2018年10月

あらためて「キナーレ」の水庭が良かった。

自分の理想のコミュニティスペースだと思う。

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子供は、だいたい水庭に入っていってしまい、大人はそれを眺めながらしばらく過ごす。

これは、万国共通なのだろうか?

外国人の子供はとても大胆で、濡れることなどお構いなしで飛び込んでいく。

 

水庭は、入って遊ぶために作られた場所ではないと思うのだが、不思議とこの場の作法を皆が共有できている。だから、しぜんとその場に参加している一体感が生まれてくる。

 

雨が降ると、この本来、なんのためでもない水庭に、突然、自然が入り込んでくる。雪が降ってもすごいと思う。自然と人間が劇的に出会う感じも良い。


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こうしたコミュニティスペースを、この地域特有の空間を活かしてつくれたらいいなと思う。


ナカノデザイン一級建築士事務所(新潟・上越市)


◆はじめに

 

渡邊洋治建築作品集の年表によれば、1974年、学生のための密度の高い旅行を自ら企画・立案し、以後1983年まで毎年旅行会を引率したとされる。 1975年、吉阪隆正(早稲田大学教授)を団長とするチャンディーガル研修旅行※1が行われており、渡邊洋治(早稲田大学講師)は幹事として名を連ねている。この1975年の研修旅行に参加した現代美術家の舟見倹二氏のもとに、旅行で撮影したスライドフィルム、スケッチ、旅行工程表、洋治氏が後に参加者に配った手書きの冊子など当時の様子を知ることができる資料が残されており、2015年12月3日に、舟見氏のご自宅で資料を見せていただき、複製の作成やデーター化をして確認、保存しやすい状態にする許可を頂いた。

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1975年の募集要項には、1972年、1974年に140数名でインド各地を歴訪したと書かれており、1974年から学生のための密度の高い旅行を自ら企画・立案と書かれた渡邊洋治建築作品集の記載と合わせて考えれば、記録は未確認であるが、1974年も同様のインド旅行に渡邊洋治が参加していると類推できる。1974年~1975年は、斜めの家の設計期間にあたる※2この時期に渡邊洋治が何を見て何に興味を持っていたかを知る貴重な資料であると考えられる。

 

※1 1975年11月1日(土)~8日(土)

※2 斜めの家の設計図書に記載されている日付は、1975年2月18日であり、斜めの家の竣工は、1976年とされる。

 

◆チャンディーガル研修会の目的

 

当時の募集要項には、5つの目的が記載されている。

 

①  ル・コルビジェ作品の研修及び新旧都市・建築と庭園の視察。

②  訪問国、訪問大学(5か所)との親善と交流および早大教授 吉阪隆正氏特別講演。

③  発展途上国の実態視察。

④  アジア文明と各宗教の歴史的研究。

⑤  海外旅行の練習と海外での団体生活、行動の習得。

この研修で訪れたル・コルビジェのチャンディーガルの一連の建築物は、1955年~1968年に完成しており、1965年に死去したル・コルビジェの最晩年の作品群である。

 


◆チャンディーガル研修会の資料と斜めの家



チャンディーガル研修会の資料のアーカイブを進める中で、斜めの家と類似したものが2点あることが分かった※3。渡邊洋治が斜めの家を設計している時に、このような遠くの世界の事例を目にしていたということが分かり興味深い。

 

1.ダル湖のハウスボート(スリナガル)

 

渡邊洋治が旅行後に配った冊子には、ダル湖のハウスボート群がスケッチされている。さらに、ハウスボートのプランのスケッチも残されている。ダル湖(スリナガル)には、旅行の2日目、3日目に立ち寄っており、舟見氏のスライドでも確認することができる。スケッチされたハウスボートのプランは、斜めの家との類似性も感じられて興味深い。

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〈渡邊洋治 ダル湖のハウスボート群スケッチ〉

ハウスボート

〈渡邊洋治 ダル湖のハウスボートプランスケッチ〉



ダル湖 ハウスボート1

〈舟見氏のスライド1〉
ダル湖 ハウスボート2

〈舟見氏のスライド2〉


2 チャンディーガル合同庁舎のスロープ棟

 

チャンディーガル合同庁舎は、ル・コルビジェのチャンディーガルの一連の建築物の一つで、1958年に完成。一行は旅行の6日目に訪れている。
合同庁舎には、特徴的なスロープ棟があるのだが、そのスロープと小窓のデザインと、斜めの家との類似性を感じる。



合同庁舎

〈舟見氏のスライド3 左奥の小窓のある建物がスロープ棟〉



合同庁舎スロープ内部

〈スロープ棟内部図 斜めの家と同じで、隣り合うスロープの間の壁にも窓がある〉
内観写真は、ここには載せないが、内装色(赤・ベージュ)類似している。




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〈斜めの家スロープ1〉
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〈斜めの家スロープ2〉

※3 斜めの家再生プロジェクトの、橋本氏の資料読み込みによる。



ナカノデザイン一級建築士事務所(新潟・上越市)




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◆はじめに

上越市出身の建築家である渡邊洋治(1923-1983)設計の「斜めの家」という住宅建築が上越市に現存しています。上越市に住む友人と私と所有者の方で渡邊洋治設計『斜めの家』再生プロジェクトを立ち上げ5年ほどになります。「斜めの家」の見学対応、管理修繕、関連資料のアーカイブ活動を中心に活動をしてきたのですが、その中で渡邊洋治さんに励まされるような経験をしてきましたので、ここに記したいと思います。

◆ 渡邊洋治(1923-1983)とは

1923年、直江津で生まれる。 1941年高田工業を卒業。日本ステンレス株式会社に勤務。太平洋戦争を経験。 1947年、上京して久米建築事務所入所。 1955年、早稲田大学の吉阪隆正研
究室助手となる。ル・コルビュジェの元から帰国して2年の吉阪は、最も躍動的な時期であった。その後の建築観に多くの影響をうける。 1958年、渡邊建築事務所を開設。 1969年、最高裁判所設計競技で優秀賞を得る。 1970年、第3スカイビル(鉄のマンション)が竣工する。国内外に渡り注目を集める。 1974年、学生のための密度の高い旅行を自ら企画・立案し、以後1983年まで毎年旅行会を引率する。 1975年、チャンディーガル研修旅行を行う。 1979年、ニューヨーク近代美術館におけるTransformations in modern architectureに善導寺と鉄のマンションを出品する。 1983年、アメリカ・モンタナ州立大学、ニュージーランド・オールランド大学で講演。11月死す。61才。 〈渡邊洋治建築作品集の年表による〉

 渡邊洋治には、独り身で、破天荒なデザインばかりしている建築家というイメージが強くあります※1 。生前から、新聞や雑誌の記事で渡邊洋治が取り上げられるときには、「奇」、「異」、「狂」といった形容詞が使われることが多かったといいます※2。現在でも、こうした渡邊洋治のイメージが強く残り、建築作品もこうしたイメージに合致する部分に注目が集まりがちではないでしょうか。私も当初はそのような印象をもっておりましたが、活動を通して、また違う視点で渡邊洋治が見えるようになりました。


 建築評論家の長谷川堯によると、渡邊洋治の仕事に関連して私達が注意を払うべき要点のひとつめは、彼が裏日本の多雪地帯の風土に生まれ育ったことであるという。この点は、渡邊洋治がいたるところで繰り返し述べていたことでもあるといいます。※3。

 渡邊洋治は、吉阪隆正を通して、後期ル・コルビュジェの土着的なデザインの影響を受けていると思われます。したがって、裏日本の多雪地域の風土で生まれ育った事を自己アイデンティティとして、裏日本的な近代建築を創造しようとしていた側面もあったのではないでしょうか。そうした渡邊洋治の側面を感じさせる逸話も幾つか残されています。1975年のチャンディーガル研修旅行でのことです。当時チャンディーガル建築大学には、満足な製図道具がなく、四、五センチ程度の鉛筆を両刃カミソリを二つ割りにした物で不自然に削って使っていた。渡邊はそんな彼らに、「本日諸君が使用していたカッター〈カミソリの刃〉はヨーロッパのものである。貴方がたの国には昔から伝わる優れた刃物があるではないか、これをなぜ使わないのであろう。もし諸君がこれに気付いたならば諸君の仕事は国際的なものになるであろう。」と述べたといいます※4。渡邊洋治が、母校の高田工業高校に呼ばれたとき生徒に向かって、先生の言うことは鵜呑みにせずに、自分の建築を創れという趣旨のアドバイスをしたといういます※5。当時は、高田本町通りの雁木がアーケードにかけ替えられ、古い建物があっという間に無くなっていく紋切り型の近代化が急がれていた時代でした。

 

※1 藤森照信の原・現代住宅再見2

※2 ●私の建築観 造ることへの恐れ 渡邊洋治 〈渡邊洋治建築作品集〉

※3 ●渡邊洋治論 日本海の怒濤は今も押し寄せる 長谷川堯 〈渡邊洋治建築作品集〉

※4 「インド」チャンディーガル研修旅行-チャンディーガル建築大学訪問記-舟見倹二

※5 廣田敏郎 元高田工業高等学校教諭のお話による

 

 

◆ 斜めの家 


1976年竣工/木造2階建て/敷地面積264.42㎡/
建築面積72.36㎡/延床面積108.81㎡

渡邊洋治の妹夫婦のための住宅であり、最後の実作である。渡邊洋治が亡くなってからつくられた渡邊洋治建築作品集に写真と図面が載っているが、渡邊洋治は生前、雑誌などへの発表をしなかった※6ため、あまり知られておらず、設計趣旨も分かっていません。
 
 階段のない2階建て住宅であり、1階と2階をつなぐスロープの傾きが建物の外観の特徴になっており、斜めの家の名前の由来になっていると思われます。「足が不自由だった施主のために階段のない造りにしたのでは」と推察されていた事もありましたが、竣工当時は、施主の足が悪くなかったということで※8スロープの設計趣旨の考察が意味を持ちだしています。

 建築家、建築史家の藤森照信によれば、コルビュジェ派の木造住宅というと、レーモンドの「夏の家」(1933)、前川國男の「自邸」(1941)、増沢洵の「自邸」(1952)、吉村順三の「軽井沢の山荘」(1962)の四作をもって時期ごとの代表作とし、それでことたれりとしてきたが、そこで終わらず、それに引き続くものとして、渡邊洋治の「斜めの家」を加えても良いのではないかと評価されています※7。

 渡邊洋治は、高校時代から交流のある現代美術家の舟見倹二に、「潜水艦をつくるぞ」と語ったといいます。斜めの家が潜水し浮上するイメージを持っていたようです。渡邊洋治は、戦争で軍艦に乗った経験はあっても、潜水艦に乗った経験は無く※9潜水艦の出所は謎です。

 

 

※6 渡邊洋治の親戚(T.S氏)のお話による

※7 藤森照信の原・現代住宅再見2

※8 渡邊洋治の親戚(M.Y氏)のお話による
※9 渡邊洋治の親戚(M.Y氏)のお話による


◆〈斜めの家=潜水艦〉から見えてくる地域性


 舟見倹二氏に、渡邊洋治が「潜水艦をつくるぞ」と語った時の記憶をたどっていただくと、周囲の水田の稲が育つにつれて、〈稲穂の水平面〉に対して斜めの家が潜水艦のように沈降していくという話をしていたという。黄金色に輝く稲穂の水平面と銅色に光る新しい斜めの家のイメージが美しく重なり真実味があり、渡邊洋治の建築が、稲作地である上越の風土と劇的に融合しているように感じられます。
    
                                                    

 しかし、竣工時の写真の中には周囲の水田と写された写真は確認できなかった。写真をみると周辺はすでに宅地化されている様子がうかがえます。斜めの家が稲穂の水平面に沈降する風景は、渡邊洋治のイマジネーションの世界にしか存在しない風景なのか、実際に遠方からそのような視点が得られたのかは不明です。


斜めの家 竣工2
〈竣工当時の斜めの家〉

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 稲作地の他に、豪雪地という地域性との関係はないのだろうか。
私は、渡邊洋治が語ったという記録はないが、潜水艦は、文字通り水に沈むと解釈するのが自然だと感じています。水といっても洪水で水没するのではなく、雪の中に沈むのです。



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〈雪に埋もれる斜めの家1階〉
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〈斜めの家2階まで達する雪〉

表紙
〈昭和28年2月の雁木の様子【広報上越No.959表紙より】〉

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〈斜めの家のスロープ多様な床レベル間で視点の交流〉

斜めの家のスロープや、不規則に開けられた窓はル・コルビジェのボキャブラリーからの引用であるとも了解できるが、それらとの差異に意味を見出すこともできます。

 サヴォア邸のスロープと比べて斜めの家のスロープは、階をつなぐものではなく、スロープに沿って多数の床レベルが作られています。不規則に開けられた窓は、ロンシャンの教会のそれと比べて、採光の用のみではなく、船窓のように、のぞき見る行為を強く意識させます※10。積雪時に変わりゆく建物周囲の雪表面レベルに、建物内部の多数の床レベルと、多様な高さに設けられた窓が呼応する様子が想像できます。また、室内においても多様な床レベル間で視点の交流が生まれています。


 この読み取りが正しいとすれば、雪に埋もれる事が前提となり練り上げられたアイデアであり、雁木との関連性を感じます。昭和28年2月の雁木の様子を写した写真からは、雪に埋もれる雁木通りにも、多様な床レベル間で視点の交流が生まれている様子がうかがえます。

 

家や街が雪に埋もれる空間体験は、渡邊洋治の体に染みついていたものだと思われます。そこから斜めの家のような空間が生まれたと考えるのは自然なことに思えます。そこからさらに、稲穂の水平面に沈降する金色の潜水艦というイメージへと昇華したと考えると、そこに渡邊洋治の作家性がうかがえるように感じられます。

話は、こちらに続きます。
斜めの家とチャンデーガル研修旅行


※10斜めの家の不規則に開けられた窓の位置は、図面の段階で詳細な寸法が決められていない。現場を施工した大工さんのお話によると、渡邊洋治は、現場で、そこから何が見えるか考えて詳細な位置を決めるようにと指示したという。
ナカノデザイン一級建築士事務所(新潟・上越市)





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上越妙高駅前複合施設フルサットについて概要説明をさせていただきます。
私たちがフルサットを通して行ったことは、地方の新幹線新駅前におけるあらたな開発手法の試みです。

敷地


2015年3月北陸新幹線が開業して、新潟県上越市にも上越妙高駅と新たな街がうまれるはずでした。


ツインタワー
引用元:https://www.joetsutj.com/articles/52079805

しかし、新幹線開業前には様々なプロジェクトが立ち上がったのですが、中止や延期となり。

201503月

2015年3月の開業日には、更地がひろがる状況でした。
2015年2月空撮動画

コンテナ持ち込み

私たちは、民間事業者である株式会社北信越地域資源研究所と一緒に、駅前にコンテナ1つを置き、地域の方が気軽に出店できるコンテナ商店街をつくるために動きを始めました。

furusatto 01「白いコンテナ現る!」動画

平原さん取材

コンテナ一つ置くことで、開業の機を生かしてメディアの注目を集めることができました。

取材を受けているのは、フルサットを運営する民間企業、北信越地域資源研究所の平原さんです。

コンテナ1台

冬の前

新幹線が開業してからも、コンテナの周囲は空き地が広がっており街の開発は進みません。

furusatto 02「コンテナ初号機、営業開始」動画

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その年は、敷地にテントを設置した露店からスタートして、同時にテナントの誘致もすすめていきました。

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1期工事

年が明け、開業から1年が経過した後に、ある程度テナント誘致が進み、コンテナを増設してコンテナ商店街をオープンさせることができました。最初に一つ設置したコンテナ事務所もそのまま移設しました。

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冬夜景

その年も周辺の開発は進まず、フルサットだけで冬を越すことになります。

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しかし、様々な方の注目とご協力をあつめ、新幹線開業1周年には、地域の多くの方を集めたイベントを行うまでに成長しました。

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北陸新幹線「東北とひと味違う」駅前の開拓術 東洋経済オンライン


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フルサットが注目されるなか、コンテナ建築が一般の方から注目を集めるようになりました。こちらは地元新潟県の新聞の夕刊に特集が組まれたものです。


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フルサットを設計するにあたって次の3つのコンセプトを掲げました。

①コンテナのユニット性を生かした場を作ること
②コンテナを使って地域の建築文化に根差した建築をつくること
③敷地の形状を生かす配置計画とすること


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コンテナのユニット性を生かして、コンテナユニットを敷地に並べて、その間を人々が集う場所としています。


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隙間空間が、一時的な出店スペースになっております。


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二つ目の地域の建築文化に根差したデザインという部分では、この地域に根差した雁木スペースを取り入れました。


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雁木通路でコンテナ店舗をつなぐ構成となっています。


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バックヤードの目隠しルーバーには、「雪かこい板」を流用しています。

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3つ目の敷地の形状を生かした配置計画についてですが、フルサットの敷地は、駅前の公園に隣接した扇形の残地のような形状をしていました。


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この扇形にならい、コンテナユニットをならべて扇型の敷地の特徴を強化しています。


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このような配置にすると公園を歩いていると次々に店舗が表れてくるような効果と、その動線に直行する方向に視線が抜けていく効果が生まれています。

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O案  v2016トリミング 補正

開業2年目の年には隣地に拡張することができました。


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そちらには独立型のコンテナ店舗を扇形の流れを保ちながら配置しています。


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フルサットについて

furusatto(フルサット)プロジェクトで、2017年度北陸建築文化賞を受賞いたしました。2018/3

NAKANO☆DESIGN/studio recre一級建築士事務所 〈新潟県/上越市/東京〉 中野一敏

ナカノデザイン一級建築士事務所(新潟・上越市)


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