aamall

2010年08月19日

ディベーターが「現場を見る」ことについて


ディベートにおけるフィールドワークについて、一部で話題になっているようなのでそれについて書いてみたいと思います。

NAKO-Pさんのブログで、今年の高校論題の議論にあたって、医学部の教授や病院の先生のお話を伺ったということが書かれています。おそらく、ブログに書かれている以上に様々な物事を見聞きするいい機会になったでしょうし、実際に議論の対象となる現場ではどのような考え方の下でどのような処置がなされているかを理解するうえでは非常に有意義なことだと思います。

実社会を動かす政策を考える場合、官僚など、具体的な政策を考える立場にある人が現場を見ずに政策を提案することは考えにくいです。そう考えれば、政策を議論するディベートにおいて実情を取材することには大きな意味があるということは十分考えられます。

ただ、これがディベートのためになす活動としては、そして殊に教室ディベートなどで中高生を対象にする場合には、よほど熱意のある指導者と、相当に理解力のある生徒がいる場合でなければ、あまりよい成果は得られない場面も十分に想定されると思います。そればかりか、かえって議論が硬直してしまう危険もあるでしょう。


具体的には、ディベーター自身が極端に片方の意見しか考えられなくなってしまうことが最も強く危惧されます。

おそらく、現場の先生方のお話を伺い、またこれに関連して実情を見せていただくことは、非常に強い印象を与えるでしょう。また、一流のプロフェッショナルとしてその問題に取り組んでいる方であればあるほど、その論題となる問題について、あるいはそれに関する様々な論点の一つ一つについて、明確な立場を確立している場合も多いと思います。加えて、当該論点について様々な場面で講演や議論をしている方であれば(その問題について先進的な取り組みをしていたり、第一線で活躍したりされている方であれば、そのことについて様々な講演を依頼されたり、そうでなくても関係者に説明をしたりする場面が多くあるだろうことは容易に想像できます)、なおさら洗練された、説得力のあるお話をされることでしょう。自信に満ち、実績に裏付けられ、しかも話す内容そのものが洗練されているとなれば、その話は非常に強い説得力を持つでしょう。

このような場面で、その意見に対抗できるだけの説得力を持って反論できる人がいなければ(おそらくいないでしょう)、ディベーター自身が説得され、場合によっては感化されたといってもいいくらい、肯定・否定のいずれかに非常に偏った意見を持つ可能性が高いと思います。別に、ディベーターがどちらかに偏った意見を持ったとしても、それ自体が悪いこととは必ずしもいえません。けれどもそれは、反対の立場ではこのような構成で議論することが可能だろうと想定し、あるいは自分にとって最強の反対者を想像するなどして、反対の立場から議論を展開できる場合です。このような方法で形成された一方に偏った意見は、反対の立場の想定を非常に困難にするでしょう。反対意見を見聞きしたり考えたりしても、対面した専門家の圧倒的な説得力に押し負けてしまうからです。

ディベーターが考えられる肯定側の意見と否定側の意見とのレベルに決定的な差がある場合、そのチームが議論を発展させるうえで大きな障害になると考えられます。部内で試合をしても一方的な展開になってしまうとすれば議論の発展はあまり期待できないでしょう。さらに、チーム全員が同じような考え方を持つようになると、チーム内での意見の衝突が期待できなくなります。

そうなれば、自分たちが「強い」と思っている側では、自分たちの議論に穴があっても気づきにくくなるでしょう。何しろ、チーム全員が説得されてしまった考え方を説明するのですから、それが間違っていると想定して穴を探すのが難しいと考えられるためです。

一方で、自分たちが「弱い」と思っている側について考えようとすれば、半ば絶望的な感覚に陥るのではないでしょうか。「強い」側の意見は目の当たりにした強烈な印象によって裏付けられているのに対し、単に上っ面の言葉だけで構成された議論という風に見えてしまい、どんなに努力しても勝てる気がしないということになることも十分に考えられます。


ここまで述べた弊害は、一か所だけに行った場合や、同じような考え方の人のところばかりに行った場合に生じやすい問題です。

では、複数の、様々な考え方の人のところに行けば弊害は生じないのでしょうか。

僕は、この場合、一か所だけであったり、同じような考え方ばかり聞いたりする場合に比べればはるかに問題は小さくなると思います。しかし、次の疑問は避けられません。



ディベーターは、自分たちで考えた議論を展開することができるでしょうか?



十分に考える力のあるディベーターであれば、聞いてきた様々な意見を踏まえたうえで議論を選択し、あるいは自分で構成しなおして議論を組み立てることも可能でしょう。しかし、まだ十分に自分で議論を考えることのできない選手が専門家の話を聞き、実物を見てしまうと、そこで展開された議論構成以上に説得力のあるものがあると想定することすら困難になってしまう恐れがあります。誰かに聞いたこと以上の議論構成を考えられなければ、その人に聞いた議論をコピーして、フォーマットに応じて作り直すことはあるにしても、ほとんどそのまま使うことになってしまうでしょう。ディベートをする目的の一つに思考力の訓練があることを考えれば、単に「すごい先生が言っていた」とか「専門の先生が考えた」というような議論をそのまま展開するのは、本来の形からはずれていっているように思います。


そう考えると、証拠資料の引用はどうなのか、ということが問題になるでしょう。(以下、少々本題とはずれているようにも思いますが、重要なことなので。)

というのも、証拠資料もまた、「専門家の意見」を取り入れることによって議論を向上させようという取り組みだからです。専門家の書いたものを読むことによって、どこかで見た議論を使うことになる、という点では、今述べたばかりの弊害がここからも生じるように考えられます。

実際、その危険がないとはいえないと思います。本に書かれていたような展開を6分ないしは4分に要約して議論しようとするチームはおそらくどこかにあるでしょう。

しかし、本には人と決定的に違う部分があると考えます。それは、こちらの質問を理解することもないし、ほとんどの場合には直接答えてくれることもないということです。

どんなにすごい学者が書いた本であっても、どれほど先進的な取り組みを実践されている先生が書かれたものであっても、関連するあらゆる論点について十分に丁寧な説明がされているということはおそらくないと思います。よく考えれば、「こういうときはどうなの?」「こういうことは考えなくていいの?」ということが出てくるでしょう。あるいは、自分たちで気付けなかったとしても、練習試合をしている中で出てきた、本に書かれていないポイントというのもあるでしょう。

目の前にいる先生は、教えられている側がわかっていないと表情などで判断すれば、さらに説明を加えてくれるかもしれません。場合によっては、質問に応じてくれることもあり得ます。でも、本はそういうわけにはいかないのです。わからなかったところは自分なりに考えるなり、友人と話し合ったりするほかありません。足りない論点についてはほかの資料から補うことになるでしょうが、その時には「本当にこの2つの考え方は矛盾しないか?」「全く違う前提で議論をしていないか?」ということに気を配ることになりますし、そもそも補うための資料がどういうところにあるか検討する時点で、ある程度内容の目星を立てる必要があることも多いでしょう。資料を探す時点で、議論を考える訓練は始まっているのです。


もうひとつ、本から学ぶことと人から学ぶことには重要な違いがあります。それは、いわば反論の心理的な容易さとでもいうべきものです。

目の前にいる人が、長年の経験を踏まえて、あるいは実体験を基に語る言葉には、単なる単語の連なりではない重みがでます。また、例えば実際に死にゆく人を見て、それを見る家族の嘆き悲しむ様子や医師の苦渋の表情を目の当たりにすることは、いかなる名文をも超えて心に突き刺さるに違いありません。

このような効果が、教育上良い影響を持つであろう場面もありうることは否定できません。しかし、一方でこのような体験は、それらを背景として述べられた意見に対して反論することに、大きなプレッシャーを与えるのではないかと思います。単に一つの意見に反論しているはずが、まるでその人の人生を冒涜し否定しようとしているかのように、あるいは、今家族を失ったその人に「それが当然だ」とでも言っているかのように感じられることがあるのではないでしょうか。そうなれば、その意見に反論することは容易ではないでしょうし、「これはそういうもの」として、仮に反対の立場に立とうとした場合でもその論点は考えるのを避けてしまうのではないかと思います。

本を読むことにも同じような効果が全くないとは言いませんが、比較的影響は小さいでしょう。本に書かれている文章もまた、著者の経験や体験を背景にして書かれているものでしょう。かなりの重みを感じることも多くあります。しかし、実際の著者を目の当たりにしてはとても言えないような低レベルな反論や異論も、本の前では躊躇なく言えるでしょう。そのような、自分の考えを言うハードルの低さが、議論を鍛える特にはじめの段階では重要になると思います。意見を言うことができなければ、自分で議論を組み立てるという活動はそもそも始められないからです。


ということで、僕は本をはじめとする文献からの証拠資料の引用については、現場の見学・訪問や専門家との直接の対話・質疑応答に比べればはるかに低い危惧しか抱いていません。


※もともとは、ここで、「そもそも専門家の見解を模倣することも悪いことばかりではない。しかし、大会で使う議論としてはやるべきではない」ということを書くつもりでした。しかし、長くなりすぎるのでまたの機会に回します。


さて、大きく脇道にそれましたが、本題に戻りましょう。現場を訪問してお話を伺うということは、いくつもの弊害があると言いました。では、このような活動はディベートの準備としては行わないほうがいいのでしょうか?

僕は、必ずしもそうではないと思います。現場を訪問することには、いくつかのメリットがあります。

第一に、大きく的を外れた議論を簡単に見抜くことができる可能性がある、ということです。

例えば、今年のディベート甲子園中学校の部で、とある地方大会で見た試合で、「保健所に捕まえられた動物は飼い主以外が引き取ることはできない」という資料を使っているチームがありました(文章の切り取り方がおかしい不適切な引用であった可能性もありますが、その場ではそう判断するだけの証拠がなかったので、一応そういう資料があるものとして判定しています)。もし、実際の保健所や殺処分をなくす取り組みをされている人たちの話を少しでも聞いたことがあれば、明らかに違和感を覚えたでしょう。

もちろん、このような情報はリサーチしていけばいずれ手に入るものではあります。今回の例でいえば、実質一カ月もリサーチしていない僕でさえ違和感を覚えたことからも明らかです(ついでに、それを完全否定できる資料も見かけた記憶があります)。しかし、リサーチの早い段階でこのような資料が見つけた時に、「ああ、そういうことなんだ」と思ってそれ以上調べなくなるというリスクは回避しやすくなるでしょう。


さらに、時代遅れの資料を見つけられる可能性も大きく高まります。

よく、「あちらの資料は2003年時点のもので、こちらは2008年時点の資料を挙げています。より新しいこちらの内容を採ってください」というスピーチがなされます。しかし、現実には2008年に書かれた文献でも、著者の知識は2000年時点のものでしかなかったり、もっと古い情報源に基づいて書いたりしている場合もあり得ます。学者の研究論文などでは致命的なことでしょうが、一般向けの文庫本、さらにはネット上の文章すらエビデンスとして使用することを認めている現在のディベートでは、近年かかれた古い内容の資料が登場することも十分に想定されます。

※だからネット資料はだめだというつもりはありません。むしろ、だからこそ相手の出してきた資料の内容はよく聞くべきだし、単純に「より新しい資料だ」という理由による判断は多くの場合不適切だと思います。

このような、内容は本当は古いはずなのに書かれたタイミングが最近であるという資料に関しては、きちんとした専門家の話を聞いていれば「その内容はむしろ古い時代の話なんだ」という反論を容易に考えられるでしょう。もちろん、ほとんどの場合にはその内容は一般常識では判断しかねるので、証拠資料を使う必要があるでしょう。しかし、単純に「この資料は新しいから」といって更新日が新しいだけの、情報自体は古い資料のほうを正しいと思い込んでしまった場合、そもそもそういう資料を探すことをしなくなってしまう恐れがあります。


以上の述べかたからお分かりかもしれませんが、現場で説明を受けるというについて、僕はリサーチの補助としておもにとらえています。文献でのリサーチを主、現場や専門家からの直接の情報収集を従と考えるこの立場に対しては、現場への敬意が足りないとか、一次資料を軽視して二次資料を重視するようなことになるのでおかしいとか、そういう反論を受けることになるであろうことは承知の上です。

そもそもディベートのリサーチは、時間的制約との戦いでもあります。専門家レベルの知識をもってしても意見の分かれる議論に、十分な説得力を持って議論するためには多様な知識・情報が必要です。しかしながら、ディベーターは専門家ではなく、学生である場合を含め、他に本業をもっています。リサーチに一日の大半を注ぐわけにもいきません(やってただろ、というツッコミがどこかからきそうですが、そんなことはありません)し、それをやったところで専門家のもつ情報量には遠く及びません。

その中で少しでも多くのことを学ぼうと思うのであれば、さらに短時間しかおこなうことができない現場での学習を中核にするよりは、比較的多くのものを見ることができる文献を中心に据えるべきだと考えています。また、現場の訪問が文献での学習に比べてはるかに多くのコストを、自分が払うだけではなく訪問先にも払わせることになりかねないと考えると、自分たちの訓練のためにどこまで協力を求められるか、相当尻込みしてしまう点があるのも否めません。そうだとすれば、やはりフィールドワークを主とする学習方法は、かえって得られる情報の深みを失いかねないのではないかと思ってしまいます。

もちろん、専門家の言葉や、その問題に長年取り組んできた人、また、意図せずしてその問題と向き合うことになってしまった人などの言葉には、非常に重みがありますし、深い示唆に富んでいる場合も多いでしょう。しかし、それはその人が言うから深みを持つのであり、同じことをディベーターが言ったとしても、たとえそれがその人の言葉の引用であったとしても、到底同じような深みがあるとは考えられません。ジャッジは選手が目撃したその体験を共有しませんし、さらに言えばそのテーマを論じるにあたって必須の知識が欠けている可能性も高いでしょう。

ディベートのジャッジがそのような、議論することそのものについてはそれなりの知識・経験があっても個別具体的な論題に関しては素人であるという状態は、ともすれば現場のことを知らない議論で勝敗を決めることにつながりかねないでしょうし、あるいは論理的に整合するからといって事実無根の議論が採用されることも絶対にないとは言い切れません。

しかしながら、私たちの生きている社会はどこでもそういうものではないでしょうか。特に民主主義という考え方は、比較的知識のあると思われる人だけで政策を決めるということを否定します。知識のない人にも一定の発言権があり、だからこそ、ある程度知識のある人はそうでない人に説明をし、説得しなければなりません。これは現代の国の政策決定において明らかですが、もっと一般的に、組織を動かそうとするときには大なり小なりそういう活動が不可欠でしょう。そしてその時に、自分が直接関与している現場の話をするのではなく、又聞きに知っていたり、文献から知ったりした話をする必要がある場面も多いと思います。

そうだとすれば、そのような社会に出ていくための訓練としてのディベートが、専門家でもなければ専門的な知識もない、しかし少なくとも偏った考え方をせず合理的なものを合理的と評価するジャッジによって判断されるというのは、非常に重要な要素であるように思います。専門家が専門家を説得するときに使う技法と、専門家でない人を説得するときに使う技法は同じではあり得ないでしょうし、一般に需要が大きいのはむしろ、十分に専門的な知識を持たない人を説得する技術でしょう。


最後はまた脇道にそれてしまいました。

今回は、ディベーターのフィールドワークについて考えました。僕なりの結論は、現場を見に行くという活動もうまく使えば議論に有意義である、というものです。しかしながら、一歩間違えればディベートの基本である「両方の立場から」「自分で」考えるという部分を崩しかねない危険をはらんでいることもまた事実です。だから、このような活動は慎重に行う必要があるでしょう。



いつにもまして長くなってしまいましたが、まだまだ省略した部分も多いので、後日気力が続けば補完したいと思います。

では。




nagasakiwestai at 19:33│Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 金武@修猷館OB   2010年08月19日 21:59
ディベート甲子園お疲れ様でした。

自分も専門家には大変お世話になった記憶があります。派遣('08甲子園)や核燃料('08JDA後期)では、それぞれ弁護士と九電の方に質問をしに行きました。

その上で、記事に上がっていた論点について考えたことを書きます。

1.両方の立場から考えること
 派遣論題の時には、弁護士の方に質疑応答という形で質問に答えていただきました。そのため、特に偏った意見を持つことはありませんでした。弁護士の方も、労使双方の相談を受けていらっしゃったらしく、特に個人のスタンスを前面に押し出されていた記憶はありません。むしろ、自分の固定観念がよほど強かったと思います。
 核燃料論題の時には、資料集めと質問をかねて行きました。電力会社のスタンスは事前にリサーチをしていたので、特に聞く必要はないと判断していました。その上で質疑応答では、理工系の質問と最新事情、今後の展開をしました。

 いずれの場合においても、質疑応答という形を取っていたため、偏った考え方をしてしまうことはありませんでした。

2.自分で考えること
 二つの論題を通じて、あらかじめ「こんな風に議論をまとめていきたい」と考えた上で質疑応答に臨んでいました。そのため、専門家の意見を引っ張って立論をすべて組み立てることはありませんでした。

(続く)
2. Posted by 金武@修猷館OB   2010年08月19日 22:00
(続き)
3.今回の論題
1・2で自分の経験について書きましたが、今回の論題については記事の指摘通りの懸念が生じてもおかしくないと思いました。今回の論題の共通点は「生命」です。派遣や核燃料と比べて心理的な衝撃が強い論題であり、それゆえ現場の方の話も熱を帯びると思います(エビデンスの文章でも著者の気合がこもっていました)自分の考えを持っていない中高生が現場の話を聞くと、記事の指摘にあったような懸念が現実のものとなるでしょう。

4.解決策?

・質疑応答のみにする
大変乱暴な手段ですが、質疑応答のみに徹するのも一つの手だと思います。質疑応答だけであれば専門家の話に感化される可能性はぐっと低くなります。事前に質問リストを作って、事前に送付すれば相手方の手間も省けて一石二鳥です。

5.最後に
 せっかく現場に足を運ぶのであれば、そこでなにをするべきかは十分に考えたほうが良いと思います。自分は「分からないところを聞く」というスタンスで行きました。「意見を聞く」だけであれば紙の上のほうがいいと思います。ただ、大会が終わった後に後学のために話を聞くのであれば、積極的に意見を聞くほうが良いと思います。そこで自分の考えが甘いかを知るいい機会になります。

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