寺社・史跡

2018年10月13日

鳥居から参道2辧標高差140m 戸隠神社奥社に参拝

11日(木)に「戸隠神社」に参拝してきました。
戸隠山の麓にある戸隠神社は、五社(奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社)から成り立っています。投げ飛ばされた「天の岩戸」でできたという戸隠山。天の岩戸開きの神事に功績のあった神々を、ご祭神としてお祀りしています。

奥社の駐車場に車を止めて進むと、最初にある奥社の大鳥居(標高1210m)。
『善光寺道名所図会』には、この鳥居が大雪で埋まってしまい、元日に別当が参詣の折、輿を人夫に引かせて、鳥居の上を行くと書かれています。鳥居の高さは2丈(6m)。KIMG2560

奥社参道の中間点にある茅葺・朱塗りの随神門。(奥社参道入口から15分)
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かつては顕光寺という寺だった戸隠神社。明治の初めに寺から神社となりました。
この門はかつては仁王門で、仁王像がまつられていました。現在、その像は善光寺境内に隣接した寛慶寺本堂内に安置されています。
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随神門をくぐると、樹齢420年の杉並木(県史跡・天然記念物)が続きます。500mに渡って200本の杉が生えています。両側には、かつて院坊がたくさん並んでいました。その面影を随所に見ることができます。
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杉並木を過ぎると、石段が続きます。この辺りまで来るとかなりきついので、降りてくる参拝者が「もう少し。頑張って」「ありがとうございます」と励まし合っていました。この後、もっと急な石段が続きます。
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最後の石段を登ると、奥社が見えてきます。後ろは切り立った戸隠山。
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戸隠神社の本社である奥社(標高1350m)。(奥社参道入り口から徒歩40分。随神門から25分)何度も雪崩に遭って倒壊し、社は昭和53年にコンクリート製となりました。左手は絵馬堂。中には岩戸開きの絵馬が掛かっています。
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紅葉が美しい鏡池の右脇の木々。晴れていれば背後の戸隠連峰が水面に写ります。
狭い山道なので、10月の土日祝は、近くまで乗用車で行くことができません。
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紅葉の時期で、多くの参拝者で賑わっていました。奥社参道ですれ違うたびに挨拶を交わしたり、励まし合う姿がありました。中社前の蕎麦店や宿坊には、長蛇の列ができていました。
有名な杉並木は、最近、その保護が問題になっています。「保護に向けての動き」が始まっています。
奥社参道は杉並木が知られていて、気軽に歩けると考えて参拝する方が大勢います。
でも鳥居から奥社までの約2劼了夏擦良弦盧垢140mありました。かなりの急こう配です。体調を考えて、履物にもお気をつけて、時間に余裕を持ってご参拝ください。

2006年3月ブログ「長野駅と善光寺の標高差は?」善光寺表参道は2劼44,5mです。

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2018年10月12日

上杉謙信が再興した越後の「五智国分寺」に参拝

6日(土)に「五智国分寺」(新潟県上越市五智)に参拝しました。
越後の国では国分寺の場所は諸説あり、特定できていません。現在の国分寺は、上杉謙信が永禄5年(1562)に廃寺になっていた寺を真言宗の寺として再興したものです。

昭和63年に焼失した本堂は、平成9年に10年の歳月を掛けて再建されました。
鎌倉時代の建築様式を模した、入母屋造り,銅版葺き、間口7間、奥行き6間。
用材は主に青森ヒバ材で、床に至るまで槍鉋(やりがんな)で仕上げられています。
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安政3年(1856)に着工、今だに未完成のままという三重塔。
高さ26m(県指定文化財)
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三重塔の説明板。(拡大してご覧ください)
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同寺の山門。天保6年(1835)建立。立木の姿のままの柱は、あまり例がないそうです。屋根瓦の一部が落ちて危険なため、修復の寄付を募っていました。
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「五智」とは「五智如来」を安置しているからです。
左から阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、宝生如来、釈迦如来がまつられています。
昭和63年に本堂と共に焼失しましたが、新たに造られました。
五体の本尊は半丈六(約130僉砲如▲劵離の一木造り、漆と金泊で古代色に仕上げれた立派な像です。

お寺の方の話では、かつて長野県からは修学旅行などで立ち寄ったそうです。
当時訪れた人は、たくさんの杉の木に囲まれているお寺というイメージがあるそうです。今は木が切られて広々とした境内ですね、という感想が寄せられるということでした。

なお本堂の右脇には、親鸞聖人がお住まいになった「竹之内草庵」跡があります。聖人が自らのお姿を写して刻んだという「親鸞聖人像」(市文化財)がまつられています。

2018年10月9日ブログ「親鸞聖人の旧跡(3) 竹之内草庵を訪ねて

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2018年10月09日

親鸞聖人の旧跡(3)「竹之内草庵」を訪ねて

10月6日(土)新潟県上越市に行った折、親鸞聖人の旧跡を訪ねました。

親鸞聖人の旧跡(1)上陸の地、居多ヶ浜を訪ねて
親鸞聖人の旧跡(2)居多神社を訪ねて

五智国分寺本堂の右脇に建つ竹之内草庵を復元した建物。親鸞聖人が1年間流人生活を送ったという場所。「親鸞聖人御配所草庵」と書かれています。内部には親鸞聖人坐像(上越市指定文化財)が安置されています。
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建物の脇に建つ「国府小学校発祥の地」の石碑。
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建物の周辺にある遠忌800年記念の「親鸞聖人腰掛石」と「親鸞聖人像」。
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やはり遠忌800年記念の親鸞聖人御真筆の「南無阿弥陀仏」の碑。
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10月6日ブログ「善光寺世尊院釈迦堂の御本尊、釈迦涅槃像の舞台を訪ねて
同ブログ「善光寺と関わりの深い十念寺(浜善光寺)に参拝

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親鸞聖人の旧跡(2)「居多神社」を訪ねて

10月6日(土)新潟県上越市に行った折、親鸞聖人の旧跡を訪ねました。

親鸞聖人旧跡(1)上陸の地、居多ヶ浜を訪ねて

居多ヶ浜の近くにある、越後国の一の宮「居多神社」。
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境内の案内板。親鸞聖人は上陸後、最初に参拝されました。現在、親鸞聖人の御詠歌と日の丸の名号が所蔵されています。(拡大してご覧ください)
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同社の拝殿。縁結び・子宝・安産の御利益があり、親子連れが参拝していました。
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親鸞聖人像が建つ境内。
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境内に群生するという「親鸞聖人 越後七不思議 片葉の葦」の説明板。
(拡大してご覧ください)
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境内に生えていた片葉の葦。(拡大してご覧ください)
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10月6日ブログ「善光寺世尊院釈迦堂の御本尊、釈迦涅槃像の舞台を訪ねて
同ブログ「善光寺と関わりの深い十念寺(浜善光寺)に参拝

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2018年10月08日

親鸞聖人の旧跡(1)上陸の地「居多ヶ浜」を訪ねて

10月6日(土)新潟県上越市に行った折、親鸞聖人の旧跡を訪ねました。

上陸の地と言われる居多ヶ浜。水平線上には佐渡島、右手には直江津港が見えます。
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上陸の地に立つ案内板。右手に階段があって、展望台のようになっています。
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奥に建つのが、親鸞聖人座像をまつる八角形の「見真堂」。
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親鸞聖人像。
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「親鸞聖人 越後七不思議 第一番 片葉の葦」の石碑。
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すぐ近くに生えていた片葉の葦。葉が片側一方向にだけ伸びる葦。親鸞聖人が居多神社に参詣し念じたところ、池に生える葦が一夜にして片葉になったと伝えられています。
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10月6日ブログ「善光寺世尊院釈迦堂の御本尊、釈迦涅槃像の舞台を訪ねて
同ブログ「善光寺と関わりの深い十念寺(浜善光寺)に参拝

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2018年10月06日

善光寺と関わりの深い「十念寺」(浜善光寺)に参拝

6日(土)に「十念寺(浜善光寺)」(新潟県上越市五智)に参拝しました。同寺は、善光寺会の会員でもあります。

十念寺は浄土宗。天平年間(729〜749年)行基(ぎょうき)が創建。川中島の戦いの際、上杉謙信公が信濃の善光寺の本尊を戦火から守るために十念寺に移したことから、「浜善光寺」と呼ばれています。
通りに面して「信州善光寺大本願別院 浜善光寺 浄土宗 十念寺」と書かれています。奥が十念寺。
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旧北国街道沿いに建つ十念寺。「不捨山」と「信州善光寺大本願別院」の標柱が建っています。
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本堂は昭和13年(1938)に火災で焼失。平成元年(1989)に再建。本堂内には、お戒壇巡りがあります。
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境内にある五輪塔は本堂跡から出土。鎌倉時代のもので、上越市の文化財指定。
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五輪塔の説明板。(拡大してご覧ください)
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十念寺の説明板。(拡大してご覧ください)
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案内板によると「十念寺に安置されていた釈迦涅槃像が、天延3年(974)4月、善光寺上人のお告げによって善光寺に移されました。そのご縁で、善光寺からは尊像と善光・弥生の像をお迎えしました」。
現在も、本堂内には、陶製の本田善光と弥生の前の像がまつられていました。

川中島の合戦の折には、上杉謙信が戦火から守るために、信州善光寺の御本尊や仏具をこの寺に移しました。本堂内には、上杉謙信の像もまつられていました。

お戒壇巡りをしましたが、入り口には閻魔大王が、出口には弥勒菩薩がまつられていました。また本堂内には大数珠が掛けられていて、御越年法会と涅槃会には、数珠回しが行われるそうです。

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善光寺世尊院釈迦堂の本尊「釈迦涅槃像」の舞台を訪ねて

10月6日(土)新潟県上越市(旧直江津市)に、善光寺世尊院釈迦堂の御本尊・釈迦涅槃像のいわれの地を訪ねました。台風25号が近づいていてフェーン現象で、上越市大潟の最高気温は35,7度でした。

釈迦涅槃像は、越後の国の居多ヶ浜(こたがはま)で、漁師が網で引き揚げた流木の中からご出現したと言われています。
水平線上に佐渡島が見える浜。善光寺浜と呼ばれています。右手には直江津港が見えました。
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浜に置かれた流木は、いつのまにか「居多神社」の境内に移動しました。
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薪にしようと漁師たちが斧をふるうと、流木の中から釈迦涅槃像がご出現しました。そこで近くのお寺に安置しました。
釈迦涅槃像が最初にまつられた十念寺(浜善光寺)。
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十念寺にまつられた釈迦涅槃像は、その後お告げによって善光寺へ運ばれました。
現在、善光寺世尊院釈迦堂の御本尊、釈迦涅槃像のいわれは、善光寺参りの絵解きでもお伝えしています。

近くには、今年6月26日にオープンした上越市立水族博物館「うみがたり」があります。3カ月で、早くも累計入館者数が30万人を突破したそうです。周辺は、「長野」ナンバーの車で賑わっていました。

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2018年09月19日

かるかや山西光寺に「石油会社社員の墓」の案内板立つ

「かるかや山西光寺」(北石堂町)の境内に、案内板が立ちました。

本堂前の北側、七福神の一つ、寿老人像の背後に設置された案内板。
「日本初の石油精製所 かるかや山西光寺
石坂周造ゆかり 日本で最初の石油会社 長野石炭油会社 社員の墓」
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墓地の奥に立つ案内板。
「日本最初の石油会社 石炭油会社 社員の墓」
墓石からは「石油会社」「九州の地名」「個人の名前」を読み取ることができます。
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「かるかや山西光寺」は日本初の石油会社発祥の地です。
創業者は長野県北部、豪雪の水内郡桑名川村(飯山市照岡)出身の石坂周造。
明治4年(1871)に東京湯島に「長野石炭油会社」を設立。
(明治5年に「長野石油会社」に改称)
かるかや山西光寺の本堂を借りて明治4年(1871)9月に操業を開始。
石油精製所を置きました。(『長野県町村誌』では庫裏で操業)
原油は長野市内の浅川真光寺地区から運びました。

その後、西光寺では手狭となったため、西光寺から200メートルほど南に社屋を新築して移転。現在「西友長野石堂店」の場所です。当時の立派な洋風の建物の写真も残っています。
今年度末以降に14階建てビル建て替えが始まる予定の「西友長野石堂店」のビル。
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ところがその後、原油が思うように産出できず、明治9年半ばには休業に近い状態となり、明治14年(1881)に会社は倒産。その後、石油は細々とガラス製造の燃料に使用され、昭和42年(1967)に廃業しました。

いずれにしても文明開化のシンボルともいえる「石油産業」は、この善光寺門前から始まりました。

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2018年09月18日

[全国の絵解き] 祐天寺(中目黒)で「累徳脱曼荼羅」

11月1日(木)〜3日(土)に「祐天寺」(目黒区中目黒)で開催される特別展のお知らせです。
江戸三大幽霊の1人である「かさね」。「かさね」の菩提寺・法蔵寺(茨城県常総市)に伝わる宝物が特別公開されます。また特別企画で、ミニ講座や基調講演が行われます。

研究室職員と僧侶による「ミニ講座」(所要時間約1時間)
会場 本堂
日時 11月1〜2日 11:00〜 14:00〜
         3日 14 :00 〜
入場無料、予約不要
・「累徳脱曼荼羅」の解説
・展示品見どころ解説
・法話
基調講演「祐天上人と累説話」
講師 祐天寺住職 巖谷勝正師
会場 祐光殿
11月3日 11:00〜12:00
入場無料、予約不要
(詳しくはチラシを拡大してご覧ください)
img20180918_1917544518日(火)、祐天寺の研究室職員の方が長野市の「かるかや山西光寺」へお見えになりました。

私もお会いして、お話を伺いチラシをいただきました。とても興味深い、特別展です。

私も是非、拝観したいと思います。皆様も、この機会にご参拝ください。

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2018年09月16日

源頼朝、大竹屋平兵衛ゆかりの「静松寺」(長野市茂菅)

13日(木)「静松(じょうしょう)寺」(長野市茂菅横棚)に参拝しました。
葛山の中腹にあり、東には頼朝山があって源頼朝と関係がある寺です。

同寺の縁起によると、寺の開山は六十六部の頼朝坊(らいちょうぼう)智盛で、日本中を巡った後、善光寺に来て、葛山の麓に庵を結びました。亡くなる時、左の手のひらに「頼朝」と書いて死んだということです。
源頼朝は生まれた時、手のひらに「頼朝」と書いてあり、これによって元服してからの名が決まりました。頼朝は、頼朝坊の生まれかわりだということです。

幕府を開いた頼朝は、焼失した善光寺を再建して、自ら参詣しました。
その時、茂菅の頼朝坊の遺跡を訪れ、寺名を「頼朝山法性院静松寺」と名付け、田地や山林を寄進しました。

標柱が立った入り口。左に「静松寺参道」。右に「浄土宗 頼朝山」。
10月1日〜5日に「五重相伝会」が行われる案内があります。
この前の道は旧戸隠街道で、明治初期まで善光寺町に出る交通の要地でした。
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同寺の本堂。本尊は阿弥陀如来。はじめ現在地の東方、堺沢の古屋敷にあり天台宗。葛山城主落合氏の菩提寺で、葛山落城の時、焼亡。天正15年(1587)浄土宗として、現在地に再興されました。
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本堂の脇に建つ「笈仏殿(おいぶつでん)」。頼朝坊が背負っていたという笈がまつられています。笈仏の戸帳などは、3代将軍家光の室、本理院(鷹司孝子)の寄進。
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施餓鬼会には開扉されて、笈を拝観できるそうです。(拡大してご覧ください)
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笈仏堂の脇には、石仏や石塔が並んでまつられています。
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その中に、善光寺の敷石を寄進した大竹屋平兵衛の墓がありました。
平兵衛は静松寺で出家して、道専と名乗りました。墓は善光寺境内にもあります。
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その大竹屋平兵衛が同寺に寄進した石段。境内の上から見ました。今は危険防止のため使われていません。
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石段の案内板。(拡大してご覧ください)
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善光寺と門前町には源頼朝の伝説がたくさん伝わっていて、絵解きでお伝えしています。また大竹屋平兵衛の敷石寄進も絵解きの大切な演目です。
絵解きでお伝えする思いが一段と深まった参拝でした。

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2018年09月15日

大本願上人が参拝する「加茂神社」秋祭りで伝統の花火

善光寺門前のあちこちで秋祭りが行われています。
善光寺七社のひとつ、加茂神社(西長野)の秋祭りのお知らせです。

明治7年(1874)造営の茅葺屋根の加茂神社の拝殿。
大本願のお上人様が京都から勧請したと伝わり、今でも秋祭りにはお上人様が参拝します。左後方は、旭山。
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2011年9月17日小林一郎ブログ「加茂神社に参拝されたお上人様

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加茂神社 秋季例祭 

加茂の花火 112年の伝統

2018年9月16日(日)

PM8:40〜加茂神社境内
PM9:15〜信大教育学部グラウンド

長野市の「長野百景」のひとつ。
諏訪神社、飯縄神社とともに載っています。
まちの神社の秋祭り奉納花火
伝統の手作り花火大会と、紹介されています。

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2018年09月14日

地元仏師が制作した隠滝(かくれだき)の巨大な不動尊

13日(木)に長野市芋井地区の「隠滝」(上ヶ屋)を訪れました。

長野市中心市街地から車で20分程の所。道路沿いに建つ「隠滝不動尊参道」の石柱と、石造の不動尊。姿は見えませんが、ここから滝の音が聞こえます。
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幟が立つ急な坂道の参道を下ります。途中から坂は階段状に整備されていました。
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坂の途中で、お堂の屋根と滝が見えてきます。
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飯綱山麓から流れ出した達橋沢にかかる滝で「隠滝」と呼ばれています。
高さは45m、幅4,5mほどで、轟音と共に流れ落ちる様は見事です。
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滝の脇に建つ「長峰山明王閣」。水しぶきを防ぐビニールシートが掛かっています。以前からまつられていた不動尊の石像が洪水のため流されたので、扇平の地蔵堂の堂守、木堂大達が発起人となって諸方を勧進。明治35年(1902)に堂宇を新築。昭和28年の改修を機に不動講ができました。
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身の丈が4,55メートルもある巨大な木造の不動尊。現在の塚田神仏具店(北石堂町)の仏師・塚田専治が、堂宇新築に合わせて造りました。
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表面を削ってないお堂内の素朴な柱。千羽鶴がたくさんあり信仰を集めています。
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堂内の展示では、平成14年6月9日に「隠滝不動尊百年記念祭」が行われました。
現在は、法学寺(上ヶ屋)が別当寺となって守っています。
最近、塚田神仏具店の方に話をお聞きしました。北石堂町で制作した不動尊は、あまりにも大きくて、家から出すことができずに、家の屋根を壊して運び出したそうです。

堂宇にあった芳名帳に、2011年6月11日に小林一郎と竜太郎が参拝した記録がありました。その時、竜太郎が書いたブログはこちらです。
「門前町・昔ものがたり」2011年6月12日「善光寺の周辺も芋井だった

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2018年09月13日

本殿重文、諏訪社県宝、社叢市天然「葛山落合神社」

9月13日(木)に、芋井地区にある葛山落合神社(長野市入山)に参拝しました。
葛山落合神社本殿附棟札1枚」は国指定重要文化財となっています。

長野市内にある重文の建物は、他に善光寺山門、善光寺経蔵、真田信之霊屋、真田信重霊屋、旧横田家住宅、白髭神社本殿(鬼無里)と全部で7件。中でも葛山落合神社本殿は、最も古く室町時代の建築です。
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「国宝 葛山落合神社」と書かれた記念碑。昭和25年(1950)の文化財保護法施行以前は、国宝・重要文化財の区別はなく、国指定の有形文化財は全て国宝でした。
脇には気持ちよく手入れされた畑があり、ご高齢の女性が電動車椅子に乗って来て、じょうろで水やりをしていました。
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拝殿前には杉の大木が茂り、「境内社叢」は長野市天然記念物指定です。
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六文銭の幕が掛かる拝殿。もと熊野社といい、建武年間(1334〜1338)にこの地の落合氏が勧請したと伝えられています。入山村など7ヵ村の総社でした。
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寛正6年(1465)建立の本殿(重文)。天文16年(1547)修理が行われました。
杮(こけら)葺きの一間社、隅木入り春日造で、この地方では例が少ない形式の建物。
この建物と共に、先年屋根裏から発見された棟札が重要文化財です。その棟札の墨書銘により、建立や修理の年が明らかになりました。
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本殿脇の「諏訪社」も一間社春日造。室町時代末期の建造で県宝指定。
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市街地から車で15分程。神社に向かう途中の田んぼの稲は実り、稲刈りが始まっていました。
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葛山落合神社の文化財指定は昭和11年で、市内の重文建物の中で最も古い指定です。
のどかな風景の中に建つ、室町時代から550年以上も続く歴史ある本殿。
過疎化が進む中で、後世に伝えていく大変さにも思いを巡らせました。

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2018年09月03日

「かるかや山西光寺」絵解きでつながる不思議な出会い

3日(月)に善光寺表参道での買い物の途中、かるかや山西光寺(北石堂町)に立ち寄りました。本堂にお参りしようとすると、同寺の竹澤環江氏の「刈萱道心と石堂丸」の絵解きのお声が聴こえてきました。境内にも響く、凛としたお声でした。

かるかや山西光寺の本堂。ご本尊は2体の刈萱親子地蔵尊です。
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環江氏とお話ししようと、絵解きが終わるまで、境内で待ちました。
3日ぶりに真夏日となった長野市。
たくさんのお地蔵さまを、緑の木々がやさしく包みこんでいました。
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絵解きが終わったので、本堂に向かいました。
お聴きになっていたのは、以前に東洋大文化公演で、竹澤氏と私を招いてくださった久野俊彦先生(同大非常勤講師)の講座の受講生の女性の方でした。
東洋大の文化公演は、都合でお聴きいただけなかったとのことです。そこで、かるかや山の絵解きを聴きに東京から見えたのでした。
偶然、私が訪れたので、「久野先生が引き合わせてくださったのかしら」と、3人で話しました。絵解きに関心がある方なので、是非、また長野へお出かけくださいと伝えました。

思いがけなく、不思議な出会いがある、善光寺の門前町です。

2017年6月24日ブログ「東洋大文化公演でかるかや山の竹澤氏と二人で絵解

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2018年08月20日

20日 長野中央郵便局の西、南県町の大国主神社で秋祭り

8月20日(月)の夕方、大国主神社(南県町)の秋祭りに参拝しました。
南県町は長野郷土史研究会が発足した地です。そこで毎年参拝しています。

大国主神社は、中央郵便局の駐車場西で、水庫宮司(新田町)が神事を行います。
南県町が氏子で、善光寺七福神のひとつ、大黒天をまつっています。

左手が中央郵便局。昭和通りに面した拝殿の前に造った仮拝殿に役員の皆さんが詰めていました。左手では、恒例の豪華景品付きのくじ引きが行われていました。
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拝殿脇の郵便局の駐車場には子ども神輿が置かれ、子どもたちがお祭りを楽しんでいました。
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神社前の昭和通りの歩道では、恒例の手作りおでんや氷水も販売されていました。郵便局に出入りする車や、勤め帰りの人が行き交う中、町中のお祭りはにぎやかに行われていました。

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2018年08月17日

昌禅寺(長野市上松)墓地参道に建つ2人の尼の巡拝塔

長野市上松の昌禅寺墓地の参道に建つ石仏と巡拝塔をご紹介します。
巡拝塔は100ヵ所(西国33カ所、秩父34ヵ所、坂東33カ所)の石仏脇に建っています。
今まで気づきませんでしたが、地元の2名の尼の名前が刻まれていました。

坂になっている参道に、100体の石仏が並んでいます。
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石仏脇に建つ巡拝塔(高さ122僉法3搬腓靴討翰ください。
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「西国三十三所
四国八十八所
秩父三十四所
坂東三十三所」

「文政三庚辰年朱夏
文政九丙戌年春終」

「大願
水内郡
東和田村 良喜尼
小古間村 祖明尼」

文政3年(1820)から文政9年(1826)に2人の尼が巡拝した記念で建立されました。

200年近く前に6年掛けて巡拝して、建てた石仏と巡拝塔。改めて手を合わせました。

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2018年08月11日

お盆前の12日 「かるかや山西光寺」で地獄の絵解き

かるかや山西光寺」(北石堂町)で行われる絵解きのお知らせです。

お盆前のお花市に合わせた、恒例の「六道地獄絵」の絵解きです。
(拡大してご覧ください)
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「六道地獄絵」の絵解き
8月12日(日)

1回目 19時〜
2回目 20時〜

かるかや山西光寺本堂

無料


同寺では、お盆を前にご先祖様の供養の大切さや、自分自身を見つめなおす機会にしてください、と呼び掛けています。

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2018年08月10日

西方寺門前の「随勝院」門前の南側から北側に移設

西方寺」(西町)の門前にある「随勝院」が曳家で、移設されました。
随勝院は、西方寺の塔頭です。
創立開山は正保3年(1646)、僧繁誉頤文。(『のびゆく長野市』より)

西方寺の門の向かって左(南)側にあった随勝院(間口5間、奥行6間)。
赤いコーンで囲まれた場所に、東向きで建っていました。(写真は8月4日撮影)
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このたび門前の右(北)側に、南向きで移設されました。
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随勝院は、西方寺の南脇に平成9年(1997)に開通した県庁大門線(現在国道406号線)が開通するに当たり、一度移設されています。
かつては庵主さんが住んでいらしたそうです。

平成23年(2011)には随勝院で、仏師ケサン・ロドェ氏が、チベット大仏堂内の壁画を制作しました。8体の菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・除蓋障菩薩・地蔵菩薩・虚空蔵菩薩)です。大きさは1枚が、縦1.50m、横1.00m。

長野市民新聞の記事によると、西方寺のご住職は、今後随勝院を一般の方に使っていただきたいとおっしゃっているそうです。

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2018年07月15日

苔翁寺(飯綱町)と十念寺(西後町)仏像 同じ仏師の作

7月14日(土)の「信濃毎日新聞」は、飯綱町の苔翁寺(たいおうじ)の仁王像が、善光寺門前の仏師作と判明したと報じました。

飯綱町芋川の苔翁寺の仁王像2体が、江戸時代後期に善光寺門前町を拠点に活躍していた仏師「村上刑部(ぎょうぶ)」の作だと分かりました。保存修理を行う業者が一部解体して判明しました。

同寺の仁王像は2,2メートル。文化11年(1814)の作。
修理は仏像文化財修復工房(新潟県田上町)で行い、完了は来年秋頃ということです。

仁王像2体をまつる山門は寛政10年(1798)建立。
山門と仁王像は、町の有形文化財指定。(写真は2010年4月17日)
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善光寺門前では、十念寺(西後町)の大仏(2,75メートル)が村上刑部作。
寛政11年(1799)制作。平成7年に解体修理が完了。
図1

善光寺門前で活躍していた仏師が作った大作の2体の像。当時の門前町の生き生きとした様子を想像することができます。

私は8年前、苔翁寺に招かれて絵解きを行いました。
2010年4月17日ブログ「飯綱町 苔翁寺で釈迦涅槃図の絵解き

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2018年06月21日

瑠璃光寺(上千田)鎌倉時代作の木造薬師如来坐像の公開

30日(土)瑠璃光寺(長野市上千田)で、仏像の一般公開と講演会が開催されます。

公開されるのは、同寺の薬師堂にまつられている前立本尊の「木造薬師如来坐像」。
運慶らに代表される慶派の仏師が作った、鎌倉時代の作とみられています。

瑠璃光寺の薬師堂にまつられた木造薬師如来坐像。県内では、数例しかないと、市立博物館では指摘しています。(2016年7月21日撮影)
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瑠璃光寺では「中興開基400年記念で歴史講演会」(2016年10月7日ブログ)が行われ、長野郷土史研究会の小林一郎会長が講演しました。
行事に先立って調査が行われ、小林一郎と私も同席しました。
記念行事に向け瑠璃光寺で仏像の調査」(2016年7月21日ブログ)

中興開基400年の記念講演会が行われた瑠璃光寺の薬師堂。
公開される仏像は、ここにまつられています。右手に本堂。(2016年10月7日)
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仏像は薬師堂の本尊厨子前に置かれた、お前立です。
管理しているのは地元の「千田連絡会」で、お祭りなどには公開しています。
今回は、お祭り以外では、初めて公開します。

記念講演では、「中興開基400年記念講演会」(2016年10月7日)に、小林一郎会長と共に、講師を務めた竹下多美氏(長野市立博物館研究員)が解説します。
6月30日(土)10:00〜11:30
参加無料
申し込み不要

前回の講演会でも解説した竹下多美氏は、仏像の専門家です。今回は、その後の調査も含めて、更に詳しいお話がお聞きできるようです。

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2018年06月14日

西和田の地蔵堂「十王図」の作者落款に「こまき」の名

13日(水)長野市西和田の地蔵堂にお招きいただきました。
2018年6月13日ブログ「西和田の地蔵堂 釈迦涅槃図・十王図の拝観・調査

「十王図」の落款から、絵を描いたのは地元の清水和吉であることが判明しました。
2018年6月14日ブログ「西和田の地蔵堂 十王図は地元出身の清水和吉の仏画

更に、落款を調べてみました。
上の落款に「胡馬岐亭」と書かれています。
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地元の清水和吉は、「胡馬岐亭」とも名乗っていたことが分かりました。
「胡馬岐」は、「こまき」と読むことができます。

長野市中東部にある「古牧(こまき)」は、明治22年(1889)に上水内郡西尾張部村・高田村・南長池村・東和田村・西和田村・平林村および三輪村の一部(荒屋)の区域で古牧村が発足。
1923年(大正12年)7月1日 に、古牧村は長野市に編入しました。
現在の西尾張部・高田・南長池・東和田・西和田・平林および三輪の一部の地域です。

「古牧」の地名については、『長野市誌』によると次の通りです。
明治22年に誕生した村の名をどうするかで、各村の代表者会で意見がまとまらなかった。困った末に、西尾張部村の物知り、林幸平に聞いたところ、林は「聖徳太子がこの辺を牧場として馬を飼われたともいわれ、また『吾妻鏡』その他の古い史料にも、この辺一帯が牧場であったことが記されている。それゆえ、古い牧場すなわち古牧が適切であろう」と提言した。
一方、『長野市町村合併誌』には「区域中古来多ク唱フル処ノ里名ニヨル」とある。

これまで諸説ありましたが、この度の地蔵堂の十王図の落款により、江戸時代から「こまき」の名称があったらしいことが分かりました。
今後、詳しく調査をして、長野郷土史研究会の機関誌『長野』で発表したいと思います。

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西和田の地蔵堂「十王図」は地元出身、清水和吉の仏画

13日(水)長野市西和田の地蔵堂にお招きいただきました。
2018年6月13日ブログ「西和田の地蔵堂で釈迦涅槃図、十王図 拝観・調査

5幅の「十王図」には、それぞれ落款がありました。
帰宅後、調べると地元出身の方による仏画だと分かりました。
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下の落款に「箕山」とあります。氷づけになるという寒い地獄、八寒地獄を描いた筆致は繊細で見事です。(拡大してご覧ください)
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箕山(きざん)」について、以下の本を参考にして次のことが分かりました。
(『長野県俳人名大事典』矢羽勝幸編、『古牧誌』、『長野市の筆塚』)
本名 清水和吉 (安政7年1月10日、74歳で没す)長野市東和田の人。
寺子屋を開いて近隣の子弟を教えた。筆子150人。
子孫宅(東和田)の前には、安政5年8月建立の碑があります。
正面「秋日和よしよし人のたのもしき 艸莽(そうもう)庵」 台座「筆弟中」 
側面「安政五年 戊午 八月」 裏面「やつかれ癖にして壮年頃より書画詩歌俳堂に遊び、里道師範も打捨て、行脚に年を重ね、老て旧里に帰庵☐、旧弟子小子を捨ずして、此碑造立して右よし筆記せよとこふ。」

墓は宝樹院(長野市平林)にあり、墓塔の裏面に辞世が刻まれています。
「花に風月には雲のかくる世に人はいのちのたのむ甲斐なき 箕山」

地蔵堂の十王図は、地元出身の清水和吉が描いたことが分かりました。
地蔵堂世話人会の皆さんが、地蔵堂と共に、この十王図を今でも大切に継承されていることは、大変貴重なことです。

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2018年06月13日

西和田の地蔵堂で「釈迦涅槃図」「十王図」拝観・調査

13日(水)「地蔵堂」(長野市西和田)に、長野郷土史研究会の小林一郎会長と招かれました。地蔵堂には「地獄極楽図」と呼ばれている「十王図」5幅と、「釈迦涅槃図」があります。その掛け軸を拝観、調査をするのが目的でした。古牧郷土史研究会の太田正紀会長と、長野郷土史研究会の中村収幹事も同席しました。

鳥居をくぐって参道を進むと和田神社の拝殿があり、その右手に地蔵堂があります。
鳥居前の道路は、旧条里制の名残で細い道ですが、まっすぐに通っています。
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並んで建つ、和田神社と地蔵堂。右手は西和田公民館。
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「地蔵堂」は平成12年に庵主さんがお亡くなりになってからは無住となっています。今は「地蔵堂世話人会」が守っています。この日は第1回世話人会で、15名程の会員が集合しました。「地蔵堂」の額は、善光寺大勧進貫主、都築玄妙師(昭和34年就任、同52年退任)の揮毫。
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五幅の十王図には落款があり、帰宅後調べてみると作者が分かりました。
(写真は中村収氏提供)
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釈迦涅槃図には裏書があり、天保8年(1837)2月15日に作られ、大正5年(1916)3月15日に改装と書かれていました。大勢の菩薩や天部、弟子などが描かれていて、私が絵の内容や特色を解説しました。
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また天井には様々な絵や字が描かれていて、「明治二十年十二月」と書かれたものもありました。
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地蔵堂の建立は正徳年間(1711〜15)に、僧・仁科順性によると伝わっています。
弘化4年(1847)の善光寺地震でお堂は崩壊し、その時、尼僧も亡くなりました。
その後の再建年は不明ですが、お堂の欄間に寄進された絵には、明治21年5月と書かれていました。

終了後、お堂の前で見送ってくださった井原壽行代表(右)と、中澤澄博副代表。
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地蔵堂では、8月23日午後5時から地蔵盆を行っています。
また涅槃会は雲照寺の住職が導師で3月15日に行い、合わせて区内の物故者法要も行っています。1年の間に亡くなった方の合同法要で、明治中頃から行っていて、お堂の中央に掛ける掛け軸「西和田区民亡霊位」には、900余名の名前が記されているそうです。
大切に引き継がれている、伝統行事は貴重な地域の文化でもあります。
西和田地区の団結とまとまりを感じました。

2018年6月14日ブログ「西和田の地蔵堂 十王図は地元出身、清水和吉の仏画
2017年1月ブログ「長野市西和田 和田神社の御柱」もご覧ください。

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2018年06月04日

四国八十八ヶ所霊場 鳴門市1番霊山寺と2番極楽寺に参拝

5月31日(木)に、徳島県鳴門市の長谷寺に絵解きでお招きいただきました。
ブログ「5月31日 長谷寺(鳴門市)涅槃図修復報告会で絵解き

その折、弘法大師ゆかりの「四国八十八ヶ所霊場」に参拝しました。いずれも鳴門市にあります。
1番の「霊山寺」には、鳴門市の中心地からバスで向かいました。門前にバス停があります。
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同寺の本堂内。灯籠が見事です。
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1番の霊山寺から2番の極楽寺まで、歩いて参拝しました。(拡大してご覧ください)
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「ばんどう門前通り」と書かれています。趣のある道です。
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途中にある霊山寺の石柱門。「四国第一番」「霊場霊山寺」と書かれています。
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2番目の極楽寺の石柱門。「四国第二番」「霊場極楽寺」と書かれています。
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極楽寺」の門。やはり門前にバス停があります。
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石段を登ったところにある、同寺の本堂。
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1番から2番目までは徒歩で20分程でした。参拝した日は、平日の午前中で、小雨が降っていました。スタートの寺なので、大勢見えていると思いましたが、どちらの境内も静かでした。
平成27年に日本遺産となった四国をぐるっと一周する「四国八十八箇所霊場と遍路道」は、今後世界遺産登録を目指していくそうです。

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2018年05月13日

痕跡をたどって思いを馳せた「善光寺への脇街道めぐり」

13日(日)「長野郷土史研究会」は「善光寺へつながる脇街道めぐり」を行いました。

「栽松院」(問御所町)で開催された「しまんりょ 春のお寺で蚤の市」に合わせて行いました。蚤の市は2012年に始まり、今年で7年目。長野郷土史研究会がこの日に合わせて行事を行うのは今回が3回目で、3年連続の企画でした。

善光寺表参道に面した同寺の入り口。「しまんりょ市」とかかれた赤い提灯。
「しまんりょ」とは、寺の両側を川が流れているので、表参道から見ると「島」のように見えて、そこに「寮(りょう)」があったからです。「寮」とはお坊さんの修行の場。そこから「島の寮」、「島ん寮」となったということです。
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同寺の入り口の観音堂に貼られた、蚤の市のスケジュール表。
この建物が、表参道から見ると島の中にあるように見えました。
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10時半に境内で小林竜太郎青年部長が挨拶して出発しました。
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栽松院南脇のしまんりょ小路が「栗田街道」です。栗田方面からは「善光寺街道」と呼ばれていたと説明しました。後ろの建物は、「ホテルJALシティ長野」。
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その後、長野駅付近まで歩いて、街道の痕跡が分かる、最近発見したという場所に案内しました。左手を線路が通り、奥の建物はMIDORI駐車場。
街道は線路によって分断されましたが、川の流れで街道を思い描くことができると説明しました。
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その後、もうひとつの善光寺街道である「西山街道」に向かいました。
街道だったからこそ、今でも両側にお店が並んでいるのだろうと説明しました。
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西山街道で解散後、栽松院で行われた同寺の副住職ご夫妻らによるスティールパン演奏会にお誘いしました。雨のため本堂内で行われましたが、大盛況でした。
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小雨の降る中、脇街道めぐりには11名方の参加がありました。善光寺に通じる道は、どの道も善光寺街道、善光寺道と呼ばれていました。その痕跡をたどり、歴史に思いを馳せることができた脇街道めぐりでした。
雨の中、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

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2018年05月07日

地元の信仰を集めていた寺の屋根の補強「略式代執行」

3月29日、所有者が分からず空き家になっていた寺に、長野市が初めて「略式代執行」を行ったというニュースが流れました。

長野市では平成27年に空き家対策特別措置法を施行。寺の屋根に穴が開いて倒壊の危険があり、法律に基づいて所有者に代わって屋根の補強をしたということです。

昭和通りに面した同寺。屋根の補強が行われました。
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この寺は「玄がく斎」(長野市居町)と言って、かつては尼僧が住んでいました。
(「がく」の字は、活字にありません。「木」へんに、右は「亠」の下に「品」その下に「丂」で、僧の名前です)
寺のことはほとんど報道されませんでした。その歴史などを書いておく必要があると考え、このブログで紹介します。

寺の脇には道があって、道沿いには六地蔵がまつられています。(奥が昭和通り)
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「玄がく斎」の創建は、寛延元年(1748)10月4日。当初は現在地ではなく、70m離れた地にありました。昭和7年(1932)堂宇の老朽化のため再建。
昭和36年(1961)、飯田瑞昌師が入庵。

板碑に刻まれた爪彫六地蔵が並んでいます。
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延命地蔵尊は、子どもの泣き封じの地蔵として参詣者が多く、お盆には手厚い供養が行われたということです。
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ある報道では、尼僧が14年ほど前に亡くなってから無住となっていたとありました。
かつては地元の信仰を集めていたお寺でした。
忘れ去られてはいけない、大切な地域の歴史です。

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2018年05月02日

5月3日~6日 往生院で弁才天奉納コンサート、秘仏開扉

5月3日(木)〜6日(日)往生院(権堂町)では、大弁才天奉納コンサートを行います。また秘仏の金銅観世音菩薩立像の特別開扉と、授与品販売も行われています。

本堂にまつられた観世音菩薩立像が開扉されます。左手奥が弁才天をまつるお堂です。
(4月30日小林竜太郎撮影)
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権堂アーケードに面した同寺の入り口と授与品所。
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本堂前で、授与品(御守、根付け、絵ハガキ、Tシャツ等)が販売されています。
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「往生院コンサート2018」の日時と内容は次の通りです。全て入場無料。
第1回 5月3日(木)13:00〜 ヴァイオリンコンサート
第2回 5月4日(金)13:00〜 クラリネット&ヴァイオリンコンサート
第3回 5月5日(土)13:00〜 琴の演奏
第4回 5月6日(日)13:00〜 金管アンサンブルコンサート

往生院は、善光寺七福神めぐりのひとつ、弁才天をまつっています。
弁才天は芸能の神さまですので、奉納コンサートはふさわしい催しです。
1年に1度、往生院の境内に流れる音楽の調べです。

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2018年04月15日

須坂市「光明寺」で開基400年記念法会・式典・祝賀会

15日(日)須坂市野辺の「野辺山(やへんざん)光明寺」の開基400年記念法会がありました。長野郷土史研究会の小林一郎会長と、二人でお招きいただき参列しました。
同寺の歴代住職は、善光寺大勧進に勤め、善光寺聖として全国に出向いて絵解きを行い、善光寺信仰を広めてきました。現住職の天野義光師も、大勧進で絵解きを行っています。

同寺の入り口。記念行事に合わせて山門が新しく落慶して、本堂、境内の整備が行われました。左手の地蔵堂には、但唱上人作とされる雨乞い地蔵と子育て地蔵がまつられています。
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門には厨子にまつられた文殊菩薩像が納められ落慶法要が行われました。
近くの公会堂に参集した参加者は、行列で門をくぐり本堂に向かいました。
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開山は、江戸時代初期に米子の奇妙山で木喰行をしていた但唱(たんしょう)上人。
江戸中期の宝暦年間の建立と推定される本堂。
本尊は阿弥陀如来立像と勢至菩薩像と観音菩薩像。
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法要の前に本堂右奥の護摩堂で行われた、同寺の天野師による護摩法要。
左手奥には、諸国を巡った際、背負ったという「笈(おい)」があります。中には阿弥陀三尊がまつられています。
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護摩法要の後は、「龍泉寺」(栃木県足利市)住職の源田俊昭師が導師を務めて法要が行われました。

境内に2本あるしだれ桜の内1本は、見頃を迎えていました。
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法要が終了後、昼食をいただき、須坂光臨閣に移動して、記念式典、祝賀会が開催されました。
同寺の紹介、来賓の挨拶の前に、善光寺寿量院の奥様らによる御詠歌3曲が披露されました。2曲目では、地蔵菩薩のご和讃に合わせて、同寺の天野住職の語りが行われました。同寺の雨乞い地蔵にまつわるお話でした。
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祝賀会では私も、天野ご住職が行っている絵解きのことをお話ししました。
記念行事は、お檀家や地域の皆様が参集して盛大に行われました。
400年を迎えて新たなスタートラインに立った光明寺。益々、地域の拠り所となって、発展されることを願いながら会場を後にしました。

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2018年04月13日

善光寺表参道 本願寺長野別院・82銀行長野支店前の桜

13日(金)に参拝した善光寺表参道沿いの「本願寺長野別院」(西後町)。善光寺四十九霊地のひとつで、かつては「正法寺」と言いました。浄土真宗本願寺派。

本堂の脇には親鸞聖人像が立っていて、いつも桜が見事です。
今年は桜の開花が早くて、もう葉桜になっていました。
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本堂前の「今月の言葉」は、今年の春にぴったりの言葉です。
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同寺の参道の左右には塔頭があります。北側の塔頭、定専寺の門前の像。
親鸞聖人の幼少の像で、松若丸が御幼名です。
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「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
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「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」
親鸞聖人が出家される時に詠まれた歌です。
「心の仇(あだ)」と「徒(あだ)桜」が掛詞。
「心の仇」は心を害するもの。「徒桜」は散りやすく、はかない桜花。
辞書によると「明日はどうなるかわからないという、人の世の無常、はかなさを説いたもの。明日もまた桜は美しく咲いているだろうと安心していると、夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれないという意」

善光寺表参道の八十二銀行長野支店前の桜は、ちょうど見頃でした。
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15日(日)には、この善光寺表参道を北から「長野マラソン」のランナーが走り抜けます。

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2018年01月21日

西宮神社の初えびす 20日午前中で終了した「お種銭」

1月19日(金)、20日(土)は「西宮神社」(長野市岩石町)の「初えびす」でした。
両日お天気に恵まれて、恒例の「お種銭貸し出し」には大勢の参拝者がありました。ひとりで何体も受け取る方がいて、各人の住所、氏名を記帳をするので時間が掛かります。

1月19日ブログ「19日 西宮神社 お種銭貸し出しに長蛇の列

1月20日(土)お昼前には「お種銭貸し出し」が終了しました。
最後の方は、「おひとり2体までにしてください」と制限があったそうです。
境内から続く行列。最後尾は善光寺下から仁王門に向かう道路まで続いたそうです。
(1月20日10時半頃、小林竜太郎撮影)
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お種銭貸し出し所で、巫女さんからお種銭を受ける人々。
CIMG4571

今年は晴れて気温も高く、20日の最低気温はー3,3度、最高気温9,1度。
また19日(金)にNHK長野を始め、民放各社がニュースで放送しました。
20日の信濃毎日新聞、長野市民新聞にも載って、紹介されました。

大勢の参拝者が訪れて賑わった、一年の商売繁盛を祈る初えびす。
遠くから見えてお種銭を受け取れなかった方が出たのは残念でした。

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