2024年05月19日
ラジコン飛行機の継続方法を考えてみる
どうも。中島飛行機を今現在も調べている長島です。
「中島知久平の本」は完成しているのですが、出版社探しに四苦八苦している状態です。全ては己の実力不足です。
で、久しぶりに、「富嶽を飛ばそう会」が主催しているラジコン大会に足を運びました。





インスタグラムに上げた写真
YouTubeショートに上げた動画。
動画は富嶽中心です。
他にも各種、ラジコン模型飛行機が飛び、その解説を聞きながら華麗なる飛行を眺めることができます。解説を聞いてビクッとしたのですが、疾風が飛んでいるときの解説で、
「疾風を作った◯◯さんは模型をアメリカで買いました(※日本で売ってなかったので)。その会社の商品の第一弾は『疾風』でした。その理由を尋ねたら『ジャパン・ナンバーワン』な説明を受けた」
と。疾風、四式飛行機最強論は小説ではよく目にするのですが、その最初の出典を私は探しています。「もしかして日本人が言い出したのでは」という疑念もありましたが、疾風の模型を作った人のアメリカの体験談なので「四式最強論」の誕生は、アメリカ発でいいかと思います。
(となると英語文献の調査……。う、頭痛が)
で、RC中島飛行機スケールモデル大会ですが、「同好の士による集まりでは上出来だろう」と思いました。毎年文化の日に行われる大会では多くの企業が入っているので人数も多いです。
とにかく「趣味の集まりでこれだけの人数が集まるのはそうそう無いだろう」と思いました。冷静に分析すれば「ラジコン飛行機の愛好家が少ないから。イベントが少ない。故に愛好家はその日を基準にしてスケジュールを組む」でしょう。西日本からの参加していた人もいました。
ほんと、企業か付かないイベントで、しかも20年も続いている(コロナ禍で休止もありましたが)のは珍しいかと思います。
さて、気になることですが、イベント時のマイク解説でも何度も述べていたのが「高齢化」でした。見学者は老若男女でしたが、実際にラジコン飛行機を動かす人は高齢者が多かったです。
お金のかかる趣味で気軽に始めることはできず、実際に飛ばしてみても無事に着陸できるかどうかと、「お金と技術の面で難問だな」と正直に思いました。本気で好きだったら経済的な問題はクリアできますが。
そんで今後は「高齢化なので若い人に引き継ぎを」をどうやってするかが課題でしょう。ガンダムに登場する航空機を飛ばしてみせるのはどうだろうか、と眺めながら思っていました。
ホワイトベースは無理でも、ガウなら実際に飛ばせそうな気がします。
え? 私ですか? 無理無理無理無理(×100)。
私は模型趣味が無いです。中島飛行機を調べていますが人物中心です。「仮に」を考えましたが「主は無理でも、副ぐらいなら……」と想像しましたが、自分の心に正直になると「富嶽の模型を私も飛ばしてみたい」の熱量は低かったです。
眺めるだけで満足しています。
なので、何らかの形で「富嶽を飛ばそう会」を手伝いたい、力になりたいと思う人がいたら、実際に操縦や知識を身に着けなくても、「足を運んで、人に話す(SNS投稿をする)」だけでも、効果があると思います。
それがきっかけで関心を持つ人がいるでしょう。
とにかく、私のブログで興味を持ってくださったら、「文化の日」に群馬県尾島まで足を運んでくれると幸いです。次回、富嶽を飛ばすのは「文化の日」です。
そして富嶽の運用については、こちらで紹介を始めました。
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「中島知久平の本」は完成しているのですが、出版社探しに四苦八苦している状態です。全ては己の実力不足です。
で、久しぶりに、「富嶽を飛ばそう会」が主催しているラジコン大会に足を運びました。





インスタグラムに上げた写真
YouTubeショートに上げた動画。
動画は富嶽中心です。
他にも各種、ラジコン模型飛行機が飛び、その解説を聞きながら華麗なる飛行を眺めることができます。解説を聞いてビクッとしたのですが、疾風が飛んでいるときの解説で、
「疾風を作った◯◯さんは模型をアメリカで買いました(※日本で売ってなかったので)。その会社の商品の第一弾は『疾風』でした。その理由を尋ねたら『ジャパン・ナンバーワン』な説明を受けた」
と。疾風、四式飛行機最強論は小説ではよく目にするのですが、その最初の出典を私は探しています。「もしかして日本人が言い出したのでは」という疑念もありましたが、疾風の模型を作った人のアメリカの体験談なので「四式最強論」の誕生は、アメリカ発でいいかと思います。
(となると英語文献の調査……。う、頭痛が)
で、RC中島飛行機スケールモデル大会ですが、「同好の士による集まりでは上出来だろう」と思いました。毎年文化の日に行われる大会では多くの企業が入っているので人数も多いです。
とにかく「趣味の集まりでこれだけの人数が集まるのはそうそう無いだろう」と思いました。冷静に分析すれば「ラジコン飛行機の愛好家が少ないから。イベントが少ない。故に愛好家はその日を基準にしてスケジュールを組む」でしょう。西日本からの参加していた人もいました。
ほんと、企業か付かないイベントで、しかも20年も続いている(コロナ禍で休止もありましたが)のは珍しいかと思います。
さて、気になることですが、イベント時のマイク解説でも何度も述べていたのが「高齢化」でした。見学者は老若男女でしたが、実際にラジコン飛行機を動かす人は高齢者が多かったです。
お金のかかる趣味で気軽に始めることはできず、実際に飛ばしてみても無事に着陸できるかどうかと、「お金と技術の面で難問だな」と正直に思いました。本気で好きだったら経済的な問題はクリアできますが。
そんで今後は「高齢化なので若い人に引き継ぎを」をどうやってするかが課題でしょう。ガンダムに登場する航空機を飛ばしてみせるのはどうだろうか、と眺めながら思っていました。
ホワイトベースは無理でも、ガウなら実際に飛ばせそうな気がします。
え? 私ですか? 無理無理無理無理(×100)。
私は模型趣味が無いです。中島飛行機を調べていますが人物中心です。「仮に」を考えましたが「主は無理でも、副ぐらいなら……」と想像しましたが、自分の心に正直になると「富嶽の模型を私も飛ばしてみたい」の熱量は低かったです。
眺めるだけで満足しています。
なので、何らかの形で「富嶽を飛ばそう会」を手伝いたい、力になりたいと思う人がいたら、実際に操縦や知識を身に着けなくても、「足を運んで、人に話す(SNS投稿をする)」だけでも、効果があると思います。
それがきっかけで関心を持つ人がいるでしょう。
とにかく、私のブログで興味を持ってくださったら、「文化の日」に群馬県尾島まで足を運んでくれると幸いです。次回、富嶽を飛ばすのは「文化の日」です。
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2024年04月23日
実際に感じてみて思った、ブログとnoteの違い
「てやんでえ、ばろちくしょう。中島知久平の伝記と、清水善造の伝記が完成しているぜ。両作とも、今の日本に必要な功績を残した人物だぜ」
と思い込んでいる長島くんです。
どちらも「出る出る詐欺状態」です。原因は分かります。出版業は文化事業ではなく商売です。
何かで私がバズれば、世に出ます。筋トレ本を出すとかダイエット本を出すか。それこそ今は、各種SNSがあります。
うんうん考えるよりは、なにか適当でもいいからアップすることでしょう。
無論、長いスパンで見れば瞬間的にバズるより継続的に読まれることが良いです。ウエブ小説でデビューした人に話を聞くと、非常に戦略的でした。同時に、「その戦略、やってみましたけど駄目でした」と気質がありますので、焦らずにせっせと取材しています。
で、オワコン化しているブログですが、「記事を販売できるサービス」があるnoteが好調のようです。
同じ講談社資本であるcakesは終了しましたが、noteは継続しています。
この差を考察して得意げに発表すれば赤っ恥をかくと思いますが、「やはり無料の度合いが大きいかどうか」ではないでしょうか。そして「ワンちゃんバズれば有料化しお金を得られる」あたりでしょう。
各種SNSは基本無料で楽しめます。「ソシャゲー」もそうですね。
てなわけで、noteに投稿しては「やっぱ消そう」を何度も繰り返した長島くんが、いろいろ思うことが生まれてnoteに継続投稿できそうな気分になれました。
以下、リンクです。
ブログをろくに更新していませんが、漠然としたイメージでは、
「FBはクローズド」「インスタグラムはキラキラ系」「X(旧ツイッター)はカオス」
な気がします。そして「noteは真面目記事」で、「ブログは楽屋トーク」な感じになると思います。
受け手は自由に解釈するので、本気の度合いが強い場合は注意書きや前置きが長くなるんだろうな、と思います。
とにかく生存報告ではないですが、note投稿を意識してするようにしました。無論、散々打ちのめされたウエブ小説も流れがよく変わるので「このネタや書き方はありなのでは?」とトライアンドエラーの繰り返しです。
ではでは、今後ともよろしゅうに。
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と思い込んでいる長島くんです。
どちらも「出る出る詐欺状態」です。原因は分かります。出版業は文化事業ではなく商売です。
何かで私がバズれば、世に出ます。筋トレ本を出すとかダイエット本を出すか。それこそ今は、各種SNSがあります。
うんうん考えるよりは、なにか適当でもいいからアップすることでしょう。
無論、長いスパンで見れば瞬間的にバズるより継続的に読まれることが良いです。ウエブ小説でデビューした人に話を聞くと、非常に戦略的でした。同時に、「その戦略、やってみましたけど駄目でした」と気質がありますので、焦らずにせっせと取材しています。
で、オワコン化しているブログですが、「記事を販売できるサービス」があるnoteが好調のようです。
同じ講談社資本であるcakesは終了しましたが、noteは継続しています。
この差を考察して得意げに発表すれば赤っ恥をかくと思いますが、「やはり無料の度合いが大きいかどうか」ではないでしょうか。そして「ワンちゃんバズれば有料化しお金を得られる」あたりでしょう。
各種SNSは基本無料で楽しめます。「ソシャゲー」もそうですね。
てなわけで、noteに投稿しては「やっぱ消そう」を何度も繰り返した長島くんが、いろいろ思うことが生まれてnoteに継続投稿できそうな気分になれました。
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ブログをろくに更新していませんが、漠然としたイメージでは、
「FBはクローズド」「インスタグラムはキラキラ系」「X(旧ツイッター)はカオス」
な気がします。そして「noteは真面目記事」で、「ブログは楽屋トーク」な感じになると思います。
受け手は自由に解釈するので、本気の度合いが強い場合は注意書きや前置きが長くなるんだろうな、と思います。
とにかく生存報告ではないですが、note投稿を意識してするようにしました。無論、散々打ちのめされたウエブ小説も流れがよく変わるので「このネタや書き方はありなのでは?」とトライアンドエラーの繰り返しです。
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2023年08月29日
資料を読まずに書いてみよう。硬式導入者の野村祐一
大正時代、テニスの国別対抗戦のデビスカップで活躍して清水善造と熊谷一弥を調べ上げて本にさせることにジタバタしている長島くんです。
両名については空で説明ができ、既存の本に出てくる関係者の関係者(?)にも取材できたので、既存の本にはない雑学や逸話も知ることができました。もう少し頑張れば「六次の隔たり」で取材できるかもしれませんが、取材で知り合ったテニス関係者は薄っすらと「調べること」に否定的でした。
それらを調べたら「おそらくこれが原因かな?」を見つけましたし、「その説を否定する、根拠がしっかりしている論もあるのになー」と、今現在は「見」の状態です。
で、 硬式導入者の最大の功績者は、野村祐一という人物です。断言します。
ウィキの赤文字ですら載っていない人物です。同姓同名の人物がいますが、かなり面白い人物です。
熊谷一弥を調べた時に名前をちょいちょい見かけるのに、なぜか熊谷一弥は彼についての説明はスルーするという。
答えを先に言いますと、売名嫌いの性格だったので熊谷一弥は配慮したのでしょう。
野村祐一は士族の家柄で、後藤又兵衛と逸話がある家柄でした。
で、大正時代の子孫である野村祐一はOBからの熱い後押しで硬式導入の旗振り役をします。慶応大学や他の大学と調整したり、論客にも説明をしたのですが「日本で生まれたソフトテニスが最強。欧米に尻尾を振るな」という主張が強く、彼は慶応大学単独で硬式テニスを始めます。
テニスの備品は外国の見様見真似で、練習相手は「趣味でテニスをしている外国人」ばかりだったので、なかなか本気の試合ができませんでした。
しかしテニス部のキャプテンとしてメンバーを引っ張り、フィリピンの国際試合に出て結果を出します。
就職した後も各地の国際試合に出ます。日本庭球協会にメンバーに名をつらね、そして鎌倉でテニスクラブを経営するのですが、愛妻が死亡してしまいました。
野村は「テニスばっかりしていたせいだ」と悔やみ、テニスから綺麗サッパリ離れます。慶応時代の同窓とも連絡を絶ちます。
その後再婚し、北海道で事業をします。重役だったのですが末端の社員と同じ釜の飯を食い、雑魚寝しながら過ごしていたそうです。
そして第二次世界大戦になると、多くの財産を日本政府に渡します。敗戦を迎えると日本人の価値観や道徳がガラリと変わり、彼はよく騙されました。武士根性が抜けない人物だったので「闇」で買うことを拒否した人物です。
やがて大病を患い、生活苦で妻は慶応OBに助けの手紙を送ります。慶応OBの多くは「死んでいたと思っていた」と驚きながらも、野村の武士根性に惚れていたので多くの募金が集まります。その一人に、文藝春秋の社長で作家の佐々木茂索もいました。
熊谷一弥は野村の見舞いによく来ていて、国際試合の話をよくしていたそうです。
そして野村がお亡くなりになると、弔事で「野村さんがいなければ今の僕はいませんでした」と述べるほどでした。しかし野村は売名嫌いだったので、熊谷一弥は野村について少しだけしか話しませんでした。
彼に逸話にこんなのがあります。
大学のテスト対策を全くしていなかったので、友人からカンニングペーパーを渡されます。しかし、「やっぱり良くないな」ということで、カンニングペーパーを見ませんでした。当然落ちて、留年しました。
友人は「馬鹿野郎!」といってぶん殴りましたが、彼の正直さに感心しました。
(他にも各種いろんな逸話があるのに、ウィキに載らない不思議な人物です)
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両名については空で説明ができ、既存の本に出てくる関係者の関係者(?)にも取材できたので、既存の本にはない雑学や逸話も知ることができました。もう少し頑張れば「六次の隔たり」で取材できるかもしれませんが、取材で知り合ったテニス関係者は薄っすらと「調べること」に否定的でした。
それらを調べたら「おそらくこれが原因かな?」を見つけましたし、「その説を否定する、根拠がしっかりしている論もあるのになー」と、今現在は「見」の状態です。
で、 硬式導入者の最大の功績者は、野村祐一という人物です。断言します。
ウィキの赤文字ですら載っていない人物です。同姓同名の人物がいますが、かなり面白い人物です。
熊谷一弥を調べた時に名前をちょいちょい見かけるのに、なぜか熊谷一弥は彼についての説明はスルーするという。
答えを先に言いますと、売名嫌いの性格だったので熊谷一弥は配慮したのでしょう。
野村祐一は士族の家柄で、後藤又兵衛と逸話がある家柄でした。
で、大正時代の子孫である野村祐一はOBからの熱い後押しで硬式導入の旗振り役をします。慶応大学や他の大学と調整したり、論客にも説明をしたのですが「日本で生まれたソフトテニスが最強。欧米に尻尾を振るな」という主張が強く、彼は慶応大学単独で硬式テニスを始めます。
テニスの備品は外国の見様見真似で、練習相手は「趣味でテニスをしている外国人」ばかりだったので、なかなか本気の試合ができませんでした。
しかしテニス部のキャプテンとしてメンバーを引っ張り、フィリピンの国際試合に出て結果を出します。
就職した後も各地の国際試合に出ます。日本庭球協会にメンバーに名をつらね、そして鎌倉でテニスクラブを経営するのですが、愛妻が死亡してしまいました。
野村は「テニスばっかりしていたせいだ」と悔やみ、テニスから綺麗サッパリ離れます。慶応時代の同窓とも連絡を絶ちます。
その後再婚し、北海道で事業をします。重役だったのですが末端の社員と同じ釜の飯を食い、雑魚寝しながら過ごしていたそうです。
そして第二次世界大戦になると、多くの財産を日本政府に渡します。敗戦を迎えると日本人の価値観や道徳がガラリと変わり、彼はよく騙されました。武士根性が抜けない人物だったので「闇」で買うことを拒否した人物です。
やがて大病を患い、生活苦で妻は慶応OBに助けの手紙を送ります。慶応OBの多くは「死んでいたと思っていた」と驚きながらも、野村の武士根性に惚れていたので多くの募金が集まります。その一人に、文藝春秋の社長で作家の佐々木茂索もいました。
熊谷一弥は野村の見舞いによく来ていて、国際試合の話をよくしていたそうです。
そして野村がお亡くなりになると、弔事で「野村さんがいなければ今の僕はいませんでした」と述べるほどでした。しかし野村は売名嫌いだったので、熊谷一弥は野村について少しだけしか話しませんでした。
彼に逸話にこんなのがあります。
大学のテスト対策を全くしていなかったので、友人からカンニングペーパーを渡されます。しかし、「やっぱり良くないな」ということで、カンニングペーパーを見ませんでした。当然落ちて、留年しました。
友人は「馬鹿野郎!」といってぶん殴りましたが、彼の正直さに感心しました。
(他にも各種いろんな逸話があるのに、ウィキに載らない不思議な人物です)
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2023年08月21日
硬球導入が遅れたら、「テニスコートの出会い」は起きなかったかもしれない
今、私は大正時代に世界を席巻した清水善造と熊谷一弥を中心に調べています。最初は世界三位まで上がった佐藤次郎を調べていたのですが、資料が少ないので演出に奇をてらったら、逆に読みにくくなって今に至ります。
まあ、要は色気づいてしまったせいです。佐藤次郎の話は「昭和庭球物語」という形で発表できればいいかと思います。
福田雅之助や佐藤俵太郎、原田武一、etc.を中心に描ききってやろうかと思います。そこに佐藤次郎、布井良助、三木龍吉を放り込んでやろうと思っています。
で、本題です。熊谷一弥が慶応大学に在籍していた時、本場のレギュレーションボールを採用するか 、大いに揉めました。反対は主に口先ばっかりで何もしない論客だしたが、硬式導入を後押ししたのが小泉信三という人物です。
他にも庭球導入論者が多くいたのですが、小泉信三は宮内庁に使えて宮仕えをするようになります。
おそらく、現在の上皇にテニスを教えたのは彼かもしれません。他、有名無名な人がレギュレーションボールができるコートを皇居に建設することを進言していました。その宮内省関係者に硬式テニスを教えていたのが、大学生の熊谷一弥でした。
デビスカップに出るために泥縄式に作られた日本テニス協会でしたが、清水と熊谷の活躍でテニスブー厶が置きます。
もしも二人の活躍がなかったら、「テニスコートの出会い」は無かったと思います。小泉信三は図らずとも結果として二人の出会いを仲人をしてしまったので。
「人に歴史あり」
私の好きな言葉です。
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2023年06月20日
資料を読まずに書いてみよう。テニス界の英雄、ビル・チルデン編
各スポーツ界には、神様のように崇められている選手がいます。野球には「ベーブ・ルース」。サッカーは「ペレ」。ボクシングは「ジャック・デンプシー」ゴルフは「ボビー・ジョーンズ」のように、競技のルールを知らなくても人物名を知っているスーパースター選手はその世界の牽引役です。
今、日本では「大谷翔平選手」がそんな存在な気がします。
で、大正時代のテニス、100年前の日本人テニス選手を調べて完成させた長島くんですが、その当時のテニスのスーパースターはビル・チルデンという選手でした。
アメリカ人選手で、ウィンブルドンの王者にもなった人物です。
彼は裕福な家に生まれ、両親を早く亡くしたので莫大な遺産相続をしました。そしてテニス三昧の生活を送ってました。しかし実力はいまいちでした。
遅咲きの選手で、26歳ぐらいでようやく中規模な大会で優勝する程度した。その次の大きな大会で熊谷一弥と決勝を争い、熊谷に僅差で負けます。
次の全米オープンでは熊谷をコテンパに倒し、英国では清水善造と二度戦い、二度勝利します。そしてオリンピックよりもデビスカップを優先させ、デビスカップで優勝します。
それ以降は、アメリカ中の大会に優勝しまくり、「世界ランキング一位」になるほどでした。
そして彼はプロ転向をします。当時、テニスのプロは「賞金稼ぎ」というイメージが強く、やや下に見られていました。八百長や興行主の裏にマフィアの影かちらついていました。そうです。賭けの対象にされていました。
チルデンはそれを改革するため、「チルデンツアー」を開催して、世界中のテニスの健全化を図りました。「テニス界のナポレオン」と呼ばれ、日本にも来日してプロ興行をして大成功をします。
そして「プロテニス」のイメージが良くなるとチルデンツアーを解散して、一介のプロ選手として試合に出ます。もう、その頃は壮年でしたがそれでも優勝していました。対戦相手は持久戦をしてなんとかチルデンに勝っていました。
しかし彼には秘密がありました。同性愛者だったのです。当時は病気扱いされていました。さらにチルデンは15才前後の美少年を好む傾向が強く、未成年者淫行で逮捕されます。
逮捕で名声は地に落ち、彼はまた未成年者淫行で逮捕されます。二度の服役で彼は孤立し、小さなテニス大会しか出れないほどでした。
生活費は今までにゲットしたトロフィーを質に出して細々と暮らし、60歳ぐらいで孤独死をしました。孤独死した部屋にはまだまだ山のようにトロフィーがあったそうです。
清水と熊谷と名勝負を繰り広げたテニス界の英雄はそんな最後でした。
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今、日本では「大谷翔平選手」がそんな存在な気がします。
で、大正時代のテニス、100年前の日本人テニス選手を調べて完成させた長島くんですが、その当時のテニスのスーパースターはビル・チルデンという選手でした。
アメリカ人選手で、ウィンブルドンの王者にもなった人物です。
彼は裕福な家に生まれ、両親を早く亡くしたので莫大な遺産相続をしました。そしてテニス三昧の生活を送ってました。しかし実力はいまいちでした。
遅咲きの選手で、26歳ぐらいでようやく中規模な大会で優勝する程度した。その次の大きな大会で熊谷一弥と決勝を争い、熊谷に僅差で負けます。
次の全米オープンでは熊谷をコテンパに倒し、英国では清水善造と二度戦い、二度勝利します。そしてオリンピックよりもデビスカップを優先させ、デビスカップで優勝します。
それ以降は、アメリカ中の大会に優勝しまくり、「世界ランキング一位」になるほどでした。
そして彼はプロ転向をします。当時、テニスのプロは「賞金稼ぎ」というイメージが強く、やや下に見られていました。八百長や興行主の裏にマフィアの影かちらついていました。そうです。賭けの対象にされていました。
チルデンはそれを改革するため、「チルデンツアー」を開催して、世界中のテニスの健全化を図りました。「テニス界のナポレオン」と呼ばれ、日本にも来日してプロ興行をして大成功をします。
そして「プロテニス」のイメージが良くなるとチルデンツアーを解散して、一介のプロ選手として試合に出ます。もう、その頃は壮年でしたがそれでも優勝していました。対戦相手は持久戦をしてなんとかチルデンに勝っていました。
しかし彼には秘密がありました。同性愛者だったのです。当時は病気扱いされていました。さらにチルデンは15才前後の美少年を好む傾向が強く、未成年者淫行で逮捕されます。
逮捕で名声は地に落ち、彼はまた未成年者淫行で逮捕されます。二度の服役で彼は孤立し、小さなテニス大会しか出れないほどでした。
生活費は今までにゲットしたトロフィーを質に出して細々と暮らし、60歳ぐらいで孤独死をしました。孤独死した部屋にはまだまだ山のようにトロフィーがあったそうです。
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