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◆はじめに

上越市出身の建築家である渡邊洋治(1923-1983)設計の「斜めの家」という住宅建築が上越市に現存しています。上越市に住む友人と私と所有者の方で渡邊洋治設計『斜めの家』再生プロジェクトを立ち上げ5年ほどになります。「斜めの家」の見学対応、管理修繕、関連資料のアーカイブ活動を中心に活動をしてきたのですが、その中で渡邊洋治さんに励まされるような経験をしてきましたので、ここに記したいと思います。

◆ 渡邊洋治(1923-1983)とは

1923年、直江津で生まれる。 1941年高田工業を卒業。日本ステンレス株式会社に勤務。太平洋戦争を経験。 1947年、上京して久米建築事務所入所。 1955年、早稲田大学の吉阪隆正研
究室助手となる。ル・コルビュジェの元から帰国して2年の吉阪は、最も躍動的な時期であった。その後の建築観に多くの影響をうける。 1958年、渡邊建築事務所を開設。 1969年、最高裁判所設計競技で優秀賞を得る。 1970年、第3スカイビル(鉄のマンション)が竣工する。国内外に渡り注目を集める。 1974年、学生のための密度の高い旅行を自ら企画・立案し、以後1983年まで毎年旅行会を引率する。 1975年、チャンディーガル研修旅行を行う。 1979年、ニューヨーク近代美術館におけるTransformations in modern architectureに善導寺と鉄のマンションを出品する。 1983年、アメリカ・モンタナ州立大学、ニュージーランド・オールランド大学で講演。11月死す。61才。 〈渡邊洋治建築作品集の年表による〉

 渡邊洋治には、独り身で、破天荒なデザインばかりしている建築家というイメージが強くあります※1 。生前から、新聞や雑誌の記事で渡邊洋治が取り上げられるときには、「奇」、「異」、「狂」といった形容詞が使われることが多かったといいます※2。現在でも、こうした渡邊洋治のイメージが強く残り、建築作品もこうしたイメージに合致する部分に注目が集まりがちではないでしょうか。私も当初はそのような印象をもっておりましたが、活動を通して、また違う視点で渡邊洋治が見えるようになりました。


 建築評論家の長谷川堯によると、渡邊洋治の仕事に関連して私達が注意を払うべき要点のひとつめは、彼が裏日本の多雪地帯の風土に生まれ育ったことであるという。この点は、渡邊洋治がいたるところで繰り返し述べていたことでもあるといいます。※3。

 渡邊洋治は、吉阪隆正を通して、後期ル・コルビュジェの土着的なデザインの影響を受けていると思われます。したがって、裏日本の多雪地域の風土で生まれ育った事を自己アイデンティティとして、裏日本的な近代建築を創造しようとしていた側面もあったのではないでしょうか。そうした渡邊洋治の側面を感じさせる逸話も幾つか残されています。1975年のチャンディーガル研修旅行でのことです。当時チャンディーガル建築大学には、満足な製図道具がなく、四、五センチ程度の鉛筆を両刃カミソリを二つ割りにした物で不自然に削って使っていた。渡邊はそんな彼らに、「本日諸君が使用していたカッター〈カミソリの刃〉はヨーロッパのものである。貴方がたの国には昔から伝わる優れた刃物があるではないか、これをなぜ使わないのであろう。もし諸君がこれに気付いたならば諸君の仕事は国際的なものになるであろう。」と述べたといいます※4。渡邊洋治が、母校の高田工業高校に呼ばれたとき生徒に向かって、先生の言うことは鵜呑みにせずに、自分の建築を創れという趣旨のアドバイスをしたといういます※5。当時は、高田本町通りの雁木がアーケードにかけ替えられ、古い建物があっという間に無くなっていく紋切り型の近代化が急がれていた時代でした。

 

※1 藤森照信の原・現代住宅再見2

※2 ●私の建築観 造ることへの恐れ 渡邊洋治 〈渡邊洋治建築作品集〉

※3 ●渡邊洋治論 日本海の怒濤は今も押し寄せる 長谷川堯 〈渡邊洋治建築作品集〉

※4 「インド」チャンディーガル研修旅行-チャンディーガル建築大学訪問記-舟見倹二

※5 廣田敏郎 元高田工業高等学校教諭のお話による

 

 

◆ 斜めの家 


1976年竣工/木造2階建て/敷地面積264.42㎡/
建築面積72.36㎡/延床面積108.81㎡

渡邊洋治の妹夫婦のための住宅であり、最後の実作である。渡邊洋治が亡くなってからつくられた渡邊洋治建築作品集に写真と図面が載っているが、渡邊洋治は生前、雑誌などへの発表をしなかった※6ため、あまり知られておらず、設計趣旨も分かっていません。
 
 階段のない2階建て住宅であり、1階と2階をつなぐスロープの傾きが建物の外観の特徴になっており、斜めの家の名前の由来になっていると思われます。「足が不自由だった施主のために階段のない造りにしたのでは」と推察されていた事もありましたが、竣工当時は、施主の足が悪くなかったということで※8スロープの設計趣旨の考察が意味を持ちだしています。

 建築家、建築史家の藤森照信によれば、コルビュジェ派の木造住宅というと、レーモンドの「夏の家」(1933)、前川國男の「自邸」(1941)、増沢洵の「自邸」(1952)、吉村順三の「軽井沢の山荘」(1962)の四作をもって時期ごとの代表作とし、それでことたれりとしてきたが、そこで終わらず、それに引き続くものとして、渡邊洋治の「斜めの家」を加えても良いのではないかと評価されています※7。

 渡邊洋治は、高校時代から交流のある現代美術家の舟見倹二に、「潜水艦をつくるぞ」と語ったといいます。斜めの家が潜水し浮上するイメージを持っていたようです。渡邊洋治は、戦争で軍艦に乗った経験はあっても、潜水艦に乗った経験は無く※9潜水艦の出所は謎です。

 

 

※6 渡邊洋治の親戚(T.S氏)のお話による

※7 藤森照信の原・現代住宅再見2

※8 渡邊洋治の親戚(M.Y氏)のお話による
※9 渡邊洋治の親戚(M.Y氏)のお話による


◆〈斜めの家=潜水艦〉から見えてくる地域性


 舟見倹二氏に、渡邊洋治が「潜水艦をつくるぞ」と語った時の記憶をたどっていただくと、周囲の水田の稲が育つにつれて、〈稲穂の水平面〉に対して斜めの家が潜水艦のように沈降していくという話をしていたという。黄金色に輝く稲穂の水平面と銅色に光る新しい斜めの家のイメージが美しく重なり真実味があり、渡邊洋治の建築が、稲作地である上越の風土と劇的に融合しているように感じられます。
    
                                                    

 しかし、竣工時の写真の中には周囲の水田と写された写真は確認できなかった。写真をみると周辺はすでに宅地化されている様子がうかがえます。斜めの家が稲穂の水平面に沈降する風景は、渡邊洋治のイマジネーションの世界にしか存在しない風景なのか、実際に遠方からそのような視点が得られたのかは不明です。


斜めの家 竣工2
〈竣工当時の斜めの家〉

斜めの家竣工1                    


 稲作地の他に、豪雪地という地域性との関係はないのだろうか。
私は、渡邊洋治が語ったという記録はないが、潜水艦は、文字通り水に沈むと解釈するのが自然だと感じています。水といっても洪水で水没するのではなく、雪の中に沈むのです。



20110228一階応接間雪の尾根S
〈雪に埋もれる斜めの家1階〉
20110207二階雪の尾根-2S
〈斜めの家2階まで達する雪〉

表紙
〈昭和28年2月の雁木の様子【広報上越No.959表紙より】〉

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〈斜めの家のスロープ多様な床レベル間で視点の交流〉

斜めの家のスロープや、不規則に開けられた窓はル・コルビジェのボキャブラリーからの引用であるとも了解できるが、それらとの差異に意味を見出すこともできます。

 サヴォア邸のスロープと比べて斜めの家のスロープは、階をつなぐものではなく、スロープに沿って多数の床レベルが作られています。不規則に開けられた窓は、ロンシャンの教会のそれと比べて、採光の用のみではなく、船窓のように、のぞき見る行為を強く意識させます※10。積雪時に変わりゆく建物周囲の雪表面レベルに、建物内部の多数の床レベルと、多様な高さに設けられた窓が呼応する様子が想像できます。また、室内においても多様な床レベル間で視点の交流が生まれています。


 この読み取りが正しいとすれば、雪に埋もれる事が前提となり練り上げられたアイデアであり、雁木との関連性を感じます。昭和28年2月の雁木の様子を写した写真からは、雪に埋もれる雁木通りにも、多様な床レベル間で視点の交流が生まれている様子がうかがえます。

 

家や街が雪に埋もれる空間体験は、渡邊洋治の体に染みついていたものだと思われます。そこから斜めの家のような空間が生まれたと考えるのは自然なことに思えます。そこからさらに、稲穂の水平面に沈降する金色の潜水艦というイメージへと昇華したと考えると、そこに渡邊洋治の作家性がうかがえるように感じられます。

話は、こちらに続きます。
斜めの家とチャンデーガル研修旅行


※10斜めの家の不規則に開けられた窓の位置は、図面の段階で詳細な寸法が決められていない。現場を施工した大工さんのお話によると、渡邊洋治は、現場で、そこから何が見えるか考えて詳細な位置を決めるようにと指示したという。
ナカノデザイン一級建築士事務所(新潟・上越市)