小路
2016年11月05日
小林竜太郎出演のNHK長野ラジオ「ゆる〜り信州」
11月1日(火)NHK長野ラジオ「ゆる〜り信州」に生出演した「長野郷土史研究会」の小林竜太郎青年部長。
その模様が、NHK長野の「アナウンサー・キャスター日記」に紹介されています。
「死んだ幼なじみと再会した紀州の男」
昨年から出演している小林竜太郎は、今回が17回目の出演。
毎回1話を語る「善光寺絵解き」では、善光寺本堂前の護法石のお話でした。
その後のトークでは、善光寺表参道沿いの小路の名前のいわれを紹介。
来週、長野郷土史研究会青年部が行う行事のお知らせもしました。
まちなか「小路の名前を覚えよう」ツアー
11月12日(土)
集合 11:00 かるかや山西光寺(北石堂町)
解散 12:00 善光寺入口付近で解散
案内 小林竜太郎(長野郷土史研究会青年部長)
参加費 500円 申し込み不要
どなたでもご参加いただけます。どうぞご一緒に歩いて、小路を巡りましょう。
その模様が、NHK長野の「アナウンサー・キャスター日記」に紹介されています。
「死んだ幼なじみと再会した紀州の男」
昨年から出演している小林竜太郎は、今回が17回目の出演。
毎回1話を語る「善光寺絵解き」では、善光寺本堂前の護法石のお話でした。
その後のトークでは、善光寺表参道沿いの小路の名前のいわれを紹介。
来週、長野郷土史研究会青年部が行う行事のお知らせもしました。
まちなか「小路の名前を覚えよう」ツアー
11月12日(土)
集合 11:00 かるかや山西光寺(北石堂町)
解散 12:00 善光寺入口付近で解散
案内 小林竜太郎(長野郷土史研究会青年部長)
参加費 500円 申し込み不要
どなたでもご参加いただけます。どうぞご一緒に歩いて、小路を巡りましょう。
2014年07月19日
舗装整備された善光寺七小路のひとつ「花小路」
今、長野市は、表参道(中央通り)の新田町交差点から北を石畳化しています。
また表参道から脇に入る小路も整備中です。
大門町を西に折れる「花小路(花屋小路)」も、舗装がし直されました。
花小路は、善光寺七小路のひとつでした。

かつて小路沿いには、たくさんの店舗や住居が並んで、生活が営まれていました。
その建物が次々になくなってしまった後の、小路の整備です。
住んでいらっしゃる方々にとって、この整備は歓迎されているでしょうか。
「まちづくり」とはなんだろうと、考えながら小路を歩きました。

2007年3月「善光寺七小路のひとつ、花小路」
2011年10月「撤去された花小路の建物」
また表参道から脇に入る小路も整備中です。
大門町を西に折れる「花小路(花屋小路)」も、舗装がし直されました。
花小路は、善光寺七小路のひとつでした。

かつて小路沿いには、たくさんの店舗や住居が並んで、生活が営まれていました。
その建物が次々になくなってしまった後の、小路の整備です。
住んでいらっしゃる方々にとって、この整備は歓迎されているでしょうか。
「まちづくり」とはなんだろうと、考えながら小路を歩きました。

2007年3月「善光寺七小路のひとつ、花小路」
2011年10月「撤去された花小路の建物」
2011年10月27日
撤去された善光寺七小路のひとつ「花小路」の建物
最低気温4,4度、最高気温16,9度。この秋一番の冷え込み。
善光寺表参道から西に入る「花小路(花屋小路)」。
2007年当時の模様はこちら。
「善光寺表参道の小路めぐり、花小路・馬小路」
西町の通りを出る角の「室川商店」が取り壊されて駐車場になりました。
写真は1ヶ月程前の、解体中だった建物。右の小路が花小路。

中央の「室川商店」の看板は取り外され、右に「和洋酒類」の看板。

左には「各国鑵詰」の看板。

見慣れた花小路の趣が変わってしまったのは、とても残念です。
でも家具や店内の看板などは、近くの皆さんが再利用されて、引き継がれています。
善光寺表参道から西に入る「花小路(花屋小路)」。
2007年当時の模様はこちら。
「善光寺表参道の小路めぐり、花小路・馬小路」
西町の通りを出る角の「室川商店」が取り壊されて駐車場になりました。
写真は1ヶ月程前の、解体中だった建物。右の小路が花小路。

中央の「室川商店」の看板は取り外され、右に「和洋酒類」の看板。

左には「各国鑵詰」の看板。

見慣れた花小路の趣が変わってしまったのは、とても残念です。
でも家具や店内の看板などは、近くの皆さんが再利用されて、引き継がれています。
2010年10月11日
自転車で小路めぐり
最低気温14,0度、最高気温24,0度。
体育の日の今日。午前中に小雨が降りましたが、じきに晴れて気温が上がりました。
連休最終日の今日。
夕方、善光寺界わいは、全国ナンバーの車で渋滞していました。
私は自転車で、町の中の小路をめぐりました。
立町から桜枝町にかけて続く「うちわや小路」。
奥に見える山は、紅葉が始まった「地附山(じづきやま)」。

その他、「なべや小路」「清水小路」「しまんりょ小路」「はんこや小路」などをめぐりました。
暑かった夏は、敬遠していた自転車。
でも小回りのきく自転車は、表参道界わいをめぐるのには最適。
今日は、気温が上がって、夕方でも汗ばむような気温でした。
体育の日の今日。午前中に小雨が降りましたが、じきに晴れて気温が上がりました。
連休最終日の今日。
夕方、善光寺界わいは、全国ナンバーの車で渋滞していました。
私は自転車で、町の中の小路をめぐりました。
立町から桜枝町にかけて続く「うちわや小路」。
奥に見える山は、紅葉が始まった「地附山(じづきやま)」。

その他、「なべや小路」「清水小路」「しまんりょ小路」「はんこや小路」などをめぐりました。
暑かった夏は、敬遠していた自転車。
でも小回りのきく自転車は、表参道界わいをめぐるのには最適。
今日は、気温が上がって、夕方でも汗ばむような気温でした。
naganoetokino1 at 22:18|Permalink│
2008年09月07日
2007年04月23日
善光寺門前の「虎御前」ゆかりの地
昨日と変わらず、10度台の温かな朝。
昨夜降った雨も上がり、さわやかな週明けです。
日中の気温も、夏日だった昨日とは違って、平年並みの予想。
今日は、善光寺門前に残る「虎御前」の遺跡「虎が石」をご紹介します。
国道406号線に面した善光寺三鎮守のひとつ「武井神社」。
境内の西側から入る小路が「虎小路」です。

小路の奥から見た、国道406号線。
通りの向こうには、長野市の施設「ちょっ蔵おいらい館」があります。
現在、建物の破損の修復のめどがたたず休館中。

小路はカーブしていますが、その一角にあるのが「虎が石」。
長野市制百周年事業で整備され、第二地区では「由来の碑」を建立。

これが「虎が塚」で、「善光寺七塚のひとつ」と書かれています。
元々、江戸時代には「善光寺七名所」と呼ばれた場所がありました。
七名所とは「七寺、七社、七橋、七池、七清水、七塚、七小路」です。
でも現在では、ほとんど昔の面影がなくなってしまっています。

すぐ脇には「虎が橋」「善光寺七橋のひとつ」の標柱もあります。

「虎化粧の井戸」の標柱もあります。

由来の碑にはこのように書かれています。
このような虎御前の遺跡は、全国各地にあります。
夫、小林一郎(長野郷土史研究会会長)は、著書『門前町伝説案内』の中で、次のように書いています。
「それは『虎』と名乗って全国を巡り、虎御前の物語を語る尼たちがいたからだと考えられています。善光寺はその拠点の一つだったのでしょう」

すぐ近くには、虎が住んでいたといわれる「虎石庵」跡もあります。それはまたご紹介します。
小路の奥に、ひっそりと眠る遺跡。門前町ならではの趣きです。
昨夜降った雨も上がり、さわやかな週明けです。
日中の気温も、夏日だった昨日とは違って、平年並みの予想。
今日は、善光寺門前に残る「虎御前」の遺跡「虎が石」をご紹介します。
国道406号線に面した善光寺三鎮守のひとつ「武井神社」。
境内の西側から入る小路が「虎小路」です。

小路の奥から見た、国道406号線。
通りの向こうには、長野市の施設「ちょっ蔵おいらい館」があります。
現在、建物の破損の修復のめどがたたず休館中。

小路はカーブしていますが、その一角にあるのが「虎が石」。
長野市制百周年事業で整備され、第二地区では「由来の碑」を建立。

これが「虎が塚」で、「善光寺七塚のひとつ」と書かれています。
元々、江戸時代には「善光寺七名所」と呼ばれた場所がありました。
七名所とは「七寺、七社、七橋、七池、七清水、七塚、七小路」です。
でも現在では、ほとんど昔の面影がなくなってしまっています。

すぐ脇には「虎が橋」「善光寺七橋のひとつ」の標柱もあります。

「虎化粧の井戸」の標柱もあります。

由来の碑にはこのように書かれています。
このような虎御前の遺跡は、全国各地にあります。
夫、小林一郎(長野郷土史研究会会長)は、著書『門前町伝説案内』の中で、次のように書いています。
「それは『虎』と名乗って全国を巡り、虎御前の物語を語る尼たちがいたからだと考えられています。善光寺はその拠点の一つだったのでしょう」

すぐ近くには、虎が住んでいたといわれる「虎石庵」跡もあります。それはまたご紹介します。
小路の奥に、ひっそりと眠る遺跡。門前町ならではの趣きです。
naganoetokino1 at 09:57|Permalink│Comments(0)│
2007年03月10日
善光寺表参道の小路めぐり(9)花小路・馬小路
今日は表参道から西に入る小路をご紹介しましょう。
「ぱてぃお大門」の向かい側。
「長野市大門市民連絡室」の脇を西に入ります。
場所はこちら。
表参道から入った小路の名前は「花小路」。
または「花屋小路」とも言いました。とても趣のある小路。
昔、この小路に「花屋」という酒屋があったからだ、という説があります。

小路を進むと、「西町」の通りに交差します。
その先には、また小路が続きます。
この小路を、かつては「馬小路」と呼んだそうです。

ミラーの付いた通りを渡ると、「長野天神」(長門町)の参道が続きます。鳥居の向こうに社が見えます。

鳥居の入り口には大きな標柱「天神社」。

「長野天神」は「長門町(ながとちょう)」と「西町上(かみ)」の産土神。
この付近は「長野」の名前の発祥の地。そこで天神社の名前にもなっています。
江戸時代の長門町は「天神宮町(てんじんみやまち)」と言いました。

「長野天神」については、
2006年1月17日ブログ「大地震を今に伝える表参道の遺跡」
8月2日ブログ「善光寺門前の天神さんをご案内」をどうぞ。
「ぱてぃお大門」の向かい側。
「長野市大門市民連絡室」の脇を西に入ります。
場所はこちら。
表参道から入った小路の名前は「花小路」。
または「花屋小路」とも言いました。とても趣のある小路。
昔、この小路に「花屋」という酒屋があったからだ、という説があります。

小路を進むと、「西町」の通りに交差します。
その先には、また小路が続きます。
この小路を、かつては「馬小路」と呼んだそうです。

ミラーの付いた通りを渡ると、「長野天神」(長門町)の参道が続きます。鳥居の向こうに社が見えます。

鳥居の入り口には大きな標柱「天神社」。

「長野天神」は「長門町(ながとちょう)」と「西町上(かみ)」の産土神。
この付近は「長野」の名前の発祥の地。そこで天神社の名前にもなっています。
江戸時代の長門町は「天神宮町(てんじんみやまち)」と言いました。

「長野天神」については、
2006年1月17日ブログ「大地震を今に伝える表参道の遺跡」
8月2日ブログ「善光寺門前の天神さんをご案内」をどうぞ。
2006年12月22日
善光寺表参道の小路めぐり(8)金刀毘羅通り
今日は冬至。今朝の最低気温は−0,5度。最高気温は6,8度。
雪は全くなくて、曇りがちながら穏やかな日でした。
しばらくご無沙汰していた、善光寺表参道の小路めぐり。
今回は花街だった「権堂」の小路をご紹介しましょう。
長野のような一地方都市に、「権堂」のような大規模な花街があるのは、善光寺が大勢の参拝者の集まるお寺だったからです。
さて今の「アーケード通り」は、かつては「遊郭道路」と呼ばれていました。
明治11年、公娼制度によりそれまで権堂の町中にあった遊郭は、
その先の「鶴賀新地」(現在の東鶴賀)に全て移転しました。
その遊郭に行く道路が「相生町通り」でしたが、
当時は直接表参道には通じていませんでした。
「相生町通り」が表参道までつながったのは大正2年。
現在のようなアーケードができたのは、昭和36年です。
表参道から入るこの通りは、現在「金比羅通り」と呼ばれています。
場所はこちら。
南(右手)には「セントラルスクエア」。南の角は「やま本店」。

この通りは、元々「権堂小路」と呼ばれていました。
この通りが権堂では最も古い通りのひとつで、表参道から「表権堂」と呼ばれている通りまでは広かったのですが、その続きは狭い小路でした。
それが明治26年に整備拡張が行われ、昭和56年には「金刀毘羅通り」と名称変更しました。

通りを進むと、柵の中に右手に「聖徳太子の碑」があります。

その続きにあるのが、通りの名前の元になっている「金刀毘羅社」です。
社殿は東を向いています。

9月10日に行われている「秋祭り」。
権堂1丁目が中心となった、金刀毘羅講の皆さんが大切におまつりしています。

雪は全くなくて、曇りがちながら穏やかな日でした。
しばらくご無沙汰していた、善光寺表参道の小路めぐり。
今回は花街だった「権堂」の小路をご紹介しましょう。
長野のような一地方都市に、「権堂」のような大規模な花街があるのは、善光寺が大勢の参拝者の集まるお寺だったからです。
さて今の「アーケード通り」は、かつては「遊郭道路」と呼ばれていました。
明治11年、公娼制度によりそれまで権堂の町中にあった遊郭は、
その先の「鶴賀新地」(現在の東鶴賀)に全て移転しました。
その遊郭に行く道路が「相生町通り」でしたが、
当時は直接表参道には通じていませんでした。
「相生町通り」が表参道までつながったのは大正2年。
現在のようなアーケードができたのは、昭和36年です。
表参道から入るこの通りは、現在「金比羅通り」と呼ばれています。
場所はこちら。
南(右手)には「セントラルスクエア」。南の角は「やま本店」。

この通りは、元々「権堂小路」と呼ばれていました。
この通りが権堂では最も古い通りのひとつで、表参道から「表権堂」と呼ばれている通りまでは広かったのですが、その続きは狭い小路でした。
それが明治26年に整備拡張が行われ、昭和56年には「金刀毘羅通り」と名称変更しました。

通りを進むと、柵の中に右手に「聖徳太子の碑」があります。

その続きにあるのが、通りの名前の元になっている「金刀毘羅社」です。
社殿は東を向いています。

9月10日に行われている「秋祭り」。
権堂1丁目が中心となった、金刀毘羅講の皆さんが大切におまつりしています。

2006年08月07日
善光寺表参道の小路めぐり(7)
今日の長野は最高気温を更新。何と34度6分でした。
夜になっても気温はなかなか下がりません。
今日は小路めぐりの7回目。新設された「トイーゴパーキング」脇の小路をご紹介します。
昭和通り沿いの右手がお茶の「山喜園」。左手が自転車の「竹内商会」。
その間の道が「清水小路」です。
この小路は、昔は表参道の「みずほ銀行」南側から入りました。
たぶん百貨店「ながの丸善」ができた時に小路の入り口は替えられました。

小路を進むと右手に「みずほ銀行」駐車場。
昭和通りから小路を通って、車が入ってきます。

さらに進むと左手に新設された「トイーゴパーキング」。

もう少し進んで、歩いてきた方を振り返った写真。右手がパーキング。

小路の先には最近拡幅された「千歳町通り」が見えてきます。
左手は「山田種苗店」。かつては昭和通りに面した「長野そごう」の西側にありました。

「千歳町通り」の入り口にまつられた「庚申塔」。
後ろにそびえるのは「トイーゴパーキング」。その後ろには9月オープンする「SBC信越放送」の「トイーゴ」のアンテナ。
この「庚申塔」は、少し前までは小路の途中にまつらていました。
こうして周りの変遷とともに、文化財も移動します。
新しい玉砂利が敷かれた上に据えられ、時代の流れを見つめてきた庚申塔。
今、いったい何を思っているのでしょうか。

「庚申塔」のことは、3月31日ブログ「人々の生活が息づく小路」で取り上げています。ご覧ください。
夜になっても気温はなかなか下がりません。
今日は小路めぐりの7回目。新設された「トイーゴパーキング」脇の小路をご紹介します。
昭和通り沿いの右手がお茶の「山喜園」。左手が自転車の「竹内商会」。
その間の道が「清水小路」です。
この小路は、昔は表参道の「みずほ銀行」南側から入りました。
たぶん百貨店「ながの丸善」ができた時に小路の入り口は替えられました。

小路を進むと右手に「みずほ銀行」駐車場。
昭和通りから小路を通って、車が入ってきます。

さらに進むと左手に新設された「トイーゴパーキング」。

もう少し進んで、歩いてきた方を振り返った写真。右手がパーキング。

小路の先には最近拡幅された「千歳町通り」が見えてきます。
左手は「山田種苗店」。かつては昭和通りに面した「長野そごう」の西側にありました。

「千歳町通り」の入り口にまつられた「庚申塔」。
後ろにそびえるのは「トイーゴパーキング」。その後ろには9月オープンする「SBC信越放送」の「トイーゴ」のアンテナ。
この「庚申塔」は、少し前までは小路の途中にまつらていました。
こうして周りの変遷とともに、文化財も移動します。
新しい玉砂利が敷かれた上に据えられ、時代の流れを見つめてきた庚申塔。
今、いったい何を思っているのでしょうか。

「庚申塔」のことは、3月31日ブログ「人々の生活が息づく小路」で取り上げています。ご覧ください。
naganoetokino1 at 22:58|Permalink│Comments(0)│
2006年07月26日
善光寺表参道の小路めぐり(6)
今日気象庁は、九州と四国が梅雨明けしたと発表しました。
平年より8日から13日遅れ。
長野の梅雨明けはまだですが、今日は暑い一日となりました。
表参道沿い西側の小路をご紹介します。
明治4年創業の「千曲堂印舖」脇を入る小路が「はんこ屋小路」。
はんこ屋さんがあることから付いた小路の名前です。

小路側から表参道を見た写真。

表参道から小路に入ると、急な上り坂です。
小路の奥左手には、左から「庚申塔」「道祖神」「二十三夜塔」「道祖神(祠の中に男根石あり)」がまつられています。三柱(みはしら)神社と言って新田町の鎮守。8月25日には、年1回のお祭りが行われます。

その脇に建つのが昭和51年建設の「新田町公民館」。
写真は小路を出た通り側から撮影。
公民館1階には「長野銀座商店街事務所」を併設。

区長さんの案内で、公民館脇の倉庫に収納されている町の神輿を見学しました。
戦後は人出不足で担がれていない神輿。高さ2メートル、重さは300キロ。
今年の秋には、「トイーゴ」完成に合わせて巡行する予定です。
50名の担ぎ手は市民に参加を募るそうです。

平年より8日から13日遅れ。
長野の梅雨明けはまだですが、今日は暑い一日となりました。
表参道沿い西側の小路をご紹介します。
明治4年創業の「千曲堂印舖」脇を入る小路が「はんこ屋小路」。
はんこ屋さんがあることから付いた小路の名前です。

小路側から表参道を見た写真。

表参道から小路に入ると、急な上り坂です。
小路の奥左手には、左から「庚申塔」「道祖神」「二十三夜塔」「道祖神(祠の中に男根石あり)」がまつられています。三柱(みはしら)神社と言って新田町の鎮守。8月25日には、年1回のお祭りが行われます。

その脇に建つのが昭和51年建設の「新田町公民館」。
写真は小路を出た通り側から撮影。
公民館1階には「長野銀座商店街事務所」を併設。

区長さんの案内で、公民館脇の倉庫に収納されている町の神輿を見学しました。
戦後は人出不足で担がれていない神輿。高さ2メートル、重さは300キロ。
今年の秋には、「トイーゴ」完成に合わせて巡行する予定です。
50名の担ぎ手は市民に参加を募るそうです。

2006年07月21日
善光寺表参道の小路めぐり(5)
昨日は上がった雨でしたが、今日も午前中は雨。
県内の被害が出た地域では、今日も多くの方が避難生活を余儀なくされています。
今日は表参道から入る小路をご紹介します。
表参道の問御所町にあるお寺は「栽松院」(写真左手の端)。
この寺の南側から南東に入る小路が「しまんりょ小路」。
栽松院の境内入り口には観音堂が建っています。昔はお寺の事を「寮(りょう)」と言いました。その「寮」の両側には川が流れていて、表参道から見ると島のように見えました。そこで
「島の寮(しまのりょう)」→「しまんりょう」→「しまんりょ小路」

「しまんりょ小路」の両側に並んだお店。
食事処や衣料品店などおしゃれなお店が多いようです。

「南千歳町交差点」側から見た小路。
ここは昭和42年〜平成2年までの区画整理が行われるまでは辻になっていて、「しまんりょ小路」の先は栗田方面に向かう「栗田街道」と言いました。

かつては栗田方面から表参道に通じていた「栗田街道」。
中世には栗田城のお殿様が通ったことから「栗田さんのお成り道」と呼ばれていたそうです。
県内の被害が出た地域では、今日も多くの方が避難生活を余儀なくされています。
今日は表参道から入る小路をご紹介します。
表参道の問御所町にあるお寺は「栽松院」(写真左手の端)。
この寺の南側から南東に入る小路が「しまんりょ小路」。
栽松院の境内入り口には観音堂が建っています。昔はお寺の事を「寮(りょう)」と言いました。その「寮」の両側には川が流れていて、表参道から見ると島のように見えました。そこで
「島の寮(しまのりょう)」→「しまんりょう」→「しまんりょ小路」
「しまんりょ小路」の両側に並んだお店。
食事処や衣料品店などおしゃれなお店が多いようです。
「南千歳町交差点」側から見た小路。
ここは昭和42年〜平成2年までの区画整理が行われるまでは辻になっていて、「しまんりょ小路」の先は栗田方面に向かう「栗田街道」と言いました。
かつては栗田方面から表参道に通じていた「栗田街道」。
中世には栗田城のお殿様が通ったことから「栗田さんのお成り道」と呼ばれていたそうです。
2006年06月15日
善光寺表参道の小路めぐり(4)
これまでの空梅雨から、一変して雨風の強い一日でした。植物や農作物にとっては惠の雨となったことでしょう。今日は出かける予定がなく原稿の執筆に取り組みました。
夕方、雨の中を手紙を出しに行こうとして、使い慣れた傘がないことに気がつきました。どうやら先日行った美容院に忘れてきたようです。仕方なくいつもと違う傘をさして出かけました。いつもの無地と違って、予備の花柄の傘は何だか気持ちまで明るくしてくれました。
今日も小路をお伝えしましょう。
この広い4車線の道路が小路?と、思われるかもしれません。この道路は、元々「下堀(しもぼり)小路」と呼ばれ「善光寺七小路」のひとつでした。現在は国道406号線の一部となっており、かつての小路の面影は全くありません。左が「八十二銀行大門町支店」、右が「ぱてぃお大門」です。

「下堀小路」の範囲は「大門交差点」から「東町交差点」までの区間。「東町交差点」から次の信号「東町東」までは「武井小路」と呼ばれました。
写真は通りに面して立つ「武井神社」の大きな鳥居。武井神社は湯福(ゆぶく)神社、妻科(つましな)神社とともに、善光寺三鎮守のひとつです。
拝殿内の東の壁には、長野市指定文化財の「御柱祭行列図大絵馬」が掲げられています。縦120cm、横350cmの大きな絵馬。万延元年(1860)の御柱行列の様子が、細かに色鮮やかに描かれています。他に「大正15年の絵馬」「昭和61年の絵馬」があります。各町ごとの行列の様子が写実的に描かれていて、歴史・文化の上でも貴重な絵馬。

武井神社西側の南北の通りは「虎小路」と言います。小路奥に「虎が塚」と「虎石庵」があることから付いた名前です。そのお話は、次の機会にお伝えします。

今日の「長野市民新聞」は武井神社境内の土蔵に長く保管されていた「みこし」の記事を掲載。大正末期以前に寄進され「遷宮祭」などで巡行されましたが、戦後お蔵入りとなっていた「みこし」。神社を守る22の町の氏子有志が調査をして、今後展示や披露して次代に伝えていこうとしています。22の町の連帯意識をはぐくむシンボルとしての活用も考えているようです。
夕方、雨の中を手紙を出しに行こうとして、使い慣れた傘がないことに気がつきました。どうやら先日行った美容院に忘れてきたようです。仕方なくいつもと違う傘をさして出かけました。いつもの無地と違って、予備の花柄の傘は何だか気持ちまで明るくしてくれました。
今日も小路をお伝えしましょう。
この広い4車線の道路が小路?と、思われるかもしれません。この道路は、元々「下堀(しもぼり)小路」と呼ばれ「善光寺七小路」のひとつでした。現在は国道406号線の一部となっており、かつての小路の面影は全くありません。左が「八十二銀行大門町支店」、右が「ぱてぃお大門」です。
「下堀小路」の範囲は「大門交差点」から「東町交差点」までの区間。「東町交差点」から次の信号「東町東」までは「武井小路」と呼ばれました。
写真は通りに面して立つ「武井神社」の大きな鳥居。武井神社は湯福(ゆぶく)神社、妻科(つましな)神社とともに、善光寺三鎮守のひとつです。
拝殿内の東の壁には、長野市指定文化財の「御柱祭行列図大絵馬」が掲げられています。縦120cm、横350cmの大きな絵馬。万延元年(1860)の御柱行列の様子が、細かに色鮮やかに描かれています。他に「大正15年の絵馬」「昭和61年の絵馬」があります。各町ごとの行列の様子が写実的に描かれていて、歴史・文化の上でも貴重な絵馬。
武井神社西側の南北の通りは「虎小路」と言います。小路奥に「虎が塚」と「虎石庵」があることから付いた名前です。そのお話は、次の機会にお伝えします。
今日の「長野市民新聞」は武井神社境内の土蔵に長く保管されていた「みこし」の記事を掲載。大正末期以前に寄進され「遷宮祭」などで巡行されましたが、戦後お蔵入りとなっていた「みこし」。神社を守る22の町の氏子有志が調査をして、今後展示や披露して次代に伝えていこうとしています。22の町の連帯意識をはぐくむシンボルとしての活用も考えているようです。
2006年06月14日
善光寺表参道の小路めぐり(3)
今日も30度近くまで気温が上がり、まるで真夏のような一日。午前中はYさんが見えて、長野郷土史研究会ホームページについて話し合いました。話題は先日報道されたグーグルの「書籍の全文検索」。これまでの書名か著者名、出版社名、副題の書籍検索から、本文の内容や本文中に含まれる言葉で検索する全文検索。グーグルでは、年内開始を目指しているとのことです。表示されたページにはネット書店へのリンクが張られ、利用者の近所にある書店を示す地図にもリンクするとのこと。すでにアメリカでは2004年からスタートしているこのシステム。さあ日本では今後、書店・出版社はどうなっていくのでしょうか。そんな時代の流れの中、私たちにできることは何なのかを考えました。
今日ご紹介する小路は、大門町の「そば処藤木庵」の北側を南に入る「上堀(かんぼり)小路」。江戸時代に紹介された「善光寺七小路」のひとつ。小路の入り口に鳩が一羽たたずんでいました。

小路の奥にあるのは、昨年11月に完成した市営の「善光寺表参道東町駐車場」。出入り口は南側の国道406号線側にあって、「ぱてぃお大門」の指定駐車場にもなっています。「ぱてぃお大門」と同時期のオープンです。

今日ご紹介する小路は、大門町の「そば処藤木庵」の北側を南に入る「上堀(かんぼり)小路」。江戸時代に紹介された「善光寺七小路」のひとつ。小路の入り口に鳩が一羽たたずんでいました。
小路の奥にあるのは、昨年11月に完成した市営の「善光寺表参道東町駐車場」。出入り口は南側の国道406号線側にあって、「ぱてぃお大門」の指定駐車場にもなっています。「ぱてぃお大門」と同時期のオープンです。
2006年06月13日
善光寺表参道の小路めぐり(2)
善光寺表参道にあるたくさんの小路。名前の付いた小路を順次ご紹介していきます。
まず大門町にある「広小路」。表参道の「門前農館(もんぜんのやかた)」の南を西に入ります。写真は表参道側から撮影。左手には「市営大門有料駐車場」があります。
昨年(平成17年)春、敷石風に整備されて、小路中ほどに石柱が立ちました。「広小路」と書かれています。写真は小路を西側から撮影。右は「善光寺大門町営表参道有料パーキング」。
700メートルほどの小路をぬけると、車の通る道路に出ます。その道路を横切ると、「安養山 極楽院 西方寺」(西町)の参道につながります。500メートルの参道の突き当たりには西方寺の山門があります。門の上には「安養山」右には「浄土宗 西方寺」と書かれています。「安養」「西方」とも「極楽」の意味です。明治4年(1871)には、門の奥突き当たりにある西方寺の本堂に、「長野県庁」が置かれました。広小路は県庁のお役人たちや県民が行き来した通りでした。
小路の奥の境内の様子は、5月1日付けブログ「祭典の花々と自然の花々の競演」をご覧ください。

今日ご紹介した「広小路」の名の由来ははっきりしません。でも小路の名前には様々な歴史やいわれが残っているものもあります。かつて小路は人々の生活が営まれ、子どもたちの声が響いていました。小路をめぐって、そんな時代にタイムスリップしてみませんか。
まず大門町にある「広小路」。表参道の「門前農館(もんぜんのやかた)」の南を西に入ります。写真は表参道側から撮影。左手には「市営大門有料駐車場」があります。
昨年(平成17年)春、敷石風に整備されて、小路中ほどに石柱が立ちました。「広小路」と書かれています。写真は小路を西側から撮影。右は「善光寺大門町営表参道有料パーキング」。
700メートルほどの小路をぬけると、車の通る道路に出ます。その道路を横切ると、「安養山 極楽院 西方寺」(西町)の参道につながります。500メートルの参道の突き当たりには西方寺の山門があります。門の上には「安養山」右には「浄土宗 西方寺」と書かれています。「安養」「西方」とも「極楽」の意味です。明治4年(1871)には、門の奥突き当たりにある西方寺の本堂に、「長野県庁」が置かれました。広小路は県庁のお役人たちや県民が行き来した通りでした。
小路の奥の境内の様子は、5月1日付けブログ「祭典の花々と自然の花々の競演」をご覧ください。
今日ご紹介した「広小路」の名の由来ははっきりしません。でも小路の名前には様々な歴史やいわれが残っているものもあります。かつて小路は人々の生活が営まれ、子どもたちの声が響いていました。小路をめぐって、そんな時代にタイムスリップしてみませんか。
2006年03月31日
人々の生活が息づく小路
朝起きて外を見ると、塀の上にうっすらと積もった雪。まるで真冬に戻ってしまったような寒い一日でした。今日は3月31日、月末で年度の終わりの金曜日。銀行や郵便局は、随分込み合っていました。
昨日の「ブログ写真クイズ」の答えです。
(1)は「お蔵小路」。
小路の途中右手にあるのが延命庵。後ろにそびえる「トイーゴ」の建物。

庵の前には、お地蔵様が静かに佇んでいらっしゃいます。

小路の突き当りにある鳥居は「於菊(おきく)稲荷」。
通りがかりの人が、そっと手を合わせている姿を見かけます。

小さな社ながら、竜の彫刻が見事。

(2)は「上堀(かんぼり)小路」
小路をぬけると、昨年11月オープンした市営の駐車場があります。写真は、「ぱてぃお大門」側から見た駐車場の看板。
「善光寺表参道東町駐車場」の名前と、工夫を凝らした看板が目を引きます。提案した大門町の商店主たちの心意気が伝わってきます。

(3)は「清水小路」。
名前の通り、かつてこの当たりには清水が湧いていました。その水を利用した造り酒屋、サイダー工場、醤油醸造場などがあったそうです。
現在、北側に立体駐車場を建設中。小路の途中には庚申塔があり、新旧が相対しています。

万延元年(1860)と刻まれた庚申塔。

表参道からちょっと入った小路。そこは懐かしい風景と共に、人々の信仰や生活が今なお息づいています。古いものを排除するのではなく、新旧が共存し、相調和した表参道の発展を願うばかりです。
昨日の「ブログ写真クイズ」の答えです。
(1)は「お蔵小路」。
小路の途中右手にあるのが延命庵。後ろにそびえる「トイーゴ」の建物。
庵の前には、お地蔵様が静かに佇んでいらっしゃいます。
小路の突き当りにある鳥居は「於菊(おきく)稲荷」。
通りがかりの人が、そっと手を合わせている姿を見かけます。
小さな社ながら、竜の彫刻が見事。
(2)は「上堀(かんぼり)小路」
小路をぬけると、昨年11月オープンした市営の駐車場があります。写真は、「ぱてぃお大門」側から見た駐車場の看板。
「善光寺表参道東町駐車場」の名前と、工夫を凝らした看板が目を引きます。提案した大門町の商店主たちの心意気が伝わってきます。
(3)は「清水小路」。
名前の通り、かつてこの当たりには清水が湧いていました。その水を利用した造り酒屋、サイダー工場、醤油醸造場などがあったそうです。
現在、北側に立体駐車場を建設中。小路の途中には庚申塔があり、新旧が相対しています。
万延元年(1860)と刻まれた庚申塔。
表参道からちょっと入った小路。そこは懐かしい風景と共に、人々の信仰や生活が今なお息づいています。古いものを排除するのではなく、新旧が共存し、相調和した表参道の発展を願うばかりです。
naganoetokino1 at 22:30|Permalink│TrackBack(0)│