動性障害(ADHD)など、何歳で施設を出ても改善の効果が見られない分野もあった。

結論として、ネイサン教授は「施設養育はネグレクトの一種であり、この状態から脱却させるのは早ければ早いほど脳と行動の発達に良い」と説明した上で、「子どもはなるべく幼いうちにより家庭的な環境で育てるべきである」と話した。
(日本財団ブログより) 


生まれてくる子供にとっての初めての他者である母親、父親が、その発達においていかに大きな意味をもっているかが分かると思う。

■うちの子供が、初めて「パ・パ・」というコトバを発したのは1歳を過ぎた頃だったろうか。

その時、彼女の中で「パパ」という概念がどこまで構築されていたかは分からない。自己と他者を明確に分かち、私でないものとして父親を呼んだとは思えない。だが、にこにこ微笑みながら「パ・パ・」という娘にほとばしるような愛情を感じ、抱きしめたくなる感情がそこにはある。
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これは動物としての人間の摂理である。

そして間違うことなくそれは愛である。

つまり、愛とは動物としての人間の本能的な機能であり、はじめての養育者によって与えられるべく生物学的に定められたものなのである。

それが初めての他者の役割りなのであり、これから社会のなかで育っていくための礎を作りあげる必須要因なのだ。

■愛と生物学を並べると拒絶反応をしめす人がいるのを知っている。

ならば問いたい。愛とは何か。

生物的な、本能的なものから離れた崇高な何かなのか?

私には分からない。

ただ目の前にある愛をこねこりまわすのは10代の青春の思い出であって、そこで出た結論は、口に出せば出すほど本当に感じていることから遠ざかるばかり、という苦々しさなのである。

それ以来、本質とはコトバにするものではなく、感じるものだというのが私の持論であり、今のエロス論にいたる道筋なのだと思う。

これから論を進めるためにはコトバに依っていくしかないだろう。だが、決して自らの感覚から離れないように気を付けていきたい。

 

■さて、【社会】について、その始まりである親子関係における愛について考えた。

 このあと、国家に至るまでどう論を進めるか、、、、少し考え中なのである。。。

                             <2015.08.23 記> 

■エロスは、人を内にこもらせるのではなく、むしろ成長した人間として社会に向かわせる触媒になる可能性を持った体験であると論じた。

「ダナエ」を眺めること、美しい夕焼けを見ること、その没入において「私」が消えていく感じ、なまなましい「そのもの」を体験することが、「私」に捉われていた自分を解放する糸口になる。

それが、ここまでの論である。

では、エロスによって突き崩そうとしている「私」とは一体何なのか?

そこについて考えていこうと思う。

■Dr.弁   「これはお前の手か?」  と、しんいちの手を突く
 しんいち 「はい」
 Dr.弁   「これはお前のおしりか?」  と、Dr.弁 医師団が尻をまくる
 しんいち 「いいえ、違います」 
 Dr.弁   「区別がつくことが分かったところで改めて聞こう」(場内爆笑)
        「これは誰の目だ?」
 しんいち  「・・・・分かりません。」
ジャガーの眼

人工臓器の塊、人間植民地と異名をとるDr.弁に角膜を移植されたサラリーマンのしんいちは、次第にその目に違和感を覚え、赤い夕陽を見て吠える、ジャガーの魂を宿したドナーの心に浸食され始める。恋人であった死んだドナーの体の一部を求めた女探偵くるみは、次第に、しんいち自体にこころを惹かれるようになっていく。。。。

唐十郎 率いる赤テント・状況劇場の『ジャガーの眼』(1989年公演)。

当時、広がり始めた臓器移植をテーマに、「私」とは何によって定義されるものなのか、を問うたアングラ芝居である。

しんいちは、自分の生活も恋人も失い、崩壊。その泥沼の中から、ジャガーの眼を宿した新しい、しんいちとして立ち上がり、くるみと共に、赤テントの舞台の向こうに開けた新宿花園神社の暗闇へと旅立っていく。

角膜ひとつで「私」は突き崩されるものであり、それは他者(くるみ)との関係性のなかで再構成される。「私」の成り立ちの本質をついた作品だと私は思う。

■「私」とは何なのか。

両腕を失っても「私」?両足や、胴体も失っても「私」?脳みそがあれば「私」?脳みそすらなくなっても、機械の中に記憶がインストールされれば、そこに「私」はいるの?

消去法で考えてみても明確な境界線は見えてこない。

そこで、「私」と極めて近い概念である「意識」について、いくつかの本を参考にして考えてみよう。

■まず、ポルトガルの脳神経科学者アントニオ・R・ダマシオによる「無意識の脳 自己意識の脳」
 
ここで展開される「意識」の発展の過程が実にしっくり来て、私の基本的な「意識」像は、このダマシオの本で構築されたといっていい。

意識とは、脳のなかだけで生まれるものではなく、身体感覚の「場」として現れる、とダマシオは考える。

目、鼻、口、耳、皮膚、体内。何かを認識するとき、同時に各感覚器官で感じるものがある。その全体像の「場」ともいえるものが、意識の原型なのだ。

その「場」が積層されて、意識というものが形作られる。過去を思い出すとき、その過去の「場」が呼び起され、また未来を想像するとき、過去の身体感覚の「場」から未来が作り出されるのである。

この論だけで、意識が説明できるわけではないが、意識が脳内だけのものではなく、身体感覚そのものが意識なのだという、この考え方に激しく共鳴したのだ。


■次は、カルフォルニア工科大学在籍の認知心理学者、下條 信輔による、「「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 」

下条さんの論は、ダマシオの身体感覚像の上に構築される。だが身体感覚だけでは「感覚」を記述することはできても「意識」の立ち上がりを説明することはできない。

そのヒントとして、下条さんは「他者」をおく。転んだ幼児が「痛い」を感じても、「痛い」というコトバを想起することはない。「あらら、痛いね、痛いね」と母親という「他者」に声をかけられることではじめて、その「感じ」(身体感覚)を「痛い」につなげることができる。そこに「コトバ」の誕生がある。

コトバによって、意識は外界を「認知」し、コトバ同士のつながりによって論理を構築し、価値感を生み出す。

それは、個としての「私」だけで作り上げられるものではなく、「他者」が介在してはじめて生み出されるものなのだ。


■最後に、東京大学の神経学者、 池谷 裕二による「進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線」
 
池谷さんは、ダマシオと下条さんの論を別の言葉で語る。

ダマシオが身体感覚と呼んだものを「クオリア」と結びつける。「赤」を見たときに身体の中に湧き上がるもの、イメージするものの総体がクオリアだ。

だが、クオリアだけで意識がもたらされることはなく、やはり、そこには「コトバ」が必要だ。「赤」というコトバを獲得して初めて、抽象的概念としての「赤」が生じるのだ。

「赤」の感覚を「赤」という抽象概念につなげることが出来たとき、人間は意識を獲得するのである。

■これらの論を総合して立ち上がってくる「意識」の姿。

身体感覚、身体感覚によって構築されたクオリア、言語、他者

そこで形作られる私。

その本体はどこにもなく、あるのは、その根本である身体感覚とそこから湧き上がるイメージ(クオリア)のみである。

「私」をデカルト的に「思う」存在とするならば、「私」というものは実体としては存在しない。関係性の中で、ふわふわとつねに変化し、ゆらぎながら浮かんでいるもの。

「私」と思っているものは、連続性として認知するがゆえに、「私」である。逆に言えば、認知によって生み出された幻。

あるのは、身体感覚=クオリアのみ。

エロスとは、その身体感覚=クオリアの波を直(じか)に感じることである。その感覚を直に味わうことで、「私」をスキップし、忘却する試みなのである。

■繰り返す。

「私」とは、実体の無い幻影である。

推測でいうならば、進化の過程で集団内のコミュニケーション能力を増大させる一つの戦略として、「私」という「意識」が生み出された。

個々の個体が感じることを「コトバ」として集団間で共有し、さらには「何故?」という概念を獲得することで、「コトバ」の連なりとしての「論理」が生まれる。

「論理」は、集団の中での議論により、多様な経験で補強され、より強靭なものとなり、次第にあらたな概念を構築し始める。

今まで毎日何千年と繰り返してきた行動から一歩踏み出す力。狩猟から飼育へ、採集から栽培へ。

「コトバ」はこのとき、単なる知識の伝達の道具であることから脱却し、現代の文明につながる発展、発達を推し進める刃となった。

社会的動物としての進化像にとって、「コトバ」は決して外すことのできない根本要因であるが、同時にそれは、我々の社会が「私」という意識の集団であることと不可分である。ということをも意味する。

「私」は、キリンの長い首、ゾウの長い鼻と同じ、進化の「結果」に過ぎない。それは異様に発達した大脳辺縁系で生み出される「像」なのだ。

その「像」は、身体感覚の積層(感覚、感じ)を映し出す鏡であり、その映像こそが「私」と呼ばれる意識なのだ。

■「私」は、人類の社会が進化するための道具である。論理的思考と世代を超えた高度なコミュニケーションを獲得し、その結果、人類は他の種を圧倒し、繁栄を極めている。

だが、(アダムが禁断の果実を手にした)その副作用として個々の個体には、不幸が寄り添うようになった。

アダム

「死」というコトバを知ってしまったがゆえに「死」に怯え、「幸せ」というコトバを知ってしまったがゆえにそれを得られない不満に苦しみ、何よりも、コトバで定義できず何者か良くわからない制御できない「私」自身を持て余す。

だから「私」を「父親」だとか、「係長」だとか、の社会的枠組みの中で役割り、意味の仮面をかぶりやり過ごす。けれども、その傍らには常に不安という大きな穴が黒々と口を開けているのだ。

それもこれも、すべて幻である「私」が生み出したもの。

「私」が幻であることに気付き、それが消え去れば、それらの不安はすべて消えてしまう。すなわち「空」。

般若心経

お釈迦様は、生きる苦しみから脱却する手法として、「空」を知る、般若の知恵を授けてくれた。

すべての苦の根源である「私」の本質をズバリと見抜き、「私」を捨てよ、とおっしゃる。

だが、どうすればそこにたどり着けるのか。そもそも、「私」が「私」から抜け出すことなど可能なのか。

「私」が幻だとして、たまねぎの皮をむくように、どこまでも、「私」をむいていった先には何もないのか?では、玉ねぎの皮をむいている私は誰なのか?

■そこに、この問題の本質があるように思える。

「私」は何かと問う「私」。

「私」は何か?と問うのは「私」である。繰り返すが、「私」が問うているのである。

この「私」は何か?という問い、そのものが「私」の生み出した迷いなのではないか。

「私」を捨てる、というその「私」に、「私」は何か?を探求するこころの動きも含まれるのではないか。

「私」は何か?を追及したところで、「私」が見ている、考えている限り、「私」から抜け出すことは不可能。

そうではなくて、「私」が、水面に映った影のようなもの、実体のないものだと実感すること。

そんなの悲しくね?なんていう価値観に実体はなく、それもまた「私」が作り出した虚像に過ぎないと理解し、受け入れる事。

それがお釈迦様の言われたことなのではないだろうか。

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■それでも、我々は、「私」という枠組みの中で生きている。

おぎゃあと生まれ、父親と母親に愛を注がれ、まわりのものすべてに興味をもってコトバを覚え、ともだちを作り、その中で次第に「私」が作られていく。

それが実体のない幻であったとしても、現象として確実に存在するものである。

だから否定はしない。ただ、それが幻であり、実体がないものだと理解すること。その「私」が生み出したさまざまな不安、苦しみも、幻なのだと理解すること。

それはアタマでは到底理解できないことで、何故なら、アタマはコトバで駆動されるものであり、その「幻」の構成要素であるからだ。

■そこでエロス的態度が意味をもつ。

たとえ幻であろうとも、「私」が感じる不安も苦しみも現実のものである。胸は締め付けられ、腹が苦しくなる。その実感はリアルなものとしてそこにある。

それは決して幻であることと矛盾しない。

幻である「私」にとっては、幻影こそが現実なのだから。

エロスは、その幻の世界をそのものとして感じる手法である。幻影に没入し、そのなかで「私」が消えていく体験である。

没入する対象は悲しみでも苦しみでも良いのだけれど、快楽主義者の私としては、やはり美しいものに没入する、「私」の外にあり、「私」という枠組みをぶち壊す力をもった圧倒的な美に没入したい。
 
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美しいものに吸い込まれ、「私」という意識はうっすらと霞んでいく。

時の流れもなく、

ただただ、陶酔があるだけである。

その瞬間、わたしは「私」から解き放たれているのだ。

エロス的に生きるとは、その瞬間を意識すること。わたしが「私」から自由である瞬間があるのだと感じること。そのなまなましい「生」のリアルを大事に思うこと。

その魔法は必ず解けて、いつもの日常がわたしの中に侵入し、わたしは「私」へと帰っていく。

だが、わたしは知っている。

厳然と辛いこと、悲しいことが目の前にあるし、決してそれから逃げることはできないのだけれど、それは「私」のなかの物語であって、それらがすべて消えてしまった世界を、わたしは知っている。

だから、それを知っているわたしには、それらの苦しみは違って見えるのだ。

「私」が幻で、時に消えてしまうものであって、そんな「私」が認識する世界もまた「私」のなかに映る幻で、「本当」なんてどこにもない。

それを知っているわたしは、その幻をかえって愛おしいものに感じるだろう。

エロスを土台にした価値観をもつならば、いつも、どこにでも、美が、エロスがそこにあると見つけ出すことが出来る。

それを愛おしむ力こそが、この苦しい世界を愛し、力強く生きていく原動力になりうるのだと私は信じるのだ。

■「私」は誰なのか?

己の肉体を起点として、父母を含めた他者で構成される社会の中で形作られた「私」。

『ジャガーの眼』の、しんいちは、他者の角膜と、異質な他者とのめぐり合いによって、あらたな「私」を再構成することに成功した。

「私」は、絶対的なものではない。

「私」という肉体と意識が生み出した幻であり、それを知ることは、「私」は誰なのか?という問いを、わたしを生きる、という決意に転換する。

生きること。

生きることを味わうこと。

それが、エロスを知る者の生きる態度なのである。

■ここで、エロスとは何かを問う、第一章を終わりにする。

次章では、このようなエロス的態度で転換をはかった世界というものが、どのように見えてくるのか。そこを具体的に見ていこうと思う。

そのことによって、「私」を縛り付ける価値観を打ちこわし、直に生きる。その道を切り拓いていこう。
  

                               <2015.08.11 記>

<参考記事>【そこに魂はあるのか】より
 ■【無意識の脳、自己意識の脳】「私」とは何か?A・ダマシオ
 【<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤】 下條信輔 著。境界線の無い、ゆらぎの中に浮かぶもの。
【進化しすぎた脳】 池谷 裕二 著。意識とは我々一人ひとりの目の前に拡がる最後のフロンティアなのだ。

 

■エロスは怒りをはじめとする興奮の暴走、伝染とは対極にあるもの、それらを抑えるもの、と論じた。

興奮も熱狂もなく、静的で内向的なエロスの世界。

だが、人間が人間として生きていくための力との関係はどうだろう。目の前の感動のなかに没入し、漂うなかで自我すらも消えていく、そういう感覚は「生きていくこと」自体と対立しないのだろうか。

 

ニートといわれる生き方がある。

十五歳から三十四歳までの、家事・通学・就業をせず、職業訓練も受けていない者。という定義だそうだ。

ニートにも、それぞれがあって働きたくても社会に受け入れられる自信が無く、絶望とあきらめの世界に沈んでいる人もいれば、働いたら負けかな、なんて本気で思っている人もいるだろう。

冷たい目で見れば、親や社会の力を借りなければ生きていく力の無い人たちである。何も生み出さない無価値な人たちである。

だが、本当にそうなのか。

日本社会はバブル崩壊から立ち直ってくる過程で変質してしまった。すべてにおいて効率を優先する社会へと変わってしまったのだ。

1993年に就職した当時と今を比べれば愕然とする違いがあって、ほとんどが正社員であった職場は半数以上が派遣社員に入れ替わり、インドなどからの外国人労働者もかなりの割合を占めている。

人員構成だけでなく、業務のアウトソーシングも進んでいて、何でも自分たちでこなしていた時代とは隔世の感に耐えない。

はっきり言えば、今の企業には「即戦力」、「幹部候補」以外必要ないのである。

定型化された業務を淡々とこなす人間は、世界中のどこにでもいて、日本人の高い労働力で対応する必要はなくなってしまったのだ。

その意味で、バブル崩壊以前の人間がニートに対し、努力が足りないなどと断じるのは、不公平を通り越して滑稽ですらある。

「我々」が生き延びるために、ニートを生み出してしまったのだということを理解しなければならない。

繊細なこころを持つニートの人たちは、必要とされていない、という状況を敏感に感じ取り、無能、社会不適合のラベルを自らに張り付けることで自らを守っているのかもしれない。

<参考記事>姉妹ブログ【そこに魂はあるのか】より
■『無業社会』働くことができない若者たちの未来。工藤啓、西田亮介。今、日本に必要な価値観とは。

 
■では、ニートに価値はないのか。

それは、現代の経済至上主義の論点でいえば、そういうことになるかもしれない。

問題は、経済至上主義自体にあって、それ以外の見方を失ってしまった現代日本にあるのだと思う。

皮肉なことに、日本が世界に提案するクール・ジャパンの根幹をなすオタク文化はニート「的」感性によって、つまり経済効率という枠組みから逸脱したところではぐぐまれる。
奈良美智

奈良美智がニートだとはいわないが、その「かわゆさ」と「反骨」の合流は「目覚めた」ニート的であると思う。

自ら張りつけた「ダメ」の烙印を剥ぎ取り、自分は自分なのだと目覚めた姿である。

そこにニートといわれる人たちの可能性があると私は思うのだ。

■さて、エロスである。

ニートがエロス的であるかといえば、人それぞれなので一概には言えないが、その可能性はかなりあるだろう。

ポストバブルの経済至上主義社会に取りこぼされ、それでも経済至上主義の神話に取り込まれ、自分をダメだと思い込む人はその限りではないが、ふとした瞬間に美しいものを見つけ、そこに漂う経験を得たものはエロスを見たと言えるだろう。

では、「美」に対し、めくるめくエロスを体験した者は、生きていくことに対してどういう姿勢をもつのだろうか。「美」に耽溺し、生きていくこと自体から後退していってしまうのだろうか。

その可能性は否定できない。

いつまでもいつまでも、あたたかい幸福感に包まれながら漂い続ける事ができるならば、それも一つの道であろう。

だが、生きていくということを本能的に植え付けられている我々の肉体がそれを許さない。

生理的欲求(食欲、排泄など)はもちろん、自らを守ろうとする安全欲求、社会的動物として他者と交わりたいという社会的欲求に我々は支配されている。

それら肉体の声にエロスのまどろみは破られることになる。

では、空腹や便意からまどろみが破られたとして、その後はどうなるのか。

アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908-1970)の欲求の5段階説を見てみよう。

マズローの欲求の5段階説

■先ほど肉体的欲求と呼んだものをマズローは低次の欲求と定義した。

エロスを見た者も、きっとこの欲求には従うであろう。

メシを食べ、トイレに行く。これは生理的欲求。すぐさま睡眠の欲求が襲ってきて、あたたかい布団にもぐりこみたくなるが、お金が無ければメシも食えないし、このあたたかい部屋(安全欲求)からも追い出されてしまうから、気のりはしないが、働きに出かけよう。

月曜日の朝。我々は、この感覚を毎度のように味わっており、理解してくれる人も多いのではないか。

何とか出社して、仕事を始めたところで職場の同僚や関係部署の連中と関わりを持つうちに、自分の居場所がここにあることを認識して、一種の安心感を覚えるだろう。

この安心感がマズローのいう社会的欲求を満たすものであり、この一週間を乗り越える原動力となるものである。

エロス的な人間も、悟りきった坊主でななく、ふつうの人間であるから、こういった基本的、肉体的欲求にそって暮らしていくことだろう。

■マズローによれば、それら「低次の」欲求が満たされた先に、「認められたい」という尊厳欲求があり、そしてまわりに認められると「何かを実現したい」という自己実現欲求が生まれるのだという。

創造性の駆動力は、低次の肉体的、社会的な欲求が満たされ、お前やるな、と認められることで生まれるものらしい。

まずは、広く認められているマズローの説によるとして、「低次の」欲求が満たされたエロス人間のこころの動きはどうなるか。

「認められたい」という、気持ちは間違いなくあるだろう。と、いうより、この欲求が「高次」と言われること自体に違和感がある。なぜなら、その欲求の源が母親との関係にあることが容易に想像できるからである。

生まれたての赤ん坊は、自分の力では生きていくことが出来ない。誰かに頼って生きていくしかない。その誰かとは、たいていの場合、母親である。無条件にあたたかく包み込み、お乳を与えてくれる存在である。

お乳を卒業して幼児となっても、その「依存」は続く。

ようやく芽生えた「わたし」を見守る存在。その「わたし」のかなりの部分を母親という存在が認めてくれることで成り立っている。

小学生になり、中学生になり、学校という社会の中で仲間と育つ中で自我は成長し、自我の独立運動としての反抗期が訪れる。

けれども、自我が確立したとしても、「認めてくれる」存在が人間には必要なのだ。

それは、赤ん坊の時代から受け継いだ根源的なものであって、逆にそれが得られない状況においては、心の安定は得られない。

その認めてくれる存在は、家族であったり、仲間であったり、上司であったり、場合によっては自ら信仰する神であったりするのかもしれない。

より低次に位置付けられた「社会的欲求」と交わりつつも、認められたいという尊厳欲求は人間の基本的欲求であり、それ故に人間の尊厳として「認められる」ことは重要なのだ。

それは、あなたは生きていていいよ、というメッセージなのだから。

承認を得られる/感じられることなく生きていかざるを得なかった人間は、不幸になるだけでなく、この世の中を信じることが出来ないがゆえに社会的問題をも起こしうる存在になりうるだろう。

それは「社会」からはみ出した犯罪者だけでなく、権力や地位に固執する「欲求不満の成功者」にも、その姿を見ることが出来る。彼らも「愛」に飢えており、心の奥底で認めてくれる存在を探し求めているのだ。

エロス的人間も、もちろん、この「愛」なしには生きていけない。生きていていいよ、という存在承認なしに生きていけるほど人間は強くない。エロスを認知することで「私」が溶けだす経験を経たとしても、社会的に生きていくために「私」を再構成するうえで、やはり認めてくれる「他者」の存在は必須なのだ。それは「他者の認知」が「私」の一部であることを物語っていて、そのことについては、第2章でその秘密を探っていくことになるだろう。

■さて、最後の自己実現欲求である。

マズローは、ここまでの4つの欲求を欠乏欲求 (Deficiency-needs)とし 、最後の自己実現欲求を存在欲求 (Being-needs)として分けた。 

それは、人間の成長の目指すべき姿を求める欲求であるからだ。

自らの存在を周りに(「他者」に)認められることではじめて「私」はその存在を確立する。そうあって、やっと「自律/自立」した存在としての「私」が生まれるのだ。

マズローは、そのことを言っているのだと思う。その意味では同意見だ。

「自己実現」というコトバに惑わされるが、それは決して「私って何?」なんていう自分探しでは決してない。

「自己」は探しまわって見つかるようなものではない。まわりから認められていることに「気付き」、その上で「生きていていい」自己をそこに認め、社会における大人の存在として自立/自律した存在となるのだ。

そうして社会的大人として世の中に参画していくのである。

ちなみに、エヴァンゲリオンのTV版の最終2話で描かれたのはこの過程であって、それを削除することでシンジの成長を延期させてしまったのが劇場版である。もちろん庵野秀明は確信犯であって、今のオタクには無理ゲーだと、さっさと引っ込めてしまったに違いない。世の中を信じていない庵野もまた、自己実現未満なのかもしれない。

碇シンジ

■エロス的にはどうだろう。

他者の承認に気付くことのないオタク的ひきこもりが、大事な存在を失って、自分/「私」が分からなくなって、その苦悩の果てに、他者のやさしいまなざしに気付く。

その過程を考えれば、エロスはその成長の切っ掛けになる体験なのかもしれない。

「私」というものにこだわっている限り、そこに注目し続ける限り、他者は「『私』を認めてくれない存在」でしかあり得ず、その優しさに気付くこともない。

エロスを体験することで「私」というものに無理にこだわらなくてもいいんじゃね?と思えたときに、初めて見えてくるものもあるはずで、そこに「自己実現」の可能性が見えてくる。

つまり、エロス的体験は人を内にこもらせるのではなく、むしろ、大人の世界へ引き出すものである可能性があるということだ。

長い旅になったが、これが本日の結論である。

ちなみに晩年のマズローは、より高次の成長段階として「自己超越」(Self-transcendence) というものを考えた。世の中の価値観にとらわれず、目の前の存在をそのままに感じ、見ることが出来る、そういうもののようだ。

この領域は、まさに第2章で論じていこうとしている領域である。

エロスへの探求の果てに、我々はこの領域に至ることになるのかもしれない。

                                  <2015.07.26 記>

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