2019年05月13日
あの子がほしい、あの子じゃわからん
「。。。イチゴがいいの?なら、お店の人にそう言いなさい。自分で。黙ってたら分かんないのよ」
子供の頃、かき氷屋さんで母に言われて、でも注文するのが恥ずかしくてモジモジしていたら更に母にせかされて泣いてしまった。。。そんな内気な私でした(←このエピソード、令和の初笑いとしてくだされ)
今朝ふと思い出したのです。昔なつかし「花いちもんめ」の遊びを。子供たちが向かい合わせ・同人数の二組に分かれて、対向する組から一人を名指しで「○○ちゃんが欲しい」「△△ちゃんが欲しい」と言い合い、じゃんけんで勝った組が負けた組から指名された子を引抜いていく。。。というもの(いま改めて文章に起こしてみたら、なんだかものものしい。まるでスポーツ界のトレード制、あるいは「任命責任」などといふ重い単語がちらつく)
まだ打ち解けない段階で「○○ちゃん」と互いの名前を認識しあい、「仲間に欲しい」と意思を表明する。そうやって社会性を育むための遊びだと、児童心理学か何かの本で読みました。
「誰かが欲しい」と言うシチュエーション。就職とか?プロポーズとか?いずれもハードル高め。「欲しい」という気持ちをさらけ出して「えぇ~(´д`|||)」と相手に尻込みされたら。。。仲間に「ふうーん、ああいうのがタイプなんだぁ」ってニヤニヤされたら。。。それが怖い・恥ずかしいあまり、「何の欲求もありませんよ自分は。金銭欲やら何やら、ましてやセーヨクなど滅相もない」という澄まし顔をしているほうがマシ。って思春期か!
大人になって、ダンスを趣味にしている現在。通りすがりに、挨拶がわりに、立ち話もなんだから。。。「踊りましょう」異性に(同性もアリ)声をかける。この一曲の間、あなたが欲しい、んです。それを知られたからといって。。。いや、それを伝えられなければ、何も始まらない。「誰にも心動かされませんよ自分は」なんて石みたいにドッカリ座って場所ふさぎになるより、動くほうが自然だと思うけど。
nadiecomoyo at 22:43|Permalink│Comments(0)│
2019年03月29日
此岸桜 こちらのはな
「今年ばかりは墨染めに咲け」
最愛の女性を失った春、光源氏は桜にそう詠みかけだ。
墨の色とまではいかずとも、今年の桜は白けて見える。
そばに寄って来られるまで男女の別もつかないくらい、夜目が利かなくなった私の錯覚か。あるいは桜とは、並木となって、人を集めて、初めて温かみを帯びて見える花なのか。
歓声を挙げる子らの上気した頬。羽目を外した酔客の赤ら顔。
気取らない食べ物の匂い。わいわい、という賑わいあっての「桜色」なのだろうか。
歓声を挙げる子らの上気した頬。羽目を外した酔客の赤ら顔。
気取らない食べ物の匂い。わいわい、という賑わいあっての「桜色」なのだろうか。
群れから離れた桜のそばにいる。
当然のことながら、花はこちらに歩いてはこない。私たちのほうから、会いに行く。
唇にほのかに紅を施された、真っ白な顔。
こんな機会は、そうはない。あってほしくない。
翌週、その席に居合せたオトコノコと偶然また一緒になった。
ティッシュありがとう。踊りながら彼が言う。
ティッシュありがとう。踊りながら彼が言う。
涙がこぼれぬように天を向いて、真っ赤な目をした彼に、あのとき私が渡してやったのを思い出す。
ふだんなら「ひとが聞いたらゴカイされるかも」などとからかいもしようが、そのひとことで彼が涙を流していたことも、そしてその理由も、ぜんぶ現実なのだと噛みしめるしかなかった。
照れ隠しなのか、いつもよりおどけて踊ってみせる彼。
その汗も、あの涙も、こちら側にいることの証。
その汗も、あの涙も、こちら側にいることの証。
生まれたての赤子のようなきれいな目、きれいな涙だった。
思いがけなく出くわしたその光景を、宝物のように胸にしまう。
仮にこの先、私の番になって彼が来てくれたとしても、私にはもう彼の涙は見えない。
または順をたがえて私のほうが泣いても、もう彼には届かない。
または順をたがえて私のほうが泣いても、もう彼には届かない。
誰の悲しみも、二度と見ることがないようにと願うけれど、
桜の樹が百本あれば百本、千本なら千本、
人の数と同じだけ、花をみおくる。
こちらから、あちらに。これからも。
nadiecomoyo at 21:41|Permalink│Comments(0)│
2019年03月25日
バジュランギおじさんと、小さな迷子
観てきました。映画館にいる誰もが、きっと憤っていた「馬鹿げてる。。。!」と。映画の出来が、ではありません。国が違うから、宗教が違うから、それが何だってんだ。国境のこちらに置き去りになった子を、国境のあちらに送り届けたい。それだけのことが、どうして難しいんだ。お涙頂戴なシーンもないのに、すすり泣きがあちこちで聞こえてたもの。
生まれつき口のきけないパキスタンの少女。母親とインドの寺院に願掛けに出かけたものの、取り残されてしまいます。
インド人青年(おじさん?)に街で拾われますが、おうちを訊いても、名前を訊いても答えようがない。ハヌマーン神の祠に連れてこられても祈りかたを知らずポカンとしてた彼女が、向かいのモスクに入り込んでヴェールをかぶってイッチョマエに礼拝する姿に「おじさん」ビックリ!
さらに、クリケットの国際試合中継、敵国パキスタンの勝利。ブーイングの中、ひとり喜んで踊り出す少女。あっちの国の子だったとは。。。!
折も折、国交悪化で大使館は閉鎖、ビザも降りず。送り届けようにも、正規に行く方法はない。さあどうする。
続きは映画館で。
上記のモスクのシーンが印象的。だって、お祈りの仕方を見るまでは、同じインド人だと信じていたのだもの。同じに見える、否、同じ人間が、祈る対象を刷り込まれ、言葉を刷り込まれ、「あちらの国は敵なのだ」と刷り込まれ。人間は何のために分けられなければいけない?
nadiecomoyo at 22:08|Permalink│Comments(0)│