歴史

2022年03月09日

「長野赤十字看護専門学校」113回生25名最後の卒業式 

「abn長野朝日放送」(3/9)のabnステーションは、「長野赤十字看護専門学校」の閉校を放送しました。3月1日(火)に113回生25名が、同校最後の卒業式を迎えました。

同校は当時の赤十字社長野支社の速成看護婦養成所として発足しました。明治32年(1899年)に、第1回卒業生を送り出しています。
赤十字看護専門学校として災害看護を重要な柱としていて、他の看護学校にはない特徴でした。これまでの卒業生は3400名余りで、全国で活躍しているということです。

ニュースの中で、卒業生の「ここを卒業したことを誇りに思います」という言葉が印象に残りました。

閉校となった、長野日赤に隣接した「長野赤十字看護専門学校」。
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現在、長野市内には、清泉女学院大学と長野保健医療大学の2校に看護学部があります。

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2021年11月23日

源頼朝が寄進した頼朝山(長野市茂菅) 山頂に「頼朝亭」

長野市茂菅(もすげ)の静松(じょうしょう)寺の前を通って、頼朝(よりとも)山に登りました。
頼朝山は八幡山ともいい、標高644m。新諏訪から上る山道は、曲がりくねっているので「ゲジゲジ山」と呼ばれていました。
長野高校の前身の長野中学が、信大教育学部の場所にあった頃、秋の運動会には頼朝山の山頂までマラソンが行われていました。(『静松寺』昭和62年)

静松寺の由来によると、建久8年(1197)源頼朝は善光寺に参詣した折、同寺で家臣の菩提を弔い、自ら「頼朝山法性浄院静松寺」と名付けました。頼朝山は頼朝が寄進した山だということです。(頂上案内板 長野市観光課より)

2018年9月「源頼朝、大竹屋平兵衛ゆかりの静松寺(長野市茂菅)

静松寺の境内から見た頼朝山。境内のモミジは美しく紅葉していました。(2021年11月23日)
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山頂にあった八幡宮は、八代松代藩主真田幸貫がまつりましたが、昭和13年に焼失しました。現在は社地跡に石の祠がまつられています。
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長野市観光課の案内板。(平成12年)
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「頼朝亭」と書かれた頂上の四阿(あずまや)。吸い殻入れが設置されていました。
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頂上からの眺め。すぐ下に、長野市街地が広がっています。
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源頼朝と深い関りがある頼朝山。私は初めて登りましたが、小林一郎会長は、小学校の遠足で登ったそうです。昨夜の雨で、山道に積もった落ち葉が濡れていて、足元が滑り大変でしたが、静松寺からは15分程でした。紅葉が終わった木の葉が風に乗り、くるくる宙を舞う様子は、幻想的でした。長野の冬は駆け足でやってきます。

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2021年09月19日

信毎5万号「ペンの庫」記念セレモニーで小林会長が挨拶

9月19日(日)「信濃毎日新聞」は、紙齢(通算発行号数)が5万号を迎えました。同紙は、毎日新聞、山梨日日新聞に次いで、全国で3番目に古い明治6年(1873)の創刊です。

新聞の名称は第1号が「長野新報」で、その後は「長野毎週新聞」「長野新聞」「長野日日新聞」「信濃日報」と、8年間に次々と変えています。現在の「信濃毎日新聞」で発行を始めたのは明治14年(1881)で、紙齢950号でした。

同社は今から70年前の紙齢2万5千号の記念事業として、城山公園に「信毎ペンの庫(くら)」というモニュメントを設置しました。5万号を迎えた日に開封しようとした「タイムカプセル」でした。中には県内の小中学生に提供を呼び掛けた作文、絵画などが納められました。

昭和26年(1951)10月22日に行われた除幕式には、当時の林虎雄知事ら関係者約500人が参加して盛大に行われました。当時の吉田茂首相からも祝辞が届き、庫に納められました。

長野県立美術館」東側の道に面して建つ「信毎ペンの庫」のモニュメント。
道路をはさんで左(西)が長野県立美術館。(2021年9月17日)
ペンの庫


収蔵された作品を展示する「信毎ペンの庫展」を「長野県立美術館」で開催するのに先立って、19日(日)11時から「県立美術館レセプションルーム」で記念セレモニーが開催されました。

来賓として長野郷土史研究会の小林一郎会長がお招きいただき、お祝いを申し上げました。「2万5千号を発行した昭和26年は戦後間もない時で、再出発にふさわしい年だった」「まだ日本ではタイムカプセルという言葉も考え方もなかった時に、時代に先駆けて事業を行ったのは意味があることだった」と、歴史的な観点から講評を述べました。

出席した来賓は、加藤久雄長野市長、ペンの庫の彫刻・レリーフを手掛けた彫刻家・故清水多嘉示氏(1897〜1981)の三女青山敏子氏、収蔵された絵画を描いた片桐良雄氏、収蔵された作文を書いた平林まち子氏の計5名でした。
終了後、ペンの庫の見学、「信毎ペンの庫展」を鑑賞しました。

信毎ペンの庫展
9月19日(日)〜9月26日(日)午前9時〜午後5時 (9/22は休館)
長野県立美術館 しなのギャラリー(本館地下1階)
入場無料

10月27日(水)〜10月31日(日)
信毎メディアガーデン(松本市中央2)
入場無料

信毎ペンの庫。建物は岡谷組(岡谷市)が寄贈。彫刻は諏訪郡原村出身で文化功労の彫刻家・清水多嘉示(たかし)。幼児と鷲で「公正と飛躍」を表徴。
「信濃毎日新聞 紙齢二万五千号記念 信毎ペンの庫 昭和二十六年十月建立 小坂順造書」
(拡大してご覧いただけます)
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追記
「信濃毎日新聞」(9/20)によると、老朽化が進んだペンの庫は、本年度中に取り壊し、同社の創刊150周年を迎える2023年7月までに改めて記念碑を設けるということです。

「信濃毎日新聞」(9/20)「信毎ペンの庫(くら)展の来場者ら 70年前に思いをはせ、人生振り返る

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2021年07月18日

県歌「信濃の国」に歌われる久米路橋が登録有形文化財に

長野県は、「20件の建造物が国の登録有形文化財に登録される」(3/16)と発表しました。

その内、長野市信州新町水内と長野市信更町吉原を結ぶ「久米路橋(くめじばし)」が、国の登録有形文化財となります。この橋は、犀川中流の狭窄部に架けられています。
県歌「信濃の国」の4番は、信濃の歌枕(和歌に詠まれる地名)を取り上げています。その中で「心してゆけ久米路橋」と歌われています。

昭和8年(1933)に完成した鉄筋コンクリート造の久米路橋。
久米路橋


『信濃奇勝録』に描かれた「水内曲橋」の図。久米路橋は、江戸時代には木造の水内橋として知られていました。馬に乗って橋を渡る人と、馬を引く馬子が描かれています。
(拡大してご覧ください)
久米路橋左


安藤広重が「諸国六十八景』に選んだ久米路橋。(拡大してご覧ください)
久米路橋(諸国68景)


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2021年06月17日

100年前建立の田島新道(伊勢町)顕彰碑に大きな亀裂

かつて越後の国から善光寺に向かっていた北国街道。その北国街道に面していた伊勢町から、北に上る石段があります。この道は、明治20年(1887)11月に開道した「城山県社新道(田島新道)」です。石段を上ると城山で、県社があるので命名されました。また「田島」は、開設に尽力された方の名前です。通称、田島新道と呼ばれてきました。

階段の上り口には、小さな橋が架かり、湯福川が西から東に流れています。
その脇に、大きな碑が建っています。
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碑の表には「城山県社新道開設者 田島式左衛門碑 明治二十年十一月十九日竣成」。碑の裏には「大正九年三月十三日 二女かく子 孫定三郎」と刻まれています。
田島式左衛門の娘と孫が、今から100年前に建立したことが分かります。

本日(6月17日)その碑が、危険な状態になっていると知りました。
そこで夕方、確かめに行きました。
土台はコンクリートで補強してありますが、石碑に大きな亀裂が入っていました。
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地元から危険だと、市に相談がいっているようです。
修復が必要ですが、長い年月が経って、所有者が分かりにくいです。
歴史の記録としては大切な顕彰碑です。どうしたら良いのでしょうか。

明治20年(1887)5月 現城山公民館の場所に「城山館」開館。
同年      11月 田島新道開道。
明治21年(1888)   直江津、長野間の鉄道開通。

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2021年06月09日

軍足池 江戸時代から続く用水源としての先人の知恵

5月30日に訪れた、長野市芋井の軍足(ぐんだり)池は、江戸時代に作られた農業用水のため池です。軍足池について、『広瀬の民俗』(長野市市誌民俗調査報告書 第1集、平成5年)に詳しく載っていました。

2021年5月31日「自然豊かな軍足池・広瀬ふれあい公園(長野市広瀬)

『広瀬の民俗』は、平成4年(1992)に長野市誌編さん委員会民俗部会が行った、聞き取り調査をまとめたものです。長野市を大きく数地区に分けて、山間地の特色ある地区として芋井広瀬地区を調査しました。

『長野市誌』は平成10年(1998)発行。その後の、長野市の合併は次の通り。
平成17年(2005)1月1日、上水内郡「豊野町」「戸隠村」「鬼無里村」と更級郡「大岡村」の4町村と合併。平成22年(2010)1月1日、上水内郡「信州新町」「中条村」と合併。

報告書には調査の目的として「広瀬地区がある芋井は、善光寺を中心とする市街地に近く、市街地との関係は密接。しかし景観的には山村としての性格も濃厚」とあります。
平成の合併前の『広瀬の民俗』によって、軍足池を紹介します。
広瀬地区のある旧芋井村は、戦後の昭和29年(1954)に長野市に合併しました。
長野市の西北端にあり、飯綱高原の麓にあります。

広瀬地区の用水源は、軍足池から引く水が主たる用水源です。軍足池の奥にはさらに軍足池では足りない時の備えとして、浦谷池(うらやち)があります。
軍足池は表面積1万坪、水深が浅く、池のまわりにはヨシ地が広がっていて、貯水量は少なくなっています。一方、浦谷池は表面積こそ少ないのですが、水深があって貯水量は多くなっています。補助の池まである軍足池は、用水源としてはほぼ万全で、過去に渇水に悩まされることはほとんどなかったそうです。(2021年5月31日)
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標高約900mに位置する軍足池。表面積の割に水深が浅いので水は暖かで、用水には適しているということです。冷たい水への対応も万全です。
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報告書には、用水の管理維持や、水不足への対処、多すぎる水への対処などの項もあります。水だけではなく、あらゆる民俗的な観点から、30年ほど前に聞き取りした本書は、大変貴重な記録です。

池のすぐ脇には小山があり、それに沿う平地には一面にそば畑が広がっています。
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現在、「広瀬ふれいあ公園」として整備されていますが、周辺には水田や畑が広がり、農作業が行われています。私たちは地域の歴史や先人の知恵にも思いを巡らせながら、訪れたいものです。

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2021年03月08日

小林一郎会長YouTubeで現地案内 長野県庁のはじまり

今年は長野県庁が、長野市に置かれて150年の節目の年です。
長野県庁は明治4年(1871)に、善光寺門前の西方寺(西町)に置かれました。

明治4年7月に、長野県庁の仮庁舎が置かれた西方寺(西町)の本堂。
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長野郷土史研究会の小林一郎会長が、その始まりを現地で解説しています。また武井神社(東町)に掲げられた初代権令の立木兼善、2代の楢崎寛直の書も紹介しています。
(権令とは、現在の県知事のことです)
現地での解説を、どうぞ動画でご覧ください。(約8分)
長野県庁のはじまり

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2020年06月27日

江戸の要衝・明治の郡制中心 篠ノ井追分(長野市塩崎)

2027年に東京(品川)〜名古屋間が開業し、2045年には大阪まで延びる予定の「リニア中央新幹線」。

6月26日行われたJR東海と静岡県の会談は折り合いがつかず、開業は遅れる見通しとなりました。NHK長野(6/27)「リニア 知事の発言真意を確認へ
長野県飯田市には「長野県駅」(仮称)が建設される予定です。

そんなニュースが飛び交う中、江戸時代の街道、宿場を訪れました。
篠ノ井追分宿(長野市篠ノ井塩崎)は、江戸時代に北国街道と北国西街道が交わる交通の要地でした。左手が江戸からくる北国街道、右手が塩尻の洗馬からくる北国西街道。現在、分岐点には石碑が建っています。ここから約2劼両貊蠅法¬声21年(1888)篠ノ井駅ができました。
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かつての北国街道。奥が篠ノ井追分。左手に案内板が建っています。
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明治時代にこの辺りは、更科郡制の中心地で、郡役所や警察署がありました。
今はのどかな畑地となっています。(拡大してご覧ください)
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かつての要地は、鉄道の発達によって大きく歴史が変わりました。この時代になっても、新しい交通機関の導入によって、各地の歴史は変わろうとしています。

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2019年11月07日

長野県立歴史館で10日まで開催の「土偶展」を見学

7日(木)「長野県立歴史館」の開館25周年記念 特別企画「土偶展」を見学してきました。

前期「国宝土偶〜縄文文化の多様な個性〜」10/26〜11/10
後期「中部高地の土偶〜暮らしに寄り添う小さな女神」11/23(土・祝)〜2/2(日)
後期は、地元長野・山梨両県の土偶を網羅的に紹介するそうです。

同館の入り口。
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前期では、国宝土偶5箇が、ひとつの部屋に展示されています。
「縄文のビーナス」(長野県茅野市蔵)、「仮面の女神」(同)、「縄文の女神」(山形県蔵)、「合掌土偶」(青森県八戸市蔵)、「中空土偶茅空」(北海道函館市蔵)。
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今日は二子小学校(松本市)から見学があったと書かれていました。
国宝土偶5箇が一度に見られる、またとない機会です。


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2019年05月13日

NHK日曜美術館で紹介された「一遍聖絵」信州小田切里

12日(日)NHK「日曜美術館」の「踊らばおどれ〜一遍修行の旅〜」を観ました。
4/13〜6/9「京都国立博物館 平成知新館」(京都市東区)で開催中の「国宝 一遍聖絵と時宗の名」。
「日曜美術館」では展示中の国宝「一遍聖絵」(円伊筆)を取り上げました。
国宝「一遍聖絵」は、鎌倉時代の時宗の開祖、一遍の生涯を描いた絵巻です。
当時の人々の暮らしを知る貴重な資料ともなっています。

番組では、一遍が初めて踊念仏を行った信州小田切の里(現在の佐久市小田切)が紹介されました。90年ほど前に同地で発見された壺が、絵の中に描かれていることも紹介されました。
また国の重要無形民俗文化財となっている「跡部(あとべ)の踊念仏(おどりねんぶつ)」(佐久市跡部)も取り上げられました。

「踊念仏とは何か?そしてなぜ生まれたのか?」に迫る番組です。
再放送は、19(日)Eテレ 午後8時〜8時45分です。

先日、私は一遍が初めて踊念仏を行ったという、佐久市小田切を訪ねたので、踊念仏がより身近に感じられました。
国立国会図書館の「一遍聖絵」写本。館の縁先にいるのが一遍。一遍の左手にある壺が、近年発見された壺です。中央上部に「信州小田切里」と書かれています。
(拡大してご覧ください)
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2019年5月3日ブログ「小田切氏発祥の地 「JAXA臼田宇宙空間観測所」を見学

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2019年05月03日

小田切氏発祥の地 「JAXA臼田宇宙空間観測所」を見学

5月3日(金)に「臼田宇宙空間観測所」(佐久市上小田切)を見学してきました。同施設は「JAXA(宇宙航空研究開発機構)」の機関のひとつです。小惑星探査機「はやぶさ2」などに向けて指令を送信したり、探査機からの観測データを受信しています。標高1450mで、冬季は休業していて4月20日より再館。

佐久市臼田上小田切・中小田切・下小田切は、小田切氏発祥の地です。
弘安2年(1279)には、時宗を開いた一遍上人が小田切の武士の館で踊念仏を始めています。『一遍聖絵』(国宝)の写本には、踊念仏を描いた場面に「信州小田切里」と書かれています。その画像はこちら
また長野市の小田切は、鎌倉時代の初めに、この小田切氏が領地を与えられて移住したのがはじまりです。

臼田宇宙空間観測所の入り口の案内板。
開館時間は10:00〜16:00まで。(拡大してご覧ください)
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日本一の大きさ(直径64m・総重量約2千トン)の巨大なパラボラアンテナを間近で見ることができます。アンテナ上部の小さな光の輪は太陽。下に立つ人がご覧のように小さく見えます。
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アンテナの裏側。標高が高いので、周辺の桜の木はつぼみが固い状態でした。
支柱の右下に立つ人が、やはり小さく見えます。
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この地は都市雑音などの妨害電波が少なく、探査機からの微弱な信号を受信しやすい環境にあるので観測所の建設地として選ばれたそうです。敷地内に建つ展示棟の内部。
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臼田宇宙空間観測所は昭和59(1984)年10月、同地に設立されました。設備としての設計寿命を大幅に超えているため、JAXAでは64mアンテナに代わるアンテナを新しい深宇宙探査用地上局として開発・整備中です。
深宇宙探査用地上局」(佐久市前山)
2018年11月末には、口径54m大型パラボラアンテナの外観工事が完了しました。これまでよりも口径は縮小していますが、64mアンテナと同等以上の受信能力を維持しているそうです。
2019年4月9日にドローン撮影のアンテナ組み立て工事が公開されています。
2019年12月からは「はやぶさ2」との受信運用に向けた総合試験を開始。
2019年度には使用開始される予定です。

2019年5月3日ブログ「小林玲子のひとりごと」の「宇宙と交信」もどうぞご覧ください。

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2019年02月16日

世界一古い映画館の可能性「相生座」小林竜太郎が指摘

「長野市民新聞」(2/16)は長野商工会議所会が14日、権堂町の映画館「長野相生座ロキシー」で企業見学会を行ったことを報じました。

昨年、サイレント映画ピアノ生演奏付きが行われた「相生座」。外の広場では長野県産のビールやワインを楽しむ屋外バーが開店しました。(2018年7月8日)
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「長野市民新聞」によると、2月14日は、同会議所内の3つの部会員ら40名が出席して、相生座の歴史を学びました。
講師を務めたのは「長野郷土史研究会」の小林竜太郎。11年に渡る実地調査をまとめた『長野のまちと映画館 120年とその未来』を、平成29年7月8日に出版しています。

小林竜太郎は、これまで「相生座が国内で営業している映画館の中で最も古い」と提唱してきましたが、この日の講演では、「世界一古い可能性がある」と指摘しました。

根拠として「世界一古いと自ら名乗っているフランスのエデン劇場が上映したのは1899年」と紹介。相生座は明治25年(1892)に芝居小屋「千歳座」として建てられた後、5年後の明治30年(1897)7月に活動写真が上映された記録が残っています。
小林竜太郎は「ただ、世界には認知されていない映画館もあるかもしれない」と付け加えたそうです。

今後の更なる調査、研究に期待したいと思います。

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2019年02月12日

県歌「信濃の国」の謎に迫る 遠藤正教氏の講演会を拝聴

11日(月・祝)に長野県が「県歌制定50周年 未来へつなごう 信濃の国!」の一環で行ったイベントに参加しました。
「信濃の国」は昭和43年(1968)5月20日に県歌に制定され、昨年制定50年となりました。

会場となったのは「ステーションビルMIDORI長野」の3階「りんごの広場」でした。
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13:30〜「MYシナソンググランプリ」の表彰セレモニーが行われました。
最初にゲストで地元長野市出身の歌手、汐入規予さんと、会場の皆で「信濃の国」を合唱しました。続いて各部門の受賞者に、県からトロフィーと副賞が贈られました。
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14:10〜15:05 記念講演会「『信濃の国』の謎に迫る ―浅井洌の作詞方法を中心に ―」がありました。講師は遠藤正教氏(重要文化財旧開智学校舎 学芸員)でした。
遠藤氏は「信濃の国」を作詞した浅井洌(きよし)が、どのような経緯で作ったのかを、当時の教科書を元に紐解きました。
最初に氏が提示したナゾに迫り、最後にそれに回答を出すという講演内容でした。
・なぜ長野県ではなく「信濃」?
・なぜ槍ヶ岳や戸隠山がないのか?
・なぜ真田幸村や小林一茶がいないのか?等々。
「信濃の国」は、北村季晴(すえはる)の楽曲の秀逸さと共に、作詞の浅井冽の、子どもや郷土に対する愛情あふれる歌詞にこそ、県歌として日本で一番愛される理由があるのではないかと結びました。

NHK長野のニュース(2/11)「信濃の国 作詞の謎に迫る」をご覧ください。

長野県師範学校の教師だった浅井洌(1849〜1938)と北村季晴(1872〜1931)は、現県庁の北、長野市妻科に隣り合わせで住んでいました。
その場所に建つ標柱。正面には「県歌 信濃の国 誕生の地」右側に「作詞者 浅井洌旧居跡」。(平成11年3月、妻科町・妻科公民館建立)
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同じ標柱の左側には「作曲者 北村季晴 旧居跡」と書かれています。
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2019年02月11日

11日「信濃の国」県歌制定50年セレモニー・記念講演会

長野県では「県歌制定50周年 未来へつなごう 信濃の国!」のキャンペーンを行っています。

「信濃の国」は、明治32年(1899)に長野県師範学校教諭の浅井冽(きよし)が作詞。翌明治33年(1900)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲。
昭和43年(1968)白馬村で開催された国体スキー大会の開会式で披露されたのを機に、県歌にしようという機運が盛り上がり、同年5月20日、県歌に制定されました。昨年平成30年(2018)が、ちょうど制定50周年でした。

昭和51年に建てられた長野県庁前の「信濃の国」の碑。
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その関連行事が行われます。
表彰セレモニー&記念講演会
2月11 日(月・ 祝日 )13:30 〜15:00
会場 ステーションビル MIDORI 長野 3階 りんごのひろば
(長野市南千歳 長野市南千歳 1-22 -6長野駅ビル自由通路の上階 )

「信濃の国」謎に迫る ―浅井洌の作詞方法を中心に ―
講師 重要文化財旧開智学校舎 学芸員 遠藤正教 さん
「信濃の国」作詞方法から、歌にまつわる謎を解明します。

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2019年02月09日

13日〜発掘調査の巡回速報展「遺跡が語る長野の歴史」

長野市埋蔵文化財センター」は、今年度の発掘調査の速報展「遺跡が語る長野の歴史」を開催します。今年度調査した8遺跡の調査結果を紹介します。(週刊長野2/9)
同センターは「長野市立博物館」(長野市小島田・川中島史跡公園)の2階にあります。

中央通り沿いの「後町遺跡」では、江戸時代の町屋の様子を伝える礎石や井戸跡が見つかりました。現在、県庁緑町線の道路を造る工事が行われている場所です。
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また「御所遺跡」(中御所)では、中世の居館跡の堀が見つかりました。

展示と講演会・展示解説会は次の通りです。(いずれも入場無料)
大豆島公民館 展示 2月13日(水)〜25日(月)
講演会・展示解説会 2月13日(水)13時半〜15時半
先着 32人
申し込み 12日(火)から受付 
同館 026-222-2888

安茂里公民館 展示 2月27日(水)〜3月13日(水)
講演会・展示解説会 2月28日(木)13時半〜15時半
先着 30人
申し込み制
同館 026-226-4059

市役所第1庁舎1階ロビー 展示 3月15日(金)〜26日(火)
芋井公民館 展示3月28日(木)〜4月11日(木)
問い合わせ 市埋蔵文化財センター 026-284-0004

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2019年01月27日

長野市立博物館「収蔵資料展」道具を通して知る人の流れ

26日から「長野市立博物館」(小島田町・川中島古戦場史跡公園内)で始まった「道具が語る人の流れ・物の動き」を見学してきました。
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2019年1月26日ブログ「26日〜長野市立博物館 収蔵資料展

27日(日)14時から開催された学芸員の細井雄次郎氏の講座にも参加しました。企画展にあわせ、展示の見所を楽しく、わかりやすく解説する講座でした。教室いっぱいの30名程が参集しました。
細井氏は、プロジェクターを使って、展示されている民具を解説しました。
その後、展示室で解説しました。

「海上安全」と書かれた茶壺。「山城宇治」から「信州長野吉田」に送られてきた茶壺。茶壺のまわりに記された墨書から経路を読み解き、思いを巡らせました。
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同館の常設展示室の民家に、開館当初から置かれていた水がめ。
これまで産地が注目されることはありませんでした。数年前、明治時代に島根県で作られた石見焼きだと分かったそうです。石見焼きは軽井沢、白馬村、旧堀金村の博物館にもありました。かめの底には産地や作者名が書かれています。そこから流通経路や広がりが見えてきます。島根県から研究者も見えて、説明してくださいました。
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その他、産地は他県の千歯扱き(せんばこき)、前挽き鋸、製瓦道具などもありました。

私が関心を持ったのは、漆掻き(うるしかき)道具でした。
長野市近郊に越前の漆掻きの親方と、加賀の門前町(現輪島市)の職人集団が、昭和30年代頃まで来ていたそうです。親方が宿泊していたのは村田屋旅館(長野市南県町)。職人が宿泊したのは、一般の農家でした。
6月〜10月頃まで出稼ぎに来ていた漆掻きの職人たち。
細井氏は、石川県輪島市を訪れて、かつての職人さんにも会ってきたそうです。
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展示品には、漆掻きの親方から、長年、村田屋旅館にお世話になったお礼に贈られた、漆の弁当箱がありました。現在、旅館はありませんが、関係者が経営している隣の食堂「耳より」で、今でも大切に使われているそうです。交流が分かる貴重な品です。
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帰宅後調べると、「長野郷土史研究会」の機関誌『長野』(177号・平成6年9月)に峯村司氏の「水内郡西山へ出稼ぎに来た越前漆掻き」がありました。また『むしくら』(虫倉山系総合調査研究会編)には、漆掻きの仕事が詳しく載っていました。

同館には、漆の林の写真と、本物の漆の木が展示されています。漆掻きの方法を知ることができます。
「道具が語る人の流れ・物の動き」は、3月31日(日)まで開催されています。
常設展も展示が替わっている所があって、興味深く見学できました。
皆様、どうぞお出かけください。

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2019年01月26日

26日〜「長野市立博物館」収蔵資料展・27日に解説講座

長野市立博物館」(川中島古戦場史跡公園内)では、1月26日(土)から収蔵資料展「道具が語る人の動き・物の流れ〜この茶壷はどこから来たの?〜が開催されます。

期 間 1月26日(土)〜3月31日(日)
休館日 1/28(月)、 2/4(月)、12(火)、18(月)、25(月)、 3/4(月)、11(月)、18(月)、22(金)、25(月)
会 場 博物館特別展示室
入館料 一般300円、高校生150円、小・中学生100円
土曜日は子どもウェルカムデーにつき小・中学生無料

交通網が現在ほど整備されていなかった頃、長野の地にどのような経路で物がもたらされ、人々が行き交っていたのか、道具に記された文字から探っていくという内容です。

関連イベント 総合講座ほんものゼミナール 
「道具が語る人の動き・物の流れ」
日 時 1月27日(日) 14:00〜
会 場 長野市立博物館
講 師 長野市立博物館学芸員 細井雄次郎氏
企画展にあわせ、展示の見所を楽しく、わかりやすく解説する講座です。


同館は、昭和56年(1981)に開館。長野市が再整備を検討する川中島古戦場史跡公園内にあります。同館のリニューアルも検討課題に上げられています。
平成19年(2007)大河ドラマ「風林火山」放送で、特別展を開催した同館。
大勢の見学者や観光客などで賑わいました。(同年5月4日撮影)
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2019年1月12日ブログ「長野市が再整備を検討する川中島古戦場史跡公園

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2018年09月06日

170年前 長野県北部でも起こった大地震「善光寺地震」

6日(木)午前3時8分ごろ、北海道で大きな地震が起こりました。
震源地は胆振(いぶり)地方中東部。
厚真町で震度7(最初は震度6強、後に修正)。マグニチュードは6,7。
「平成30年胆振東部地震」と命名されました。

170年前、長野県の北部地域を中心に起きた大地震が「善光寺地震」です。
弘化4年(1847)旧暦3月24日の夜10時頃でした。
当時の文献、被害状況から推定されるマグニチュードは7,4。

被害は飯山市域から長野市域が最も大きく、上田市域、松本市域、大町市域にも及びました。山崩れ、地滑りなどが起きて、被害は大きくなりました。

善光寺では、3月10日から善光寺御開帳が始まっていました。
善光寺境内や町内は、夜になっても大勢の人でにぎわっていました。

門前の旅籠に泊まっていた人は推定7千〜8千人。
善光寺正信坊の宿帳によると、地震当日の宿泊数は33人で、内死者は26人。
善光寺のお膝元の大門町、岩石町、新町は住民の約4割が亡くなりました。
善光寺町の花街、権堂の焼失家屋は全体の9割にあたる274軒。

善光寺周辺の被害者は、建物の倒壊による圧死、火災による焼死でした。
御開帳の最中で大勢の人が集まっていたこと、夜だったこと、建物が木造だったことなどが、被害を大きくしたようです。

忘れてはならない自然の猛威。
この度の北海道の地震の被害も、甚大です。
一日も早く、日常の生活が復旧されることを祈るばかりです。

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2018年06月20日

善光寺から続く信仰の道「かるかや道」「戸隠道」案内柱

善光寺西側の入り口。道路に面した案内板には「本堂・日本忠霊殿」とあります。
ここには石柱が立っています。以前は、もっと道沿いにあったと思われます。

石柱には「右ざいごうみち」「左とかくしみち かるかやみち」と書かれています。「ざいごうみち」は「在郷道」のことで、村へ行く道のことです。(拡大してご覧ください)
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道路に出て、横断歩道を渡りまっすぐ西に進むと、湯福(ゆぶく)神社があります。
その前に立つ石柱。これらも移動して、ここに集めたられたものと思われます。
右の石柱には「左かるかや道」「戸隠へ通りぬけみちあり」
刈萱堂往生寺に寄っても、戸隠道へ抜ける道があります、という意味です。
(拡大してご覧ください)
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その石柱の側面に書かれた歌。(拡大してご覧ください)
「今もなほ鏡か池とよぶ清水 親子の影を移すからかや」
往生寺の本堂脇には鏡が池という池があります。同寺の絵解きでは、苅萱道心が池に写したご自分のお姿を手本にして刻んだのが、同寺にまつられた地蔵尊だと語っています。
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すぐ西側の石柱。「左ハかるかやの往生寺」
「常念仏有あふしやうし とかくしへのすく道有」
脇には「元禄七年甲戌四月☐五日」。元禄7年は1694年。
今の善光寺本堂ができるよりも10年以上も前の石柱です。(拡大してご覧ください)
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湯福神社前を過ぎると、道は2つに分かれます。
左手が往生寺へ行くかるかや道。右手は、長野西高校前を通る戸隠道です。
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湯福神社前のクリーニング店。店頭に置かれた椅子の背に「かるかや往生寺」「もうひと登りです」「どなた様もゆっくり休んで」「いってください」と書かれています。
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善光寺の後、いかに多くの人々が往生寺に参拝したかが分かる案内の石柱です。
同寺で、その当時に行われていた絵解きは、今でも行われていて常時拝聴することができます。これは全国的に見ても稀なことで、長野の文化的な特色とも言えます。大切に守っていきたい文化です。

2018年4月28日ブログ「湯福神社から歩いて、往生寺で絵解き拝聴

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2018年06月14日

西和田の地蔵堂「十王図」の作者落款に「こまき」の名

13日(水)長野市西和田の地蔵堂にお招きいただきました。
2018年6月13日ブログ「西和田の地蔵堂 釈迦涅槃図・十王図の拝観・調査

「十王図」の落款から、絵を描いたのは地元の清水和吉であることが判明しました。
2018年6月14日ブログ「西和田の地蔵堂 十王図は地元出身の清水和吉の仏画

更に、落款を調べてみました。
上の落款に「胡馬岐亭」と書かれています。
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地元の清水和吉は、「胡馬岐亭」とも名乗っていたことが分かりました。
「胡馬岐」は、「こまき」と読むことができます。

長野市中東部にある「古牧(こまき)」は、明治22年(1889)に上水内郡西尾張部村・高田村・南長池村・東和田村・西和田村・平林村および三輪村の一部(荒屋)の区域で古牧村が発足。
1923年(大正12年)7月1日 に、古牧村は長野市に編入しました。
現在の西尾張部・高田・南長池・東和田・西和田・平林および三輪の一部の地域です。

「古牧」の地名については、『長野市誌』によると次の通りです。
明治22年に誕生した村の名をどうするかで、各村の代表者会で意見がまとまらなかった。困った末に、西尾張部村の物知り、林幸平に聞いたところ、林は「聖徳太子がこの辺を牧場として馬を飼われたともいわれ、また『吾妻鏡』その他の古い史料にも、この辺一帯が牧場であったことが記されている。それゆえ、古い牧場すなわち古牧が適切であろう」と提言した。
一方、『長野市町村合併誌』には「区域中古来多ク唱フル処ノ里名ニヨル」とある。

これまで諸説ありましたが、この度の地蔵堂の十王図の落款により、江戸時代から「こまき」の名称があったらしいことが分かりました。
今後、詳しく調査をして、長野郷土史研究会の機関誌『長野』で発表したいと思います。

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2017年04月08日

11日「ゆうがたGet!」で城山の花見小屋のルーツの話

4月5日(水)、日本気象協会が発表した第7回の「桜(ソメイヨシノ)の開花予想」です。

長野市の予想開花日は、1週間前より1日早まり、4月12日です。
これは平年(1981〜2010年累計平均値)より1日早く、昨年より9日遅い開花予想。
満開は4月17日で平年並みで、昨年より9日遅い予想です。

長野市の桜の開花を予想する標準木は、善光寺東の長野地方気象台(長野市箱清水)の構内にあります。

長野市の今日の気温は最低気温11,2度、最高気温は21,7度。
急に気温が上がって、桜の開花も早まりそうです。

長野の花見の名物、善光寺東の城山の「花見茶屋」(花見小屋)は、7日(金)にオープンしました。
HPでは、その歴史は約60年と書かれています。
長野郷土史研究会の小林一郎会長は城山の花見小屋のルーツについて、4月11日(火)のテレビ信州「ゆうがたGet!」でお話しする予定です。

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2017年03月29日

「寛保二年『戌の満水』の史実を歩く」のDVDが完成

NPO長野県図書館等協働機構」は、「寛保二年『戌の満水』の史実を歩く」のDVDを制作しました。

「戌の満水」は、寛保2年(1742)に千曲川流域で起きた大水害です。
南佐郡佐久穂町から中野市まで千曲川流域の8市町でロケをしました。
DVDは前後編に分かれていて、各約25分。
解説者は8名で、長野郷土史研究会の小林一郎会長も長野市内の解説を担当しました。
(拡大してご覧ください)
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古文書などの史料22点もデジタル化されて、4月8日からウェブで公開します。
公開されるのは、史料の原本、文字を活字化した文章、その現代語訳、書かれた内容の解説です。

DVDや公開される史料は、今後、学校での学習や防災に役立ててもらうそうです。
29日の信濃毎日新聞には、DVDが小諸市に寄贈されたことが載りました。
今後、ロケを行った流域の他市町にも贈られるとのことです。
またDVDの内容は、今後ウェブでも公開されます。

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2017年03月26日

長野県立歴史館で開催中の「遺跡発掘2017」を見学

長野県立歴史館」の巡回展「長野県の遺跡発掘2017」が3月18日から始まりました。
3月25日(土)に見学してきました。

栄村のひんご遺跡から出土した縄文時代中期の火焔型土器や、長野市小島・柳原遺跡群の塔鋺形合子(とうまりがたごうす)の蓋」が目を引きました。
(拡大してご覧ください)
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ひんご遺跡(栄村)から出土した縄文時代中期(役5000年前)の火焔型土器。
炎が燃えるイメージで、53僂曚匹防元されています。新潟県中越地方を中心に盛んに作られた土器です。
それが長野県の栄村で発見されたというのは、とても興味深いです。

小島・柳原遺跡(長野市)から出土した塔鋺形合子。お香 を入れた青銅製の容器。
平安時代(約1100年前)の竪穴住居跡から蓋の部分が出土しました。
正倉院などにしか伝わらない希少な仏具です。
構造が複雑で、作風も精緻で、美術工芸品としての価値も高いものです。

これから県内で巡回展が開催されます。
塔鋺形合子は、長野県立歴史館(6月25日まで)のみの展示です。

春休みに入っていますが、子どもたちの姿が全くなかったのは残念です。
先日、東京の国立科学博物館を見学しましたが、多くの家族連れで賑わっていました。

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2017年03月25日

信濃・越後国境の北国街道「関川の関所跡」を訪ねて

23日(木)に、長野県(信濃国)と新潟県(越後国)の国境に行ってきました。
ここはかつて北国街道で、信濃国の北の入り口でした。
関川を渡ったところにあるのが「関川の関所」です。関川は川の名前でもあり、川の向こうの地名(妙高市関川)でもあります。

関川にかかる一之橋を渡ると、新潟県(越後国)です。
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同じ場所から見た反対方向です。長野県の看板が掛けてあります。
後ろには、しなの鉄道の北しなの線が通っています。
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現在の一之橋と並行して掛かっている、復元されたかつて北国街道に架かっていた橋。
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手前がかつての橋。その向こうに現在の「一之橋」。さらに高い所を、国道が通っています。
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復元された橋の手前にある駐車場。雪がいっぱいで使うことができません。
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駐車場の建物に掛けられている看板。(拡大してご覧ください)
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北国街道 関川の関所 道の歴史館」 4月8日(土)より開館予定となっています。
かつて幹線道路だった北国街道。加賀のお殿様の行列も通りました。
豪雪の地域をどうやって行き来していたのでしょうか。往時に思いを巡らせました。

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2017年03月11日

11日 長野朝日放送が「善光寺門前長野村 ぶらり散歩」

abn長野朝日放送」が毎週(土)に放送している「いいね!信州スゴヂカラ」。

3月11日(土)11:00〜「善光寺門前長野村 ぶらり」です。

現在の長野市大字長野の地域が、旧長野村です。
善光寺の北側の箱清水は、現在大字長野ですが、明治になって合併した村です。

東後町、岩石町、東町、横町、大門町、長門町、旭町、若松町、元善町、東之門町、西之門町、栄町、伊勢町、新町、往生地(一部は大字西長野)、狐池、花咲町、桜枝町、上西之門町、立町、横沢町

新聞の番組紹介には、「江戸時代、善光寺の東西と南側は『長野村』と呼ばれ、門前町としてにぎわった」とあります。アナウンサーの方が、”長野村”をぶらりと散策する番組です。

長野県内の皆様、どうぞご覧ください。
なお同番組は、次回の放送までの間、ネットで放送を公開しています。
県外の皆様や、県内でも見逃した皆様は、こちらからご覧ください。

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2017年01月14日

次世代に伝えたい若穂保科地区念願の『保科誌』完成

13日夜半から降り出した長野市の雪は、朝から降り続いて、朝10時の積雪は10僂任后

14日「長野市民新聞」が一面で「保科の郷土誌 完成」と報じました。
長野市若穂保科地区で、立ち上げた刊行会が『保科誌』を発行。
7年の歳月を掛けて、住民が資料収集から執筆までを分担しました。

「保科の自然」「保科の産業」「石造文化財」「教育と文化」「山に生きる」など全10章。
B5判で約600頁。
希望者には、5千円(消費税込み)で販売。
購入希望は刊行会事務局の玉井さん(026-282-3589)まで。

昨年12月12日保科の廣徳寺で「大明国師・南院国師のお位牌の開眼供養」が行われ、私も長野郷土史研究会の小林一郎会長と参列しました。その折に、『保科誌』が刊行されると紹介されました。

地元の皆さんにとっては、念願の郷土誌の完成です。
現在、歴史はネットで発信されています。
でも私は、形となった本で残すことの重要性を感じています。
この本が、地域の歴史を次世代へ繋げる役割を果たすことを、心から願っています。

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2014年05月22日

平成25年に90周年を迎えた「長野信用金庫」 の記念誌

今年3月31日発行の『長野信用金庫90周年記念誌〜10年のあゆみ〜』(A4版163頁)を贈呈していただきました。
これまで『50年史』『60年小史』『80年史』を発刊。
今回は平成16年以降の最近10年間の事業、出来事を中心に編集。写真を豊富に掲載。

大正12年9月1日に「有限責任長野庶民信用金庫」として創業。
長野信用組合」を経て、昭和26年10月に「長野信用金庫」となり、平成25年9月に創立90周年を迎えました。(現在 店舗数41、役職員670名余)
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新店舗として篠ノ井支店、飯山支店、石堂支店、大門町支店を取り上げ、
廃止店舗は昭和通り支店、中野西支店を写真入りで、歴史を詳しく紹介しています。

興味深いのは、「大門町支店」。
昭和18年(1943)11月 鐘鋳川端本店から、本店を大門町支店の場所に移転。建物は木造3階建の元旅館を改築。
昭和37年(1962)7月  鉄筋コンクリート5階建(地下1階)に建替え。
昭和53年(1978)9月  居町に本店がオープン。大門町支店として再出発。
平成24年11月〜 建替えが決まり、1年間桜枝町支店内で仮店舗営業。
平成25年11月18日 新築オープン。

元旅館を改築した旧店舗の写真が掲載されています。
また鉄筋コンクリート5階建ての前店舗には、かつて高さ14メートルのネオンが立っていました。(写真掲載)

新店舗は低層で、善光寺門前の景観に調和した建物となっています。

大門町支店の紹介には、支店の北隣にまつられている町の守護神「熊野神社」を取り上げています。門前で最も早く8月17日に行われる秋祭りには、大門町支店の職員の方々が、毎年お手伝いしているとのことです。他の支店も、地域と結びついている様子が伝わってくる記念誌です。 

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2013年08月28日

善光寺門前の大門町で7年ぶりに発掘作業

善光寺門前の大門町で、店舗建て替えに合わせて発掘が行われています。
場所は「藤屋御本陣」のすぐ南です。
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塀で囲って作業中でしたが、許可を得て写真を撮らせていただきました。
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この辺りでは、向かい側の「竹風堂善光寺大門店」でも2006年に発掘が行われました。
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その模様は、2006年3月18日「歴史の確証を得た門前町の発掘」をどうぞ。

あの時は、古墳時代の竪穴式住居跡や中世、近世などの貴重な遺跡が発掘されました。
説明会に参加した亡き父、小林計一郎(長野郷土史研究会名誉会長)は「善光寺ができるより以前に町があったことが確証できたことは大変意義深い」と語りました。

今回も調査の結果の報告会が行われるようで、どんな報告がされるか楽しみです。

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2011年10月29日

先人に思いを馳せながらさかのぼった「古川」探訪

最低気温5,3度、最高気温19,8度。平年より暖かな陽気。

本日は長野市芹田公民館主催の行事に参加しました。
芹田を流れる用水をさかのぼる
〜用水とともに生きてきた先人への思い〜


午前9:15に「JR長野駅東口2階デッキ」に集合したのは60名ほど。
案内は長野郷土史研究会の小林一郎会長。
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最初に小林会長から、行事の趣旨の説明。
「芹田地区を流れる水路は時代とともに姿を変えてきました。中でも裾花川から石堂を通り、長野駅付近を通って栗田方面に流れる古川は、長野駅の開業や現在行われている東口の整備事業により、目に見えなくなってしましました。でも見えないところを古川は流れ、今も芹田地区をうるおしています。本日は、その古川をさかのぼりながら、水路を開き守ってきた先人に思いを馳せましょう」

まずJR長野駅東口の駐輪場脇の古川の出口を確認。
後ろに見える建物は、善光寺口の「ホテルメトロポリタン」。
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続いて自由通路を通って、善光寺口に移動。
JRレンタカーの駐車場内のマンホール。下を古川が流れていました。
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通りを渡って、マンホール下を流れる古川を確認。
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その後、表参道から二線路通りを流れる古川の分流「南俣大堰」を確認しながら「ながの東急百貨店」脇を北上。
線路脇を通り再び東口に戻り、「ホテルメルパルク」の脇の流れを見ながら、JR長野駅東口に戻りました。

元々、耕地をうるおしてきた用水は、市街化によって使命がなくなり、姿が見えなくなってしまいました。でも下流では、今も役目を果たしています。マンホールをのぞいて耳を澄ますと、水音が聞こえて用水は生きていることが分かります。

今日は「ヘえ〜そうだったの!」の声が度々上がり、新発見や再確認をすることができました。
「最近は車が中心で、歩くことすらしなくなってしまった。流れる水音も聞くことができなくなってしまった」というお話も印象的でした。
芹田地区の皆さまや、長野郷土史研究会の皆さまのご参加もいただき、とても充実した探訪となりました。

詳しいコースは小林一郎のブログ「古川をさかのぼる」をどうぞ。
「古川は元々、名前から言っても、用水ではなく自然の川だったのではないか」という小林一郎の説は、斬新ですが納得できる話でした。

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2009年12月14日

城下町、宿場町の面影が残る「長沼」はりんご栽培の地

最低気温ー0,7度、最高気温8,2度。
午前中は晴れ。午後5時頃、みぞれのような雨。

今日は恒例となっている、長野市「長沼」のりんご農家へ、冬の間食べる、りんごを買いに伺いました。

長沼は長野市街地から北東へ向かう国道18号線の沿線一帯。
千曲川西岸に、南から大町、穂保、津野、赤沼と続く集落。

アップルライン」と呼ばれ、道沿いには、農家のりんご直売店が並んでいます。
りんご栽培は、明治末頃から開始。
信州りんご発祥の地」の石碑が赤沼公会堂前に建っています。

戦国時代には、武田信玄が築いた長沼城があった城下町。
また江戸時代は、北国街道の脇街道の宿場町として栄えました。

一茶の門弟も多く、「長沼十哲」と呼ばれています。

また千曲川に沿っているため、何度も大洪水の被害を受けた地。
水害による水位を示す「大洪水水位標」が建てられています。

「城下町」「宿場町」の面影を、今に伝える長沼。
今日は、豪華な祭り屋台がたくさん保存されている、とお聞きしました。
来年4月25日には、長沼「西厳寺」の「蓮如忌」。
小林玲子と行く絵解き文化の旅」で、ご住職の絵解きをお聴きするためにお訪ねする予定です。

naganoetokino1 at 23:29|PermalinkComments(0)
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