善光寺四十九霊地

2017年08月17日

花岡平「霊山寺」謙信物見の岩・岩井堂観音・一盃清水

お盆が終わった17日、調査のために花岡平の「霊山寺(りょうざんじ)」(箱清水)を訪ねました。

善光寺の裏手にある同寺は、大正時代に長野市長沼から水害を逃れて同地に移ってきました。同寺にはたくさんの史跡があります。16日は送り盆で賑わった寺も、翌日は静かでした。冠木門から見た本堂。
DSC01701

寺の駐車場脇の500基ほどの「五輪塔群」。
善光寺は中世に、全国からの信徒が五輪塔をまつる習慣がありました。
善光寺周辺から発掘された五輪塔が、一カ所にまとめてまつられています。
DSC01766 (2)

墓地の栗岩家墓の横に建つ「栗岩英治顕彰碑」。
栗岩英治(1878〜1946)明治〜昭和時代前期の郷土史家。
郷里長野県の地方史研究に専念。昭和4年県史編纂委員となり「信濃(しなの)史料」刊行の基礎をつくった。著作に「諏訪研究」「善光寺物語」など。
長野郷土史研究会初代会長・小林計一郎が影響を受けた方です。
DSC01714 (2)

境内にある「川中島戦士の首塚」。川中島の戦いの時、この地は上杉方の陣地でした。打ち取った武田方の武将の首をまつったのが左手の首塚です。
DSC01753

「岩井堂観音」「弘法大師硯水」「謙信物見の岩」。境内の裏山を登る途中の石柱に書かれていて、丁石のように案内の役目をしています。(拡大してご覧ください)
DSC01719 (2)

登った所にそびえ立つ「謙信物見の岩」。ロッククライミングの練習にも使われています。(使用する時は、霊山寺に許可を得ます)
DSC01738

その岩穴にまつられているのが「岩井堂観音」。
DSC01733

かつてこの辺りには清水がありました。岩井堂で修行した弘法大師が、杖で地面を突いたところ清水が沸きだしたといい、弘法大師が硯の水に用いたという伝説があります。これが善光寺七清水のひとつ、一盃清水です。現在、その場所は分かりません。
今では、境内に湧き出ている霊泉水を、一盃清水と呼んでいます。
DSC01706 (2)

花岡平からの眺め。雲は多かったのですが、久しぶりに気温は32度となり暑い一日でした。
DSC01763

小林会長と私は、今、「善光寺四十九名所」を本にまとめようと準備をしています。
今日は、七池のひとつ、狐池も訪ねました。これで全ての写真撮影を終えました。

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2016年11月12日

小春日和の門前「まちなか小路の名前を覚えようツアー」

11月12日(土)、長野市の最低気温は7,6度、最高気温は15,8度。
陽ざしが暖かく感じるような小春日和の天気でした。

長野郷土史研究会」青年部の主催で「まちなか 小路の名前を覚えよう ツアー」を行いました。18 名で善光寺表参道を巡りました。

11時に集合したのは、かるかや山西光寺(北石堂町)の境内。
小林竜太郎(長野郷土史研究会青年部長)の案内で出発しました。
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表参道西側の「はんこや小路」を、道の反対側から説明。「小路の入り口には、今でもはんこ屋さんがあります。奥には、新田町のお宮があります」
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栽松院の脇の「しまんりょ小路」。「社堰と南八幡川の間にあった寺が、島のように見えたので島の寮(寺のこと)と呼ばれ、それが『しまんりょう』『しまんりょ』になりました。またこの小路は、栗田方面とつながっていて、栗田の城のお殿様が通る道でもありました」と解説しました。
しまんりょ

表参道を東に入った「お蔵小路」(問御所町)をぬけて「延命庵」前で、「江戸時代、問御所は越後の椎谷藩領で、年貢を収める蔵があったので名前が付きました」と解説。
延命庵

オリンピックの表彰式会場だったセントラルスクェア前。かつてこの場所にあった「菊屋小路」(問御所町)について話しました。また表参道の西側、旧後町小学校に続く「鍋屋小路」を解説。「小路の途中にある、大鈴木さんの屋号が鍋屋だったので名が付きました。鍋谷田小学校も、鍋屋さんの田んぼだったからです」と解説。鍋屋さんは、かつて鋳物師でした。
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かつて表参道から権堂に入る道だった「権堂小路」に入り、すぐに左折すると「表権堂通り」。「かつてはこの道が権堂の中心でした」と解説。
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東に入る「新小路」を、表参道の反対側から説明。「かつては郵便局があったり、西洋料理店があって先進的な小路でした。今もリノベが行われて、「SINKOJIカフェ」などができています」
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表参道を西に入った「花小路(花屋小路)」(大門町〜西町〜長門町)。「かつて花屋という造り酒屋があったと言われていますが、よくわかりません。近年、バス停が『花の小路』となりました」
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その後、国道406号線となった「下堀(しもぼり)小路」、西方寺に続く「広小路」を解説。解散したのは、小路の奥に市営善光寺表参道東町駐車場ができて歩行者が行き交う「上堀(かんぼり)小路」の入り口でした。「地元では『かんぶり小路』と呼びます」とも解説。
途中で他に説明したのは、お蔵小路に続く「松沢新道」、鐘鋳川沿いの「鐘鋳小路」、武井神社の脇の「虎小路」などでした。
最後に善光寺七小路についても説明がありました。

参加した方からは、「実際に歩いてみて、名前の由来がよく分かりました」「これまで知らなかったことばかりでした」「暗渠になった川が、昔のように見えたらいいですね」などの感想が出ました。
小春日和の天気のせいか、大勢の観光客や地元の方でにぎわう表参道でした。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

行事を企画、実施した小林竜太郎のツイッターより。
長野というまちの記憶を様々な観点から蓄積しておこう
来年のまち歩きでやってみたいこと

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2015年08月04日

NHK長野ラジオ「ゆる〜り信州」で涼を呼ぶ話題「七清水」

8月4日(火)に、NHK長野放送局のNHKラジオ第1の「ゆる〜り信州」で話題になったのが「七清水」でした。
同番組の「ゆる〜り談議」のコーナーで「長野郷土史研究会」の小林竜太郎青年部長が、絵解き「牛王麿」の後に、「七清水」を紹介しました。「牛王麿」は、北海道の函館から船に乗って善光寺に参拝した牛のお話。

江戸時代に少しずつ作られたのが「善光寺四十九名所」。
七寺(院)、七社(七宮、七林)、七橋、七池(七井)、七清水、七塚、七小路の7つ。
7×7=49となります。明和2(1765)年ごろには出そろいました。

でも異説が多く、文献によって取り上げる名所が違っています。
ですから四十九カ所は限定はできません。
今日、紹介した七ヵ所は、箱清水、一盃清水、瓜割清水、柳清水、傾城清水、鳴子清水、夏目清水。

小林竜太郎がお勧めの清水として紹介したのが、新諏訪町の瓜割清水。
あまりの冷たさに、冷やした瓜が割れてしまうほどなので名が付いたという清水。
郷路山の麓にあって、今も冷たい水が流れています。
CIMG1180瓜割清水(郷路山下)

CIMG1183瓜割清水郷路山下拡大

箱清水は、元NHK長野放送局があった地籍。箱清水の地名の起こりともなった「箱池」。
ただ、現在は蓋がされてしまっています。(撮影は2005年)
CIMG1245箱清水

番組では紹介されませんでしたが、瓜割清水はもう1ヵ所あります。
新諏訪町の諏訪神社の境内にあるのも「瓜割清水」。
CIMG1176瓜割清水脇諏訪神社拝殿

「有利和理之見津」と読めますが、これは変体仮名で、「うりわりしみつ」と書かれています。
拡大してご覧ください。
CIMG1169瓜割清水(諏訪神社脇)

次回の小林竜太郎の番組出演は、8月25日(火)だそうです。

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2008年12月04日

善光寺七塚のひとつ、西光寺の「刈萱塚」

最低気温0,6度、最高気温15、3度。

ご紹介するのは「善光寺七名所」「七塚」のひとつ「刈萱塚」。
3つの墓が並ぶ、北石堂町「かるかや山西光寺」の境内。
塚3つ

前に立つ、説明板。
かるかや塚説明板










中央の五重の塔、刈萱上人の墓の説明。
上人の墓説明板


高野山から分骨されたという「千里御前の墓」。
千里御前の墓





鎌倉時代の初めのお話。
高野山から善光寺へやって来た僧、刈萱上人。
善光寺如来のお告げで地蔵菩薩を刻んで往生。
その子、石童丸もこの地に来て地蔵菩薩を刻み往生。
この2体の仏像が、西光寺の御本尊「親子地蔵」。
苅萱道心と石童丸」のお話は、本堂で絵解きが行われています。

全国からみえた善光寺参りの旅人が、立ち寄ったという西光寺。
絵解きの寺として、全国的にも有名。

来週12月13日(土)10時〜11時半
長野郷土史研究会」主催 
善光寺表参道絵解き学習会」を開催。
住職夫人の竹澤繁子さんが「刈萱道心と石童丸
私が「善光寺如来絵伝」の絵解きを行い、絵解きの意義をお話します。
受講料 700円
来年は御開帳。
一足先に、善光寺にまつわる絵解き2題を聞きに、お出かけください。

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2008年08月05日

善光寺七塚のひとつ、岩石町の「虎が塚」

最低気温23,2度、最高気温32,4度。

今日ご紹介するのは「善光寺七名所」「七塚」のひとつ「虎が塚」。
以前に書いた「虎が塚」関連はこちら。
2007年6月善光寺門前虎御前のゆかりの地

岩石町にある、現在の「虎が塚」周辺。
長野市制100周年記念事業」で建てられた「虎が塚の由来」。
「第2地区実行委員会」「岩石町区」 
虎が塚

近くの民家にある井戸の跡。
虎化粧の井戸」だと言い、大切に守っています。
井戸






民家に保存されていた、かつての標柱。
七塚の一 虎が塚
旧「虎が塚」

同標柱に刻まれた「建久四年六月」。
鎌倉時代の初め、曽我十郎・五郎兄弟が討たれた年月。
建久四年六月






道標に刻まれた説明。
「曽我兄弟と虎御前の遺物を埋蔵せし処(ところ)」
曽我兄弟と虎御前の遺物を埋蔵せし処

善光寺の門前町に遺されている、伝説の地。
8月23日の夜には、ひっそりと「地蔵盆」が営まれています。
どうぞお参りにお出掛けください。

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2008年08月02日

善光寺七清水のひとつ、柳清水

連日の猛暑。
今日は「第38回 長野びんずる」。交通規制などにご注意ください。
この暑さなので、少しでも涼しい話題。

善光寺四十九名所」は江戸時代に少しずつ作られたもの。
明和2(1765)年ごろには出そろいました。
でも異説が多く、文献によって取り上げる名所が違っています。
ですから49カ所は限定できません。
「善光寺四十九名所」とは、
七寺(院)、七社(七宮、七林)、七橋、七池(七井)、七清水、七塚、七小路の7つ。7×7=49となります。

その中の「七清水」。
今日ご紹介するのは、その内の「柳清水」。
場所は善光寺の北西にある「往生寺」(往生地)。
坂を登ったところにある「往生寺」の入り口。
古くから「絵解きの寺」としても知られています。
往生地入り口


寺の入り口に立つ説明板。
看板





生い茂った草をかき分け西の方角に進むと、緑色の水をたたえた池があります。これが柳清水の源泉です。
かつては地域の人々に供給された水。
今ではその役目を終え、静かに水をたたえています。

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2008年06月26日

「善光寺七池」のひとつ、秋葉神社の「鶴の目池」

最低気温18,4度、最高気温24,8度。
湿度の高い蒸し暑い一日。

今日ご紹介するのは「善光寺七池」の「鶴の目池」。
場所は「秋葉神社」(西後町)拝殿の脇。
秋葉神社


案内板には「鶴目井戸」と書かれています。
鶴の目井戸










元々この場所にあったのではなく、問御所町と後町の境にあった「鶴賀橋」の西方にあったのを、ここに移したと言われています。
江戸時代の初めまで、昭和通りの辺りを流れていたのが「裾花川」。
その流れが鶴の形に似ていて、鶴の目の位置にあった池なので「鶴の目池」と言われた、とも。
また、流れを変えた「裾花川」が残した池とも言われています。

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2008年06月22日

「善光寺七池」のひとつ、西方寺の「無方池」

最低気温19,8度、最高気温24,9度。
雨が降ったりやんだりの天気。

今日ご紹介するのは「善光寺七池」のひとつ。
西町の「西方寺」門前の左側にある「無方(なきかた)池」。
西方寺門





現在はふたがされている井戸。
昭和の初めまでは、飲料水として近所の人々が利用していたとのこと。
耳を澄ますと、音が聞こえます。
今でも湧き出ていて、庭園の水やりに使っているそうです。
無方池






この「無方池」と、対をなしているのが「有方(ありかた)池」。
またご紹介します。

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2008年06月18日

「善光寺七池」のひとつ、世尊院の「花ヶ池」

最低気温13,3度、最高気温31,0度。
梅雨の中休みが続き、何と今日は真夏日。

今日ご紹介するのは「善光寺七池」のひとつ「花ヶ池」。
その池は「善光寺世尊院」の門をくぐった右手にあります。
世尊院門
池と名前は付いていますが、ご覧のような井戸(右手)。
花ヶ池







300年前は世尊院のすぐ西側にあった「善光寺本堂」。
この水は「閼伽(あか)の水」、つまりご本尊に供える水だった、と案内板には書いてあります。
今でも水量は減ったものの水は湧き出ていて、筧(かけひ)を通して庭の水やりなどに使っているとのこと。
井戸の水ですので、夏は冷たく、冬は温かい水だそうです。
CIMG4793

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2008年06月10日

善光寺七寺(院)だった、権堂町の往生院

最低気温14,4度、最高気温28,7度。
梅雨とは思えないような、真夏のような暑い一日。

江戸時代に少しずつ作られた「善光寺四十九名所」。
明和2(1765)年ごろには出そろいました。
異説が多く、文献によって取り上げる名所が違っています。
ですから49カ所は限定できません。
ところが現在出回っている本では、特定されてしまっています。
しっかりと検証して後世に伝えたいと思い、現在調査中です。

今日ご紹介するのは、権堂町の「往生院」。
アーケード通りから入る「往生院」。
最近入り口の木戸は、日中開いていてお参りすることができます。
往生院入り口から



右手が「往生院」。左手奥には「弁天社」。
往生院





まつられているのは「善光寺七福神めぐり」の「弁才天」。
花街だった権堂町。芸妓さんの信仰を集めました。
弁天社








これまでに取り上げた「善光寺七寺(院)」はこちら。
西本願寺長野別院」(西後町)
十念寺」(西後町)
正覚院」(安茂里)
明行寺」(権堂町)
無常院」(安茂里小市)
時丸寺」(三輪)
この他、現在は無くなってしまった寺もあります。
光明院妙観寺」はかつて、善光寺の西、横沢町あたりにあった寺。
阿弥陀院宗光寺」は、阿弥陀院町(現在の栄町)にあった寺。

本によって以上の9つの寺(院)の中から、7つが取り上げられています。

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2008年02月22日

「善光寺七寺(院)」だった三輪の「時丸寺」

最低気温ー5,7度。最高気温10,9度。
朝の冷え込みは厳しかったものの、日中はぐんと気温が上がりました。

今日ご紹介するのは、かつての「善光寺七寺(院)」のひとつ「時丸寺(三輪)」。北国街道沿い(現在の「相ノ木通り」にあるお寺。
場所はこちら
時丸寺入り口
明治4年に再建された「時丸寺」の本堂。
曹洞宗。中世には大乗寺と言い、その後三輪山観音寺。明治4年に三輪山時丸寺と改称。
本堂






寺の名前の起こりを伝える碑。「三輪時丸旧蹟」。
時丸塚



「善光寺七塚」のひとつ「時丸塚」は、この寺の近くの「円通寺」境内にあります。この2カ寺が、伝説を今に伝えています。
その詳しいお話はこちら。続きを読む

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2008年01月16日

「善光寺七寺(院)」だった安茂里の寺、「無常院」

最低気温ー3,1度、最高気温2,9度。
朝、舞い始めた雪はやみ曇り空の一日。

今日は「善光寺七寺(院)」をご紹介をします。
安茂里小市の「菩提山無常院南泉寺」。
無常院」と呼ばれています。
元々は天台宗でしたが、戦国時代に浄土宗に改宗。
かつては中御所にあり、兵乱や洪水のために小市に移転したと言われています。
山門の右には「無常院」。左には「信濃三十三番観世音十二番札所」。
無常院門







山門を入って左手にある「中見堂(なかみどう)観音堂」。
昨年、新しく造り直されたお堂。
御本尊は馬頭観音。
観音堂










無常院の本堂。
弘化4(1847)年の地震後、嘉永3(1850)年再建。
御本尊は鎌倉時代作の銅像「一光三尊の阿弥陀如来像」。
善光寺の御本尊と同じ中央に阿弥陀如来、脇侍に観音菩薩と勢至菩薩。
秘仏で長野市の指定文化財。
善光寺と同じ「立葵」の紋が、屋根の一番上に付いています。
安茂里無常院


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2007年12月20日

善光寺七寺(院)だった権堂の寺、明行寺

最低気温ー2,8度と、冷え込んだ朝。最高気温は6,3度。

善光寺七寺(院)」をご紹介をご紹介しましょう。
今日は表参道から東に入った権堂町の「明行(みょうぎょう)寺」。

飲食店が両側に並んだ小路は「明行寺大門通り」。
かつての権堂町のにぎわう通りは、表参道から入る「アーケード通り」ではなくて、表参道に平行していました。表参道に近い通りを「表権堂通り」と言い、もう1本東側の通りを「裏権堂通り」と言いました。
「明行寺大門通り」は「表権堂通り」と「裏権堂通り」を結ぶ通り。
写真は「表権堂通り」から見た、「明行寺大門通り」。
奥に一方通行の標識が立つのが「裏権堂通り」。その奥が「明行寺」。
明行寺大門通り










「裏権堂通り」に面した「明行寺」。場所はこちら
門の入り口には、いつも様々な格言。「絆はまた葛藤でもある」。
明行寺入り口








「明行寺」本堂。室町時代末期の創建。
真宗大谷派。
明行寺本堂




詳しい歴史はこちらをどうぞ続きを読む

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2007年12月16日

善光寺七寺(院)だった安茂里の寺、正覚院

最低気温0、1度、最高気温3,2度。
朝起きると、家々の屋根は真っ白。この冬、初めての本格的な雪。
寒い風が吹く中、お日様に誘われて、写真撮影に出掛けました。

今日、ご紹介するのは「善光寺七寺(院)」の一つ、安茂里大門の「正覚院」。境内には2つの観音堂。
安茂里の観音さん」と呼ばれて親しまれています。
大門」の地名は、この寺の参道だから付いた名。
真言宗の寺。入り口の門の右手奥は「観音堂」。
月光殿」と言い、聖観音菩薩と大師自画座像を安置。
「護摩木100円、願い事をお書きください。毎月18日は観音様の縁日。お護摩を焚いてご祈願します」と、書かれていました。
正覚院入り口





観音堂の脇にある階段。この上にも観音堂があります。
観音堂への階段






階段の上にある観音堂「円通殿」。
こちらには「千手観音」がまつられています。
正覚院円通殿






県宝の「木造十一面観音」がまつられている収蔵庫。
県宝十二面観音






弘法大師」像と手前は地蔵菩薩、ドラえモン、のびた像。
弘法大師像、ドラえモン










正覚院本堂。
かつて小市にあった「日輪寺」に対して「月輪寺」と言いました。
月林寺」とも書き、読みは「げつりんじ」又は「がつりんじ」「がちりんじ」。
天台宗で、俗に「窪寺」と呼ばれました。
ですから江戸時代は、このあたりの地名を窪寺と言いました。
寺は一時衰退しましたが、後町の正覚院住職が移って真言宗に改宗。
本堂






この寺にも「徳本上人名号碑」。
徳本上人碑










新春お焚き上げ」の案内。1月15日(火)午前10時〜。
「反省とは悔やむことではなく、前進するための土台である」
年末、年始にふさわしい教え。
新春お焚き上げ案内

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2007年12月11日

善光寺七寺(院)だった表参道沿いの寺、十念寺

昨日同様に、最低気温がー1,3度と氷点下になった長野の朝。
昨日よりも気温は上がる予報でしたが、最高気温は8,3度。

今日は「善光寺四十九名所」の中の「善光寺七寺(院)」の一つをご紹介します。
以前にご紹介したのは「西本願寺長野別院」。
12月17日ブログ善光寺七寺(七院)だった表参道沿いの寺、西本願寺長野別院」をどうぞ。

「善光寺四十九名所」は江戸時代に少しずつ作られたもの。
明和2(1765)年ごろには出そろいました。
でも異説が多く、文献によって取り上げる名所が違っています。
ですから49カ所は限定できません。

善光寺四十九名所」とは、
七寺(院)、七社(七宮、七林)、七橋、七池(七井)、七清水、七塚、七小路の7つ。7×7=49となります。

善光寺七寺(院)」として取り上げられたのは次の9寺(院)。
妙観院、宗光院、正法寺、無常院、時丸寺、十念寺の6寺(院)と、
往生院、明行寺、正覚院の3寺(院)からひとつの計7寺(院)。
妙観院、宗光院はすでにありません。
「正法寺(しょうぼうじ)」は、現在の「西本願寺長野別院」のこと。

今日ご紹介する「十念寺」は、表参道沿いのお寺。
このブログでは、もう何回も取り上げました。
表参道に面した標柱には「紫雲山頼朝院十念寺」。
ここからは奥に見える本堂の屋根と、そのすぐ右手の旭山の頂上が同じ形に見えます。
十念寺入り口










参道を進むと、右手に「大仏堂」。奥に本堂。
十念寺大仏堂、奥に本堂




大仏堂内には、丈六の阿弥陀如来様がまつられています。
大仏堂










十念寺の起こりは、
2006年3月4日頼朝善光寺参詣の足跡が残る寺
境内の模様は、
2007年3月29日善光寺界わいの徳本碑(十念寺)
境内社の秋葉神社は、
2006年2月27日彫刻が見事な西後町秋葉神社

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2007年11月27日

「善光寺七寺(院)」だった表参道沿いの寺、西本願寺別院

最低気温3,1度、最高気温7,6度。
氷点下には下がらず、暖かな朝を迎えました。
お天気は曇りで、日中の気温は上がりませんでした。

今日は「善光寺四十九名所」の中の「善光寺七寺(院)」の一つをご紹介しましょう。
最初にご覧いただく写真は、表参道西側の小路から見た風景。
表参道の向こうにそびえるのは「グランドハイツ表参道弐番館」。
昨年2006年4月29日ブロググランドハイツ表参道弐番館の店舗」をどうぞ。
別院から表参道二番館







さて、そのマンションの向かい側の小路の入り口に立つ標柱には、
本派本願寺長野別院」と書かれています。
「本派本願寺」とは大谷派の東本願寺に対する「西本願寺」のこと。浄土真宗の本寺、西本願寺の別院。小路は寺の参道です。
別院入り口







参道となっている小路を西に進むと、両側に2つの塔頭があります。
別院入り口






向かって左(南側)には「善立(ぜんりゅう)寺」。
別院塔頭






右(北側)には「定専(じょうせん)寺」。
お堂の前には親鸞聖人幼少時(松若丸)の像がまつられています。
塔頭定専寺






西本願寺長野別院は、元々長門町の「長野天神」の地にあり、
寛永3(1626)年に現在地に移りました。
元は「正法(しょうぼう)寺」と言い「善光寺七寺(院)」の一つ。
大正14(1925)年に「本願寺別院」となりました。

明治4(1871)年本堂を仮用して「長野県学校」が開設。
長野県の近代学校の始まりで、7〜36歳までの180人が入学。
明治6年、城山に長野学校ができて廃校。
明治34年4月から1年間は「長野商業学校」の校舎として使用。
昭和49年に新本堂落成。
付属の「長野中央幼稚園」は近年、廃園となりました。

江戸時代に少しずつ作られた「善光寺四十九名所」。
明和2(1765)年ごろには出そろいました。
異説が多く、文献によって取り上げる名所が違っています。
ですから49カ所は限定できません。
「善光寺四十九名所」については、また少しずつお伝えしていきます。

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